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明治 大正 昭和 著作権切れ小説の公開 

魔風恋風 エンゲーヂ 悪魔の家 君よ知るや南の国 チビ君物語 河底の宝玉 紫苑の園 など

チビ君物語 3

2011年10月01日 | 著作権切れ昭和小説
 紅白の草履



  1

 オヤ―?
 修三さまは首をのばした。一ツ向方(むこう)の入り口から乗ったのはたしかにチビくん。やっぱり同じ様に小っちゃな子と二人連れで、丁度学校の退け時で、どっちを向いてもギュウギュウ詰めの省線の中、乗ったかと思ったら次の瞬間、人混みの中にもぐって見えなくなって了った。
「ごめんなさい」修三さまは人混みをわけてそっちの方へ突進して行った。
「ア」
 やっぱりチビくんだった。目の前にヒュッと現れた修三さまの顔を、ビックリしたみたいに見て、あわててピョコンと頭を下げた。
「やっぱりチビくんだったんだナ。僕向方の入口から乗ったんだけど、たしかそうだと思って突進して来たんだヨ―すっかり立派な女学生になったね」
 修三さまが感心した様に云うと、チビくんは恥しそうに目をほそくして首をまげた。
 チビくんは女学生である。紺色のフェルトの帽子をかぶって、白いブラウスに紺じょジャンパー、人混みにおされて落しては大変と、シッカり小脇にかかえているのは真赤なビロウドの手提カバン。修三さまはチビくんを連れて女学校へ試験を受けに行った三月の時を思い出した。どこでもいいから女学校に入れてやりたいんですけれど―とチビくんのお母さんが相談しに来た時は、三月ももう半ばすぎで大ていの女学校は試験がすぎて了った後だった。それにチビくんは小学校を出てから一年遊んでいるので―。
「パパ、あすこどうです?あすこなら外の女学校みたいにうるさくなくて、それでいて中々いい学校だと思うけどなア―」修三さまがパパさまに声をかけた。
「ああ、小野さんのとこか、そうだねエ」
 いいところに気がついた、と云わんばかりにパパさまはおうなずきになった。
 小野さんとこと云うのは、パパさまの親友のやっている女学園であった。人数は少いけれど、生徒一人一人について、親切にゆきとどいた教育をしてくれると云うので有名な女学校だった。
 修三さまはチビくんを連れて早速その小野女学園に行った。ここでは大勢集めて入学試験をするのではなくて、一人一人園長の小野先生と向いあって交差を受けるのだった。新しいメリンスの着物を着て、チョコンと小野先生の前に腰かけて、目を真円(まんまる)くしていたその時のチビくんの姿を考えると、修三さまはなんだかズッと遠い昔の事でも思い出す様なほほえましさを感じた―
「毎日楽しいかい、女学校生活は…?」
 チビくんはコックリした。
「お母さん、元気かい?此の頃一寸も家へ遊びに来ないねエ。遊びにおいでよね、とても利恵子が淋しがってるよ。居たときはいじわるばっかりしてたくせにね…」
 電車が駅へとまって一しきりドヤドヤと人が出たり入ったりした。そして又走り出した。
「どこへ行くの?」
「あのね、あの、神田へ買物に…」
「ヘエ。生(なま)ちゃんだナ、もう神田へ行くこと覚えたのかい?」
「これ、買いに行くんです」
 チビくんは真赤になって何やらカバンの中からひっぱり出した。
 紅と白の小さい草履だった。
「何だい、それ?」
「手芸でこさえるのよ」
 チビくんのお隣に居たチビくんよりもっと小さいお友達が口を出した。
「お机の上のかざりにもなるし、そいからペン先ふきにも吸い取紙にもなるのよ、ホラ、ね、ここんとこがプカプカになってるでしョ、ここんとこへ吸い取紙をはっとくの」
 そのお友達は紅白の草履の裏をひっくりかえして、紅と白をたたんだ所をプカプカさせて説明した。
「これの材料、神田でなきゃ売ってないんですって、ですから今日高木さんと買いに行くとこなんです」
 一寸でもよごしては一大事と云う様に、チビくんは草履を又元の通りカバンにしまい込んだ。
「一つ出来てるじゃないか」
「もう一足こさえるんですって、そしてある人におくりものにするんですって」
 高木さんが又側から知ったかぶりで説明した。
「ホオ、ある人に、おくりものにすんの、ウワー、凄え事云ってるなア」
 修三さまは高木さんの云い方があんまりおませなので、おかしくなって思わず笑って了った。チビくんはだまって笑っていた。
「じゃ、失敬。本当に遊びに来たまえ、ね、待ってるからね」
 電車は、修三さまの愉快な笑い顔を残して走り出した。

  2

 修三さまがお家の玄関に入って編上靴のヒモを解いていると、奥の方からお母さんの声がきこえた。
(アレ、お母さん、怒っているのかナ?)
 大いそぎで靴をぬぐとお茶の間へ入って行った。しかしお茶の間には誰も居ない。
「そんなこと云ったって、仕様がないじゃありませんか?」
 勉強部屋から又一きわ高いお母さんの声がきこえて来た。
(利イ坊め、又何か我まま云って怒られてるんだナ)
 修三さまは悠然と勉強部屋へ入って行った。
 「ウワー、何だい、こりゃア?」
 お部屋の中は大さわぎである。本棚から雑誌と云わず本と云わず全部ぬき出して、そこいら中に放り出されている。本箱のガラス戸はあけっ放しで、絵草子箱も神人形のタトウもゴッチャになっている。ランドセルの上に紙につつんだビスケットが投げ出されている、その中で利イ坊さまはくの字形に坐って、お顔に八の字形に両手をあてて泣いている。お母さんは、と見ると衣桁(いこう)によりかかる様にして、怒った様な顔で立っていらっしゃる―
「どうしたんです、ええ、お母さん?」
「いいえ、又いつもの我ままなんですよ、―本当に此の人にも困っちまう。どうしてこうなんでしょうね。お母さん、もう情けなくなっちゃうわ―」
 もうサジを投げた、と云う様子でお母さんは眉をくもらせて、ホーッと吐息。
「それにしても、このさわぎは一体全体何事じゃ、ウン、利恵子?ヒスか、あんまりヒステリイ起すんじゃないよ、子供のくせに」
 面白可笑しい調子で修三さまは此の場の空気を中和しようと、利イ坊さまの泣きじゃくっている肩に手をかけた。
「いやんッ!」
 利イ坊さまはじゃけんにふりはなした。
「修三、ほっておきなさい。いいえ、もう今度と云う今度は容赦しません。パパが帰っていらしたらよく御相談して、小岩の叔父様のとこへ預けますからね」
「ヤーン」一しきり利イ坊さまは声をはり上げた。小岩の叔父様と云うのは利イ坊さまの大の苦手である。御家は淋しい林の外れにポツンと建っていて、夜になるとフクロが啼くし、電車の駅まで行くには十五六町もある。それに叔父さまの恐いことったら、利イ坊さまなんかがお鼻をならしたってビクともするものではない。一昨年の夏、一週間程お泊りに行って居る中、二度も暗いお倉の中に放りこまれた恐しい経験があるのである。だから小岩の叔父さまときくと、利イ坊さまはブルブルッとふるえた。
「一体どうしたんですヨ、お母さんも利恵子も怒ったり泣いたりばかしして居ちゃ、僕たるもの仲裁が出来んじゃないですか…」
 それでもお母さんは何にも云わず怒った顔で利イ坊さまをにらんでいらっしゃる―
「オヤ、いつの間にお帰りになりまして。どうか、何とかおっしゃってあげて下さいましよ、ね」
 みねやが顔を出して、修三さまの顔を見ると助けの神よ、とばかりにすがりつく様に云った。
「だからさ、一体全体どしたんだ、ってきいてるんだけど、敵も味方もコーフンしきっていて駄目なんだよ」
「いえね、お嬢さんがね、又例の通りなんですけど…はじめね、学校から松平さんと帰ってらっしゃってね、ガラス紙だか何か差しあげるお約束だったらしいんですね、そしたらどこを探してもないんでございますって。みねやもご一緒になって探して差しあげればよかったんですけど、つい、お洗濯しかけだったもんですから―」一寸みねやはベンカイした。
「そいで…?」修三さまはせかした。
「その中に松平さんはお帰りになって了ったんですよ。その時『ウソつきね。ガラス紙三十枚も持ってらっしゃるなんて。あたくし、はじめっからウソだと思ったわ』っておっしゃったんですの。だもんですから余計やっきになって、これこの通りどこもかしこもひっかきまわして探してごらんになったらしいんですけど、どうしてもないんでございますって…。そこへ奥さまが御買物から帰ってらして、お八ツを紙につつんでもって入ってらしたら、この大さわぎなもんで、お怒りになったんですの、そしたら…」
「初子を呼んで来てくれ、と云うんですヨ。どうせどこかにあるんだからもっと気をおちつけてよーく探してごらんなさい、と云うんだけど、どうしても初子を呼んで来て探さしてくれなきゃいやだ、とこうなのよ。ねエ、兄さん、そんな我ままッてないでしょう」
 お母さんはヤヤ興奮のしずまったらしい顔で、訴える様に修三さまの顔を見た。修三さまはフと、チビくんがいつも利イ坊さまのちらかした後をだまって、きれいに片づけていた頃の事を思い出した。
「チビくんが帰ってからもう一カ月以上もたってるじゃないか、その間にもう二度も三度も君出して見たんだろう?だから君がどこかへしまい忘れてるんだよ。今更チビくんを呼んで来たって仕様がないじゃないか―今迄自分で後片づけしなかったから、チビくんが居なくなったらその通りだ、バチがあたったんだよ」
 お母さんは、足許に散らばっている本をまとめ出したが、フト気がついた様に、
「利恵子、これ、みんなお片づけなさい。自分が散らかしたものは自分で整とんする癖をつけなきゃ駄目です。いいですか、キチンと片づけるんですよ。もし云う事をきかないと、それこそ本当に小岩の叔父さんを呼びますからね―」
「さ、利イ坊さま、みねやが手伝ってあげますから、片づけましょう―」
 みねやはさすが気の毒と思って、まわりの物を片づけ出した。
「みねや、放っておきなさい、よござんすったらッ―」
 みねやは奥さまのきつい声に渋々手をやめて了った。
「もう五時ですヨ、御台所はいいんですか」
 お母さんの後からみねやもつづいてお部屋を出て行って了った。―
「利イ坊、君、チビくんに逢いたいんだろオ?君のヒスのわけ、ちゃんとわかってるんだ。わかるともさア。こんなカンタンな精神分析が出来んようではあかんわ。ワシャ将来イ社になるんじゃから喃(のう)」キエンをあげ乍ら修三さまは、静かになった利イ坊さまの背中を軽く叩いた。
「今日、省線の中で逢ったよ、チビくんに。とても可愛い学生さんになっていたよ」
「アラ」と云う様な顔で、利イ坊さまは顔をあげた。眼が真赤、ついでに小っちゃいお鼻まで桜ん坊みたいに赤くなっている。
「ヤア、御機嫌が直って来たナ―あんまりすねるんじゃないヨ、いいかい?チビくんに逢いたければ、そうハッキリ云えばいいじゃないか。君は何でもすねるから物事がコンガラかっていかんよ。小っちゃいくせに君は非常にフクザツなる感情性格の持主じゃね。そう云うのはフロイドの精神分析法から診察すると、エエと―」
 修三さまは或医科大学の予科に入ったので、此の頃は何でもこの調子で片づけようとする。
「チビくん、あそびに来る、って云ってた?」利イ坊さまは、雑誌の折れたのをソッと直しながら小さな声できいた。
「ああ、そ云っといた、是非是非近い中に来い、って。何だったら至急ハガキ出してあげようか、利恵子のガラス紙が行方不明につき至急御捜索をたのむ、って―」
「ハガキ、ある?」利イ坊さまは本気である。
「買って来なきゃないよ、生憎と」
 上着のボタンを外しながら、修三さまは(そんなにチビくんに逢いたいかナ、あんなにイジワルばっかししてたくせに)と一寸その子供心がいじらしくなった。
「お母さまにお金いただいて、あたし買ってくるわ―」
 利イ坊さまは、バタバタと廊下へとび出して行った。
「―なくて人の恋しかりける、か。昔の人は矢張り上手い事を云ったなア―」上着を衣桁(いこう)にかけると修三さまは、ヨイショとしゃがんで散らかった本や雑誌を片づけはじめた。

 利恵子が、ガラス紙が行方不明になったので、探してもらいたいと云っています。是非家へ来て下さい。先(まず)は至急右御願いまで。
          修三拝
  追伸 
 ア、ガラス紙は机の抽斗しから出て来た相です。でもガラス紙はあっても是非来て下さい。お友達がなくて毎日毎日淋しがっています。たのむタノム。


  3

 修三さまからのハガキを枕の下へ敷いてから、もう一週間以上も経って了った。
 早く行きたい、お土産の草履は出来たし、一体どうしたのかしら?と修三さまは不思議に思っていらっしゃるんだろうし…チビくんは床の中で、中々治らない風邪を焦れったく思っていた。風邪をひいてからもう十日位になる。風邪をひいたのは利イ坊さまにプレゼントする紅白の草履をこしらえるために夜更かしをしたからだった。手芸の時間、先生が白いネルのキレと真赤な絹の布(きれ)をノリで張り合わせ乍らおっしゃった。
「私はね、小さい時叔母さんの家に居たの。とても意地悪のいとこが居てね、私も強情っぱり、いとこも強情っぱりだったので毎日喧嘩ばかりしていたのよ。ところが十八のそのいとこはお嫁さんに行く事になったの。お嫁に行く前の晩、いとこが私のところへ来てそ云ったの、『長い間意地悪してごめんなさい。私もう行くわ』ッて。そしたら普段とても憎らしいと思っていたいとこが急になつかしくなって、私涙がこぼれて来たの。二人はしばらく手をとりあって泣いてたのよ。そしたらね、いとこがね小さな草履を出して記念にくれたの。今でもその草履もっているわ、そして見るたんびに小さかった時の事やいとこの事を想い出しているの。いいものね、一寸した贈り物でもいつまでもその人の事を記念する様になるんですもの。貴方たちもせいぜいキレイにこしらえて仲のいい方に贈るといいわ―」
 その御話をきいた時、チビくんはすぐ利イ坊さまを思い出した。先生の御話に出て来る従妹と先生の様に、利イ坊さまと自分はよく喧嘩した事を思い出した。自分は喧嘩しているつもりではなかったけれど、もしも遠慮なく色んな事が云えるんだったらきっと自分も負けずに片意地や我ままをしたろう―しかし今となってはそれも考えるだけでもなつかしい思い出になっていた。仲のいい時は一緒に御床の中で御本を読んだ事もある。大好きなカステラを半分利イ坊さまがわけてくれた事もある―(そうだわ、利イ坊さまに小さいお草履をこさえて贈ろう。いつまでも一緒にいた時の事を記念するために!)チビくんはフイッとそう決心したのだった。一ツには大好きな手芸の先生の御話とソックリの事が出来るのが、たまらなくその決心をそそりたてたのでもあった。
 早速神田へ材料を買いに行った。そして大いそぎで作りあげて利イ坊さまのところへ遊びに行くつもりだった。ところがあんまり無理をしてこんをつめたので咽喉をはらして了ったのだった―枕元の手芸箱をあけると、出来上がっている一足の小さな草履がチャンと並んでパラピン紙の中に包まれている。ネルと絹で三枚だたみになっている紅白の草履!鼻緒はこれも絹の紅糸で丹念に編んだものだった。
「ねエ、お母さん、もう明日位起きたっていいんじゃないの?私もうあきちゃった」
「駄目よ、そんなこと云って。又云う事をきかないとひどくなるよ」
「だってさ、早くこのお草履をあげたいんだもの…」
「お草履は何も逃げて行きはしないわよ」
 お母さんは、思いつめたら矢もたてもたまらない子供心を微笑ましく思いながら、次の間から笑い声をたてた。
 だって―何だか早くこのお草履を贈らないと、先生の御話をうかがった時の感激がうすれ相なので―。すぐにも利イ坊さまのところへあげなければ気のすまない様な、子供心に有り勝ちな一途な気持に追われて、チビくんはお床の中でドタドタと足を蹴ちらしたい様な、イライラした感じになった。
「おばさまア、初子さアーんー」
 お庭の木戸があいてとび込んで来たのは高木さんだった。毎日学校のかえりに御見舞による事にしているので、その頃になるとチビくんは迚(とて)も楽しみに待っているのだった。
 今日はその高木さんだけではなかった。後から元気のいい赭(あか)い顔と小さなおカッパ頭、修三さまと利イ坊さまだった。
「チビくん、病気だったんだってねえ、どうりでいつまで経っても家へ来ないと思ったア。ハガキついたろ?」
 入って来るなり修三さまは快活な調子で話しかけた。
「マアマア、よく御出で下さいましたねエ、利イ坊さまも。ええええ、おハガキいただきましたヨ、丁度あの時風邪で熱が高い最中でね―もう大体いいんですけど。毎日毎日御宅へ伺わなくっちゃならないッてそればっかし云って私を責めるんですよ」
「駄目じゃないか、無理云っちゃア。よかったね、僕達の方から来て。だってね、利恵子の奴が毎日の様にチビくんに逢いたいあいたいってせくんだよ。居る時は勝手ばかり云ってたくせにねエ。やっぱり喧嘩友達ってものは馴染が深いんだろう、かえって。そしたら今朝このお友達に逢ったんだよ、電車の中で。きいたらズッと病気だってんだろう、早速御見舞がてら利イ坊を連れて来たのさ」
「これ、御土産よ」
 利イ坊さまはソオッと西洋菓子の箱を出した。
「どうして風邪なんかひいちゃったの。あたし隋ぶん待ったのよオ」少し恨めし相な声である。
「あのね―」チビくんは起き上がって枕元の箱から草履を出した。
「これね、上げようと思ってね、一時迄夜更かししちゃって、クシャミがつづけ様に七ツも出たの、そして遂々(とうとう)寝ちゃったんです」
「あら、何、きれいね?マア、可愛いお草履!」



 利イ坊さまは珍し相に小さな掌の上に草履をのせて眺めた。
「それを贈るとね、その人達はいつまでも仲よく永久に忘れないんですって、ねエ、手芸の先生の御話、ね」
 高木さんが側から口を入れた。
「そうオ。ありがと。そんなら風邪ひいても許してあげるわ。―ごめんなさいね、風邪ひかしちゃって―」
 利イ坊さまは嬉し相に頬ペタをみがいた林檎の様に真赤にかがやかして、掌の紅白の草履をソッと撫でている。その顔を見てチビくんは、ホッとした様に満足の息を吐いた。これで二人はいつまでもいつまでも忘れないで、仲よくして行けるんだわ―
「へエ、きいた。何あんだ、ある人に贈り物にする、なんて凄い事云ってたの、ある人って利イ坊か!なあんだ、一寸も物凄くなかったなアー」
 修三さまは、省線の中で云った自分の言葉を思い出して頭をかきながら、高木さんと顔を見合して笑った。


