由利聖子 チビ君物語 『少女の友』昭和9年12月号~11年12月号
チビ君
1
「オーイ、チビくん、靴がないぞオ。テリイをさがせエ、テリイをオー」
玄関で怒鳴っているのは坊ちゃんの修三さまである。利イ坊さまのランドセルを勉強部屋で揃えていたチビくんは、ビックリして、あわててお部屋をとび出して、内玄関の下駄をつっかけると、一直線にテリイの小屋にかけつけた。ある、ある、やっぱりイタズラ犬のテリイがくわえて来ていた。あんなにセッセとチビくんがきれいにピカピカ光らしておいた修三さまの靴がドロンコだ。
テリイのバカ!うるさく足にまつわりついて来るテリイの頭を靴でコツンと一ツ。キャン、テリイはシッポを後足にまきこんで横ッとびに逃げた。
「ダメよオ、テリイをいじめちゃアー」
勉強部屋でランドセルを背負いながら、トマトの様に可愛い唇をトンガラした利イ坊さまが、窓からチビくんを怒った。
こんな事は毎日だ。ツクヅクテリイが憎らしくなって了う。それだのにテリイは又一番チビくんになついて居る。朝お台所の戸をあけると、お使いに行こうとお勝手を出ると、利イ坊さまのエプロンを洗おうとタライにしゃがむと、テリイがマリみたいにとんで来て、チビくんの脚にじゃれつく、顔をなめる。
「チビくんとテリイは姉妹(きょうだい)ぶんだナ。チビで、ふざけンのが好きで、うるさいけど可愛くて……」いつも修三さまはそう云う。
大たい、初子と云う立派な名をもった女の子をチビくんにして了ったのが修三さまだ。
修三さまは何でもかんでも綽名(あだな)で呼ばなくちゃ承知しないと云う困った中学生である。校長先生が古ダヌキ、教頭が川ウソ、体操の先生がシャチホコの乾物、用務員のおばさんを、バケツ夫人と云う。顔が長いからだそうである。
「今日、バケツがバケツをもって二階からツイラクしてねェ―」と、いつだったか学校から帰って来て、勉強部屋で利イ坊さまと話をして居た。お八(や)ツを、もって行ったチビくんをつかまえて、「オイ、それでどっちのバケツの底がぬけたと思う?」ときいた。世にもうれし相(そう)な顔だった。
「可哀想に、バケツ夫人の方が腰がぬけてネ、さっそく医者(ホテイ)がかけつけて来たヨ」とこれもお医者を綽名で呼んだ。
チビくん、十三になったのだけれど、十の利イ坊さまと同じ位しかない。チビくんのお母さんは修三さまの乳母(ばあや)だった。だから修三さまとチビくんは乳兄妹(ちきょうだい)だった。お母さんが満洲へ行ったお父さんのところへ行かなければならなくなって、沢山ある子供をどうしようか、と困っていた時、三番目のチビくんを引とろう、と云って下さったのは修三さまと利イ坊さまのお母さまだった。
お母さまに連れられて、短いおサゲをトンボみたいにしばってツンツルテンのネルの着物を着て、チョコンとお茶の間の片隅に坐っているチビくん―その時はまだ初子だった―を、学校から帰ってきた修三さまは一目見るなり、
「ヤア、チビくん!」と例の又、何でもかんでも綽名をもって呼ばねば気がすまない調子で、こう呼んだ。いかにも初子はチビだった。残念ながら修三さまのお母さまも初子のお母さんも、そして初子自身も、その「チビくん」はジツにピッタリした綽名である事を承知しないわけには行かなかったのである。
奥さまは、とても親切な方だった。修三さまのお父さまはこの春にアメリカへいらして、お帰りは来年だった。
利イ坊さまはたった一人の女の子で又末っ子だったから、チビくんには一寸苦手だった。年のわりにおマセである。おまけに幼稚園時代からF女学校の附属へ入って英語をならったし、小学校に入ってからはもうフランス語をやっている。こんな小さい子がそんなフランス語なんてものをやっていいのかしら…?と、チビくんは時々不思議に思う。チビくんと来たら、英語のエの字どころか、ウッカリすると自分の名前の「初子」をシメスヘンに書いたりする。
「バカねエ、チビくんのバカ、ユウみたいなガルは、フウリッシュ・ガルと云うのヨ」と、利イ坊さまはマセた赤い唇をトンガラかして、英語のわからないチビくんをケイベツしようと威ばるのである。
「何云ってんだイ、おシャマ奴(め)。ガルとは何だイ?チビくんをいじめんのはよせヨ。そんな事云っていじめんなら、お兄さんが、ドイツ後で利イ坊をやっつけるゾ」
修三さまはお医者さまの学校を受けるので、今年の秋からドイツ後を習いはじめたのである。そう云う風に云われると、今まで威ばってチビくんをやっつけて居た利イ坊さまは、恥しさと口惜しさで真赤になりながら、チビくんをにらみつけるや、バタバタと西洋間の方へとんで行って了うのである。そして急にピアノのフタをあけて、「タンタカタッタッ、タンタカタッタッ……!」と怖しい割れそうな音を出すのである。だから「ミリタリイ・マーチ」がひびいている時は、チビくんと利イ坊さまの国交はダンゼツしているものと思えばいいのである。
2
「利イ坊、傘をもって行ったかしら…?」
修三さまも、利イ坊さまも学校へ行って了うと、あとはシーンとしたお邸内である。
お昼に近い、しずかなお茶の間。奥さまの傍で、自分のに編み直していただく利イ坊さまの古いセーターをほぐして居たチビくんは、奥さまの心配相な声に窓の外を見た。ドンヨリと朝から曇っていた冬空をナナメにきって、ツ、ツと何かおちて来た。
「ア、雨!」
「いいえ、雨だけじゃないのヨ、あれはネ、ミゾレってものヨ」
利イ坊さまもだけれど、修三さまは今朝は傘を忘れていらした。―
「お傘もって行って来ましょうか」
「そオ、すまないわネ、冷たいのに。丁度みねやが麻布へお使いに行っちゃったんで…じゃ、行って来てネ」
大きな曲り柄の修三さまの洋傘(こうもり)と、赤い柄のついた十四本骨の洒落た利イ坊さまの傘をもって、お邸を出た。冷たい!あたたかいガスストオヴのついたお部屋に入っていた時は一寸(ちょっと)も気がつかなかったけれど、冬の外(おもて)は、ウスラ寒い空気が冷いミゾレを散らして、とっても寒い!
向方(むこう)からマントをスッポリかぶった小学生が三四人帰って来る。今日は土曜日だ、みんなおヒケが早い。大いそぎ、大いそぎ。少しでも遅れた日には、又利イ坊さまに英語とフランス語のまじったケン付くをいただく。どうせ日本語だって、利イ坊さまの使う「およそ」だとか「想像以上の…」だとか…云う言葉は、チビくんにはチョッとばかり種類がちがう様に思える。
お邸を出て、三丁ばかり先のお薬屋さん、丁度、修三さまがお降りになる電車の停留場の真前である。そこへ修三さまの傘を預けた。傘を忘れた日は、帰りにここへ寄ってあずけておく傘を受けとってさして帰ることにきめてあるのである。
電車通りに沿って少し行くと、F女学校の黒ずんだ建物が見える。通用門を通ってお供の待合室へ行った。沢山のお供のお手伝いさん達が、ベンチに腰をかけて、小さい御主人の授業の終わるのを待っている。編み物をしている人もある。雑誌を読んでいる人もある。今迄にも二三度この待合室へ来た事がある。そのたんびにチビくんはこう思うのである。―
―よくまアこの方たちは、ああやって長い間ジーッとして腹がたたないわネエ―
小さなお嬢さんがいばって外套をきせてもらったり、傘をひらいてもらったりしているのを見ると、何と云う事なしにチビくんは、子供心に腹がたってたまらないのである。
羨ましくて腹がたつのじゃなくて、そのお手伝いさん達が可哀想になるのだった。チビくんと一ツか二ツ位しかちがわない様なお手伝いさんが、寒そうに肩をすぼめて迎えに来ている事もある。もし自分も利イ坊さまを毎日こう云う風に送り迎えしなくちゃならないのだったら…と思うと、それを決してさせない奥さまが、急に世界で一番、お母さんよりも、えらい、いい、立派な方に思われて来るのだった。
―ジリジリジリジリジリッ―
終業のベルが鳴った。お供のお手伝いさん達は各々立上って外套を着せかけたり、お荷物をうけとったりする用意をはじめた。
バタバタ、いつも一番にとんで出て来る松平さんのお嬢さんが、姿を現した。つづいて、ドタドタ、バタバタ、後から後から赤や緑のベレエをかぶったお嬢さん達が群がり現れた。
利イ坊さまは…?背の低いチビくんは一生懸命のび上る様にして、それらのお嬢さんたちの群をキョトキョトと見廻した。利イ坊さまは中々見当らない。―
「ヤンなっちゃうワア、うちのチビすけと来たら…」
ア、まぎれもなく利イ坊さまの声だ。
「何にも御用なんかしてないくせに、傘一本ももって来てくれないンだもの。きっと又お母さまのそばであたしの本を読んでるか、お兄さまのお机の上でもかっちゃがしているのヨオ」
