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小杉天外 魔風恋風 その12

2011年07月22日 | 著作権切れ明治文学
 親子

 神田猿楽町の、臭い温泉風呂の溝(どぶ)に沿(つ)いて唯(と)ある小路を曲れば、屋根はコールターの剥げた鐡葉(ブリキ)屋根ながら、兎も角二階建てで、入口には刀剣鑑定所の看板、表札は佐久間信元、同東一と、竝べて出した家の前に、今しも宿俥らしいのが二輌楫を下して、「へい、お待遠さま。」と格子の中へ怒鳴った。
 すると、丸髷の若い細君が外を覗いて、
 「一寸(ちょい)と待ってゝ下さいよ。」と優(やさし)いと云ふよりは元気無く云って、直ぐ玄関脇の梯子を半ば昇り、「阿母様、俥が参りましたよ。」
 「あい、待たしと置いて呉れよ。」と答へて、其処の障子から顔を出したのは、日外(いつぞや)東吾の宿に訪ねて来た其の母で、「お時や、まだ東一は戻りませんかい?」
 と低声(こゞゑ)で問(き)く。
 「はい、まだ戻りませんが。」と当惑な顔色。
 「戻ったらね、阿父様に知れるとまた面倒だから、お前から然う云ってね、竊(そツ)と出して遣ってお呉れよ。」
 「はい、畏まりました。」
 「それ、髱留(たぼどめ)が落ちるよ。」と母は気を付けて、また障子の内に引込む。
 此処は八畳の一室(ま)で、畳も古く、天井から壁に掛けて雨洩の跡、窓の硝子も縦横に紙で繕う手てあるが、床には唐画らしい山水の一軸、萌葱風呂敷に包んだ刀剣類、書箱(ほんばこ)も四つ五つ、何うやら此の家の客室とも云ふ可き体裁である。
 此の室に対座(むかひあ)ってる二人の男、一人は学生服を窮屈相に膝を崩した東吾で、一人は父の信元、此れはまた、黒紬の羽織に嘉平次平の袴、肩肘を怒らして、敷物から一尺も前に乗出して居る。六十も坂も越えたらしい年配、頭髪(あたま)も白く皺も深いが、未だしゃツきりとした身の構へ、顔色(かほ)にも眼の中にも、元気の色が宿ってゐるのである。
 「東吾、貴様も男らしく無い奴ぢゃ、今になツて何を考へる?最う露顕に及んだ以上は、何も彼も白状して了へ、潔よく謝罪(あやま)って了へ、生半虚構事(なまなかこしらへごと)して、口頭(くちさき)で免れようなんて、そんな卑怯な料簡は出すな、男らしく白状しろ。」と信元は、怒の声を高くじりじりと膝を進むるのである。
 「何も、秘した事はありませんよ、白状する事なんぞ何にも有りませんよ。」と東吾の声も勃然(むツ)としたやうに聞える。
 「何だ、白状する事が無いと?」
 「有りませんとも。第一、幾ら養家でも、其様な些細な事にまで干渉して、彼此云ふ権利は無いと思ひます…。」
 「こら、生意気な事を吐(ぬ)かすな…。」
 「まア貴方、」と母は夫の声を宥めて、「最ツと静になさいよ、外聞の悪い。東吾(これ)だツて、最う二十五にも成って、前後(あとさき)の考も無く此様な…、斯う云ふ事を仕もしないだらうぢゃありませんか…。」
 「此様な事が有るとな、己は、夏本子爵に会(あは)す顔が無いわい。」信元は又叫んだ。
 「ですからさ、東吾の理窟も、篤と聴いて見なきゃならないぢゃありませんかね、貴方のやうに、さう一概に怒って許(ばか)しいらしツても仕様がありませんよ。」
 「可いわい。」と信元は投げるやうに、「東吾、ぢゃ此処では何(なんに)も云ふな、己も聴かんわ。同伴(いツしょ)に子爵の前へ来い、子爵の前で弁解して見ろ、さ、何でも可い、同伴に来い。」
 「まア、お待ちなさい。」と夫を制して、「東吾、阿母様がね、少し聴き度い事が有るから、ま一寸階下(した)へお来(い)で。」
 「此処だツて可いぢゃありませんか、御用が有らば、此処で仰有って下さい。」と東吾は立とうともせぬ。
 「其様なお前、阿母様にまで…。」と母は涙ぐんで、「何でも可いから、お来(い)でツたらまアお来でよ。」
 力は無くとも親の力、母は強ひて東吾を階下(した)へ降して、箪笥の前、火鉢の傍、隣家の屋根に遮られて薄暗き障子を開けて、老の腰をやツこらと下した。東吾は澄まぬ顔の眼ばかり瞬たいて、母には横向きに、柱に凭れて踵の切れた靴下の足を投げ出し、其処に在る土瓶敷を指頭でくるくると廻し始めた。
 「東吾、何うしてお前は、然ういこぢにお成(なり)だらうねえ、学者に成ると、然う云ふものですかい?」
 母は口を開(き)った。
 東吾は答なく土瓶敷を廻して居る。
 「…何故、房州に行かないか、其の訳を分疏(まをしひら)かなきゃ可け無いと云へば、此様な事で分疏も何も要るもんか、僕だツて生きた人間だ、用が有れば滞在もするぢゃありませんか…、なんです彼言(あれ)は、彼ぢゃお前…。」
 「だツて其の通りでせう?」
 「何が?何が其の通りなの?」
 「用事次第で、急に立つ事も有れば、また滞在する事も有りませう、僕だツて一個の男児でさア、幾ら養子でも、此様な事にまで世話を焼かれて耐るもんですか。」
 「いゝえ、番町のお家で世話を焼くのぢゃないよ…お前も分らないねえ、番町のお家ではね、房州に行かないで然うしてる位なら、此方へ来て勉強したら何うだ、と單然(たゞさ)う云ふだけなんだよ。」
 「ぢゃ、何で滞在して居ようと、関は無いでせう。」
 「いゝえ、関は無い事は有りません、假ひ、番町のお家で黙ってゝも、其の訳を弁解(まおしひら)かなきゃ、阿父様や私の顔が立ちません…。」
 「然うですかなア…。」
 「然うですともね、」と母は、冷淡に云ふ東吾を眺め、「お前は然うは思ひませんかい?」
 「思ひませんねえ。」
 「思ひませんですと…?」
 「何ですよ阿母様、其様な馬鹿な声を…。何様な大事件で、其様なに夢中に成んです、少し物の軽重を…大小を考へて御覧なさい、高が、房州に行くのが二三日延びたとか、借財を何に費(つか)ったとか、それだけの事ぢゃありませんか、下らない!其様な事で親子で喧嘩をして、それで世の中が渡れますか。」
 「東吾、高慢な事をお云ひで無い…。」と母は涙を拭いて、「お前なんぞ、頭から足の先まで、皆な番町の恩を受けて生きて居るぢゃないか…。」
 東吾はじろり母を見返したが、何か云はうとして又口を閉ぢた。母は、
 「それ程些細の事なら、何故有る可き通り、斯々云ふ次第ですと、打明けて話せないんだい?東吾、阿父様も私も此の通り、昨日から夢中に成って、物も手に着かないんだよ。其様な些細な事なら、お前だツて何も、隠し立てするには当たるまい、何故その訳が話せないの…、え、何故話せないのさ、東吾や…?」
 東吾は同じく口を噤んで居るのみ、母の方を見ようともせぬ。
 「私は、阿父様に知れては悪いと思って、それで今迄黙って居たけれど、私は大概の事は知ってますぞ。」と母は急(にはか)に厳乎(きツ)となツて、「借金だツて、東一の為にした借金ぢゃありません…。」
 「誰が、兄様の為と云ひました?」
 「借金も然うだし、房州に立たないでるのも、試験の用意とか、学校の用とか、其様な勉強の用ではありません!」
 「然うですか。ぢゃ何の用でせう?」
 「萩原とか云ふ、其の、田舎出の女学生に関係(かゝは)ってるからさ!」
 東吾はびくりとした、顔色(かほ)は紅く変った。昨日の朝、東吾の母は子爵家から迎を受けた。用談と云ふは、東吾が未だ房州に立たずに居るとの事、家も此の通り廣く、閑静(しづか)な室も幾室もある、遥々房州まで渡らずとも、今から此方で勉強しては何うであらうかと云ふ事、今一箇條(ひとつ)は、昔気質の阿母様の耳に入れるのは少し気の毒なれど、何の必要有ってか、此の二月と、この五六日前と両回(りゃうど)に、外聞の悪い借財を東吾が為たと云ふが、何処も若い者には有る習ひ、決して夫を彼此と咎むる次第でないが、今後(これから)金が要るならば、然う云って家から持って行くやうに、此様な不名誉な事を再(また)と為ぬやうに、熟く阿母様からも諭して貰ひ度い、と云ふのであツた。



 余り意外な事を聞(きか)されて、母は暫くは言葉が出なかツた。東吾をば房州に居るものとのみ思って居た、況(まし)て借財の事など、夢にも知らう筈が無い。昨年の暮も、兄の証書に印(はん)を捺したのが原(もと)で、養父(ちゝ)に少なからぬ迷惑を掛けた事がある、今回(こんど)の金は何に費ったか知らぬが、誰が目にも生家(さと)が貧故とよりは映らない事である、子爵も然う思うて居ようし、夫人も然う思うて居よう、此様な事では…と行末(すゑ)から行末をを考へて、或は、今の中に此の縁を断って仕舞ったならば、などと云ふ相談の、内曲(うちわ)に起って居ないとも限らないのである。斯う思ふと、母は最う居ても起(たっ)てもゐられなかツた。
 それで、子爵夫人の前をば白髪頭を畳に付けて。直謝(ひらあや)まりに謝まツて、直ぐ其の足を駒込なる東吾の宿に向けたが、東吾は不在(るす)なので、主婦から聴いた我が子の近状(やうす)に、母はまた一倍の苦労を此処で増したのである。と云ふのは、此の頃の東吾は、主婦の目にも少し変に見えない事もないと云ふのである。急に房州に起つと云ひ出したり、惘然(ぼんやり)考事をしたり、深夜(よふけ)に酒に酔うて帰ったりすると云ふのである。
 まだ怪(をか)しいのは、過日(このあひだ)萩原と云ふ女学生が二階から落ちた時の二人の様子、思へば房州行も彼事(あれ)から延(のび)た事になる。昨夜も東吾の不在(るす)に訪ねて来たが、若い同士の、萬一(もし)間違った事でもあツてはと云ふ杞憂から、主婦(あるじ)は東吾に秘して居る程であると云ふ。
 「なに、昨夜訪ねて来た…?」と東吾は母の話を遮ったが、其の声にも其の顔にも、意外な悦の色が見えるのである。
 「昨夜ぢゃ無い、一昨日の夜の事だが、」と云ったが、初て東吾の様子に気が付き、「東吾、お前夫れ程萩原の事が気に懸るのかい?」
 東吾は流石に紅くなったが、忽ち度胸を据ゑたと云ふ風で、
 「気に懸るも懸らないも有りません、唯訊いて見たのです。」
 「訊いて何うするの、また会ひに行く気かい?」と母は詰寄った。
 「然うですな、用が有れば行かないとも限りますまいな。」
 「何ですと、用が有れば会(あひ)に行く…?」
 「然うぢゃありませんか、用が出来れば、何処へ行かうと勝手ぢゃありませんか。全体阿母様は、何を間違へて其様な、些細な事まで世話を焼くんです、私だツて、何様な用を抱へて居るか知れないしゃ有りませんか…。」
 「お前の…、其女学生に会ふ用かい?」
 「然うですとも。」と決然(きっぱり)云った。
 「お前は、芳江様から頼まれたとお云ひか知らないが、然うは云はせませんよ。」
 「芳江から…?」
 「其様な惚(とぼ)けてもね、房州から廻って来た芳江様の手紙も見たし、萩原から来た手紙も見ましたよ。」と云って、母は厳然(きツ)と我子を睨め、「雙方の文言(もんく)も較べたし、日も較べて見ましたよ、お前の金を借りたのは、まだ芳江様の手紙の着かない前です!然うでせう?夫でもまだ、芳江様から頼まれた事と云へますか?」
 東吾は無言である。
 「高利貸の金を借りたのも、房州に立つと云って立たないのも、皆な彼の、女学生の為なんだらう?東吾、然うぢゃないか?」
 「然うです、阿母様の云ふ事は巧く当たりました。」
 「え、何です?最う一度云って御覧!」
 「借金したのも、房州に行かないのも、萩原の為ですとも。僕は、彼の女が好きです、芳江よりも好きです、それが何うしたんです?」と争ふやうに云ひ放ったのである。






 まよひ

 「何うしたんだね、嬢ちゃん、え、唯泣いてたツて分りませんよ。何うしたんかまア話して御覧なさいよ、え、姉さんが…、姉さんが何うしたんだツて?」
 「姉さんがね、怒ってね、私にね、出て行けツて云ふの…。」
 「何うしてね?何だツてまた、其様なにお怒(おこ)んなすツたんだね?」
 「今日ね、私ね、姉様に隠れて、殿井様にお金借りに行ったの…。だツて、最う姉様の処には、最うお銭(あし)が無くなツ了って、明日からは、洋燈(ランプ)も点ける事が出来ないんだもの…。」とお波は再(また)泣き出す。
 「へえ…、石油(あぶら)買ふお銭もね?」と植木屋の婆さんは、しょぼしょぼした老眼を瞠った。
 「え、」とお波は点頭き、「最うお薬なんか、一昨日から止して居るの。」
 「はゝア、夫ぢゃア、其の殿井様て云ふな、お前の姉様の情人(いゝひと)だね?」其処の敷居に泥足をぶらりと、煙管を銜へて居る雇男(をとこ)が口を入れた。
 「然うぢゃ無いよ、其様な者ぢゃ無いよ、私の姉様に、其様な者なんぞ有るものか。」とお波は口惜し相に云った。
 「だツて、男ぢゃ無えか、男でお前、女に金出さうてなア、其処にほら…、お前様には解るめえが、底も有りゃ蓋も有らうて云ふもんだ、ねえ阿婆様。彼様なに高慢ちきな面アして、女の学者は己許だツて云ふ風してるけんど、なアに、如彼云ふのに限って、存外男にア鈍えもんだ、はゝゝゝゝゝ。」
 「何だい、私の姉様を悪く云やがって、何だい。」と真(むき)になツて突掛った。
 「なアに、悪く云ふもんかね、全くの事だよ。嘘だら、此の又様(またさん)一つ、口説き落して見せべえか…、あはゝゝゝゝゝ。」
 「誰が、汝(てめえ)の様な百姓なんか、誰が…、姉様の傍にも寄せるもんか…。」
 「何だと、百姓だと、此の小女郎(こめらう)、生意気な…。」大人気なくも眼を剥くと、
 「又様、何だよお前様…?此様な幼少(ちツちゃ)い者を捉まへてさ…。」と婆さんが叱った。
 「余り生意気吐(ぬか)しアがるから…。」
 「お前が調戯(からかふ)から悪いんだよ。彼方へお出でよ、ほら、親方が呼んでるぢゃ無いかよ。」と婆さんは男を彼方に逐遣り、「嬢ちゃん、彼男(あれ)はね、馬鹿だからね、彼様な者に関(かま)ふぢゃありませんよ、ね。」
 「だツてね、私を見るとね、何時でも彼様な事を云ふの、私口惜しくツて!」
 「馬鹿ですからね、今後は、何を云っても知らない風(ふり)していらツしゃい、其が一番に良いんだから、ね。」と婆さんはお波を宥めて、「それより、姉様は何う為すツたんだツてね。」
 「阿婆様、何卒、後生だからね、姉様に謝罪って頂戴よ、え、阿婆さん何卒後生だから…。」
 「それは承知だがね、何だツてまた、其様な…石油買ふお銭まで無くなすツたんだね…!」
 「それはね、阿婆様、斯うなの…。」
 と、お波は姉の窮して居ることから、試験の間近くなツた為、昼夜殆ど机を離れずに居る事、病気は只だ悪い一方に進む事、殿井様から金を借りることを勧めたが、姉は芳江の約束を堅く信じて、お波の云ふことなど耳にも入れぬ事、けれども今は、肝心の石油代にも差支へ、豆腐一つ買ふ銭も無くなツたので、お波一己の料簡で、秘ひ殿井へ頼みに行った事を話した。
 「然うですかい、それでは、姉様の方が無理でございますよねえ。」
 「それをね、姉様はね、私の心が鄙劣(さもし)いからだツて云ふの…、それ程殿井様が好きなら、殿井様の家へ行って居ろツて…。あら、阿婆様、姉様が此方へ来てよ。」
 「逃げないだツて宜うございますよ、私がね、熟く謝罪って上げますからね…。」
 婆さんが濡れたお波の手を攫んだ時、
 「波ちゃん、何してるの?」と初野は土間に近寄って、「其様なにお婆さんのお邪魔を為ちゃ不可ません、此方へ来らツしゃい!」
 洗晒(あらひざら)したネルの寝衣(ねまき)にメリンスの半襦袢、何処とも無く自炊の垢に汚れたるに、病気(やまひ)に窶れた肩から頸の邊細(ほツそ)りと、顔は試験の準備で家にのみ籠り居るので、日に射らぬ色青白く、頭髪も構ってる暇が無いかして、油気の脱けた髪の毛を乱るゝに任せ、此女(これ)が此の春、学校の祝賀会で、殿下の御前に英語朗読をなす可く選抜された其の一人と云っても、誰か真(まこと)かと思ふ者が在らう!
 彼の時、駒込から巣鴨までの御道筋、雲と群り、潮と波打つ幾萬の見物の間を、鈴(ベル)の音強く、神か人かと驚く許りの扮装(いでたち)して、矢を射るが如くに自転車を飛ばした其の美人と云っても、誰か真と思ふ者が在らう!