チビ君物語 2

2011年09月30日 | 著作権切れ昭和小説
 おいしい玉子焼



  1

「じゃ、行って来ます」
 肺嚢を背負って脚には新しい茶色のゲートルを巻きつけ、手には昨夜一晩中かかってピカピカにみがきをかけた銃をシッカと握った修三さまが、お玄関で勇ましくアイサツをした。
「気をつけて下さいヨ。又先達(せんだって)の時の様に川におちたりしないでネ、まだ寒いんですからね」
 奥さまが幾分か心懸りの調子で注意をなすった。
「大丈夫。なアに、あの時は狂犬さえ出て来なきゃ川へなどワザワザツイラクしに行くんじゃなかったんです」
「ですからさ、狂犬になんか、からかわないで下さいよ」
「かしこまりました。オイ、利恵子、土産は羊カンだナ」
 帽子をかぶり直しながら、奥さまの横に立って見送っている利イ坊さまに声をかけた。
「あんな事ばっかし云って。お兄さんのお土産は出かける時だけよ、いつも本当に買って来て下さったタメシがないじゃないのオ」
「そうハッキリ云うなよ。今度こそはたしかさ、帰りに日光の方へ廻るからね、羊カンでも絵ハガキでも、木彫のお盆でも、何でも御望み次第だ」
「お羊カンがいいわ、わたし」
「初子は?」
「……」チビくんはドギマギした。
「矢張(やっぱ)し羊カンか。女の子は甘いもんがいいな。そだナ、ヨシ、引受けた」
 ヨイショと銃を持ち直して挙手の姿勢。
「では、イヨイヨ今度こそ行くでありますウ、オワリッ!」
 勢いよく玄関の格子をあけて、修三さまは威ばって出て行く、丸でもうガイセンでもする時の様な得意さである。
 中学最後の軍事教練で、修三さまは今朝から茄子の方へ出かけたのである。去年の春富士山麓の方へ行った時、修三さまは斥候兵(せっこうへい)をつとめて天晴(あっぱれ)功績をあげたが、最後に狂犬に追っかけられてアワを食って川へとび込んで、見事に敵の発見するところとなり、五年A班長悲しや捕虜となって、後々までもの語り草のタネを作って了った。あの時は暖かかったからまだよかったが、今度はまだ時々雪が降る二月の末である。又川へでもおちて風邪でも引いては大変と、奥さまが心配なさるのも無理はない。
「サアサ、利恵子、早くなさい、もう学校へ行かないと遅れますよ。お兄さまのさわぎでスッカリ皆仕事の番が狂っちゃったわね」
 奥さまのうながす声に、利イ坊さまもあわててお茶の間の時計とニラメッコで御飯をたべはじめた。チビくんも毎朝のお仕事の一ツ、お庭を掃きにかかった。
 ―お羊カンを買って来て下さる―
 修三さまの元気な顔、親切な言葉がマザマザと頭に浮かんで来た。どんな場合にもチビくんの事を忘れないで居て下さるやさしい修三さまの心づかいが、わけもなくチビくんにはうれしかった。
 ―明日、明後日、あさっての夜御帰りになる―
 たとえ一日でも二日でも修三さまの御留守は淋しい様な気がしたけれど、お土産をもって帰ってらっしゃる時の事を思うと、とても楽しみだった。
「初子、感心だネ、冷いだろ、早くすませて御飯をお上り!」
 何時の間にか起きていらした利イ坊さまのパパさまが、手水鉢(ちょうずばち)の所でドテラ姿でニコニコと笑っていらっしゃる―。
 パパさまは一週間程前、外国の旅からお帰りになった許りである。修三さまとソックリの御顔、ちがう所はお頭(つむり)の毛が少しばかり薄いのと、お鼻の下にチョビッとヒゲがある位なものである。元気のいい声ややさしくて思いやりがある所等は、修三さまはきっとこのパパから受けついだのであろう。
「ハイ」と首をコックリさせて、チビくんは箒をもつ手に更に力を入れて、サッサッとお庭を掃きはじめた。御掃除を終えて、台所で手を洗って、お茶の間へ行くと、パパさまと奥さまが火鉢を前にして話をしていらした。傍でランドセルを背負いかけ乍ら、利イ坊さまが何やらお鼻を鳴らしている。
「そんな事を云うもんじゃありませんよ、もう十一じゃありませんか、いつまでも赤ちゃんみたいに甘ったれてばかり居て駄目よ」
「パパが旅行をしている間に、利恵子はさかさに年をとったんだナ」
 パパさまがアハハとお笑いになると、利イ坊さまは余計身体をゆすって甘ったれた。
「いやン。パパたち行っちゃったらあたしさびしいンですもの」
「みねやも居るし、初子も居るし、いいじゃありませんか」
「いやだワ、みねやや初子なんか。みねやときたらお料理は下手くそだし、初子なんか相手になんないんですもの―
 いいわヨ、もしあたしの学校へ行ってる間に行っちゃったら、ひどい目にあわせるから。パパもお母さまも折りたたんじゃうわヨ」
 修三さまのお仕込みで覚えた物凄い言葉を云いすてて、遅れ相なので急いで利イ坊さまは学校へ行った。
 その日の午後、パパさまと奥さまは一寸した手廻りの物を小さなスーツケースに入れ、パパさまは奥さまと一寸した手廻りの物を小さなスーツケースに入れ、パパさまが外国から買っていらしたお土産を下げた静岡へ出発なすった。静岡にはパパさまの御父さま母さまがいらっしゃるのである。外国から帰っていらしたご挨拶と久し振りの御機嫌伺いのために、パパさまはお出かけになったのである。
「もう少し経つと利恵子が帰って、定めしプンプン怒る事だろうな」
 汽車が横浜あたりへ差しかかった時、腕時計を見乍ら、パパさまはお笑いになった。
「丁度修三も居ないし、考えて見ると一寸可哀相ですけど。でもみねやも初子も居ますし、一日や二日大丈夫ですわ。たまに留守をさせるのもいいでしょう」
 奥さまは、玄関を入るなり「お母さまア、只今ア」と云ってお茶の間へかけ込んで来る利イ坊さまのいつもの姿を思い出しながら云った。
 やっぱり置いて行かれた、とわかった時、どんなに怒るだろう。きっと又初子に当るんじゃないかしら…?それを思うと、オドオドして利イ坊さまの我ままをもてあましているチビくんの姿が、つづいて思い浮んで来て、少しばかり罪な事をした様な後悔を感ぜられた。

 奥さまの想像は不幸にも適中した。気もそぞろに学校から帰って来た利イ坊さまは、茶の間にかけ込むや、ヒッソリとした気配はすぐピンと置いてけぼりを感じた。それでも思わず「みねやア、お母さまは?」とお手伝いさんの部屋へとびこまずには居られなかった。みねやは裏で洗濯をしていたので、お手伝いさんの部屋は空っぽだった。それが一層泣き出したくてたまらない利イ坊さまの神経を刺激した。
「みねエ、みねやア、アー」と半なきになって、廊下を降りて来たチビくんと衝突した。
「バカ、バカ!」
 つきとばされてチビくんが呆気にとられて立ちつくしている間に、利イ坊さまはドタドタと子供部屋へかけ込んで、ランドセルを部屋の隅ッこにドサリと投げ出すと、例の如くワーッと今にも死に相な悲しい声を出して泣きくずれたのであった。

  2

 みねやはソーッと子供部屋のドアをあけて声をかけた。さっきから三度もチビくんに声をかけさせたのだが、返事もしない相(そう)で、いつまで経っても利イ坊さまが茶の間へ来ないからだった。
「お嬢さまのお好きなチキンライスですよ。それにホラ、欲しい欲しいッて云ってらしたラッキョも買ってありますよ。ネ、小っちゃい花ラッキョ!こないだから、松平さんのお弁当を見て羨ましがってらしたでショ?」
 みねやは利イ坊さまの年に似合わぬ神経質なのをよく知っている。生れ落ちた時からネンネコでおんぶをして育てて来た利イ坊さまである。いくら利イ坊さまである。いくら利イ坊さまが我ままを云って気むずかしい難題をふっかけても平気である。自分の妹の様に思っている。
「さアさ、行くんですヨ、折角あったかくしてあるのにさめちゃいますったら!」
 利イ坊さまのセーターの両脇に手を入れて、ホラショと抱え立たせた。
「いやよ、一人で行くわったら!」
 それをふり放して利イ坊さまはドンドン歩いて行く。どう考えても、パパさまやお母さまが自分をおいてけぼりにして、静岡のお祖父さまの所へ行ってお了いになったのが、口惜しくて仕様がない。そしてみねやや初子と一緒クタにあたしを放って行くなんて!それがたまらなく悲しいのである。
 お茶の間のお膳の上には、ユラユラと湯気の立上っている温くておいし相なチキンライスが円くコンモリと洋食皿に盛られている。
 青磁色のフタ物に、円い小さな小坊主みたいなラッキョが、ツヤツヤと電灯の下で光っている。そして大好きな玉子のお汁(つゆ)。
 いつもだったら上々機嫌でお箸をとるのだったけれど、利イ坊さまはプンプンして暫く主のない火鉢前のお座布団をニラんでいた。いつもはお母さまが坐っていらっしゃる場所だ。
「召上れ、早く。いくらでもお代りがございますよ」
 チビくんと差向いの小さな別膳からみねやが声をかけた。
「いや!」
「アラ、御飯あがらないの?」みねやがビックリした様に目を見はった。
「みねやのお料理なんかイヤ。ヘタクソだから…。食べてやるもんですか!」
 さすがにみねやはムッとしたらしく、サッサと自分やチビくんのお皿に御飯を盛ると、
「さ、初子さん、いただきましょう。じゃ、お先へいただきます。みねやたちは色々御用がありますからね…」と、遠慮もなく食べはじめた。チビくんも利イ坊さまの方を見い見い、御腹が空いているので、一膳二膳と食べた。
 とうとう、利イ坊さまは御飯をたべなかった―何と云う我ままな子だろう?みねやは呆れて、だまって冷くなったチキンライスやお汁を片づけた。
 お腹が空くのに!チビくんは三膳もいただいてもまだもっと食べられ相な自分に比べてとうとう一膳も食べないで、早くから床の中にもぐり込んで了った利イ坊さまのお腹を心配しながら、自分も早く床に入った。
「御用のない時は早く寝ましょう。昨夜は修三坊ちゃまの銃器の手入れやお弁当のこしらえで二時だったでしょう。何だか風邪気で気持がわるくて仕様がないのよ、あたし」
 みねやは台所の棚の無精箱(ぶしょうばこ)の抽出(ひきだ)しからアスピリンを出して飲み乍ら、寝巻に着かえて一足お先へ床に入ったチビくんに云った。
「辛かったら明日の朝寝ていなさいよ、あたしがお台所やるわ」
 チビくんはいたわる様に云った。
「エエ、ありがと。大丈夫よ、今晩こうやッてお薬のんで一汗かけば治っちゃうわヨ」
 チビくんは三十分ばかり、お隣の部屋で寝ている利イ坊さまの事を考えて、眠れなかった。時々、ハーと云うかすかな溜息がもれて来た。利イ坊さまも眠れないのであろう。
 みねやも時々苦し相に寝返りをうっていた。パパさまも奥さまも、そして元気な修三さまも急に一度にいらっしゃらなくなった夜の眠が気にかかってかも知れなかった。

 翌朝、やっぱりみねやの風邪は本物になって了った。頭痛がひどく全身に悪寒を感じて意地にも起きられなかった。
「すまないわね、初ちゃん!」
 チビくんがいやな顔一つしないで甲斐甲斐(かいがい)しくお台所でガスに火をつけたり、お沢庵をきったりしているのを見ると、みねやは心からすまな相に云った。
 利イ坊さまは、いつまでも眠れないで困った挙句一寸ウトウトして、朝起きて来て見ると、みねやが寝込んで了っているので、わけもなく一層不機嫌になって了った。
 チビくんが沸かしたお茶で、チビくんがお膳立てしたテーブルで、チビくんにつけてもらった御飯で、朝飯を食べるのが又たまらなくいやだった。昨夜たべなかったので御腹がグーッと云う、けれどもとうとう意地っぱりの利イ坊さまはお茶漬を一杯たべた丈(だけ)で学校へ行って了った。
「お嬢さん、たくさんあがったでしょう?昨夜強情っぱりして食べなかったから…」
 チビくんが小さな体で御膳をヨイショと御台所へもって来ると、みねやが床の中から声をかけた。
「いいえ、一膳よ」
「マア!何て変な子だろう!」
 みねやはあとの言葉を布団のかげで呟いた。お昼頃になったら起きられるかも知れない、と云って居たみねやは、中々起きられなかった。
「お医者さまを呼んで来ましょうか?」心配相にチビくんは云った。
「いいのヨ。でも、私が寝込んじゃって、小さい人二人じゃ用心がわるいから、家政婦を頼んで頂戴な。奥さまの御留守に本当にすまないンだけど」
 番号をしらべてチビくんはミドリ家政婦会に電話をかけた。
「今とても忙しゅうございましてね。今晩九時頃ですと、今日で済んで帰って来る人が一人あるんですけど…」と云う返事だった。
「困るわね、お夕飯の支度をして貰いたいんだけど。仕様がないワ」チビくんに向い乍ら気の毒相に「あんたしてくれて御飯?」「エエ、あたし出来るわヨ」とチビくんが快よく引受けると「じゃその人帰ったらすぐ来る様に、ッて云って頂戴」みねやは床の中から大義相に云った。
 三時頃になると利イ坊さまが帰って来た。その気むずかしい顔を見ると、チビくんは夕飯の事を思ってドキンとした。みねやが作ったお料理さえ、ヘタクソだと云って食べなかったのである。自分のお料理じゃとても食べて下さる筈がない。それにチビくんの出来るお料理と来たら、おサツを甘く煮ることか、卵焼き位なものである。
「あの、利イ坊さま御ソバとりましょうか、それともホーライ寿司をとりましょうか?」
 恐る恐るチビくんは利イ坊さまにきいて見た。
「おソバなんか大嫌いだってことを知ってるじゃないの。ホーライ寿司なんてつべたいからいやよ」
 ニベもない利イ坊さまの言葉にチビくんは困って了った。
「どうせ又断食なさるんだろうから、何でも初ちゃんの出来るものをこしらえときなさいよ、天のジャクさんだから仕方がない」
 みねやもサジを投げた様に言った。
 仕方がないので、十八番の卵焼きをすることにきめた。玉子を買いに行って帰って来るとポストに二枚のハガキが入って居た。
 
 ―ハイケイ。今宿屋に着いたのであります。六畳の部屋に八人寝るであります。フトンが短くて自分は二寸位足が出るのでイササカ寒い様であります。明暁方より那須の原にて壮烈なる戦いが開かれるのであります。二度と再び川にはツイラクせんであります。日曜の朝日光へ廻って午(ひる)頃帰宅の予定であります。土産の羊カンは金(こん)りんざい忘れんツモリであります。利恵子、初子、タッシャでくらせよ。お兄様拝。

 元気さが目に見える様な修三さまからの絵ハガキである。
 もう一枚は奥さまからだった。

 ―何だか気がかりなので、一寸書きます。利恵子は又我ままをしていませんか?我ままをしてもチッとも徳はありませんよ。みねやや初子の云うことをよくきくのですヨ。パパは四五日御泊りになる相ですが、私は日曜日の朝帰ります。こちらにはとてもおいし相なイチゴが沢山あります。お土産を楽しみにして待っていらっしゃい。    母より。

 チビくんはその二枚をもって、お縁側でテリイをつまらな相になでている利イ坊さまのところへ行った。
「アラ、ラ…」利イ坊さまはとびつく様に絵ハガキを読んだ。見る見る顔色が明るくなって行くのを、傍からチビくんは嬉し相に見つめていた。
「ああ、うれしい。お母さまもお兄さんも明日御かえりになるんだわ」
「テリイ、おいでッ!かけっこしよう」
 お庭に下駄をひっかけると、利イ坊さまは生れ変った様に元気になって、裏庭の方へ走り出した。きっと昨日からのウラミも忘れて、帰っていらっしゃるお母さまや修三さまのお土産を心に描いて喜んで居るのであろう。
「テリイ、赤いイチゴだよ、好き?ウンと持っていらしたらテリイにもあげよオか?」
 キンキンとした声とテリイが吠える声とが、裏庭から次第に原ッぱへ通ずる木戸の方へ遠ざかって行く―
 それをきき乍らチビくんも何となく嬉しい様な気持で、エプロンをかけて甲斐甲斐しくお台所の流しに下りた。

  3

「キャベツきざめて?もし出来たらその開きの下のカゴん中にこないだのが半分残ってるからきざんでね、ザッとお塩でもんで頂戴な」みねやが床の中から一々指図をする。チビくんは大忙しである。
「アーラ、御飯がブウブウ云ってるわ」
「ア、いそいでチヂめて頂戴、あんまりひねりすぎると、パッと消えるから上手くね」
 お釜の下のガスをのぞいたり、キャベツを刻んだり、いつも見ている時は苦もなく出来ると思う事も、やって見るとチビくんには中々大変である。暮れ易い初春の日射しはいつの間にかトップリと暗くなり、外には夕靄が立ちこめて来た。
「アア、草臥(くたび)れたッ!」テリイと共に木戸からお庭へかけ込んで、そのままお茶の間へペタリと坐った利イ坊さまは、寒い夕風に冷くなった手をこすり乍ら大きな声で云った。
(アラ、帰ってらしたワ)チビくんはドキッとした。
「お腹が空いたッ。みねや、御飯まだ?」   
 台所に姿を現した利イ坊さまはエプロンの後姿が、いつも御夕飯の支度をするみねやでなくて、チビくんである事を見て一寸ハッとした。
「まだ?」一寸フクれて利イ坊さま(そうしないと何だか一寸いつもの様でなくバツが悪い様な気がしたのである)。
「エエ、すみません、もうすぐです」
(だって、まだ御飯もうつしかけだし、お茶の間にはお膳立ても出来ていないわ)利イ坊さまはチラとそれを見てとった。真赤になってもじもじして、不きっちょな手付きで御飯を御釜から御鉢にうつしているチビくん。気ばかりあせって御飯はポロポロみんな外へこぼれて居る。その御飯からホヤホヤと湯気が!
 利イ坊さまは黙ってお戸棚の脇にたてかけてある御膳をひっぱり出した。
「ア、いいんですヨ、今あたししますワ」
 益々あわてたチビくんが腰を浮かして泣き相な声を出した。
 きっと自分がノロいので利イ坊さまが又怒ったのだと思ったのだ。
「いいわヨ、あたしだってやれるわヨ―あたし、迚(とて)も御腹がペコペコなのヨ」あとの言葉を申しわけの様に云い乍ら、色々と並べ出した。
「すみません」
 お台所へ来るとチビくんが叮嚀に心から感謝した。
「その手の玉子どオすんの?」
「あの、玉子焼きするんですけど…」そんなものいやアヨ、と云われると思ってドキマギしている。
「あら、わたしに割らしてヨ、ね、あたし玉子割るのは大好き」
 これは本当の事だった。利イ坊さまは今迄にどれだけ玉子をポンと割ってお丼に落す、あの気持のよさそうな事をやりたかったかわからない。でもきっとお母さまが「だめだめ何があなたに出来るもんですか」とおっしゃって決して割らして下さらないのだった。
 今こそ、チビくんの手から玉子を並べてある平たい鑵(かん)を受けとると、オソルオソル利イ坊さまは一ツ、一ツ、玉子を割って見た。何と云う気持のいい作業だろう!バリと云う軽い音と共に殻が破れて、ギュッと指に力を入れてわけると、中から鮮やかな黄色い丸い黄身がすき通る様な白身と共に、スルリと瀬戸物のお丼に落ちる!
「ア、四ツでいいんです、ッテ―」
 尚も面白がってドンドン割ろうとするのを見て、チビくんはびっくりして止めた。
「アラそうオ。じゃ、これ、早く焼いてヨね、とっても御腹がペコペコンなっちゃったのヨ」
 チビくんがこの時とばかり顔を上気させて玉子焼きを拵えている間、利イ坊さまは眼ばたきもせず側(そば)でジッと見ていた。
「ホラ、そう云う時、お母さまやみねや、庖丁(ほうちょう)でやるじゃないの」とワザワザ庖丁をとって来てくれたりした。ひっくりかえしそこなって、折角太くフンワリと巻けた玉子焼きがクチャクチャになったトタン、二人とも「ワーッ」と悲鳴をあげて、顔を見合わせて笑って了った。
「仲よくやっていますね、どオ、上手く行きまして?」その二人の声をきき乍らみねやは、(ヤレヤレよかった!)と云う様な安心した調子で床の中から声をかけた。
「ステキよ!ツギだらけのが出来ちゃった、フフ…」利イ坊さまはヒョイと片眼をつぶってチビくんをつついて、きれいな歯を見せてさも嬉しそうに笑い声を立てた。
 ステキなツギだらけの、物凄い太く大きい玉子焼きが出来上がったのは、もう七時頃であった。二人はお膳に向い合って、フカフカした玉子で美味しそうに舌つづみを打った。
 利イ坊さまには、今迄のどの御馳走よりも数倍美味しい様に思われた。
「チビくん、迚もお料理上手いのね、おどろいちゃった。あたし、お母さまやみねやの作ったよりズッと美味しかったわヨ」翌朝、帰ってらしたお母さまが留守中の事をおききになって、前夜の玉子焼きの話になると利イ坊さまは、心からそう云った。チビくんは傍で真赤な顔をして、うれしそうだった。でも心の中で(だってそりゃその筈ですヨ、利イ坊さまったら前の日からロクに御飯をあがらなかったンですもの…)と、ひそかにケンソンしていた。
 お母さまはニコニコして、
「そりゃよかったわネ。利恵子もこれから時々そうやって御台所とお手伝いしてごらんなさい。何だってそりゃ美味しくいただけてよ」とさとす様におっしゃった。
「そオ?自分でやるとそんなに美味しいの?」
 利イ坊さまは、一大発見をした様にいつまでもそう云って眼を輝かして居た。


