一一八 伯爵と其女
自分の強縮の体を見て、軽い微笑を呉れた栗野弁護士は、吸差(すいさし)の葉巻を灰皿に載せた儘再び語り継いだ。
「貴方の想像の通りです、何時の間にか情夫(おとこ)を拵えて、女は其方に逃げて行って居たのです、行方は直ぐに解ったが何しろ相手が悪い、名は記憶して居りませんが男と云うのは、何でも其自分政府部内に非常に勢力のあった某伯爵の一人息子で、併も女は其時は男の胤(たね)を宿して居たそうです、金があっても此方は町人、未だ憲法も発布せられない以前の事ですから何うとも仕様がありませんや、普通の者なら涙を飲んで引き下がる処ですが、何しろ人一倍強情の老人ですもの、何うにかして復讐しなくてはと、それから日夜復讐に身を委ねて居たそうですが、其頃からそろそろ水戸屋の基礎(いしずえ)がぐらつき始めたのです、だが其親譲りの資産よりも老人にしては復讐の方が大事と見え其方に許りかかって居ると人間(ひと)の一念と云う者は恐ろしい者で、それから一年と経たぬ中に見ン事老人は目的を遂げたとの事です、何ういう風の復讐をしたかと云う事は判然(はっきり)知りませんが、父の話に依ると伯爵と其女との間に生れた小児(こども)を何処かへ窃みかくしたものらしいと云うのでした。其故(そのせい)か間も無く其女も死ねば相手の伯爵も非常に性格が変って来たそうで、後で老人は復讐を仕過(しすぎ)たと云って居たそうです」栗野弁護士の話に詐り無しとすれば、実に糊谷老人の前半生は驚くべき哀話(ローマンス)を以て塡(うず)められて居ると云わねばならぬ。而して其れが何だか他人事でなく、自分の身に関係がある様に思われて、自分は話が進むに従って、自(おのず)と身体の固くなる様な気がした。栗野弁護士は更に語を継いで。
「それは今から三十年程前の事なそうですが、それから十年許りの間と云うものは、復讐を仕過ぎたと云うのでひどく神経を悩まし半病人の様になって、彼方此方(あちこち)と旅行などして居たそうですが、其中に某所で非常な美人を見染め其女と結婚したそうです、前の許婚とは違い単に容姿(きりょう)許りでなく気立も賢夫人と云って宜かった女だったと云う事ですが、何処迄も不幸は老人の身上に続くのか、其夫人は結婚後一年半許りの後、一人の女児を残して死んで仕舞ったそうです、それからと云うものは老人の性格はまたガラリと一変して相場もやれば賭事もやる、結局素性の悪い女に引かかって偽造紙幣の組合に迄入れられたのです」自分は茲まで、黙って聞いて居たが、斯うと聞いては何時迄も前の約束を守って居る訳には往かなかった。
「えッ、えッ、あの老人は―」と叫ぶと、
「黙ってお聞きなさい」と栗野弁護士は叱る様に云って「だが老人は索(もと)より其様事をする様な人物ではありません、だが相手が悪い蜂部昇二と云うゴロツキ相場師と、其妹で某伯爵家の家庭教師をして居た糟場礼子―孰れも貴方の知ってる様な悪人許りです、最初老人の名で開いて居た堂島(大阪)の仲買店は、何時の間にか偽造紙幣を散布する場所となって居たのです、然うなっては全く誰だって抜差が出来ない筈です、法律の制裁を受けるか、其網を脱れるかの二つの一つです、老人は罪無くて法律の制裁を受け度くは無かったと見えて、其最愛の幼児を蜂部に親知らずに託して台湾から南洋の方へ逃げたのです、これは後から考えて見ると飛んでも無い老人の失敗でした、だが老人は最初信用した者は飽迄信用すると云う風の人でしたから、蜂部の妹(糟場夫人)を憎み、其時は蜂部を充分信用し、蜂部も充分信用させる様に仕向たのですから」と云ったが、急に思い出した様に時計を見て
「おお四時になります中央金庫の扉(ドア)が締らない中(うち)に行かねば」と立上った。
それは自分が最初(はじめ)に例の古銅器を中央金庫に預けて居る事を話して置いたので―。だが自分は其前に聞いて置きたいのは、蜂部に親知らずで預けたと云う女児(おんなのこ)の事である。
「では御一緒に参りましょう…ですが其前に伺い度いのは其の老人の女児(むすめ)と云うのは若しや」と思い切って自分は斯う云った。
一一九 紙幣の偽造者
したが栗野弁護士はそれに対しては満足な返辞を与えて呉れなかった。
「孰れ古銅器の中を開いて老人の遺言状を読む迄は」と許り、自働車に乗って中央金庫に行く途中も、話の主題は専ら糊谷老人に関した事のみで持ち切った。即ち糊谷老人は南洋の土人の語(ことば)に趣味を持って居てそれを研究して居たが、紙幣偽造の嫌疑で南洋に逃れてからは益(ますます)熱心の度を増して終(おしまい)には回々(ふいふい)教が仏教に更(かわ)って印度から南洋に渡来(わたっ)た当時の事を研究し、処々に散在してある古墳を発掘して、随分沢山の遺物を匿名で内地の博物館に寄贈した事なども物語り、
「其んな風でしたから糊谷老人は此点から云っても尊敬すべき学者でした、それが一度(たび)自分の信用した者の為に、恐る可き悪人の様に誤解せられて死んだと云う事は返す返すも残念です、欲を云えば限りありませんが、せめてもう少し前に蜂部の何ういう人間かが解って、其たった一人の娘に遺すべきものを残し、警戒すべき事を警戒さした上に死なしたかったのですが、然う気付いた時は、今思うと既に墓場に入りかけて居た時なんですね」と暗然として声を曇らした。自分も思わず釣り込まれて、何となく眼に或者の宿るを覚えたが、併し考えて見れば、これで瑠璃子の素性も推察し得る事となったと共に、愈以て昨年九月以来の疑問も明瞭になって来た訳だ、唯解らないのは自分の素性(みのうえ)と蜂部が何故古里村を殺し、更に自分と瑠璃子とを殺さんとしたかであるが、それも孰れ時間が来れば解る事と思ったから、差当り例の古銅器の秘密を知るを楽みに無暗と自働車を急がせた。二十分計りの後に我々を乗せた自働車は中央金庫に着いたが、見れば早や其入口が締って居る、其様事は無いがと番人に聞くと、
