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松田瓊子 紫苑の園 2

2011年09月15日 | 著作権切れ昭和小説
  夕食の後

「ありゃあ、一体なんじゃ?」
 ある日の夕方、用事を思いついてお離れに来た西方婦人に、大伯父さんはひどく眉をひそめて言った。
 婦人は老人の眼のほうを見やると、離れの横のほう、西に面した芝生の傾斜で、紅々(あかあか)ともえる西陽をうけて、少女と子供たちが輪になって、何か奇妙な手ぶり身ぶりをしていた。
「郁さん、あんた正気であんなことをさせておくのかね、あの子たちは一体幾つだと思っていなさるんだ」
 老人の声はいつもの通り、厳(いかつ)く不機嫌だった。
「でもね、伯父様、可愛いじゃございませんか。私、ああして家(うち)のチビたちと一緒に無邪気におどったり遊んだりしているのを見るの大好きですの」
 婦人は子供たちの様子があんまり面白いので、笑いながらいきいきとこう言って、窓からその楽しい輪を見やるのだった。
「うちのチビはよいさ、まだありゃ七つと六つだからな、―しかし女の子らはもうあんなことをさせる間に、縫い物でも手伝わせんきゃいかん、少しは女の道をわきまえさせてやらんか」
「ええ、あれでなかなか考えているんですのよ、それにいつまでもああしておどっていられるものじゃありませんもの、今におどれなくなる時も来るんです。心からああして楽しめるのもほんのしばらくですもの、私、あのくらいの女の子が家の中でめそめそしているより、何の屈託もなくとびはねているほうがうれしいと思いますの」
「へーえ、あんたは呑気じゃ―知らんのかね、私は昨日ちょっと母屋へ用事があって行ったら、下の日本間であの茶目が浴衣の上に跨って箆(へら)をつけておったぞ、お前は幾つになると問うたら、十五だと澄ましておる」
 老人はいよいよ額の皺を深くして書物に目を落した。
 夫人は、今にも噴き出しそうになるのをこらえて、この気むずかしい老人にあついお茶をいれながら、
「お行儀の悪い子ですこと、ええ、もう少し慎むように申しておきましょう―」
「当たり前じゃ」
 もう一度雷のような声がして、お叱言(こごと)は終わりを告げた。
 ちょうどこの時、勉強の合間に下に降りてきた弥生が、台所でフライパンの柄をにぎったまま、笑いこけているよねさんを見て、
「何一人で笑ってるの?」
 と不愉快そうに問うた。
「ワハハ、ごらんあそばせ、ちょっと、あのいつものお澄まし屋の美子嬢ちゃんの面白い恰好を!」
 弥生は窓からのぞくと、例の奇妙なおどりが、今たけなわというところである。
「何してんの!?」
 弥生は呆れ果てて、眉をひそめた。
「あれはね、羅漢サンの進んだのだそうでございますよ、ほれ、ごらんなさい。テレツケテンノヨイヤサとこう両手をかいぐりかいぐり式にグルグルっとまわして、すぐ隣の人の身ぶり手ぶりをまねるのでございますと」
 よねさんは、まるで自分も仲間入りしているようなジェスチャア入りで話してきかせると、弥生はいかにもさげすむような目で、
「一体、なんのためにあんなことをしているの?暇人(ひまじん)ねえ」
「それが、面白いじゃございませんか、明日遠足にいらっしゃるから、明日もお日様出てきて下さいっておまじないの踊りだそうでございますよ。貴女も、そう内にばかりいなさらないで、御一緒にお仲間にお入りなさいましよ」
「プーッ、呆れた、幼稚園の生徒じゃあるまいし」
 弥生は冷たい笑いを残して二階に走り去ってしまった。
「面白味のないお嬢さんだよ」
 よねさんはすっかり興ざめがしたように、ぶつぶつと呟いていた。
 夕陽の丘に、おどりは続いていた。細長いルツ子から肥った横ブ、すらりとした美子、香澄の間にはこれまた小さい汀子、信雄、詩子、時々伴奏に入る万里子のタンバリンのやかましい音―。両手を腰に、ひょいひょいとおじぎをする者、猿飛佐助のような手をする者、お鼻をチョンチョンとつつく者、―芝生にはおどりに合わせて、長いの、ふといの、小さいのと、影も一緒におどっていた。
「皆さん皆さん!今日は靴みがきの日ですよ、おどりが一段落ついたら始めて下さいな」
 台所口から、笑いを含んだ夫人の声が、おどりの輪にとび込んでいった。
「ソーレ!」
 という声と一緒に、少女たちは一斉に玄関からほこりの靴をさげてきていつものように分業でやりだした。
 ずらりと列になって、一番端の人はせっせと泥を落とす、次の人が下みがき、次がクリームをぬり、次の人がフランネルでみがき、次の人が油をつけてみがき込んで仕上げとなる。その早いこと!早いこと!