 「阿婆さん、ね、何卒ね…。」とお波は後に隠れて、切りと老婆の援(たすけ)を求むるのである。
 「宜うございますよ、今願って上げますからね、」とお波を慰めながら、初野の方に一歩二歩、
 「嬢さん、私も熟(よ)かア聴かないけれどね、別段、悪い気で為(し)た事で無いんだからね…。」
 と、老婆は其の柔和な顔に笑を含んで、お波の為に口を利いて呉れるのだツた。初野は、一時の怒に叱り過して、妹の趾を探しに出た処なので、婆さんから願はるゝ迄も無く、最う叱言(こゞと)は云はないから、とお波を家に伴れ帰ったが、
 「波ちゃん、まア此処へお出でな、」と家へ入るや否や、妹を膝近く坐らせ、「今日の事は堪忍して上げるからね、今後(これから)は最う、決して自分の一存で、此様な事を為るんぢゃないんだよ、可いかい?」
 「え、今後は…。」
 「そして、彼(あ)のお金はね、彼のまゝ殿井様に返してお来(い)でなさい。」
 「返すの…?」
 「然うぢゃ無いかね、理由(いはれ)も無く他(ひと)の金を使ふなんて、其様な卑(いやし)い事は出来ないぢゃないかね…。其様な不名誉な事して、他日世間へ出てから何(どう)するの?波ちゃんは、現在の苦しい事許し思って、卒業後の事は些(ちツ)とも考へて無いんだもの。だから不可(いけな)いツてんだよ、耐忍力が無くツて…。幾ら苦しいツて、後最う一ト月の辛抱だよ、昔は、豆を咬んで苦学した学者も在る、一ト月許し、何だ私は、土を噛っても辛抱するよ。」
 「私だツて、辛抱する気ぢゃ無いか。」
 「ぢゃ、其様な文句を云はないで、綺麗に返してお来(い)でなさいな。加之(それ)に、後刻(いま)にも芳江様から送って来るか知れ無いし…。」
 「芳江様なんぞ、信用(あて)になるもんか。」
 「何ですツて、芳江様が信用にならない…。」と初野は厳然(きツ)となツた。
 「姉様は、芳江様の事を云ふと、直ぐ其様なに怒るけれど、だけれど…。」
 「お黙りなさい、」と妹の声を打消して、「芳江様が信用にならないとは何の事です、失敬な、二度と其様な事を云ったら恕しませんよ!」
 「だツて、姉様は何にも知らないから其様なに思ってるけれど、私は…、私は今日、聴いて来たんだもの。」
 「何を?芳江様の事を?誰から聴いたの?何様な事を?」
 「殿井様から聴いたんだよ。」
 今日この頃の初野が胸中(こゝろ)、貧に迫られ、病に苦しめられて、鏡に写る日毎の憔悴(やつれ)、それより目に立つのは妹の顔、色も悪く、艶も失せて、何うやら頬も痩(こけ)てきたやうだ…、と思ふ時は、むらむらと唯心細く、唯哀しく、えゝ、最う卒業も独立も入らぬ、辛くとも郷里(くに)に反って兄の厄介に成らうか、それとも、男に此の身を任してなりとも、此の苦境から救うて貰はうか、と迄迷ふ。迷ふけれど、直ぐまた閃めく希望の雷光(いなづま)、試験毎の我が成績、学校内の我が評判…。卒業さへすれば、世間にさへ出れば、立身!名誉!幸福!思ふ儘なる我が身では無いか、その卒業も、僅にあと一ト月の中では無いか!なんぼ可弱い女でも、荒い浮世の波を此処まで漕ぎつけて居ながら直ぐ手の達(とゞ)く岸に上り得ずに、此のまゝ押流されて成るものか。苦しくとも、辛くとも、假(よし)や病が重らうとも、正可(まさか)に試験前に倒れる様な此の身では無からう、否、土を噛っても倒れることではない。
 天には神も在(まし)ますであらう、道理の光、状の温かさ、此の明い世の中で、我が望ばかりが、破れる事の有らう道理はない!
 卒業も、独立も、決して我が欲を充(みた)さう為のみで無い、第一は不幸の母に、老後の孝養がして見たく、また二つには、不便(ふびん)の妹を立派に教育して、姉妹二人で理想の生活を想像し、家庭の規範とも成らなければならない!昔罵られた兄や嫂、母の素生まで洗立てゝ嘲った近所の人達にも、慚死の感(おもひ)を輿へて遣らう!姉妹帰省の折は、贅沢と云ふ程で無くも、美しく揃ひの物を着て、土産も郷里には珍しい物を持って、亡父上(ちゝうへ)の墓参、親類への見舞、彼が妾上りの後妻の娘かと、蔭口にも驚嘆させねば止まぬつもりである!
 然うよ、何も嘆息する事は無い、煩悩する事も無い、自分には、芳江と云ふ世にも頼母しい親友が有って、今にも此の境遇から救呉れるのでは無いか!彼の時の優(やさし)い慰め、誓の言葉、あれを忘れて何うなるものか!今日来なければ明日、明日送らなければ明後日は送って来る。彼程気に懸けて居らるゝ人が、何日まで私を苦しめて置かう!苦しいと云ふも僅の辛抱である、妹を不便と云ふも其の間だけの事である、今更何を迷うて、何を狼狽(うろた)へる事が有らう!假にも此様な心を起しては、芳江様の彼の清い心に対しても済まないでは無いか。
 様々に動く心を、初野は毎(いつ)も斯う云ふ態(ふう)に制して居る。その頼(たより)に思ふ芳江の事で、殿井から妹が聴いて来た事有りと云ふのだから、聴かぬ前(さき)から激しもし、また驚きもしたのであるが、妹は怖々ながら、
 「芳江様は、近日(このごろ)にあの、お婿様を貰ふんだから、最う外へなんざ出ないんだツて云ふの。」
 「お婿様を?お婿様を貰ふから外へ出ないツて?ぢゃア、東吾様と結婚する事だらう?」
 「然うぢゃ無いんだツて、東吾と云ふ人はね、他に女が有ってね、借金なんかして、それが知られ了ってね、あの、絶縁に成ったんだツて。」
 「え!東吾様が…?」
 「だから、芳江様は、最う姉様にお金を送る事など無いんだツて…、其様な事を的(あて)にしてちゃ大変だツて、殿井様は然う云ったよ。」
 「ぢゃ、東吾様の女と云ふのは…!」と初野は顔を紅くしたが、急(にはか)に蔑視(さげす)む様な語調で、なアに、彼の殿井が何を知って。」
 「だツて、殿井様のお友達に、同級の人が在るんで、東吾様と同級の人が在るんで、それで熟(よう)く知ってるんだツて云ってたよ。」
 成程然う云はれて見れば、真実(ほんたう)の事かも知れぬ、また殿井とて、利益にも成らない事を、虚構(こしら)へて話す訳もない。
 女の関係、借財、それが原(もと)で、東吾が離縁になツたとは?それに芳江は外出もせぬ、金も送らぬとは?
 若(もし)や私から起った事で無からうか、過日(このあひだ)東吾様の持って来た金の事では無からうか、然うでゝも無ければ、芳江様から今迄便(たより)の無い筈も無い。けれども、けれども私と東吾様と何の関係が有らう?
 彼(あ)の後、一回(ど)謝罪(あやま)りの手紙は進(あ)げた、それから、何とも御返事が無いので、房州に立ったか何うかと思って訪ねて行った。訪ねたけれど会ったのでは無い、東吾様との関係と云った処が、唯それだけの事である、唯それだけの事で、離縁など云ふ大事件が起るだらうか、唯それだけの事で、彼の情に厚い芳江様が私を疑ふだらうか、第一、それで東吾様が黙って離縁を承諾するだらうか!馬鹿々々しい、無論他の女との関係なのだ。
 「そして、其の女ツて云ふのは…、東吾様の関係(なん)したと云ふのは、何様な人なの?」と初野は暫くして云った。
 「何様な人だか…。」
 「何か、放蕩してるやうな話でもあって?」
 「どうだか、私、彼の人の事なんか熟(よ)か聴かなかツた。」
 「では、芳江様は、それで承知して居るんだね?」
 「もう、お婿様を取るツて云ふんだもの、然うだらう。だから、芳江様は外へなぞ出ないんだツて、決してお金なんぞ送りゃ為ないツて、其様な物を的(あて)にして居たら、姉様も私も、干乾に成るより外は無いんだツて、殿井様吃驚して居たよ。」
 「お前は、芳江様から金を送る心算だなんて、其様な事を、皆な殿井様に話したんだね?」
 「だツて、私は…、」とお波は顔色(かほ)を変えて、「姉様、御免よ。」
 「いゝえ、今更夫を叱るんぢゃ無いけれど、」と姉は案外に叱りもせず、「殿井様は、何様なにか私を怒ってたらう?」
 「怒ってなぞ居ないよ。あの、お前の姉様はね、学問も出来るし、中々才女だツて…、他日(いまに)社会へ出たら、何様なにか名を揚げるか知れやしないんだツて…。」
 「其様な事を云ってゝ?」
 「え。」とお波は得意に点頭き、「何卒か、首尾好く卒業させ度いものだツて、それには、先ず療治をしなきゃ不可ないんだツて…。」と其の殿井の深切な次第(こと)を話すと、初野も深く感に打たれたらしく、
 「まア、それ程まで私の事を…?」
 「え、姉様の事はね、大変に心配していらツしゃるよ。姉様、だから、私の云ふ通り、殿井様に借りた方が好いぢゃないか?」
 「然うさねえ。」
 「だツて、最う仕様が無いぢゃ無いか。明日からは、もう、お菜(かず)を買ふお銭(あし)だツて無いぢゃないか。」
 「然うだねえ。」
 「私なら、何様なでも辛抱するけれど、姉様は、何にも食べないで、其様な勉強許しして居るんだもの、此の頃は最う…。」と涙ぐんだ。
 「だけれど、殿井様は何と仰有るんだか…。」と深く溜息を吐いた。
 「ぢゃ、殿井様に頼むの?本当に然うするの?」と初めて勇む顔色(かほ)。
 「まア、お前の様に然う軽々しく考へたツて…。」と煩さ気に顔を顰める。
 「いゝえ、殿井様はね、承知して下さるに違ひないの、私請合ふの…。」
 と云ふ時、其処の障子が明いて、前の植木屋の婆さんがお波を手招きし、
 「嬢ちゃん、一寸来(い)らツしゃい。」
 「お婆さん、何?」
 「ま来らツしゃいよ、」と意味有り気な顔で招き、「今ね、嬢様に会ひ度いツて方が参りましたよ。ま、此方へ来らツしゃい。」
 「然う、誰?何様な人?」
 お波は訝りながらも出て行った。用が有って訪ねて来た人なら、真直に此処へ来さうなものを、と初野は其の後を見送って首を捻った。
 すると暫くしてお波が家へ入って来たから、
 「何だい?誰…?」と隙さず問く。
 「あのね、あの…。」と障子に捉まツて、上目遣ひに姉を見ながら、其処に逡巡(もぢもぢ)して居る。
 「何うしたの?ま此方へお出でな。誰が来たの?」
 「だツて、姉様が怒ると可けないんだもの…。」
 「え、怒る…?」
 「近い中に行って、熟(よう)く、姉様に話して遣らうツて、然う仰有ったけれど、私は、私はあの、今日の事ぢゃ無いと思ってたんだもの…。」
 「私に談して遣る…?近い中に行くツて、誰がさ…?」と云ふ中一段と驚いた顔をして、「殿井様だね?」  
 「私は、今日の事で無いと思ってたんだけれど…。」
 「殿井様だらう?波ちゃん、然うなら然うとお云ひな。殿井様でせう?前の家に来て居るのかい?」
 「あの、突然(だしぬけ)に入って、また、私が叱られちゃ気の毒だからツて…。」
 「それで、前の家に待っていらツしゃるの?」
 「え、入っても可いか何うだか、様子を訊いてからにするんだツて…。」
 「だツて、私は何(ど)の顔色(かほ)で殿井様に…。」
 「何故?今後(これから)の、私達の事を相談しようと思って、態々来て下すツたんだツて…。」
 「それでは、尚更会へないぢゃ無いかね。」
 「だツて、姉様が居るかツて問くから、居ますツて云ったんだもの。」
 「困ったねえ、」と初野は我が身を見廻し、「此様な恥しい服装(なり)をしてお前…、迫めて頭髪(あたま)許しも…。」
 と云ふ時しも、此方に近(ちがづ)く靴音が聞える。
 「おや、来らしツたよ。」と初野は慌てゝ、「波ちゃん、不在(るす)だと云ってお呉れよ、不在だと云ってお呉れよ。」
 「だツて、今居るツて云ったものを。」
 「でも、此様な服装で体裁(きまり)が悪いぢゃ無いかね…、それ、其処へ入らしツた。」
 と初野は速くも障子を開けて、除(そツ)と室を逃げた。背後(あと)ではお波が、入って来た恭一を立迎へた様子で、
 「閑寂(しづか)で、思ったよりは佳い所だねえ、」と例の軽く冴(さえ)た声が入って来て、「姉様は?」
 「え、彼の…。」
 「居るだらう?」
 「え、彼の、一寸と不在ですの。今一寸と出まして。」と周章(どぎまぎ)した声。
 「出た?今?」
 「え、一寸。」
 「ぢゃ、直帰るね、待って居よう、入っても可いだらうね。」
 「え、それは可いけれど。」
 家に上った様子なので、初野は足音を竊んで屋後に身を潜(しの)ばせ、窓の下に耳を澄まして居た。話声は能くは聴えぬが、何やら手土産でも貰ったらしく、嬉し相な声でお波のお礼を述べるのが聞えた。
 壁板(したみ)に身を寄せて、初野は種々と考へた。



 芳江の事、差迫る目下(いま)の困難、日毎に進みつゝあるらしい我が病態…、何(どう)しても今は、恭一にでも頼るより他に術は無いのだ。恭一が、彼様な事をした自分を咎めもせず、尚も頼に成らう、力を借さうとの厚き情は、実に感謝に余る有難い話である。
 「然うだ、最う恥しいたツて仕方が無い、お目に掛って、謝罪(あやま)る処は謝罪って、そして…、そして…。」と暫くしてから点頭いたが、軈て襟など正(なほ)して、除(しづか)に表の方へ廻った。恭一に会はうと思へば、過ぎた記憶、今後の想像、急に胸の中に躍って、顔は燃(もえ)る、足は竦む、また身窄(みすぼ)らしい服装が気に成って来る。けれども、何時まで斯うしても居られぬ、と自ら励まして顔を掲(あ)げると、直ぐ其処の檐下に、一人の男が佇んで家の様子を立聞して居るのである。
 「おや!」と初野は吃驚した。
 男の方でも、初野の足音に面を上げたが、それが思掛けぬ東吾なのである。 
 二人は驚いた顔を見合したが、互いに頭(くび)を動かして、双方から歩寄った。そして、口でも云はず、無論手を曳いたでも無いけれど、其処から足音を竊んで、檐下を通り抜け、木立の間を裏庭へと出た。
 空は薄く曇って居るが、傾き掛った日光は照りつくやうに射して、木の葉も草の葉も、宛然(さながら)油を塗った様にねっとりと光り、物の影は朧月夜の如く薄く落ちて、水蒸気の多い南風が、絶えず緩く吹旋って居る。
 「先日は真に失礼致しまして、」と先づ初野から口を切った、「私は、最う房州(あちら)へお立ちなすツた事と存じてましたが。」
 東吾も同じく立止ったが、凝然(ぢツ)と初野を視て、
 「何うしました、大変血色が悪いぢゃありませんか?」
 「え、矢張し、まだ平癒(さツぱり)しないもんですから。」と云ったが、身窄(みすぼ)らしい我が姿を今更のやうに恥しく俯向いた。
 「医者は何う云ふんです?其様なにして居て可いんですか?苦しかありませんか?」
 「は、有難う、」初野は点頭いた。その答よりも、東吾の優しき言に胸を突かれたのである、「苦しいって云ふ程でも有りませんが。」
 「でも、非常に痩せましたね。過日(こなひだ)も然う感(おも)ったが、今日はまた一段痩せたやうです、貴女は然うは思ひませんか?」
 「はい、私も…。」と許り黙って了った、急に胸が一杯になツた。
 東吾も黙った、そして、手近な木の葉を毟取って、脂気の多い掌に載せて擦って居る。
 「先日は、大変失礼致しまして…、」と良(やゝ)暫く置いて初野がまた云ひ出した。「あの、此間進(あ)げた手紙は御覧下すツて?」
 「見ました。」
 「実際彼の通りの事情ですから、何卒悪からず!」
 「彼様な事で、感情を悪くする僕でもありませんよ…。併し、彼の後、芳江から送って来ましたか、来ないでせう?」
 「えゝ、それは、未だ何ですけれど…。」
 「来ないでせう。僕も然う思ってました。」と独で点頭く。
 「では、何か芳江様に…?」
 東吾は只だ笑ったのみで、
 「今来て居る人は…、彼は何です?」
 「え、彼の方が、日外(いつか)お話しました彼の、殿井ツて云ふ方なんですの。」と云ったが、顔色(かほ)を紅くした。
 「ぢゃ、彼の男が補助(ヘルプ)すると云ふのですな?」
 「何うですか?私は会ひ度くもありませんから、彼様なに隠れて…、失礼か知れませんけれど。」
 「でも、お妹さんに其様な事を云ってるぢゃありませんか?」と東吾は詰問するやうに云ひ掛けたが、「併し、芳江から送って来なきゃ何うするんです?お困りでせう?」
 「えゝ、それは困りますけれど…。ですけれど、芳江様が彼様なに御深切に仰有って下すツたもんですから。」
 「貴女は、家庭(うち)の内情を知らんから其様な事を云ふがね…。」
 「それでは、芳江様は何か…。」
 「お、其処へ来たのはお妹さんでせう。」と東吾は初野の声を止めた。
「発見(めっか)ると不可ませんから、失礼ですが…。」
 二人は足早に木立の蔭に身を隠した。お波は四邊を見廻しながら、畑の方へ通抜けて行く。
 木立と云っても、土を柔かに売物の檜葉(ひば)や、松など五六株ばかりで、前は廣々と彼方の垣根まで野菜畑である、主人の仙右衛門と雇男とが、働いて居るのが見える。
 隠れようとしたが、前に出れば畑の人に身らるゝので、二人は其のまゝ、其処に立止った。東吾は珍し相に木の葉を毟り、足許の草花を眺めて、互に出来るだけ身を離して居たが、それでも風が吹いて通れば東吾の袴の裾も障る、初野の長い袖も靡く…。



 「最う、彼方へ去(い)ったやうですから。」と暫くして初野が云った。其の声は喉に窮迫(つま)ったやうにも聞える。
 「彼方へ出ませうか?」
 二人の交した言は是だけであツた。けれども、木立の間を出ると、二人とも、前よりは一倍に親さが増したやうな気がするのである。
 「家へ入りませうか?」と東吾が云った。
 「え…。ですけれど、未だ殿井様が居るかもしれませんから…、」と云ったが、少し狼狽(うろた)へて、
 「それは、居っても関ひませんけれど。」
 「彼様なに探す位だから、何か秘密な、でなきゃ、何か急用が有るかも知れませんねえ。」
 「秘密なんて、私には其様な用は無いんですから。」
 「併し、貴女を補助(ヘルプ)するとか何とか、然う云ふのぢゃありませんか、でなきゃ、彼アして遣って来る筈も無いし…。」
 「ですけれど、私は、彼の方に助けて貰ふ気なんぞありませんもの。私、貴方に、然う疑はれましては…。」と俯向く。
 「疑ふんぢゃ無いが、併し、彼の通りに来て居るぢゃありませんか。」
 「私は、最う、何様な事が有りましても、決して他の助なんか受けない心算(つもり)ですの。」
 「他の助は受けない…?」
 「え。芳江様の外に何誰でも。」
 「芳江の外は?だが、芳江からは、未だ便も無いツてぢゃありませんか。」
 「え、夫は然うですけれど…。」
 「若し、芳江から来なかツたら?」
 「私は然うは思ひませんの…。」と東吾を見て、「何か、芳江様に変った事でも有るんでせうか?」
 東吾は答もせず、何事か重大な考の湧いたやうに、目を据ゑて我が足許を見て居る。
 「芳江様の身に、何ぞ変った事でも起ったのでせうか?」と初野は再(また)問(き)いた。
 「初野様、」と声と共に面を上げたが、色は火のやうに紅く、燃ゆる如くに光って、「初野様、貴女の一身上は、及ばずながら僕が助けませう…、助けると云っちゃ失礼か知らんが、兎に角僕が引受けます、貴女は厭かも知れない、併し僕は厭とは云はさない心算だ、最う、何処までも承知して貰はなきゃ成らん…。」
 斯う云はれる中にも、初野は最う真紅(まツか)になツたが、
 「其様な事はございませんけれど、たゞ、私は唯、芳江様に何うも…。」と後は小声で聴取れぬ程に云ふ。
 「芳江なぞ構はん、ま此れを取ってゝ下さい、其様な事をすると、僕は貴女を恨みます…、」
 と取出した紙入を袱紗(ふくさ)のまゝ無理に渡して、「取って置いて下さい、構はん、貴女に此様な事を為るのは今始まツた事ぢゃ無い、外日(いつか)の入院料だツて、秘しては居たけれど僕です。」
 「あら、ぢゃ彼の入院料は…!」
 「貴女も然う思ってましたらう!初野様、彼様な事を為るのも…、詰り僕は、疾から僕は…、貴女を恋して居たからです!」
 と云ふや否や、東吾は逃ぐるやうに門の方へ出て去(い)った。



 新しき望

  一

 臥床(とこ)に入ってからも、萬感胸に躍って、暫くは眠れなかった初野は、翌朝(あくるあさ)、台所の用事もお波が手一つに出来上がった時分(ころ)に目を覚ました。
 昨夜、殿井の補助を得よう、得まいと云ふ事で、姉妹長い間云ひ争ったが、その故(せゐ)かして、甚だお波の機嫌が宜くない。姉はまた深く此れを気に懸けて、百方(いろいろ)と慰むるやうにするが、何うしても常のお波の従順(すなほ)な心は返らぬ。初野は「変な娘(こ)ぢゃ無いか。」と胸に繰返し、幾回か口に出した程である。
 けれども、妹の方でも、顔色はまた一倍悪いが、何処か嬉々(そはそは)して、常よりも余計に口を利く姉を、「今朝は余程何うかして居るよ。」と訝ツて居た。
 で、朝飯を済ますと、台所へ立たうとするお波を姉は呼止めて、
 「波ちゃん、後で私が片付けるからね、ま、一寸此処へお出でな。」と優しく云って、「貴女昨夜、殿井様は、今日も再(ま)た来(い)らツしゃるとか云ったね、本当に然う云ふお話?」
 お波は膳を持ったまゝ、黙って其処の敷居の上に起って居る。
 「よ、波ちゃん…、何ですねえ此の人は、返事をお為なさいよ。」
 「だから、然(え)ツて。」
 「段々意地悪になるんだよ、何うして斯うだらう!」と顔を顰めたが、「未だ、昨夜の事を怒ってるの?」
 「だツて。」
 「何がだツてなの?ま、此処へお出でなさい。」と我が前に坐らせ、「何が、だツてなの?可笑しいぢゃ無いか、其様な顔色をしてさ、何か、面白く無い事でも有るの?」
 お波は上目使に姉を眺めて居たが、暫くして、
 「姉様、ぢゃア、昨夜の事は何う決めるの?」と矢張り勃然(むツ)とした調子で云ふ。
 昨夜遅くまで種々云ひ争った末、夫では殿井の世話になるが、昨日お波に置いて去(い)った金を此のまゝ返して了ふか、臥(ね)てからも熟(よ)く考へて見て、其上に決めると仕よう、斯う云ふ事で、姉妹は枕に就いたのだツた。
 それでね、私も種々考へて見たけれど、是迄辛抱して来て、今爰で彼の人の補助を受けては、実に残念だからね…。」
 と云ひ切らぬに、妹は、
 「ぢゃ、昨日のお金は返しツ了ふの?」
 「然うさ。其の方が可いぢゃ無いか。貴女だツて然うだらう、少(わづか)一箇月二箇月の事で、彼様な人の恩を被(き)るなんて、実に口惜いぢゃ無いか…。」
 「ぢゃ、返す事に決めたの?」と念を押す。
 「だから、其の方が良いから、然う決めようぢゃ無いか…、波ちゃんだツて然うでせう?」と妹の顔を覗いて、「ね、然う決めようぢゃ無いか…、そして、孰(どう)せ返すなら、また彼方から来ない中にね、速く持ってツた方が良いぢゃ無いの…、然うでせう。だからお前、御苦労だけれどね…。」
 「だツて、返すたツて、最う余程(よツぽど)費ったよ。」
 「え、費った?何に費ったの?」
 「だツて今朝、伊勢吉(いせよし)の来た時…。」とお波は、過日(このあひだ)から滞(たま)って居る酒屋の借も払ったし、前の婆さんの借も返した事を告げる。
 通例(いつも)だと、無断で金を費ひなどしては、初野は決して黙って居るのではないが、如何したか今朝は叱言も云はず、
 「然うかい、ぢゃ、其の費ったゞけのお金は、私が足して上げようよ。」
 妹は吃驚した顔をして、
 「足して遣るツて?最う一円から以上(さき)よ。」
 「何だねえ、其様な仰山な顔をして、一円許し、姉様にだツて有りますよ。」
 「然う…?」
 「だから、御苦労でもお前さん、返して来てお呉れな、あの人の来ない中に。」
 「だけれど、彼金(あれ)を返して、そして、此から後(さき)何うするの?最う、今回返したら、何様な事有っても願ふ事は出来ないよ…。」
 「私にだツて、当(あて)が有りますよ。」
 「芳江様の方ならば、今迄何とも便が無いぢゃ無いか。」
 「芳江様の方で無く、別に。」
 「ぢゃ、学校の、楠田先生に頼むの?」と云ったが、心配さうに、「だツて、未だ頼んでも見ないものを、当にならないぢゃ無いの。」
 「いゝえ、楠田先生でも無い。」
 「ぢゃ誰?」と一杯に目を瞠って云ったが、「ぢゃ、彼の…東吾て云ふ人だらう?」
 「えツ!」と初野は吃驚して、「お前、彼の紙入を見たね?」
 「紙入って…?」
 「私の寝てる間に、机の抽匣(ひきだし)を明けたんだらう?」
 「いゝえ、抽匣なんざ、」と頭(つむり)を掉って、「私、其様な事は知らないわ。」
 「ぢゃ、何うして其様な…、東吾さまの補助を受けるなんて、其様な事を云ふの?紙入を見たからでせう?」と膝を進めて、「何故秘すの、見たら見たとお云ひなさいよ。」
 「だツて見ないんだもの。紙入なんて、私知らないわ。」
 「ぢゃ、東吾様の事を何うして…?」
 「だツて、昨夜彼様なに、寝言を云ってたぢゃ無いか。」
 「えツ、寝言…?」見る間に初野は火のやうに紅くなツた。



 「芳江様に秘して置くの、東吾様が力に成って下さるから、最う今後(これから)は、心配しようにも心配する事は無い…なんて。」
 「まア、其様な事を…?」と初野は、一度は袖で顔を隠したが、急に怒ったやうに、「お前は、それを黙って聴いてたの?本当に人が悪いよ。」
 「だツて、私も、姉様の声で目が覚めたんだもの。」
 「本当に人が悪いよ…。」と妹を睨めたが、「寝言だもの、何を云ふか分るもんかね、何も…心に在る事を云ふと極ったものぢゃあるまいし、信(あて)になるもんですか。」
 「ぢゃ…。」
 「何ですよ、其様なに私の顔許し見て、失礼な…。」と態と妹に顔を背向けて、「現在、私の知らない事なんだもの。」
 「ぢゃ、今の紙入って?」
 「それはね、」と初野も当惑したが、流石にそれ迄を偽る事も出来ず、「まア、それは悠(ゆっく)り後で話しませう。」
 「ぢゃア、姉様の、お金を借りる当ツて云ふのは、東吾様ぢゃ無いの?」
 初野は一寸考へて、
 「それは、東吾様の事は東吾様だけれどね…。」と曖昧に云った。
 「東吾様…?ぢゃ、東吾様のお世話になるの?」
 「何だねえ、其様な大きな声をして。」
 「本当に、東吾様の世話に成ると決めて?」
 「其点(そこ)は、お前と相談の上に決めるのだけれどね…。何故?可いぢゃ無いか、東吾様の補助を得ては悪いの?」
 「私、彼様な人嫌ひだわ。」
 「何う云ふ訳で?」
 「何だか、怖いもの…。若し彼様な人と関係すれば、姉様は堕落するに極ってるんだツて云ふよ。」
 「え、堕落?誰が其様な事を云ふの?殿井様だらう?」
 「殿井様ばかしぢゃない…。」
 「それから誰?島井のお主婦?」
 「然(え)。だツて、彼の男(ひと)は、女たらしだツて云ふもの。」
 「女たらし…?殿井様が其様な事を…?まア失敬な!東吾様はお前、此の夏で大学を卒業なさる方ですよ、法学士の学位を得(と)る方ですよ、失敬な…。」と初野は唇を咬んだが、
 「波ちゃん、可いから、彼の金は返してお呉れ!」
 「殿井様へ返すの?」
 「然うさ。何だねえ、貴女まで其様な顔色をして。疾(はや)く支度して、疾く返してお出でなさい穢はしい!」
 「だツて、私は返しに行くの厭だわ。」
 「何ですツて…?波ちゃん、貴女姉の言を背くのですね…?」初野の声は常に無く荒くなツた。