「今日から時刻が改正になりまして四時迄です」と一向取合って呉れぬ。時計を見ると成程四時を過ぎて居る。規則とあれば仕方無いので、自分と栗野弁護士とは明日を約して其処から別れる事となったが、自分はそれから再び御殿山の瑠璃子の許に引返した事は云う迄もあるまい。
自働車から下ると白浜夫人が出迎えて呉れた。取敢えず瑠璃子の様子を聞く、今日はグッと宜いそうで、殆ど全快と云うても然るべく、松山博士も先刻帰られたとの事である。早速其足で瑠璃子の寝室に行って見ると、未だ顔色は悪いが、殆ど元気が旧通(もとどお)りになった瑠璃子は、自分の帰りを非常に喜んで、ワザワザ寝台から下りて迎えて呉れた。自分は瑠璃子の手を握りしめ乍ら今日しも栗野弁護士から聞いた大略(あらまし)を手短に物語り、糊谷老人が瑠璃子の実父らしいと云う想像を話すと、瑠璃子は非常に喫驚(びっくり)して、
「些(ちっと)も存じませんでした。妾は只親切な、何時も美しい贈物を下さる方だと許り…すると其底には其様秘密があったので御座いましたのね」と溜息を吐いた。
「ええ然うですとも」と、それから自分は更に瑠璃子の母親と思わるる女の夭死(わかしに)した事やら、糊谷老人が蜂部兄妹の為に紙幣の偽造射と疑われて内地に居られなくなった事、扨ては蜂部の悪事を残らず話した上、昨年の九月糊谷老人が内地に帰って来たのは、一つは瑠璃子に会う為めであったらしいと物語った。すると瑠璃子は深く自分の親切を謝した末。
「其前に手紙が妾宛に来て居たのでしたから然うとしたら神戸迄参りましたのに…矢張何かの因縁で…」と涙に暮れる。然うだ何かの因縁に相違無い、瑠璃子が一足違いで肉親の父の死際に会う事が出来なんだのも因縁なら、自分が見ず見らずの糊谷老人の死水を取ってやったのも因縁だ、若し自分と瑠璃子との間に何かの尽きせぬ前世の因縁が無かったならば、其時糊谷老人は其娘の介抱に依って目を瞑り、自分と瑠璃子とは永久に見知らぬ他人で居らねばならなかった筈だ。然るに…嗚呼然るに…自分は斯う思うて来ると、あまりの嬉しさにもう胸は充満(いっぱい)だ。
一二〇 血を吐く思い
併も瑠璃子は、自分が此様(かよう)な考えを懐(いだ)いて居ると知るや知らずや、頻りに自分の恩になったと云う事を繰返した末、
「この末妾の様な不運の者は、一生の中(うち)に此御恩をお返しする事が出来ますのやら何うやら」と云うのである。正に此時である、此時を逸しては自分の思いを打開ける時は無いのだ。
「恩ですって、私が貴女に何の恩を…もし多少お尽しした事がありとすれば、それは自分の恋した女(ひと)に対してなすべき当然の事で無いでしょうか」且つ吃り、且つ詰まり乍ら思い切って斯う云った自分はヒシと瑠璃子の手を握りしめた。この一言は確に瑠璃子にとっては意外だったらしく。
「えッ…えッ…では…」と、真赤になって、自分の握手から脱れようとする。自分は其手を倍々(ますます)堅く握りしめて。
「イヤお驚きになるのは御尤もです若し私が此様考えを持って居る事と御承知でしたら、貴方は或は私を傍へも寄せて下さらなんだかも知れません…ですが嬢よ、今迄の友情に免じてせめて私の胸の中(うち)だけでも…私はそれが為に決して貴女の愛を強請する事はしないのですから…古里村の生きて居る時貴女との恋仲を見て、血を吐く様な思いで其恋の成効を神に祷った私ですもの、何で…古里村が生きて居たら、怖らくは今でも貴女方の恋の成効を禱って居たでしょう…併し古里村は怖ろしい掌の為に…」と云うと、瑠璃子は、
「其様な事は…其様な事は何うぞ…」と、これも吃り乍ら僅かに斯う云うのみだ。
「イヤ御尤もです」と、自分は瑠璃子の言(ことば)を遮って「私は古里村の死が貴女に何れ程の精神的の打撃を与えたかと云う事も知って居れば、貴方が此場合私に愛されると云う事が何れだけ苦痛だと云う事も知って居る…併し…」と云いかけると、
「否(いえ)…否…そんな事は決して…決して…」と、瑠璃子は何処までも自分の言(ことば)を防ごうとする。だが自分としては、縦しや自分の恋が叶わぬ迄も、云うだけは云わねばならぬのだ。
「貴女は私の恋の発表を恐れて居られる様ですが、それは実に大なる誤解です、私は自分の胸の中を打開けた処で、貴女に何の代償を求めようとするのでは無いのですから…ですから何うぞ私の常に考えて居た事、またこれ迄感じて居た事を…それだけお聞き下さい、勿論未だ貴女の胸の中には古里村の事が刻込まれて居て、私へ注意を向けて下さる余裕の無い事も知って居る、然し自惚かも知れませんが、貴女は現在に於て私を憎んでは居ない筈です…ですが最初は貴女の眼中に私と云う者の無かった事も知って居る、夫故私は私自身の秘密として胸に包んで居た。而して昨日迄もこの胸の秘密を貴女に語ろうとも思わなかったのです、否私は今の今迄貴女が私を憎んで居ないと云う事すら考えて居なかったのです、唯常に考えて居たと云うのは、何時かは貴女に此恋を語る機会を造らねばならぬと云う事でした、処が偶然にも今晩其時が来ました…来たと考えたから私は躊躇を破って貴女に此様事を云うのです、そして私は今夜改めて嘗て貴女を愛し、現に貴女を愛しつつあると云う事を白状します…然うです既に私は貴女を愛して居る、現に貴女を愛して居ると云う外に、適当の言葉を私は知らんのですから…」と熱した調子で斯う云った自分は、三度(たび)瑠璃子の手を握りしめた。