「そうヨ。あたくし、あの子、大きらい。とてもナマ意気らしいわネエ。大きなねえやさんは好きだけど…」
相槌うって居るのは、利イ坊さまの親友で、いつも遊びに来るたンびに、自分より身体の小さいチビくんを、さもケイベツするみたいににらんで行く、戸田さんのおテンバお嬢さんにちがいない!チビくんは思わず、かじかんだ手にシッカリ持っていた赤柄の傘を、ピシリとたたき折りたくなった。
「あたくしの傘にお入りあそばせよオ、途中までお送りするわ」
この声が、チビくんのシャクにさわる心をグット止めた。あわてて、赤いベレエが並んでいる昇降口のタタキへかけて行った。
「あら、来てたの?どうして今迄出て来なかったのよ、今来たんじゃないでショ?ひどいわネ、人を困らせようと思って、ひどいわ、いいわ、いいわヨ。戸田さんに入れてっていただくから…」
何か云おう、とする間もなく、赤いベレエ帽は並んでミゾレの校庭を走る様に歩いて行く。
「利イ坊様―ッ」
追いかけ追いかけ、チビくんは必死になって傘を利イ坊さまにさし出した。何がおかしいのか、利イ坊さまは戸田さんと肩と肩を頬と頬をおしつけ合ってキャッキャッ笑いながらなおもドンドン面白い事でもしている様に歩いて行く。―
電車通りをすぎて、角の薬屋さんも曲って二人は行く!角で戸田さんが別れて行って了えば、傘をさしてくれるだろう、と云う淡いのぞみも消えて、チビくんは泣き出しそうになった。
傘をもって行って、その傘をささないで帰らせた、と云う事がわかったら、奥さまはどんな顔をなさるだろう!それを思うと恐ろしいやら、悲しいやらで、チビくんは足がすくむ様になった。熱い涙がかじかんだ真赤な手の甲にポトポトと垂れた。
「オイ、チビくん、だろ?傘ありがと。―どうしたンだイ?」
いつの間にか、後から大股で歩いてきた修三さまがのぞきこむ様に云った。チビくんは黙って片手にもった利イ坊さまの傘をさし出して、半丁ばかり先を走る様にしてゆく利イ坊さまの後姿を涙にぬれた眼で見た。
修三さまは、だまって傘をうけとると、そのままグングンと大股で利イ坊さまの方へ歩いて行った。
「利恵子ッ!」
突然、しかも怒気をふんだ修三さまの声に、利イ坊さまはギクッとしてふりかえった。
「又、いじめたナー」
物凄い修三さまのけんまくに、利イ坊さまはだまって目を伏せて了った。こう云う時の修三兄さまの怖さはよく知っている。どんなヤンチャもイタズラも笑っている兄さまだけれど、勝手な意地悪な我ままだけは決して許さない兄さまだ。
戸田さんは、二人の危い雲行きを見ると、
「じゃア、さよオなら―」と、電車路の方へ引きかえして行って了った。
「あやまるんだ。そして、お礼を云って、この傘をさして帰るんだ」
どうなることか、と心配しながらオドオドと近寄って来たチビくんの前に、修三さまは利イ坊さまのベレエ帽のあたまをおしつけて、ピョコンとお辞儀をさせた。
ワッと、泣声があがった。利イ坊さまも泣きだした。そして、チビくんも泣き出した。
3
ミゾレの日のことがあってから、チビくんは今までよりももっともっと修三さまが好きになった。利イ坊さまとは仲よくしようと思っても、利イ坊さまの方でよせつけないのであった。
修三さまが、病気になった。丁度、暮の忙しい時で、その上おまけに奥さまの年寄ったお母さまが急病で、奥さまはとるものもとりあえず至急お国へお帰りになった。
その夜は、みんな心配と不安と淋しさで、気ぬけした様だった。修三さまは明日一日でおしまいになる試験の勉強をするために、二階のお部屋に引きこもったきりだった。利イ坊さまも静かに本を読んでいたが早く寝て了った。お母さまにも兄さまにもはなれて、一人ションボリ勉強部屋へ寝に行く姿を見た時、チビくんはたまらない同情を感じた。
―夜中だった。本当はまだ十一時前だったのだが、一寝入したチビくんにはそう思えた
「初子さん、すみませんけどね、お医者さまへ行って来て下さいナ」
お手伝いさんのみねやがあわただしくチビくんをゆり起した。修三さまが急にお腹が痛くて大変だ、と云うのである。金盥(かなだらい)をもってったり、水枕を探したり、みねやは大変だった。
寒いのもねむいのも忘れて、チビくんは、真暗な路をお医者さまにかけつけた。お医者さまは寝ていて中々起きてくれなかった。寝巻の上に羽織を来た丈(だけ)のチビくんは、ガタガタふるえた。しかし、歯をくいしばりながら何度も何度も戸を叩いて、声をかけた。
お医者さまがいらして診察なさる間、チビくんは眼(ま)ばたきもしないでジッと、修三さまの顔とお医者さまの顔を見くらべていた。
修三さまの病気は軽い胃ケイレンだった。あんまり勉強がすぎて、消化力の方がお留守になって了って、故障が起きたのだった。
「お母さまの留守に、主人役が病気になっては駄目じゃないか」
年とったお医者さまは、蒼い顔をして寝ている修三さまを、元気をだす様にこう云って笑った。お医者様が笑っていらっしゃる様なら、修三さまの病気も大した事はない、…とチビくんはホッとした。気がつくと、何時の間に起きて来たのか、これも白いネルの寝巻の上に羽織をひっかけたまンまの利イ坊さまがピッタリとよりそって、同じ様に心配相に修三さまを見つめて居るのだった。
「もう大丈夫だヨ。みんな寝ておくれヨ」
元気そうに修三さまは云った。
心配なオドオドした顔をしているチビさん達、そんな恰好でいつまでも起きていると、風邪を引くぞ、それこそ大変じゃないか!―それでも利イ坊さまもチビくんも動かなかった。利イ坊さまはブルブルふるえて居る。それがハッキリよりそわれて居るチビくんの身体に、つたわって来る。―
「よオお寝(やす)みヨ、いいんだヨ、もう―」
だまぁって利イ坊は立上がった。お兄さまに怒られるのが怖さに、しかし、襖にピッタリとくっついたまま動かない。
「どうしたんだイ?―オイ、みねや、利恵子をねかしておくれヨ、きっと先生寝呆けてるんだよ―」
修三さまのフトンの足許へユタンポを入れて居たみねやが、利イ坊を抱く様にして部屋を出て行った。
「チビくん、いいよ、寝たまえ。みねやがここで寝てくれるから…」
チョコンと枕元に坐っているチビくんを見て又修三さまは(少し厄介だなア、子供ってもンは、中々ねないで、と云う気持で)云った。
チビくんは一晩中、修三さまの枕元でお世話がしたかったけれど、そう云われてスゴスゴとお部屋を出た。お廊下の角で、利イ坊さまをねかしつけて来たらしいみねやに逢った。
勉強部屋の前―かすかな泣き声、チビくんははつと立止った。
利イ坊さまが泣いている!さっきあんなにグズグズしていたのは、ねぼけたんじゃなくて、一人で寝るのがさびしかったのだ。
チビくんも、つと考えた。みねやが修三さまの御部屋に寝に行って了ったら、チビくんもたった一人だ、広いお茶の間にたった一人!
翌朝(あくるあさ)―
あんなにひどかった胃ケイレンもそのまま夢の様に直って、サッパリした気持で、洗面場に立った修三さまは、みねやによびとめられた。
「―フトンは残っていて、姿がないんでございましょ、あたし、びっくりしましたワ。初子さんたら、マア、利イ坊さまンとこへ―」
修三さまは、勉強部屋の障子をあけて、中をソッとのぞいて見た。
そこには、赤いメリンスのおフトンをかけて、利イ坊さまとチビくんがシッカリと抱(いだ)き合って、スヤスヤと寝て居るのだった。
「いい子だナ―、チビくんは―」
修三さまは、何だか自分まで嬉しくなって二人の幼い少女の安らかな寝顔を、シミジミと、もう一度眺めた。
帰れテリイ
1
テリイが仔犬を生んだのはクリスマスの頃だった。
いつもお台所の戸をガラガラとあけると、待ちかまえていたようにうれしそうに、ワンワン吠えながら足許へすりよって来るテリイの姿が見えないので、チビくんはオヤと思った。
その朝は霜のひどい、日もよく晴れたとても気持のいいお天気だった。
いつもの様に裏庭へ出て、深呼吸をした。
これは修三さまの御仕込みである。清々しい朝の空気の中での深呼吸は、三十分のラジオ体操に数倍マサれり、スベカラく汝深呼吸をせよ、と云うのが修三さまの主義である。
「それに背ものびるよ、きっと。身体も丈夫になるし、背ものびるし、君、すばらしいじゃないか!」
背がのびる、その言葉がチビくんを深呼吸党にした。毎朝毎朝一生懸命にノビ上る様に深呼吸をする、チビくんの楽しい希望である。
ドウゾ、背がのびます様に!今朝もまたそのおイノリと共に深呼吸をすます。でもテリイはまだ来ない。いつもなら足へまつわりついて深呼吸の邪魔になるぐらいだのに!
