明治 大正 昭和 著作権切れ小説の公開 

魔風恋風 エンゲーヂ 悪魔の家 君よ知るや南の国 チビ君物語 河底の宝玉 紫苑の園 など

チビ君物語 2

2011年09月30日 | 著作権切れ昭和小説
 おいしい玉子焼



  1

「じゃ、行って来ます」
 肺嚢を背負って脚には新しい茶色のゲートルを巻きつけ、手には昨夜一晩中かかってピカピカにみがきをかけた銃をシッカと握った修三さまが、お玄関で勇ましくアイサツをした。
「気をつけて下さいヨ。又先達(せんだって)の時の様に川におちたりしないでネ、まだ寒いんですからね」
 奥さまが幾分か心懸りの調子で注意をなすった。
「大丈夫。なアに、あの時は狂犬さえ出て来なきゃ川へなどワザワザツイラクしに行くんじゃなかったんです」
「ですからさ、狂犬になんか、からかわないで下さいよ」
「かしこまりました。オイ、利恵子、土産は羊カンだナ」
 帽子をかぶり直しながら、奥さまの横に立って見送っている利イ坊さまに声をかけた。
「あんな事ばっかし云って。お兄さんのお土産は出かける時だけよ、いつも本当に買って来て下さったタメシがないじゃないのオ」
「そうハッキリ云うなよ。今度こそはたしかさ、帰りに日光の方へ廻るからね、羊カンでも絵ハガキでも、木彫のお盆でも、何でも御望み次第だ」
「お羊カンがいいわ、わたし」
「初子は?」
「……」チビくんはドギマギした。
「矢張(やっぱ)し羊カンか。女の子は甘いもんがいいな。そだナ、ヨシ、引受けた」
 ヨイショと銃を持ち直して挙手の姿勢。
「では、イヨイヨ今度こそ行くでありますウ、オワリッ!」
 勢いよく玄関の格子をあけて、修三さまは威ばって出て行く、丸でもうガイセンでもする時の様な得意さである。
 中学最後の軍事教練で、修三さまは今朝から茄子の方へ出かけたのである。去年の春富士山麓の方へ行った時、修三さまは斥候兵(せっこうへい)をつとめて天晴(あっぱれ)功績をあげたが、最後に狂犬に追っかけられてアワを食って川へとび込んで、見事に敵の発見するところとなり、五年A班長悲しや捕虜となって、後々までもの語り草のタネを作って了った。あの時は暖かかったからまだよかったが、今度はまだ時々雪が降る二月の末である。又川へでもおちて風邪でも引いては大変と、奥さまが心配なさるのも無理はない。
「サアサ、利恵子、早くなさい、もう学校へ行かないと遅れますよ。お兄さまのさわぎでスッカリ皆仕事の番が狂っちゃったわね」
 奥さまのうながす声に、利イ坊さまもあわててお茶の間の時計とニラメッコで御飯をたべはじめた。チビくんも毎朝のお仕事の一ツ、お庭を掃きにかかった。
 ―お羊カンを買って来て下さる―
 修三さまの元気な顔、親切な言葉がマザマザと頭に浮かんで来た。どんな場合にもチビくんの事を忘れないで居て下さるやさしい修三さまの心づかいが、わけもなくチビくんにはうれしかった。
 ―明日、明後日、あさっての夜御帰りになる―
 たとえ一日でも二日でも修三さまの御留守は淋しい様な気がしたけれど、お土産をもって帰ってらっしゃる時の事を思うと、とても楽しみだった。
「初子、感心だネ、冷いだろ、早くすませて御飯をお上り!」
 何時の間にか起きていらした利イ坊さまのパパさまが、手水鉢(ちょうずばち)の所でドテラ姿でニコニコと笑っていらっしゃる―。
 パパさまは一週間程前、外国の旅からお帰りになった許りである。修三さまとソックリの御顔、ちがう所はお頭(つむり)の毛が少しばかり薄いのと、お鼻の下にチョビッとヒゲがある位なものである。元気のいい声ややさしくて思いやりがある所等は、修三さまはきっとこのパパから受けついだのであろう。
「ハイ」と首をコックリさせて、チビくんは箒をもつ手に更に力を入れて、サッサッとお庭を掃きはじめた。御掃除を終えて、台所で手を洗って、お茶の間へ行くと、パパさまと奥さまが火鉢を前にして話をしていらした。傍でランドセルを背負いかけ乍ら、利イ坊さまが何やらお鼻を鳴らしている。
「そんな事を云うもんじゃありませんよ、もう十一じゃありませんか、いつまでも赤ちゃんみたいに甘ったれてばかり居て駄目よ」
「パパが旅行をしている間に、利恵子はさかさに年をとったんだナ」
 パパさまがアハハとお笑いになると、利イ坊さまは余計身体をゆすって甘ったれた。
「いやン。パパたち行っちゃったらあたしさびしいンですもの」
「みねやも居るし、初子も居るし、いいじゃありませんか」
「いやだワ、みねやや初子なんか。みねやときたらお料理は下手くそだし、初子なんか相手になんないんですもの―
 いいわヨ、もしあたしの学校へ行ってる間に行っちゃったら、ひどい目にあわせるから。パパもお母さまも折りたたんじゃうわヨ」
 修三さまのお仕込みで覚えた物凄い言葉を云いすてて、遅れ相なので急いで利イ坊さまは学校へ行った。
 その日の午後、パパさまと奥さまは一寸した手廻りの物を小さなスーツケースに入れ、パパさまは奥さまと一寸した手廻りの物を小さなスーツケースに入れ、パパさまが外国から買っていらしたお土産を下げた静岡へ出発なすった。静岡にはパパさまの御父さま母さまがいらっしゃるのである。外国から帰っていらしたご挨拶と久し振りの御機嫌伺いのために、パパさまはお出かけになったのである。
「もう少し経つと利恵子が帰って、定めしプンプン怒る事だろうな」
 汽車が横浜あたりへ差しかかった時、腕時計を見乍ら、パパさまはお笑いになった。
「丁度修三も居ないし、考えて見ると一寸可哀相ですけど。でもみねやも初子も居ますし、一日や二日大丈夫ですわ。たまに留守をさせるのもいいでしょう」
 奥さまは、玄関を入るなり「お母さまア、只今ア」と云ってお茶の間へかけ込んで来る利イ坊さまのいつもの姿を思い出しながら云った。
 やっぱり置いて行かれた、とわかった時、どんなに怒るだろう。きっと又初子に当るんじゃないかしら…?それを思うと、オドオドして利イ坊さまの我ままをもてあましているチビくんの姿が、つづいて思い浮んで来て、少しばかり罪な事をした様な後悔を感ぜられた。