小杉天外 魔風恋風 その11

2011年07月17日 | 著作権切れ明治文学
 自炊

  一
 
 駒込吉祥寺の裏手に、百姓家で植木職(うゑきや)を兼ねた仙右衛門と云ふのがある。廣い庭の内を、母屋からは話声も達(とど)かぬ程に離れて、昔隠居所にでも建てたらしい古い藁屋根の座敷(はなれ)があって、別段貸室の札を出して客を呼ぶでも無いが、独身の巡査、工場の勤人、試験の準備に閑静をこのむ学生など、年中借人(かりて)の絶えたことが無いのである。
 初野姉妹(きゃうだい)は此の離室を夏までの我が住居と定めた。
 通りまでは六七町、両側は畑を囲ふ生垣が繁り、目に入る物は木立、竹藪、都の響と云っては、朝夕の豆腐屋も風次第で聞ゆること稀なのである。可弱き娘の身で、夜などは一寸も門を出らるべくもあらず、昼でも吹降りの日などは、物買一人来さうも無い。初野とて好んで此家(こゝ)を借りた訳ではない。何を云ふにも夏までの籠城、有る物の総(すべて)を売尽しても、中々それ迄持耐へさうも無ければ、便不便の擇好(よりこのみ)云うて居る処でなく、賃の安いを長處(とりえ)に、早速此家と決めた次第である。
 家は六畳の間限りで、外に形ばかりの台所、昔は何に用ゐたものか無用の土間長く、此処には筍がひょいひょいと頭を出して居る。此の六畳に僅か許りの荷物を運んで、南の障子際に姉妹(ふたり)の机を列べたが、木立の枝檐(えだのき)に近く、空は薄く曇って、掃除した後の家の臭が鼻を襲ふ。
 「淋しいわねえ。」とお波は幾度か口に出す。



 「静で、何様なに勉強が出来るんだらう。」と姉は元気好く云って見せる。
 けれどもお波は、兎もすれば涙ぐんだり、惘然(ぼんやり)外を眺めたり、何うやら此家(こゝ)に住むことを嫌ふ如(やう)に見える。初野は、それを見ても気の付かぬ態(ふり)をして、元気好さゝうに荷物を片付けて居たが、到頭耐へ切れなくなツて、
 「波ちゃん、何うしたの?何だツて其様な厭な顔をしてるの?」と口を向けたのである。
 「何うもしないけど、私、何だか…、」と涙が溢れる。
 「また…、可けないよ波ちゃんは、直ぐ泣くんだもの。彼程固く決めたことを、貴方最う忘れたの?」
 「忘れやしないわ…。泣きやしないわ。」と眼を拭って、「私、斯う云ふ処初めてだもんだから、何だか怖いやうで…。」
 「何だねえ此の人は、十三にも成ってさ…、」と云ったが、急に高く笑って、「何が怖いの?直ぐ其処に、前の家が在るぢゃないの…、其様な事を云ふと、人に笑はれますよ。」
 初野は賑かに云ったが、その声が止むと前より又一倍寂然(ひツそり)となツた。お波は物を片付ける事もせずに、黙って姉の顔ばかりを視て居る。すると初野も、最う妹を慰める力もなく、穴の中にでも沈んで行くやうな、心細い厭な気が身体を締めるやうに迫って来る。

  二 

 淋しいのも、苦しいのも、それは元から覚悟の前であるのだ。泣いたり、怒ったり、種々な事をして妹を諭して、漸(やツ)との事で納得させて、最う愚癡は云はぬ、泣言は言はぬ、渡る浮世の波は荒くとも、姉妹二人が手に手を捉って、假(よし)や中途で斃れるとも、二人斯うして一緒に斃れるまでの事、それも、
 「幾ら辛いたツて、最う二タ月のことぢゃ無いか。」と姉が励ませば、
 「姉様、私辛抱するわ、何様なに辛いツて、死んだ気になツて辛抱するわ。」と堅く誓ひ合って、食ふ物が尽きれば、互に肉を削いでも食はす様な心の中!だが愈よ此処に引移って、最う此れからは此処が住居と決ると、言を慎んでも自然(おのづ)と出て来る溜息、妹は姉に覚らせまいと力むると、姉はまた、然(さ)あらぬ顔色までそれと定めて、
 「あゝ可哀相に、辛いと云っても郷里の兄様の傍に居たら、此様な苦労は為ずに済むのに…。兄様より私を好きなのが、矢張り此の娘の因果と云ふんだらう!」
 幾ら思ひ定めた事でも、妹の傷(いぢらし)さには胸も乱るゝ。斯う云ふ事なら、矢張り妹のみは殿井様に頼んで置けば宜かツたか知れぬ。主婦も彼程までに云って呉れたし、お波も彼様なに彼方に居たがツたものを…、それを、私は飽までも強情を通して、他の言を打消して、無理に此様な事に決めて了った。何が何でも殿井様と関係を絶って、島井の家を引越さなければ、最う生きて居る事も出来ない様に思って、これに反対する者は、妹でも敵の様な気さへした。全く私は夢中だツた。
 何故彼様なに夢中になツたらう、殿井様と関係を絶って島井の家を越すのが、何故それ程の大事件だツたらう?東吾様は、妹を彼様なにして置くのを、何か忌まはしい関係が、私と殿井様との間に在る故と疑って居た。郵便の達(とゞ)かぬ事も、訪ねて下すツたのを知らずに居た事も、下宿の所業(しわざ)で無く、私が一時を遁るゝ為の虚構事(こしらへごと)のやうに疑って居た。私はそれが悲さに、そんなら明日にも転宿致します、妹をも殿井から取返しますと東吾様に誓って見せた。私は、然うして東吾様の疑を解かうとした。然うして疑を解かねばならぬと思詰めた。だが、東吾様に疑はれるのが何故それ程に悲しいのだらう?
 その時の話で勘定すれば、東吾様は最う房州へ行って居るだらう…、私が斯うして引越を決行したのも、たゞ彼の人の疑を晴さう許りだのに、肝心の彼の人は、此様な事とは知らずに居るのだ!
 だが、此れを知らしたとて、東吾様の方で何う為る事も無からう!私だツて、別に斯うして下さいと願ふ事も無いのだ!疑を解いて貰ふまでの事だ!只夫限の事だ!と思ふと、初野の頬には涙が流れかゝツた。新に悲い事の殖えたのでも無いが、沁々(しみじみ)と悲しくなツた。最う何を片付けるのも厭になツた。
 「私はまア、何うなるんだらう!」と覚えず口に出した。
 急(にはか)に我が身の末が案じられて来たのである。ところへ、遥か母屋の方から、此家(こゝ)の婆さんの声がして、誰やらお客でも先導(さきだち)して来る様子である。学校への転居届の事で、楠田先生の印(みとめ)を借りる約束だから、必然(きツと)楠田先生が訪ねて来たのだらう、その他には知った人が無いから、誰も来よう筈がない、と思って、初野は其邊(そこら)を片付けて、さて入口に出迎へた。
 両側を植木鉢に挟められた庭の間を、雪かと疑ふ白足袋に、萌葱鼻緒の雪駄がちゃらちゃらと、服装(なり)は目の覚めるやうな矢羽小紋の風通の袷、黒緞子の美人傘を指輪の輝る華奢な手に把玩(ひねく)りながら、初野の姿を見ると懐かし相に駈寄った芳江は、
 「まア、姉様!」



 「あら、芳江様、何うして此処を…?」
 「今ね、島井に行きましたらね、此処を教へて呉れましたの…、」と凝然(ぢツ)と初野を見上げた眼は忽ち潤んで、「痩せたわねえ!」
 二人は、彼の衝突後、即ち初野が子爵夫人に罵られた後初めて顔を合はしたのである。その衝突も、間に立つ友人の尽力(ちから)で悉皆(すツかり)解けて居る筈だが、さて顔を見ると、何と無しに気が更まツて、舊(もと)のやうな親しい言葉の出ないのが此る場合の例(つね)であるのを、芳江のみは、その言にも挙動(そぶり)にも、些(すこし)も其様な影が見えない…。影が見えぬのみか、舊より反って親く、反って隔(へだて)がなくなツて居る。その上、初野をも自分と同じ意(こゝろ)と信じ切って居るらしく、兎もすれば更まりかゝる初野の言をすら、怪みも疑ひもせぬのである。
 「神様のやうな心とは、本当に芳江様の如(やう)な人を云ふんだらう!」と初野は沁々感じて、今迄の我が所為(しうち)を心から悔ゆるのであツた。
 室に上ると、芳江は四邊を見廻して、
 「大変だわねえ!私は、此様な事(こツ)た思はなかツたのよ…、堪忍して頂戴な、皆な私が悪いんですから、ね。」
 「其様な事が有るもんですか、悪いのは私よ…。三浦様から熟く聴いて下すツたでせう…。」
 「え。だけれど、其の事は最う云ひツこなしよ…。その約束だツたぢゃありませんか…。」
 と芳江は眼を拭って、「それよりか、何うして此様な処へお引越(ひツこし)して?」
 「矢張し、種々と都合が何だもんですから…。」と曖昧に云ふ。
 「都合て、マネーの事?」
 「え、それも然うだけれど…。」
 「マネーの事でせう?姉様、其様なに秘(かく)しちゃ可厭(いや)よ。」
 「秘しはしないけれど…。」
 「然うでせう、マネーの事でせう?ぢゃアね、再(また)下宿して下さいな、お願ひだから!」
 「また下宿…?」
 「え。可いでせう、お願ひだから…。だツて、姉様が此様な処に居ては、私は最う、気に掛って家に落着いて居られないわ。ね、何卒(どう)か然うして頂戴な、ね。」
 「ですけれど、彼の家は実に不都合な事が有りますから…。」
 「島井が可けなきゃ、ぢゃ他の家…。未だ、幾らも良い下宿(うち)があるぢゃありませんか。ね、何卒か然うして頂戴よ、此様な淋しい処、速く越して頂戴よ…。マネーなんぞ、最う、姉様に心配を掛けるこた無いわ、私一人で出来なきゃ、また兄様に帰って貰って、必然(きツと)何うにか為るわ。」
 「もう、阿兄様は房州へ行らツして?」
 「え、過日(こなひだ)の話だと、一昨日(をととひ)の晩か、昨日の朝出立(たつ)やうな話だツたから。だけれど、また来て貰ふ事造作ないわ。」
 一昨日の晩と云へば、自分の訪ねた其の夜である。さては、芳江は未だ彼の夜の事を何も知らぬと見える!

  三

 初野は東吾を訪ねた先夜の事を秘さうと云ふ気は無かツた、否(いや)、芳江に会ったなら、先づ第一に此事を話さなければなるまい、とまで思うて居た…何も秘す事も無ければ、また、自分が秘した処で、東吾の方で芳江に黙って居る筈も無い。先方から云はれぬ前に、此方から云って了ふに越した事が無いのだ。
 けれども、今はそれを言出す機会(をり)を失って、何だか言出し難くなツた、秘しては済まぬと思ふが、然う思へば思ふ程変に気が更まツて、口が重くなツて、益々云へなくなる。芳江の方では、其様な屈託の有らうとは知らぬので、
 「ね、越して下さるでせう、私の願だツて、叶へて下すツても可いでせう。」
 「その同情の深い、優しい言を聞く程、恐しい罪でも犯してる様で、心苦しくなる許りである。
 実は先夜東吾さんの宿へ行って…、とつい軽く云って了へば済むものを、何うしても咽に支へたやうでそれが云へないのである。況て、東吾の疑を解き度い計りに引越をして居ながら、その許嫁の芳江から黙って金の助力(たすけ)を受けると云ふやうな其様な罪に罪を重ぬる大胆な事が出来るものでない…。
 「何を其様なに考へていらツしゃるの、何も考へる事は無いぢゃありませんか。それで可いでせう、ねえ、もう決めましたよ。」
 「貴女の厚意は、もう十分に感謝しますけれど…。」
 「…けれど?けれど可けないの?叶へちゃ下さらないの…?姉様、それぢゃ余りだわ…。」と口が利けなくなる。
 「いゝえ、然う、貴女を悲ませる様な事情(わけ)ぢゃ無いの…。」
 「矢張し、私なんか頼(たのみ)にしちゃ下さらないのねえ!」
 「然う云はれると、私ばかり困っ了ふけれど…。」
 「最う可いのよ、姉様が何う云っても關やしないのよ、私は…私の思ふ通り遣るわ…。」
 芳江は頭を掉(ふツ)たが、「そして、姉様の病気は、此の頃は何様なゝの…、脚気ですツて?」
 「え、極く軽症なのよ。」
 「だツて、顔色も悪いし…、蔭で案じた程ぢゃ無いけれど、余程痩せたわ。お医師は何と云ふの?」
 「此の頃は行かないでゐるけれど、最う逐次(おひおひ)快いでせう…。」
 「あら、お医師に掛って無いの?」と吃驚する。
 「もう、病気も分ってるから、薬だけ製(こし)らへて貰ってね…。」
 「まア!それも、矢張り御都合が悪いからでせう…、其様なに困って居ながら、姉様は…、それでも私のお願は聴いて下さら無いなんて…、余りだわ、本当に余りだわ、私は…、私はね、お互の間はね、私ア然うしたものぢゃ無いと思ふわ。」
 初野も、最う口も利き得なかツた。暫くして芳江は顔を上げ、
 「それから、お波ちゃんは何うして、御一緒ぢゃ無くツて?」
 「波ですか…、波も居ますよ、」と云って、鼻声で、「波ちゃんや。」
 すると、台所の方から、小さく返答(へんじ)が聞える。
 「あら、何処に在らツしゃるの?」と芳江はむツくり起つ。
 「可けません、其方は穢いから…、衣服(きもの)が汚れるから。」と初野は止める。



 薄暗い台所に、鼻の下を黒くして雑巾を持って居たお波は、芳江を見ると紅くなツて、慌てゝ其の紀州ネルの腰巻を隠すと、
 「まア、お波ちゃん!」と叫ぶや否や、行きなり其の頭を抱き締めて、「貴女まで此様な事を為さるの!」
 芳江は、最う此処に住まぬ事に相談を決めたから、掃除など為ることが無い、とお波に雑巾を捨てさせ、その襷まで脱(はづ)させて、汚れた顔や手足やを洗ひに井戸端に出して遣ったが、偶(ふ)と、其の間初野の声もせぬに気が付いて、障子の中を覗き込んで、
 「あら、何うなすツて?」と駈寄った。
 初野は其処に打伏して居るのである。
 「姉様、気分でもお不快(わる)いの?」と芳江は顔を附けて、「え?」
 「いゝえ…。」と許り初野は、袖で押へたまゝ顔を上げる。
 「まア!」
 と芳江は眼を円くしたが、それも無理のない事で、初野の顔を上げた畳の趾が、涙でびツしょり濡れて居る。
 「何うなすツたの?」
 初野は辛(やツ)と袖を離したが、又も手巾(ハンカチ)に目を押へて、
 「芳江様、貴女それ程まで私を親く思って下さるんですか…?」と声は涙に震へて居る。
 「だツて…、然うぢゃありませんか…。」と芳江も目を瞬(しばた)たいて居る。
 「私はね…、私はね、貴女の高潔なお心に対して、実に面目が無いの、実に愧入ったの…!」
 「何故、何故其様な事を仰有るの?」
 「私はね、これで、実に穢い心の人間(もの)なんですの…、貴女のやうに清い、神様のやうな方にでも遇はなかツたら、私は最う、何様なに堕落したんだか…!芳江様、貴女は私の恩人よ。」
 「姉様、其様な事止して頂戴よ、私は、何処までも姉様の妹ですから…。」
 「ですけれどね、私はね、貴女に謝罪(あやま)らなきゃならない事が有るんですから。」と云ひ出さうとすれば、
 「其様なこたありませんよ、最う其様な事は止して下さいよ…、過日(こなひだ)の事なら、原(もと)は母から起ったことですもの、何も、姉様が謝罪るなんて…。」
 「いゝえ、私ね、先夜(こなひだ)東吾様に…阿兄様にお目に掛ったんですよ。」
 「然う、何時?一昨日の晩?」
 「えゝ、一昨日の晩ですよ。」
 「然(さう)?夫は好かツたこと。兄様、何様なにか難かしい事云ひましたらう…。」
 「然うでも有りませんが…、種々と。」
 「でも好かツたわねえ、私もね、夫が気に成(なっ)てね、何卒か兄様の誤解を解いて上げ度いと思ってね、随分種々云ったのよ。」
 「私も三浦様から聴いて、其様なに御深切にして下すツたのに、黙ってちゃ済まないと思ってね、それで謝罪りに行きましたの!」
 「兄様も了解(わか)ったでせう?好かツたわねえ、それぢゃ、今回の事だツて、然う云って遣れば直ぐ帰って来るわ。」
 と悦ぶ顔を、初野は凝然(ぢツ)と眺めて、
 「芳江様、貴女、それ程私を信用して下さるの…?」と芳江の手を握って、「死んでも忘れませんよ、私一生、一生貴女には背きませんのよ。」
 初野は東吾の事に関しては、其の疑を晴さう許りに此処に引越したとは流石に口に出しかねたが、心中(こゝろ)では最う東吾の事などは決して思はぬ、今日の今から、我が胸の中から東吾と云ふ名詞を綺麗に拭除(ふきと)って了はう、と屹度心に誓を立てた。
 で、卒業までの学資を得る事も、自分から更(あらた)めて願ふのであった。
 「貴女だツて、其様な、お金の事なぞ随意になる方ぢゃ無いけれど、其点(そこ)は、私も十分承知してますけれど、もう、貴方に補助(たす)けて戴かなきゃ、此のまゝ斃れる他は無いんですもの…。」
 「可いわ、其様なに仰有らないだツて…、斯うなれば、私だツて一生懸命よ。」
 「ですけれど、余り無理な事をして…、それが為にまた、貴女が叱られでもするやうでも困るから…。」
 「いゝえ、大丈夫よ。姉様に心配掛けるやうな事は為ない心算(つもり)よ…。」と芳江は、自ら頼む所あるものゝ如く、「可いから、私に任して置いて下さいよ。」
 「有難う、ぢゃ何卒助(す)けて下さいよ、真(ほん)のもう、家賃とか、月謝、それから、」と云ひ澱んで紅くなり、「米代だけでも有れば、余(あと)は私何うにか間に合はせますから…。」
 「あら、下宿する心算ぢゃ無くツて?」
 「いゝえ、何うせ引越したんだから、矢張し此処に居ようと思って。」
 「何故?此様な淋しい処に…、」と云って、此処へ来たお波に、「ねえお波ちゃん、厭ですわねえ、此様な陰気臭い処なんか…。」
 「え、私は、何だか怖くツて…。」とお波は、姉を見ながら云ふ。
 「何ですよ波ちゃん、其様な頑是無い事を。」
 「叱る事は無いわ、お姉様の方が無理なんだわ、ねえお波ちゃん、」と芳江はお波を我が傍に引寄せて、「姉様が何と仰有っても、貴女と二人でね、良い下宿を探してね、無理にも、其処へ姉様を曳張って行きませう、ね。」
 「いゝえ、芳江様さうぢゃありません…、」と初野は此処に居る事の利益である箇條(かど)を話出した。
 先づ第一は、閑静で勉強が出来る、病気(やまひ)ある身(からだ)の保養にも成る、費用(かゝり)も二人で下宿するその半額で済まさるゝ。学校の届は、教師の楠田に頼んであるが、再(ま)た下宿すると云はゞ、彼(あ)の着難し家(や)の、今度は頼を肯いて呉れぬかも知れない。
 「孰(ど)うせ此処と決めたんだから…貴女のアドバイスを斥ける様で済ま無いけれど、まア、此処に置いて下さいよ。」
 「然う…?」と芳江は暫く考へたが、思出した様に家の中を眺め渡して、「だツて、最う少し良い家が有るでせう…?」
 「假(よ)し在っても、私は最う動き度か無いから…。試験を眼の前に控へて、其様な事で、大切の時間を潰すのは惜しいんですもの。まア、二タ月の事ですから、斯うして置いて下さいよ。」と優しく宥めて、此度は妹に、「波ちゃん、貴方も、其様な頑是(わから)無い事云はないで、辛抱しなきゃ可けませんよ。」
 「え、私なら何うでも…。」と渋々ながらも承知する。
 芳江も、今は初野の言に同意した。それから、先づ差当たって懐中(ふところ)に在るだけの小遣を無理に取らせ、種々と今後(のち)の事を預議(うちあは)せなどして、遅くなツては家に都合が悪いから、と暇を告げた。都合の悪い処か、母の前を他の用に言作(いひこし)らへて、竊に我が懐かしい義姉に会ひに来たので、遅れた時間を訪問の結果は、何様なに叱らるゝか知(しれ)ぬのである。
 「其処まで送りませう…。」
 「可いのよ。お波ちゃんが淋しいわ。」
 それでも二人は、睦しく方を列べて植木屋の門を出た。其処には芳江の綺麗な俥が待って居るが、車夫の影も見えぬ。
 「何処へ行ってるだらうねえ?」と芳江は顔を顰めたが、遠慮も無く声を揚げて、「松や、松…。ちょッ、一人で帰って遣らうか?」
 「あれ、家の中で返辞しますよ…。其邊(そこいら)まで送りませう、」と垣根に添うて廻った。
 「だけど、眺望(ながめ)は佳いわねえ…、」と彼方へ目を放ったが、「おや、兄様のやうだわ。」
 「似てますわねえ…背姿(うしろつき)が。」
 遥に見渡す野菜畑を、此方には背後を向けて、急歩(いそぎあし)に木立に消えたのは、確に制服を着けた東吾のやうであった。