 お詫びの文鎮



  1

 オッチニ、オッチニ―
 勇ましいかけ声が裏庭からきこえて来る。修三さまがラジオ体操をしているのだ。今日は日曜日、いつもよりズッとお寝坊したので助手のチビくんはもうとっくにやって了い、修三さま一人である。シャツ一枚になって腕をのばしたりちぢめたり、ウンとゲンコをこしらえてみたり、何だか一人ではしゃいでいる。その足許でテリイが「何だか変テコリンだな!」と云う様な表情でボンヤリとその顔を見上げている。
「おいッ、テリイ、何だってそんな不景気な顔をしてるんだ。朝飯まだかァ?もう少しハリ切れよオ」
 腰にブラ下げてあったタオルをテリイの目の前で振る、と、本当にまだ朝の御飯をたべていないテリイは必死になってワンととびつこうとする。勢いあまって修三さまのズボンにかじりついて了った。
「ワッ、又だア。仕様がないなア、泥んこじゃないか。お前のおかげで又みねやにケンツクくわされるぞ」
 でも、いつもならゲンコでコツンと行くところを、今日はそのままズボンの泥をはらいながらユウユウと表庭の方へ。後見送ってテリイはチョコンと首をかしげている―
「ヤア、いらっしゃい。随分久し振りでしたね」
 修三さまがお縁側からお茶の間へ上って行くと、お火鉢の前にお母さんと向い合っているのはヨシ子叔母さんである。真赤なテガラをかけて大きなマルマゲとかに結っている。ついこの間御嫁に行ったばかり、お母さんの一番下の妹である。
「ウワー凄えナ。すげえものに結いましたね」一人だけの朝御飯の御前の前に坐ってフキンをとりながら、修三さまは感きわまったような声を出した。
「アラ凄くなんてないわヨ」
「凄いヨ。だけどよく似合いますヨ。矢張り日本人は日本人らしい髪がいいですね」
「アラそうオ」
「いつもの叔母さんの頭はよくないや、方々中ブツブツ剪(き)ってあって、コテだらけで、僕きらいさ。それにしてもあの毛でそんな頭よく結えましたね」
「三時間半かかったワ、それに油をひく時の辛さと来たら、本当に正直なところ涙がポロポロ出たわヨ」
「そりゃあどうも御苦労樣でした」
「いいえ、どういたしまして」
 修三さまはこのヨシコ叔母さまが一番好きである。中学校へ入る時、勉強を教えてくれたのは当時女学校の上級生だったこのヨシ子叔母さんである。とても話がよくわかって明朗で―それからもう一ツ、大事な事がある。ヨシ子叔母さんは大変気が大きい。遊びに来るたんびに素晴らしい御土産をもって来て下さるのである。
「叔母さん―」
「ハイ」
「今日、何しに来たか、あててみましょうか?」
「どうぞ…」
「おいわい、でしょう?」
「何の?」
「僕や利恵子の新学年のさ」
「それで…?」
「そのお祝いの品物を、一時も早く…と云うわけです」
「マア修三さんったら…」とお母さんが叔母さんと顔見合わせて笑った。
 修三さまは見事に上級学校の試験に合格した。明後日からいよいよその学校がはじまるのである。一人ではしゃいでいるのもテリイをコツンとやらなかったのも、それから叔母さんのマルマゲを上げたり下げたりして、おセジを云ってるのも、その為である。
「本当によかったわね。パスして」
「叔母さんがいらっしゃらなかったからダメかと思いましたけど…」
「マア口の上手い!中学へ入る時教えてあげたでショ、それがまだ残っていたのヨ」
「チェッ、ウッカリおセジ云うとこうだからなア…」
 叔母さんはニコニコしながらお部屋の隅においてあった紫錦紗(むらさききんしゃ)のお風呂敷を引きよせた。
「どオ、これ?こないだっからワシの時計はモウロクしたって云ってたでしょ?」
 素晴らしい長六角型の腕時計がビロウドのケースと共にお膳の上にのせられた。
「凄えぞオ!ア、バンドもついてらア!」
 御飯も何もそっちのけで、修三さまは新しい贈物を早速腕にまきつけて見た。
「まあ、いいの、こんなのもらって?」お母さまもビックリした様に叔母様を見た。
「こりゃ断然優秀だナア!ありがとう、だから僕ヨシコ叔母さんが一等好きさ」修三さまは大喜びである。(ヨオシ、こんな素晴らしい時計が出来たからには、あのテーブルの抽斗しにモウロクしてイネムリしているボロ時計なんかほっぽっちゃえ!)と決心した。
「これ、利イ坊へよ、どオ?」
 叔母さんはそう云って、一尺位の長さのボール箱からフランス人形をとり出した。
「矢張り優等だったんですってね、えらいわねエ」
「ええ、おかげ様で勉強の方はどうやらなんだけれど、どうも我ままで困るのヨ」
 その時、チビくんがヒョックリ入って来た。修三さまの食べ終わった御膳を下げにである。
「あら、あの子、まだ居るの?」
「ええ。でも近い中に帰ることになったのよ。こないだ満洲へ行ってるあれの父親から手紙が来てね、何だか仕事の方が大変上手く行って、この月の末に母親だけが先に帰って来る相よ。そしたら引きとる、と云うの」
 チビくんの後姿を見乍らお母さまと叔母さまは話していた。
「そんならあの子にも何かもって来てやればよかったわね」
「そうね、でもワザワザそんなこと…」
「じゃアこれ、あの子にやって下さらない?貰いもんなんだけど、利イ坊のお習字の時にと思って持って来たの…」
「何です?」修三さまは、思いやりのある若い叔母さんに感謝しながらその手許をのぞいた。
「文鎮なの。叔父さんのお友達でね、スイスのガラス会社と提携してこう云うものばかりこしらえてる方があるの。とても可愛いでしょう?」
 それは見るからに可愛い感じのするピンク色のガラス製のバラの花で、花びらにかこまれた中央に、小さな磁石がついて居た。
「きれいなもんですね。チビくんは利恵子とちがって、こんなものあんまり貰った事がないからとても喜びますよ」
 その夜、三人は各々、ヨシ子叔母さんからの贈物を枕元において嬉しい眠りについた。

  2
 
「今度の土曜日はあたしがお誕生日よ、お母さま」
 学校から帰ってお八ツをいただきながら、利イ坊さまは一寸余ったれた声を出した。
「そうね。又お友達をお呼びしましょうね」
「晩の御飯、何して下さる?」
「そうねエ、何がほしいの?」
「去年は赤の御飯におサシミやなんかだったでしょ、でも皆さんおサシミ御きらいなのよ、とても悪かったわ」
「じゃア今度は御洋食?」
「ええ。松平さんはね、御塩味のシチュウなら何杯でもあがれるんですって」
「マア、食辛棒ね、ホホ…」
「あのね、御食後にゼリーを作ってね」
「ハイ、ハイ」
 奥さまの側で御雑巾をさしていたチビくんは、思わずクスリと笑って了った。
「マアいやだわ、何わらうの、やな人!」利イ坊さまは自分があんまり色々と食辛棒の注文をしたのが恥しかったので、一寸照れかくしに口をふくらませた。それが余計おかしかったので、チビくんは今度はクックッとこらえきれなくなって来た。
「ホラ、あなたがあんまり食辛棒を云うから、初子が笑ってるじゃないの」
 しかし、利イ坊さまは恥しいよりもシャクにさわった。
「いいわヨッ。笑いなさい、その代りお誕生日にはチッとだって仲間に入れてあげないから…」
「そんな事云うんじゃありません。それにもう初子は帰るんじゃないの、仲よくみんなでお別れをするのよ、ネ」
「いやあなこった、帰るんならサッサとお帰んなさい、セイセイしちゃうわよ」
 又はじまった、と云う暗い表情で奥さまが利イ坊さまをたしなめ様とする前に、御菓子皿の上のチョコレートをツと摑みとると、利イ坊さまはバタバタとお廊下の方へかけ出して行って了った。
 何て我ままな子だろう!どうしてチビくんにばかりああキツくあたるのだろう!チビくんが居るからワザとああ虚勢をはって余計我ままなのかしら…?しかし、もうすぐチビくんが母親の所へ帰って了ったら、きっと淋しがるにちがいない。―
「あの、糸がなくなっちゃいました」
 チビくんの声に奥さまははっと気づいて、針仕事の抽出しから糸巻を出して渡した。
「お母さんのとこへ帰るの、嬉しい?」
 奥さまはやさしく、のぞき込む様にきいた。
「……」チビくんはだまって、何にも云わず、ニッコリ笑っただけだった。

 土曜日が来て、予定通り利イ坊さまのお誕生日の会がひらかれた。
 例によって松平さん、戸田さんの大ダイ親友、その他二三人の御友達がそれぞれプレゼントをもって集まった。
「アーラ、どうもありがとうオ、ステキねエ、この表紙の色―」
 松平さんの贈物は真赤な鹿の子表紙のついた帳面(ノート)だった。
「お姉さんに伊東屋で買って来ていただいたのヨ、ステキでしョ?」
 そう云って戸田さんが負けずに四角い箱の中から、鳥打帽子型になった針山を出してみせた。競馬の騎手がかぶるみたいな緑と黄色のダンダラである。
「可愛いこと!」
 あとの人も動物の形をした箱や、チョコレートやミッキイマウスの縫いとりをしたハンケチなどを持って来た。利イ坊さまはスッカリ有頂天になって了った。新しい敷物を敷いた洋間で自分が女王さまにでもなった様だった。
「何かしましょうヨ、何がいい?」
「そうね、ジェスチュアしましょうか?」
「ジェスチュアってどんなの?」
「ホラ、お豆腐屋さんだとかチンドン屋さんだとか、口は一つもきかないで恰好でやんのヨ」おシャマな松平さんが説明した。
「ああ何だ、モノマネ、ね」戸田さんがホッとした様な調子。
「そうヨ、やさしく言えばそうヨ」松平さんはツンと気どっている。
「さあ、やりましょう」
 そこへガチャリとドアがあいて、お母さまが入ってらした。後から、銀のお盆にお菓子や果物を盛ったのを持って、チビくんがソオッとつづいて入って来た。
「ア、お母さま、あのね、ステキな贈り物こんなにいただいたの…」利イ坊さまは声をはずませてプレゼントを指した。
「マア、いい物ばっかり。皆さん、ありがとうございました。サ、御菓子でも召上れ」
 テーブルの上にチビくんはソッとお盆を下した。
「今、みねやがお紅茶もって来るわ。利恵子、一寸―」
 奥さまは利イ坊さまを隅っこに呼んで、何やらヒソヒソとおっしゃった。利イ坊さまは一寸いやな意地悪相な表情をした。そう云う時には可愛い唇がへの字に曲るので、大きな椅子の蔭で、オズオズそっちの方を見ているチビくんには、それがよオくわかった。
 奥さまが奥へ行ってお了いになると、利イ坊さまは甲高い声を出して、みんなに向って、「サア、やりましョ」とうながした。
 チビくんは、自分を見むいてもくれないのがたまらなく悲しかった。(奥さまは、利イ坊さまにあたしを遊んでやれっておっしゃって下さったのじゃないのかしら…?)今まで随分ムリを云われても一寸もそんな事がなかったのに、はじめて熱い涙がジーッとにじみ出て来た。―
「アラ、半端だワ。そっち三人でこっち二人ヨ、だめヨ、あてる割合が損よ、一人出てやってる中に一人しか残んないンですもの、相談ができないワ」
 戸田さんが不平相に云った。利イ坊さまはチラリとチビくんの方を見た。チビくんは、ポタリ、と涙を敷物の上に落した。
「入る?」しばらくためらった後で、遠くの方から利イ坊さまは声をかけた。
「あたし、とってもあんたにウラミがあるんだけど…だからシャクにさわってんのヨ…、でも仕様がないわ、半端だから、入れてあげるわ。モノマネ、出来るでしョ?」
 チビくんは嬉しそうに顔をあげた。モノマネならよく修三さまが先に立ってなさるのでよく知っていた。
「どうしても入りたいでショ?」
 チビくんはコックンした。
「何か、何かステキな贈物もっていらっしゃいヨ。みなさん、もって来て下さったのヨ。何にも持って来ないなんてズルイわ―」 
 ドキンとしたチビくんの頭には、先だってヨシ子叔母さまからいただいた文鎮が浮かんで来た。
 ウラミがある、シャクにさわっている―その種はあのバラの文鎮にあったのだ。頭のするどい利イ坊さまは、あの文鎮がはじめっからチビくんに贈られたものでない、と云う事がチャンとわかって居た。あのキレイなピンク色のバラの文鎮!考えれば考える程、チビくんが憎らしい、シャクにさわって仕様がなかったのだった。
 チビくんはバタバタとお廊下を走って自分の部屋へかけ込んだ。あったあった、いただいた時のまんまで箱の中のワタにしまってある。
 あたしなんかどうせ要らないんだもの…
 自分で自分の心をあきらめさせながら、再び洋間へ飛んで行った。
 利イ坊さまはチビくんがその文鎮の箱を渡すとき、チッとばかり真剣な顔をした。(こんなムリ云ってズルイ事してこれをとっちゃってもいいのかしら…?)良心がどこかでそうチクチクとつついたけれど―
「マア、キレイねエ、一番ステキねエ!」
 お友達がのぞき込んで驚きの声をあげたのが、利イ坊さまをとうとうズルい子にしてしまった。(悪い子、悪い子、利恵子は悪い子!)
 みんなで遊んでいる最中にも、時々そんな声がどこからか利イ坊さまの胸をつついた。
 みると、チビくんは仲間に入れてもらえたうれしさか、打ってかわった朗らかな表情で戸田さんのお隣に腰かけている―。
 利イ坊さまがそっちを見ると、チビくんはニッコリ笑った。けれどそれは何と云う事なしに、一番大切にしていたものをなくした後の様なさびしい笑い顔だった。

  3

「長い間御世話をおかけしまして、本当に何て申しあげていいか…」
 いよいよチビくんはお母さんに連れられてお家を出て行く事になった。半年の間別れていたなつかしいお母さん、満州から帰って来たお母さん!そのお母さんの側にチョコンと坐ってチビくんは眼を輝かしている。
「チビく…、オッと、初ベエ―」修三さまはいつものくせで危くチビくんと呼びそうにして奥さまの目くばせで訂正した。
「うれしいだろオ、お母さんと一緒になれて…」
「いいえ、かえッて此方さまにおいていただける方が此の子のためにもいいんでございますけど、とに角わからず屋の我まま者でございますのでねエ…」
 チビくんのお母さんは何気なく言ったのだったが、奥さまの横でお人形の着物をこしらえていた利イ坊さまは、ハッとした。
「そんな事ないわ。そりゃア家の利恵子のことヨ。でも二人とも仲よくしてね…」
「くっついて歩いては喧嘩ばかりしてるんだヨ、喧嘩する位ならテンデ寄らなきゃいいんだにね…所謂(いわゆる)喧嘩友達さ。淋しくなるだろう、利恵子が…」
 パパさまがおっしゃる。
「大変仲よくしていただきましてねエ、あのオこれはホンのつまらないものなんでございますけれど、先程この子と外へ出ました時に一寸買って参りましたの。今まで仲よくしていただきましたお礼でございますって、この子が…」
 お母さんは文房具の組合せを利イ坊さまの方へ差し出した。利イ坊さまはチラとそれを見たまま、奥さまの蔭に顔をかくす様にした。
「マ、そんな事いいのヨ、こちらでこそ御餞別をあげなきゃならないんで…」
「でもどうぞ、折角、初子の志ですから」
「そう、じゃ、利恵子、いただきなさい」
「散々意地悪ばかりいたしまして誠にすみませんでした、ってよくお詫びを云ってね―」修三さまが側からからかい半分に云った。
「どうも、ありがとう―」そう云って包みを受け取ると、利イ坊さまは顔を真赤にしてお廊下へとび出した。
 散々チビくんをいじめて、あげくの果に、チビくんが一等大切にしていたあのバラの文鎮をとりあげて了ったのは、たった昨日である。
 もうチビくんは帰って了うのだ。あんなに意地悪我ままをしたのに、一寸もそんな事云わないで、ニコニコしてこれをくれて―
 自分のお部屋へ帰る途中、内玄関の式台の上にチビくんの荷物がつまれてあるのを見た。小さな竹行李と風呂敷づつみが二ツ…。
 風呂敷包みの結び目から、今迄チビくんが普段着ていた紡績の着物の袖口が、はみ出している―
「そうだワ、あたし、いい子になろう」
 大決心をした様に利イ坊さまは大いそぎで子供部屋へ走って行った。
 チビくんがお母さんと新しく借りたお家へついて、風呂敷包みを開いて普段着を着ようとする時、その袂の中からバラの文鎮とそれを包んだお手紙とを発見するだろう。

  今迄は色々とイジワルしてごめんなさいね。これはあなたにおかえしします。これはあなたのものよ。ヒマさえあったら遊びに来て下さい。もうけっして我ままはしませんから。 
       サヨナラ
   チビくんへ    リエ子






由利聖子 チビ君物語 (昭和9年)

2011年09月20日 | 著作権切れ昭和小説
   由利聖子  チビ君物語 『少女の友』昭和9年12月号~11年12月号



 チビ君

  1

「オーイ、チビくん、靴がないぞオ。テリイをさがせエ、テリイをオー」
 玄関で怒鳴っているのは坊ちゃんの修三さまである。利イ坊さまのランドセルを勉強部屋で揃えていたチビくんは、ビックリして、あわててお部屋をとび出して、内玄関の下駄をつっかけると、一直線にテリイの小屋にかけつけた。ある、ある、やっぱりイタズラ犬のテリイがくわえて来ていた。あんなにセッセとチビくんがきれいにピカピカ光らしておいた修三さまの靴がドロンコだ。
 テリイのバカ!うるさく足にまつわりついて来るテリイの頭を靴でコツンと一ツ。キャン、テリイはシッポを後足にまきこんで横ッとびに逃げた。
「ダメよオ、テリイをいじめちゃアー」
 勉強部屋でランドセルを背負いながら、トマトの様に可愛い唇をトンガラした利イ坊さまが、窓からチビくんを怒った。
 こんな事は毎日だ。ツクヅクテリイが憎らしくなって了う。それだのにテリイは又一番チビくんになついて居る。朝お台所の戸をあけると、お使いに行こうとお勝手を出ると、利イ坊さまのエプロンを洗おうとタライにしゃがむと、テリイがマリみたいにとんで来て、チビくんの脚にじゃれつく、顔をなめる。
「チビくんとテリイは姉妹(きょうだい)ぶんだナ。チビで、ふざけンのが好きで、うるさいけど可愛くて……」いつも修三さまはそう云う。
 大たい、初子と云う立派な名をもった女の子をチビくんにして了ったのが修三さまだ。
 修三さまは何でもかんでも綽名(あだな)で呼ばなくちゃ承知しないと云う困った中学生である。校長先生が古ダヌキ、教頭が川ウソ、体操の先生がシャチホコの乾物、用務員のおばさんを、バケツ夫人と云う。顔が長いからだそうである。
「今日、バケツがバケツをもって二階からツイラクしてねェ―」と、いつだったか学校から帰って来て、勉強部屋で利イ坊さまと話をして居た。お八(や)ツを、もって行ったチビくんをつかまえて、「オイ、それでどっちのバケツの底がぬけたと思う?」ときいた。世にもうれし相(そう)な顔だった。
「可哀想に、バケツ夫人の方が腰がぬけてネ、さっそく医者(ホテイ)がかけつけて来たヨ」とこれもお医者を綽名で呼んだ。
 チビくん、十三になったのだけれど、十の利イ坊さまと同じ位しかない。チビくんのお母さんは修三さまの乳母(ばあや)だった。だから修三さまとチビくんは乳兄妹(ちきょうだい)だった。お母さんが満洲へ行ったお父さんのところへ行かなければならなくなって、沢山ある子供をどうしようか、と困っていた時、三番目のチビくんを引とろう、と云って下さったのは修三さまと利イ坊さまのお母さまだった。
 お母さまに連れられて、短いおサゲをトンボみたいにしばってツンツルテンのネルの着物を着て、チョコンとお茶の間の片隅に坐っているチビくん―その時はまだ初子だった―を、学校から帰ってきた修三さまは一目見るなり、
「ヤア、チビくん!」と例の又、何でもかんでも綽名をもって呼ばねば気がすまない調子で、こう呼んだ。いかにも初子はチビだった。残念ながら修三さまのお母さまも初子のお母さんも、そして初子自身も、その「チビくん」はジツにピッタリした綽名である事を承知しないわけには行かなかったのである。
 奥さまは、とても親切な方だった。修三さまのお父さまはこの春にアメリカへいらして、お帰りは来年だった。
 利イ坊さまはたった一人の女の子で又末っ子だったから、チビくんには一寸苦手だった。年のわりにおマセである。おまけに幼稚園時代からF女学校の附属へ入って英語をならったし、小学校に入ってからはもうフランス語をやっている。こんな小さい子がそんなフランス語なんてものをやっていいのかしら…?と、チビくんは時々不思議に思う。チビくんと来たら、英語のエの字どころか、ウッカリすると自分の名前の「初子」をシメスヘンに書いたりする。
「バカねエ、チビくんのバカ、ユウみたいなガルは、フウリッシュ・ガルと云うのヨ」と、利イ坊さまはマセた赤い唇をトンガラかして、英語のわからないチビくんをケイベツしようと威ばるのである。
「何云ってんだイ、おシャマ奴(め)。ガルとは何だイ?チビくんをいじめんのはよせヨ。そんな事云っていじめんなら、お兄さんが、ドイツ後で利イ坊をやっつけるゾ」
 修三さまはお医者さまの学校を受けるので、今年の秋からドイツ後を習いはじめたのである。そう云う風に云われると、今まで威ばってチビくんをやっつけて居た利イ坊さまは、恥しさと口惜しさで真赤になりながら、チビくんをにらみつけるや、バタバタと西洋間の方へとんで行って了うのである。そして急にピアノのフタをあけて、「タンタカタッタッ、タンタカタッタッ……!」と怖しい割れそうな音を出すのである。だから「ミリタリイ・マーチ」がひびいている時は、チビくんと利イ坊さまの国交はダンゼツしているものと思えばいいのである。