 奥さまの想像は不幸にも適中した。気もそぞろに学校から帰って来た利イ坊さまは、茶の間にかけ込むや、ヒッソリとした気配はすぐピンと置いてけぼりを感じた。それでも思わず「みねやア、お母さまは?」とお手伝いさんの部屋へとびこまずには居られなかった。みねやは裏で洗濯をしていたので、お手伝いさんの部屋は空っぽだった。それが一層泣き出したくてたまらない利イ坊さまの神経を刺激した。
「みねエ、みねやア、アー」と半なきになって、廊下を降りて来たチビくんと衝突した。
「バカ、バカ!」
 つきとばされてチビくんが呆気にとられて立ちつくしている間に、利イ坊さまはドタドタと子供部屋へかけ込んで、ランドセルを部屋の隅ッこにドサリと投げ出すと、例の如くワーッと今にも死に相な悲しい声を出して泣きくずれたのであった。

  2

 みねやはソーッと子供部屋のドアをあけて声をかけた。さっきから三度もチビくんに声をかけさせたのだが、返事もしない相(そう)で、いつまで経っても利イ坊さまが茶の間へ来ないからだった。
「お嬢さまのお好きなチキンライスですよ。それにホラ、欲しい欲しいッて云ってらしたラッキョも買ってありますよ。ネ、小っちゃい花ラッキョ!こないだから、松平さんのお弁当を見て羨ましがってらしたでショ?」
 みねやは利イ坊さまの年に似合わぬ神経質なのをよく知っている。生れ落ちた時からネンネコでおんぶをして育てて来た利イ坊さまである。いくら利イ坊さまである。いくら利イ坊さまが我ままを云って気むずかしい難題をふっかけても平気である。自分の妹の様に思っている。
「さアさ、行くんですヨ、折角あったかくしてあるのにさめちゃいますったら!」
 利イ坊さまのセーターの両脇に手を入れて、ホラショと抱え立たせた。
「いやよ、一人で行くわったら!」
 それをふり放して利イ坊さまはドンドン歩いて行く。どう考えても、パパさまやお母さまが自分をおいてけぼりにして、静岡のお祖父さまの所へ行ってお了いになったのが、口惜しくて仕様がない。そしてみねやや初子と一緒クタにあたしを放って行くなんて!それがたまらなく悲しいのである。
 お茶の間のお膳の上には、ユラユラと湯気の立上っている温くておいし相なチキンライスが円くコンモリと洋食皿に盛られている。
 青磁色のフタ物に、円い小さな小坊主みたいなラッキョが、ツヤツヤと電灯の下で光っている。そして大好きな玉子のお汁(つゆ)。
 いつもだったら上々機嫌でお箸をとるのだったけれど、利イ坊さまはプンプンして暫く主のない火鉢前のお座布団をニラんでいた。いつもはお母さまが坐っていらっしゃる場所だ。
「召上れ、早く。いくらでもお代りがございますよ」
 チビくんと差向いの小さな別膳からみねやが声をかけた。
「いや!」
「アラ、御飯あがらないの?」みねやがビックリした様に目を見はった。
「みねやのお料理なんかイヤ。ヘタクソだから…。食べてやるもんですか!」
 さすがにみねやはムッとしたらしく、サッサと自分やチビくんのお皿に御飯を盛ると、
「さ、初子さん、いただきましょう。じゃ、お先へいただきます。みねやたちは色々御用がありますからね…」と、遠慮もなく食べはじめた。チビくんも利イ坊さまの方を見い見い、御腹が空いているので、一膳二膳と食べた。
 とうとう、利イ坊さまは御飯をたべなかった―何と云う我ままな子だろう?みねやは呆れて、だまって冷くなったチキンライスやお汁を片づけた。
 お腹が空くのに!チビくんは三膳もいただいてもまだもっと食べられ相な自分に比べてとうとう一膳も食べないで、早くから床の中にもぐり込んで了った利イ坊さまのお腹を心配しながら、自分も早く床に入った。
「御用のない時は早く寝ましょう。昨夜は修三坊ちゃまの銃器の手入れやお弁当のこしらえで二時だったでしょう。何だか風邪気で気持がわるくて仕様がないのよ、あたし」
 みねやは台所の棚の無精箱(ぶしょうばこ)の抽出(ひきだ)しからアスピリンを出して飲み乍ら、寝巻に着かえて一足お先へ床に入ったチビくんに云った。
「辛かったら明日の朝寝ていなさいよ、あたしがお台所やるわ」
 チビくんはいたわる様に云った。
「エエ、ありがと。大丈夫よ、今晩こうやッてお薬のんで一汗かけば治っちゃうわヨ」
 チビくんは三十分ばかり、お隣の部屋で寝ている利イ坊さまの事を考えて、眠れなかった。時々、ハーと云うかすかな溜息がもれて来た。利イ坊さまも眠れないのであろう。
 みねやも時々苦し相に寝返りをうっていた。パパさまも奥さまも、そして元気な修三さまも急に一度にいらっしゃらなくなった夜の眠が気にかかってかも知れなかった。