けれども瑠璃子には何の返辞も無い、唯チラと自分の顔を眺めたが、直ぐ下を俯向いて長い太息(といき)を吐(つ)く、噫(ああ)これで自分の恋は七分迄は不成効と相場が決まった様なものである。
一二一 我愛する女よ
斯程まで熱心に説いても、瑠璃子はそれに対して、一言の返辞すらして呉れないのだ、此上は最早強て其の返辞を促す必要も無い、七分処かこれで十分の九分自分の恋は破れて了ったのだ。やがて自分は其の握締めて居た瑠璃子の手を放し、静かに其室から去ろうとした。何故かなれば此上瑠璃子と対座してる事は、恋に破れた自分の耐がたき処たるのみならず、同時に瑠璃子を精神的に苦しめる事となると考えたからだ。
すると意外にも瑠璃子は其手を放そうとしない、否啻(ただ)に放そうとしない計りで無く、今度は反対(あべこべ)に自分の手を強く握締めるのだ。自分は頗る意外に思い乍らも、
「さァお放し下さい、私は…私の云うべき事は尽ました、此上貴女の御返辞を伺って、絶望の上に絶望したくないのですから」静かに斯う云って、再び其手から離れようとしたが、放そうとすればするだけ、瑠璃子の手は益々固く自分の手を握るのだ。
「いいえ、いいえ、貴郎はお話する事が尽きても妾は―妾は…」
「えッ、えッ、何と云われるのです」
「はい妾(わたし)は今の今迄貴郎(あなた)が妾を愛して下さるとも思わず、また妾は…」
「えッ、えッ」
「はい、妾の貴郎をお慕いして居たのは…あの友情だと計り思うて居りましたか…」意外意外、これでは何うやら風向が変って来た様だ、自分は嬉しいのやら悲しいのやら、唯胸中が徒らにワクワクする計りだ。
「えッ、では矢張り貴女も友情ばかりでなく…」
「はい、よく考えて見ますと心の底には…」もう此処迄聞けば後は聞く必要は無い、イキナリ自分は瑠璃子の首筋を掻抱いた。而(そう)して、
「おお嬢よ、我愛するものよ」と叫び乍ら、瑠璃子の額に幾度(あまた)熱き接吻を移した。瑠璃子は今はそれを拒もうともせぬ。唯自分のなすが儘に任せて、
「何だか…夢の様…まるで夢の様…」と繰返すのみだ。而して彼(か)の女(じょ)の美しい眼、彼の女の美しい声、彼の女の美しい唇から洩れる美しい微笑、自分こそ真の夢の国に遊んで居る様な気がしたのである。而(そう)して再び我に帰った時瑠璃子はと見れば、これは未だ夢の国に遊んで居るのかして、
「妾は愛されて居(お)る…愛されて居る…」と小さい声で呟いて居る。この静かな、何人も居ない室で、これが自分に云うので無くて誰に云うのだろう。自分は耐かねて再び彼の女を抱きしめた。
「愛して居ますとも…縦し貴女が私を愛して居ない迄も…私は未だ愛した事もなく、再び恋する事も無い程貴女を愛して居る…貴女は今私の腕に抱かれて居る様に、永久に私の愛の懐中(ふところ)に…」と迄は云った様に覚えて居るが、あとは何を云ったのやら、唯涙が止度も無く流れた事許り記憶(おぼえ)て居る、瑠璃子は云うまでも無く―。斯うして自分等二人は、長い時間を夢の様に過した、嬉しくて此上何も話が出来無い、唯呆然(ぼんやり)懐(いだ)き合った儘、
然うして居る中にフト気がつくと外には看護婦で有ろう、頻(しきり)に扉を叩いて居るのだ。斯う気がついて見れば如何に自分でも一方ならず極りが悪い、急いで近き将来に於て我妻たる可き瑠璃子と握手を換して、早速室内を飛び出した。而して別室に通ずる扉(ドア)を開けて自分の室(へや)と定めてある二階の一室に戻ったが、其嬉しさは容易に消えない。否其様に早く消えてはたまらないが、此夜はとうとう余りの嬉しさにろくに眠らずに了った。ああ此夜の嬉しさ、而(しか)して其刹那の嬉しさ、自分は自分の感情を自ら写し出す筆力(ふで)の無き事を終生の恨みとする、だが我々の恋は遂に成立した、誰が何と云おうと瑠璃子は自分を愛して居るのだ、読者は宜しく察すべしだ。
一二二 青い絵具
翌日は栗野弁護士と一緒に、中央金庫から例の古銅器を取出しに行く約束の日だ、十一時半頃自働車を駆って倉庫の所在地に行くと、既に栗野弁護士は其処に自分を待合して居た。面倒臭い手続きを澄まして、疑問の古銅器は再び保管人たる自分の手に戻ったが、乃(そこ)で問題は其古銅器を何処で開く可きかと云う事になった。元来の性質から云えば、其遺言の執行を依頼(たのま)れた、栗野弁護士の出張所で開くべきであるが、彼(ああ)した広告を昨日の新聞に出した今日と云い、殊に蜂部等の悪人が未だ捕縛せられないのであるので、万一の危険を慮(かんが)えて扨てこそ其場所に就て相談する事となったのだ、瑠璃子の宅でと云う話も出たが、それでは矢張危険が無いとは云われぬと思ったので、結局古里村荘ならばと云う事になった。実際古里村荘ならば、自分はこれを自由に使用する事も許されて居るし、また如何に奸智に長けた蜂部にしても、まさか其処迄は気がつくまいと思ったからだ。然う相談が決定(きま)れば一刻も早い方が宜いと考えたから、自分と栗野弁護士とは直様(すぐさま)自働車を飛ばして、池袋なる古里村荘を訪れた、而して二階に通るなり、田川夫婦に命じて近所の錠前屋を呼んで貰った。間も無く小汚気(こぎたなげ)な錠前屋は種々(いろいろ)な道具を持って来た、早速彼の古銅器を見せると、
「こりゃ大分よく接(つい)であります」と首を曲げて感服してる。
「其接目は可成古いかい」と聞くと、
「いいえ、欠目(かけめ)は随分古い様ですが接だのは極近頃です、へえこの錆の様に見えるのは青い絵具を塗って居りますんで、よく騙児(いかさまし)のやる仕事ですよ」と、其儘卓子(テーブル)の上でよく切れる鑢(やすり)でゴシゴシやり初めた。