 義理

 日暮れには未だ間がある筈を、木立の深い故(せゐ)か、室の隅々は最う薄暗くなツて来た。掃除は粗方(あらかた)済んで、買物に出たお波の帰り次第、愈よ今夜から初めての自炊の膳に対ふ心算で、初野は台所で其の支度をして居ると、思掛けずも、其処に東吾が訪ねて来た。
 先刻、芳江の帰りを送って出た時、離れては居たが目に留った後姿、何うやら東吾のやうである、房州へ行くと聞いたが、それでは未だ立たずに居たのか、此様な所へ何の用で尋ねて来たのであらう、散歩の便次(ついで)か、それとも態々私の引越先を訪ねて来たのであらうか…、入口に見覚(みおぼえ)の俥の在るのを見て、芳江の居ることを覚って、彼様な方角に避けたのではあるまいか…?して見れば、何か私に秘密の用事が無ければならぬ…!併し、考へる迄も無く其様な用事の有らう筈は無い、許嫁(いひなづけ)の芳江の目を忍んで、私に会ふ用事の有らう筈が無い、断じて無い、彼方にも無い、此方にも無い、無い!無い!無い!
 此様なに思った処へ、訪ねて来た東吾を見ると、先刻見掛けた後姿其の儘の制服を着けて居るので、初野ははツと胸を轟かした。だが、「先刻の後姿は貴方でしたか?」とは流石に聞けなかツた。東吾も、その事は何とも云はなかツた。
 「最う、房州(あちら)へお立ちなすツた事と存じてましたが…?」と云ふと、「少し用事(よう)が出来たもんだからね。」と東吾は平生(つね)よりも一倍平気で答へる。
 「もう少し先刻、芳江様が来て下さいまして…。」
 「然うですか。」と許り。
 「まだ、御通知もしませんでしたが、能く此処がお解りでした?」
 「いや…、」と言を濁らして、「閑寂(しづか)で良い処だが、併し、湿(しけ)やしませんか?」
 「何うでせう?其様な事は無いと思ひますが…。」と答へた初野は、さツと顔を赤くした。湿る所では病気に悪い、と云ふので、それを心配して下すツて、此様な事を注意するのぢゃあるまいかと思うたので。
 「飯は何うするのです、自炊ですか?余り働いて、身体に障りませんか?」
 「いゝえ、働くと申して、二人限りの事ですから。それに、あの、御飯だけは前の家から炊いて貰ひますから。」
 「然うですか、それは好都合だ、ぢゃ、拵へると云っても、格別手数ぢゃ有りませんね…。」
 と云ふ時、初野が茶を煎れようとするので、「其様な事はお止しなさい、僕は直ぐ帰るから。」
 「はア。」と初野は、云はるゝ通り茶盆を其処に置いた。何うしたのか息が喘(はず)んで、膝に置いた手も顫へて来る。
 「嘸ぞ不自由でせうが、卒業も近い事(こツ)たから、暫く、此処で辛抱なすツた方も宜いでせう。」
 「えゝ、何うか然う致し度いと存じまして…。」と初野は思はずも涙を零した。東吾の口から、此様な有情(やさし)いことを聞くのは今日が初めてゞある。
 「失礼だが、これは、貴女が苦学に同情する僕の…、僕の寸志ですよ。」と云ひながら、東吾は一束の紙幣(さつ)を初野の前に置いた。
 その紙幣(さつ)を一目見ると、初野は嬉しさに目も眩むかと思った。
 「お困りの際は、又お手伝いを為(し)ませう、何卒、遠慮なく然う云って下さい。」と東吾は相変わらず冷淡な語調(てうし)で云ひ加(た)した。
 その声を聞いて、是までの自分に対する所為(しうち)に較れば、今迄の東吾は、別の人に変ったかと怪まるゝ程である。此様な有情い人であツたのか、此様なに私の事を懐(おも)って居て下すったのか?
 「其様な、大事に考へることも無いぢゃありませんか、まあ取って下さい。」
 「は…。御厚意の程は、言葉にも尽くせませんけれど…。」
 「何うしたんです?」東吾は驚いた。單(た)だ体裁(きまり)悪さに躊躇するのみと思うたものが、何を感じてか、初野は声さへ震へて、涙は雨と落ちるのである。
 「失礼ですけれど、此金(これ)は何卒、其方へお納めなすツて下さいまし…。」
 「何故です…?其様な事は無いぢゃありませんか…、何か、僕の言に…、何か失礼な事がありましたか?」
 「いゝえ、其様な貴方…。其様なにお解(と)り下すツては、私は最う何も申上げる事は出来ません…。」
 「では、何故取って下さらんです?」
 「実は、これを戴いては…。」初野は云ひ澱んだ。此を戴いては芳江様に済まぬと云ふのであるが、何故芳江に済まないのか金を貰ふのが情を通ずるのでは無い、許嫁間の情愛を破るのでも、邪魔をするのでも無い、全く別の事であるのだ、それを、然う白地(あからさま)に云ったならば、反って我が意(こゝろ)の恥しい処を見られて、東吾に驚かれるか知れぬ、蔑視(さげす)まれるか知れぬ。と云って、今此金(このかね)を受けては、此の将来(すゑ)私は、ますます親くならう、ますます意を牽かれるやうに成らう、それでは彼(あ)の清い芳江に済まない、自ら誓った我が心にも背く…。で、「何卒かお了ひなすツて!」と許り、最う此の外は云ふまいと決めたのである。
 「然うですか…。」東吾の声は変った。
 「悪くお解り下すツては、私は最う…進退に窮して了ひますけれど。」
 「然うですか。」と今回(こんど)は笑ったが、頬から目の端(はた)は紅くなツた。
 「何卒ぞ、本当に悪(あし)からず!」
 「厭と云ふ物を、無理に上げるのぢゃありませんがね、併し…、」と云って、東吾は凝然(ぢツ)と考へたが、また語調を更へて、「初野様、御承知の通り僕は書生の境遇です、それも、財産家に生れて、父兄から学資を貰って居る者とは違ひます…、自分の親愛して…敬愛して居る…兎に角貴女の境遇に同情して居なければ、此様な馬鹿な事は為ませんです…。」
 「それは最う、私だツて十分に承知して居ますけれど。」
 「此様な馬鹿な事は為ません…。実に馬鹿らしい話さ。けれども僕は、貴女は取って下さるだらうと思って居た、全く信じて居たんだ、己惚(うぬぼ)れと笑はれようが、然う信じて居たんです。夫ばかりぢゃ無い、此処へ引越したのも、半ば僕の云った言葉が原因してるやうに誤解して居たんです。」
 「東吾様。何卒ぞ堪忍なすツて下さい…。」
 「いや、堪忍も何も無い…、其様な事はありません。それは、僕は非常に不快です、けれども…。」と云って戦く唇を噛んだ。
 唇を噛んだかと思ったら、手早く紙幣を蔵って、其の儘座を起った。
 「失礼しました。」とたゞ一言、足音も確に門を出て行く。
 初野は続いて其趾を追蒐(おツかけ)ようとしたが、忽ち思翻(おもひかへ)した。そして、麻痺(しびれ)る脚を擦って、独りで其処に泣いて居た。 





  指輪

 「まあ、然うかい。では、未だ金を渡して呉れたんぢゃ無いね?」
 「へい、他のお品と違ひまして、一通りその、奥様に伺った上と存じまして…、へい。」
 「然うかい、それは御深切に有難うよ、好く知らしてお呉れだツたこと。」
 「何う仕りまして…。では、矢張り、お払い遊ばすんぢゃございませんので…?」
 「つい、此の間購(と)った許しだもの、何だツてお前、其様な馬鹿な事が有るもんかね。」
 「へ、御意でございます。」
 「だが、其者(それ)は、確かに邸(うち)の婢(もん)だらうね?」
 「へ、此の間、奥様のお供で来(いら)ツしゃいました、彼のお女中さんで、へい。」
 「ぢゃ、矢張り政だよ…、午後(ひる)から暇を貰って出てツたんだもの…政に違ひ無いよ。そして、まだ店に待ってるのかい?」
 「へ、生憎と店主(あるじ)が一寸出まして、店主が戻らなければ、確とした事は申上げられませんので、其点を申上げますと、では、また後刻(のち)ほど来るからと仰(有)いまして…。」
 「そして、此品(これ)を預けて去(い)ったの?まア、実に呆れるぢゃ無いかね。」
 「では、如何致しませう、其品(それ)は、奥様に差上げて参りませうか、それとも、拙者(てまへ)がまた頂戴して…。」
 「置いてツてお呉れな。」
 「へ。」
 「可いだらう。」
 「へい、夫はもう。」
 「ぢゃ置いてツてお呉れ。再(また)政が行ったらね、何んとでも、其点(そこ)は好いやうに云っと置いてお呉れな。」
 「へ、畏りました、ぢゃ帰って然う申します…。」
 「何うも、態々御苦労だツたねえ。旦那に然う云ってお呉れよ、御深切に有難うてね…、此のお礼は、孰れまた、近い中に埋合せをするからツて…。」
 幾度か敷居に頭を着けて、商家の手代と見える若い男は、縁側を表の方へと廻って行く。子爵夫人は、其の趾を見送るよりも、傍に置いた黒革の小筥を開けて、ダイヤモンドか何か知れず、賽玉の光の燦爛たる黄金(きん)の指輪を取出し、皺は寄っても華奢な我が掌(て)に、眤(ぢツ)と眺入(みい)るのであツた。
 此の指輪こそは、娘が結婚の盛式(しき)に、来賓の目を驚かさんものと、良人の子爵の不承知なのも關はず、少なからぬ金を投じて、銀座なる美術商から求めた品である。何を興へても母の思ふ程悦ばぬ芳江も、此の指輪のみは流石に気に適(い)ったと見え、暇さえ有れば取出して眺むる程であツたが、今の手代の注進(しらせ)に聞けば、大胆にも親に秘して、此れを金に換へんとしたのだと云ふ。



 「それとも、若しや政が…?」と考へて居た夫人は独語した。芳江の知らぬ事で、仲働女の企圖(たく)んだ悪事(こと)かとも疑って見た。けれども、幾ら疑っても、長い間使役(つか)って、随分気心も知って居る彼の婢に、何(どう)も其様な事の有らうとは思へぬ。
 「何様な事を云ふか、ま、兎も角一つ尋ねて遣らう!」頭を捻って居たが、また独語した。
 夫人は訊問の順序などを考へながら、芳江の居間なる二階に登って行ったが、行くと、其の室には芳江は見えなかツた。
 二階は三室(みま)に仕切られ、孰も念を凝らした普請であるが、中にも一人娘の芳江が居間だけあツて、此の六畳の装飾(かざり)、床の掛軸から古銅の置物、違棚の金蒔絵の文庫、それから羽織の掛ってる衣桁、六歌仙の金屏風、何うやら々家から出た払物らしき品々。東の壁際には桐の書箱(ほんばこ)、不釣合ながら硝子戸の洋本架(ほんだな)、窓の下には汚点(しみ)だらけの机掛を被(か)けた唐机…。
 「何処へ行ったらう?」と子爵夫人は独語しながら、其処の窓を開けた。
 此処からは、目の下なる市ヶ谷の濠を隔てゝ、牛込から青山へかけて、美しい新緑に包まれた山の手の町々が一目に眺めらるゝが、夫人はそれに気を転(うつ)すのでは無かツた。
 「本当に何処へ行ってるだらう?」と見るとも無しにまた室の中を見廻した。何だか静過ぎると思ったが、成程棚の上なる置時計が停って居る。
 「時計を巻忘れるやうな娘(こ)ぢゃ無いが…。」と夫人は考への目を据ゑて、「矢張り、屈託が有るからなんだよ。」
 斯う気が付くと、幾分(いくら)か怒気(いかり)も鎮って、余り叱り付けて、病気にでも成られては困るけれど…、無論此の儘ぢゃ済まされないが…、何う云ふ所存で此様な大胆な事を為たか、彼の娘だツて馬鹿ぢゃ無いもの、何か思慮(おもはく)があるに違ひ無い、篤(とツ)くりと其点(そこ)を聴いた上で、叱るものなら叱って遣らなきゃなるまいし、懲すものなら懲しても遣らなきゃなるまい、だツて、此様な事を黙ってちゃ、彼の娘の盆(ため)に成らないもの…、と斯う思定めた。
 けれども、時計を巻忘れた位で斯う気が弱くなる夫人に、芳江が机の上を仔細に視たならば、蓋(おそら)く指輪の一件などは、叱言一つ云はずに恕(ゆる)して遣ったかもしれぬ。芳江の机には、二三年前に、同級生間に流行に誘はれて購(か)った限り、其の後は余り手に触れる事も無かツた、一冊の新約全書がある、そして、その読みかけてある前の頁には、涙の痕さへ濡れて居る。それから、近頃出た婦人雑誌、其の表紙には、心の影を、書くとも無しに鉛筆を走らしたらしいSacrificeと云ふ字が、幾つも幾つも写されてあるのだ。
 だが、子爵夫人は、出が出だけ、などゝ人に笑はれぬ程の読書(よみかき)は出来るが、机の上の事には余り興味を有って居らぬ、従って、娘が何を読んで居たか、其処迄は気を留めなかツた、況(ま)して此の英語の犠牲と云ふ語(ことば)の読めもしなければ、其中に含まれた恐しい意味を疑ふ余裕も無いのだツた。
 さて、其処に意を留めなかツた夫人は、今度は縁側に出て、欄干(てすり)から庭を見下したが、其処の築山の蔭を、ちらちら往来して居る芳江の姿が目に入った。
 「まア、彼処に居るんだよ。」声を掛けようとしたが思返して、其の為す態を凝(ぢツ)と眺めた。
 何うも其の態を見ると、常の芳江の様ではない。細い頸(うなじ)を俯向きになツて、同じ所を幾回(いくたび)も往きつ戻りつして居るが、偶(ふ)と立止ったり、首を捻ったり、どうやら溜息を吐いたりなどするやうである。夫人は、それ程心配の事があらば、何故此の母に打明けて相談を為ぬのか、と悲い様な、また嫉ましい様な気にもなるのであツた。
 暫くすると、芳江は何を考へ付いたか、急(にはか)に面を上げて、庭を隔てた彼方の室を眺めたが、頓てつかつかと歩を移して、折しも其処の縁側を通る女中に、
 「母様は何処に在らツしゃるの?」と尋ねる声が聞えた。
 夫人は素知らぬ顔をして二階を降りたが、丁度我が室の前で芳江に出逢った。
 「あら、母様…。」その声は、知らぬ他国でゝも逢ったやうな語調である。
 「何うしたの、其様な顔色(かほ)をしてさ?」
 余り娘の血色が悪いので、夫人は思はずも斯う云った。娘は夢から覚めたやうに目を瞬(しばた)たいて、
 「私、今母様を探してゝよ。」 
 「然う?ま此方へお入りなさいな。」と我が室に導いて、鬱陶し相に其邊(そこ)の障子を開け放したが、更めて芳江に向き直って、「何うしたの…?」と厳然(きツ)とした顔を見せる。
 「母様、あの…、」と口籠ったが、また、「あの何様な善い事でも、親達に隠して為(し)ては悪いでせうか?」
 意外な問である。母には略(ほゞ)その意が解って居るけれど、一寸答辞(こたへ)に窮して、
 「然う決ツた事も無いけれど、お前だけは、何様な事でも母様に隠して為(す)る事はなりません。」
 「だツて…。」と考へて居る。
 「何か、母様に隠して為た事が有るでせう?」
 「然(え)。」と芳江は意外にも点頭(うなづ)いた。
 母は其の無邪気なる返辞に呆れたが、
 「母様は皆な知ってますよ。」
 芳江はその涼しい眼を瞠って、訝し気に母を視詰めた。
 「これ、此品(これ)の事でせう。」と母は、指輪の小筥を前に出した。
 「あら、何うして?」
 「何うしてぢゃありません、」母は急に難しい顔をして、「芳江様、お前まア、斯う云ふ事をして済むと思ふんですか?お前の購(か)って貰った物だから、払はうと捨てようと、お前の自由と思ってますか…?然うは行きませんよ。」
 「私だツて、然うは思は無いけれど…。」
 「ぢゃ、何だツて此様な大胆(だいそれ)た事を為るの?ま、その理由を仰有い。」
 芳江は流石に小さくなり、
 「母様に黙って為たのは、悪うございました、何卒、堪忍なすツて下さいまし。」
 と潛然(なみだぐ)んだ。
 「では、真実(ほんとに)、悪い事をしたとお思ひですね?」
 「え、何卒堪忍なすツて。」
 「然う云ふ事なら、今回(こんど)だけは堪忍して上げませう。だが、再(また)と斯う云ふ事が有ったら、宥したくも宥せませんよ、可いんですか。」
 「え。」と眼を拭って居る。
 母は暫く黙って居たが、
 「ぢゃ、解ったら夫で可いから、涙を拭いて彼方へお出でなさい…。政が帰ったら、母様が孰く諭すから、お前は何にも云ふ事はなりませんよ。」
 「え。」と俯向いて居る。
 「ぢゃ、まア彼方へお出でなさい…。些(ち)と、お琴でも演習(さら)ったら何う?」
 「え。」
 「何うしたの、何を考へてるの?堪忍して上げると云ったら、それで可いぢゃ無いかね?」
 「母様、私、母様にお願が有るんですの…。」
 「お願?何のお願…、また、彼の萩原の事ですね?」辛(やツ)と機嫌の直った母の顔は、また難かしい色に変った。
 「母様、私、房州に行って来たいから、遣って下さい!」
 母の目からは、体格(なり)は大きくとも未だ頑是無き少女(こども)が、突然(いきなり)房州に行き度いと云ひ出したので、
 「何ですツて、房州へ…?」
 芳江は落着き切って、
 「え。私ね、兄様に相談(はなし)したいことが有るんですの。」
 「それで、房州に行き度い?房州は東京の内ぢゃありませんよ、船で行く処ですよ…。」
 「え、霊岸島から…。」
 「まア。ぢゃ、行けと云へば本当に行く気なの?半日余も費(かゝ)ると云ふが、お前、其様な長い間船に乗れるの?」
 「乗って乗れない事はないわ。」
 「お転婆だよ此人は。」と夫人は笑ったが、「何様な大事件か知らないけれど、間合はす事が有るなら、郵便で間合はしたら可いでせう…、馬鹿々々敷い、房州まで行くなんて。」
 「だツて、手紙も遣ったけれど、何うしたんですか、兄様から返事が無いんですもの。」
 「それで、態々会ひに行くの?」と夫人はまた笑って、「何様な事か知らないけれど、将(いま)に婚礼を為ようと云ふ人が、遥々、房州まで男を訪ねて行くなんて、何だか外聞(ひとぎき)が悪いぢゃ無いかね。」
 すると芳江は、火の様に紅くなって、
 「だって、兄様の相談でも借りなきゃ、私、何うすれば可いんだか…?」
 「何様な事が有るの!其様なにお困りなら、母様に云ふが可いぢゃないかね。」
 「だツて。」
 「兄様の他には、誰にも云へ無いことですか?」
 「然うぢゃ無いけれど。」とまた紅くなツたが、「母様は許して下さらないに決ってますもの。」
 すると、夫人ははツと驚いた顔で、
 「芳江様、ぢゃ、其の相談と云ふのは矢張し萩原の事ですね?」
 「その通り、萩原様の事と云ふと、最う直ぐ怒って了ふんですもの…。」
 「萩原の事でせう?まア、怒る怒らないも無いから、然うなら然うと仰有い。萩原の事でせう?」と急込(せきこ)んで行った。
 「彼様なに、母様にも叱られたけれど、何うしても私は、萩原様を救はなきゃ済まないんですもの…。」
 「では、東吾に何か…、兄様に然う云はれたね、萩原を助けて遣らなきゃ、友達の義務に背くとかなんとか?然うだらう?」
 「いゝえ。」
 「だツて、然うでもなければ、房州まで相談に行くなんて…。必然(きツ)とそれに違ひ無い、兄様に云はれたんで、指輪を売っても萩原を助けようとまでしたんだ、然うだらう、何も秘す事はありません、然うなら然うとお云ひなさい、然うでせう?」
 「其様な事は無いわ、兄様の関係した事ぢゃ無いわ。」
 夫人は斯う云ふ芳江を凝然(ぢツ)と視詰めて居たが、
 「でも、判然(はツきり)萩原を助けて遣れと云はない迄も、何か遠廻しに、その…、友達の情愛とか…、友誼とか…、孰れ其様な理窟を説いて聴かしたんだらう?」
 「いゝえ。」と芳江の方が解せぬ顔をした。
 「芳江様、秘しちゃ為にならないよ。他の事た違ひますよ。」
 「何も秘しはしませんよ。」
 「全くだね?ぢゃ、此の指輪を払はうとしたのも、芳江様一人の所存から出た事ですね?」
 「え。」点頭いて、「だツて、此の間彼様なに願っても、母様は承知して下さらないんだもの、私、何うしたら宜(よか)らうと思って、悪い事たア思ったけれど…。」
 「思ったけれど、指輪を遣ったの…?」と夫人は、まだ何処かに、疑の凝固(かたまり)でも引掛って居るやうな顔色(かほ)で娘を眺めて居る。


 疑念

 指輪一件の有った日の夕方、東吾が下宿の倉岡の細君は迎俥を受けたので、身支度も卒(そこそこ)に子爵家に駈付けたのである。
 先刻から待って居たと云ふ様子で、行くと直ぐ夫人の室に案内された。「お忙しい処をお呼立申して済みませんでした、まア何卒此方へ、さアお敷きなすツて。」と此方に口も聞かせぬ接待方(あしらひかた)。子爵夫人の機嫌買は元より承知の上ながら、倉岡の細君は暫く煙に巻かれて居た。
 齢(とし)は十歳(とを)も違ふが、流石に柳橋で全盛を謳はれた色香が残って、小鬢の白髪、額の皺、それは齢の故(せゐ)で詮方(しかた)ないとして、二人列んだ処は、子爵夫人の方が若い位に見える。加之(それ)に一方は目上、一方は目下、一寸と笑ふにしても前後(あとさき)を顧みて笑ふ程に慎んで居れば、子爵夫人はまた言語(ことば)も挙動(しうち)も心の儘に、宛然(さながら)春風緩く遶る花園の中を、孔雀の羽翼(はね)を拡げた如(やう)に一杯になツて居る。
 「少しね、貴女に伺ひ度い事がありましてね、」と子爵夫人は、女中(をんな)を退けるや否や低声になツて、「外の事でも無いが、東吾の事ですがね!」
 と題號を置いて、東吾が平生(ひごろ)の行為(おこなひ)、何様な友達が有るか、就中(とりわ)け女学生などゝ往来しては居無からうか、少し仔細があるから、何卒包まずに話して貰ひ度い、と云ふのである。
 倉岡の妻は、随分長い事此の子爵家に出入をし、夫人の気心も大概分って居るが、此様な不見識な内曲(うちわ)の事などは、幾ら困っても口に出すやうな女(ひと)で無いのに、何でも此れは、容易ならぬ事件(こと)が勃発(もちあが)ったに相違ない、と速くも推測したが、恩の有る子爵家の為に、何を包隠す可きでは無いが、然(さ)ればとて、自分の口の滑らしたのが原(もと)となツて、東吾の身に難儀の罹るやうでは気の毒である、と案じながら、東吾の平生の、唯もう勉強専一で有る事を首(はじ)めとし、活発で、運動好きで、朋友(ともだち)は何誰も洒然(さツぱり)した方許りで、婦人の事などは、遂ぞ話す処を聞いた事も無い、女学生などゝは無論往来して居りませぬが、
 「此の間…、つい四五日前の事でございますが、此方のお嬢様の学友の方な相でして、一人訪ねて来(い)らした方がございますがね、それが最う、後にも先にも只た一度でございます…。」
 「芳江の学友?それそれ、それですよ、萩原と云ふ女(もの)でせう?」と夫人は覚えず膝を進める。
 「はい、確か然う承はりましたやうで。」
 「色の白い、一寸と綺麗な娘で?」
 「はい。一寸(ちょい)と…。」
 「何様な様子でした、長く居りましたか?何か、二人の間に…、何か怪(をかし)な挙動(そぶり)でも有りはしませんかツたか?」
 「いゝえ、別に…。」と其の夜の事を、梯子から落ちた事なぞは抜にして、夫人に怪ませぬやうに物語り、「幾ら御発明でいらしツても、お若い方の事だからと存じまして、私も其の後気を付けて居りますが、其限り、先方でも参りませんし、此方からも行らツしゃる様子はございませんし…。」
 「おや、東吾は…、」子爵夫人は解せぬ顔色(かほ)をして、「東吾は、未だ房州に行きませんか?」
 「いゝえ、拙者許(てまへども)にお居でゝございますが…、では、お邸では、御存じありませんでしたか?」
 「いゝえ、知りませんよ。」
 子爵夫人は、何か思当たった物の有る如く、独で点頭くのであツた。