  2

「利イ坊、傘をもって行ったかしら…?」
 修三さまも、利イ坊さまも学校へ行って了うと、あとはシーンとしたお邸内である。
 お昼に近い、しずかなお茶の間。奥さまの傍で、自分のに編み直していただく利イ坊さまの古いセーターをほぐして居たチビくんは、奥さまの心配相な声に窓の外を見た。ドンヨリと朝から曇っていた冬空をナナメにきって、ツ、ツと何かおちて来た。
「ア、雨!」
「いいえ、雨だけじゃないのヨ、あれはネ、ミゾレってものヨ」
 利イ坊さまもだけれど、修三さまは今朝は傘を忘れていらした。―
「お傘もって行って来ましょうか」
「そオ、すまないわネ、冷たいのに。丁度みねやが麻布へお使いに行っちゃったんで…じゃ、行って来てネ」
 大きな曲り柄の修三さまの洋傘(こうもり)と、赤い柄のついた十四本骨の洒落た利イ坊さまの傘をもって、お邸を出た。冷たい!あたたかいガスストオヴのついたお部屋に入っていた時は一寸(ちょっと)も気がつかなかったけれど、冬の外(おもて)は、ウスラ寒い空気が冷いミゾレを散らして、とっても寒い!
 向方(むこう)からマントをスッポリかぶった小学生が三四人帰って来る。今日は土曜日だ、みんなおヒケが早い。大いそぎ、大いそぎ。少しでも遅れた日には、又利イ坊さまに英語とフランス語のまじったケン付くをいただく。どうせ日本語だって、利イ坊さまの使う「およそ」だとか「想像以上の…」だとか…云う言葉は、チビくんにはチョッとばかり種類がちがう様に思える。
 お邸を出て、三丁ばかり先のお薬屋さん、丁度、修三さまがお降りになる電車の停留場の真前である。そこへ修三さまの傘を預けた。傘を忘れた日は、帰りにここへ寄ってあずけておく傘を受けとってさして帰ることにきめてあるのである。
 電車通りに沿って少し行くと、F女学校の黒ずんだ建物が見える。通用門を通ってお供の待合室へ行った。沢山のお供のお手伝いさん達が、ベンチに腰をかけて、小さい御主人の授業の終わるのを待っている。編み物をしている人もある。雑誌を読んでいる人もある。今迄にも二三度この待合室へ来た事がある。そのたんびにチビくんはこう思うのである。―
 ―よくまアこの方たちは、ああやって長い間ジーッとして腹がたたないわネエ―
 小さなお嬢さんがいばって外套をきせてもらったり、傘をひらいてもらったりしているのを見ると、何と云う事なしにチビくんは、子供心に腹がたってたまらないのである。
 羨ましくて腹がたつのじゃなくて、そのお手伝いさん達が可哀想になるのだった。チビくんと一ツか二ツ位しかちがわない様なお手伝いさんが、寒そうに肩をすぼめて迎えに来ている事もある。もし自分も利イ坊さまを毎日こう云う風に送り迎えしなくちゃならないのだったら…と思うと、それを決してさせない奥さまが、急に世界で一番、お母さんよりも、えらい、いい、立派な方に思われて来るのだった。
 ―ジリジリジリジリジリッ―
 終業のベルが鳴った。お供のお手伝いさん達は各々立上って外套を着せかけたり、お荷物をうけとったりする用意をはじめた。
 バタバタ、いつも一番にとんで出て来る松平さんのお嬢さんが、姿を現した。つづいて、ドタドタ、バタバタ、後から後から赤や緑のベレエをかぶったお嬢さん達が群がり現れた。
 利イ坊さまは…?背の低いチビくんは一生懸命のび上る様にして、それらのお嬢さんたちの群をキョトキョトと見廻した。利イ坊さまは中々見当らない。―
「ヤンなっちゃうワア、うちのチビすけと来たら…」
 ア、まぎれもなく利イ坊さまの声だ。
「何にも御用なんかしてないくせに、傘一本ももって来てくれないンだもの。きっと又お母さまのそばであたしの本を読んでるか、お兄さまのお机の上でもかっちゃがしているのヨオ」
「そうヨ。あたくし、あの子、大きらい。とてもナマ意気らしいわネエ。大きなねえやさんは好きだけど…」
 相槌うって居るのは、利イ坊さまの親友で、いつも遊びに来るたンびに、自分より身体の小さいチビくんを、さもケイベツするみたいににらんで行く、戸田さんのおテンバお嬢さんにちがいない!チビくんは思わず、かじかんだ手にシッカリ持っていた赤柄の傘を、ピシリとたたき折りたくなった。
「あたくしの傘にお入りあそばせよオ、途中までお送りするわ」
 この声が、チビくんのシャクにさわる心をグット止めた。あわてて、赤いベレエが並んでいる昇降口のタタキへかけて行った。
「あら、来てたの?どうして今迄出て来なかったのよ、今来たんじゃないでショ?ひどいわネ、人を困らせようと思って、ひどいわ、いいわ、いいわヨ。戸田さんに入れてっていただくから…」
 何か云おう、とする間もなく、赤いベレエ帽は並んでミゾレの校庭を走る様に歩いて行く。
「利イ坊様―ッ」
 追いかけ追いかけ、チビくんは必死になって傘を利イ坊さまにさし出した。何がおかしいのか、利イ坊さまは戸田さんと肩と肩を頬と頬をおしつけ合ってキャッキャッ笑いながらなおもドンドン面白い事でもしている様に歩いて行く。―
 電車通りをすぎて、角の薬屋さんも曲って二人は行く!角で戸田さんが別れて行って了えば、傘をさしてくれるだろう、と云う淡いのぞみも消えて、チビくんは泣き出しそうになった。
 傘をもって行って、その傘をささないで帰らせた、と云う事がわかったら、奥さまはどんな顔をなさるだろう!それを思うと恐ろしいやら、悲しいやらで、チビくんは足がすくむ様になった。熱い涙がかじかんだ真赤な手の甲にポトポトと垂れた。
「オイ、チビくん、だろ?傘ありがと。―どうしたンだイ?」
 いつの間にか、後から大股で歩いてきた修三さまがのぞきこむ様に云った。チビくんは黙って片手にもった利イ坊さまの傘をさし出して、半丁ばかり先を走る様にしてゆく利イ坊さまの後姿を涙にぬれた眼で見た。
 修三さまは、だまって傘をうけとると、そのままグングンと大股で利イ坊さまの方へ歩いて行った。
「利恵子ッ!」
 突然、しかも怒気をふんだ修三さまの声に、利イ坊さまはギクッとしてふりかえった。
「又、いじめたナー」
 物凄い修三さまのけんまくに、利イ坊さまはだまって目を伏せて了った。こう云う時の修三兄さまの怖さはよく知っている。どんなヤンチャもイタズラも笑っている兄さまだけれど、勝手な意地悪な我ままだけは決して許さない兄さまだ。
 戸田さんは、二人の危い雲行きを見ると、
「じゃア、さよオなら―」と、電車路の方へ引きかえして行って了った。
「あやまるんだ。そして、お礼を云って、この傘をさして帰るんだ」
 どうなることか、と心配しながらオドオドと近寄って来たチビくんの前に、修三さまは利イ坊さまのベレエ帽のあたまをおしつけて、ピョコンとお辞儀をさせた。
 ワッと、泣声があがった。利イ坊さまも泣きだした。そして、チビくんも泣き出した。





  3

 ミゾレの日のことがあってから、チビくんは今までよりももっともっと修三さまが好きになった。利イ坊さまとは仲よくしようと思っても、利イ坊さまの方でよせつけないのであった。
 修三さまが、病気になった。丁度、暮の忙しい時で、その上おまけに奥さまの年寄ったお母さまが急病で、奥さまはとるものもとりあえず至急お国へお帰りになった。
 その夜は、みんな心配と不安と淋しさで、気ぬけした様だった。修三さまは明日一日でおしまいになる試験の勉強をするために、二階のお部屋に引きこもったきりだった。利イ坊さまも静かに本を読んでいたが早く寝て了った。お母さまにも兄さまにもはなれて、一人ションボリ勉強部屋へ寝に行く姿を見た時、チビくんはたまらない同情を感じた。
 ―夜中だった。本当はまだ十一時前だったのだが、一寝入したチビくんにはそう思えた
「初子さん、すみませんけどね、お医者さまへ行って来て下さいナ」
 お手伝いさんのみねやがあわただしくチビくんをゆり起した。修三さまが急にお腹が痛くて大変だ、と云うのである。金盥(かなだらい)をもってったり、水枕を探したり、みねやは大変だった。
 寒いのもねむいのも忘れて、チビくんは、真暗な路をお医者さまにかけつけた。お医者さまは寝ていて中々起きてくれなかった。寝巻の上に羽織を来た丈(だけ)のチビくんは、ガタガタふるえた。しかし、歯をくいしばりながら何度も何度も戸を叩いて、声をかけた。
 お医者さまがいらして診察なさる間、チビくんは眼(ま)ばたきもしないでジッと、修三さまの顔とお医者さまの顔を見くらべていた。
 修三さまの病気は軽い胃ケイレンだった。あんまり勉強がすぎて、消化力の方がお留守になって了って、故障が起きたのだった。
「お母さまの留守に、主人役が病気になっては駄目じゃないか」
 年とったお医者さまは、蒼い顔をして寝ている修三さまを、元気をだす様にこう云って笑った。お医者様が笑っていらっしゃる様なら、修三さまの病気も大した事はない、…とチビくんはホッとした。気がつくと、何時の間に起きて来たのか、これも白いネルの寝巻の上に羽織をひっかけたまンまの利イ坊さまがピッタリとよりそって、同じ様に心配相に修三さまを見つめて居るのだった。
「もう大丈夫だヨ。みんな寝ておくれヨ」
 元気そうに修三さまは云った。
 心配なオドオドした顔をしているチビさん達、そんな恰好でいつまでも起きていると、風邪を引くぞ、それこそ大変じゃないか!―それでも利イ坊さまもチビくんも動かなかった。利イ坊さまはブルブルふるえて居る。それがハッキリよりそわれて居るチビくんの身体に、つたわって来る。―
「よオお寝(やす)みヨ、いいんだヨ、もう―」
 だまぁって利イ坊は立上がった。お兄さまに怒られるのが怖さに、しかし、襖にピッタリとくっついたまま動かない。
「どうしたんだイ?―オイ、みねや、利恵子をねかしておくれヨ、きっと先生寝呆けてるんだよ―」
 修三さまのフトンの足許へユタンポを入れて居たみねやが、利イ坊を抱く様にして部屋を出て行った。
「チビくん、いいよ、寝たまえ。みねやがここで寝てくれるから…」
 チョコンと枕元に坐っているチビくんを見て又修三さまは(少し厄介だなア、子供ってもンは、中々ねないで、と云う気持で)云った。
 チビくんは一晩中、修三さまの枕元でお世話がしたかったけれど、そう云われてスゴスゴとお部屋を出た。お廊下の角で、利イ坊さまをねかしつけて来たらしいみねやに逢った。
 勉強部屋の前―かすかな泣き声、チビくんははつと立止った。
 利イ坊さまが泣いている!さっきあんなにグズグズしていたのは、ねぼけたんじゃなくて、一人で寝るのがさびしかったのだ。
 チビくんも、つと考えた。みねやが修三さまの御部屋に寝に行って了ったら、チビくんもたった一人だ、広いお茶の間にたった一人!

 翌朝(あくるあさ)―
 あんなにひどかった胃ケイレンもそのまま夢の様に直って、サッパリした気持で、洗面場に立った修三さまは、みねやによびとめられた。
「―フトンは残っていて、姿がないんでございましょ、あたし、びっくりしましたワ。初子さんたら、マア、利イ坊さまンとこへ―」
 修三さまは、勉強部屋の障子をあけて、中をソッとのぞいて見た。
 そこには、赤いメリンスのおフトンをかけて、利イ坊さまとチビくんがシッカリと抱(いだ)き合って、スヤスヤと寝て居るのだった。
「いい子だナ―、チビくんは―」
 修三さまは、何だか自分まで嬉しくなって二人の幼い少女の安らかな寝顔を、シミジミと、もう一度眺めた。



 帰れテリイ

  1



 テリイが仔犬を生んだのはクリスマスの頃だった。
 いつもお台所の戸をガラガラとあけると、待ちかまえていたようにうれしそうに、ワンワン吠えながら足許へすりよって来るテリイの姿が見えないので、チビくんはオヤと思った。
 その朝は霜のひどい、日もよく晴れたとても気持のいいお天気だった。
 いつもの様に裏庭へ出て、深呼吸をした。
 これは修三さまの御仕込みである。清々しい朝の空気の中での深呼吸は、三十分のラジオ体操に数倍マサれり、スベカラく汝深呼吸をせよ、と云うのが修三さまの主義である。
「それに背ものびるよ、きっと。身体も丈夫になるし、背ものびるし、君、すばらしいじゃないか!」
 背がのびる、その言葉がチビくんを深呼吸党にした。毎朝毎朝一生懸命にノビ上る様に深呼吸をする、チビくんの楽しい希望である。
 ドウゾ、背がのびます様に!今朝もまたそのおイノリと共に深呼吸をすます。でもテリイはまだ来ない。いつもなら足へまつわりついて深呼吸の邪魔になるぐらいだのに!
 どうしたんだろう?チビくんは真白に降りた霜をサクサクとふみながら、テリイの小屋へ行った。
 テリイは小屋の中に居る。茶と白とブチの背中が入口から見える。
「テリイ!」
 いつもならとんで出て来るのに、今朝は一体どうしたんだろう、とんで出て来るどころかワンともクンとも云わない。
 小屋の前にしゃがんで、のぞきこむと、
「ウウ―」
 テリイはうなるのだ。仲よしの大好きのチビくんが来たと云うのに!
 見ると、背中を丸くして顔だけこっちへねじむけて、うす暗い小屋の中で、まるで何か怖しいものでも来た時の様に、怒った顔に、「ウウー」と、又、うなる。
「オイ、チビくん、台所でみねやが呼んでるよ」
 手拭を首にまきつけて歯ブラシをくわえた修三さまが、いつの間にかチビくんの後に立っていらした。その声を聞くとテリイは、又一きわ高い声で、イヨイヨ危険がせまった、とでも云い相(そう)な声でウウウ、とうなった。
「アレ、どうしたイ、テリ公!」
 修三さまはしゃがんでのぞきこんだ。しゃがんでのぞきこんだ。
「ヤア、こどもを生んだア!」
 トン狂な修三さまの声に、チビくんはハッとして、あわてて又のぞきこんだ。
 なる程、テリイは仔犬(こども)を生んだのだった。
 気がつかなかったあっち向きのテリイのお腹のあたりに、白や茶の小さい塊がモゴモゴとうごいて居た。道理で、今朝はテリイがお台所へ来なかった筈だ。
「一匹、二匹、ヤ三匹だ」
 修三さまは手をつっこんで仔犬をコロコロとうごかした。
「ウーワンッ」テリイは必死に吠えたてて、その手にかみついた。
「ア痛てて、チェッ、物凄えな、テリ公奴(め)!急に母性愛を発揮しやがんなア」かまれた手を二三度ふりまわして、手拭でゴシゴシ拭いた。
「アレッ血が出てきやがった、ウワーイ、メンソラだ、メンソラだ!」
 チビくんはあわてて、お台所へとんで行って棚の上のメンソラをもって帰って来た。
「どうしたの?奥さまと利イ坊さまと、何事か、と云う顔つきで裏庭へ出ていらした。
「テリイが子どもを生んだんだよ。出してみようと思ったら、いきなりワンとかみつきやがんのさ」
 修三さまはいかにも口惜しそうである。
「見たいわ、お兄さま出してみせてよ」
 利イ坊さまはお鼻を鳴らした。
「よせやい、二度も三度もかみつかれてたまるかい。君やってみたまえよ、君なら大丈夫かも知れない。僕、ふだんいじめてばっかり居るからな―」
 利イ坊さまはしゃがんで恐る恐る手を出した。
 ウ、ウ、テリイはうなる。ビックリして利イ坊さまはとび上った。
「およしなさい、今はだめよ、テリイの気が立っていますからね」
「何故気がたつんだい?」
 修三さまは奥さまの顔を見た。
「何故でも、気が立っているんですよ。子どもをとって行かれると思ってね」
「とって行くつもりじゃないンだがナ、一寸見るだけなんだがなアー」
「ホホ、そんなこと、テリイにわかるもんですか」奥さまは、口をとんがらかしてかまれた手の甲をさすっている修三さまを見て笑った。
「とに角、怪しからん、人間様の真情をゴカイして、コトワリもなしにイキナリかみつくとは、オイ、テリイ、覚えて居れよ、このウラミは必ずかえすからナ」
 修三さまは肩をそびやかしてザクザクと霜の道を大股で台所へ行って了った。学校では柔道剣道拳闘と、その道の豪傑と云われているのに、たかが小ッぽけなフォクステリアのテリイにイキナリ不意打ちをうけて、ムネンの負傷をしたのが、大変お気にさわったらしいのである。それと云うのも、テリイが今まであんまり修三さまにおイタばかりしていた罰かも知れない。裏庭に干しておいた修三さまのゲートルを泥ンコにしたり、竹刀の柄糸(えいと)をかじったり、靴を汚したり…修三さまは、そう云う点ではテリイを目の仇の様にしていたのだから、今度と云う今度は、ガゼン、怒って了ったのもムリもない―。