どうしたんだろう?チビくんは真白に降りた霜をサクサクとふみながら、テリイの小屋へ行った。
テリイは小屋の中に居る。茶と白とブチの背中が入口から見える。
「テリイ!」
いつもならとんで出て来るのに、今朝は一体どうしたんだろう、とんで出て来るどころかワンともクンとも云わない。
小屋の前にしゃがんで、のぞきこむと、
「ウウ―」
テリイはうなるのだ。仲よしの大好きのチビくんが来たと云うのに!
見ると、背中を丸くして顔だけこっちへねじむけて、うす暗い小屋の中で、まるで何か怖しいものでも来た時の様に、怒った顔に、「ウウー」と、又、うなる。
「オイ、チビくん、台所でみねやが呼んでるよ」
手拭を首にまきつけて歯ブラシをくわえた修三さまが、いつの間にかチビくんの後に立っていらした。その声を聞くとテリイは、又一きわ高い声で、イヨイヨ危険がせまった、とでも云い相(そう)な声でウウウ、とうなった。
「アレ、どうしたイ、テリ公!」
修三さまはしゃがんでのぞきこんだ。しゃがんでのぞきこんだ。
「ヤア、こどもを生んだア!」
トン狂な修三さまの声に、チビくんはハッとして、あわてて又のぞきこんだ。
なる程、テリイは仔犬(こども)を生んだのだった。
気がつかなかったあっち向きのテリイのお腹のあたりに、白や茶の小さい塊がモゴモゴとうごいて居た。道理で、今朝はテリイがお台所へ来なかった筈だ。
「一匹、二匹、ヤ三匹だ」
修三さまは手をつっこんで仔犬をコロコロとうごかした。
「ウーワンッ」テリイは必死に吠えたてて、その手にかみついた。
「ア痛てて、チェッ、物凄えな、テリ公奴(め)!急に母性愛を発揮しやがんなア」かまれた手を二三度ふりまわして、手拭でゴシゴシ拭いた。
「アレッ血が出てきやがった、ウワーイ、メンソラだ、メンソラだ!」
チビくんはあわてて、お台所へとんで行って棚の上のメンソラをもって帰って来た。
「どうしたの?奥さまと利イ坊さまと、何事か、と云う顔つきで裏庭へ出ていらした。
「テリイが子どもを生んだんだよ。出してみようと思ったら、いきなりワンとかみつきやがんのさ」
修三さまはいかにも口惜しそうである。
「見たいわ、お兄さま出してみせてよ」
利イ坊さまはお鼻を鳴らした。
「よせやい、二度も三度もかみつかれてたまるかい。君やってみたまえよ、君なら大丈夫かも知れない。僕、ふだんいじめてばっかり居るからな―」
利イ坊さまはしゃがんで恐る恐る手を出した。
ウ、ウ、テリイはうなる。ビックリして利イ坊さまはとび上った。
「およしなさい、今はだめよ、テリイの気が立っていますからね」
「何故気がたつんだい?」
修三さまは奥さまの顔を見た。
「何故でも、気が立っているんですよ。子どもをとって行かれると思ってね」
「とって行くつもりじゃないンだがナ、一寸見るだけなんだがなアー」
「ホホ、そんなこと、テリイにわかるもんですか」奥さまは、口をとんがらかしてかまれた手の甲をさすっている修三さまを見て笑った。
「とに角、怪しからん、人間様の真情をゴカイして、コトワリもなしにイキナリかみつくとは、オイ、テリイ、覚えて居れよ、このウラミは必ずかえすからナ」
修三さまは肩をそびやかしてザクザクと霜の道を大股で台所へ行って了った。学校では柔道剣道拳闘と、その道の豪傑と云われているのに、たかが小ッぽけなフォクステリアのテリイにイキナリ不意打ちをうけて、ムネンの負傷をしたのが、大変お気にさわったらしいのである。それと云うのも、テリイが今まであんまり修三さまにおイタばかりしていた罰かも知れない。裏庭に干しておいた修三さまのゲートルを泥ンコにしたり、竹刀の柄糸(えいと)をかじったり、靴を汚したり…修三さまは、そう云う点ではテリイを目の仇の様にしていたのだから、今度と云う今度は、ガゼン、怒って了ったのもムリもない―。
2
「お母さま、明日、松平さんと戸田さんが犬をもらいにいらっしゃるんですって」
「そう、どれをあげるの?」
「もち論、パールをぬかしたあとの二匹よ、パールはいくらお仲よしの戸田さんにだって差上げられないわ」
お正月の楽しいお休みもすんで、学校がはじまったばかりの日、お夕飯の時に、利イ坊さまがテリイの仔犬の事をもち出した。
テリイが生んだ三匹は、一匹は羊の子の様に真白なの、あとは丸で反対に真黒なのが二匹である。
利イ坊さまは羊の子の様に真白なのが大のお気に入りで、早速ならいたてのホヤホヤの「真珠(パール)」と云う名をつけた。
「オイ、一寸待てよ、あとの二匹って云うとクロ助とクロ兵衛かい、御冗談でしょ、クロ助の方は、僕の組の加藤にやる約束になってるんだぜ」
「アラ、ずるいわ、お兄さま、そんなお約束、勝手にして」
「勝手なもンかよ、君こそ勝手じゃないか、二匹とも約束して来るなんて」
「だって、テリイは、あたしの犬よ」
利イ坊さまはベソをかきながら云う。なる程そう云われると修三さまはグッとつかえた。
テリイは、アメリカへいらしたお父さまが、お友達の所から利イ坊さまのために、もらっていらっしたのである。
「キ、君の犬にしたって、僕のものをメチャクチャにするじゃないか」
とんでもない所へリクツをもって行った。
「イタズラの事なんかあたしが知った事じゃないわ」
「だからさ、たとえ君の犬にしたところで、損害は僕の方がひどいんだから、だから、―」
「もういいじゃないの、又喧嘩になりますよ」
おつゆをお椀に盛りながら、奥さまは一寸たしなめるようにおっしゃった。先刻(さっき)から奥さまの横で御飯をよそいながら、チビくんも二人の口争いをハラハラしてきいて居た。
「だから、一匹位、こっちの勝手にしたっていいわけだ、って云うんだよ」
「そんなわけないわ」
「あるよ、損害賠償だ、立派なもんだ」
「ホホ、修三さんの理くつは随分立派なえ、よござんすよ、一匹位、ねえ、お兄さんのお友達にもあげるでしょう」
奥さまはやさしく利イ坊さまにおっしゃった。
「だって、あたし、困るわ、だって、戸田さんにはもうズッと前からお約束したンだし、松平さんはテリイが赤ン坊の時からほしがってらしたのを、テリイが仔をうんだらそれをあげるって、お約束しといたんですもの」
「何も家のテリイばっかりが犬じゃないよ、何だってそうテリイばっかりねらうんだ」
修三さまは大きな口をあいてロールキャベツをアグリとほほばり乍ら、モグモグと憎まれ口をきく。
本当にそうだ、とチビくんも思う。戸田さんにしても松平さんにしてもどっか他のところからお貰いになればいいのに!…と。あんな我ままなお嬢さんの家へもらわれて行っては、クロ助もクロ兵衛も可哀想だわ―と思う。
「明日、戸田さんと松平さんがいらしたらそう云って、どっちかにクロ兵衛ちゃんをおあげなさいナ、ね」―奥さまは慰め顔にこうおっしゃった。
「どうしても二人ともほしいッてば、パールをやるんだ、そしたら丁度みんな片付いていいじゃないか!」
「いやよ、パール、やるもんですか。パールやる位ならテリイをやっちゃうわ」
利イ坊さまはおハシを降して、本格的の喧嘩の態度である。
「何、テリイをやる?―ワア、面白いや、やれるもんならやって見ろ。僕はセイセイするよ、あんなイタズラ犬の物騒なヤツ、居ない方がサッパリしらア」
チビくんはびっくりして修三さまの顔を見上げた。テリイをやっちゃう、セイセイする、チビくんにとってはマサに青天のヘキレキである。いくら喧嘩のなり行き上とは云え、修三さまの言葉は、チビくんには例え様もない悲しさをドカンと叩きつけた。