小杉天外 魔風恋風 その10

2011年07月13日 | 著作権切れ明治文学
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 世にも頼母敷き恭一が言葉を、お波は小さき胸に繰返して、大切の姉の夏迄の学資、目前に差迫ってる療治の費用も、最早今日の今夜から心配の要らぬ身に成る事と、俥を降りるや否や平常(つね)よりも元気好く家に入れば、
 「おや、お波ちゃん、阿姉様のお迎でございますね?」と顔を見るより早く主婦が云ふ。
 「え、姉様は?」
 「阿姉様はね、いらツしゃいませんよ。」
 「あら、行違になって?」と驚いて身を反(そら)らすと、
 「いゝえ、然うぢゃありませんよ。まア此方へ来(い)らツしゃい。」
 主婦の様子を見ると、何うやら今迄、姉の事に係ってお饒舌でもして居たらしいので、幼な心に何事か起ったらうと気遣はしく、招かるゝまゝ姉の室に入れば、
 「お波ちゃん、貴女の阿姉様にも困って了ひましたよ。」
 「えツ、何うして?」と眼を円くする。
 「余り、気が変り易いんですもの、何うして如彼(あゝ)なんでせうねえ、」主婦は今更の如(やう)にお波を眺めて、「同じ御姉妹でも、貴女は此様なに闊達(きびきび)していらツしゃるのにねえ。」
 「姉様は何処へ行って?」
 「阿姉様はね、質屋へ行らツしゃいましたよ…、御召物から何から、夥多(どツさり)抱へ込んで。」
 「まア!」と顔色が変った。
 「御覧なさい、此の通り、」と主婦は押入を明けて、姉の着更入(きがへいれ)なる支那鞄を見せ、「ね、何にも無いでせう?」
 「何うしたんだらう…、昨日まで彼様なに、殿井様に頼む外詮方が無いツて、彼様なに約束までして…。」
 「ですから、また気が変ったんですよ。つい先刻(さっき)まではね、殿井様に行らツしゃる心算でね、お召更までなすツて、最うお俥の来るのを待って在(い)らしたんですよ、すると、急にね…、ねえお廉、」と主婦は勝手の方に声を走らして、「お廉や、ま一寸お来(い)でな。」
 すると下女が襷のまゝで顔を出して、お波を見て一寸会釈する。主婦は、
 「ねえお廉、今の話さ、お前は見たツてぢゃないか、何だか、写真を御覧なすツてから、急に気が変ったんだツて…、ま話して御覧よ、お波ちゃんに話して御覧よ。」
 「写真の故(せゐ)ですか何ですか、其処は存じませんけれど…、」とお波の前を、幾分か憚る様に云ふ。
 「でも、お前は見たツてぢゃ無いかね。」
 「はい、それは、写真を凝(ぢツ)と視ていらツしゃる処は見ましたけれど…。」とお廉は話したが、先刻、呼びに遣った俥も来たので、其の由を初野に告げると、最う疾(とう)に準備(したく)が出来て居ながら、早速(すぐ)に出ようともしなかツた。それから、再(また)同じ事を注意すると、机に凭れて、凝然と考へに沈んで、今回は返辞一つしなかツた。お廉は変な事に思って、後で障子の穴から竊(そツ)と覗くと、初野は片手に写真を眺めて、何を思ふのか、呼吸も絶えたと見ゆる許り、瞬き一つだにしないのである。
 「その写真は、誰の写真なの?」と話の中途でお波が尋ねた。
 「確(しか)とは分りませんけれど、何うも、洋服を来た、角帽を冠った…、大学生の様でございましたよ。」とお廉は答へて、また、「夫から、暫く経つと、私をお呼びになりましたね、気の毒だかれど、一寸質屋へ使に行って呉れまいかツて、お服(めし)から何から、種々(いろん)な物をお出しなすツてるぢゃありませんか…。」
 すると、主婦は下婢の話を引取って、
 「お廉が其様な事を云って来ましたからね、私は、今日は急がしいんだから、其様なお使はお断り為ろツてね、然う云ひ付けたんですよ…。」と主婦は尚も言葉を継いだが、其の断った仔細と云ふのは、頼む儘に使に出しては、折角思立った殿井に行く事が止(や)めに成って、間(なか)に立ったお波の困るのは云ふまでもなく、是から後の初野が身は、益々困難に陥る許りであると、それを気の毒に思うての事である。
 主婦の心では、斯うして断って了へば、差迫った月末の払、賄料(まかなひ)から、俥屋の勘定、牛乳、洗濯屋の書出(かきだし)まで、何うしても爰に十七八円の金が無くては、明日の新しい月を迎へられぬ筈であるから、最う我を折って殿井に頼込むに違ひ無いと思った。ところが何う決心をしたものか、案外にも風呂敷包を提げて、殿井へ行く為に呼んだ俥を走らして、其の質屋へ自身で出掛けたのには、流石の主婦も、
 「実に、私も呆れて了ひましたよ。」
 「ぢゃ、殿井様に頼むことは止したんかねえ?」とお波も当惑した。
 「お迎に来(い)らツしゃる位ですから、殿井様では、何様なにか待っていらツしゃるでせう?」
 「えゝ、仕出屋からね、お料理を取ったり何かしてねえ…。」
 「まア、然うですか。御深切に、其様なにまでして下さるのにねえ。」
 「だけれど、是から前途(さき)何うする心算なんだらう?質を置くツて、最う何にも無いだらうし…?」
 「然うですとも、其処ですよ、」と主婦は強く点頭き、「お波ちゃんだツて、此の通り気が付いていらツしゃるのに、其点を考へないなんて、阿姉様のやうでも無いぢゃありませんかねえ。」
 「私は、其様な事で、旦那に怒られたら何う為ようと思って…。」
 「然うですともね、約束を変更されて、誰だツて好い心地の人はありませんからねえ…。これと云ふが、其の写真の故(せゐ)なんだけれど…。確に男の写真だツたらうねえお廉?」と背後を顧(み)れば、何時の間にか下婢は其処に居らぬので、「まア、何様な写真だか、其の写真を一つ捜して見ようぢゃありませんか。」
 主婦はお波を促して、机の抽匣(ひきだし)から文庫、それから書箱(ほんばこ)など掻廻したが、其写真らしい物は見当たらなかツた。勿論、絹表装の写真アルバムが一冊在るにはあるが、此れには学校の友達や、郷里の母、亡き父、お波と二人列んだのなどで、お廉の云ふ様な大学生の写真は一枚も挟まれて無いのである。
 「貴女は、其様な写真御覧なすツた事有りまして?」
 「いゝえ。」
 「ぢゃ、其様なものは何処へ蔵(しま)って置きます?」
 「何処だか…。」とお波は、掻探(さが)して居た文庫を蓋(ふた)したが、偶(ふ)と其傍の反故籠から、「おや、此処に此様な物が…。」
 「破いた写真ぢゃありませんか…。」
 二人で拾出したが、五つ六つに引裂いた写真で、之を継合はして見ると、なる程角帽に制服を着けた大学生の半身である。



 「あら、私何処(どツか)で見た人よ。」とお波が云った。
 「夏本様と云ふ方でせう?」
 「あ、然うだ、芳江様の阿兄様だ。」
 さて、主婦は解せなくなツた。殿井に行かうとして着物まで着替へた処が、此の写真を見て急に厭に成ったとすれば、それで成程理由(すぢ)も通らない事はないが、それ程深く念ふ男の写真なら、何故斯う引裂(やぶ)いてなんぞ棄てたものであらう?
 


 質屋の門

  一

 今日も日没(くれ)に近く、往来(ゆきゝ)の足の急(せは)しい横町を、人目を避(よ)くる深張りの洋傘(かさ)に顔を埋めて、行くでも無く止まるでも無く止まるでも無き優姿(やさすがた)、服装(なり)は着古した曙縞の糸織の袷、帯も性の脱けた博多とメリンスの腹合せと云ふ服装(なり)であるが、其の洋傘(かさ)を外(はづ)るゝ白き項脚(えりあし)、ちらと洩れる顔の輪郭、急ぐ者も目を瞠り、悪戯にも態々摺違って、洋傘の中を覗いて通る者もある。
 「萩原様、萩原様。」
 後から駈けて来た黒鴨仕立の車夫が、傍へ来ると小声で呼止めた。すると、同じく顔を隠しながら、
 「何うでした、彼(あれ)でも可けなくツて?」
 「へ、矢張り可けません、精々、十五円きゃ貸せない相でごぜえます。」
 「何卒か、もツと低声(しづか)に…。」車夫の声を制して、体裁(きまり)悪いのか歩(あし)を速める。
 車夫も後に従いて来たが、また、
 「彼品(あれ)を加(い)れても十五円きゃ貸せないさうで…。」と耳近く口を寄せると、
 「それは分りました、」と答へたが、思はず溜息を吐いて、「困ったわねえ…、是非とも二十円無きゃ仕様がないんだし…、ぢゃアねえ、詮方が無いから、此れを持ってツてね、最う一回(ど)頼んで見て下さいな…。」
 車夫は其の小さな風呂敷包を請取り、
 「へ、此品(これ)を加れて二十円でげすか?」
 「然うですよ、此品はね、拵へる時は、是許しでも二十円から以上(さき)出てますからね、熟(よう)く其処を然う云ってね。」
 「へ、何でげす?」
 「羽織ですよ、一楽の。まだ何とも無い物(しな)ですからね、熟(よう)く頼んで見て下さいな。」
 「へ、ぢゃア…。」
 「私は、彼方の小路の方へ行ってますから…。」
 車夫は元来た道を駈戻る。初野は、同じ処のみを歩いても居られぬので、彼方の小路へと足を向けた。
 「彼様な物一枚、決して惜むんぢゃ無いけれど…。」胸の中に繰返して、また溜息を吐いた。
 惜むのでは無けれど、寒暖定まらぬ晩春の時候、外出の際(とき)など、見悪(みにく)い此の袷の上を飾る便(たより)とも成らうのに、あゝ、彼品(あれ)を手離せば、最う余所行と云ふ物は一枚も無いのだ。勿論晩かれ早かれ、我が所持品(もちもの)総(すべて)は他の有(もの)に成るに決って居る、卒業試験の時は、肌を隠す許りの寝巻一枚を着て、衆人(おほぜい)の笑ひ声の中で卒業証を貰ふものと覚悟して居る、假ひそれが羞しくとも、若い男の助力(たすけ)を得て、何事も其の意見に従はねばならぬ身と成って、假しや心は乱さずとも、それが為に有らぬ浮名を唄はるゝに較ぶれば、何の辛い事が有らうぞ!大切(だいじ)の母と離れ、意地悪き兄の言に逆ひ、是まで辛苦を忍んで来て、如何に繊弱(かよわ)い女子(おなご)でも、夏まで辛抱為きれぬ事があらうか!病気が重くなツて、中途に倒れるならそれまでの運命!下宿から逐出され、学校から停学を命じられても、独立して、遣る処まで遣って、それで可けぬのなら快く断念(あきらめ)も付くと云ふもの、然うよ、考へれば何も惜む事はない、何も悲む事も無いのだ…。
 「あら、萩原様ぢゃ無くツて…?」
 不意に声を掛けられて、吃驚面を揚げた初野は、
 「まア、三浦様!」
 「萩原様だよ、好い処で逢ったわねえ、私、是から貴女の宿(とこ)に行く処よ。」
 「然う?」と云ふや否や、我が服装に気が付いたか、初野は忽ち赤くなツた。
 「何処へ行らしツて?今帰る処ぢゃ無くツて?」
 「え、最う帰る所ですけれど…。」
 「ぢゃ、同伴(いツしょ)に参りませう…。」と云ったが、速くも初野の進まぬ様子を見て、
 「何誰(どなた)か、お連でも?」
 「いゝえ、然うぢゃ無いけれど…。」
 「何うして、何か、此邊(こゝら)に御用が有って…?私ね、」と三浦絹子は一層近くに寄って、「貴女の事でね、大事の使命を帯びて来たのよ。」
 「大事の使命?」
 「え、夏本様から…。」
 初野は即ち芳江の事が胸に浮んだ。必然(きツ)と、絹子を間に入れて、疎く成った間を調停せしめんとするのだと。
 「大概お解りでせう?」と絹子は初野を覗く様にして、「大変よ、夏本様は…。それこそ夢中よ、私も、彼の方の熱愛には感動して了ったわ。」
 斯う云ふや否や、急に潛然(なみだぐ)んだ。何事か知らぬが、学友間(ともだちかん)に快活と稱さるゝ絹子の此の態(さま)を見ると、初野も胸を締めらるゝ心地である。今更改めて聴くまでも無い、芳江の友情、優しい気質は、数年来の交際(まじはり)で深く知り抜いて居る。芳江は自分を姉と呼ぶが、自分もまた親身の同胞(きゃうだい)の様に思うて居た。学校に出ても互に顔を合はせるのを楽みとし、帰る時も連立って同じ道を帰り、それでも飽足らず、休日(やすみ)には必ず一緒に遊び暮すのであツた。過般(このあひだ)の入院中は、殆ど毎日の如く見舞に来て呉れた、退院した時も彼様なに多額の見舞料を贈って呉れた、その他、細かな事までを挙げたならば、私は此の儘にも駈けて行って、芳江様に謝罪(あやま)らなきゃ済まない様な気がする。
 けれども私は、最う芳江様とは顔を合はせまいと決めて居る、假(よ)し合ふにしても、それは卒業の後、私も相当の地位を得て後、一年か、二年か、それとも五年十年の後かに会へば会ふ心算である。子爵に彼様な暴行に遭ひ、夫人に彼様な侮辱を受けた時は、口惜さに私は死んで了はうと迄思った。元より彼事(あれ)は芳江様の関係した事ではない、それは最う知れ切った話である、また私は、親達が憎いからと云って、其子まで怒を転(うつ)す理由(わけ)は無い、けれども、其様な理由は無いけれども、何うも舊(もと)のやうに彼の人と親しくする心は失くなツて了った。彼時限(あれき)りに会はぬので、幾回(いくたび)か手紙を寄越して、私の心を解かうとして呉れた、私は其の度に泣かされた、返事を認めようとして、筆を執った事も幾回か知れぬ。けれども私は、只の一回も手紙を遣らなかツた、済まぬと思ひながらも、一面には、情を殺して耐へ居る事を、何だか勝利を得たやうに思うて居た。
 芳江様は二人の間を調停して貰ふために、房州から東吾様を呼ぶと云ふ、東吾様の云ふことなれば、私は何事(なん)でも聴くから、と思うてゞあらう…、だが、此の事許りは、私は他(ひと)の言で心を変へぬ心算だ、また東吾様の来るのを待っても居なかツた。幾ら許嫁の頼でも、私の事で態々房州から帰る様な東吾様で無いのは知(わか)って居る…、言に私の推測通り帰って来ないでは無いか…、それとも、手紙では如彼(あゝ)云ふものゝ、東吾様には未だ何とも云って遣らないのかも知れない。
 いや、東吾様が何うであらうと、最う私の関係した事では無かツた、先刻殿井様に行かうとして、俥を待つ間に偶(ふ)と彼の人の写真が目に付いて、遣り遂げようと云ふ気になツた…、彼様な物が有っては、兎角心を鈍らせる原(もと)となるから、最う彼の人の心の事も悉(すっか)り心裏(こゝろ)あら除(と)る為に…、また一切の依頼心から絶縁する為に、彼の通り私は写真をも裂捨てゝ了ったではないか…。
 「萩原様、」と絹子は目を拭って、「失礼ですが、貴女、一寸と私の宿(うち)へ来(い)らして下さらない。」
 「芳江様がいらツしゃるでせう?」と初野は我と我が気を励まして、「私は、彼の方に会ひ度かありませんもの…。」
 絹子は呆れて、暫くはその病気と、続く苦労とに憔悴(やつ)れた蒼白い友人(とも)の顔を眺むるのみである。
 絹子の観察した所では、此の萩原初野と云ふ人は、他(はた)で評判のやうに只だ美しい、只だ温和(おとな)しい許りで無く、心の奥の中には、男兒(をとこ)のやうな確乎(しっかり)した思慮(かんがへ)を蔵って居る人とは思って居た、けれども、斯うまで情の強(こは)い、斯うまで思切った事を口にする人とは思はなかツた。熟(よく)は分らぬが、何でも余程深く芳江を可厭(いや)に思うて居るに違ひ無い、如何なる事情が、あれ程に親しい二人が間を隔てたものであらう、私も芳江様の情に厚き言に感激したとは云へ、何処までも舊(もと)の親しい間に復(かへ)さんと誓ったのではあるし、又初野の此の様子を見れば、容易ならぬ苦労をして居るのは明白(あきらか)である、何うしたら平常(ふだん)の温和い初野に復し、芳江様の彼の有情(やさし)い心を酌取らせる事が出来よう、と考へながらも、
 「萩原様、貴女、何うして然う芳江様がお嫌ひに成って?彼様なに貴女の事で心配していらツしゃるのに、夫ぢゃ、芳江様が可哀相よ。」
 「いゝえ、嫌ひ好きのて云ふ事ぢゃありませんの。」
 「でも、芳江様に会ひ度か無いなんて…?」
 「然(え)、それは…。」
 「ぢゃ、お嫌になツたからでせう?何故です、何か、其処に理由(わけ)が有るでせう?」
 「いゝえ、別段理由も何も…。」
 「だツて、其様な筈は無いぢゃありませんか、彼様なインチメートなものが、急に其様な…。」
 「矢張し、私は此様な馬鹿なんですから…。」と云って、初野は急に潛然(なみだぐ)んだ。
 絹子は目を瞠ったが、
 「萩原様、貴女、私にまで其様な事を仰有るのは酷いわ。芳江様に頼まれたと云っても、貴女とも親友の心算だわ、何方を贔屓するなんて、偏頗(へんぱ)な考へなんぞ有(も)ってませんわ…、それを其様な、敵(かたき)の片割か何ぞのやうに仰有るんだもの、余りだわ。」
 「いゝえ、貴女の厚意は、それは熟く解ってますけれど…。」と謝罪(あやま)るやうに云ふと、反対に絹子の方が不機嫌な顔色(かほ)を続けて、
 「私は、貴女の御意見は御意見で十分に伺う心算ですわ。今日は只だ、芳江様の方を先に聴いたもんだから、非常に感動し了(ちま)って…、」と云ツて言を切ったが、「だツて、芳江様の話を聴けば、実際無理は無いんですもの…幾ら謝罪って上げても、返書(へんじ)一つ下さらないと云ふし、房州から兄様に来て貰って、種々謝罪って貰はうとしても、貴女は避けていらしツて、何うしても会っちゃ下さらないと云ふぢゃありませんか…。」
 「…兄様に来て貰って…、東吾様ですか?」
 「え、東吾様が訪ねて行っても、貴女は会は無いんだツてぢゃありませんか?」
 「東吾様が…?何日(いつ)です…?」と云ったが、何うしてか忽ち赤くなツて、「嘘でせう、其様な事有る筈はありませんもの。」
 「東吾様の訪ねて行った事?何だツて貴女、芳江様が嘘云ふもんですか…、貴女は、芳江様を其様な方と思っていらツしゃるから可けない…。」
 「いゝえ、然うは思ひませんけど、」と敏捷(すばや)く打消したが、「だツて、東吾様が訪ねていらしツたなんて、其様な事はありませんよ。」
 乃(そこ)で絹子は、芳江から聴いた一部始終、即ち東吾の訪ねて行った事、書簡(てがみ)を出しても返辞無き故、怒って房州に帰ると云った事などを告げた。すると初野は顔色を変へて、
 「まア、何うした間違でせう、其様な、名刺の事も知らないし、お書簡だツて、実際参りやしませんもの…。」と呆れたが、「ぢゃ、東吾様は、本当に帰っていらしツたんですか?」
 「貴女は未だ夫を疑ぐツていらツしゃるんだもの…。」
 「いゝえ、疑ふ訳ぢゃ無いけど…。」
 「ですから、斯うして、立ってお話も出来ないから、まア私の宿(うち)へいらしツて下さいよ、未だお話しなきゃならない事が色々有るんですもの。」
 「然うねえ。」
 「可いぢゃありませんか…。芳江様なら、最ういらツしゃいませんよ、疾(とう)に帰りましたよ。」
 「参っても可いんですけれど…、」と云ふ時、背後の方から空俥の音が近づいて、質屋へ使に遣った車夫(くるまや)が来るので、初野は此方から歩(あし)を運んで、最後の羽織までを加(い)れて辛(やツ)と貸して呉れたと云ふ其の金を請取り、少し用事が出来て寄道をする、お前は帰って呉れと車夫に別れ、さて余り進まぬ風で、絹子と共に其の寄留し居る家へと出掛けた。
 