  2

「お母さま、明日、松平さんと戸田さんが犬をもらいにいらっしゃるんですって」
「そう、どれをあげるの?」
「もち論、パールをぬかしたあとの二匹よ、パールはいくらお仲よしの戸田さんにだって差上げられないわ」
 お正月の楽しいお休みもすんで、学校がはじまったばかりの日、お夕飯の時に、利イ坊さまがテリイの仔犬の事をもち出した。
 テリイが生んだ三匹は、一匹は羊の子の様に真白なの、あとは丸で反対に真黒なのが二匹である。
 利イ坊さまは羊の子の様に真白なのが大のお気に入りで、早速ならいたてのホヤホヤの「真珠(パール)」と云う名をつけた。
「オイ、一寸待てよ、あとの二匹って云うとクロ助とクロ兵衛かい、御冗談でしょ、クロ助の方は、僕の組の加藤にやる約束になってるんだぜ」
「アラ、ずるいわ、お兄さま、そんなお約束、勝手にして」
「勝手なもンかよ、君こそ勝手じゃないか、二匹とも約束して来るなんて」
「だって、テリイは、あたしの犬よ」
 利イ坊さまはベソをかきながら云う。なる程そう云われると修三さまはグッとつかえた。
 テリイは、アメリカへいらしたお父さまが、お友達の所から利イ坊さまのために、もらっていらっしたのである。
「キ、君の犬にしたって、僕のものをメチャクチャにするじゃないか」
 とんでもない所へリクツをもって行った。
「イタズラの事なんかあたしが知った事じゃないわ」
「だからさ、たとえ君の犬にしたところで、損害は僕の方がひどいんだから、だから、―」
「もういいじゃないの、又喧嘩になりますよ」
 おつゆをお椀に盛りながら、奥さまは一寸たしなめるようにおっしゃった。先刻(さっき)から奥さまの横で御飯をよそいながら、チビくんも二人の口争いをハラハラしてきいて居た。
「だから、一匹位、こっちの勝手にしたっていいわけだ、って云うんだよ」
「そんなわけないわ」
「あるよ、損害賠償だ、立派なもんだ」
「ホホ、修三さんの理くつは随分立派なえ、よござんすよ、一匹位、ねえ、お兄さんのお友達にもあげるでしょう」
 奥さまはやさしく利イ坊さまにおっしゃった。
「だって、あたし、困るわ、だって、戸田さんにはもうズッと前からお約束したンだし、松平さんはテリイが赤ン坊の時からほしがってらしたのを、テリイが仔をうんだらそれをあげるって、お約束しといたんですもの」
「何も家のテリイばっかりが犬じゃないよ、何だってそうテリイばっかりねらうんだ」
 修三さまは大きな口をあいてロールキャベツをアグリとほほばり乍ら、モグモグと憎まれ口をきく。
 本当にそうだ、とチビくんも思う。戸田さんにしても松平さんにしてもどっか他のところからお貰いになればいいのに!…と。あんな我ままなお嬢さんの家へもらわれて行っては、クロ助もクロ兵衛も可哀想だわ―と思う。
「明日、戸田さんと松平さんがいらしたらそう云って、どっちかにクロ兵衛ちゃんをおあげなさいナ、ね」―奥さまは慰め顔にこうおっしゃった。
「どうしても二人ともほしいッてば、パールをやるんだ、そしたら丁度みんな片付いていいじゃないか!」
「いやよ、パール、やるもんですか。パールやる位ならテリイをやっちゃうわ」
 利イ坊さまはおハシを降して、本格的の喧嘩の態度である。
「何、テリイをやる?―ワア、面白いや、やれるもんならやって見ろ。僕はセイセイするよ、あんなイタズラ犬の物騒なヤツ、居ない方がサッパリしらア」
 チビくんはびっくりして修三さまの顔を見上げた。テリイをやっちゃう、セイセイする、チビくんにとってはマサに青天のヘキレキである。いくら喧嘩のなり行き上とは云え、修三さまの言葉は、チビくんには例え様もない悲しさをドカンと叩きつけた。
「マアマア、喧嘩はおやめなさい、御飯がこなれませんよ」
 奥さまは困ったと云う様な顔をなすった。
 御飯がすむと、修三さまは、傍にある夕刊をもつと、ドタンバタンと足音高く二階の勉強室へ上って行って了った。利イ坊さまは怒った様な顔をして、奥さまの傍で手工をやりはじめた。
 お台所でみねやと片づけ物をしながら、チビくんの心は、テリイの事で一杯だった。
 テリイ、テリイ!いたずら犬で元気なテリイ!随分困ったおイタをやってチビくんをいじめた事もある。チビくんも憎らしくて蹴っとばしたり叩いたりした事もある。
 生れた仔犬も小さくて可愛いけれど、チビくんはやっぱりテリイが好きだ。
「ねえ、もしテリイが貰われて行くと、子どもが困るでしょう」とチビくんはお茶碗を拭いているみねやにきいた。
「大丈夫よ、だってテリイが居なくなっても、仔犬がもらわれて行っても、同じわけじゃないの…女犬はうるさいのよ、仔犬を生んで。これから又テリイが生みはじめるとそりゃおしまいに困っちゃうでしょうよ」
 みねやまでテリイの居なくなるのを喜んで居る様な口ぶりである。チビくんはガッカリして了った。
 翌朝(あくるあさ)、家を出る時に、修三さまは家中ひびきわたる様な大声で、
「いいか、クロ助は加藤のとこへやるんだよ、もう売約済みなんだからな。今日帰りに加藤を連れて来る、いいだろうね、シカと申し残すぞ」
 利イ坊さまはプンプンとしてすまして御飯をたべていた。奥さまが笑いながら答えた。
「ええ、よござんすよ、そんな事いつまでも云ってないで早く学校へいらっしゃい。何ですね、大きななりをして。中学生じゃありませんか、小学校の子と一緒になりませんよ」
「そうです、全く、中学生と小学生は一緒になりません。ダン然中学生の方が権利があるんです。いいか、利恵子、君は小学生だ、中学生の僕とは一緒にならんぞ、―行って来まあす―」修三さまは意気揚々と学校へ行って了った。
「あの、テリイ、やっちゃうんですか?」
 お昼御飯の時、ソッとチビくんは奥さまにうかがって見た。
「さア、そんな事云ってましたね。もし戸田さん達がもらって行って下されば、連れてっていただく方がいいじゃないの、これから度々子供が生れて、その度にお嫁入り口の事でさわいでたんじゃたまらないものね、―それにお嫁入り口だけの心配ならまだいいけど、ウッカリ死なれたら、可哀想だしね」
 奥さまもみねやと同じ様な事をおっしゃる。
「それにパールは男だし、あれをおいとけば利イ坊の気もすむし…」
 奥さまの後の言葉をきき乍らチビくんは、ポトリ、と、お膳のふちに涙を落した。

  3

「こちらよ、こちらへお廻りになって」
 利イ坊さまの声につづいて、ランドセルを背負った戸田さんと松平さんが、各々(おのおの)お供のお手伝いさんをしたがえて裏庭へあらわれた。
「ホラ、これがパールwよ、すてきでショ」
 柿の木の根元で日向ぼっこをしているパールを抱きあげて、利イ坊さまはおトクイである。
「じゃあたくし、テリイいただくわ、私もとッからテリイ大好きなの、あの茶と白のブチが、もう先ジステンパーで死んだアリスにソックリなんですもの」
 松平さんは、学校でもうお約束ずみと見えて、はじめっからテリイを連れて行くつもりである。
「あたくし、これ、ね」
 戸田さんはクロ兵衛を抱っこしている。
「ええ、そうヨ。クロ助はね、ホラ、さっき学校で申しあげたでショ、お兄さまの方へあげるの…」
「一寸でいいからそれも見せて下さらない?」
「ええ、御らんになるだけならいいわ、きっとテリイの小屋の中に居るのよ」
 利イ坊さまと戸田さんは犬小屋をのぞいて、「テリイ!」「クロベエちゃん!」と呼んだ。
 しかし、小屋の中はカラッポだった。
「みねや、テリイとクロベエちゃんは?」
 利イ坊さまの甲高い声が台所へ走った。
「さあ、―クロい方はさき程、お兄さまとお友達が連れて原っぱの方へいらっしゃいましたけれど…」
「変ね、テリイ、一寸も子どもの傍はなれないんだけど…」
「チビくんは?」
「お昼御飯がすむと、栄屋(さかえや)へ買物に行ったんですけど、どうしたんですか、まだ帰りませんのよ」
「マア、いやだ、あの子が居るとテリイの居所も大ていわかるんだけど…」
「テリイ、尾いてったんじゃなくて?」
 戸田さんが云った。
「そうだわ、きっと。マア憎らしい!丸で自分の犬みたいに思ってるのよ、―いいわ、帰って来たらすぐひったくってやりましょうねえ」
 イジワルさん達は、お縁側で今か今かと、チビくんの帰りを待って居た。
 デパート栄屋のエレヴェーター係の小父さんは、先刻(さっき)から一人の女の子に目をとめて居た。
 その子は赤いメリンスの羽織を着た小さな子だった。一等はじめチョコチョコと小父さんの前へ来て「お砂糖ツボは何階ですか?」ときいた。「五階ですよ」と答えると、丁度停まったエレヴェーターへトコトコかけこんだ。つづいて何か白と茶色のものがエレヴェーターに走りこんだので、見ると、それは小さなテリア種の犬だった。
 空いて居たのでエレヴェーターは女の子と犬をのせてスッと上へ昇って行った。
「今の女の子、犬と五階へ降りたわ」エレヴェーターガールは降りて来ると、ニコニコして小父さんにそう報告した。
 それから一時間ばかりの間に、その女の子は三度も四度もエレヴェーターで降りたり昇ったりした。段々人が混んで来るので、女の子は犬をだき上げた。犬はエレヴェーターが動くたびにピョンピョンはねたり、クンクン鳴いたりした。段々スシ詰めになって来て、小さな女の子はどこの居るか存在がわからなくなった。所が前の人の背中で圧(お)されて苦しまぎれに抱かれた犬が、ワン、ワンと大きな声で吠えた。皆はびっくりし、一様にふりむいた。そして同じ様にほほえみを浮べた。
「お嬢ちゃん、ほんとはエレヴェーターの中へ犬はのせてあげられないンですけどね」七度目にその女の子が降りて来た時、小父さんはニコニコしながら云った。
「ごめんなさい」女の子は恥しそうな顔をしてあやまった。
 そして出て行くのか、と思うと、今度はやはり犬を抱いたまま、トコトコ階段を昇って行った。
「さっきのチビくんね、あの子、もう帰ったかと思ったら、屋上公園に居たの、犬とあそんでたわ。―お使いに来たんなら早く帰んなきゃだめよ、と云ったら、帰ると大変だととても心配相な顔して云うの、何でしょう…」
 交代で屋上公園へいい空気を吸いに云ったエレヴェーターガールが、又降りて来て、小父さんにそう云った。
「さア、大方、家でおいとかないって云う犬でも可愛がってるんだろう…」
 二人は顔を見合わせてほほえんだ。


  4

「ア、帰って来たワ、今ごろ。何してたのヨオッ?」
 真暗になってからヤッと帰って来たチビくんを見るなり、お玄関で、利イ坊さまはカンカンになって唇とトンガラかした。黙ってうなだれたまンま、チビくんは足許で無心にクンクンと鼻を鳴らしているテリイの頭をシッカリと抱きこんだ。
「あんたがいくらやりたくなくったってダメよ。テリイはあたしの犬ですからね」なおも云おうとするのをさえぎって奥さまは優しく、
「テリイをやるのがいやで、道草してたの?今迄どこにいたんです、栄屋?」
 チビくんはコックリした。眼には今にもハラリとこぼれ相にいっぱいの涙が!
(いじらしい子!)奥さまは何かしら胸にグッとこみあげて来るのを感じながら、
「でもネ、折角利恵子松平さんに差上げるってお約束をしたんですからね…。私も何だか可哀想な気がするけど…」
「サ、早くッ、連れてって来て頂戴。松平さんとても怒っておかえりになったわヨッ」
 でも―チビくんは一層シッカリとテリイを、どうしてもはなすまいとする様に抱きしめるのだった。
「ヨシ、僕が連れてってやる。オイ、チビくん、あきらめろヨ。何だ、こんな犬…。オイ、テリイ、来いッ!」
 先刻(さっき)からお玄関の障子の蔭に立っていた修三さまはマントをひっかけて、ワザと威勢よさ相に外へでた。
「テリイ、来いッ、こっちだ!」
 無心のテリイは何も知らずにか、チビくんのふところをすり出て、修三さまのあとへ―
 段々、修三さまの声とテリイの吠える声が遠くへ行く―それをきいている中に、チビくんはたまらなくなって、ワッと泣き伏して了った。利イ坊さまはそれを見ると自分もベソをかき相になった。利イ坊さまの顔を見乍ら奥さまは(やっぱり、テリイを可愛いにちがいない、この子は後悔してるのだ)とお思いになった。
「ヤレヤレ、大変なのさ、僕が門を出て来るとチャンと先まわりして待ってんのさ。とうとうお手伝いさんと書生がヒモで結えちゃってね。やっととんで帰って来たんだよ」修三さまは、帰って来るなりこう云って、フウッと呼吸(いき)をついた。
「帰って来るかも知れないわね」
 利イ坊さまが小さな声で云った。
「ウン」修三さまは一寸暗い顔でうなずいた。
「だって迚(とて)も家に長く居たんですものね」
「何だ、テリイをやった事後悔してんのか?」
 修三さまは勢よく立上った。
「帰って来たら、又連れてくさ。それでも又帰って来たら…」ガサガサガサ、バタバタ、お縁側で大きな音がした。ハッとして修三さまは障子の方へ行った。それより早く、次の茶の間からチビくんがバタバタととび出して来て、障子をあけた。
 テリイだ!手水鉢のところだけ一尺程あけてある雨戸の間から上ったと見え、廊下を泥足だらけにして、開いた障子の間からとびこんで来て、チビくんの懐中へマリの様にとびかかった。引きちぎって来たらしく、二三尺の長さの泥だらけのヒモが、首から垂れて、畳の上に引きずられた。
「テリイ!」
 みんなが、一斉にテリイのところへとんで来た。
「やっぱし、帰ってきたわ」
 勝った者の様に、チビくんは眼をきらきらさせながら叫んだ。 

ただ見る ささきふさ (昭和5年)

2011年09月20日 | 著作権切れ昭和小説
ただ見る ささきふさ (昭和5年『モダンTOKIO円舞曲』)




  蛾

 真昼の舗道で、私は、珍しく夫君と伴れ立った麻子夫人に行き合った。スポーツマンの時雄さんは、がっちりとした、見上げるような肩の辺に、二歳ばかりの女児の妙に深酷な顔を上下させていた。
「いつの間に?―」
 私は妙に深酷な女児の顔を見、それから夫妻の顔を代るがわるに見ていった。
「どちらに似てて?」
「そうね、どちらにも、―」
 似ていないといいかけてから私は、いうのではなかったと思った。影に似たものが、夫妻の顔を同時に掠め過ぎたからだ。すると私は急に、忘れていた一つのゴシップを思い出した。―麻子夫人は時雄さんとよりは、道家というダンス青年と踊ることの方が多い。」
 彼等とあっさり別れてしまってから、私は十九歳の、よくノートを借りに来た時代の彼女を思い浮べていた。彼女はその頃が肺病の第一期だったらしく、小麦肌なのだが不思議に澄んだ頬に、いつもぽっと美しい血を漲らせていた。女の美しさを私に最初に教えてくれたのは彼女だった。彼女は間もなく病気のために学校を退いた。それから「運動の為に」ダンスを習い出した。次いで「退屈をまぎらす為に」新聞社に入った。そしてスポーツマンの時雄さんと結婚した。だが二三年の間に、いつの間にか母となった今日の彼女の肌は、見違えるように蒼黒く濁っていた。私は整った顔立の彼女の何処からも、もう女の美しさを感じることが出来なかった。
 ―肺病は女を美しくし、それから醜くするものなのかな。それとも生活が、―私は私自身聊(いささ)か憂鬱だった。

 盥のお湯のぼちゃぼちゃの際に、
「お留守?」と張り上げた女の声が聞えた。庭先から呼んでいるらしい。私も湯殿の中で声を張り上げた。
「何誰(どなた)?」
「あたし。」
「麻子さん?」
「え、―」
「お珍しいのね。」
 私はもう一度声を張り上げて女中を呼んだ。
 手早く体を拭うて出て行くと、麻子はまだ庭先に立っていた。
「なぜお上りにならなかったの?」
「でも、―」
「お伴れがあるのじゃない?」
 彼女はもじもじとした。私は直ぐ女中さんに道家さんをお迎えして来いと命じた。
「でも、そうしちゃ居れませんの。実は今日はお誘いに、―。」
「これから、どちらへ?」
 夏の日はもう完全に黒く暮れている。
「藤原邸のダンスへ。」
「私をダンスに?」
「そう仰しゃるだろうと思ったわ。でもついご近所ですし、それにフィリッピインのジャズがとてもいいって話ですから。私達だって今夜は踊りに行くのじゃありませんのよ。」
「怪しいものだ。」と暗闇の中で男の声がした。次いで道家はパナマを白く浮しながら洋室の角から現れた。「しかし僕は絶対に踊りませんよ。」
「私だって、―」
「此お嬢さんのいうことは、あてにならないからな。しかし僕は、―どうです、踊らぬ仲間に、お出かけになりませんか。」
「ウォール・フラワーになりにね。」
「誰も貴女をウォール・フラワーだとは思いませんよ。」
「もうフラワーでもありませんものね。」
「どうや、―」
 道家は開いた上衣の胸の間で、パナマの縁をいじっていた。あれが道家だとホテルの前で教えられた頃の彼は、長髪を油でオール・バックにしたひどく気障なダンス青年だった。がその長髪もいつの間にか白い地が透いて見えるほど薄くなっていた。それと共に気障さも薄くなったらしく、今私の前にこころもち臆して立っている彼は、些(すこし)も反感をそそるところのない中年の紳士だった。
 私の家はごみごみした凹地の一隅に在る。が四辺(あたり)の高台は有名な、かと思うと名も聞かぬブルジョア達によって占領せられている。私は富の高低に土地の高低を加えて考えさせられるのが不快だったので、二階の窓は断然開けて見ぬことにしていた。だが彼等の生活の外郭は、開けぬ窓の戸の節孔(ふしあな)から、逆さになって朝の寝室へ闖入(ちんにゅう)して来る。寝起きの私の目に豆ほどの逆さな風景は、夢の続きのようで、うれしかった。
 道家の運転するクライスラーが、坂を上りきって一曲りすると、樹々の葉越しに輝く数層の窓が現れた。今しがた出た月の光を濾して白く浮いた雲の間で、お城のような高楼の外郭は、―正しくそれは豆ほどの逆さな風景の中の城だった。
 ―なるほど粋(すい)なジャズだ。
 サクソフォーンが階段を曲がったとたんに、雁皮紙(がんぴし)に当った時のような呻りを立てた、次いで床を擦る足の音が、ざあざあとひどく濁って幻滅的に響いてきた。私達は白手袋の下僕(しもべ)の導くまま、眩しい舞踏室の床を踏み、輪舞の外を抜けて奥の一隅に陣取った。
 此建築の内部は、やはり夢の続きのように豪奢を極めたものだった。が集った男女は決して夢の中の男女ではなかった。もう短すぎるスカート、音楽をこなしきれぬ脚、土の着いた靴底、―フィリッピイン等(とう)の六白の目には、無遠慮な軽侮の嗤(わら)いが浮んでいる。
 “Thats you Baby!”
 だが踊る男女は踊る事其事に夢中だ。
 楽士の壇の傍から、浅黒い、がっちりとした紳士が、直線的に私達の隅へやってきた。藤倉氏だなと私は直感的に思った。
「是非お出でいただきたいと思って、実は麻子さんにお願いした次第でした。」
 彼は、やはり浅黒い感じのバスで、直線的な口の利き方をした。是非お出でいただきたいは、是非踊っていただきたいの意であるのに違いなかった。が私はわざとぽかんとした顔で、是非お出でいただきたいをぜひお出でいただきたいとだけしか解し得ぬ風をよそおった。
 ふと私はイブニング・ドレスの肩に、莫迦にひやっこい風を感じた。風はさっと、寄木(よりき)の床を撫でて、向うの窓へ吹き抜けた。木立の向こうには、大きな雲が不隠な速度で走っている。芝生に落ちた明暗の斑点も、―私は危うく声をたてるところだった。ばさりとまともに私の顔を打つものがあったからだ。私は狼狽して窓から首を引込めた。ばさばさと、黒い蛾はシャンデリアの近くまで昇ったかと思うと、突然急な角度で描いて、踊る男女の上に落ちた。棄身な蛾の運動は、飛ぶよりは打当(ぶつか)って行く感じだ。腕を掠めて又一匹、又一匹、―蛾は豪奢な室内装飾を完全に無視して縦横に走った。踊る男女も亦(また)完全に蛾の横行を知らず踊り狂っている。
 “Thats you Baby!”は皮肉に終わった。音楽と共に踊ることを知らなかった人達は、音楽と共に踊り終える術も心得ていない。彼等はもう一度楽士の軽侮を買いながら、てれかくしに時外れな拍手の音をあげ、そしてさっさと自分達の席に引きあげて行った。あとは踏み荒された寄木の床と、踏みつぶされた蛾の屍の雑然たる舞踏場だった。蛾を踏んで、―私は慄然とした。
 ばさばさと、―窓外に聞え出したのは今度は蛾ではなかった。雨の湿気は湯上りの私の皮膚に滲み入る気がした。私は全身の皮膚でその湿気を吸いながら、一種放心状態で、もう一度踏み汚された寄木の床と、踏みつぶされた無数の蛾とを見ていた。
 
「藤倉さんとお踊りになったのですって?」
「まさか!」
「だって、藤倉さん御自身がそう仰しゃっててよ。」
 藤倉があの晩パートナーとしたのは、ダンス嫌いの私ではなく、踊らないといっていた麻子夫人だった。道家だけは彼自身の言葉を守って、最後まで踊らぬ仲間だった。が私は踊る麻子を見ている彼の目に或寂しさの漂うているのを見逃さなかった。果して、私の耳に入ってきたゴシップによると、麻子夫人は道家のクライスラーを棄てて、藤倉のパカードに同乗し出したとのことである。
 ―蛾だ、蛾だ。
 私は何故(なにゆえ)かいつも道家其人と共に踏みつぶされた蛾の屍を思い浮べる。


  隅の少女

 弱気な久我氏は酔うとなかなか愉快なやんちゃ坊主である。その晩も彼は旗亭(きてい)を出るなり、ダンスだダンスだと、きかなかった。不断が弱気の久我氏だけに、酔った時の彼の意に逆うことは私達には出来なかった。
「ホールは厭だな。」と誰かがいうと、
「K倶楽部を見に行かない?」とその会員になったばかりの少壮代議士がいった。
 何式というのか、とにかく統一のとれた建築の内部は、やはり整然とした、感じだった。三階の舞踏室では老年に近い壮年の紳士達が、此処でだけはさも自信がなさそうに、インストラクターに曳きずられて歩き廻っている。
「あれは今度函館から出た、―」
「H君は政友会だろう。」
「政友会も民政党も此処では、―」
「ダンスはインター・ナショナル、―インター・パーティーかな。」
 だが酔った久我氏はK倶楽部其物の圧迫から早く逃れたいらしかった。彼はとうとう其処では一踊りもせず、円タクを捕えて、フロリダだといった。
 ―芥(ごみ)、芥、芥。
 先ずぴんと来た感じはそれだけだった。いったい何人の二間が、―肺臓に故障のある私は、空気の善悪に対してだけは、ひどく敏感だ。いったい何人の人間が、何本の脚が、―ちょうどインターミッションだったので、ずらりと並んだダンサーの脚が、ホールの壁の腰張りに見えた。罷業の理由の一つに数えられただけあって、ずらりと並んだ脚も真に夥(おびただ)しい感じだったが、がらんとした踊り場のこちらにうようよしている男達の夥しさは、それとは段違(ダンチ)といってよかった。
 “Broadway Mrelody”が始まった。うようよしている男達の中から一人が勇敢に進み出ると、又一人、あとはどやどやと、―壁の裾に残されたダンサー達の顔には、期待と不安とがこんがらかっている。彼女等を拾いに行く男は、見物にとっても救いだ。
 久我氏は同行の映画女優瑤子君を切(しき)りに口説いていた。「ブロードウェイ・メロディー」は既に半ばに達している。
「ね、瑤子さん。」
 瑤子はしぶしぶ久我氏に従った。だが久我氏は踊り場に入るや否や、瑤子を口説いたことなどは忘れてしまったらしかった。彼は男達のうようよの中でまごついている瑤子の方は一顧もせず、まだ壁の裾に残っているダンサーの一人にレゾリュートな歩(あゆみ)を向けた。