「マアマア、喧嘩はおやめなさい、御飯がこなれませんよ」
奥さまは困ったと云う様な顔をなすった。
御飯がすむと、修三さまは、傍にある夕刊をもつと、ドタンバタンと足音高く二階の勉強室へ上って行って了った。利イ坊さまは怒った様な顔をして、奥さまの傍で手工をやりはじめた。
お台所でみねやと片づけ物をしながら、チビくんの心は、テリイの事で一杯だった。
テリイ、テリイ!いたずら犬で元気なテリイ!随分困ったおイタをやってチビくんをいじめた事もある。チビくんも憎らしくて蹴っとばしたり叩いたりした事もある。
生れた仔犬も小さくて可愛いけれど、チビくんはやっぱりテリイが好きだ。
「ねえ、もしテリイが貰われて行くと、子どもが困るでしょう」とチビくんはお茶碗を拭いているみねやにきいた。
「大丈夫よ、だってテリイが居なくなっても、仔犬がもらわれて行っても、同じわけじゃないの…女犬はうるさいのよ、仔犬を生んで。これから又テリイが生みはじめるとそりゃおしまいに困っちゃうでしょうよ」
みねやまでテリイの居なくなるのを喜んで居る様な口ぶりである。チビくんはガッカリして了った。
翌朝(あくるあさ)、家を出る時に、修三さまは家中ひびきわたる様な大声で、
「いいか、クロ助は加藤のとこへやるんだよ、もう売約済みなんだからな。今日帰りに加藤を連れて来る、いいだろうね、シカと申し残すぞ」
利イ坊さまはプンプンとしてすまして御飯をたべていた。奥さまが笑いながら答えた。
「ええ、よござんすよ、そんな事いつまでも云ってないで早く学校へいらっしゃい。何ですね、大きななりをして。中学生じゃありませんか、小学校の子と一緒になりませんよ」
「そうです、全く、中学生と小学生は一緒になりません。ダン然中学生の方が権利があるんです。いいか、利恵子、君は小学生だ、中学生の僕とは一緒にならんぞ、―行って来まあす―」修三さまは意気揚々と学校へ行って了った。
「あの、テリイ、やっちゃうんですか?」
お昼御飯の時、ソッとチビくんは奥さまにうかがって見た。
「さア、そんな事云ってましたね。もし戸田さん達がもらって行って下されば、連れてっていただく方がいいじゃないの、これから度々子供が生れて、その度にお嫁入り口の事でさわいでたんじゃたまらないものね、―それにお嫁入り口だけの心配ならまだいいけど、ウッカリ死なれたら、可哀想だしね」
奥さまもみねやと同じ様な事をおっしゃる。
「それにパールは男だし、あれをおいとけば利イ坊の気もすむし…」
奥さまの後の言葉をきき乍らチビくんは、ポトリ、と、お膳のふちに涙を落した。
3
「こちらよ、こちらへお廻りになって」
利イ坊さまの声につづいて、ランドセルを背負った戸田さんと松平さんが、各々(おのおの)お供のお手伝いさんをしたがえて裏庭へあらわれた。
「ホラ、これがパールwよ、すてきでショ」
柿の木の根元で日向ぼっこをしているパールを抱きあげて、利イ坊さまはおトクイである。
「じゃあたくし、テリイいただくわ、私もとッからテリイ大好きなの、あの茶と白のブチが、もう先ジステンパーで死んだアリスにソックリなんですもの」
松平さんは、学校でもうお約束ずみと見えて、はじめっからテリイを連れて行くつもりである。
「あたくし、これ、ね」
戸田さんはクロ兵衛を抱っこしている。
「ええ、そうヨ。クロ助はね、ホラ、さっき学校で申しあげたでショ、お兄さまの方へあげるの…」
「一寸でいいからそれも見せて下さらない?」
「ええ、御らんになるだけならいいわ、きっとテリイの小屋の中に居るのよ」
利イ坊さまと戸田さんは犬小屋をのぞいて、「テリイ!」「クロベエちゃん!」と呼んだ。
しかし、小屋の中はカラッポだった。
「みねや、テリイとクロベエちゃんは?」
利イ坊さまの甲高い声が台所へ走った。
「さあ、―クロい方はさき程、お兄さまとお友達が連れて原っぱの方へいらっしゃいましたけれど…」
「変ね、テリイ、一寸も子どもの傍はなれないんだけど…」
「チビくんは?」
「お昼御飯がすむと、栄屋(さかえや)へ買物に行ったんですけど、どうしたんですか、まだ帰りませんのよ」
「マア、いやだ、あの子が居るとテリイの居所も大ていわかるんだけど…」
「テリイ、尾いてったんじゃなくて?」
戸田さんが云った。
「そうだわ、きっと。マア憎らしい!丸で自分の犬みたいに思ってるのよ、―いいわ、帰って来たらすぐひったくってやりましょうねえ」
イジワルさん達は、お縁側で今か今かと、チビくんの帰りを待って居た。
デパート栄屋のエレヴェーター係の小父さんは、先刻(さっき)から一人の女の子に目をとめて居た。
その子は赤いメリンスの羽織を着た小さな子だった。一等はじめチョコチョコと小父さんの前へ来て「お砂糖ツボは何階ですか?」ときいた。「五階ですよ」と答えると、丁度停まったエレヴェーターへトコトコかけこんだ。つづいて何か白と茶色のものがエレヴェーターに走りこんだので、見ると、それは小さなテリア種の犬だった。
空いて居たのでエレヴェーターは女の子と犬をのせてスッと上へ昇って行った。
「今の女の子、犬と五階へ降りたわ」エレヴェーターガールは降りて来ると、ニコニコして小父さんにそう報告した。
それから一時間ばかりの間に、その女の子は三度も四度もエレヴェーターで降りたり昇ったりした。段々人が混んで来るので、女の子は犬をだき上げた。犬はエレヴェーターが動くたびにピョンピョンはねたり、クンクン鳴いたりした。段々スシ詰めになって来て、小さな女の子はどこの居るか存在がわからなくなった。所が前の人の背中で圧(お)されて苦しまぎれに抱かれた犬が、ワン、ワンと大きな声で吠えた。皆はびっくりし、一様にふりむいた。そして同じ様にほほえみを浮べた。
「お嬢ちゃん、ほんとはエレヴェーターの中へ犬はのせてあげられないンですけどね」七度目にその女の子が降りて来た時、小父さんはニコニコしながら云った。
「ごめんなさい」女の子は恥しそうな顔をしてあやまった。
そして出て行くのか、と思うと、今度はやはり犬を抱いたまま、トコトコ階段を昇って行った。
「さっきのチビくんね、あの子、もう帰ったかと思ったら、屋上公園に居たの、犬とあそんでたわ。―お使いに来たんなら早く帰んなきゃだめよ、と云ったら、帰ると大変だととても心配相な顔して云うの、何でしょう…」
交代で屋上公園へいい空気を吸いに云ったエレヴェーターガールが、又降りて来て、小父さんにそう云った。
「さア、大方、家でおいとかないって云う犬でも可愛がってるんだろう…」
二人は顔を見合わせてほほえんだ。
4
「ア、帰って来たワ、今ごろ。何してたのヨオッ?」
真暗になってからヤッと帰って来たチビくんを見るなり、お玄関で、利イ坊さまはカンカンになって唇とトンガラかした。黙ってうなだれたまンま、チビくんは足許で無心にクンクンと鼻を鳴らしているテリイの頭をシッカリと抱きこんだ。
「あんたがいくらやりたくなくったってダメよ。テリイはあたしの犬ですからね」なおも云おうとするのをさえぎって奥さまは優しく、
「テリイをやるのがいやで、道草してたの?今迄どこにいたんです、栄屋?」
チビくんはコックリした。眼には今にもハラリとこぼれ相にいっぱいの涙が!