 詩子はその間を立って廻り、磨き上がったお姉様方の靴を一列に並べると、お離れからはお爺様の靴を持って来るし、も一度玄関に戻って、下駄箱のあらゆる靴をさげてきた。パパの、ママの、いっちゃんのと、
「いっちゃんのもみがいといてあげてね」
 夫人が窓から声をかけるまでもなく、もう靴はちゃんとみがかれてあった。
「ええ、詩子ちゃんがちゃんと持ってきて下さったの、私たちより気がつくのよ」
 香澄はそう言って笑った。
「いっちゃんは、だってお勉強が忙しいでしょう?」
 詩子はいつもの仇気(あどけ)ない面(おもて)をふり仰いだので、ルツ子はこっくりして、
「その通り、その通り」
 と微笑した。
 ピカピカ光る靴を満足そうに運ぶ少女、歌いながら夫人に言いつかったお風呂の水を汲み込む者、割烹着をつけてよねさんの手伝いをする者、―ソロで歌う者もあり、二分で歌う者もあり、三分に変るグループもある。「紫苑の園」のお手伝い時は、こうして楽しい少女たちの歌声で満たされるのだった。歌を歌わなければ仕事ができないか、と大伯父様はおっしゃるけれど―。



 平和な夕べに鳴り渡る、トライアングルの澄んだ音とともに、夕食は開かれるのである。しかし、皆が食堂に落着くまでは、あきさんが玄関にハタキを持って立っていて、一人一人そのハタキで払われるのだ。スカートに芝草をつけている者、靴下がほこり臭い者、頭にごみをつけてくる者が、一人もいないことなど、この園はじまって以来一度だってないことであった。
 食卓には、折々の庭の花が盛られて、御馳走はすっかり用意されている。その夕食が、健康な、元気な少女たちにとって、どんなに楽しく待ちどおしいものであろう。
 いつものならわしのように、高い子供用の椅子にかけた詩子がナプキンを首に巻いていただいたまま小さい可愛い手を胸にくみ合せて、食前の感謝を捧げるのだった。
「神さま、今日もおいしい御飯を下さってありがとう!どうぞおなかのすいた本当に可哀想な子どもたちにもこんなおいしいものをあげて下さい。そして、このお食事に一緒に来て下さい。神さま、詩子おなかがペコペコです。アーメン―」
 誰も決して笑いはしなかった。この小さな女の子のお祈りほどほんとうのお祈りはないのだから。
「ああ、詩子、明朝(あした)の分もお礼しといたから今日は長かったでしょう?」
 詩子は口いっぱいにほおばりながら、真面目にこう言った。
「今日、僕、捨て犬めっけたの、飼ってもいいね?いいね?」
 さっきからいつに似なく黙っていた信雄がこの時、まるで爆発するように口を切った。
「どこで?」
「どんな犬?」
「可愛い?」
「汚かないかしら?」
 皆の視線は一斉に信雄に集まり、さっそく質問の矢がはなたれた。
「汚かあるもんか、とても可愛いんだよ、雑種だけど、あんなすてきなのあるもんか。ねえ、ママ?飼ってもいいねえ?第一、あの犬を放っておいたら、すぐにどこかに持って行かれるにきまっているよ、ねえ?そしたら、疑いもなく殺されるよ、可哀相でしょう?あんなに可愛いのを、殺したら可哀相でしょう?」
 信雄はまったく真剣な面持ちで、夫人に迫るようにこう話しかけた。
「疑いもなくか」
 万里子は、こっそり面白そうに笑った。小さいこの男の子は、とかく生意気な言葉を使いたがるお姉さんたちにとりかこまれているのである。
「パパに伺ってごらん」
 夫人は少し当惑して西方氏をふり仰いだ。
「いいねえ?パパ?ねえ?可愛いんだよ、そりゃあ」
「うん、ノン坊が自分で世話するのならいいだろう。ママに手をかけさせなけりゃいいとしておこう。―どうもノン君は脅迫的だよ」
 お許しが出て有頂天になっている信雄には、パパの最後の言葉が聞えるはずもなかった。文字通り脱兎のごとく走り去ると、勝手口であきさんと争う声が響き、誰も止める暇もなく、クンクンという泥だらけの仔犬を抱いて、眼を光らせて食堂に帰ってきた。
「まあ、可愛い!」
「おお、きたない」
 お箸を捨てて振りむく少女たちが口々に批評をする。
「ノンちゃん、お食事がすんでからでしょう、そんなことをするのは、さ、お庭にはなしておいてご飯をいただいてしまいましょう」