自分等は直ぐにも接目が離れるかと、物の二十分許りも見て居たが、却々急に離れそうも無いので暫時次の書斎に退いてそれを待つ事にした。二人とも差向いになれば又しても蜂部の話が出る、自分は宜い序(ついで)だと思って日頃疑問として居た処の、蜂部が何故古里村を殺し、更に自分と瑠璃子迄殺そうとしたかに衝いに就て質ねた。すると栗野弁護士は「それは糊谷老人の前の遺言書を見れば直ぐ解る事です」と冒頭(まくらつき)して、大要次の様な話をするのであった。
糊谷老人が此前の遺言状と云うのは、矢張栗野弁護士が立会て書れたもので、其当時糊谷老人は非常に蜂部を信用して居た際の事とて、老人の財産は死後当然瑠璃子に遺すか、若し瑠璃子が結婚せずに死んだ場合には、其財産を全部今迄親切に瑠璃子を養育した報酬として蜂部に与えると云う事を書遺したが、後になって糊谷老人は蜂部が毒蜘蛛を飼養(かっ)て置く事に就いて疑いを抱き、遂に再び遺言状を訂正(かきなお)したのを蜂部等が嗅ぎつけたらしいと云うのである。斯う談り終った栗野弁護士は、
「つまり然う云った理由(わけ)だから、蜂部等としては何うかして新しい遺言状を自分の手に入れて、其上結婚をせずに瑠璃子の死ぬ事を希望して居たと見る可きです、然うすれば老人の財産は全部自分等の手に入る次第(わけ)ですからね。古里村君にしても貴方にしても、瑠璃子と結婚しそうな男はすべて殺して了う必用があるじゃありませんか、其上瑠璃子も―ハハハハ随分酷い奴もあったもんです、ハハハハ何故左様(そん)なら蜂部以外の悪人が古銅器を覗(ねら)ったかと仰ゃる、それは貴方は彼(あ)の古銅器の中には、新しい遺言状の外に或秘密が蔵(かく)されてある事を知らぬからだ、彼品さえ横取すれば、遺言状の中に洩れて居た者でも、事実上老人の或物を相続するに宜いと考えたでしょう、悪人と云う奴は兎角眼端(めはし)の利くものです」と大笑するのである。
これで糊谷老人乃至(ないし)蜂部の秘密が全部明白になったわけだ、唯残って居るものは古銅器の中の秘密―遺言状の外に何んな重大なものが入れてあるかである。自分は胸を躍らし乍ら隣室の鑢の音に耳を澄まして居ると、やがて錠前屋は漸く接目が離れたと報せて来た。愈(いよいよ)これで疑問の古銅器は、遂に内部の秘密を自分等の前に吐き出す事となったのである。
一二三 急死或は変死
隣室に行って見ると、漸く彼の古銅器が旧の接目から切断せられた処だ、栗野弁護士が密(そっ)と目配せするので自分は錠前屋に約束の賃銭の外に若干銭(いくばく)かの割増を与えて玄関迄送り出してやったが、引返して来るともう栗野弁護士は早古銅器から先(まず)一封の書面様のものを取出して居る処だ。例に依て黒蝋で幾度となく封じたものであるが、幾度か其れを剥ぎ去ると、中から一葉の美濃判の罫紙に書かれた、下の方には青い長い、領事の消印を捺した書類が出て来た。栗野弁護士はそれを一目見るなり、
「おおこれだ、これが一年前に書改められた老人の遺言書だ、而してバタビヤで書いたものと見えて領事の調印もある」と尚も暫く黙読して居たがやがて「矢張己(おれ)の想像した通りだ、蜂部の正体を観破したと見えて老人は改めて前の遺言を取消し、万一瑠璃子の死んだ場合には財産を全部無条件で養老院に寄付しろとある」と独言(ひとりごと)の様に云ったが、急に気付いた様に自分の方に向きなおって、
「老人が台湾から帰ったのは、これで見ると蜂部が毒蜘蛛で瑠璃子の生命を縮め兼ないと云う心配からですよ、併し船中で悪人につけられて居ると覚ったので、一方私に手紙を寄越すと同時に新しい遺言状を古銅器に入れて貴方に託したと見えます、まァ読んで御覧なさい」と彼の遺言状を自分に手渡しした。拡げて見ると嘗て自分に宛てた依頼状とは違い、ペンは微細(こまか)く綺麗に書かれてある。
大正―年二月四日、四は茲に此の遺言状を大日本水戸市存在の弁護士栗野武彦氏に託す。
栗野氏よ、足下が此の古銅器を開く前に、世が最愛の娘瑠璃子が急死或は変死した場合には、其死因に対して厳重なる調査をなさん事を望む。何となれば余は愚にもこれより前、世が最愛の娘瑠璃子を、尤も危険性を帯びたる悪漢蜂昇二に託したればなり。
蜂部は有毒にして且つ怖るべき秘露(ペリウ)の雷虎叉(ライコサ)を飼養(やしない)居れり。この毒蜘蛛は彼の汰蘭蛛羅族(タランチュラぞく)の一種にして睡眠中の人間に咬み死に至らしむるものなり。南米殊に秘露地方にては其形体の掌に似たるを以て「死の掌デッスハンド)」または「黒き悪魔の掌(ブラックサタンスハンド)」と呼びこれを怖るる事一方ならず而して此の毒蜘蛛の状態普通の医師にありては何等脳溢血と区別し能わざる事なり。されば古来南亜米利加に於ては屡(しばしば)これを暗殺の道具に使用せるは彼地の歴史を読む者の斉(ひと)しく知る処なり。
余は今日となりては、蜂部が同手段を用いて瑠璃子の生命を奪う事無きやを疑う故に斯くは長々書遺すもの也。
栗野氏よ、若し不幸にして万一余が最愛の娘が彼に暗殺せられたる場合は、足下は、これに対して足下の適当と信ずる方法を取られたし而して瑠璃子の遺産は結婚後ならば法律の定むる処に依りて其良人(おっと)に、若し未婚の儘暗殺せられたる時は全部無条件に養老院に寄付せん事を望む。
終りに臨み本遺言状の確実なる事を証する為に、余が在住地バタビヤ領事の調印を添附す。
淀岸範治印
弁護士栗野武彦殿
読み終るとそれを栗野弁護士に返そうと、何気無く一枚の封筒に入れかけると、今迄自分も栗野弁護士も気がつかなんだが、其中の一枚の封筒の裏に、