(いじらしい子!)奥さまは何かしら胸にグッとこみあげて来るのを感じながら、
「でもネ、折角利恵子松平さんに差上げるってお約束をしたんですからね…。私も何だか可哀想な気がするけど…」
「サ、早くッ、連れてって来て頂戴。松平さんとても怒っておかえりになったわヨッ」
でも―チビくんは一層シッカリとテリイを、どうしてもはなすまいとする様に抱きしめるのだった。
「ヨシ、僕が連れてってやる。オイ、チビくん、あきらめろヨ。何だ、こんな犬…。オイ、テリイ、来いッ!」
先刻(さっき)からお玄関の障子の蔭に立っていた修三さまはマントをひっかけて、ワザと威勢よさ相に外へでた。
「テリイ、来いッ、こっちだ!」
無心のテリイは何も知らずにか、チビくんのふところをすり出て、修三さまのあとへ―
段々、修三さまの声とテリイの吠える声が遠くへ行く―それをきいている中に、チビくんはたまらなくなって、ワッと泣き伏して了った。利イ坊さまはそれを見ると自分もベソをかき相になった。利イ坊さまの顔を見乍ら奥さまは(やっぱり、テリイを可愛いにちがいない、この子は後悔してるのだ)とお思いになった。
「ヤレヤレ、大変なのさ、僕が門を出て来るとチャンと先まわりして待ってんのさ。とうとうお手伝いさんと書生がヒモで結えちゃってね。やっととんで帰って来たんだよ」修三さまは、帰って来るなりこう云って、フウッと呼吸(いき)をついた。
「帰って来るかも知れないわね」
利イ坊さまが小さな声で云った。
「ウン」修三さまは一寸暗い顔でうなずいた。
「だって迚(とて)も家に長く居たんですものね」
「何だ、テリイをやった事後悔してんのか?」
修三さまは勢よく立上った。
「帰って来たら、又連れてくさ。それでも又帰って来たら…」ガサガサガサ、バタバタ、お縁側で大きな音がした。ハッとして修三さまは障子の方へ行った。それより早く、次の茶の間からチビくんがバタバタととび出して来て、障子をあけた。
テリイだ!手水鉢のところだけ一尺程あけてある雨戸の間から上ったと見え、廊下を泥足だらけにして、開いた障子の間からとびこんで来て、チビくんの懐中へマリの様にとびかかった。引きちぎって来たらしく、二三尺の長さの泥だらけのヒモが、首から垂れて、畳の上に引きずられた。
「テリイ!」
みんなが、一斉にテリイのところへとんで来た。
「やっぱし、帰ってきたわ」
勝った者の様に、チビくんは眼をきらきらさせながら叫んだ。
チビ君
1
「オーイ、チビくん、靴がないぞオ。テリイをさがせエ、テリイをオー」
玄関で怒鳴っているのは坊ちゃんの修三さまである。利イ坊さまのランドセルを勉強部屋で揃えていたチビくんは、ビックリして、あわててお部屋をとび出して、内玄関の下駄をつっかけると、一直線にテリイの小屋にかけつけた。ある、ある、やっぱりイタズラ犬のテリイがくわえて来ていた。あんなにセッセとチビくんがきれいにピカピカ光らしておいた修三さまの靴がドロンコだ。
テリイのバカ!うるさく足にまつわりついて来るテリイの頭を靴でコツンと一ツ。キャン、テリイはシッポを後足にまきこんで横ッとびに逃げた。
「ダメよオ、テリイをいじめちゃアー」
勉強部屋でランドセルを背負いながら、トマトの様に可愛い唇をトンガラした利イ坊さまが、窓からチビくんを怒った。
こんな事は毎日だ。ツクヅクテリイが憎らしくなって了う。それだのにテリイは又一番チビくんになついて居る。朝お台所の戸をあけると、お使いに行こうとお勝手を出ると、利イ坊さまのエプロンを洗おうとタライにしゃがむと、テリイがマリみたいにとんで来て、チビくんの脚にじゃれつく、顔をなめる。
「チビくんとテリイは姉妹(きょうだい)ぶんだナ。チビで、ふざけンのが好きで、うるさいけど可愛くて……」いつも修三さまはそう云う。
大たい、初子と云う立派な名をもった女の子をチビくんにして了ったのが修三さまだ。
修三さまは何でもかんでも綽名(あだな)で呼ばなくちゃ承知しないと云う困った中学生である。校長先生が古ダヌキ、教頭が川ウソ、体操の先生がシャチホコの乾物、用務員のおばさんを、バケツ夫人と云う。顔が長いからだそうである。
「今日、バケツがバケツをもって二階からツイラクしてねェ―」と、いつだったか学校から帰って来て、勉強部屋で利イ坊さまと話をして居た。お八(や)ツを、もって行ったチビくんをつかまえて、「オイ、それでどっちのバケツの底がぬけたと思う?」ときいた。世にもうれし相(そう)な顔だった。
「可哀想に、バケツ夫人の方が腰がぬけてネ、さっそく医者(ホテイ)がかけつけて来たヨ」とこれもお医者を綽名で呼んだ。
チビくん、十三になったのだけれど、十の利イ坊さまと同じ位しかない。チビくんのお母さんは修三さまの乳母(ばあや)だった。だから修三さまとチビくんは乳兄妹(ちきょうだい)だった。お母さんが満洲へ行ったお父さんのところへ行かなければならなくなって、沢山ある子供をどうしようか、と困っていた時、三番目のチビくんを引とろう、と云って下さったのは修三さまと利イ坊さまのお母さまだった。
お母さまに連れられて、短いおサゲをトンボみたいにしばってツンツルテンのネルの着物を着て、チョコンとお茶の間の片隅に坐っているチビくん―その時はまだ初子だった―を、学校から帰ってきた修三さまは一目見るなり、
「ヤア、チビくん!」と例の又、何でもかんでも綽名をもって呼ばねば気がすまない調子で、こう呼んだ。いかにも初子はチビだった。残念ながら修三さまのお母さまも初子のお母さんも、そして初子自身も、その「チビくん」はジツにピッタリした綽名である事を承知しないわけには行かなかったのである。
奥さまは、とても親切な方だった。修三さまのお父さまはこの春にアメリカへいらして、お帰りは来年だった。
利イ坊さまはたった一人の女の子で又末っ子だったから、チビくんには一寸苦手だった。年のわりにおマセである。おまけに幼稚園時代からF女学校の附属へ入って英語をならったし、小学校に入ってからはもうフランス語をやっている。こんな小さい子がそんなフランス語なんてものをやっていいのかしら…?と、チビくんは時々不思議に思う。チビくんと来たら、英語のエの字どころか、ウッカリすると自分の名前の「初子」をシメスヘンに書いたりする。
「バカねエ、チビくんのバカ、ユウみたいなガルは、フウリッシュ・ガルと云うのヨ」と、利イ坊さまはマセた赤い唇をトンガラかして、英語のわからないチビくんをケイベツしようと威ばるのである。
「何云ってんだイ、おシャマ奴(め)。ガルとは何だイ?チビくんをいじめんのはよせヨ。そんな事云っていじめんなら、お兄さんが、ドイツ後で利イ坊をやっつけるゾ」
修三さまはお医者さまの学校を受けるので、今年の秋からドイツ後を習いはじめたのである。そう云う風に云われると、今まで威ばってチビくんをやっつけて居た利イ坊さまは、恥しさと口惜しさで真赤になりながら、チビくんをにらみつけるや、バタバタと西洋間の方へとんで行って了うのである。そして急にピアノのフタをあけて、「タンタカタッタッ、タンタカタッタッ……!」と怖しい割れそうな音を出すのである。だから「ミリタリイ・マーチ」がひびいている時は、チビくんと利イ坊さまの国交はダンゼツしているものと思えばいいのである。
2
「利イ坊、傘をもって行ったかしら…?」
修三さまも、利イ坊さまも学校へ行って了うと、あとはシーンとしたお邸内である。
お昼に近い、しずかなお茶の間。奥さまの傍で、自分のに編み直していただく利イ坊さまの古いセーターをほぐして居たチビくんは、奥さまの心配相な声に窓の外を見た。ドンヨリと朝から曇っていた冬空をナナメにきって、ツ、ツと何かおちて来た。
「ア、雨!」
「いいえ、雨だけじゃないのヨ、あれはネ、ミゾレってものヨ」
利イ坊さまもだけれど、修三さまは今朝は傘を忘れていらした。―
「お傘もって行って来ましょうか」
「そオ、すまないわネ、冷たいのに。丁度みねやが麻布へお使いに行っちゃったんで…じゃ、行って来てネ」
大きな曲り柄の修三さまの洋傘(こうもり)と、赤い柄のついた十四本骨の洒落た利イ坊さまの傘をもって、お邸を出た。冷たい!あたたかいガスストオヴのついたお部屋に入っていた時は一寸(ちょっと)も気がつかなかったけれど、冬の外(おもて)は、ウスラ寒い空気が冷いミゾレを散らして、とっても寒い!
向方(むこう)からマントをスッポリかぶった小学生が三四人帰って来る。今日は土曜日だ、みんなおヒケが早い。大いそぎ、大いそぎ。少しでも遅れた日には、又利イ坊さまに英語とフランス語のまじったケン付くをいただく。どうせ日本語だって、利イ坊さまの使う「およそ」だとか「想像以上の…」だとか…云う言葉は、チビくんにはチョッとばかり種類がちがう様に思える。
お邸を出て、三丁ばかり先のお薬屋さん、丁度、修三さまがお降りになる電車の停留場の真前である。そこへ修三さまの傘を預けた。傘を忘れた日は、帰りにここへ寄ってあずけておく傘を受けとってさして帰ることにきめてあるのである。
電車通りに沿って少し行くと、F女学校の黒ずんだ建物が見える。通用門を通ってお供の待合室へ行った。沢山のお供のお手伝いさん達が、ベンチに腰をかけて、小さい御主人の授業の終わるのを待っている。編み物をしている人もある。雑誌を読んでいる人もある。今迄にも二三度この待合室へ来た事がある。そのたんびにチビくんはこう思うのである。―
―よくまアこの方たちは、ああやって長い間ジーッとして腹がたたないわネエ―
小さなお嬢さんがいばって外套をきせてもらったり、傘をひらいてもらったりしているのを見ると、何と云う事なしにチビくんは、子供心に腹がたってたまらないのである。