 翌朝、やっぱりみねやの風邪は本物になって了った。頭痛がひどく全身に悪寒を感じて意地にも起きられなかった。
「すまないわね、初ちゃん!」
 チビくんがいやな顔一つしないで甲斐甲斐(かいがい)しくお台所でガスに火をつけたり、お沢庵をきったりしているのを見ると、みねやは心からすまな相に云った。
 利イ坊さまは、いつまでも眠れないで困った挙句一寸ウトウトして、朝起きて来て見ると、みねやが寝込んで了っているので、わけもなく一層不機嫌になって了った。
 チビくんが沸かしたお茶で、チビくんがお膳立てしたテーブルで、チビくんにつけてもらった御飯で、朝飯を食べるのが又たまらなくいやだった。昨夜たべなかったので御腹がグーッと云う、けれどもとうとう意地っぱりの利イ坊さまはお茶漬を一杯たべた丈(だけ)で学校へ行って了った。
「お嬢さん、たくさんあがったでしょう?昨夜強情っぱりして食べなかったから…」
 チビくんが小さな体で御膳をヨイショと御台所へもって来ると、みねやが床の中から声をかけた。
「いいえ、一膳よ」
「マア!何て変な子だろう!」
 みねやはあとの言葉を布団のかげで呟いた。お昼頃になったら起きられるかも知れない、と云って居たみねやは、中々起きられなかった。
「お医者さまを呼んで来ましょうか?」心配相にチビくんは云った。
「いいのヨ。でも、私が寝込んじゃって、小さい人二人じゃ用心がわるいから、家政婦を頼んで頂戴な。奥さまの御留守に本当にすまないンだけど」
 番号をしらべてチビくんはミドリ家政婦会に電話をかけた。
「今とても忙しゅうございましてね。今晩九時頃ですと、今日で済んで帰って来る人が一人あるんですけど…」と云う返事だった。
「困るわね、お夕飯の支度をして貰いたいんだけど。仕様がないワ」チビくんに向い乍ら気の毒相に「あんたしてくれて御飯?」「エエ、あたし出来るわヨ」とチビくんが快よく引受けると「じゃその人帰ったらすぐ来る様に、ッて云って頂戴」みねやは床の中から大義相に云った。
 三時頃になると利イ坊さまが帰って来た。その気むずかしい顔を見ると、チビくんは夕飯の事を思ってドキンとした。みねやが作ったお料理さえ、ヘタクソだと云って食べなかったのである。自分のお料理じゃとても食べて下さる筈がない。それにチビくんの出来るお料理と来たら、おサツを甘く煮ることか、卵焼き位なものである。
「あの、利イ坊さま御ソバとりましょうか、それともホーライ寿司をとりましょうか?」
 恐る恐るチビくんは利イ坊さまにきいて見た。
「おソバなんか大嫌いだってことを知ってるじゃないの。ホーライ寿司なんてつべたいからいやよ」
 ニベもない利イ坊さまの言葉にチビくんは困って了った。
「どうせ又断食なさるんだろうから、何でも初ちゃんの出来るものをこしらえときなさいよ、天のジャクさんだから仕方がない」
 みねやもサジを投げた様に言った。
 仕方がないので、十八番の卵焼きをすることにきめた。玉子を買いに行って帰って来るとポストに二枚のハガキが入って居た。
 