「別封の一通を台湾、総督府病院在勤医学士太刀原健夫氏に郵送せられたし」と書いてある、総督府病院の太刀原ならば自分の外にある筈は無い、昨年の九月台湾帰りの船中で初めて知り合となった糊谷老人が其半歳も前に自分に宛た手紙を遺してあるとは、自分は若しや読誤りでないかと更にそれを読みなおした。
一二四 叔父の正体
併し幾度読み返しても同じ事だ。矢張り別封を総督府病院在勤の自分に送って呉れと云うのだ。怪しみ乍ら自分はそれを栗野弁護士に見せる。
「ああ有りました、これでしょう」と、栗野弁護士が再び古銅器の底を探って取出したのは、一通の手紙と一枚の埃及紙(パピルス)である。先ず埃及紙の方から見ると、これには、例の梵字(サンスクリット)で何か認(したた)めてある外に、何処やらの地図が極めて粗末に画れてある許りだ、そして他の一通は表に台湾総督府病院内太刀原健夫殿として、裏には糊谷老人の本名が書いてある。日附は同じく昨年の二月四日で、最早自分に宛てたものたる事は寸毫(すこし)も疑う処は無い。
だが念の為め栗野弁護士に相談しようと思って其方を見ると、弁護士は早く開いて読むが宜いと言わぬ許りに、笑を湛えて自分を見てるのだ。自分は思い切って其封を切った。而してそれを読み下すと、愈々以て老人が自分に宛てたものなる事が明瞭になって来たのみでなく、其の内容は悉く自分にとって意外な意外な事許りだ。
「親愛なる太刀原健夫君」
君には慥か廿五年間君を扶育(そだて)た、君の叔父ならぬ叔父と称する不思議な人物のある事を記憶して居られる筈だ、而(しか)して其不思議な叔父が、君が大学を卒業(でる)と同時に煙の様に此の世から消え去ると云って遣った手紙の文句も記憶して居られるだろう。君の叔父は其時は全く煙の様に此世から消えてしまえばそれで君に対する義務がすむと思って居た。而して併せて永久に君の前に其「叔父ならぬ叔父」の正体を現わさずに済むと思って居た。だがそれは其叔父の思い違いであった、此頃になって君の叔父は愈々正体を現さねばならぬと痛切に感じて来たのだ。
それと云うのは君の叔父が往昔(そのむかし)なせし処の復讐が、今となって重きに過ぎた事を頻りに後悔する様になって来たからである。
君の「叔父ならぬ叔父」は、今より二十九年前、其許婚の女をフトした事から、某(ある)若い伯爵の為めに奪われた、今となって考えて見れば相手は立派な爵位もあり地位もあり加之(おまけ)に金もあって其上非常な美男子だ、君の叔父が女であったならば矢張伯爵に愛を注いだに相違無い、だが其叔父は当時(そのとき)は未だ若かった、許婚の女を盗(とら)れたと云う恨みは火の様に胸に燃えた。而して其の一生を復讐の鬼となって暮らそうと決心した。斯う決心して機会(おり)を待っている中に遂に其時が来た。それは丁度それから一年経った夕立のひどい晩であった、場所は逗子の伯爵家の別荘、君の叔父は其処に忍び込んだが、見ると蚊帳の中には、自分に反(そむ)いて伯爵に従った許婚の女が伯爵との間に出来た不義の凝塊(かたまり)に添乳(そえぢ)をしてるのだ。
君の「叔父ならぬ叔父」は見るなりカッとなって懐中(ふところ)にして居った短刀で、親子諸共一太刀にと思ったが、考えて見ればそれでは過去一ヶ年間の恨を晴らすには余り呆気なさ過る、如(し)かずじりじり恨のたけを思い知らしてやれと、今から考えて見ると全く鬼の心だ、鬼になって眠って居る母親の懐中(ふところ)から、産れた許りの孩児(あかんぼ)を奪いとり夢覚(さめ)て驚き騒ぐ母親を蹴仆(けたお)し、其儘行方を晦ましたのだ。
君の叔父は密(ひそか)に神の恩寵を謝して其隠家に帰ったが、困ったのは其小児(こども)の処置だ、いくら憎い女の腹から産れた憎い敵の胤でも、其小児には罪が無い、殊に其小児の父母を苦しめるには小児を殺して了っては何にもならぬ。乃で君の叔父は其家に年久しく事(つか)えて居るお槇と云う乳母の手で密に其罪の子を育てさせる事にした。
お槇、お槇、その名は自分の永久に忘れる事の出来ない名だ、二十五年間自分を子の如く慈しみ、自分も母の如く慕った老女(ばあや)の名だ、して見れば此の手紙に書かれてある小児と云うのは取もなおさず自分なのだ、而して自分の父親と云う某伯爵とは何人だろう。
一二五 復讐を仕過た
自分は何だか半ば夢の様な気持で其手紙を読み続けた。するとそれには次から次と左の如き驚くべき事柄が記されて居る。
君の叔父の為には、其小児(こども)は憎むべき敵の末ではあるが、お槇の手で育てさせて居る中(うち)次第に其子が可愛くなって来た、乃(そこ)で其の将来の事を考えて、有りもせぬ戸籍を作り、東京府士族太刀原秀臣と云う幽霊の子として届け、飽迄も伯爵家とは無関係の風を装うた。けれども悪い事は出来ないものだ、伯爵家や小児の母親は何時しか自分の仕業だと云う事を知って、一度ならず其罪を詫び、小児を返して呉れる様に君の叔父に頼んで来た、だが君の叔父と云うのは、それを聞入るべく余りに強情であった、何処迄も知らぬ存ぜぬで押し通した、其結果可愛そうに小児の母親はそれを苦に病んで間も無く死んで了った。君の叔父は其時は聊か復讐を仕過たと思ったが、併し末だ敵の片割れたる伯爵が居るのだから其の小児を決して返そうとしなかった。
終(おしまい)には伯爵も次第にあきらめたと見えて、君の叔父にも交渉しなくなったが、其代り性格がガラリと変って、人に笑顔一つ見せぬ陰気な人となった、警視総監から内務とトントン拍子に地位は進んだが、遂に一生妻を娶らず、今から四年前に陰気に此世を去った。君の叔父も悪いとは知り乍ら、とうとう二十五年と云う長い間強情を張通した、斯う書いたら大抵解ったろうと思うが、其小児と云うのが君即ち今日の太刀原健夫君で其「叔父ならぬ叔父」と云うのは、此の手紙を君に書き遺した、世間では糊谷老人で通ってる、本名淀岸範治と云う君の生母(はは)の嘗て許婚の夫たりし男だ、而して君の父は明治以来の内務大臣として尊敬せられた、伯爵玻璃島直文氏である。