 夫人の言葉に、しぶしぶ仔犬をヴェランダの隅に据えて、信雄は食事に戻ってきたが、その目は絶えず仔犬の方にそそがれて、まるで雨のようにナプキンに御飯粒をこぼしても気がつかずにいる。
「まあ、お兄ちゃまはお行儀の悪いこと、こんなにゴハンツブをこぼしたりして」
 詩子ちゃんが一人ごちして、さっさと席を立ち、何をするのかといぶかっている皆の前に、台所から、大きな猫を抱いて帰って来た。



「やれやれ、何が始まるのかね、詩子、御飯を食べてからにしてくれな」
 パパの言葉をさえぎるように詩子は言った。
「間に合わなくなるのよ、さ、チロチャンお兄ちゃまのゴハンツブをお掃除しな」
 詩子はそう言うと、猫のチロチャンはさっそくこぼれた御飯をペロペロと舐めだした。
「なーる」
 万里子が大袈裟に感心して唸ると、
「おおブルブル」
 ルツ子は本当に身ぶるいして、大いそぎで御飯を済ませ、
「かしこいや」
 横ブは感心して頷いた。
 食事を済ませた香澄、ルツ子、汀子はさっそくどろんこの仔犬をとりまいて興じている。
「ちょっと、愛嬌のある目をしているじゃない?」
 ルツ子がうれしそうな声を立てると、
「ノンちゃんそっくりの―」
 と香澄が言ったので皆笑いだした。
「あら、尾ッポがないわ」
「汀子が頓狂な声をあげる。
「ほんとう!」
「鼻もないわ」
「うそオ!ちゃんとあるわよ」
「あんまり低くて存在が判らないんだわ」
 香澄がそう言って笑った。
「とにかく、長じるとちょっと味のある犬になることはたしかね」
 ルツ子が首をひねってむずかしい声で言う。
「あんまりいじめないでくれよ」
 信雄は気もそぞろで悲鳴に近い声をあげ、ナプキンをつけたままで飛んできた。
 ヴェランダはひとしきり大賑わい。
「犬と猫と、どっちが好き?」
 誰かの出した問いに、
「モチ、犬さ」
「猫よ、きまってる」
「犬よオ、馬鹿にしてるわ」
「猫のほうが利口よ」
 横ブが口を入れる。
「犬のほうが利口にきまってるわ―ほら、リーダーにも出ていたじゃないの、主人のお嬢さんを海から救った犬から、日本の忠犬ハチ公に至るまで、利口という形容詞は犬に限られたものだわ」
 ルツ子が一歩も退かじと論じると、美子が、
「猫は人を見ることを知っているわ、犬は主人なら泥棒でも人殺しでもなつくでしょう?ところがはばかりながら猫は違ってよ。猫はその人格を見てなつくの、決して人格の悪い人にはなつかなくってよ」
 と厳然と言い放った。
「ちょっとちょっと、仔犬さん、風むきが悪くなったわ、あなたしっかり頼むわよ―犬の名誉のために」
 香澄が信雄に抱かれた犬をつつきながら、しみじみ言ったので、皆思わず笑い声を立てた。しかし議論はこれでやめになったわけではない。一方では犬の特性を挙げ、一方では猫の長所を算(かぞ)えてしばらくは夢中である。
「そういうあなたは犬党なの?猫党なの?はっきりきめてちょうだいよ、それによって私の態度もきめるから」
 ルツ子が大真面目で香澄に詰め寄った。
「そりゃ、私ははじめから犬党よ、第一、犬は音楽にとても鋭敏よ、ショパンに『仔犬のワルツ』という曲があるくらいよ。猫は目ばかり光らせるけどまるでだめじゃないの」
 香澄の説にルツ子は手を叩いて叫んだ。
「ヒヤヒヤ!」
「そ、そんなことあるものですか。馬鹿にしちゃ困るわ、第一、猫はねずみを取りますよ、フィッティングトンのお話にあるじゃないの、一匹の猫のおかげで、ねずみのために滅びそうになった国が助かったって」
 万里子が躍起となって、弁じると、ルツ子はその方を睨んで、
「さてはマリボもわが敵だな」
「それに、それに猫はねずみを取ったって猟はできないよ、羊の番だって出来ないよオだ」
 仔犬に膝を泥だらけにされながら、信雄は興奮して、真っ紅な顔を力ませて言った。
「だって、犬はねずみが取れないし、そうしたら、お台所でよねさんが困るわよオだ」
 たった一人、まだ食事が済まない詩子が、いつもに似げなく大きな声でやりかえした。
「詩子ちゃんでかしたり!」
 万里子がよろこんで膝の上のチロチャンを叩いたので、猫は吃驚して逃げていってしまった。
 ルツ子は美子がいないのをいい幸いと、
「美(ヨツ)ちゃんの家の猫ってね、ペルシヤ猫で眼が金と銀だっていうけど、気味が悪いよオ、片眼ずつ色が違ってね、こう、人を見る時、ギロリギロリと光って、うう気味が悪い」