 ―ハイケイ。今宿屋に着いたのであります。六畳の部屋に八人寝るであります。フトンが短くて自分は二寸位足が出るのでイササカ寒い様であります。明暁方より那須の原にて壮烈なる戦いが開かれるのであります。二度と再び川にはツイラクせんであります。日曜の朝日光へ廻って午(ひる)頃帰宅の予定であります。土産の羊カンは金(こん)りんざい忘れんツモリであります。利恵子、初子、タッシャでくらせよ。お兄様拝。

 元気さが目に見える様な修三さまからの絵ハガキである。
 もう一枚は奥さまからだった。

 ―何だか気がかりなので、一寸書きます。利恵子は又我ままをしていませんか?我ままをしてもチッとも徳はありませんよ。みねやや初子の云うことをよくきくのですヨ。パパは四五日御泊りになる相ですが、私は日曜日の朝帰ります。こちらにはとてもおいし相なイチゴが沢山あります。お土産を楽しみにして待っていらっしゃい。    母より。

 チビくんはその二枚をもって、お縁側でテリイをつまらな相になでている利イ坊さまのところへ行った。
「アラ、ラ…」利イ坊さまはとびつく様に絵ハガキを読んだ。見る見る顔色が明るくなって行くのを、傍からチビくんは嬉し相に見つめていた。
「ああ、うれしい。お母さまもお兄さんも明日御かえりになるんだわ」
「テリイ、おいでッ!かけっこしよう」
 お庭に下駄をひっかけると、利イ坊さまは生れ変った様に元気になって、裏庭の方へ走り出した。きっと昨日からのウラミも忘れて、帰っていらっしゃるお母さまや修三さまのお土産を心に描いて喜んで居るのであろう。
「テリイ、赤いイチゴだよ、好き?ウンと持っていらしたらテリイにもあげよオか?」
 キンキンとした声とテリイが吠える声とが、裏庭から次第に原ッぱへ通ずる木戸の方へ遠ざかって行く―
 それをきき乍らチビくんも何となく嬉しい様な気持で、エプロンをかけて甲斐甲斐しくお台所の流しに下りた。

  3

「キャベツきざめて?もし出来たらその開きの下のカゴん中にこないだのが半分残ってるからきざんでね、ザッとお塩でもんで頂戴な」みねやが床の中から一々指図をする。チビくんは大忙しである。
「アーラ、御飯がブウブウ云ってるわ」
「ア、いそいでチヂめて頂戴、あんまりひねりすぎると、パッと消えるから上手くね」
 お釜の下のガスをのぞいたり、キャベツを刻んだり、いつも見ている時は苦もなく出来ると思う事も、やって見るとチビくんには中々大変である。暮れ易い初春の日射しはいつの間にかトップリと暗くなり、外には夕靄が立ちこめて来た。
「アア、草臥(くたび)れたッ!」テリイと共に木戸からお庭へかけ込んで、そのままお茶の間へペタリと坐った利イ坊さまは、寒い夕風に冷くなった手をこすり乍ら大きな声で云った。
(アラ、帰ってらしたワ)チビくんはドキッとした。
「お腹が空いたッ。みねや、御飯まだ?」   
 台所に姿を現した利イ坊さまはエプロンの後姿が、いつも御夕飯の支度をするみねやでなくて、チビくんである事を見て一寸ハッとした。
「まだ?」一寸フクれて利イ坊さま(そうしないと何だか一寸いつもの様でなくバツが悪い様な気がしたのである)。
「エエ、すみません、もうすぐです」
(だって、まだ御飯もうつしかけだし、お茶の間にはお膳立ても出来ていないわ)利イ坊さまはチラとそれを見てとった。真赤になってもじもじして、不きっちょな手付きで御飯を御釜から御鉢にうつしているチビくん。気ばかりあせって御飯はポロポロみんな外へこぼれて居る。その御飯からホヤホヤと湯気が!
 利イ坊さまは黙ってお戸棚の脇にたてかけてある御膳をひっぱり出した。
「ア、いいんですヨ、今あたししますワ」
 益々あわてたチビくんが腰を浮かして泣き相な声を出した。
 きっと自分がノロいので利イ坊さまが又怒ったのだと思ったのだ。
「いいわヨ、あたしだってやれるわヨ―あたし、迚(とて)も御腹がペコペコなのヨ」あとの言葉を申しわけの様に云い乍ら、色々と並べ出した。
「すみません」
 お台所へ来るとチビくんが叮嚀に心から感謝した。
「その手の玉子どオすんの?」
「あの、玉子焼きするんですけど…」そんなものいやアヨ、と云われると思ってドキマギしている。
「あら、わたしに割らしてヨ、ね、あたし玉子割るのは大好き」
 これは本当の事だった。利イ坊さまは今迄にどれだけ玉子をポンと割ってお丼に落す、あの気持のよさそうな事をやりたかったかわからない。でもきっとお母さまが「だめだめ何があなたに出来るもんですか」とおっしゃって決して割らして下さらないのだった。
 今こそ、チビくんの手から玉子を並べてある平たい鑵(かん)を受けとると、オソルオソル利イ坊さまは一ツ、一ツ、玉子を割って見た。何と云う気持のいい作業だろう!バリと云う軽い音と共に殻が破れて、ギュッと指に力を入れてわけると、中から鮮やかな黄色い丸い黄身がすき通る様な白身と共に、スルリと瀬戸物のお丼に落ちる!
「ア、四ツでいいんです、ッテ―」
 尚も面白がってドンドン割ろうとするのを見て、チビくんはびっくりして止めた。
「アラそうオ。じゃ、これ、早く焼いてヨね、とっても御腹がペコペコンなっちゃったのヨ」
 チビくんがこの時とばかり顔を上気させて玉子焼きを拵えている間、利イ坊さまは眼ばたきもせず側(そば)でジッと見ていた。
「ホラ、そう云う時、お母さまやみねや、庖丁(ほうちょう)でやるじゃないの」とワザワザ庖丁をとって来てくれたりした。ひっくりかえしそこなって、折角太くフンワリと巻けた玉子焼きがクチャクチャになったトタン、二人とも「ワーッ」と悲鳴をあげて、顔を見合わせて笑って了った。
「仲よくやっていますね、どオ、上手く行きまして?」その二人の声をきき乍らみねやは、(ヤレヤレよかった!)と云う様な安心した調子で床の中から声をかけた。
「ステキよ!ツギだらけのが出来ちゃった、フフ…」利イ坊さまはヒョイと片眼をつぶってチビくんをつついて、きれいな歯を見せてさも嬉しそうに笑い声を立てた。
 ステキなツギだらけの、物凄い太く大きい玉子焼きが出来上がったのは、もう七時頃であった。二人はお膳に向い合って、フカフカした玉子で美味しそうに舌つづみを打った。
 利イ坊さまには、今迄のどの御馳走よりも数倍美味しい様に思われた。
「チビくん、迚もお料理上手いのね、おどろいちゃった。あたし、お母さまやみねやの作ったよりズッと美味しかったわヨ」翌朝、帰ってらしたお母さまが留守中の事をおききになって、前夜の玉子焼きの話になると利イ坊さまは、心からそう云った。チビくんは傍で真赤な顔をして、うれしそうだった。でも心の中で(だってそりゃその筈ですヨ、利イ坊さまったら前の日からロクに御飯をあがらなかったンですもの…)と、ひそかにケンソンしていた。
 お母さまはニコニコして、
「そりゃよかったわネ。利恵子もこれから時々そうやって御台所とお手伝いしてごらんなさい。何だってそりゃ美味しくいただけてよ」とさとす様におっしゃった。
「そオ?自分でやるとそんなに美味しいの?」
 利イ坊さまは、一大発見をした様にいつまでもそう云って眼を輝かして居た。