羨ましくて腹がたつのじゃなくて、そのお手伝いさん達が可哀想になるのだった。チビくんと一ツか二ツ位しかちがわない様なお手伝いさんが、寒そうに肩をすぼめて迎えに来ている事もある。もし自分も利イ坊さまを毎日こう云う風に送り迎えしなくちゃならないのだったら…と思うと、それを決してさせない奥さまが、急に世界で一番、お母さんよりも、えらい、いい、立派な方に思われて来るのだった。
―ジリジリジリジリジリッ―
終業のベルが鳴った。お供のお手伝いさん達は各々立上って外套を着せかけたり、お荷物をうけとったりする用意をはじめた。
バタバタ、いつも一番にとんで出て来る松平さんのお嬢さんが、姿を現した。つづいて、ドタドタ、バタバタ、後から後から赤や緑のベレエをかぶったお嬢さん達が群がり現れた。
利イ坊さまは…?背の低いチビくんは一生懸命のび上る様にして、それらのお嬢さんたちの群をキョトキョトと見廻した。利イ坊さまは中々見当らない。―
「ヤンなっちゃうワア、うちのチビすけと来たら…」
ア、まぎれもなく利イ坊さまの声だ。
「何にも御用なんかしてないくせに、傘一本ももって来てくれないンだもの。きっと又お母さまのそばであたしの本を読んでるか、お兄さまのお机の上でもかっちゃがしているのヨオ」
「そうヨ。あたくし、あの子、大きらい。とてもナマ意気らしいわネエ。大きなねえやさんは好きだけど…」
相槌うって居るのは、利イ坊さまの親友で、いつも遊びに来るたンびに、自分より身体の小さいチビくんを、さもケイベツするみたいににらんで行く、戸田さんのおテンバお嬢さんにちがいない!チビくんは思わず、かじかんだ手にシッカリ持っていた赤柄の傘を、ピシリとたたき折りたくなった。
「あたくしの傘にお入りあそばせよオ、途中までお送りするわ」
この声が、チビくんのシャクにさわる心をグット止めた。あわてて、赤いベレエが並んでいる昇降口のタタキへかけて行った。
「あら、来てたの?どうして今迄出て来なかったのよ、今来たんじゃないでショ?ひどいわネ、人を困らせようと思って、ひどいわ、いいわ、いいわヨ。戸田さんに入れてっていただくから…」
何か云おう、とする間もなく、赤いベレエ帽は並んでミゾレの校庭を走る様に歩いて行く。
「利イ坊様―ッ」
追いかけ追いかけ、チビくんは必死になって傘を利イ坊さまにさし出した。何がおかしいのか、利イ坊さまは戸田さんと肩と肩を頬と頬をおしつけ合ってキャッキャッ笑いながらなおもドンドン面白い事でもしている様に歩いて行く。―
電車通りをすぎて、角の薬屋さんも曲って二人は行く!角で戸田さんが別れて行って了えば、傘をさしてくれるだろう、と云う淡いのぞみも消えて、チビくんは泣き出しそうになった。
傘をもって行って、その傘をささないで帰らせた、と云う事がわかったら、奥さまはどんな顔をなさるだろう!それを思うと恐ろしいやら、悲しいやらで、チビくんは足がすくむ様になった。熱い涙がかじかんだ真赤な手の甲にポトポトと垂れた。
「オイ、チビくん、だろ?傘ありがと。―どうしたンだイ?」
いつの間にか、後から大股で歩いてきた修三さまがのぞきこむ様に云った。チビくんは黙って片手にもった利イ坊さまの傘をさし出して、半丁ばかり先を走る様にしてゆく利イ坊さまの後姿を涙にぬれた眼で見た。
修三さまは、だまって傘をうけとると、そのままグングンと大股で利イ坊さまの方へ歩いて行った。
「利恵子ッ!」
突然、しかも怒気をふんだ修三さまの声に、利イ坊さまはギクッとしてふりかえった。
「又、いじめたナー」
物凄い修三さまのけんまくに、利イ坊さまはだまって目を伏せて了った。こう云う時の修三兄さまの怖さはよく知っている。どんなヤンチャもイタズラも笑っている兄さまだけれど、勝手な意地悪な我ままだけは決して許さない兄さまだ。
戸田さんは、二人の危い雲行きを見ると、
「じゃア、さよオなら―」と、電車路の方へ引きかえして行って了った。
「あやまるんだ。そして、お礼を云って、この傘をさして帰るんだ」
どうなることか、と心配しながらオドオドと近寄って来たチビくんの前に、修三さまは利イ坊さまのベレエ帽のあたまをおしつけて、ピョコンとお辞儀をさせた。
ワッと、泣声があがった。利イ坊さまも泣きだした。そして、チビくんも泣き出した。
3
ミゾレの日のことがあってから、チビくんは今までよりももっともっと修三さまが好きになった。利イ坊さまとは仲よくしようと思っても、利イ坊さまの方でよせつけないのであった。
修三さまが、病気になった。丁度、暮の忙しい時で、その上おまけに奥さまの年寄ったお母さまが急病で、奥さまはとるものもとりあえず至急お国へお帰りになった。
その夜は、みんな心配と不安と淋しさで、気ぬけした様だった。修三さまは明日一日でおしまいになる試験の勉強をするために、二階のお部屋に引きこもったきりだった。利イ坊さまも静かに本を読んでいたが早く寝て了った。お母さまにも兄さまにもはなれて、一人ションボリ勉強部屋へ寝に行く姿を見た時、チビくんはたまらない同情を感じた。
―夜中だった。本当はまだ十一時前だったのだが、一寝入したチビくんにはそう思えた
「初子さん、すみませんけどね、お医者さまへ行って来て下さいナ」
お手伝いさんのみねやがあわただしくチビくんをゆり起した。修三さまが急にお腹が痛くて大変だ、と云うのである。金盥(かなだらい)をもってったり、水枕を探したり、みねやは大変だった。
寒いのもねむいのも忘れて、チビくんは、真暗な路をお医者さまにかけつけた。お医者さまは寝ていて中々起きてくれなかった。寝巻の上に羽織を来た丈(だけ)のチビくんは、ガタガタふるえた。しかし、歯をくいしばりながら何度も何度も戸を叩いて、声をかけた。
お医者さまがいらして診察なさる間、チビくんは眼(ま)ばたきもしないでジッと、修三さまの顔とお医者さまの顔を見くらべていた。
修三さまの病気は軽い胃ケイレンだった。あんまり勉強がすぎて、消化力の方がお留守になって了って、故障が起きたのだった。
「お母さまの留守に、主人役が病気になっては駄目じゃないか」
年とったお医者さまは、蒼い顔をして寝ている修三さまを、元気をだす様にこう云って笑った。お医者様が笑っていらっしゃる様なら、修三さまの病気も大した事はない、…とチビくんはホッとした。気がつくと、何時の間に起きて来たのか、これも白いネルの寝巻の上に羽織をひっかけたまンまの利イ坊さまがピッタリとよりそって、同じ様に心配相に修三さまを見つめて居るのだった。
「もう大丈夫だヨ。みんな寝ておくれヨ」
元気そうに修三さまは云った。
心配なオドオドした顔をしているチビさん達、そんな恰好でいつまでも起きていると、風邪を引くぞ、それこそ大変じゃないか!―それでも利イ坊さまもチビくんも動かなかった。利イ坊さまはブルブルふるえて居る。それがハッキリよりそわれて居るチビくんの身体に、つたわって来る。―
「よオお寝(やす)みヨ、いいんだヨ、もう―」
だまぁって利イ坊は立上がった。お兄さまに怒られるのが怖さに、しかし、襖にピッタリとくっついたまま動かない。
「どうしたんだイ?―オイ、みねや、利恵子をねかしておくれヨ、きっと先生寝呆けてるんだよ―」
修三さまのフトンの足許へユタンポを入れて居たみねやが、利イ坊を抱く様にして部屋を出て行った。
「チビくん、いいよ、寝たまえ。みねやがここで寝てくれるから…」
チョコンと枕元に坐っているチビくんを見て又修三さまは(少し厄介だなア、子供ってもンは、中々ねないで、と云う気持で)云った。
チビくんは一晩中、修三さまの枕元でお世話がしたかったけれど、そう云われてスゴスゴとお部屋を出た。お廊下の角で、利イ坊さまをねかしつけて来たらしいみねやに逢った。
勉強部屋の前―かすかな泣き声、チビくんははつと立止った。
利イ坊さまが泣いている!さっきあんなにグズグズしていたのは、ねぼけたんじゃなくて、一人で寝るのがさびしかったのだ。
チビくんも、つと考えた。みねやが修三さまの御部屋に寝に行って了ったら、チビくんもたった一人だ、広いお茶の間にたった一人!
翌朝(あくるあさ)―
あんなにひどかった胃ケイレンもそのまま夢の様に直って、サッパリした気持で、洗面場に立った修三さまは、みねやによびとめられた。
「―フトンは残っていて、姿がないんでございましょ、あたし、びっくりしましたワ。初子さんたら、マア、利イ坊さまンとこへ―」
修三さまは、勉強部屋の障子をあけて、中をソッとのぞいて見た。
そこには、赤いメリンスのおフトンをかけて、利イ坊さまとチビくんがシッカリと抱(いだ)き合って、スヤスヤと寝て居るのだった。
「いい子だナ―、チビくんは―」
修三さまは、何だか自分まで嬉しくなって二人の幼い少女の安らかな寝顔を、シミジミと、もう一度眺めた。
帰れテリイ
1
テリイが仔犬を生んだのはクリスマスの頃だった。
いつもお台所の戸をガラガラとあけると、待ちかまえていたようにうれしそうに、ワンワン吠えながら足許へすりよって来るテリイの姿が見えないので、チビくんはオヤと思った。
その朝は霜のひどい、日もよく晴れたとても気持のいいお天気だった。
いつもの様に裏庭へ出て、深呼吸をした。
これは修三さまの御仕込みである。清々しい朝の空気の中での深呼吸は、三十分のラジオ体操に数倍マサれり、スベカラく汝深呼吸をせよ、と云うのが修三さまの主義である。
「それに背ものびるよ、きっと。身体も丈夫になるし、背ものびるし、君、すばらしいじゃないか!」
背がのびる、その言葉がチビくんを深呼吸党にした。毎朝毎朝一生懸命にノビ上る様に深呼吸をする、チビくんの楽しい希望である。
ドウゾ、背がのびます様に!今朝もまたそのおイノリと共に深呼吸をすます。でもテリイはまだ来ない。いつもなら足へまつわりついて深呼吸の邪魔になるぐらいだのに!