君よ、君は何故君の所謂(いわゆる)「叔父ならぬ叔父」が殆ど三十年後の今日となって其正体を現したかを怪しむだろうが、一つは余が信ずる回々教が神の御名を以て「汝復讐せよ然れど其復讐は度を超えて大なるべからず、又断じて正義に悖(もと)るべからず」との教えに深く感じた故(せい)もあるが、一つは此頃になって自分の子の生命が危ういと覚った時の親の心が、しみじみと胸にひびいて来たからだ。
君よ、余が過去の罪を許せ、而して別紙の誕生証明書を持参して玻璃島家に室伏家令を訪ねよ、室伏家令は喜んで君を迎えるで有ろう、何となれば伯爵の代理となって、屡(しばしば)余に小児の引渡しを頼んで来たのは実に室伏家令だからである。
而して出来得べくんば―君に未だ心に許した愛人が無かったならば―伯爵家の嗣子として分家から迎えた初音姫を娶られよ、然らば君の生涯は幸福なるべし―淀岸範治(調印)
として別に一通の自分の誕生証明書を添えてある。自分としては全く意外だ、糊谷老人が自分の「叔父ならぬ叔父」だと云うのも意外なら、現在自分が事(つか)えて居る主人の義父が自分の実父(ちち)と云うのも意外だ。
「ああ意外だ、世の中に此様(こんな)意外な事が有ろうか」と思わず自分が呟く様に云うと、
「ありますとも現に貴君(あなた)が」と栗原弁護士は傍から力を添える様に云って「兎も角も一刻も早く玻璃島家に交渉なさらんと―」
「いいや、それよりはその前に埃及紙(パピルス)の―」
「いや、これは石和田博士で無ければ我々には解らんですから―それよりは先(まず)貴君が玻璃島家」と斯う両人(ふたり)が相争うて居る時、階下から慌だしく田川夫人が上って来た。
「太刀原さん、あの御殿山から大至急の御電話で御座います」
一二六 半狂乱の自分
御殿山からと云えば、云わずと知れた瑠璃子からである、大至急の電話とは何事が起ったのだろうと、急ぎ電話口に出ると、相手は瑠璃子かと思いの外白浜夫人である。用向を聞くと驚くべし、先刻自分が出た後で庭園を散歩して居た瑠璃子は、急に其姿が見えなくなったと云うのだ、自分は聞き誤りで無いかと二度も三度も念を押したが、悲しやそれが事実で白浜夫人は一刻も早く自分に来て呉れと云うのだ。
自分はまるで夢に夢見る心地で、電話を切ってからも呆然と其処に彳(たた)ずんで居ると、後から窃(そっ)と肩に手をかけた者がある、振返って見ると栗野弁護士だ。
「何しろ大変な事が出来たもんですね」と早くも電話の内容を聞取ったものと見えて斯う云うのである。
「ええ」とは答えたが、併し自分はあまりの驚きの為にそれに何と返辞をしたら宜いかすら解らなんだ。すると此様子を見てとった栗野弁護士は、
「何しろ此方(こちら)も大切ですが、彼方(あちら)は尚更相手が蜂部と云う極悪人ですもの」と自分を励ます様に云って「すぐに向うに入らしちゃ何うです、様子によっちゃ此家(ここ)に電話さえかけて下さると私も跡から参りますから」斯う云われて初めて自分も気がついた、成程相手は疑いも無く蜂部に相違無い、而して彼の夜以来一箇月余りも姿を現さなんだ蜂部が、今日になって俄に瑠璃子を誘拐すると云うに至っては、何様其裏面には容易ならざる悪計が企てられてあるものと見るが至当である、殊に自分の罪跡が明瞭となった以上、自暴自棄(やけくそ)まぎれに何様事(どんなこと)を仕かねぬのが悪人の常だから一刻晩れると一刻だけ瑠璃子の身が危い道理である、譬(たと)え分秒の短時間にしろ猶予して居るべき場合で無いと考えたから取敢えず栗野弁護士には、自分が向うに着く迄此家(ここ)に居て貰う事にして、其儘自働車に飛び乗って古里村荘を出た。
自働車は一時間六十哩(マイル)の全速力で、麦浪(ばくろう)の濤(なみ)打つ反圃(たんぼ)道を矢よりも早く疾駆する、二十分の後にはやがて瑠璃子の宅に着いたが、殆ど半狂乱の自分にはそれが二時間以上も経過した様に思われた。さっそく玄関の電鈴(ベル)を押したが不思議や何時でも直ぐ出て来る筈の白浜夫人は何時迄経っても出て来ない、二度三度続け様に押したがそれでも誰一人玄関に出迎える者が無い、加之(おまけ)に家の中はひっそりと閑として人ッ子一人居る様に思われぬ。
如何にも其様子が可笑しいので、今度は玄関の前を左に曲がって枝折戸(しおりど)の前に出た、ここを抜けると後の草庭に出る案内は予て知ってるので。枝折戸は別に内側から鍵もかけて無かったと見えて苦も無く開いた。自分は其処から孟宗藪の中を通ずる小径(こみち)を抜けて後庭に出た。而して見るとは無しに前の方を見ると、其処には先刻誘拐せられた瑠璃子が花壇の前に立って如露(じょろ)で盆栽に水をやってるのだ。
自分は何だか鳥渡(ちょっと)狐にでも憑(つまま)れた様な気がしたが、併し此様に瑠璃子の無事な姿を見ればこれに越した喜ばしい事は無い。未だ生え揃わぬ芝草の上を蹂躙(ふみにじ)り乍ら其方に駆けて行くと足音を聞つけたか、瑠璃子はチラと後を振向いたが、忽ち自分の姿を見付るとさも嬉しそうに微笑んで、其儘如露も何も打棄(うっちゃ)った儘自分の傍に飛んで来た。
「よくまァ早く、妾独ボッチなもんだから寂しくって寂しくって今盆栽に水をやって居た処ですのよ」と、其様子はまるで誘拐騒ぎなどは何処に有ったと云う風である。自分はこれで何が何やら一切訳が解らなくなって来た。