 お詫びの文鎮



  1

 オッチニ、オッチニ―
 勇ましいかけ声が裏庭からきこえて来る。修三さまがラジオ体操をしているのだ。今日は日曜日、いつもよりズッとお寝坊したので助手のチビくんはもうとっくにやって了い、修三さま一人である。シャツ一枚になって腕をのばしたりちぢめたり、ウンとゲンコをこしらえてみたり、何だか一人ではしゃいでいる。その足許でテリイが「何だか変テコリンだな!」と云う様な表情でボンヤリとその顔を見上げている。
「おいッ、テリイ、何だってそんな不景気な顔をしてるんだ。朝飯まだかァ?もう少しハリ切れよオ」
 腰にブラ下げてあったタオルをテリイの目の前で振る、と、本当にまだ朝の御飯をたべていないテリイは必死になってワンととびつこうとする。勢いあまって修三さまのズボンにかじりついて了った。
「ワッ、又だア。仕様がないなア、泥んこじゃないか。お前のおかげで又みねやにケンツクくわされるぞ」
 でも、いつもならゲンコでコツンと行くところを、今日はそのままズボンの泥をはらいながらユウユウと表庭の方へ。後見送ってテリイはチョコンと首をかしげている―
「ヤア、いらっしゃい。随分久し振りでしたね」
 修三さまがお縁側からお茶の間へ上って行くと、お火鉢の前にお母さんと向い合っているのはヨシ子叔母さんである。真赤なテガラをかけて大きなマルマゲとかに結っている。ついこの間御嫁に行ったばかり、お母さんの一番下の妹である。
「ウワー凄えナ。すげえものに結いましたね」一人だけの朝御飯の御前の前に坐ってフキンをとりながら、修三さまは感きわまったような声を出した。
「アラ凄くなんてないわヨ」
「凄いヨ。だけどよく似合いますヨ。矢張り日本人は日本人らしい髪がいいですね」
「アラそうオ」
「いつもの叔母さんの頭はよくないや、方々中ブツブツ剪(き)ってあって、コテだらけで、僕きらいさ。それにしてもあの毛でそんな頭よく結えましたね」
「三時間半かかったワ、それに油をひく時の辛さと来たら、本当に正直なところ涙がポロポロ出たわヨ」
「そりゃあどうも御苦労樣でした」
「いいえ、どういたしまして」
 修三さまはこのヨシコ叔母さまが一番好きである。中学校へ入る時、勉強を教えてくれたのは当時女学校の上級生だったこのヨシ子叔母さんである。とても話がよくわかって明朗で―それからもう一ツ、大事な事がある。ヨシ子叔母さんは大変気が大きい。遊びに来るたんびに素晴らしい御土産をもって来て下さるのである。
「叔母さん―」
「ハイ」
「今日、何しに来たか、あててみましょうか?」
「どうぞ…」
「おいわい、でしょう?」
「何の?」
「僕や利恵子の新学年のさ」
「それで…?」
「そのお祝いの品物を、一時も早く…と云うわけです」
「マア修三さんったら…」とお母さんが叔母さんと顔見合わせて笑った。
 修三さまは見事に上級学校の試験に合格した。明後日からいよいよその学校がはじまるのである。一人ではしゃいでいるのもテリイをコツンとやらなかったのも、それから叔母さんのマルマゲを上げたり下げたりして、おセジを云ってるのも、その為である。
「本当によかったわね。パスして」
「叔母さんがいらっしゃらなかったからダメかと思いましたけど…」
「マア口の上手い!中学へ入る時教えてあげたでショ、それがまだ残っていたのヨ」
「チェッ、ウッカリおセジ云うとこうだからなア…」
 叔母さんはニコニコしながらお部屋の隅においてあった紫錦紗(むらさききんしゃ)のお風呂敷を引きよせた。
「どオ、これ?こないだっからワシの時計はモウロクしたって云ってたでしょ?」
 素晴らしい長六角型の腕時計がビロウドのケースと共にお膳の上にのせられた。
「凄えぞオ!ア、バンドもついてらア!」
 御飯も何もそっちのけで、修三さまは新しい贈物を早速腕にまきつけて見た。
「まあ、いいの、こんなのもらって?」お母さまもビックリした様に叔母様を見た。
「こりゃ断然優秀だナア!ありがとう、だから僕ヨシコ叔母さんが一等好きさ」修三さまは大喜びである。(ヨオシ、こんな素晴らしい時計が出来たからには、あのテーブルの抽斗しにモウロクしてイネムリしているボロ時計なんかほっぽっちゃえ!)と決心した。
「これ、利イ坊へよ、どオ?」
 叔母さんはそう云って、一尺位の長さのボール箱からフランス人形をとり出した。
「矢張り優等だったんですってね、えらいわねエ」
「ええ、おかげ様で勉強の方はどうやらなんだけれど、どうも我ままで困るのヨ」
 その時、チビくんがヒョックリ入って来た。修三さまの食べ終わった御膳を下げにである。
「あら、あの子、まだ居るの?」
「ええ。でも近い中に帰ることになったのよ。こないだ満洲へ行ってるあれの父親から手紙が来てね、何だか仕事の方が大変上手く行って、この月の末に母親だけが先に帰って来る相よ。そしたら引きとる、と云うの」
 チビくんの後姿を見乍らお母さまと叔母さまは話していた。
「そんならあの子にも何かもって来てやればよかったわね」
「そうね、でもワザワザそんなこと…」
「じゃアこれ、あの子にやって下さらない?貰いもんなんだけど、利イ坊のお習字の時にと思って持って来たの…」
「何です?」修三さまは、思いやりのある若い叔母さんに感謝しながらその手許をのぞいた。
「文鎮なの。叔父さんのお友達でね、スイスのガラス会社と提携してこう云うものばかりこしらえてる方があるの。とても可愛いでしょう?」
 それは見るからに可愛い感じのするピンク色のガラス製のバラの花で、花びらにかこまれた中央に、小さな磁石がついて居た。
「きれいなもんですね。チビくんは利恵子とちがって、こんなものあんまり貰った事がないからとても喜びますよ」
 その夜、三人は各々、ヨシ子叔母さんからの贈物を枕元において嬉しい眠りについた。