どうしたんだろう?チビくんは真白に降りた霜をサクサクとふみながら、テリイの小屋へ行った。
テリイは小屋の中に居る。茶と白とブチの背中が入口から見える。
「テリイ!」
いつもならとんで出て来るのに、今朝は一体どうしたんだろう、とんで出て来るどころかワンともクンとも云わない。
小屋の前にしゃがんで、のぞきこむと、
「ウウ―」
テリイはうなるのだ。仲よしの大好きのチビくんが来たと云うのに!
見ると、背中を丸くして顔だけこっちへねじむけて、うす暗い小屋の中で、まるで何か怖しいものでも来た時の様に、怒った顔に、「ウウー」と、又、うなる。
「オイ、チビくん、台所でみねやが呼んでるよ」
手拭を首にまきつけて歯ブラシをくわえた修三さまが、いつの間にかチビくんの後に立っていらした。その声を聞くとテリイは、又一きわ高い声で、イヨイヨ危険がせまった、とでも云い相(そう)な声でウウウ、とうなった。
「アレ、どうしたイ、テリ公!」
修三さまはしゃがんでのぞきこんだ。しゃがんでのぞきこんだ。
「ヤア、こどもを生んだア!」
トン狂な修三さまの声に、チビくんはハッとして、あわてて又のぞきこんだ。
なる程、テリイは仔犬(こども)を生んだのだった。
気がつかなかったあっち向きのテリイのお腹のあたりに、白や茶の小さい塊がモゴモゴとうごいて居た。道理で、今朝はテリイがお台所へ来なかった筈だ。
「一匹、二匹、ヤ三匹だ」
修三さまは手をつっこんで仔犬をコロコロとうごかした。
「ウーワンッ」テリイは必死に吠えたてて、その手にかみついた。
「ア痛てて、チェッ、物凄えな、テリ公奴(め)!急に母性愛を発揮しやがんなア」かまれた手を二三度ふりまわして、手拭でゴシゴシ拭いた。
「アレッ血が出てきやがった、ウワーイ、メンソラだ、メンソラだ!」
チビくんはあわてて、お台所へとんで行って棚の上のメンソラをもって帰って来た。
「どうしたの?奥さまと利イ坊さまと、何事か、と云う顔つきで裏庭へ出ていらした。
「テリイが子どもを生んだんだよ。出してみようと思ったら、いきなりワンとかみつきやがんのさ」
修三さまはいかにも口惜しそうである。
「見たいわ、お兄さま出してみせてよ」
利イ坊さまはお鼻を鳴らした。
「よせやい、二度も三度もかみつかれてたまるかい。君やってみたまえよ、君なら大丈夫かも知れない。僕、ふだんいじめてばっかり居るからな―」
利イ坊さまはしゃがんで恐る恐る手を出した。
ウ、ウ、テリイはうなる。ビックリして利イ坊さまはとび上った。
「およしなさい、今はだめよ、テリイの気が立っていますからね」
「何故気がたつんだい?」
修三さまは奥さまの顔を見た。
「何故でも、気が立っているんですよ。子どもをとって行かれると思ってね」
「とって行くつもりじゃないンだがナ、一寸見るだけなんだがなアー」
「ホホ、そんなこと、テリイにわかるもんですか」奥さまは、口をとんがらかしてかまれた手の甲をさすっている修三さまを見て笑った。
「とに角、怪しからん、人間様の真情をゴカイして、コトワリもなしにイキナリかみつくとは、オイ、テリイ、覚えて居れよ、このウラミは必ずかえすからナ」
修三さまは肩をそびやかしてザクザクと霜の道を大股で台所へ行って了った。学校では柔道剣道拳闘と、その道の豪傑と云われているのに、たかが小ッぽけなフォクステリアのテリイにイキナリ不意打ちをうけて、ムネンの負傷をしたのが、大変お気にさわったらしいのである。それと云うのも、テリイが今まであんまり修三さまにおイタばかりしていた罰かも知れない。裏庭に干しておいた修三さまのゲートルを泥ンコにしたり、竹刀の柄糸(えいと)をかじったり、靴を汚したり…修三さまは、そう云う点ではテリイを目の仇の様にしていたのだから、今度と云う今度は、ガゼン、怒って了ったのもムリもない―。
2
「お母さま、明日、松平さんと戸田さんが犬をもらいにいらっしゃるんですって」
「そう、どれをあげるの?」
「もち論、パールをぬかしたあとの二匹よ、パールはいくらお仲よしの戸田さんにだって差上げられないわ」
お正月の楽しいお休みもすんで、学校がはじまったばかりの日、お夕飯の時に、利イ坊さまがテリイの仔犬の事をもち出した。
テリイが生んだ三匹は、一匹は羊の子の様に真白なの、あとは丸で反対に真黒なのが二匹である。
利イ坊さまは羊の子の様に真白なのが大のお気に入りで、早速ならいたてのホヤホヤの「真珠(パール)」と云う名をつけた。
「オイ、一寸待てよ、あとの二匹って云うとクロ助とクロ兵衛かい、御冗談でしょ、クロ助の方は、僕の組の加藤にやる約束になってるんだぜ」
「アラ、ずるいわ、お兄さま、そんなお約束、勝手にして」
「勝手なもンかよ、君こそ勝手じゃないか、二匹とも約束して来るなんて」
「だって、テリイは、あたしの犬よ」
利イ坊さまはベソをかきながら云う。なる程そう云われると修三さまはグッとつかえた。
テリイは、アメリカへいらしたお父さまが、お友達の所から利イ坊さまのために、もらっていらっしたのである。
「キ、君の犬にしたって、僕のものをメチャクチャにするじゃないか」
とんでもない所へリクツをもって行った。
「イタズラの事なんかあたしが知った事じゃないわ」
「だからさ、たとえ君の犬にしたところで、損害は僕の方がひどいんだから、だから、―」
「もういいじゃないの、又喧嘩になりますよ」
おつゆをお椀に盛りながら、奥さまは一寸たしなめるようにおっしゃった。先刻(さっき)から奥さまの横で御飯をよそいながら、チビくんも二人の口争いをハラハラしてきいて居た。
「だから、一匹位、こっちの勝手にしたっていいわけだ、って云うんだよ」
「そんなわけないわ」
「あるよ、損害賠償だ、立派なもんだ」
「ホホ、修三さんの理くつは随分立派なえ、よござんすよ、一匹位、ねえ、お兄さんのお友達にもあげるでしょう」
奥さまはやさしく利イ坊さまにおっしゃった。
「だって、あたし、困るわ、だって、戸田さんにはもうズッと前からお約束したンだし、松平さんはテリイが赤ン坊の時からほしがってらしたのを、テリイが仔をうんだらそれをあげるって、お約束しといたんですもの」
「何も家のテリイばっかりが犬じゃないよ、何だってそうテリイばっかりねらうんだ」
修三さまは大きな口をあいてロールキャベツをアグリとほほばり乍ら、モグモグと憎まれ口をきく。
本当にそうだ、とチビくんも思う。戸田さんにしても松平さんにしてもどっか他のところからお貰いになればいいのに!…と。あんな我ままなお嬢さんの家へもらわれて行っては、クロ助もクロ兵衛も可哀想だわ―と思う。
「明日、戸田さんと松平さんがいらしたらそう云って、どっちかにクロ兵衛ちゃんをおあげなさいナ、ね」―奥さまは慰め顔にこうおっしゃった。
「どうしても二人ともほしいッてば、パールをやるんだ、そしたら丁度みんな片付いていいじゃないか!」
「いやよ、パール、やるもんですか。パールやる位ならテリイをやっちゃうわ」
利イ坊さまはおハシを降して、本格的の喧嘩の態度である。
「何、テリイをやる?―ワア、面白いや、やれるもんならやって見ろ。僕はセイセイするよ、あんなイタズラ犬の物騒なヤツ、居ない方がサッパリしらア」
チビくんはびっくりして修三さまの顔を見上げた。テリイをやっちゃう、セイセイする、チビくんにとってはマサに青天のヘキレキである。いくら喧嘩のなり行き上とは云え、修三さまの言葉は、チビくんには例え様もない悲しさをドカンと叩きつけた。
「マアマア、喧嘩はおやめなさい、御飯がこなれませんよ」
奥さまは困ったと云う様な顔をなすった。
御飯がすむと、修三さまは、傍にある夕刊をもつと、ドタンバタンと足音高く二階の勉強室へ上って行って了った。利イ坊さまは怒った様な顔をして、奥さまの傍で手工をやりはじめた。
お台所でみねやと片づけ物をしながら、チビくんの心は、テリイの事で一杯だった。
テリイ、テリイ!いたずら犬で元気なテリイ!随分困ったおイタをやってチビくんをいじめた事もある。チビくんも憎らしくて蹴っとばしたり叩いたりした事もある。
生れた仔犬も小さくて可愛いけれど、チビくんはやっぱりテリイが好きだ。
「ねえ、もしテリイが貰われて行くと、子どもが困るでしょう」とチビくんはお茶碗を拭いているみねやにきいた。
「大丈夫よ、だってテリイが居なくなっても、仔犬がもらわれて行っても、同じわけじゃないの…女犬はうるさいのよ、仔犬を生んで。これから又テリイが生みはじめるとそりゃおしまいに困っちゃうでしょうよ」
みねやまでテリイの居なくなるのを喜んで居る様な口ぶりである。チビくんはガッカリして了った。