 今度は振袖の断髪と久我氏が得意そうにタンゴを踊っている間、芥を吸うことに稍(やや)慣れた私は、ダンサー達の髪や服装やプロポーションなどを仔細に観察していた。仔細に同時に辛辣に、―こんな汗臭い雰囲気の中で、何で彼女と彼女と彼女とはスウェターなど着ていなければならないのか。およそ美的でないスウェターを。スウェターのダンサー、これも確かに復興東京の異観の一つであるのには違いない。―
 だが何という労働、臭い労働、―私の嗅覚は男の体臭や口臭よりは寧ろ機械油や汽船の臭気を堪え易く感じる。それに一回八銭とは、―私は思わず手廻りのものを一回のダンスの報酬で割ってみていた。
 靴下     五〇回
 靴      四〇〇回 
 手提     五〇〇回
 手袋     二〇〇回
 帽子     二〇〇回
 ペティコート 一〇〇回
 イヴニング・ドレス、外套に到っては、換算の限りでない。私は茫然とした。茫然とした私の目に、彼女等のお粗末なワン・ピースや田舎臭いスウェターは、決してもう見にくいものではなかった。すると私には、ロー・ネックのぴらぴらしたドレスをつけ、誇りげに踊っている二三のスターが不思議に思われ出した。其数を八銭において、彼女等は食べなければならない。寝なければならない。着なければならない。一枚のドレスの背後には、いったいどれだけのいたづきと、どれだけのやりくりと、どれだけの屈辱とが隠れているのであろう。私は既に Spleen Tokioの中にあった。
 曇った私の目はふと一点に止って、そして一杯に見開かれた。無心な下ぶくれの顔、鏝(こて)一つあててない頭髪、セーラー型の旧式なスェター。彼女はさっきからあの目立たぬ隅に坐ったままだったのだ。ダンサーの見習いか、彼女は男達の目にとまらないばかりでなく、朋輩のダンサー達からもてんで相手にされていない。孤独なダンサー。彼女の伏せた顔には、待ち設ける気持が微塵も出ていないだけ、好感ばかりが持てる。
「久我クン、久我クン。」
 私は人目を惹くことも忘れて思わず大きな声を立てた。きょときょとと近付いてきた久我氏に、私は是非あの少女と踊ってやってくれとせがんだ。
 臆しがちに立上がった少女は、少しの遊び気もなく、習った通りのステップを踏んでいた。ダンス振りまで楚々たる感じだ。私は何か涙に似たものを呑み下しながら、彼女がいつまでもあのスウェターを着ていてくれればいいと思った。

 次に行った時隅の少女は、―それを書くことは十九世紀の巨匠達に委(まか)せておくことにしよう。私は、―私は昨日ダンス・ホールのマネージャーをしていた伊沢さんにふと偶った。伊沢さんは私の兄の同窓で、女と聞いただけでも涎を垂しそうな男だった。
「愉快だったでしょうね、貴方のことだから。」
「皮肉なものですよ。女達をずらりと前に並べて、僕が訓示を与えるのですからね。」
「聞きたかったわ。」
「新時代のダンサーたるものは、よろしく職業的自覚をもって、―すると不良組が僕の方に秋波を送るのですよ。こいつ僕の弱点を知ってるのかとひやひやしましたがね。実は向うは純然たる職業意識でやっているのですよ。マネージャーさえ抱きこんでおけばとね。大きな誘惑でしたよ。大きな誘惑だった証拠には、僕はとうとう、―新聞では御覧でしょう?」
「しかしダンスはお上手になったでしょうね」
「どうやらチャールストンの出来そこないぐらいはね。」
「チャールストンよりシミーの方が貴方には、―」
「ぴったりし過ぎているので却って気がさして踊れませんよ。」
 別れる時私は彼に、若しフロリダに行くようなことがあったら、あの隅の少女と踊ってやってくれと頼んだ。だがもう彼女はあの隅には坐っていないに違いない。そしておそらくはもうあのスウェターも脱ぎ棄ててしまったに違いあるまい。今は、それに、スウェターを羽織る季節でない。


松田瓊子 紫苑の園 2

2011年09月15日 | 著作権切れ昭和小説
  夕食の後

「ありゃあ、一体なんじゃ?」
 ある日の夕方、用事を思いついてお離れに来た西方婦人に、大伯父さんはひどく眉をひそめて言った。
 婦人は老人の眼のほうを見やると、離れの横のほう、西に面した芝生の傾斜で、紅々(あかあか)ともえる西陽をうけて、少女と子供たちが輪になって、何か奇妙な手ぶり身ぶりをしていた。
「郁さん、あんた正気であんなことをさせておくのかね、あの子たちは一体幾つだと思っていなさるんだ」
 老人の声はいつもの通り、厳(いかつ)く不機嫌だった。
「でもね、伯父様、可愛いじゃございませんか。私、ああして家(うち)のチビたちと一緒に無邪気におどったり遊んだりしているのを見るの大好きですの」
 婦人は子供たちの様子があんまり面白いので、笑いながらいきいきとこう言って、窓からその楽しい輪を見やるのだった。
「うちのチビはよいさ、まだありゃ七つと六つだからな、―しかし女の子らはもうあんなことをさせる間に、縫い物でも手伝わせんきゃいかん、少しは女の道をわきまえさせてやらんか」
「ええ、あれでなかなか考えているんですのよ、それにいつまでもああしておどっていられるものじゃありませんもの、今におどれなくなる時も来るんです。心からああして楽しめるのもほんのしばらくですもの、私、あのくらいの女の子が家の中でめそめそしているより、何の屈託もなくとびはねているほうがうれしいと思いますの」
「へーえ、あんたは呑気じゃ―知らんのかね、私は昨日ちょっと母屋へ用事があって行ったら、下の日本間であの茶目が浴衣の上に跨って箆(へら)をつけておったぞ、お前は幾つになると問うたら、十五だと澄ましておる」
 老人はいよいよ額の皺を深くして書物に目を落した。
 夫人は、今にも噴き出しそうになるのをこらえて、この気むずかしい老人にあついお茶をいれながら、
「お行儀の悪い子ですこと、ええ、もう少し慎むように申しておきましょう―」
「当たり前じゃ」
 もう一度雷のような声がして、お叱言(こごと)は終わりを告げた。
 ちょうどこの時、勉強の合間に下に降りてきた弥生が、台所でフライパンの柄をにぎったまま、笑いこけているよねさんを見て、
「何一人で笑ってるの?」
 と不愉快そうに問うた。
「ワハハ、ごらんあそばせ、ちょっと、あのいつものお澄まし屋の美子嬢ちゃんの面白い恰好を!」
 弥生は窓からのぞくと、例の奇妙なおどりが、今たけなわというところである。
「何してんの!?」
 弥生は呆れ果てて、眉をひそめた。
「あれはね、羅漢サンの進んだのだそうでございますよ、ほれ、ごらんなさい。テレツケテンノヨイヤサとこう両手をかいぐりかいぐり式にグルグルっとまわして、すぐ隣の人の身ぶり手ぶりをまねるのでございますと」
 よねさんは、まるで自分も仲間入りしているようなジェスチャア入りで話してきかせると、弥生はいかにもさげすむような目で、
「一体、なんのためにあんなことをしているの?暇人(ひまじん)ねえ」
「それが、面白いじゃございませんか、明日遠足にいらっしゃるから、明日もお日様出てきて下さいっておまじないの踊りだそうでございますよ。貴女も、そう内にばかりいなさらないで、御一緒にお仲間にお入りなさいましよ」
「プーッ、呆れた、幼稚園の生徒じゃあるまいし」
 弥生は冷たい笑いを残して二階に走り去ってしまった。
「面白味のないお嬢さんだよ」
 よねさんはすっかり興ざめがしたように、ぶつぶつと呟いていた。
 夕陽の丘に、おどりは続いていた。細長いルツ子から肥った横ブ、すらりとした美子、香澄の間にはこれまた小さい汀子、信雄、詩子、時々伴奏に入る万里子のタンバリンのやかましい音―。両手を腰に、ひょいひょいとおじぎをする者、猿飛佐助のような手をする者、お鼻をチョンチョンとつつく者、―芝生にはおどりに合わせて、長いの、ふといの、小さいのと、影も一緒におどっていた。
「皆さん皆さん!今日は靴みがきの日ですよ、おどりが一段落ついたら始めて下さいな」
 台所口から、笑いを含んだ夫人の声が、おどりの輪にとび込んでいった。
「ソーレ!」
 という声と一緒に、少女たちは一斉に玄関からほこりの靴をさげてきていつものように分業でやりだした。
 ずらりと列になって、一番端の人はせっせと泥を落とす、次の人が下みがき、次がクリームをぬり、次の人がフランネルでみがき、次の人が油をつけてみがき込んで仕上げとなる。その早いこと!早いこと!
 詩子はその間を立って廻り、磨き上がったお姉様方の靴を一列に並べると、お離れからはお爺様の靴を持って来るし、も一度玄関に戻って、下駄箱のあらゆる靴をさげてきた。パパの、ママの、いっちゃんのと、
「いっちゃんのもみがいといてあげてね」
 夫人が窓から声をかけるまでもなく、もう靴はちゃんとみがかれてあった。
「ええ、詩子ちゃんがちゃんと持ってきて下さったの、私たちより気がつくのよ」
 香澄はそう言って笑った。
「いっちゃんは、だってお勉強が忙しいでしょう?」
 詩子はいつもの仇気(あどけ)ない面(おもて)をふり仰いだので、ルツ子はこっくりして、
「その通り、その通り」
 と微笑した。
 ピカピカ光る靴を満足そうに運ぶ少女、歌いながら夫人に言いつかったお風呂の水を汲み込む者、割烹着をつけてよねさんの手伝いをする者、―ソロで歌う者もあり、二分で歌う者もあり、三分に変るグループもある。「紫苑の園」のお手伝い時は、こうして楽しい少女たちの歌声で満たされるのだった。歌を歌わなければ仕事ができないか、と大伯父様はおっしゃるけれど―。



 平和な夕べに鳴り渡る、トライアングルの澄んだ音とともに、夕食は開かれるのである。しかし、皆が食堂に落着くまでは、あきさんが玄関にハタキを持って立っていて、一人一人そのハタキで払われるのだ。スカートに芝草をつけている者、靴下がほこり臭い者、頭にごみをつけてくる者が、一人もいないことなど、この園はじまって以来一度だってないことであった。
 食卓には、折々の庭の花が盛られて、御馳走はすっかり用意されている。その夕食が、健康な、元気な少女たちにとって、どんなに楽しく待ちどおしいものであろう。
 いつものならわしのように、高い子供用の椅子にかけた詩子がナプキンを首に巻いていただいたまま小さい可愛い手を胸にくみ合せて、食前の感謝を捧げるのだった。
「神さま、今日もおいしい御飯を下さってありがとう!どうぞおなかのすいた本当に可哀想な子どもたちにもこんなおいしいものをあげて下さい。そして、このお食事に一緒に来て下さい。神さま、詩子おなかがペコペコです。アーメン―」
 誰も決して笑いはしなかった。この小さな女の子のお祈りほどほんとうのお祈りはないのだから。
「ああ、詩子、明朝(あした)の分もお礼しといたから今日は長かったでしょう?」
 詩子は口いっぱいにほおばりながら、真面目にこう言った。
「今日、僕、捨て犬めっけたの、飼ってもいいね?いいね?」
 さっきからいつに似なく黙っていた信雄がこの時、まるで爆発するように口を切った。
「どこで?」
「どんな犬?」
「可愛い?」
「汚かないかしら?」
 皆の視線は一斉に信雄に集まり、さっそく質問の矢がはなたれた。
「汚かあるもんか、とても可愛いんだよ、雑種だけど、あんなすてきなのあるもんか。ねえ、ママ?飼ってもいいねえ?第一、あの犬を放っておいたら、すぐにどこかに持って行かれるにきまっているよ、ねえ?そしたら、疑いもなく殺されるよ、可哀相でしょう?あんなに可愛いのを、殺したら可哀相でしょう?」
 信雄はまったく真剣な面持ちで、夫人に迫るようにこう話しかけた。
「疑いもなくか」
 万里子は、こっそり面白そうに笑った。小さいこの男の子は、とかく生意気な言葉を使いたがるお姉さんたちにとりかこまれているのである。
「パパに伺ってごらん」
 夫人は少し当惑して西方氏をふり仰いだ。
「いいねえ?パパ?ねえ?可愛いんだよ、そりゃあ」
「うん、ノン坊が自分で世話するのならいいだろう。ママに手をかけさせなけりゃいいとしておこう。―どうもノン君は脅迫的だよ」
 お許しが出て有頂天になっている信雄には、パパの最後の言葉が聞えるはずもなかった。文字通り脱兎のごとく走り去ると、勝手口であきさんと争う声が響き、誰も止める暇もなく、クンクンという泥だらけの仔犬を抱いて、眼を光らせて食堂に帰ってきた。
「まあ、可愛い!」
「おお、きたない」
 お箸を捨てて振りむく少女たちが口々に批評をする。
「ノンちゃん、お食事がすんでからでしょう、そんなことをするのは、さ、お庭にはなしておいてご飯をいただいてしまいましょう」
 夫人の言葉に、しぶしぶ仔犬をヴェランダの隅に据えて、信雄は食事に戻ってきたが、その目は絶えず仔犬の方にそそがれて、まるで雨のようにナプキンに御飯粒をこぼしても気がつかずにいる。
「まあ、お兄ちゃまはお行儀の悪いこと、こんなにゴハンツブをこぼしたりして」
 詩子ちゃんが一人ごちして、さっさと席を立ち、何をするのかといぶかっている皆の前に、台所から、大きな猫を抱いて帰って来た。



「やれやれ、何が始まるのかね、詩子、御飯を食べてからにしてくれな」
 パパの言葉をさえぎるように詩子は言った。
「間に合わなくなるのよ、さ、チロチャンお兄ちゃまのゴハンツブをお掃除しな」
 詩子はそう言うと、猫のチロチャンはさっそくこぼれた御飯をペロペロと舐めだした。
「なーる」
 万里子が大袈裟に感心して唸ると、
「おおブルブル」
 ルツ子は本当に身ぶるいして、大いそぎで御飯を済ませ、
「かしこいや」
 横ブは感心して頷いた。
 食事を済ませた香澄、ルツ子、汀子はさっそくどろんこの仔犬をとりまいて興じている。
「ちょっと、愛嬌のある目をしているじゃない?」
 ルツ子がうれしそうな声を立てると、
「ノンちゃんそっくりの―」
 と香澄が言ったので皆笑いだした。
「あら、尾ッポがないわ」
「汀子が頓狂な声をあげる。
「ほんとう!」
「鼻もないわ」
「うそオ!ちゃんとあるわよ」
「あんまり低くて存在が判らないんだわ」
 香澄がそう言って笑った。
「とにかく、長じるとちょっと味のある犬になることはたしかね」
 ルツ子が首をひねってむずかしい声で言う。
「あんまりいじめないでくれよ」
 信雄は気もそぞろで悲鳴に近い声をあげ、ナプキンをつけたままで飛んできた。
 ヴェランダはひとしきり大賑わい。
「犬と猫と、どっちが好き?」
 誰かの出した問いに、
「モチ、犬さ」
「猫よ、きまってる」
「犬よオ、馬鹿にしてるわ」
「猫のほうが利口よ」
 横ブが口を入れる。
「犬のほうが利口にきまってるわ―ほら、リーダーにも出ていたじゃないの、主人のお嬢さんを海から救った犬から、日本の忠犬ハチ公に至るまで、利口という形容詞は犬に限られたものだわ」
 ルツ子が一歩も退かじと論じると、美子が、
「猫は人を見ることを知っているわ、犬は主人なら泥棒でも人殺しでもなつくでしょう?ところがはばかりながら猫は違ってよ。猫はその人格を見てなつくの、決して人格の悪い人にはなつかなくってよ」
 と厳然と言い放った。
「ちょっとちょっと、仔犬さん、風むきが悪くなったわ、あなたしっかり頼むわよ―犬の名誉のために」
 香澄が信雄に抱かれた犬をつつきながら、しみじみ言ったので、皆思わず笑い声を立てた。しかし議論はこれでやめになったわけではない。一方では犬の特性を挙げ、一方では猫の長所を算(かぞ)えてしばらくは夢中である。
「そういうあなたは犬党なの?猫党なの?はっきりきめてちょうだいよ、それによって私の態度もきめるから」
 ルツ子が大真面目で香澄に詰め寄った。
「そりゃ、私ははじめから犬党よ、第一、犬は音楽にとても鋭敏よ、ショパンに『仔犬のワルツ』という曲があるくらいよ。猫は目ばかり光らせるけどまるでだめじゃないの」
 香澄の説にルツ子は手を叩いて叫んだ。
「ヒヤヒヤ!」
「そ、そんなことあるものですか。馬鹿にしちゃ困るわ、第一、猫はねずみを取りますよ、フィッティングトンのお話にあるじゃないの、一匹の猫のおかげで、ねずみのために滅びそうになった国が助かったって」
 万里子が躍起となって、弁じると、ルツ子はその方を睨んで、
「さてはマリボもわが敵だな」
「それに、それに猫はねずみを取ったって猟はできないよ、羊の番だって出来ないよオだ」
 仔犬に膝を泥だらけにされながら、信雄は興奮して、真っ紅な顔を力ませて言った。
「だって、犬はねずみが取れないし、そうしたら、お台所でよねさんが困るわよオだ」
 たった一人、まだ食事が済まない詩子が、いつもに似げなく大きな声でやりかえした。
「詩子ちゃんでかしたり!」
 万里子がよろこんで膝の上のチロチャンを叩いたので、猫は吃驚して逃げていってしまった。
 ルツ子は美子がいないのをいい幸いと、
「美(ヨツ)ちゃんの家の猫ってね、ペルシヤ猫で眼が金と銀だっていうけど、気味が悪いよオ、片眼ずつ色が違ってね、こう、人を見る時、ギロリギロリと光って、うう気味が悪い」
 ちょうどその時、逃げ出したチロチャンを抱いて入ってきた美子が、ルツ子の話を聞きかじって、つんとして、
「いいわよ」
と言った。二人の様子があまり面白かったので、猫党も犬党も、思わず一緒に笑いだして、すっかり議論も喧嘩も吹き飛んでしまったのだった。
「ああ、やっと終局か―やれやれいつまでかかるかと気をもんだよ」
 突然、西方氏の次低音(バリトン)が響いた。
「ノンちゃん、その泥を洗っておやり」
 西方夫人がこう言うと、
「名前をつけてからにしようよ」
 と信雄。
「ピチャンがいいわ」
 ゆっくりと、ぽっつりと詩子がパパの膝から声をかけた。
「ピチャン?!」
 皆、その意味をとりかねて異口同音に―。
「そら、鼻ピチャンだからさ」
 と詩子はなんでもなさそうに答えた。
 またも皆の笑い声。
「傑作」
「詩子ちゃんてユーモリストねえ!」
 皆感心してしまった。
「チェッ、まあいいやね、だけど。さあ来い、ピチャン」
 犬党が三、四人、信雄と一緒にどかどかと部屋を去っていった。
「どうして、こんなつまらないことに、ああ熱中して論じ合えるのかしら」
 部屋の隅で今夜も教科書を開いている弥生が、こう呟いて自問自答していた。
「面白いじゃないの?」
 と汀子が遠慮がちに答えた。
「そうかしら?」
 弥生にも、面白くないでもなかった。しかし、それを素直に面白いと思うことは彼女の自尊心を傷つけることになるのだろう。
「人間は、面白いことだの無駄が言えるくらいでいいんだと思うわ」
 美子が、やや考え深げに言った。
「でも、皆さんのはその分子が多すぎる」
 弥生はすぐに言いかえした。
 西方夫人は、なるほどと思って微笑した。
「それでいいのよ、真面目な時は真面目に考えるもの、いつもいつもそんなに堅くなっていたら人間の心はこちこちになっちまう」
 横ブが口を入れた。弥生はもう黙って本に目を走らせていた。
 信雄も詩子も寝かされた。西方氏は書斎に引っ込んだ。ピチャンも新しいみかん箱の小屋に「紫苑の園」第一夜の夢を結び、チロチャンは万里子の膝の上に眠った。
 少女たちは荒氏の後の静けさで、夫人の持ってきた靴下の籠から一足ずつ手許に取り、我人の区別もなく、あるいは物思い、あるいは小声に歌い、あるいは語り合いながら、穴や鉤裂きをかがっていた。
 鳩時計が九時を告げた。一時間の仕事はおわって、誰言うともなく、皆ヴェランダに集まった。藤棚の彼方の空にまたたく星が美しかったのである。
 開け放たれた窓から、爽やかな夜風が流れ、萌え出た新緑の芽の香りは、窓辺の少女たちをやわらかにつつんでしまった。星明りに芝生も蒼白く、花壇には、花の群れが地上の星と光り、山吹や桜が、夜目にもあざやかに咲き乱れている。
 少女たちの胸はそれぞれ想いにあふれていた。しかし夫人は少女たちの中で、香澄が言いようもない想いに沈んでいる心をいっぱいにしていることを知っていた。