「では何事も無かったんですか」と聞くと、
「え、何うして、何事かあったんで御座いますの」と瑠璃子は不思議そうに自分の顔を打ち仰ぐのである。益々以て解らなくなって来た、して見れば自分は或は全く狐に憑まれたのであったかも知れぬ。
一二七 死にかけて居ます
然うだ、自分は白浜夫人と云う狐に魅(つま)まれたのだと、斯う一口に云って仕舞えばそれ迄だが、併し日頃正直な、瑠璃子に対して何人よりも忠実な白浜夫人が、自分を欺く為に彼の様な電話をかけようとは、何うしても自分には信ぜられなかった。乃(そこ)で自分は先刻白浜夫人からかかった電話から、糊谷老人の遺言状を開いた事から、残らず簡単(てみじか)に物語ると、其都度眼を丸くして驚き乍ら聞いて居た瑠璃子は、自分との話が終ると同時に、
「ではそれこそ蜂部等の悪人の仕業で無いでしょうか、若しや其書類を此方から奪うと云う様な考えから…」と、それから白浜夫人がお正午(ひる)頃使いに出た限り今に戻らぬ事から此家の電話は今朝から一度も使用せられない事など物語って、
「ともしたら、何かの拍子で今日貴方方(あなたがた)の遺言状を開くと云う事を知った悪人の仕業で無いでしょうか」と斯う云うのである。斯う云われて見ると万更自分に心当たりが無いでも無い、第一に昨日栗野弁護士が東京からタイムズにした広告これは従来糟場夫人の記事が載ってからと云うものは、絶えず蜂部等一味の者の注意を引いて居ると思わねばならぬ。第二に栗野弁護士、これとても先代から糊谷老人と深い関係があり、殊に前(さき)に糊谷老人が蜂部を信用して居た時代に書いた遺言状にも立会ったと云えば、これとても悪人の注目を免れぬ処だ。其様此様(そんなこんな)を考えた結果自分等の方でも注意の上に注意を加えて、扨てこそ遺言状を古里村荘で開いたのであるが、併しそれとても悪人等の方で充分注意を払えば、敢えて必ずしも知れ難い事でも無い。唯此場合疑問として残るのは白浜夫人だ、彼の女の先天的(うまれつき)の性質として、彼様(あのよう)な悪人の味方して自分等を欺くとは何う考えても信ぜられぬ処だ。
自分は茲(ここ)に於て全く惑わざるを得なくなって来た、暫時首を傾げて考えに耽って居ると、
「ね、然うで無いでしょうか、妾の想像が当って無いでしょうか」と瑠璃子は再び自分の返辞を促すのである。
「さァ先刻(さっき)の電話が白浜夫人からで無いと私も然うとしか想像しないのですが…」自分は未だ何処までも白浜夫人を疑いたくはなかった。
「だって」と瑠璃子は自分の煮え切らぬのをもどかしく思ったか「そりゃ妾だって白浜夫人の人格は疑いはしないのよ、だけどどんな人格の人にしろ、他から怖ろしい脅迫に会った時は…殊に白浜夫人だって矢張女ですもの…二人で此様議論してるより、古里村荘に電話をかけて見た方が早道じゃ無くって、それで向うに何事も無かったら白浜夫人の名を詐った誰かの悪戯(いたずら)ですわ」成程負うた児に浅瀬とは此事である。徒らに考えに耽って居る時で無いと思うたから、
「然うです、それが一番だ」と早速自分は電話室に行って古里村荘に電話をかけた。すると果然瑠璃子の想像は遺憾乍ら適中した。電話に出て来たのは栗野弁護士では無く、紛れも無い田川夫人の声だ。
「先刻から電話をお掛けしようと思いましたけれども、何しろ貴方の行先を存じませんものでしたから」とオロオロ声である。これは必定(てっきり)自分の出た後で何事か出来たものと思ったから、
「一体何うしたと云うのだ」と聞くと、
「ええ、あの貴方と御一緒にいらした弁護士の方が…」
「えッ、えッ、栗野弁護士が?」
「ええ、あの死にかけて居ますから…」と斯う云う中も気が急くかして田川夫人は此方の云う事はよくも聞かず、一刻も早く自分に帰って来いと云うのだ。して見れば先刻の電話は、全く瑠璃子の想像の如く悪人等が自分を誘(おび)き出した後で一仕事しようとし掛けた偽電話だったのだ。自分は受話機を耳に宛てた儘今更の様に電話室の中で地団太を踏んだ。
一二八 眼瞼と瞳
自分は尚も電話で栗野弁護士の容態を確めようとしたが、何分にも相手の田川夫人は余程慌てて居るらしい様子で、何を問うても、碌に返事をせず、唯一刻も早く自分に帰って来いと云うのみである。それで自分は晩(おそ)くも三十分の後には帰るべき旨を告げて電話を切る、再び瑠璃子の室に帰った。而して電話の模様を話すと瑠璃子も非常に驚いた様子で、直ぐ自分と一緒に古里村荘に行こうと云い出した。云う迄も無く此時は、瑠璃子の健康は既に外出しても差支なき迄に回復して居たし、殊に蜂部等の悪人共が、斯う自分等をつけ睨って居る以上、此家へ一人残して行くのは如何にも気がかりで居た際とて、自分は一も二もなくこれに賛成した。
それから裏の畑で草を抓(むし)って居る庭番の作助を呼んで留守を命じ、自分は瑠璃子と自働車に同乗して、早速古里村荘に駆けつける事にした。やがて自分等の乗った自働車が向うに着くと、其音を聞きつけて家内(なか)から田川老人が飛び出して来た。
「一体何うしたのだ」と聞くと、
「何うにも斯うにも…兎も角も容態(ようす)を御覧なすって下さい」と、老人は殆ど自分を引摺らぬ許りにして二階の書斎に連れて行くのだ。扉(ドア)を開けて室内(なか)に入ると、其処には田川夫人が附添うて介抱して居たが、見れば成程老人夫婦の驚くも決して無理は無い、中央の嘗て古里村が息を引取った寝台の上には、つい一時間半許り前迄、元気よく自分と語り合うて居た栗野弁護士は、死んだでも無く睡ったでも無く、所詮半死半睡の状態で仰臥(おうが)して居る、瑠璃子は古里村の事を思い出しでもしたか、それを見るなり、真青になって自分の蔭に隠れた。自分は其容態を一見すると同時にそれが普通の病気で無いと直覚した、而して第一に脈を採り次に眼瞼(まぶた)と瞳を検査するに及んで、愈々自分の第一印象の誤らざるを覚った。