をりあひ

  一

 腹の裂ける許りに詰込まれた旅行鞄(カバン)、毛の摩切れた白毛布、それに洋傘(かうもり)まで添へて、整然(ちゃん)と玄関に揃へて在るが、六時の発船に乗込むと云ふ東吾は、七時が過ぎても未だ帰って来ない。無論明朝に延したのだらうが、「何処へ行らしたんだらう?何うなすツたんだらう?」と主婦は独り気を揉んで居た。
 東吾の此家(こゝ)に寄留してから最う三年にもなる、目下(いま)は其会社の支店長たる良人は、夏本子爵の登庸(ひきた)てゞ今日の地位にも在るので、主婦は大切の主人の相続人(あとゝり)を預った心算で、表面(うはべ)のみならぬ深切をも盡し、また、悪い友達などに誘はれて、悪い遊など為(せ)ぬ様にと、及ばずながら監督をも勤めて居る心算である。
 良人は二箇月(ふたつき)に一回、或は三箇月(みつき)に一回帰る限りで、趾には自分と、未だ小学校に通ふ病身の男兒(こども)が一人、此れに下婢(をんな)を加へて、東吾とも合せて四人であるが、今日は主婦の姪に当たるお梅と云ふのが遊びに来て居る。
 「叔母様、孰(どう)せ明日だらうから、彼の鞄は二階へ上げと置きませうか?」と其のお梅が主婦に云った。
 「然うねえ、だけれど、梅ちゃんの力で持てるかい?」
 「大丈夫よ叔母様…。」
 「おや、帰っていらツした様だ…。」と主婦は表の木戸の開く音に耳を澄まして、煙管を火鉢に叩くと、お梅は敏捷(すばや)くも玄関へ出迎へたが、路地の植込に、夕陽の華かに消えて行く間を、絵の様な美しい女学生が入って来た。
 「御免下さいまし、あの、伺ひますが、」と如何にも体裁(きまり)悪る気に、「此方様に、夏本様て云ふ方が在(い)らツしゃいますでせうか?」
 「はい、いらツしゃいますが、」とお梅は何故か赤くなツて、「只今は、あの御不在(おるす)なんでございますの…。」
 「左様でございますか…、それでは、最う房州の方へお出立(たち)なすツたんでせうか?」
 「いゝえ…。」と目を瞠って、「まだ、お出立にはなりませんの…。」
 「それでは、最うお帰りに成る頃ぢゃござんすまいか?」
 「如何でございますか…。失礼ですが、貴女は何誰様で…。」
 「私は、あの…、萩原と申しますもので。」
 「萩原様と…?」
 「あの、芳江様の学友(ともだち)でございます…。」
 「あゝ、」とは云ったが、お梅は学友(ともだち)と云ふ語(ことば)を間違へたのか、「それでは、お待ちなすツていらツしゃいますか?」
 「左様でございますねえ…?」と考へて居る。
 「最うお帰りでせうよ。」
 「はア…。」矢張り決し難(かね)て居る。
 「何か、急な御用でも…?」
 「え、少し…、」と云ったが、「では、再(また)伺ひますから、お帰りなすツたら何卒(どう)ぞ。」
 お梅が承知の旨を答へると、「丁寧に会釈して出て行く。その背後姿(うしろすがた)を見送って居たお梅は、頓(やが)て茶の室(ま)に戻って、今の女学生の美しかツた事を述べて、さて何様な用で訪ねて来たのだらう、東吾とは何う云ふ間(なか)だらう、様子が余程怪(をか)しかツた、などゝ想像を加へて、主婦(をば)が芳江の友達で、何か芳江から頼まれて来たのであらう、と云ふに係らず、今に東吾が帰ったら存分あぶらを取って遣らうと思って居る。
 主婦は主婦で、如彼(あゝ)いふ堅い東吾であるから、女の問題で間違ひなどの有らう筈は無いが、其様な者の訪ねて来る事が邸に知れては、私の不取締にも当る、假令(たとひ)在宿の処へ来ても、何うか会はせ度くないものだが、などゝ考へて居る。
 ところへ、横町へ入って来た俥の音が止って、垣根の外に高い男の声がする。
 「おや、夏本様のやうぢゃ無いか?」
 「然うよ、夏本様よ。」
 叔母と姪とが、一緒に玄関へ出ると、
 「お危なうございます。」
 車夫が先になツて、東吾の足許に提灯(かんばん)を照しながら入って来た。
 「其様な事為(せ)んでも分る…。」と云ふ東吾の声は常に無い荒く聞える。
 「叔母様、酔って来(い)らしツてよ。」とお梅が呟くと、
 「然うなやうねえ。」
 と云ふ中に、車夫より先に格子戸を開けようとした東吾は、敷居に躓いてよろよろと家に入ったが、其処に出迎へた主婦を見ると、
 「やア、今日は到頭遅くなツ了ひましたよ。」と笑ひながら云ふ。
 「何うなすツたんです、まア!」
 「今日ね、彼時(あれ)から買物に行くとね、途中で友達に逢ってね…。はゝゝゝ、到頭曳張り込まれツ了ってね。何うです、暢気なもんでせう、はゝゝゝゝ。」と又笑ったが、「出立は明朝です、明朝の七時…。」
 と云ひながら、直ぐ梯子を登らうとする。
 「あら、お危なうございますよ。」と主婦は止めようとする。
 「一寸待ってらツしゃいよ、今洋燈(ランプ)を点けますからさ。」とお梅も止める。
 「なアに、大丈夫でさア。」と他(ひと)の手を払って、暗い梯子を駈ける様に登った、足許は確のやうだが、趾には噎(むせ)る許りの酒の香が漾ふ。
 お梅は燐寸を持って直ぐ二階へ行ったが、東吾は雨戸を開けながら、
 「暑くなツたねえ、此様なになツちゃ、もう東京には一日も御免だなア。」
 「だツて、貴方が出立(たつ)と云っても、立たせない女(ひと)が在ったら何うなさるの…?」とお梅は調戯(からか)ひ始めた。
 「何だと?」
 「ほゝゝゝゝ。」と高く笑って、「先刻(さツき)ね、大変な別嬪様訪ねて来(い)らしツてよ、是非ね、貴方に会ひ度いんですツて。」
 「私に会ひ度い…?」初めてお梅を見返ったが、「馬鹿なこと云へ。」
 「あら、本当ですよ、本当の事ですよ。ぢゃ、其様なに疑ぐるなら黙ってませう…、大変に美い女学生さんよ、黙ってませう…。」
 「女学生?」
 「知らないわ、孰(どう)せ、私の云ふ事なんぞ嘘なんだから…。」
 「ぢゃ聴かん!彼方へ行ってお居で、煩い。」
 「まア、彼様な事を…、本当に夏本様は邪険だよ。可いから、今度御邸のお嬢様が来らしツたら、皆な言告(いひつ)けて進(あ)げるから…、あの、夏本様には、萩原様て云ふ美しい女学生が付いてますからお気を注けなさい…。」
 「なに、萩原…?」
 「知りませんよ。」
 「ぢゃ、萩原て云ふ女(ひと)が訪ねて来たんか?」
 「如何ですかねえ…。」
 「と云ふ処へ、階下(した)から主婦が登(あが)って来て、
 「何でございますかね、今の車夫が参りましてね、一寸お目に掛り度いツて申しますが。」
 「僕ですか?何だらう、酒代(さかて)でも呉れツてんだね?」
 「いゝえ、其様な様子でもありませんよ、是非、一寸お目に掛りたいんですツて…。」
 「待ってるんですか?」と聞いて、衝(つ)と立って梯子を降り、玄関の障子を開けるや否や、「お前今の車夫か、何だ?」
 「へ、一寸今、其処で頼まれましたんで…。」
 「何だ?」
 「えゝ、萩原様て仰有る方がね、一寸、お目に掛り度いから、一寸旦那に伺って見てお呉れ、て仰有いましてね…。」
 萩原と聞いて東吾もはツと思ったが、考へる暇もなく、
 「お目に掛り度いから問(き)いて呉れ…?何を聞くんだ、居るか居らんかと云ふのか?それとも会ふか会はんかと云ふのか…?」と詰責する如き語調(てうし)。
 「へ、如何でございますか、旦那にお目に掛って竊(そツ)と然う申上げて呉れ、て仰有いまして、へ。」
 東吾は車夫の云ふ事など耳にも入れず、
 「夫は何うでも可い、何の用が有るんだ?其の用事に依て会ひも為よう、併し僕は暇な人間ぢゃ無い、長い談ならお謝絶(ことわり)だ…、」と云ふ時、格子戸を透して薄月夜の路地に、来るでも無く去るでも無い女の姿が眼に入ると、「厭になりゃお謝絶だ、先方に会ふ用が有っても、僕には其様な用は無い、また義理も無い、会はうが会ふまいが僕の勝手だ…、然う云って呉れ!」
 と云ひ捨てゝ障子をばたり、直ぐ中に引込むと、其処に起って居るお梅に突当たる。
 「何です…?」とお梅は低声(こごゑ)に聞く。
 「お前なぞ関係したことぢゃ無い。」と無愛想に云って、足音荒く梯子を登ると、
 「何でございます?」と主婦も梯子の口から階下を覗いて居る。常(ただ)ならぬ東吾が声を、喧嘩でもする処と思うたらしい。
 「なアに、詰らん事(こツ)てす、」と東吾は嘲る様に答へて、つかつかと机の前に坐ったが、またむくり立上って、「今夜は馬鹿に暑いぢゃありませんか…、僕許か知ら?」
 「御酒を召喫(あが)ったからでせう、」と東吾の縁側に出るを眺めて、「まア、制服(ふく)をお脱ぎんなすツたら何うです…?階下からお鞄を持って参りませうか?」
 「いや、構ひません…、」と其処を歩いて居たが、急に上衣を脱いで室内(うち)へ抛込み、突然に話出した。「芳江様の友達でね、麹町の邸へなぞも屡(よ)く遊に来るんだが、何か、養母(はゝ)と衝突したとかなんか云ふんで、芳江は非常に心配してね、今日も彼の通り出立(たつ)のを見合はして呉れなんて僕を無理に引留めに来たんですよ…。」
 ところへお梅が登って来て、
 「夏本様、来ましたよ、先刻の別嬪また来ましたよ。」
 「なに、また来た?」
 「ほゝゝゝ、体裁(きまり)が悪いもんだから、彼様な顔色(かほ)をなすツて…。」とお梅は笑ひながら睨める。
 「何ですよ梅ちゃん、」主婦は窘(たしな)めて、「確(しっか)り申上げなさいなね。」
 「だから、夏本様にお目に掛り度いツて…。叔母様、それは本当に綺麗な女学生よ、服装(なり)は少し何だけれど、色なんざ雪の様でね…。」
 「ま、其様な余計な事を、」と主婦はお梅の口を止めたが、東吾を見ると黙って衝立(つった)って居るので、「階下に待っていらツしゃるのかい?」
 「え、待ってらツしゃるの。体裁が悪いか何だか、小さくなツてね。」
 「今時分何の用が有るんだ?梅ちゃん、然う云ってお呉れ、其の用事の種類に依っては、面会して遣っても可いけれど、僕には僕の都合と云ふものが有る、或は、直ぐ帰って貰ふかも測られないから…。」
 「其様な理窟なんか、私には云へ無くツてよ。」とお梅は顔を顰めて、「何様な用だか、会ってから聴いたら可いぢゃありませんか。」
 「面倒臭い、ぢゃ、一寸会って遣らう。」
 「ぢゃ、お上がりなさいツて然う云ひますよ。」
 お梅は階下(した)に降りて行く。主婦も其邊(そこら)を片付けて出て行った。東吾は首を傾げて考へて居たが、また縁側を歩き出した。



  二

 除に梯子を登る音がして、暫くして初野が入って来た。東吾はそれを、一概に自分に対して恥しい為とのみ解(と)った。
 二人が顔を合はせるは、日外(いつぞや)東吾の房州へ立つ前日、初野が恭一の家へ行く途中、人通多い黄昏時に、一寸と言を交した以来初めてゞある。東吾は敏捷(すばや)くも脱いだ上衣に手を通し、洋燈の前に肩を峙(いか)らして、生来背の高いのを反身に、頭から、初野を見下ろす如く構へて居たが、其の服装(なり)から其の容貌(かたち)から、僅の間に窶れ見えるのには、流石に一驚を喫したのである。
 初野の方では、斜に射す燈火(あかり)を便(たより)に、艶々と紅味を帯びた東吾の半面、気力の充満みちみ)ちた眼の光、服装などには相変わらずの無頓着ながら、筋肉の発達著しく、何うやら又肥った様なのを見て、嬉しいとも付かず懐しいとも付かず、一種の感に胸は躍って、眼は自然(おのづ)と涙ぐむのである。
 「…何様なにか御立腹でせうけれど、私は、先刻、三浦様から聴きまして、初めて知ったものですから…。」と初野は、先づ謝罪(あやま)る如き語調で云った。
 玄関を入る迄は、第一には暫く御無沙汰の挨拶、夫から入院中に見舞はれた礼などを述べ、それから絹子に逢って聴いた一部始終に移らうと、胸の中に順序も立てて居たのであるが、東吾の前に出ると、最う其の順序も何も乱れて了ふのである。
 「夫は何の事(こツ)てす?」東吾の眼は鋭く光ったが、其の語調は如何にも冷淡に聞えるのである。
 「あの…、私の下宿へ訪ねていらしツた事も、御書簡を下すツた事も、今迄些とも存じませんものですから…。」初野は変に気が更まツて、何うも思ふ様に口が利けぬのである。
 「それが何うしたと云ふのです?」と詰責する如き語調。
 「それで、お詫を致さなければ済まないと存じまして…。」
 「御用と云ふのは其事(それ)ですか?」
 「は。」と東吾を覗ながら、「お詫を致しまして、あの、矢張り、従来(これまで)の如(やう)に…、萬事御助力を願ひ度いと存じまして…。」
 「助力?いや、其は御謝絶(おことわり)です。」と東吾は決然(きっぱり)と云ひ放った、「又、詫るとか何とか云ふけれど、何も詫て貰ふ事は無い、其様な事は最う聞き度くも無い、最う過去に属した事で、私の頭から消えた事で、最う私には無関係の事です…。貴方だツて然うでせう、其の時の都合で、他が訪ねても面会を謝絶(ことわ)るでせう、手紙を遣っても返辞も出さんでせう…、詰りそれと同じ理窟でさ、僕には僕の都合がありまさア…、最う聞き度くも無い、貴女とは会ふのも厭だ…、最う帰って貰ひませう!」
 「はい…。」と許りで、初野は溢るる涙を袖に隠した。
 二人は暫く口を噤んだ。何時の間にか風が出て、洋燈(ランプ)の火光(ほかげ)が頬と動いて居る。庭の木の葉が柔かに私語(さゝや)く…、途切々々に遠雷の音が聞える。それで居て、縁側には薄く月光(つきかげ)が射して居る。
 で、暫くして、
 「然うお解りなさるも御無理はありませんけれど、全く、お訪ね下すった事なんぞ、少(ちっ)とも存じませんし、お手紙も達(とど)かないもんですから…。」と初野が弁解(いひとか)うとすると、
 「手紙が達かない?貴女の下宿には、郵便が達かんですか?」東吾は嘲った。
 「は。達きさへすれば、返事を上げないことは有りませんけれど…。」
 「然うですか、成程、郵便が達かんのですか!や、立派な御弁解を聴きました。はゝゝゝゝ。」
 と突然笑ったが、「貴女には、総(すべて)郵便が達かんものと見える…、芳江の話では、三回とか手紙を出したけれど、一回も返事が無いと云ふが、ぢゃ、それも郵便が達かんのでせう…、はゝゝゝ、あはゝゝゝ。」
 初野は弁解く言も無く、片手を畳に顔を背向けて、落(おつ)る涙のはらはらと音するのみである。
 「いや、其様な事は何うでも可いのです、」と東吾は元気の充ちた声で、「出した郵便は達くか届かないか、僕は其様な事を詮議してる暇は無い、其様な愚物でも無い心算だ…。まア、今に成って聴く事も無い、また言ふ事も有りません、失礼だが帰って貰ひませう。」
 「…芳江様に返書を上げないのは、それは、私が悪いんですけれど、実は、間違った考に支配されまして、三浦様から聴く迄は、迷が覚めなかツたんですもの…。ですけれど、貴方のお手紙だけは、全く私の手に達きませんでした…、実際の事です、貴方だツて、私の平生(ひごろ)は御承知の筈ですが、私は其様な虚言(うそ)を吐く者か何(どう)ですか、少しお考へ下すツたら、直ぐお疑ひは解けることゝ存じますが…。」
 「これは、大変な弁駁を聞くもんですね…。」と嘲る。
 「いゝえ、弁駁ぢゃありませんが。」
 「だが、疑っちゃ悪いと云ふ様に仰有るけれど、疑はうが疑ふまいが、貴女に損害の掛らない以上、僕の自由でせう…?」と云ったが、更に傲然として、「僕の自由だ、貴女なんぞ関係した事ぢゃ無い!」
 「は、それはもう、然うですけれど…、」と涙に妨げらるゝ声を断々(きれぎれ)に、「ですkれど、私の身に成れば、何処までもお疑ひを晴らして戴かなきゃ成りませんから…。」
 「何故です?それは親しい友人間…、で無くも、今後交際を続けようと云ふ間の事(こツ)てせう?僕は貴女とは友人ぢゃ無い、貴女に交らうなどゝ思はん。」と鋭く云ったが、忽ち又嘲る様に、
 「そんなら可いでせう?疑はうが疑ふまいが、僕の自由でせう?」
 初野は最う云ふ処を知らなかツた。暫くして辛(やツ)と面を揚げ、
 「私は芳江様に謝罪(あやま)りまして、従来(いままで)の様に御交際を願ふ心算ですけれど、それでは、最う芳江様とも交ることが出来ないでせうか?」
 「それは御勝手さ、芳江の事までは僕は干渉せん。たゞ、僕だけは絶交して貰ふのです…、随分貴女の為には、是まで種々…、」と云ひ出さうとして、急に語調を更へ、「いや、今になって何も云ふ事は無いが…、最う、これで帰って貰ひませう!」



 今は取着く島も無いのである。初野も詮方なしに座を起った。東吾は其の趾を眺めて居たが、頓て自分もむくりと起って、室(へや)の中を歩きながら、
 「ふん、何も知らんと思ってるか、画工(ゑかき)との関係も知ってる、妹を頼んだ事も知ってる…。」
 と聞える様に独語したが、忽ち耳を驚かしたのは、梯子を滑り落ちたけたゝましい響である。
 「あれ、叔母様大変だよ、夏本様、疾(はや)く来て下さいよ。」とお梅が叫ぶ。
 東吾は夢中に梯子を駈下りた。其処には初野が横に倒れて、気絶したのか、手を掛けても身動きもせぬ。薬を出せ、医師を呼べと騒ぐ人々を制して、東吾は初野を抱起した。
 「おい、水を持ってお出で…、それから彼の、香水は有りませんか。」
 「有りますよ、梅ちゃん…。」と主婦(あるじ)は洋燈を持って振へて居る。
 東吾はお梅に手伝はせて、初野の頭を冷させ、鼻に香水を当てなどしたが、間もなく美しい眼がぱツちり開いた。
 「貴女、気を確りなさいましよ。」と主婦(あるじ)は耳に口を寄せた。
 「それ、水です、お呑みなさい。」と東吾はコップを唇に当てて遣った。
 その水よりも、差着けられた洋燈の下に、初野は凝然(ぢツ)と東吾を視詰めて、
 「東吾様、貴方、堪忍して下さいな!」と手を握って、はらはらと涙を零した。




 吟味

  一

 その明くる日の午後(ひるすぎ)のことで、切通坂下なる画家の二階に、主人(あるじ)の恭一と、島井の主婦(かみさん)とが、其処に出て在る鮨を摘(つま)まうともせず、好きな煙草を喫むことも忘れて、互に澄まぬ顔色(かほ)して対座(むかひあ)って居る。その中にも主人の恭一は、平成(ふだん)から、あれ程大切にする鏡にも未だ向はぬらしく、頭髪(あたま)も乱れたまゝに任せて、着物はネルの寝衣(ねまき)の上にねんねこを乱次(だらしな)く被(はふ)り、腕組を固く、時々溜息を吐くが、其の癖主婦を見る眼は常に無く鋭く光るのである。
 「旦那、然うお怒(こ)んなすツても困るぢゃありませんか、早速お知らせ申さなかツたのは、夫(そりゃ)ア私の手落でございましたけれど、何しろ余り急で、何が何うしたんだか、些(ちツ)とも訳は分らないんですもの…。」と主婦は鎮(なだ)める如(やう)に云ふ。
 「いや。怒るんぢゃ無いよ、怒ると思ふから間違ってるんだ。今に成って、怒った処が何も成らんぢゃないか?」と恭一は苦笑して、「だから怒るのぢゃ無い、假(よ)し怒るにしても、お主婦に対して怒る理窟は無い、無いが…、唯何うも忌々敷い、お主婦だツて知(しツ)てるだらう、僕は、如何(どれ)程彼女(あれ)の為に神経を労した…、幾回(いくど)彼女に欺かれた…。」
 「それは最う、今更仰有るまでも有りませんとも、私でさへ、忌々敷くツて忌々敷くツて、假し、旦那が此の儘で済まさうと仰有も、私が済まさないと思ってる位ですもの…。」
 「幾ら義理を知らない女(もの)でも、現に、妹が厄介に成ってるぢゃ無いか…。」
 「彼様な肺病患者の家になぞ奉公して、全く、旦那が助けて下すツたも同(おん)なじ事(こツ)てすからねえ…。」と恭一の後に付いて云ひ継ぐ。
 「それに、只の一回(ど)礼にも来やしない…。」
 「その上、急に家を持つ事に為ましたから、妹は私の方に返して下さい…これぢゃ、恩も義理も知らない、宛然(まるで)、犬畜生同様ですからねえ!」
 「僕の不快に感(おもふ)のも無理は無からう…。決して未練が有る訳ぢゃ無い、彼様な女(もの)に愚弄されたと思ふと、只だそれが忌々敷くてならん。何うも、此の儘には済まされん…。」
 「ですから、斯うなれば、最う構ふこた無いから、一つぎいぎい云ふ目に遭はしてお遣んなさいましよ。」
 「けれども、家を持つ位だから金は出来たらうし…、」と考へて、「迫めて、其の金を出した奴が分ると面白いんだが…。」
 「波ちゃんに訊いたら分るか知れませんよ…。」
 「分らない、訊いたけれど知らなかツた。」
 「ぢゃ、口止されてるんですよ、彼の娘(こ)だツて利口な娘ですもの、姉が家を持つと云っても、お金を何うするか位訊きもしないで、おいそれと同意するもんですかね。」
 「然うか知ら、」と首を捻って、「ぢゃ僕は、彼の姉妹(きゃうだい)の為に、好きな様にされてるんだな。」
 「何様な事を云ふか、一つ吟味(たゞ)して見ようぢゃありませんか?」
 「それも宜からう。」
 「階下(した)に居るんでせう、何して居ます?」
 「何してるか…。先刻帰って来て、姉が家を持つから、姉と一緒に成り度いツて云ふからね、余り唐突8だしぬけ)で、僕も吃驚したし、夫に、ぐツと感(おも)ったもんだからね、散々叱付けて遣ったんだ…、多分泣いてるだらう、可哀相た思ったが、彼の時は耐らなく腹が立ったよ…。」
 「然うですとも、誰だツて貴方…。ぢゃ、爰へ呼んで参ゐりませうか、何様な事を云ひますか…。」
 と主婦は階下へ降りて行った。

  二

 階下の梯子傍の長四畳で、我が机に小さく泣伏して居るのはお波である。
 「お波ちゃん、何していらツしゃるの?」と背後から優しく声を掛けて主婦は入って来たが、
 「泣(ない)てらツしゃるんですか?」
 お波は居住(ゐずまひ)を正(なほ)して主婦に向直ったが、口は利かずに、矢張り泣いて居るのである。
 「お波ちゃん、何うしたら可いでせう、旦那は大変な御腹立で、私ア今、散々お叱言を頂戴した所ですよ…。夫も、お波ちゃんを可愛いと思っていらツしゃるからなんだけれど、」と困った顔をして、「貴女は、何うしても阿姉様と御一緒に成るんですか?」
 お波は顔を隠したまゝ点頭づく。
 「ぢゃ、最う、此家(こゝ)の旦那の御世話には成らないツて云ふんですね?」と顔を覗くと、返辞も無ければ頭も動かぬので、「ぢゃア、阿姉様が、学校に入れて下さるのですね?」
 「其様な事は、何うだか分らないけれど…。」
 「分らない…?だツて、其のお談が有ったでせう?」
 「いゝえ、無いの。」
 「それぢゃ、是から何う為ようツて的(あて)も無く、阿姉様が同居に成れと云ふから、それで只だ御同居に成るんですね?まア、お利口な貴方にも似合はないねえ。」
 「だって詮方が無いんだもの…。厭だツて云へば、最う今後(これから)は、姉妹でも何でも無いツて云ふし…。」
 「何故です?なんぼ阿姉様だツて、其様な勝手な事が有るもんかね。貴女もまた、何でも阿姉様の云ふ通り成って、唯々(はいはい)してる事は無いぢゃありませんか、何う云ふ訳でお家を持つか、お家を持(もっ)てからは何うして行くか、其点(そこ)を聴きもしないで、御深切にして下さる此方の旦那から離れるなんて、余り向う見ずぢゃありませんか…。」
 「それは聴いたの…聴いたけれども…。」と言ひ澱む。
 「ぢゃ、何う云ふ訳です?」
 「お主婦(かみさん)、旦那様には秘密(ないしょ)よ、」と願って、「あのね、私がね、旦那の様な道楽者の家に居るとね、姉様に悪い噂が立って、最う姉様の一生が棄(すた)って了ふんだツて…、だから、最う一時も斯うしちゃ置けないんだツて…。」
 「旦那が道楽者だから、悪い噂が立つんですツて、まア!」
 「お主婦、旦那様には秘密にして下さいよ、よ。」
 「それは可いけれど…。そして、お家を持ってから何為(どうなさ)るんです…お金をさ?誰か、お金を出して下さる人でも在るんですか?」
 「私もね、それを聴いたのよ…。」
 「在るんですか?」
 「いゝえ、無いの。無いけれどもね、今は最う、お金の事なぞ彼此云ってられ無いツて。」
 「其様な乱暴な事を…、御自分はそれでも宜からうけれど、お波ちゃん許し可い迷惑ぢゃありませんか、」と云って一段力を籠めて、「ねえ!」
 「いゝえ、私は、姉様の云ふ事だからね、私、些とも迷惑た思はないの。」
 「何様なにお困んなすツても?」
 「え、何様なに困っても、私、姉様と一緒なら辛抱するの、」とお波は涙ぐんで、「だツて、今度はね、何だか知らないけれど、姉様にも大変な訳が有る様なの…。」
 「大変な訳ツて、何様な訳?」
 「私は知らないけど…。」
 主婦は考へる顔をして、
 「昨夜、姉様は何処へ行らしツたか、貴女はお聴きでしたか?」
 「姉様?姉様は何処(どツ)かへ出て?」
 「え、何でもね、遅うくね、一時頃にお帰りでしたよ。」
 「まア、何処へ行ツたらう?」
 「そして、今日になると、急に此様な話でせう…。ですから、何でも昨夜、其の行らしツた先方に、何事(なん)か勃発(もちやが)ツたんですよ。」
 「何うしたんだらう?あゝ、私速く姉様と一緒に成り度いわ。お主婦(かみさん)、何卒後生ですから、旦那様へ願って頂戴な、ね、後生ですから。」とお波は、斯う云ふ中も心の急く態(さま)である。