 誰が歌いだしたともなく、少女たちが好んで夕べに、夜に歌うアブトの『たそがれの唄』がソロから二部に、三部になって、グループいっぱいにひろがっていった。
   夜の帳(とばり) 静かに垂れて
   小鳥は塒(ねぐら)に翼を休めつ
   我等も今ぞ御神の御手(みて)に
   うれしうれし安けき夢路
 皆、よくならされているのでコーラスは、いかにもしっくりとして美しかった。
 そして皆は夫人におやすみを告げ、歌は二階まで続いていった。
   月は仄か 静かに暮れて
   窓の戸静けき平和の夕よ
   我等も今ぞ御神の御手に
   うれしうれし安けき夢路…
「どうしてあんな馬鹿さわぎをしたと思うと、まるで別の人のように、沈みきったような様子をしたりして、―一体アサカって、どういう人なんでしょう」
 弥生の幾分反感を持った一人言を、ルツ子はすぐに引き取った。
「あれが本当のアサカなのよ。子供のようおに心からさわぐこともできて、私たちに想像もつかぬ深い心の持ち主なの」
「私、そのアサカが好きだ」
 と美子と横ブは同じようなことを言い合った。


松田瓊子 紫苑の園 (初刊昭和16年)

2011年08月30日 | 著作権切れ昭和小説
松田瓊子 紫苑の園
昭和15年23歳で夭折、翌16年遺稿『紫苑の園』甲林書房より刊行。



  新入生

 薔薇色に匂う春の夕ぐれを、空色の洋服を着た愛らしい少女が一人、スーツケースをさげて静かに野辺の小路を歩いていた。武蔵野のほとりである。
 小路はなだらかな丘の麓で消えていた。丘にはもう緑の草が萌えて、夕空に高くそびえる欅(けやき)の裸木の上に、クリーム色の壁、チョコレート色の屋根の、見るからに心地よい家が建っていた。
 振り返るとあざやかな緑の麦畑と、菜の花の咲く野を流れる細い銀色の小川が、曲がりくねって向こうの丘に消えていた。バラ色の夕映えの中に、富士、秩父、丹沢の連峰が、くっきりと藍色に暮れゆく。
 少女は思い立ったように足をはやめて丘の上の家に辿りついた。家の前には小さな白い立札に、青い字も鮮やかに「紫苑の園」としるされてあった。
 低い野薔薇の垣から、広々とした芝生や、花壇に咲く黄水仙や、プリムローズの花の群れを見ながら、少女-香澄は玄関のベルを鳴らした。すぐに廊下を小走りに来る足音がして、ドアはいい音楽のように鳴るベルの音とともに内から開かれ、この家の主婦の西方夫人が明るい面(おもて)をのぞかせた。
「まあ、いらっしゃい、お待ちしておりましたよ。-さアさアお上がり下さいな、それでもよくお一人でいらっしゃれたのね。ええ、もうお母様から御丁重なお手紙をいただいておりますのよ」
 夫人は少女の手から小さな荷物を受け取り、いかにも気のおけない調子でこう語りながら、スリッパを与えてもう一度、しみじみと新入りの少女を見やるのだった。
 にっこりして会釈をした香澄-それは引きしまった白い面の、ほほえみの美しい、見るからに清楚な少女だった。
 西方夫人は笑顔を頷かせた。自分の想像がまったくあたったことに満足したのである。元来丈夫でなかった香澄の母が、夫の死後すっかり弱って、今度いよいよ療養所に入ることに決まったために、娘の香澄を、亡夫の親友西方氏の家にあずけることになったのである。
 広々した明るい居間に落ちついて、
「母が、一度私を連れて伺いたいと言っておりましたけれど、やっぱりすぐあちらに行ったほうがいいと先生もおっしゃいましたので-失礼いたしますと大変気にしておりました」
「まあ、そんなこと-それは御無理なすっちゃいけませんのよ。あなたのお父様とここのお父さんとは兄弟のような間だったんですもの、ちょうど私たち、姪が来てくれるようにうれしいって、昨夜も話し合いましたの、-それにしても早くお母様がよくおなりだといいのね」
 夫人のやさしい明るい調子に、香澄の眼には泉のように信頼と親しみがあふれた。
「お母様も、私がここにいるのが一番安心だって申しました-」
「そう、うれしいこと。今は勉強の時間で、こんなにしんとしているんですよ。でもね居間に香澄ちゃん目を廻しますよ、きっと-」
 夫人の声はいかにもいきいきとして、楽しそうだ。
「幾人くらいいらっしゃいますの?」
 香澄の眼も期待に輝いた。
「六人-貴女も入れて七人ね、それに家(うち)のチビが二人でしょう?-そうそう呼びましょうね」
 夫人は階段の下に行って、両手でメガホーンをつくって凛とした声をはり上げた。
「皆さん皆さん!新しいお友達よ、そら一昨日お話した香澄ちゃんがいらっしゃったの。ちょっと下りていらっしゃいな」
 ドタドタと物凄いおとがした。下りてきたのかころんできたのか分からないように。―素晴らしい早わざで、一人の少女が目をクリクリさせて香澄の前に立った。
「朝岡香澄さんよ、今度女子大にお入りになる。こちらは栗原万里子ちゃん、今度女学校の三年生―」
 夫人はそう言って、さて今度は誰が下りてくるかしらと上を見上げた。
「ああ、これは東城美子さん―今度四年生」
 美しい貴族的な少女が丁重に頭を下げた。それにつづいて下りてきたのが、背の高い、きりりとした口元の、小麦色の少女だった。
「泉ルツ子さん―そうそうお二人は一緒のお部屋よ、どうぞよろしくね、この方今度五年生」
 夫人の言葉を引き取って、万里子が、
「ルツ子さんだって―ルツベエがほんとよ」
 と肩をすくめた。
「マリボ!」
 ルツ子はさっそくぴしゃりと万里子の背を叩いたが、二人はすぐに笑いだした。
「この通り二人は元気ですよ」
 夫人が、これも笑っている香澄をかえりみて言った時、ドシンドシンと地響きをさせて、丸々と肥った少女が、見るからに人のよい笑顔で下りてきた。
「これ、横井厚子さん―」
「呼び名は横ブー、ブはね、豚サンのブよ」
 万里子がまたも口を入れた。厚子はいっこう気にかけないように、皆と一緒に声を立てて笑いだした。
「次は誰でしょう?―ああ汀子(ていこ)ちゃん、さアさア早く出ていらっしゃい」
 上の方から可愛い顔がのぞいたが、すぐまた引っ込んでしまった。
「万里子ちゃん、連れてきてちょうだい、一人じゃ出てこられないのよ」
 万里子は階段をとび上がって、一番小さい少女の背を抱くようにして下りてきた。
「深谷汀子(ふかみていこ)ちゃん、この子は一番この家でも小さくて、今度二年生―」
「そして内気ですから、あんまりいじめないで下さい」
 と万里子は自分の後ろにかくれている汀子を香澄の前におしやった。
「いっちゃんは、ガッツいていて、とても聞こえないでしょう。―いっちゃん!」
 ルツ子がそう言って大声をあげると、ようやく眼鏡の少女が最後に下りてきた。
「市原弥生さん―五年生」
 弥生は、今までの少女たちとはちょっと別だった。にこりともしないで、頭を下げると、すぐにまた二階にのぼっていってしまった。皆は馴れているとみえて、ちっともそのことを気にとめる様子もなかった。
「もう御紹介するまでもないわね、この家の最上級生におなりのわけよ。でもお年は早生まれだから十八で、厚子さんいっちゃんと同じね、どうぞ仲よくしてちょうだい」
 夫人の言葉に、五人の少女は皆、親しい微笑をもって頷いた。
「お荷物はこれだけ?」
 万里子が不審そうに訊いた。
「いいえ、駅にあずけてきたの」
 香澄は、親しい雰囲気に、言葉もいつもの通りに返すことができた。
「そう、じゃ私とってきてあげましょう」
「いいのよ、私が―」
 香澄がすまなそうにさえぎるのを、夫人は引き取って、
「いいのよ、香澄ちゃんは休んでいらっしゃい。マリちゃんがしてくれますって、じゃ、スケ爺さんと自転車を走らせて行ってきてね。御苦労さま」
 万里子はもう部屋をでかけていた。
「早いこと、―一つ御馳走の容易でもしましょうか」
 今度は夫人が立ちかけるのを、横ブが手で制して、
「オット、小母様(おばさま)、そちらは私が引き受けます」
 と、「よっこらしょ」と椅子から立ち上がって出ていった。
「私も何かしましょうか」
 ルツ子が椅子からスタートを切る形で腰を浮かして訊くと、夫人は笑って、
「まあまあ、そう皆出ていっちゃ、お相手がなくなってしまうわ」
「なるほど」
 ルツ子が神妙な顔をして腰を下ろしたので、香澄はいかにも面白そうににこにこした。しかしその黒く聡明な眸(ひとみ)は、(なんて親切な方々だろう!)という感謝に充ちていた。
「女子大は今度お入りになったの?」
 美子が問うた。
「ええ、―」
 香澄は可愛く首をかしげて頷いた。
「何科?」
 今度はルツ子が訊いた。
「英文科、―」
 なぜか少し恥ずかしそうに香澄が答えた。
「まあすてき、私も入りたいの」
 ルツ子の眼がいきいきとおどりだした。
「同じお部屋でよかったのね、ルツ子ちゃん、少し香澄さんに教えていただくといいわ」
 西方夫人は、ソファに新入生を中に目白押しに並んだ三人の少女たちをほほえましく見やって言った。ルツ子は頭のいい少女だった。しかし、夫人は、今度香澄が抜群の成績で、女子大に入学したこともよく知っていた。
「本当!すてき!」
 ルツ子はソファをバウンドさせてとび上がるようにして言うと、香澄は頬をそめて、小さくなった。
「駄目よ、私なんかに!」
 ちょうどこの時、廊下を走る足音がして、ドアが開くと、まるでころがるようにして、小さな男の子が部屋に入ってきた。そして四辺(あたり)を見る暇もなくソファの後ろにかくれた時、ドタリドタリとよく肥った料理番の女中のよねさんが片手におしゃもじを持ったまま、部屋にとび込んできた。
「こーれ、坊ちゃま!ほんとに仕方のない。出ていらっしゃいまし!おかくれになっては卑怯でございますぞ!」
 よねさんの目が、声が、あまりにすさまじいので、少女たちは笑いだしてしまった。
「何をしたの?」
 夫人はソファの下から母のほうに手を合わせている小さな息子のおどけた様子と、仁王立ちになっているよねさんを見比べながら問うた。
「またでございますよ、私の仕事の忙しい時に、チョロチョロと出ていらっしゃって、お鍋の蓋を開けてばかりいなさる。あれじゃいつまでたっても御馳走どころじゃございません―おや、こちら様は、昨日お話しの新入生のお方で?」
 プリプリとまくし立てていたよねさんは、ソファで唖然としている香澄を見つけて急に肥った人のよい笑いを見せた。
「ええ、これがお料理係のよねさん、こちらは香澄さんよ」
「それはそれは、どうぞよろしくお願いいたします。―これこれ、坊ちゃま、よねは忘れはいたしませんよ」
 やさしい声からまた急にプリプリ声に変って続けた。
「今度あそばしたらこの間の坊ちゃまのして下さったグリムのお話みたいに、やりますぞ!あの婆さんみたいに一緒に坊ちゃまも鍋に入れて煮てしまいますからね」
 おどけているのか大真面目なのか、よねさんは皆の笑いを後にまたどんどんと台所に去ってしまった。
「さアさア出ていらっしゃい、香澄さんがいらっしゃいましたよ」
 夫人の声と、ルツ子の助け船で、はアはアいいながら、真っ紅な顔をして信雄(のぶお)はソファの下から出てきた。
「これが家の坊や、―七つになる紳士です。信雄、呼び名はノンちゃん」
 母様の紹介に、信雄は素顔でも、笑っているような愛嬌たっぷりの目をして、
「いらっしゃい!」
 と勢いよく香澄に声をかけた。と思うとさっそく、
「ねえルッちゃん、よねさんはケチだよ。いくら匂ったって、お鍋の中のものはへりはしないよ、ねえ?」
 ルツ子のほうに問いかけた。
「よろし、よろし、あんたの言うことに間違いはない、―だけどよねさんの時はだめよ、マリボや私の時はいくらでも匂わしてあげるけどね」
「ははァ、やっぱりルッちゃんは話せるよ」
 信雄は我が意を得たりと、まん丸い顔をしゃくり上げて、ソファにふんぞり返った。
「ママ、ママ」
 また新しい声がドアの向こうに響いた。ゆっくりとした、いかにも仇気(あどけ)ない声である。
「ああ、詩子(ふみこ)ちゃん」
「ねえ、胡椒は入れるんですか、それとも入れないんですか、―ってブウちゃんが、―」
 ドアのノッブまでしかないと思われるような詩子が、小鳩のような目をのどかせて問うた。
「何に?」
 母親の問いに、同じことを問いかえして、さて困ったように首をかしげた。
「それを聞き落してきたの、よしよし、それより、それよりこの新しいお姉ちゃまにこんにちはをしてちょうだい、―これが詩子、六つになりました」
 母に抱かれるようにして香澄の前に来た詩子、―紺の短い洋服に、ピンクのエプロンをしめて、頭には大きなリボンがゆれている―少し恥ずかしそうに、大きな眼をあげ、蕾のような唇を笑ませて…。
「まあ!可愛い…」
 ごく小さな声だったが、香澄は思わずこう言って、詩子の肩を抱いた。
「お友達になってちょうだい」
 潤いのある、やさしい声だった。詩子は、第二のママでも見出したかのように、その眼をあげて、新しいお姉さまを見上げ、にっこりしてこっくりした。
 西方夫人は、胡椒を何に入れるのか入れないのかをたしかめに部屋を出て行かなくてはならなかった。
 こうして、朝岡香澄は「紫苑の園」に入園したのだった。

 香澄はルツ子と同じ部屋に入れられた。二階には四つの部屋があって、香澄とルツ子の部屋の隣が美子と万里子と汀子の三人の下級生、お向かいには厚子と弥生、その隣では、家中の仕事やお掃除を一手に引き受けている女中のあきさんが、少女たちの夜の瞠りをしていた。あまり夜更かししないように、部屋をちらかさないように―と、なかなか厳しいのである。
 下には楽しい広い居間やヴェランダや食堂があり、少し離れて西方氏夫妻の書斎や居間や二人の子供部屋があった。裏にはこぢんまりした離れがあって、西方氏の大伯父にあたる養父が住んでいた。そこには、小さな女中さんの梅さんと、家のまわりの仕事や庭の手入れや買物やお使いをする、皆がスケ爺さんと呼んでいる―アメリカに長くいたという爺やが、この大伯父と一緒に住んでいた。
 その夜、香澄の荷物を片づけるのを手伝いながらルツ子はこんなことを話してくれた。
「『紫苑の園』なんて、きれいな名前ね」
 香澄が言うと、
「そうよう、小母様がおつけになったの、秋になると、お家は紫苑の花で覆われてしまうの。そしてこの花が小母様は大好きなんですって」
「まあ、いいこと。それでいつからどうしてこんな寄宿舎のようなものをおつくりになったの?」
「そうね、もう三年くらい前だったかしら、私のママはここのうちの小母様のお姉様と、とても仲よしだったの。それでママに聞いたんだけど、小母様はね、こういきいきした女の子と過ごしたくてたまらなかったんですって。それで、大伯父様がお金持ちでいらっしゃるんで、お願いしてここを建てておいただきになったんですって―大伯父様って、ちょっと面白いわよ、小母様のお願いなら聞いて下さるの、小母様に信用があんのよ、とにかく、明朝一緒にお離れに行ってみましょう」
 ルツ子はおどけた顔をして笑った。
 三十分もたつと、香澄の部屋と、万里子達の部屋の灯(あかり)が消された。しかしまだお床の中の話は続けられていたのである。
「私、香澄さんて、しんから好きだわ、きっと、たしかにしんそこいい方ね―そして頭のよさそうな人ね―いいえ、いつもにこにこしているけどさ私、いろんなこと教えてもらおう」
 向こうのお部屋のお床の中で、横ブはこう呟いていた。
「そうでもなさそうじゃないの、―皆夢中になっているけれど、私そうは思えない。それにあの人のお母さんはとってもひどい病気だってね、―」
 弥生は、まだ机に向かったまま、冷やかにこう答えた。
「可哀相にね、どんなに心細いかしら―でもあの人はなんて明るく、いきいきとしているんでしょう、私あんな人好きだな」
 横ブは、眠そうな細い目をして、感激していた。
「………」
 答えはなかった。弥生は、もうペンを動かしているのである。
「いっちゃん、もう寝ようよ、もう十時近いわよ、春休みだっていうのに、たまんないなあ」
 横ブは灯がまぶしいので、ブツブツと言いだした。
「もう二日で始まるんですもの―貴女、また呑気すぎるのよ、幾何はぐんぐん進むってよ」
 弥生はノートから目を離さずに、いつもの潤いのない声でこうやりかえした。
「………」
 もう、横ブはすうすうと寝息を立てていた。
 ここは隣の部屋―。
「今度の方すてきな人ね、いい人でよかった、―今までいっちゃんがお姉さん役で、なんでも私たちの先生代りをやったけど、今度はどうしてもあの人ね、香澄さんね、素晴らしいな」
 もう電気を消してお床の中で、万里子はまったく満足そうに言った。
「そう、本当にやさしくて、可愛くてそれでいてウイットがあるようで―とにかく、よくお出来になりそうだわ」
 気むつかしい美子も、万里子にまったく賛成だった。
「私、ここにあんな方が出来て本当にうれしいわ、どうしたってあんな方が要ると思ってたの、―お父様もないんですって、そしてお母様は、療養所の『光の家』とかにいらっしゃるんですって―可哀相ねえ、それなのに、なんて快活なにこにこした方なんでしょう―」
 無口な汀子までが熱心にこう語った。新入生に対する同情で、彼女の両の眼には涙さえ浮かんでいた。
 話し声がちょうど途切れた時に、小さな足音がして、ドアがスウッと開いた、ハッとして目をあげた三人の前に、小さな白いものが、闇の中にボンヤリ浮んだ。
「キャーッ!」
 万里子が物凄い悲鳴をあげた。美子も汀子も、蒲団の中にもぐり込んでがたがたと慄(ふる)えだした。
「誰か!誰か来て!」
 隣の物凄い叫び声に、香澄とルツ子は、押入れから登山用の杖を持ち出して、そっとドアを開けてのぞいた。
「なーんだ!いやだ!」
「どうしたの!ノンちゃん!」
 二人はあてがはずれて思わず大声をあげた。隣のドアの前に、長い白い寝巻のままの信雄が立っていたのである。
 隣の床の中から、もぞもぞと三つの顔―。
「何しに来たの?ねぼけてんの?」
 信雄は目をこすりこすり香澄を見上げて、ほっとしたようにねぼけた声で言った。
「僕、お部屋、間違ったの、香澄姉さまがまだチャンといるかどうか見に来たんだよ」
「まあ、どうも御苦労さま、大丈夫、消えないわ、ノンちゃん!」
 香澄は思わず信雄のくちゃくちゃになった頭を愛撫しながら、微笑を含んでこう言った。
「いるって!ノンちゃんだねえ―ちょっとちょっとマリボ、も一度さっきの声、張り上げてごらんなさい、日誌につけといてあげるわ」
 ルツ子は笑いをかみ殺して、隣の部屋に首を入れた。三人は間の悪そうな顔をして出てきた。
「香澄ちゃんの存在をたしかめに来たのか―人騒がせなノンちゃんだ」
 万里子は、きまり悪さを押しかくして、ぶつぶつと呟いた。
「君が勝手に変な悲鳴をあげるんだもの。僕のほうが吃驚してしまったや」
 信雄は眠くてたまらないのに、負けずとねぼけ声を張り上げたので、暗い廊下に賑やかな笑いがあふれた。
「なんというお騒ぎで!坊ちゃま、こんな真夜中に、何しにいらっしゃいましたか」
 あきさんが、小柄の体を下から駆け上がって、この騒ぎの中に口を入れた。
「僕、もう明け方だと思ったんだよ」
 信雄は思わぬ騒動になって、幾分困惑してこう弁解した。
「無理もないわよ、ノンちゃんたら、もう三時間以上も一眠りしたんだものねえ」
 万里子が面白そうに笑いだした。
「まあ、そんなことおっしゃっている時ではございませんよ、坊ちゃま、サアお休みあそばせ、皆さんも十時ですよ、もうおしゃべりはおやめになって、さアさアお城に入って―おや、女史はまだですね、これこれいっちゃん、お時間ですよ、そんなにお守りにならないと電気のスイッチを止めますよ」
 あきさんは早口でまくし立てながら、寝巻の子供たちをドアに追い込み、弥生のドアをドンドン叩くと、半分とろとろした信雄をかついで、さっさと階下に下りていった。
 そうして、ようやくこの家がしずまった頃、彼方の森から出た晩(おそ)い月が、「紫苑の園」を蒼白く照らし出した。子供たちは皆安らかに熟寝(うまい)に入った。ただ一つ下の書斎に灯がともって、西方氏が厚い本を読むかたわらで、夫人はたくさんの穴のあいた靴下の入った籠を片方(かたえ)に、一足ずつ丹念にかがっていた。うつむいている聡明な眼は、何か内からあふれる想いに輝いて―、今日の新しく入った少女について、夫人の希望や想いは限りなく展(の)べられていたのである。