「ああこりゃ麻酔剤に中毒(やられ)たんだ」と呟く様に云うと、
「矢張然うで御座いましたか、実は私も然うでないかと思って居りましたが」と田川老人は夫人と共に前後の有様を物語る。それに依ると何でも自分が出てから十分許りすると、急に二階の書斎でドタバタと人の争う様な物音がしたから田川老人は上がって来ようと思ってると間もなくひっそりとなったので其儘意にも止めずに居るとそれから暫く過(た)って何かの用事で二階に上がった、夫人は矢張何の気無しに此室に来て見ると、驚くべし栗野弁護士は麻縄を以て安楽椅子にグルグル巻きに縛りつけられた儘気を失って居たとの事である。斯う語り終った田川老人は、
「早速電話をお掛けしようとは思いましたが、何しろ御行先が解らず、夫婦でマゴマゴして居る時に貴方からお電話がありまして」と、尚も其当時を追想するのか、且(かつ)吃り且渋り乍らさも面目無げに物語るのだ。
「宜し宜し、それで何も彼も解った、なァに大した事じゃない、直ぐ正気になるから」と自分は夫婦の者を慰めた上、阿里に治療具と薬品とを入れた鞄を直ぐ持って来る様、夫人に頼んで玻璃島家に電話をかけて貰った。すると幸いな事には阿里が電話室の傍に居たそうで、直ぐ飛んで来ると云う電話だ。
乃(そこ)で自分は一方田川夫婦を煩わして、附近の薬局より必要な薬品を買入れしめると同時に、一方瑠璃子を指揮して取敢えず応急の手当を施す事にした。すると其手当が宜かったのか、それとも栗野弁護士の心臓が人並勝れて強壮な故か、それから二十分許り過つと、「ウム」と息を吹き返した。其処へ漸く薬鞄を提げた阿里も駆けつけた。
一二九 折角の犯人
気がついたとは云うものの、何しろ普通のコロロホルム剤の更(もう)一層強烈な麻酔剤に中毒(やら)れたのだから直ぐ意識が明瞭なると云う訳には往かぬ、自分は早速阿里が持ってきた鞄を探って興奮剤を取り出し、それを栗野弁護士に与えた。而して時計を眺め乍ら其経過を見てると、秒一秒毎に意識が明かになって、十分許りの後には自分の顔も見分がつく様になって来た。
自分は更に一杯の葡萄酒を其唇にあてがってやると、やがてゴクリと勢いよく飲み下した栗野は、パッと眼を見開いたなり、ムクムクと寝台の上に起き上って、
「おお矢張君でしたね―そして令嬢も」と瑠璃子の方に向なおった。
「まま暫く寝て居玉え、然う無理をしちゃ…」と止める自分を、
「なァに大丈夫だ」と払い退ける様に起きなおった栗野は
「じゃ矢張―令嬢が無事な処を見ると、蜂部の奴、私の手から書類を奪う為めに君を誘き出したんですね」と、今度は自分に斯う云うのである。
「えッ、じゃあの書類を」と覚えず斯う叫んだ自分は、今更の様に洋机(デスク)の上を見ると、其処にあるべき筈の書類が無い。
「然うです、つまり我々は一杯彼奴(きゃつ)に喰わされたんです」と、栗野はさも口惜しそうに歯嚙(はがみ)をして「君が出られた後(のち)間も無くです、私が其処の椅子に腰を掛けて、洋机に向って書類を見て居ると、急に後に人の気配がするんです、振り返って見ると何時の間に忍び込んだのか、蜂部ともう一人の男が其処に居るじゃありませんか、咎め様とするとイキナリ私に飛びかかって…抵抗はしましたが何しろ二人に一人です、加之(おまけ)に向うは咽(むせ)る様な辛い様な、何とも云い様の無い…今から考えると麻酔薬でしょう、それを浸した手巾(ハンカチ)で私の鼻と口を押えるのです、暫時(しばし)は抵抗しましたが」と、恰も蜂部等が其処にでも居るかの様に、興奮し切った態度で其時の有様を物語るのだ。
自分は未だ全く麻酔剤が醒め切らぬ栗野を、斯う興奮させる事が、当人の健康上あまり好ましく無いと思ったから、宜い加減にそれを受流して、兎も角も、もう一二時間更に改めて睡眠す可き由を諭し無理にそれを寝かしつけようとした。けれども栗野は日頃柔和(おとな)しいだけ怒り出したら最後却々自分の云う事などは用いない。
「イヤ寝て居られる場合じゃありません、警察に電話をかけん」と又もや寝台の上に起き上るのだ。其処へ階下から田川老人も上がって来て、先刻買物に出かける時警察に訴えた旨を告げ、これも矢張頻(しきり)に寝かそうとしたが、然うすれば然うする程栗野は益々興奮して来る。
「然うだとすれば愈々以て怪しからん訳だ、先刻かけたとすれば、もう警官が来ねばならぬ筈なのに、それに未だ愚図愚図してるとは、これだから僕は田舎の警察が嫌いです、宜しじゃ僕がもう一度催促をする、折角の犯人を逃がす様な事があっては何にもならんから」と、未だ邸内に蜂部等が隠れて居でもするかの様に騒ぎ立てるのである。薬の作用とは云い乍ら、これには殆ど自分も持てあましたが、するとそれ迄黙って栗野の話を聞いて居た阿里は、急に此時窃(そっ)と自分の上着を引いて、
「先生其の蜂部とか云う奴ァ、過日(いつ)か僕が上野の停車場から自働車に載せてやった奴で無いのかい」と、突然妙な事を聞くのである。場合が場合である一同の眼は期せずして阿里の上に注がれた、自分は何故に斯様(かよう)な事を云い出したのかと怪しみ乍らも、「然うだ、何故其様事を聞くのだい」と問うと、阿里は急に得意そうに小鼻の上に皺を寄せ乍ら「何故って、彼奴なら僕は居処を知ってるから聞くんだ、而して今夜彼奴が何処で何人(だれ)と逢うと云う事までチャーンと知ってるんだ」と益(ますます)妙な事を云い出して来た。