小杉天外 魔風恋風 その9

2011年07月07日 | 著作権切れ明治文学
 競争

  一

 日曜の正午(ひる)前のことで、主婦が台所で客膳(ぜん)の準備(ようい)をして居ると、吃驚する程に格子戸を手荒く明けて、
 「頼む!」と宛然(まる)で士官様が号令を掛ける如(やう)な声である。
 主婦は素早く手を拭いて、襷を脱(はづ)しながら出て行くと、小倉の袴に紺飛白(こんがすり)の袷、角帽を少し横に冠った大学生…日外(いつぞや)初野と共に殿井の宅に急ぐ途中で逢ったその大学生が、親の仇讐でも探す様な洋杖(ステッキ)を突いて、丈高き身を厳乎(きツ)と起って居る。
 「萩原様居ますか?」



 「は、御不在(おるす)でございますが…。」
 「居ない…?」と当惑したが、「帰る時間が分りませんか?」
 「左様でございますねえ、最うお帰りだらうと存じますが…、病院へ行らツしゃいましたから。」
 「病気ですか…?何日からです?」愕然(ぎょツ)とした様子。
 「過日(こなひだ)から、お気分が悪いやうでございましたが、病院へは、今日初めて行らツしゃいまして。」
 「然うですか?」と重く点頭き、「ぢゃ帰ったらね、是非…、会ってお話しなきゃ成らん事が有るから、私の方へ来て呉れるか、私が此方へ来れば可いか、今日中に葉書を下さるやうに、此う話して下さい。」
 と云って名刺を渡したが、主婦の「畏まりました。」を背後に聞いて、直にぷいと出て行く、と廣からぬ路地を、丁度彼方から入って来た殿井恭一とばツたり出逢った。
 其の時の顔色、主婦からは無論分らぬが、瞥(ちら)と横目を光らした恭一の方は、行過ぎると振返って、羽織の着ぬ肩幅のがツしりした処から、泥の附いた薩摩下駄まで見上げ見下し、さて急(いそが)し相に家へ入りかけて、行(ゆい)なり其処へ居る主婦へ、
 「何だい彼(あれ)は?宛然(まる)で壮士の様な大学生だねえ。」と云って、主婦の持って居る名刺を見、「何だ、法科大学生夏本東吾…。」
 「旦那…、」と主婦は笑を耐へるやうな顔色(かほ)で、「油断大敵ですよ。」
 「何が…?」
 「萩原様を訪ねて来(い)らしたんですよ。」
 「彼の大学生が?」眼を円くして、「何だツて?何の用で?」
 「何の御用か存じませんけれど…、」と主婦は今頼まれた葉書云々(しかじか)の事を告げて、「話の様子ぢゃ、余程親しい間のやうでございますもの。」
 「何だらう、盟友か知ら?それとも、怪しい関係の有る者か…?」
 「いゝえ、萩原様に限って、其様な事はありませんけれど…。」と主婦は日外(いつぞや)殿井の家に行く途中に見掛けた、初野と大学生との事は、今に恭一へは秘(かく)して居たのである。
 「併し、親しい間と云ふからは…?」と恭一は落着かぬ風で、「是まで、幾回(いくど)も来た事が有るんだね?」
 「いゝえ…、気が付きませんでしたよ。」
 「可笑いねえ。」
 「ま、彼方へ来(い)らツしゃいましな。」
 「然うだ、立ツた処が始まらない、」恭一は漸く家に上がって、「時に、今日は居ないね。」
 「萩原様でございますか?は、病院へ。」
 「愈よ行ったね、到頭我を折ったと見えるね。」と笑ひながら、主婦と共に茶の間に入る。

  二

 主婦は彼の妹の帰った後で健(したゝ)か嘔いた其の夜は、急に大病人の様に成って、他(ひと)に扶けられて辛(やツ)と床に入った程である事、それで居て翌朝起上ると主婦の諌めも肯かず、大切の学科が有るからと強情を通して、真蒼な顔で学校へ行った事、余程苦しかツたと見えて、常よりも早く帰った事から、今朝は何う考へて我を折ったものか、到頭病院へ行った事まで物語ると、その話を聴きながら切りと名刺を捻くツて居た恭一は、此の時はたと膝を打って、
 「然うだ、今思い出した、」と大声で主婦を驚かし、「そら、此の間の手紙さ、萩原様の机から出た…、彼状(あれ)にも、確か夏本と有ったぢゃ無いか?」
 「左様でございましたか?」
 「夏本だツたよ、確かに夏本だ、そして彼の手紙には…。」と恭一は朧気に記憶して居る其の文字を思浮べて、房州に行って居る兄を呼んで、何事か知らず、初野の怒を解いて貰ふと云ふ様な事が書いてあツた。して見れば、先刻(いま)の大学生は其の兄で、妹の為に謝罪(あやま)りに来たとしか思へぬと云ふ。
 「ぢゃ、房州から態々帰った処ですかねえ?」と主婦は訝る。
 「併し、何様な事だらうな?女同士の衝突なら、高が知れたもんだが、房州から態々帰るなんて…。」
 「ですけれど、彼で、他(ひと)へお詫に来た処なんでせうか?全然(まる)で、喧嘩でも売りに来たとしきゃ思へないぢゃありませんか。ほゝゝゝゝ。」
 主婦は声を出して笑ったが、恭一は中々莞爾ともしない。
 「それは何様な事件(こと)でも、兎に角、此の男と萩原たア、親しい関係に違ひ無いねえ。」と力を入れて云って、主婦は然(さう)とも然うではないとも云はないのに、「いや、それに相違ないよ、でなければ、妹が調停を頼む筈なんぞ無いもの、然うだよ、必然(きツ)と然うだよ。」
 「左様でございませうかねえ。」主婦は、恭一の顔ばかり眺めて居る。
 「女学生なんざ、此れだから可かんよ、口頭(くちさき)でばかり高慢な事を云って、裏面を窺けば悉(みん)なこれだ。」と鼻で笑ったが、「お主婦もまた、余り目が無さ過ぎるぢゃ無いか、萩原様許しは別物だなんて、ふん、何が別物だい…。」
 「いゝえ、全くですよ、全くお堅固(かた)いんですよ…。」
 「何が堅固いんだ、親しい男が有ってそれで堅固きゃ、豆腐と婦女(をんな)は堅固い物さねえ。ふん、僕ばかり可い面の皮だ、迂闊に誰かの口に載って、散々に気を揉ませられて…。」
 「はゝゝゝゝ、まア、彼様な事を仰有るよ、はゝゝゝゝ。」
 「笑ひ事ぢゃ無いよ。何が可笑しいんだ?」
 「其様な貴方、私に突掛かった処で仕様が無いぢゃありませんか。それ程御執心なら、此う云ふ場合に、速く何うにか為されば可いぢゃありませんか。」
 「何うするんだ、何か、好い方法でも有るのかい?」
 「好い方法ツて…、今日から病院に通ふ事に成りましたもの、もう貴方、貴方の御注文通りに成ったぢゃありませんか。」
 「其点は大に注文通りだが、併し、彼様な男(もの)が有ツちゃねえ…。」
 「幾ら何様な者が有らうと、二人を会はせなきゃ可いでせう、私がさ。」
 「会はせない?萩原と此の男をかい?ぢゃ、今日訪ねて来た事も黙ってるんだね?」
 「其処は何うでも…。だツて、何様な人にだツて貴方、物忘れツて云ふ事が有るぢゃありませんか?」
 「うん、成程、流石はお主婦だ。」
 「ほゝゝ、現金だよ、」と笑って、「最う、お金が無くて困ってる処ですもの、今の間(うち)に、貴方の手腕(うで)をお出しなさるが可いぢゃありませんか…、ねえお廉、お廉や、一寸お来でな。」
 台所に働いてる下婢を其処に呼んで、
 「お前昨夜、萩原様のお使で質屋(なゝつや)へ行ったねえ、幾ら借りてお出でだツたい?」
 「は、あの、三円五十銭でございました。」
 「それ、夫つ許しのお金ですもの、俥賃から薬代から払った日には、もう、三四度も通ふ中には、何も無くなツ了(ちま)ひまさアね?」
 「然うだ。」と首肯く恭一。
 「ねえ。」と莞爾する主婦。


 診断

  一

 神田駿河台の内科病院控室に、他に面を見らるゝを厭うてか、壁に近く片隅に俯向いた後姿、濃い髪を英吉利巻き、筆で描いた如(やう)な三ツ襟、細い首は白玉を述べて、ぴツたりと身(からだ)に附いた萌葱縞の一楽の羽織、撫肩に傷々(いたいた)しく痩(やせ)の見えるのを、廣き室の其処此処に残った患者等は、或は好き心(ごゝろ)に、或は同情の目を以て、自己(おの)が病苦(やまひ)を忘れた様に眺めて居るのであツた。云ふまでも無く、此の美しい女学生こそは萩原初野である。



 室の正面なる掛時計(とけい)は疾(とう)に一時を過ぎて、今しも緩くその三十分(はん)を報じた処である。診察は終って、爰に残ったのは、調剤の出来るを待つ者ばかりであるが、最う刻(とき)が刻なので、幾ら病人でも空腹を託(かこ)つ者もあれば、退屈の欠伸を高く、傍人(はた)に顔を顰めさせる者もある。たゞ初野のみは、連も無ければ人にも離れて、我が順番を待ちながら、最早病を得た此の身の、治療費!卒業試験!之を何うしたものであらう、と思案に沈んで居る。病気は脚気で、胃も悪いと云ふことである。転地治療が一番に良い、また、牛乳を多量に飲んで、滋養物を食って…、と医師の命ずる所は、初野が今の身に到底(とて)も及びも付かぬ事のみである。
 脚気衝心!それは、少女(こども)の時から聞いて居る怖しい語(ことば)である、また、東京(こゝ)に来てからも、二三の学友の此病(これ)に悩み、此病に生命を奪(と)られたことも覚えて居る。然るに今、自分は此の怖しい病気に罹って了った。勿論是位のことで、生命に懸るものとは思はぬ、思はぬけれど、医師の言を守って治療をするで無ければ、病勢の何う変化して何様な事に成るものやら、中々等閑(なほざり)にはして居られぬ場合である。
 転地治療!是が最良療法と云ふが、併し、身体も大切ではあるが、我が一身に取って学校の卒業もまた大切である。住馴れた故郷を捨て、懐かしき母に別れて、試験毎に他の羨む成績を得る程の勉強を為続けたのも、名誉ある女子学院の卒業生として、天晴れる婦人社会に学者の名を取らう為め許りである。それを今に到って…、多年勉強の效空しからず、其の卒業も僅一箇月を余すのみの今に到って、幾ら病気が怖しいからと云って、幾ら生命が惜しいからと云って、試験を放(うツ)棄(ちゃ)らかして浮々うかうかと転地などがして居られよう!
 養生に養生をして、注意に注意をして居たなら、試験の済むまで東京に居たとて、豈夫(まさか)に死ぬやうな事もあるまい、假(よ)しそれが為に病気が重(おも)るとも、六月さへ超せば、卒業さへして了へば、転地治療でも、何様な治療でも、全てが我が心の望むまゝに出来るのだ。
 「これん許しの事で、志を挫くなんて…。」と初野は胸に繰返して、我と我が唇を咬んだ。
 けれども、病気の為には志を挫かぬ、何うあツても勉強を続けようと決めた処で、所有(あらゆ)る持物を売払って、暫く卒業までの下宿料、月謝などを間に合はして行ける位のものが、薬代から、種々の滋養物から、通院の車賃から…。
 「あゝ、私はまア、何うして金を手配(こしら)へたものであらう!」と思ふと、我にもあらず腹を絞る深い溜息が吐かれる。
 此の順に費(かゝ)った日には、一ト月も通院(かよ)はぬ中に有る物は売尽して。裸体(はだか)にでも成って了はねばなるまい。
 矢張り殿井様にでも頼む外に方法が無いのか?したが、是迄幾度となく彼方の相談(はなし)を斥けて、如何に窮したと云って、今更何の顔色(かほ)があツてか此様な事が願はれよう。假(よ)しまた願った処で、重々(かさねがさね)の無礼に腹を立てられて、最う耳も假して呉れぬかも知れない、世話好きの主婦も、最う執成(とりなし)てなんぞ呉れぬかも知れない。
 其様なら如何して手配(こしらへ)たものか?今の身に成って思へば、屡(よ)く新聞に出る操を売って学資を作ると云ふ様な話も、金の得難い為め、また志しを遂げ度い為の窮策から出るのであらう、自分がとても、借りらるゝならば高利の金でも借りよう、買ふ者があらば、身体の血でも絞って売らうものを!
 過日(いつぞや)病室に入った時は、日夜入院料の事のみ気に懸けて、此様なに困る事は世の中に有るまいとまで思ったが、彼の時は殿井様も無理に金を貸して呉れる、芳江様も彼様に夥多(どツさり)見舞って呉れる、その上、肝心の入院料と云へば、知らぬ間に知らぬ人が払ってあるのだツた、今の苦しさは到底(とて)も較べ物にもならぬ。
 入院料と云へば、彼の入院料の払主は未だに分らぬ、的(あて)も附かぬのだ。その当時は種々に迷って、彼か此かと知った人を疑って、何(どう)やら東吾様の様に思はれる処へ、傍から三浦様等が種々な事を云ふので、何様か体裁(きまり)が悪かツたらう…。そして、殿井様へ行く途中で逢ふまでは…、彼の葉書を見るまでと云ふものは、全く彼(あ)の人に決めて居た、彼の人を一番に有情(やさし)い人に思って、一番に頼母敷い人にして居たものだ…、顧(おも)へば羞かしいことである。
 けれども私は、今になツて彼の人を怨む訳は無い、不快に思ふ事も無い。芳江様と許嫁(いひなづけ)の事は前から知って居る。芳江様と親いので、未来の細君の友人として私にも交はツて居たのだ、それは其れに違ひ無い、其様な事は私も疾(とう)から承知して居る…承知して居る筈なのだ。
 「馬鹿々々しい、何故私は、此様な下らない事を考へるだらう?」と初野は心の中で此う云って、首を掲げた。
 許嫁だらうが、結婚しようが、其様な他(ひと)の事は何うでも可いではないか、孰(どう)せ人は、誰だツて一度は配偶(つれあひ)を有つ可きものだ…!何も其処に不思議は無い…、妹の奉公する金村の奥様、学校の一覧を見ると、六年前の卒業生の中に、妹の云ふ通りの席順に載ってあツた。六年前と云へば、卒業生の売口も何様にか好かツたらうに…殊更席順も良いのに、何様な事情が有ってか知らぬが、今は病人の良人を持って、そして妹に訊けば、何等の不足らしい事も云はず、静に生活(くら)して居るらしい。「して見れば、孰せ私だツて…!」と初野は思はずも独語した。
 「貴女ぢゃありませんか、萩原様て云ふな?」と突然初野の傍に来て云ふのは、商人らしい患者である。
 「はい、私ですが…。」
 「呼んでますぜ、先刻から呼んでますぜ。」



 気が付いて見れば、最う患者(ひと)も帰り尽して、廣い控室(へや)に、自分と此の男との外は誰も居ないのだツた。薬局に廻れば成程薬は出来て居る。初野はそれを丁寧に手巾(はんけち)に包んで、麻痺(しび)るゝ脚を徐に玄関に出て、其処に待たせてある俥に乗ったが、梶棒(かぢぼう)を擧ぐる時に、
 「あの、車夫(くるまや)さん、一寸と切通下に寄る所がありますから。」と命じた。
 切通下と云へば、彼の画工殿井恭一の家であらうが、併し、初野は何の為に殿井の家に寄らうと云ふのであらう。

  二

 世界は廣くとも、人は多くとも、初野が今の身に倚頼(たより)とす可きは、彼の入院料を払って呉れた無名の恩人と、画工の殿井恭一とより他には無いのである。無名の恩人の誰であるか、何処に居るのか、それは探さうにも手懸だに無ければ、今はたゞ嵐に耐へぬ百合の花の、力と頼むは殿井恭一のみであるのだ。
 けれども、今初野が帰途を恭一の家に廻らうと云ふのは、豈夫(まさか)に此の窮境の救を求る為では無い…幾ら苦しいとて、其様な事が口に出されるものでは無い、唯だ是迄の深切を思へば、お波が主人の言の如く優れた人物であるを思へば、夫から、恭一に対する我が是迄の所為(しうち)を思出せば、何うも一刻も此の儘に黙って居ては済まないのである、謝罪(あやま)る処は謝罪(あやま)り、礼を云ふ処は礼を云はねばならぬのである、さうしなければ気が済まぬのである。
 俥は初野の命(めい)のまゝ、次第に切通坂の方に近付いた。併し車の輪と共に初野の胸の中も息(やす)みなく廻る。殿井に袖を曳(ひか)れて、夢中に逃帰った夜の事、彼の時の情ある言葉の数々…。
 「彼様な事が有ったのに、斯うして一人で寄ったなら…、殿井様は何と思ふだらう!それよりも、下婢(をんな)達の手前…。」初野は斯う考へて、独で顔を赤くしたのである。
 此の頃学校へ出ると、寄って群(たか)って友達の調戯(からかひ)、殿井様の美(い)い男である事を、口上手の三浦様が形容すれば、最う何か関係でも有るものゝ如(やう)に、是非顔だけでも見せて貰ひ度いの、絵が描いて貰ひ度いのと、昨日などは、危なく楠田先生に迄聞かれる所だツた。
 誰が目にも然う見えるものか…、併し殿井様は未だ独身で…、私も独身で…、私は心を乱しはせぬが…、迫(せ)めて彼様な美い男で無かツたら…。
 などゝ思ふ中に、俥は恭一の小路近くに来た。車夫(くるまや)に声を掛けようか、あゝ急に体裁(きまり)が悪くなツた、だが寄らずに行っては…、あゝ最う通り過ぎる、呼び止めようか、併し入るも羞かしいし、…あゝ何う仕よう、一寸息んで、少し考へさして呉れゝば可いのに…。
 「切通(きりどほし)坂は何方でごぜえます?」車夫は足を止めた。最う池の端に出たので。
 「然うですねえ…。」と曖昧の言葉。
 「なんなら訊いて見ませう、何町でごぜえます。」
 「いゝえ、それは分ってますが。」
 「へえ、ぢゃ何方で…?」
 「まア、今日は止しませうよ。」
 「ぢゃ、真直にお帰(けえ)りで…?」
 車夫は一文字に駆出した。自分で命令(いひつ)けながら、初野は最う詮方が無いと悔んだ。
 俥は何時か大学の背後を、七軒町を北に飛んだが、唯(と)ある曲角で、不意に出て来た一輛の俥と、突当らんとして辛(わづか)に摩違(すれちが)ひ様、見るとも無く偶(ふ)と顔を掲げると、彼方の車上には殿井恭一、
 「やア。」と軽く挨拶して通り過ぎる。
 「おや!」と初野も口に出したが、振返へれば道は曲って其人の影は無く、我が俥は益々馳(はし)る。
 けれども、初野は車夫を止めようとしなかツた、恭一を呼ぼうとも為なかツた。
 余り唐突(だしぬけ)なので声が出なかツたのか、それとも体裁が悪かツたのか、たゞ病ある胸の動気のみが高く波打つのである。



 許嫁

  一
 
 汚点(しみ)の見ゆる大分古く成ったセルの夏服に、大学の徽章を附けた麦藁帽、片手には重さうな書籍(ほん)包を抱へて、編揚(あみあげ)の深靴を足音荒く、東吾は忙しく我が下宿なる倉岡へ帰って来た。格子戸の明く音に、奥から出て来たのは親類の娘…日外(いつぞや)大学の正門前に東吾の帰りを待って居た、彼の梅ちゃんと呼ぶ娘である。
 「お帰んなさい、暑いでせう?」と馴々しく傍に寄る。
 「梅ちゃんか、久し振りだな。何しに来てるんだ?」
 「夏本様がね、房州から帰って来(い)らしたツてから、それであの…、私、来て見た処ですの。ほゝほゝゝ。」と急に笑ふ。
 「何か、阿母様から伝言(ことづけ)でも有ったの?」
 「いゝえ…。あら、私持ってゝ上げますよ。」とお梅は東吾の風呂敷包を代って持ち、「重いわねえ。何?洋本?」
 東吾はそれには答へず梯子を駈昇って、室へ入るや否や、行きなり我が机の上を見廻したが、其処に来たお梅に、
 「梅ちゃん、私へ郵便が来なかツたか。一寸聞いて来てお呉れ。」
 「階下(した)には、今誰も居ませんよ。」
 「何うしたんだ?」
 主婦は下婢を伴れて、本郷まで用達に行ったので、私は留守をしている由を答へて、
 「先刻のこツてすから、最う帰る頃ですわ。」
 「ぢゃ、梅ちゃんの居る処へ来なかツたか?」
 「郵便?いゝえ。」とお梅は東吾を見上げて、「貴方、大変な汗よ、洋服を着更へないで可いの?」
 東吾は頻に首を捻って考へて居る。
 「本当に大変な汗だわ。拭いたら可いでせう。手拭(タオル)を絞って来て上げませうか?」とお梅は早くも柱の釘から手拭(タオル)を取る。
 「いや、要らない」と首を掉る。
 「だツて、此様なに…、」と傍へ寄ると、
 「あゝ煩い、」と手で払って、「ま、階下(あツち)へ行ってお居でよ!」
 お梅はぶツと膨れて、
 「酷いわねえ夏本様は。宜くツてよ。」
 「今、用が有るからさ。」気の毒に思ったか、慰さめる様に云ふ。
 「宜くツてよ。」
 「はゝゝ、怒ったな?」
 「知りませんよ。」と足音荒く出て去(ゆ)く。
 東吾は笑ひながら、其の跡を見送ったが、忽ち真面目な顔をして、また小首を捻って、
 「だが、如何(どう)したんだらう?」と独語と共に腕組をしたが、「急に病気が悪くなツたか知ら…?併し、彼の手紙を見たら、何とか返事位為さうなもんだ…、自分で書けなきゃ、代筆でも出来る事(こツ)た…。」
 何を想ふか、暫くは瞬もせず天井の一隅を視詰めて居たが、急に帽子を把って、ばたばたと梯子を降り、
 「梅ちゃん梅ちゃん、僕はな、一寸出て来るがな…。」と靴を穿きながら、呼んでも返辞が無いので、声を高く、「おい梅ちゃん。」
 「何ですよ。」何時の間にか、音もなく背後に来て起って居る。
 「其処に居たのか、返辞位したツて可いぢゃ無いか?」
 「だから何ですツてば?」
 「まだ怒ってるのか、仕様の無い娘(こ)だなア。」
 「何うせ、私は仕様の無い娘ですよ!」
 「ちょツ。」と鼓舌(したうち)したが、「後刻(いま)に主婦(おくさん)が帰ったらね、晩の六時の汽船(ふね)で出立(たつ)からね、其の心算(つもり)で準備(したく)して置いて下さいツて。」
 「あら、今晩発っていらツしゃるの。」
 「然うさ、可いか、頼んだぞ。」