  2
 
「今度の土曜日はあたしがお誕生日よ、お母さま」
 学校から帰ってお八ツをいただきながら、利イ坊さまは一寸余ったれた声を出した。
「そうね。又お友達をお呼びしましょうね」
「晩の御飯、何して下さる?」
「そうねエ、何がほしいの?」
「去年は赤の御飯におサシミやなんかだったでしょ、でも皆さんおサシミ御きらいなのよ、とても悪かったわ」
「じゃア今度は御洋食?」
「ええ。松平さんはね、御塩味のシチュウなら何杯でもあがれるんですって」
「マア、食辛棒ね、ホホ…」
「あのね、御食後にゼリーを作ってね」
「ハイ、ハイ」
 奥さまの側で御雑巾をさしていたチビくんは、思わずクスリと笑って了った。
「マアいやだわ、何わらうの、やな人!」利イ坊さまは自分があんまり色々と食辛棒の注文をしたのが恥しかったので、一寸照れかくしに口をふくらませた。それが余計おかしかったので、チビくんは今度はクックッとこらえきれなくなって来た。
「ホラ、あなたがあんまり食辛棒を云うから、初子が笑ってるじゃないの」
 しかし、利イ坊さまは恥しいよりもシャクにさわった。
「いいわヨッ。笑いなさい、その代りお誕生日にはチッとだって仲間に入れてあげないから…」
「そんな事云うんじゃありません。それにもう初子は帰るんじゃないの、仲よくみんなでお別れをするのよ、ネ」
「いやあなこった、帰るんならサッサとお帰んなさい、セイセイしちゃうわよ」
 又はじまった、と云う暗い表情で奥さまが利イ坊さまをたしなめ様とする前に、御菓子皿の上のチョコレートをツと摑みとると、利イ坊さまはバタバタとお廊下の方へかけ出して行って了った。
 何て我ままな子だろう!どうしてチビくんにばかりああキツくあたるのだろう!チビくんが居るからワザとああ虚勢をはって余計我ままなのかしら…?しかし、もうすぐチビくんが母親の所へ帰って了ったら、きっと淋しがるにちがいない。―
「あの、糸がなくなっちゃいました」
 チビくんの声に奥さまははっと気づいて、針仕事の抽出しから糸巻を出して渡した。
「お母さんのとこへ帰るの、嬉しい?」
 奥さまはやさしく、のぞき込む様にきいた。
「……」チビくんはだまって、何にも云わず、ニッコリ笑っただけだった。

 土曜日が来て、予定通り利イ坊さまのお誕生日の会がひらかれた。
 例によって松平さん、戸田さんの大ダイ親友、その他二三人の御友達がそれぞれプレゼントをもって集まった。
「アーラ、どうもありがとうオ、ステキねエ、この表紙の色―」
 松平さんの贈物は真赤な鹿の子表紙のついた帳面(ノート)だった。
「お姉さんに伊東屋で買って来ていただいたのヨ、ステキでしョ?」
 そう云って戸田さんが負けずに四角い箱の中から、鳥打帽子型になった針山を出してみせた。競馬の騎手がかぶるみたいな緑と黄色のダンダラである。
「可愛いこと!」
 あとの人も動物の形をした箱や、チョコレートやミッキイマウスの縫いとりをしたハンケチなどを持って来た。利イ坊さまはスッカリ有頂天になって了った。新しい敷物を敷いた洋間で自分が女王さまにでもなった様だった。
「何かしましょうヨ、何がいい?」
「そうね、ジェスチュアしましょうか?」
「ジェスチュアってどんなの?」
「ホラ、お豆腐屋さんだとかチンドン屋さんだとか、口は一つもきかないで恰好でやんのヨ」おシャマな松平さんが説明した。
「ああ何だ、モノマネ、ね」戸田さんがホッとした様な調子。
「そうヨ、やさしく言えばそうヨ」松平さんはツンと気どっている。
「さあ、やりましょう」
 そこへガチャリとドアがあいて、お母さまが入ってらした。後から、銀のお盆にお菓子や果物を盛ったのを持って、チビくんがソオッとつづいて入って来た。