  小川の岸で



 お母様
 昨日無事にここに着きました。お母様はその後お変りいらっしゃいませんか。どうぞ昨日のようにいつもお元気でいらっしゃって下さいませ。
 きっと早くこちらの様子がお知りになりたいでしょう。ほんとうにほんとうにいいところです。西方の小父様も、小母様も、私の知っている小父様小母様の中で一番いい方のような気がいたします。昨夜、小父様はさっそく、お父様のお話をして下さいました。お二人とも、本当の叔父様方としか思えません。
 「紫苑の園」の皆さんもそれはそれはいい方です。お母様はきっとお知りになりたいでしょう?マリちゃんという面白い方が紹介して下さったのや、ルッちゃんが話して下さったことを、そのまま書いてみましょうか。お年の順からいくと ̄。
 一、市原弥生さん(新五年生、十八歳)お友達はいっちゃんと呼んでいます。この方はそれは勉強家なのですって、きっとお出来になるのでしょう。女史って皆さんおっしゃいます。それからピアノがお上手なのですって。眼鏡をかけてスケッチしましょうか。ちょっとこんな方です。お境遇は、お気の毒な方なのですって。本当のお妹さんがお一人と、後はたくさん下にお母様違いの御兄妹がおありになるそうです。
 一、横井厚子さん(新五年生、十八歳)横ブ―とても見ているだけで面白いような陽気な方、丸々と肥っていて、人のいい、それでいてどこか短気な。この方が走ると地震のように地響きがします。お料理がお上手です。ここの詩子(ふみこ)ちゃん(六つ)(とても可愛いお嬢ちゃん)はこの方のことをブウチャンって言うの。お国は岩手ですって、時々、ズウズウ弁が出そうになるのですって。たくさん御兄妹があって、もう長いことこの家にいるお友達でも、どの御兄妹からお手紙が来たって言われても分らないくらい、大勢なのよ。ちょっとこんなに愛嬌があるの。
 お母様からお手紙が来ると、お床の中にまでお手紙を持っていって、何度も何度も読んで、抱いて寝るんですって。ホームシックにかかって、よくお泣きになるんですって、―でもいつもは笑いが止まらないほど笑い上戸。
 一、泉ルツ子さん(新五年生、十七歳)―ルッちゃん、ルツベエ―この方、香澄と同じお部屋で、それはいい方。浅黒いきりツとした方で、お利口そうです。それでいて、可笑しなことをよくおっしゃって、香澄とはもう仲よしになりました。マリちゃんが紹介した時に、「この人はなんでもできる人です。今ヴァイオリンを習っていますが、これはまだ人に発表していません―いいわよおこらなくたって―。なかなか正義派で、物事に容赦しません、おっかないです」ですって。でもちっともおっかなくなんかありません。この方のスケッチはちょっとむつかしい。お家は伊豆の方ですって。お父様は学者、お母様、お兄様と弟さんがいらっしゃいます。お家はそれは楽しいらしくよくお話しして下さいます。それでも「紫苑の園」もやっぱり離れられないのですって。
 一、東城美子さん(新四年生、十七歳)―美子ちゃん―美(ヨツ)ちゃん―貴族的な方、お名前のように美しい方です。ルッちゃんに言わせると、なかなか鋭くてぴりぴりしていて、議論するといつも他の人と正反対でとても面白いのですって。でも見たところは、本当にやさしそうな方。東京近郊の大きな実業家のお嬢様なのですって。お母様がしっかりした方で、こうした団体で質素にさせたいからって特別に頼んで、入れておもらいになりましたとか。日本舞踊が玄人に近いそうです。
 一、栗原真理子さん(新三年生、十五歳)―マリボ、マリちゃんなど―その名のごとく、この丸い目が事ごとにクリクリします。愉快なとびはねてばかりいる面白い方です。茶目で、世話好きで。ルッちゃんに言わせると、「茶目で人気もので、絵と踊りが上手です。でもうっかり傍へ行くと、さっそくコテで髪をインデアンの女の子みたいにチリチリにされますから御用心」ですって。ルッちゃんとよくつつき合いっこをしたり、睨みっこしたり、皆を笑わせてばかりいます。途方もないおいたをすることもあるのですって。お家はわりにお近くで御兄妹は三、四人いらっしゃるようです。
 一、深谷汀子さん(新二年生、十四歳)―汀子ちゃん―恥ずかしがりで内気で、可愛い方。あんまりおとなしいのでいつでもその存在が分らないような方。どこで見ても本を読んで居る本気狂(ブック・ウアーム)さん。気が小さくて、何にでもおろおろしだすの。市原さんとルッちゃんが論じ合おうものなら、心配して涙をためているの。一人っ子なのですって、あんまり内気で困るので、お父様が修行のためにここにお入れになりましたとか。お友達はこれだけ。ここの家の坊っちゃんの信雄さん―ノンちゃん―はとても面白いお茶目なお子さんで、家中の騒動はいつでもノンちゃんに発するってルッちゃんのお話です。詩子ちゃんはこんな可愛いお子さんがあるかしらと思うようなお嬢ちゃん。よくお台所でお母様やねえやや、ブウちゃんのお料理のお手伝いをしたり、小さな茶目なお兄さんのお世話役になってくっついて歩いたりしています。お離れにいらっしゃる大叔父様っていう方は、いつ拝見しても、ぶすっとしたこわいお顔をしていらっしゃって、女の子がうるさくて大嫌いだとおっしゃるような方。お頭(つむ)がよく禿げていて、大きなお爺様、ルッちゃんだけ、よくお離れに訪問するのですって。あとの方は敬遠していらっしゃるの。ルッちゃんは「愉快なおじいちゃん」って言ってます。そして見かけより人がいいのですって、私もそんんな気がします。
 ほかにアメリカに長くいたという、まるでグリムのお話からとび出してきたような、白髪のふさふさした可愛いおじいさんがいます。義助爺さんというのを略して、スケ爺さんて皆が呼んで親しんでいます。いつもにこにこして、背を丸くしています。とてもお話上手なのですって。その人と正反対に、国粋主義者のあきさんという女中さんがいます。小柄で、何をするのにも早くて、テケテッテッと仕事をする。とはマリちゃんの言い草。髪の毛一本乱さず、顔もぴかぴかにみがいていて、お家の中でもその通りいつもツルツルにしておかないと気がすまないのですって。だから、皆よく叱り飛ばされています。
 も一人の女中さんは、こんなにずんぐりしていて、クリちゃん式の目をした、髪の毛が一本一本おどっているような、実に愉快な料理番の小母さん。よくかんかんに怒るくせに笑い上戸で、どこかとぼけていて、面白いのよ。そして、「紫苑の園コーラス」のアルトの一員なのですって、いつも、それは凛とした声で歌っています。このよねさんの笑い話を一つしてみましょうか。
 今、園では、皆「朝風」(東京=ベルリン間の飛行)の熱でうかされています。何時間かかるかって、皆懸賞に出したりして(ノンちゃんや詩子ちゃんまで、ちゃんと飛行時間を投書しています)。それで皆がその話で夢中になっていたお食事の食卓を、片づけながら、よねさんが大真面目で曰く、
「フーム、フーム、日本人で南のほうを飛んで行ったのははじめてだって、―フーム、なんとか、無事に飛ばしてやりたいものですがねえ!―でもホレ、いつでしたっけ、あのアメリカ人の夫婦で飛んで来た、ハンドパークっていう人たちがあったじゃございませんか―」
 まあ、どんなに私たち、笑ってしまったでしょう!もちろん、リンドバーグのことだったの。それが、あの目を大きくして、大真面目なのですもの。ルッちゃんは今も、お部屋でハンドバッグを見てプッと吹きだしていました。でもよねさんは別に怒りもしませんでした。しじゅうなのですって。皆、ちっとも悪気がないので、それは気持ちがようございます。もう一人、小さな梅さんて女中さんは、ポチャポチャしたおとなしい人です。
 ここから学校までの道は、本当に美しいのですって。皆さん自転車でお通いになります。香澄ももちろんそうするつもりです。香澄ももちろんそうするつもりです。
 私たちのお部屋からの眺めはそれはそれは美しゅうございます。小路の桜が、七分咲きで、もも色のかすみのように遠くまで続き、広々とした野の彼方に、こんもりした「涼風の森」だの「パラダイスの丘」だの「薫風荘(くんぷうそう)」だのって皆さんの名をつけられた森や丘が点々としております。そしてその間には、菜の花の畑や麦畑があざやかに展(の)べられ、やなぎの新緑のもえる並木の下を、銀のような小川が流れています。さっき、皆さんと御一緒に散歩にまいりました。そうしたら、ねこやなぎの大木には、いろいろ面白い名前のついた穴があって、皆さん、それぞれ別荘を持っていらっしゃるのよ。すてきでしょう!そこに行って本を読んだり、お話をしたり、沈思黙考したりする(これ、マリちゃんの言葉)のですって。なんて、楽しい方々でしょう!小川はその下を流れて行き、ふちにはすみれや勿忘草(わすれなぐさ)の小さな花が咲いています。裏には、まだまだ楽しい場所があるのですって。皆さんはよってたかって香澄にいろいろのことを教えて下さいますので、たった二日間の間に、もうずいぶんいろいろのことを覚えました。そして皆さん御親切で親しみ深いので、香澄はもう長いことこのお家にいるような気さえいたします。お母様、どうぞ御安心なさって下さいませ。そして香澄は早く三年間の学生生活を済ませて、二人の理想のように、この近くの小さな明るいお家に、静かに平和に暮らしましょうよ。香澄はその時のことを思って、今、お母様と御一緒にいられないのを慰めています。
 日曜日には、きっとたくさんの面白い楽しいニュースを持って「光の家」に帰ります。どうぞ、香澄のために、香澄の分までもお体をお大事に。私のことはちっとも御心配なさらないでね、この通り楽しく過ごしておりますし、これから勉強するたくさんのことや、またその先にある、お母様との楽しいホームを想って、希望にあふれております。ほんとうにお大切に。おやすみなさい。
  四月八日夕べ                  香澄
   なつかしいお母さまへ
P・S―大事なことを一つ書き落しました。私の呼び名を詩子ちゃんが作って下さったの、なんていうとお思いになって?!―アサカ―って。なぜ?って訊いたら、「アサオカカスミだからアサカでしょう?」ですって。これは皆さんのお気に入ったので、もうどなたもが香澄のことをアサカアサカってお呼びになります。香澄も好きです。
 お母様は?
 今度こそさようなら、おおきれい、今、雲がバラ色に染まってきました。
 今晩は、私の歓迎会をして下さるので皆さん下にいらっしゃってお支度していて下さいます。学校は明後日からです。



 それは学校も始まった、四月中ばの土曜日の午(ひる)下がりのこと―。 
 まだ、お休みのなまけぐせの消えない子供たちは、春になると毎日のように訪ねてくる例の小川の岸の、ねこやなぎの別荘にやってきた。
 昨日までの雨ががらりと晴れて、今日はまたすてきな青空である。少女たちは、それぞれの仕事を持って、大木には二人くらいずつ陣取っていた。このねこやなぎの株には、いろいろの名前がついていた。二つ三つ挙げてみれば「白銀(しろがね)の館」とか、「梢舞(しょうぶ)荘」とか「洪陽殿(こうようでん)」とか、なかなかいかめしいものばかりである。
 香澄とルツ子は本を読んでいた。美子はレースの編み物を、厚子は毛糸の編み物の手を動かし、万里子だけは手ブラで―もっともスケッチブックは持ってきたのだが、とうに背中に敷いてしまって―四辺(あたり)を眺めていた。しかし本を読む連中も、たびたび、手の本を忘れてあたりに目をひかれるほど、いかにも明るくしずかなながめであった。
 野面にもえ上がる陽炎(かげろう)、桜のかすみ、菜の花の黄金(こがね)の畑にとぶ蝶の群れ、まばゆくきらめいて流れる小川、すみれ、桜草、おきな草の群れ、はては光る木々の梢、光をふくむ白雲、青空にそびえる柳の梢には、もうさみどりの芽が二、三寸ものびて―、
「ああ、汝小川よ、ひねもす流れて何処(いずく)へ行くや……」
 感極まった万里子の独語(ひとりごと)に、皆あきれて目をあげた。万里子は今しも、「梢舞荘」から体をのり出して、小川をじっと見つめているのである。
「ちょっとちょっと、よしてよ、何そんな感激してんの」
 ルツ子が恐ろしく低い声で言うと、
「感じたのよ」
「沈思黙考はいいけど、そんな変な声出されるとひやひやするわよ。飛び込むのは少し待ってね、まだ水が冷たいから」
 ルツ子の言い草に、皆プッと吹きだした。
「それより、ほうぼうを見てごらんなさい。まあ、あんまりあったかくてうとうとしそうだ―あれちょっとごらんなさいよ、みんな窓が閉まってんのにいっちゃんの窓だけが開いてるよ。こんないい天気に、何が面白くてガッツクんだろう」
 横ブが吐息まじりに嘆じている。遠く望む丘の上の「紫苑の園」の二階の窓は、皆用心よく閉ざされているのに、弥生と厚子のいるすみの部屋だけが一つぽっかりと開いていた。
「先学期、あの方一番だったから、今度も一番になろうとがんばってんのよ」
 美子が言うと、横ブはまた溜息をして、
「一番の人なんてみじめだなア、いつでも下の人においこされやしないかと思って、戦々競々としていなくちゃならないでしょう、―そこにいくと私なんかとってもいい、先に何人でもおいこす人がいるんだもの、もっともいつも同じとこだけどさ。でも楽しみっていうものがあるでしょう?もしかすると一人でも二人でも上になったと思うとさ」
 横ブの言い草にまたも皆笑いだしたが、
「ルッちゃん二番だってねえ」
 と美子が口を入れたので、吃驚して皆そのほうを見やった。
「へーえ!一体あなたいつ勉強してんの?」
 横ブが感に耐えぬごとくルツ子を仰ぎ見た。
「二番だって?!」
 汀子もとうとう本をなげ出して声を立てた。
「ううん、そんなこと知らないよ、―そんなことないでしょう」
 ルツ子は大真面目で首を振る。ルツ子はそれほど、いつも遊んでばかりいる子だった。
「みっともないわよ、お点の話なんかやめましょうよ。いかにも女学生じみていて」
 とルツ子が顔をしかめると、香澄も内心、感心しながら笑って言った。
「いやにセチがらくなってきたわね」
「それはそうとね、私、やっぱり英文科へ行こうと思ってんの」
 ルツ子は今度は熱心に香澄に話しかけた。
「いいわ!一緒にやりましょうよ!」
 香澄の眼もいきいきと輝きだした。
「私も課外の研究時間に、やさしい英語を少し読ませてもらったけど、あんなのがぐんぐん読めて、こう、海綿が水を吸い取るみたいに吸い取ることができたら、すてきだろうなア!」
 ルツ子の黒い目も光った、そして、
「貴女、たくさん、英詩の本を読んでいるんじゃない?」
 と言うと、香澄は呆れたように目を瞠って、
「たくさん?それどころか、これっぽっちも読めないよの。ただ、お父様やお母様の若い頃読んだ本で印のついたのや、むつかしいところに註がたくさんついているのをたよりに、少しずつ読んでいるの、―これが手ばなしで、それこそ好きなもの、ぐんぐん読めるようになったらすてきねえ!」
「一生読んでいてもつきないかしら?」
「もちろんそれでもありあまってありあまって―でしょう。それでも目の前に、私の知らないことがこんなにひろがっていても、私がまだその世界を針の先でチョンとつついたほども知らないと思うと、私、胸がふくれ上がりそうに勇気が出てくるの」
 香澄の頬は熱心のあまり美しくバラ色に染まっていた。
「フーム」
 感心して唸るルツ子。
「わたしゃ、そんな広い世界思っただけでもむつかしそうで力がぬけちまう、ペシャーンとしてしまう―」
 横ブが、「洪陽殿」からなさけなさそうな大声で応じた。またも笑い声―。
「そんなに悲観しなくたっていいわよ。横ブには横ブの行く道ありじゃないの」
 真理子がなぐさめ顔で言うと、
「そうね、マリボはなかなか若いのに哲学者じみたこと言うわね―それはそうと、さっきアサカの言ったセチがらいということから、私、またいつものこと考えだしたんだけどさ、もしも、私の家が急に没落したときに、どうしようってあなた方考えることない?」
 横ブがこんなことを言いだした。
「あるわ」
 そう答えた香澄の面(おもて)は、真剣の色がみなぎっていた。
「そりゃ、あるわ」
「私も」
「私だって」
 皆、口々にこう答えた。
「勉強が好きで、先生になれたり、何が仕事ができる人はいいけど、たとえば、アサカやルッちゃんの先生とか、家庭教師とか、英語の翻訳業とか―これなかなかいい仕事だってよ―それから美ちゃんの日本舞踊や声楽の先生とかさ、マリボのお得意のタンバリンおどりの先生とかさ」
 横ブが大真面目にかぞえ上げるのを、真理子は、さっそく、
「先生になんかなれないよ、せいぜいあの赤い着物着たチンドン屋になっておどるくらいがせきの山さ」
 とまぜっかえした。
「それだって商売じゃないの、私ったら、ホラ、なんにもできないわ、―先生なんてして、これ以上頭つかうと思っただけで頭痛がするもの、―」
 横ブがいつになくしょげている。
「でも貴女はお針がとても上手じゃないの、お針すればいいわ、あれとてもいいんですって」
 香澄がこれも熱心に勧めた。横ブがやっとほっとしてにこにこしだすと、ルツ子がいかにも可笑しそうに、
「まるで私たち、貧民窟の子たちね。―それはそうと、それよりアサカ、あなた何か書いているんでしょう?」
 ルツ子が思い立ったように、急に眼を輝かせて訊いた。香澄は、
「う……ん」
 と唸りながら、両手でしきりと頬をこすりながら、
「そんなでもないの」
 とわけのわからない返事をした。
「素晴らしいわ!」
「やれやれ」
「そう、我々、『紫苑の園』から一人くらいは、日本のスピリ夫人(『ハイジ』の作者)、オルコット女史(『若草物語』の作者)が出てもいいわね?!」
 ルツ子が夢中で別荘からのり出してきた。
「すてきねえ!」
 汀子が期待に輝く面をあげて、
「それで、マリちゃんに挿絵を画いてもらって―ね?」
 という、万里子が目をクリクリさせていると、
「そうそう、そいで、美子嬢と汀子嬢の序文でさ、私がこの近くに『紫苑の園』印刷所っていうのを建てて、そのお話を印刷してあげよう」
 すかさずこう言ったのはルツ子だ。
「そしたら、その印刷所の女工に私やとってね?ルッちゃん」
 横ブが大真面目でさっそく、就職方を依頼した。
「抜け目が無いなア」
 皆の笑いの中に、ルツ子が唸る。香澄は、もう真っ紅になって笑いこけながら、それでも、
「その印刷所、どうして建てるの?」
 と訊いた。
「だからさ、アサカが本でもうけたお金を寄付するのよ」
「すてき!」
「賛成!」
「アサカバンザーイ!」
 皆、『夢』にうかれて持っているものを振り上げた。その拍子に、一番有頂天になっていたルツ子の手の本がジャボーンと小川に墜落してしまった。
「ああッ!マリボの身投げ!」
 横ブの物凄い悲鳴を上げて小川をのぞく。爆発する笑い声、―。
 それから総動員で働いた。ある者は棒で小川をかきまわし、ある者は勇敢に靴下をぬいでまだ冷たい小川に恐る恐る入っていった。五分後の後には、ぐしょぬれになったディケンズの『デヴィッド・カッパフィールド』の第二巻の引き上げ作業が終わった。
 その日、お茶の時間時家に帰った子供たちが、まだ玄関も入らぬ前から、大声で、口々にこの午下りの『デヴィッド』の身投げ事件を家中に鳴り響かせたことはいうまでもない。