  二

 東吾の志す処は、云ふ迄も無く千駄木林町の、彼の萩原初野が下宿である。
 で、戸外へ出た時の勢と云ったら、何か生命(いのち)に係る事でも起ったかの様に、夫こそ猛然として、傍目も憚らず行くのであツたが、その歩調(あしどり)の中途から段々緩くなり出して、最う千駄木へ入った頃には、立止ったり、首を傾げたり、真(ほん)の人に怪まるゝを避くる許りに、詮方なしに歩くのであツた。
 それでも島井の前まで来た。行過ぎる風をして路地の内を覗くと、入口に紺半被の車夫体の後姿が、何やら声高に話をして居る。東吾は機悪(をりわる)しとでも思ったか、垣の前を二度ばかり徘徊(うろつ)く、と、頓て路地から今の車夫が出て来る。
 「おいおい。」四五間も遣過して、背後から声を掛けた。
 「へ。」ときょろきょろした眼をして、一寸猟帽(はんちんぐ)を脱って、「拙者(てまへ)ですか?」
 「確かお前だツたね、昨日、女子学院へ行った人は?」と徐に歩寄った。
 「へ、萩原様のお迎に…?へ、拙者でげすが、旦那は何誰様でしたツけ?」と変に笑ふ。
 けれども東吾は笑ひもせず名告(なのり)もせず、何の為に此る事を尋ねるかも告げない。何を秘さう、東吾は昨日も此処を通ったのである。その際(とき)、此の車夫と島井の下婢とが、「萩原様は何様なに待ってるか知れやしない…、病人ぢゃ無いか、気を揉ませない様に、最う少し早く行って呉れたが可いぢゃ無いかね。」「なアに、此処から学校までは、五分と掛りや為ませんよ、大丈夫間に合ひますよ。」「でも、お前様が其様なに落着いてるもんだから、私許し忙しい処(とこ)を使に出されたり、叱られ無いで可い事を叱られたりするぢゃ無いかね。」などゝ話しながら、空俥をがらがらと急ぐ処を見たのである。
 「彼(あ)の、萩原と云ふ女は、病気ださうだね、何処が不快(わる)いんだい…、お前知ってないかい?」
 と東吾は、車夫に笑はせまいとでも思ふか、厳然(きツ)とした顔をして尋ねた。
 「へ、能かア存じませんが、何でも、脚気だか申すことで、へ。」
 「脚気?併し、学校を休む程ぢゃ無いのだね?」
 すると車夫は、今も病院に薬を取りに行って聴いて来たが、病状に異(かは)った事無ければ、一週一回位の通院でも差支なしと、其処の医員の言葉を其のまゝに告げて、
 「旦那は何か、萩原様の御朋友(おともだち)でいらツしゃいますか…。」
 東吾は何処までも真面目で、
 「薬を取って来たと云ふと、ぢゃ、今日は下宿に居るのだね?」
 「へ、今日はお午前にお帰んなりまして。」
 「ぢゃ、今も居るのだね?」と念を押す。
 「へ、在(い)らツしゃいますとも。」
 「然うか。や、此れは暇を潰して気の毒だツた。」と銀貨を一個(ひとつ)出して遣る。
 「旦那、此様な物を戴いちゃ…。」と車夫は不意(めん)くらツて、ぴょこぴょこと頭を下げる。東吾は相手にもせず、直ぐ後へ踵を返したが、五六歩来ると立止って、
 「おいおい。」
 「へ、何ぞ御用で?」と最う駈けて来る。
 「その病院は、何処の病院なんだ?」
 「へ、駿河台の…。」車夫の事だから、院號で無く、其の院長の苗字で答へる。
 「然うか、や。」と許り行過ぎる。
 車夫は後を見送って、笑ひながら点頭いたが、東吾が島井の路地に見えなくなると、自分も其処を立去った。

  三

 格子戸を潜るや否や、東吾は例の声で案内を乞うた。出て来たのは下婢で、東吾の顔を見ると、はツと思ったらしい顔色(かほ)をする。
 「萩原様は居るか?」
 下婢は狼狽(どぎまぎ)して、
 「は、あの、何卒一寸お待ちなすツて。」
 「居るだらう?」と靴を脱がうとする。
 「何卒、一寸お待ちなすツて。」下女は奥へ駈戻って、「お主婦、また参りましたよ。」
 主婦は縫物の手を息めて、
 「何だよ唐突(だしぬけ)に。何が来たんだよ?」
 「昨日逢った書生様ですよ、ほら、彼の萩原様を訪ねて来(い)らしツた。」
 「え、彼の夏本って云ふ?お不在ですツて、疾(はや)く然う云ってお遣りな。」
 「だって、在らツしゃる事を知ってる様ですよ。」
 「知ってる?仕様が無いねえ。」と云ひながら、主婦は膝の糸屑を払って出て行った。
 東吾は不機嫌な顔をして、主婦が腰を屈めても瞬き一つだにせぬ。
 「お出でなさい、萩原様はね、いらツしゃいますけれどね、お寝(よツ)ていらツしゃいまして、もう、何誰がお出でになツてもお目に掛りませんのですが。」
 「お寝てる?」
 「は、どうも、お健康がお害(わる)いもんですからね。」
 「併し、一寸取り次いで呉れんか、是非会hなきゃ成らん事が有るから…。」と名刺を出す。
 「でも、何誰が来らしツてもお目に掛らないからツて、固く言ひ付(つか)って居りますんで…。」と主婦は名刺を取ろうともせぬ。
 「然うか…。」と東吾は赤くなツたが、「過日(こなひだ)、貴女に頼んで行きましたが、彼事(あれ)は取次いで呉れたらうね?」
 「は、確に。」
 「何と云ひました?」
 「いゝえ、別に何とも仰有いませんでした。」
 「然うですか。」
 「何ぞ御用がお有なさるなら、何卒、拙者(てまへ)に仰有って戴き度いんですが。」
 「いや、それぢゃ、」と許りぷいと戸外へ出た。
 何(どう)も非常な侮辱を受けた様である。芳江からの手紙を見て、大切の勉強を棄てゝ帰ったのも、困厄の地に堕ちたと云ふ初野を救はん為である。芳江との間を調停せん為である…他(ひと)には秘して居るが、芳江にさへ他の要件(よう)で帰った如く話して置いたが、全く初野の為に態々帰郷したのである。然るに其の初野が、会いに行っても会はず、手紙を出しても返書(へんじ)一つ寄越さぬ。車夫の話を聞いても、人に会はれぬ程の重患で無いのは明かである。主婦に頼んで、乃公(あれ)が来たら斯う云って帰す様に、と手筈を定めてあるのか知れぬ。
 「失敬な、全く俺を侮辱して居るんだ、失敬な!」と東吾は歩きながら呟いた。
 併し、何故斯う急に自分に冷淡になツたか、東吾には其の理由(わけ)が解らぬ。養母(はゝ)と何か衝突が有ったと云ふが、過去(いまゝで)の我に対する所為(しうち)を顧(おも)へば、それ位の事で、斯う急に冷淡に成らうとは思へぬ。
 「ぢゃ、若しや彼の男と…。」東吾の胸に浮んだのは、下宿の路地で摩違った軽佻(にやけ)た服装(なり)の男である。
 学資に窮して、卑(いやし)い妾になるなどと云ふ話は珍しく無いけれど、自分の目が誤(ちが)って居るか知れぬが、豈夫(まさか)にあの初野が其様な堕落を為ようとは思へぬ。
 「いや、堕落為ようが為まいが、何も乃公に関係の有る事ぢゃ無いんだ。」とまた胸の中で云った、「馬鹿だなア乃公は、彼様な女(もの)の事で帰って来るなんて…。」
 すると、直ぐ自分の前へひょツこり出て来て、
 「お帰りでいらツしゃいますか。」と腰を屈めるのは、邸の抱車夫(くるまや)である。
 「松蔵か、何うした?」気が付くと、我が脚は何時か自分の下宿の前に来て居るのだ。
 「へ、お嬢様のお伴で参りましたんで。」

  四

 二階の東吾が室に、此処の主婦の侑(すゝ)むる茶に潤して居るのは芳江である。粗い縞御召の袷に、帯は藤紫地に牡丹模様の襦珍、頭髪(かみ)は夜会に結び、生得(うまれつき)の白い顔色(かほ)を薄く化粧(つく)って居るが、室の故(せい)か、主婦の様な女と並んだ故か、平常(つね)よりは一段と品も高く、また一段と美しく見える。
 主婦からは主人筋の娘なので、最う有らん限りの手を尽くして、嬉しがらせるに掛って居る。菓子も買置きではあるが、藤村の蒸菓子、今買った夏蜜柑。それから親類へ来た嫁の写真、それから東吾から貰った干物、それは美味しかツた話、海岸へ行っていらしても、少しも日にお焼けなさらぬ事、其の御帯(おみおび)は奥様の御見立てだらうが、真に好く御似合ひ申した事など、平常(ふだん)は余り御饒舌(おしゃべり)でも無いが、今日は口を置かずに弁じ立てゝ居る。
 「おや、お帰りの様ですよ。」と主婦は、梯子を昇る足音を聞いて襖を開けた。
 東吾が入って来ると、芳江は微し赤くなツて、
 「兄様、お帰んなさい。」
 「芳江様か。何うした?」つかつかと来て机の前に胡坐を紐(か)く。
 「あの、少し御相談(おはなし)が有って。」
 「最う、先刻からお待ちなすツていらツしゃいますよ。」と主婦は東吾にも茶を侑めたが、芳江が座布団を外して居るので、「阿嬢様、御服(おめし)が汚れますよ、御敷き遊ばせよ。」
 「だツて、私ばかし…。是で宜いのよ。」と芳江は、自分のみが絹の客座布団で、東吾を見るとキャラコの固く成ったのに坐ってるので、斯く滑り降りたのである。
 すると主婦は笑って、成程此は気が付かなかツた、それでは若旦那にも彼方から持って参りませう、と室を出て行く。
 「なに、僕は座布団(しきもの)なぞ要りませんよ。」と東吾は背後から声を掛けて、扨芳江に、「相談(はなしツ)て云ふと、何んだね?」
 「萩原様の事で。」と云ふ中に顔色(かほ)を曇らせた。
 「如何したんだ?」と東吾も気遣はし相に、「ま、其物(それ)をお敷きな。」
 「兄様、萩原様と会って下すツて?」
 「いや、会はん。手紙を遣ったけれど、何うしたか返事も寄越さん。」
 「如何したんでせう、矢張し、兄様に対しても怒ってるんでせうか?」と悲しい顔色をしたが、「兄様、ぢゃ、萩原様の事は、未だ些とも御存じ無し?」
 「何様な事を?」
 「兄様、大変ですよ…。」と前置をして、自分は三浦絹子の来状で知ったが、初野は病気に罹って居る、それから妹のお波をば、下婢奉公に出して居る、と話すと、
 「奉公に出してる?」東吾にも、此の話だけは初めてゞある。
 「え、必然(きツ)と、お金にも困ってゞすよ。だツて、彼様なに可愛がツてる妹ですもの、能く能く詮方が無いからなんですよ。私はそれを思ふと、萩原様の心の中が…。」とはらはらと涙が溢れた。
 「可いぢゃ無いか、妹を奉公に出さうが、病気に成らうが、云はゞ他人(ひと)の事だ、何も、芳江様の関係した事ぢゃないぢゃ無いか。」
 「兄様まで其様な…。初野様は、私の親友ですもの…。私は…、未だ兄様には黙ってましたけれど、私は、」と涙を拭って、「初野様と、私は姉妹(きゃうだい)の誓をしてますもの。」
 「姉妹…?」
 「然(え)、義姉妹ですの。」と芳江は流石に体裁悪る気に、「其様な誓をしては悪いんでせうか?」
 「いや、それを悪いと云ふんぢゃないが…?」
 「ぢゃ善(い)いでせう?」
 「併し、芳江様ばかし其様な意(こゝろ)でも、彼方が此の通り冷淡なら?」
 「いゝえ、初野様は其様な人ぢゃ無いの、決して冷淡な人ぢゃ無いの、私だツて何様な性質(たち)の人だか知ってますわ。」
 「けれども、芳江様からも、三回も謝罪(あやまり)の手紙を遣ったツてぢゃ無いか?」
 「然(え)、それは遣ったけれど。」
 「そんなら、常識の有るものなら、何とか返事位は寄越し相なもんぢゃ無いか、」と云ってる間に語勢も鋭くなツて、「失敬な、僕も手紙を遣って、態々訪ねても行った、名刺まで置いて、主婦に頼んで来たんだ、それに、昨日なんざ…、失敬な、実に失敬な奴だ、自分は何者(なん)だ、高が私立学校の女学生ぢゃ無いか、無礼にも程が有る…、彼様な奴、何う成っても構ふもんか、何様な困難を為ようと、何様な堕落為ようと、何等痛痒も感じはしない、彼様な女(もの)で気を揉むなんて此方が愚だ、芳江様、最う止してお了ひ、最う絶交してお了ひ…、姉妹(きゃうだい)も朋友も有るもんか、断然絶交してお了ひ。」
 「兄様にまで然う云はれると、私許り何うすれば可いんだか…。」
 「何故?何故其様なに悲いの?何も、芳江様の身に降掛った事で無いぢゃないか?」
 「だツて、初野様の意(こゝろ)の中が何様なだらうと思ふと、私は…。」と泣いたが、辛(やツ)と面(かほ)を掲げて、
 「兄様、私ね、他の事なら何様な事でも、決して兄様の言葉を背きませんからね、何卒初野様の事だけは恕(ゆる)して上げて下さいな。私は、一旦姉とまで誓った女(ひと)を、此様な行違で失くして了ふかと思ふと、私は実に…。」
 「だがね、芳江様許し然う思っても、彼方の心が此様なぢゃ駄目だよ…。」
 「いゝえ、假ひ何様な行違で、何様なに怒っていらツしてもね、私は何処までも初野様の心を解く心算ですの…、また、然う為るのが友人間の義務なんですから…、ね、然うでせう?」
 「それは然うだが、そして、彼方の心を解いて、それから何う為ようと云ふの?」
 「そしてね、初野様が怒を解いて下すツたらね、私は、学資のお手伝を為ようと思ひますの。」
 と芳江は、初野には夏まで学資を助け、お波を奉公から戻して遣り度いのである。そして初野の心を解く方法としては、友人(ともだち)の三浦絹子を間に入れて、無理にも一回相会して、自分の胸中を打明ける心算なるを告げ、
 「ですから、何卒か此事だけは恕して下さいな、ね、ね兄様。」
 「恕すも恕さんも無いけれどね。」
 「ぢゃ、恕して下すツて?ぢゃ、是迄のやうに親しくしても可いでせう?」と心から莞爾して、
 「ぢゃ、兄様も今日立つことは止して下すツて可いでせう?」
 「私か、私は立つよ。何も、私の居る用は無いぢゃ無いか。」
 「いゝえ、後で、種々兄様に御相談(おはなし)しなきゃ可けない事有るんですの…。それに、初野様には、私達が十言(とこと)云ふよりか、兄様が一言云った方が効験(きゝめ)が有るんだから。」
 「其様な事が有るもんか。」
 「いゝえ、実際。兄様の事は、非常に敬服して居ますのよ。」
 「敬服?ふん、我(ひと)が手紙を遣っても、返書も寄越さない様な敬服じゃ大変だ。」
 「だツて、今回の事は、行違から起った事なんですから。」
 「行違だらうが何だらうが、彼様な女学生、僕は真平御免だ、」と東吾は笑ったが、「併し、それ程気に掛るんなら、芳江様だけは何うでも違って見るが可いさ、無論、それが正しい事なんだからねえ…。」


 待人

 画工殿井恭一が家の縁側を、襷掛の姿甲斐々々しく、雑巾掛けをして居るのは昨日から此家(こゝ)に引取られたお波である。
 「お波ちゃんや、お波ちゃん、止してお呉れツてばねえ。」と台所から呼ぶのは老婢(ばアや)である。
 「え、最う出来る処(とこ)ですから。」
 「でも、止してお呉れよ、其様なにお働きの処を旦那に見られようもんなら、また、私が叱られなきゃ可けないぢゃないかね、よ、お波ちゃんや、」と障子を開けた老婢は、「おや最う出来たんかい?」
 「え、大変な砂よ、こら。」とバケツの水を見せたが、「老婢さん、最う雨戸を閉めませうか?」
 「まだ早いぢゃないかね。ま、此方へ来てお休息(やすみ)よ。」
 お波は云はるゝ儘庭口から勝手に廻り、さて家へ入って手を洗ふと、台所の片隅には、何時の間にか仕出屋の膳碗や、料理が列んでゐるので、
 「老婢さん、夥多(どツさり)御馳走が来てるわねえ、皆な、旦那が食(あ)がるの…?」と茶の間に入りながら問(き)くと、
 「お波ちゃんの姉様が来るんでね、それでお取んなすツたんだよ。」
 「あら、これ姉様の御馳走?」
 「何だよ此の娘(こ)は、其様な大きな声をしてさ。ま、お坐んなさいよ。」
 「だツて、姉様の御馳走なら、其様なお金を費(かけ)る事なんか止して下されば可いに。」
 「何故?可笑しな事云ふ娘だよ。旦那の方ぢゃ、御馳走を為たいからお呼びもしたらうし、またお波ちゃんの姉様だツて、旦那の御馳走に成り度いから来るだらうぢゃ無いかね。」と云って、老婢(はアや)は唐突(だしぬけ)に笑出した。
 「あら、姉様は、御馳走に成度くツて来るんぢゃ無いわ。」
 「然うかい、然うかい、」と老婢は笑ひながら点頭いて、「だがね、お波ちゃん…、私は、昨日から聞かう聞かうと思ってたけれど、お前様の姉様、お郷里(くに)に居た時分、一度縁付いた事が無いのかい。」
 「縁付くツて?」
 「何家(どツ)か、御嫁に往った事が有るだらう?」
 「其様な事無いわ、姉様は、学者に成る人だもの、お嫁に行くなんて、其様な…。」とお波は不平な顔色(かほ)をする。
 「学者も可いけれどね…、」と老婢は凝(ぢツ)とお波を眺めて、「ぢゃ、お波ちゃんのお郷里では、何処の娘も斯うなんだね…男の家へ遊びに来たりなんぞして?」
 「其様な事無いわ。」
 「ぢゃ、お前様の姉様許(ばツ)かし、斯う開花してるんだね、はゝゝゝゝ。」と笑ったが、「だがね、後刻(いま)にね、姉様が来ても、必ず二階へ行く事(こツ)ちゃ無いよ。お邪魔になるからね、可いかい。おや、何うして泣くの、え、お波ちゃん、何うしたのさ?」
 「老婢さんは、余りだから可い…。」とお波はしくしく泣いて居る。
 「余りだツて、何が余りなの?え?」
 「私の姉様を其様な種々な事を云って…、姉様は、郷里に居る時から、大変に成績がよくツて、郡長様からも賞与を貰って…。」
 「それ、旦那が降りて来(い)らツしゃるぢゃ無いかね、お波ちゃん、泣くのは止してお呉れよ、それ、来らしツたよ、速く顔をお拭きなね、速くさ…。」
 老婢が濡れた手拭を押遣ると、お波は云はるゝ儘顔に当てた。丁度其処へ出て来たのは、バンドレンやら、コスチメツクやら、香気(にほひ)に鼻を突つばかりの主人(あるじ)の恭一である。
 「波ちゃん、何うしたんだ?」と云ひながら老婢を眺めて、「老婢、お前また、幼者(こども)に余計な事なんぞ云っちゃ可かんぞ。」
 「いゝえ、何余計な事を云ふもんですか、ねえお波ちゃん、今、仕出屋から来た物を整理(かたづ)けて、一寸腰を下した処ですよ、ねえお波ちゃん。」
 するとお波は点頭いた。
 「仕出屋から…?最う皆な来たのかい?」
 「へい、皆な参りましたよ。」と老婢はつんとして居る。
 恭一は台所を見廻したが、
 「波ちゃん、一寸此方へお出で。」と顎で招いて、前に立って梯子を登る。
 二階の八畳の室は、塵一つ落ちて無い迄に整理(かたづ)き、座布団から茶道具の用意、キーラソーの壜、何やら菓物の缶詰など、客の来るのを今や遅しと待って居る有様。
 「まア此処へお坐り、」と恭一はお波を近く呼んで、「何うしたんだ、泣いてるやうだツたぢゃ無いか?何か、老婢から厭な話でも聞いたんだな?」
 「いゝえ、何にも。」
 「ぢゃ何うしたんだ?何も、私に秘す事は無い、何うした、云ってお了ひ。」
 「あのね、只だね…、」と云って、お波は恭一を見上げて、「私、お願が有りますの。」
 「何だ?何だか云って御覧な。」
 「あのね、姉様が来てもね、私、姉様の傍に附いて居たいの。」
 「姉様の傍に?」恭一は解(げ)せぬ眼をして、「附いて居たきゃ附いて居るが可いぢゃないか、何故其様な事を云ふの?」
 「だってね、若し姉様に間違でも有るとね、私…、大変ですもの…、郷里の兄様なんか、女の書生なんざ、私成兒(てゝなしご)でも生んで来るのが落だなんて、始終(しょツちう)悪口してますもの…。」
 「私成兒…?それで、波ちゃんが傍に附いてゝ、姉様の護衛をしようと云ふのか?ぢゃ、私が、波ちゃんの姉様と関係すると可けないから、と斯う云ふんだね?」と云ったが、急に怖い顔をして、「誰が其様な事を云った、老婢(ばアや)だらう?」
 「いゝえ、誰も云はないけど。」
 「波ちゃんが然う思ったのか、しゃ、お前は私を疑ってるんだな?」
 「あら、然うぢゃないわ、」と赤くなツて、「然うぢゃありませんよ、本当に然うぢゃありませんよ、疑やしませんよ。」
 「其様ならそれで可いが、」と恭一は笑って、「波ちゃん、最う六時過ぎだよ、五時迄に来ると云ったぢゃないか?」
 「えゝ、何うしたんでせう?お迎に行って来ませうか?」
 「確に来ると云ったんだね?」
 「え、」とお波は点頭き、「私の事で、お礼も云はなきゃならないんだし、今後(これから)の事も相談(はな)して置き度いからツて…。確ですよ。」
 「それから、月末の払にも困るし、病院の薬代も何うかしなきゃ可けないし、て云ってたぢゃないか。」
 「え、それは、私へ内密(ないしょ)で云ったの…、あの、殿井様に願ったら、貸して下さるだらうか何うだらうツて…。」
 「波ちゃんの姉様の事だもの、談に依っちゃ、それは無論貸して上げて可いさ。」
 「本当でせう?本当に貸して下さるでせう?」
 「併し、これは姉様に会って、姉様から直(ぢか)に聴いた上でなきゃ可けないんだよ。」
 「ぢゃ、私呼んで来ませう。」と膝を立て掛けて、「可いでせう?」
 「それは、波ちゃん次第さ。だが、千駄木までは容易ぢゃない、行くなら俥に乗ってお出でな。」
 お波の辞するのを、強ひて俥を呼んで出して遣った。