「ア、お母さま、あのね、ステキな贈り物こんなにいただいたの…」利イ坊さまは声をはずませてプレゼントを指した。
「マア、いい物ばっかり。皆さん、ありがとうございました。サ、御菓子でも召上れ」
 テーブルの上にチビくんはソッとお盆を下した。
「今、みねやがお紅茶もって来るわ。利恵子、一寸―」
 奥さまは利イ坊さまを隅っこに呼んで、何やらヒソヒソとおっしゃった。利イ坊さまは一寸いやな意地悪相な表情をした。そう云う時には可愛い唇がへの字に曲るので、大きな椅子の蔭で、オズオズそっちの方を見ているチビくんには、それがよオくわかった。
 奥さまが奥へ行ってお了いになると、利イ坊さまは甲高い声を出して、みんなに向って、「サア、やりましョ」とうながした。
 チビくんは、自分を見むいてもくれないのがたまらなく悲しかった。(奥さまは、利イ坊さまにあたしを遊んでやれっておっしゃって下さったのじゃないのかしら…?)今まで随分ムリを云われても一寸もそんな事がなかったのに、はじめて熱い涙がジーッとにじみ出て来た。―
「アラ、半端だワ。そっち三人でこっち二人ヨ、だめヨ、あてる割合が損よ、一人出てやってる中に一人しか残んないンですもの、相談ができないワ」
 戸田さんが不平相に云った。利イ坊さまはチラリとチビくんの方を見た。チビくんは、ポタリ、と涙を敷物の上に落した。
「入る?」しばらくためらった後で、遠くの方から利イ坊さまは声をかけた。
「あたし、とってもあんたにウラミがあるんだけど…だからシャクにさわってんのヨ…、でも仕様がないわ、半端だから、入れてあげるわ。モノマネ、出来るでしョ?」
 チビくんは嬉しそうに顔をあげた。モノマネならよく修三さまが先に立ってなさるのでよく知っていた。
「どうしても入りたいでショ?」
 チビくんはコックンした。
「何か、何かステキな贈物もっていらっしゃいヨ。みなさん、もって来て下さったのヨ。何にも持って来ないなんてズルイわ―」 
 ドキンとしたチビくんの頭には、先だってヨシ子叔母さまからいただいた文鎮が浮かんで来た。
 ウラミがある、シャクにさわっている―その種はあのバラの文鎮にあったのだ。頭のするどい利イ坊さまは、あの文鎮がはじめっからチビくんに贈られたものでない、と云う事がチャンとわかって居た。あのキレイなピンク色のバラの文鎮!考えれば考える程、チビくんが憎らしい、シャクにさわって仕様がなかったのだった。
 チビくんはバタバタとお廊下を走って自分の部屋へかけ込んだ。あったあった、いただいた時のまんまで箱の中のワタにしまってある。
 あたしなんかどうせ要らないんだもの…
 自分で自分の心をあきらめさせながら、再び洋間へ飛んで行った。
 利イ坊さまはチビくんがその文鎮の箱を渡すとき、チッとばかり真剣な顔をした。(こんなムリ云ってズルイ事してこれをとっちゃってもいいのかしら…?)良心がどこかでそうチクチクとつついたけれど―
「マア、キレイねエ、一番ステキねエ!」
 お友達がのぞき込んで驚きの声をあげたのが、利イ坊さまをとうとうズルい子にしてしまった。(悪い子、悪い子、利恵子は悪い子!)
 みんなで遊んでいる最中にも、時々そんな声がどこからか利イ坊さまの胸をつついた。
 みると、チビくんは仲間に入れてもらえたうれしさか、打ってかわった朗らかな表情で戸田さんのお隣に腰かけている―。
 利イ坊さまがそっちを見ると、チビくんはニッコリ笑った。けれどそれは何と云う事なしに、一番大切にしていたものをなくした後の様なさびしい笑い顔だった。