 ちょうどその時、逃げ出したチロチャンを抱いて入ってきた美子が、ルツ子の話を聞きかじって、つんとして、
「いいわよ」
と言った。二人の様子があまり面白かったので、猫党も犬党も、思わず一緒に笑いだして、すっかり議論も喧嘩も吹き飛んでしまったのだった。
「ああ、やっと終局か―やれやれいつまでかかるかと気をもんだよ」
 突然、西方氏の次低音(バリトン)が響いた。
「ノンちゃん、その泥を洗っておやり」
 西方夫人がこう言うと、
「名前をつけてからにしようよ」
 と信雄。
「ピチャンがいいわ」
 ゆっくりと、ぽっつりと詩子がパパの膝から声をかけた。
「ピチャン?!」
 皆、その意味をとりかねて異口同音に―。
「そら、鼻ピチャンだからさ」
 と詩子はなんでもなさそうに答えた。
 またも皆の笑い声。
「傑作」
「詩子ちゃんてユーモリストねえ!」
 皆感心してしまった。
「チェッ、まあいいやね、だけど。さあ来い、ピチャン」
 犬党が三、四人、信雄と一緒にどかどかと部屋を去っていった。
「どうして、こんなつまらないことに、ああ熱中して論じ合えるのかしら」
 部屋の隅で今夜も教科書を開いている弥生が、こう呟いて自問自答していた。
「面白いじゃないの?」
 と汀子が遠慮がちに答えた。
「そうかしら?」
 弥生にも、面白くないでもなかった。しかし、それを素直に面白いと思うことは彼女の自尊心を傷つけることになるのだろう。
「人間は、面白いことだの無駄が言えるくらいでいいんだと思うわ」
 美子が、やや考え深げに言った。
「でも、皆さんのはその分子が多すぎる」
 弥生はすぐに言いかえした。
 西方夫人は、なるほどと思って微笑した。
「それでいいのよ、真面目な時は真面目に考えるもの、いつもいつもそんなに堅くなっていたら人間の心はこちこちになっちまう」
 横ブが口を入れた。弥生はもう黙って本に目を走らせていた。
 信雄も詩子も寝かされた。西方氏は書斎に引っ込んだ。ピチャンも新しいみかん箱の小屋に「紫苑の園」第一夜の夢を結び、チロチャンは万里子の膝の上に眠った。
 少女たちは荒氏の後の静けさで、夫人の持ってきた靴下の籠から一足ずつ手許に取り、我人の区別もなく、あるいは物思い、あるいは小声に歌い、あるいは語り合いながら、穴や鉤裂きをかがっていた。
 鳩時計が九時を告げた。一時間の仕事はおわって、誰言うともなく、皆ヴェランダに集まった。藤棚の彼方の空にまたたく星が美しかったのである。
 開け放たれた窓から、爽やかな夜風が流れ、萌え出た新緑の芽の香りは、窓辺の少女たちをやわらかにつつんでしまった。星明りに芝生も蒼白く、花壇には、花の群れが地上の星と光り、山吹や桜が、夜目にもあざやかに咲き乱れている。
 少女たちの胸はそれぞれ想いにあふれていた。しかし夫人は少女たちの中で、香澄が言いようもない想いに沈んでいる心をいっぱいにしていることを知っていた。



 誰が歌いだしたともなく、少女たちが好んで夕べに、夜に歌うアブトの『たそがれの唄』がソロから二部に、三部になって、グループいっぱいにひろがっていった。
   夜の帳(とばり) 静かに垂れて
   小鳥は塒(ねぐら)に翼を休めつ
   我等も今ぞ御神の御手(みて)に
   うれしうれし安けき夢路
 皆、よくならされているのでコーラスは、いかにもしっくりとして美しかった。
 そして皆は夫人におやすみを告げ、歌は二階まで続いていった。
   月は仄か 静かに暮れて
   窓の戸静けき平和の夕よ
   我等も今ぞ御神の御手に
   うれしうれし安けき夢路…
「どうしてあんな馬鹿さわぎをしたと思うと、まるで別の人のように、沈みきったような様子をしたりして、―一体アサカって、どういう人なんでしょう」
 弥生の幾分反感を持った一人言を、ルツ子はすぐに引き取った。
「あれが本当のアサカなのよ。子供のようおに心からさわぐこともできて、私たちに想像もつかぬ深い心の持ち主なの」
「私、そのアサカが好きだ」
 と美子と横ブは同じようなことを言い合った。



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