翌朝(あくるあさ)、家を出る時に、修三さまは家中ひびきわたる様な大声で、
「いいか、クロ助は加藤のとこへやるんだよ、もう売約済みなんだからな。今日帰りに加藤を連れて来る、いいだろうね、シカと申し残すぞ」
利イ坊さまはプンプンとしてすまして御飯をたべていた。奥さまが笑いながら答えた。
「ええ、よござんすよ、そんな事いつまでも云ってないで早く学校へいらっしゃい。何ですね、大きななりをして。中学生じゃありませんか、小学校の子と一緒になりませんよ」
「そうです、全く、中学生と小学生は一緒になりません。ダン然中学生の方が権利があるんです。いいか、利恵子、君は小学生だ、中学生の僕とは一緒にならんぞ、―行って来まあす―」修三さまは意気揚々と学校へ行って了った。
「あの、テリイ、やっちゃうんですか?」
お昼御飯の時、ソッとチビくんは奥さまにうかがって見た。
「さア、そんな事云ってましたね。もし戸田さん達がもらって行って下されば、連れてっていただく方がいいじゃないの、これから度々子供が生れて、その度にお嫁入り口の事でさわいでたんじゃたまらないものね、―それにお嫁入り口だけの心配ならまだいいけど、ウッカリ死なれたら、可哀想だしね」
奥さまもみねやと同じ様な事をおっしゃる。
「それにパールは男だし、あれをおいとけば利イ坊の気もすむし…」
奥さまの後の言葉をきき乍らチビくんは、ポトリ、と、お膳のふちに涙を落した。
3
「こちらよ、こちらへお廻りになって」
利イ坊さまの声につづいて、ランドセルを背負った戸田さんと松平さんが、各々(おのおの)お供のお手伝いさんをしたがえて裏庭へあらわれた。
「ホラ、これがパールwよ、すてきでショ」
柿の木の根元で日向ぼっこをしているパールを抱きあげて、利イ坊さまはおトクイである。
「じゃあたくし、テリイいただくわ、私もとッからテリイ大好きなの、あの茶と白のブチが、もう先ジステンパーで死んだアリスにソックリなんですもの」
松平さんは、学校でもうお約束ずみと見えて、はじめっからテリイを連れて行くつもりである。
「あたくし、これ、ね」
戸田さんはクロ兵衛を抱っこしている。
「ええ、そうヨ。クロ助はね、ホラ、さっき学校で申しあげたでショ、お兄さまの方へあげるの…」
「一寸でいいからそれも見せて下さらない?」
「ええ、御らんになるだけならいいわ、きっとテリイの小屋の中に居るのよ」
利イ坊さまと戸田さんは犬小屋をのぞいて、「テリイ!」「クロベエちゃん!」と呼んだ。
しかし、小屋の中はカラッポだった。
「みねや、テリイとクロベエちゃんは?」
利イ坊さまの甲高い声が台所へ走った。
「さあ、―クロい方はさき程、お兄さまとお友達が連れて原っぱの方へいらっしゃいましたけれど…」
「変ね、テリイ、一寸も子どもの傍はなれないんだけど…」
「チビくんは?」
「お昼御飯がすむと、栄屋(さかえや)へ買物に行ったんですけど、どうしたんですか、まだ帰りませんのよ」
「マア、いやだ、あの子が居るとテリイの居所も大ていわかるんだけど…」
「テリイ、尾いてったんじゃなくて?」
戸田さんが云った。
「そうだわ、きっと。マア憎らしい!丸で自分の犬みたいに思ってるのよ、―いいわ、帰って来たらすぐひったくってやりましょうねえ」
イジワルさん達は、お縁側で今か今かと、チビくんの帰りを待って居た。
デパート栄屋のエレヴェーター係の小父さんは、先刻(さっき)から一人の女の子に目をとめて居た。
その子は赤いメリンスの羽織を着た小さな子だった。一等はじめチョコチョコと小父さんの前へ来て「お砂糖ツボは何階ですか?」ときいた。「五階ですよ」と答えると、丁度停まったエレヴェーターへトコトコかけこんだ。つづいて何か白と茶色のものがエレヴェーターに走りこんだので、見ると、それは小さなテリア種の犬だった。
空いて居たのでエレヴェーターは女の子と犬をのせてスッと上へ昇って行った。
「今の女の子、犬と五階へ降りたわ」エレヴェーターガールは降りて来ると、ニコニコして小父さんにそう報告した。
それから一時間ばかりの間に、その女の子は三度も四度もエレヴェーターで降りたり昇ったりした。段々人が混んで来るので、女の子は犬をだき上げた。犬はエレヴェーターが動くたびにピョンピョンはねたり、クンクン鳴いたりした。段々スシ詰めになって来て、小さな女の子はどこの居るか存在がわからなくなった。所が前の人の背中で圧(お)されて苦しまぎれに抱かれた犬が、ワン、ワンと大きな声で吠えた。皆はびっくりし、一様にふりむいた。そして同じ様にほほえみを浮べた。
「お嬢ちゃん、ほんとはエレヴェーターの中へ犬はのせてあげられないンですけどね」七度目にその女の子が降りて来た時、小父さんはニコニコしながら云った。
「ごめんなさい」女の子は恥しそうな顔をしてあやまった。
そして出て行くのか、と思うと、今度はやはり犬を抱いたまま、トコトコ階段を昇って行った。
「さっきのチビくんね、あの子、もう帰ったかと思ったら、屋上公園に居たの、犬とあそんでたわ。―お使いに来たんなら早く帰んなきゃだめよ、と云ったら、帰ると大変だととても心配相な顔して云うの、何でしょう…」
交代で屋上公園へいい空気を吸いに云ったエレヴェーターガールが、又降りて来て、小父さんにそう云った。
「さア、大方、家でおいとかないって云う犬でも可愛がってるんだろう…」
二人は顔を見合わせてほほえんだ。
4
「ア、帰って来たワ、今ごろ。何してたのヨオッ?」
真暗になってからヤッと帰って来たチビくんを見るなり、お玄関で、利イ坊さまはカンカンになって唇とトンガラかした。黙ってうなだれたまンま、チビくんは足許で無心にクンクンと鼻を鳴らしているテリイの頭をシッカリと抱きこんだ。
「あんたがいくらやりたくなくったってダメよ。テリイはあたしの犬ですからね」なおも云おうとするのをさえぎって奥さまは優しく、
「テリイをやるのがいやで、道草してたの?今迄どこにいたんです、栄屋?」
チビくんはコックリした。眼には今にもハラリとこぼれ相にいっぱいの涙が!
(いじらしい子!)奥さまは何かしら胸にグッとこみあげて来るのを感じながら、
「でもネ、折角利恵子松平さんに差上げるってお約束をしたんですからね…。私も何だか可哀想な気がするけど…」
「サ、早くッ、連れてって来て頂戴。松平さんとても怒っておかえりになったわヨッ」
でも―チビくんは一層シッカリとテリイを、どうしてもはなすまいとする様に抱きしめるのだった。
「ヨシ、僕が連れてってやる。オイ、チビくん、あきらめろヨ。何だ、こんな犬…。オイ、テリイ、来いッ!」
先刻(さっき)からお玄関の障子の蔭に立っていた修三さまはマントをひっかけて、ワザと威勢よさ相に外へでた。
「テリイ、来いッ、こっちだ!」
無心のテリイは何も知らずにか、チビくんのふところをすり出て、修三さまのあとへ―
段々、修三さまの声とテリイの吠える声が遠くへ行く―それをきいている中に、チビくんはたまらなくなって、ワッと泣き伏して了った。利イ坊さまはそれを見ると自分もベソをかき相になった。利イ坊さまの顔を見乍ら奥さまは(やっぱり、テリイを可愛いにちがいない、この子は後悔してるのだ)とお思いになった。
「ヤレヤレ、大変なのさ、僕が門を出て来るとチャンと先まわりして待ってんのさ。とうとうお手伝いさんと書生がヒモで結えちゃってね。やっととんで帰って来たんだよ」修三さまは、帰って来るなりこう云って、フウッと呼吸(いき)をついた。
「帰って来るかも知れないわね」
利イ坊さまが小さな声で云った。
「ウン」修三さまは一寸暗い顔でうなずいた。
「だって迚(とて)も家に長く居たんですものね」
「何だ、テリイをやった事後悔してんのか?」
修三さまは勢よく立上った。
「帰って来たら、又連れてくさ。それでも又帰って来たら…」ガサガサガサ、バタバタ、お縁側で大きな音がした。ハッとして修三さまは障子の方へ行った。それより早く、次の茶の間からチビくんがバタバタととび出して来て、障子をあけた。
テリイだ!手水鉢のところだけ一尺程あけてある雨戸の間から上ったと見え、廊下を泥足だらけにして、開いた障子の間からとびこんで来て、チビくんの懐中へマリの様にとびかかった。引きちぎって来たらしく、二三尺の長さの泥だらけのヒモが、首から垂れて、畳の上に引きずられた。
「テリイ!」
みんなが、一斉にテリイのところへとんで来た。
「やっぱし、帰ってきたわ」
勝った者の様に、チビくんは眼をきらきらさせながら叫んだ。
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