  3

「長い間御世話をおかけしまして、本当に何て申しあげていいか…」
 いよいよチビくんはお母さんに連れられてお家を出て行く事になった。半年の間別れていたなつかしいお母さん、満州から帰って来たお母さん!そのお母さんの側にチョコンと坐ってチビくんは眼を輝かしている。
「チビく…、オッと、初ベエ―」修三さまはいつものくせで危くチビくんと呼びそうにして奥さまの目くばせで訂正した。
「うれしいだろオ、お母さんと一緒になれて…」
「いいえ、かえッて此方さまにおいていただける方が此の子のためにもいいんでございますけど、とに角わからず屋の我まま者でございますのでねエ…」
 チビくんのお母さんは何気なく言ったのだったが、奥さまの横でお人形の着物をこしらえていた利イ坊さまは、ハッとした。
「そんな事ないわ。そりゃア家の利恵子のことヨ。でも二人とも仲よくしてね…」
「くっついて歩いては喧嘩ばかりしてるんだヨ、喧嘩する位ならテンデ寄らなきゃいいんだにね…所謂(いわゆる)喧嘩友達さ。淋しくなるだろう、利恵子が…」
 パパさまがおっしゃる。
「大変仲よくしていただきましてねエ、あのオこれはホンのつまらないものなんでございますけれど、先程この子と外へ出ました時に一寸買って参りましたの。今まで仲よくしていただきましたお礼でございますって、この子が…」
 お母さんは文房具の組合せを利イ坊さまの方へ差し出した。利イ坊さまはチラとそれを見たまま、奥さまの蔭に顔をかくす様にした。
「マ、そんな事いいのヨ、こちらでこそ御餞別をあげなきゃならないんで…」
「でもどうぞ、折角、初子の志ですから」
「そう、じゃ、利恵子、いただきなさい」
「散々意地悪ばかりいたしまして誠にすみませんでした、ってよくお詫びを云ってね―」修三さまが側からからかい半分に云った。
「どうも、ありがとう―」そう云って包みを受け取ると、利イ坊さまは顔を真赤にしてお廊下へとび出した。
 散々チビくんをいじめて、あげくの果に、チビくんが一等大切にしていたあのバラの文鎮をとりあげて了ったのは、たった昨日である。
 もうチビくんは帰って了うのだ。あんなに意地悪我ままをしたのに、一寸もそんな事云わないで、ニコニコしてこれをくれて―
 自分のお部屋へ帰る途中、内玄関の式台の上にチビくんの荷物がつまれてあるのを見た。小さな竹行李と風呂敷づつみが二ツ…。
 風呂敷包みの結び目から、今迄チビくんが普段着ていた紡績の着物の袖口が、はみ出している―
「そうだワ、あたし、いい子になろう」
 大決心をした様に利イ坊さまは大いそぎで子供部屋へ走って行った。
 チビくんがお母さんと新しく借りたお家へついて、風呂敷包みを開いて普段着を着ようとする時、その袂の中からバラの文鎮とそれを包んだお手紙とを発見するだろう。

  今迄は色々とイジワルしてごめんなさいね。これはあなたにおかえしします。これはあなたのものよ。ヒマさえあったら遊びに来て下さい。もうけっして我ままはしませんから。 
       サヨナラ
   チビくんへ    リエ子







最新の画像もっと見る

コメントを投稿