九五 傷口に毒物

自分は飽迄も夫れが熱の為めだと思ったから、
「阿里何故其様(そんな)無理をする、寝て居るんだ、今診察をしてやるから」と、無理に阿里を寝かそうとした。すると阿里は平常(いつ)に似ず自分の云う事を聞かぬ。
「大丈夫だい起たって、彼奴等が何時迄も此処に居るから故意と睡た態(ふり)をして居たんだい」と案外元気である。自分は鳥渡(ちょっと)不思議に思ったが、矢張例(いつも)の負ん気が云わす言だろうと思って、無理から、殆ど叱り飛ばす様にして寝かした上診察すると、熱は有るにはある。非常な、普通の者なら囈言(うわごと)も云い兼ねる程の大熱である。
「これでもお前は大丈夫だと云うのかい」と、自分は抜き取った許りの検温器を阿里に示して「見ろ四十一度五分からあるじゃ無いか、強情も宜加減(いいかげん)にしろ」と叱る様に云った。阿里は此一言にベソをかかぬ許りに凋(しお)れて、
「だって三時頃から見ると、まるで全快(なおっ)たも同様だい」と未だ負惜みを云う。これで三時頃から見ると比較にならぬとすれば、三時頃に於る阿里の容態察す可しである。
「三時頃は其様に悪かったのかい」
「ああ何だかフラフラする様な気がすると思ったら階段(はしご)の処に倒れて居たんだ、それでも其前に金庫の鍵を猿股の中に蔵(しま)って置いたから宜かったが、然うで無いと悪人の為めにすんでに盗られる処だったい。今となって考えると悪人奴己等(おいら)から鍵を盗ろうと思って、それで足に変な薬を塗って呉(くれ)たんだ」と鍵を出して自分に渡すのである。実に意外な事を聞くものである。蘭田に金庫の鍵を盗まれまいと思って、それを猿股の中に蔵って置くなどと云う処は何処迄も阿里式であるが、飽迄も夫れを盗らんが為め阿里の傷口に毒物を塗るとは、実に聞捨て難い処である。
「阿里夫れは真実(ほんとう)かい」と聞くと、
「ああ、だって夫れから急に変な気持になったんだもの」と阿里は判然(はっきり)答える。して見れば最早蘭田が阿里の傷口に何物かを塗ったと云う事は疑う処は無いのだが、併し其毒物が果して阿里が云う如く毒物であるか否やは医者と云う立場から何うでも一度顕微鏡で血清を検査した上で無ければ断言が出来ぬ。兎も角も万事は明日の事と独り頷いた自分は、
「宜し宜し、己が敵をとってやるから、ようく今夜は寝て早く全快(なお)る工夫をするんだ」と嚙んで含める様に云い聞かして、更に阿里に睡眠剤の頓服(とんぷく)を与えてやった。疲れ切って居る身体と云い、殊に日頃薬嫌いの阿里であるから、随って薬の効果は面白い程即座に現われる。斯くて二十分許りの後には今度こそは真実にぐっすり寝込んで仕舞った様である。
睡って仕舞いさえすればもう此方(こっち)のものである。此種類の病気は充分睡眠さえ採れば、従って熱も自然と下るのだから、自分は一先(ひとまず)安堵の胸を撫で下ろして室外に出た。而して静かに階段を下り、入口の扉(ドア)に錠を下ろした後、直に三階の自分の室に帰ろうと思ったが、併し考えて見れば何を云うにも阿里は彼の通りの身体である。頑健(たっしゃ)な身体は薬の効(きく)のも早いが覚めるのも早い、して見れば若し万一夜中にでもなって目を醒まされた日には何にもならぬと考え、再び阿里の室に引返した。時計を見れば既に夜の十一時半である。
「宜し今夜は徹夜(よあかし)だ」と傍(かたえ)のソファーに横になって其日の夕刊を読み初めたが、気は慥(たしか)な様でも日中散々諸方を駈ずり廻った事であるから、何時睡るとは無しに自分はウトウトとなった。斯うして自分は凡そ幾時間仮睡(うたたね)したか知れぬが、其中に急に喫驚(びっくり)して眼を覚さねばならなかったと云うのは、自分の頭の上に当ってけたたましい物音が聞こえたからである。
九六 一条の縄梯子
唐突(だしぬけ)に頭の上で起ったけたたましい物音、自分は直にそれが、三階の書斎に据えつけてある金庫の電鈴(ベル)の音な事を知った。
読者に断って置くのを忘れて居たが、自分が此館に引移ると同時に、姫から借用してある金庫と云うのは、玻璃島家の先代直文伯が、秘密書類を入れて置く為めに、ワザワザ外国から取寄せた当時の最新式金庫で、今日でもあまり世間に類の無い、若し符号を知らざる者が之を開けようとして把手(ハンドル)に手を掛けたが最後、金庫の内部に仕掛けてある電鈴が、けたたましく一時に鳴出すと云う組織(しくみ)になって居るものである。斯うした金庫の電鈴(ベル)が急に鳴り出したので、自分の眠ってる暇に、何者か三階の書斎に忍び込み、而して其室にある金庫を開けんとしてる事は最早疑いを容れぬのだ。喫驚して飛び起きると、邸内には盛んに犬が吠えて居る、愈以て唯事で無い。自分は卓子(テーブル)の抽出(ひきだし)を探って短銃(ピストル)を取り出した、而して短銃(ピストル)を片手に密(そっ)と廊下に出た、廊下から三階の書斎迄は可成(かなり)の道程がある、自分としては此場合、出来る事ならば一足飛びにも駆け昇り度いのであったが、それが出来なかったと云うのは一つは是れが為め、折角眠についた阿里の眼覚むる事を恐れたのと、更に最一つ若し其為めに曲者を逃がす様な事があってはならぬと思うたからだ。
併し此折角の注意も結局は無益であった、勿論阿里は幸いにして此の騒ぎにも眼を覚まさなんだが、一方三階に忍び込んだ曲者は、自分が漸く書斎に辿り着いて電灯を捻った時は既に影も形も止めず、只徒(いたず)らに窓から庭へ垂れた一条の縄梯子を見るに過ぎなかった。
自分は備付の室内電話を以て、早速此旨を本館に報らせると同時に、仔細に室内を検査したが、すると曲者は余程慌てたと見えて、金庫の下の絨毯の上には、頗る精巧に出来て居る西洋眼灯(ブルスアイス)も放り出してあれば、瓦斯(ガス)や其他の薬品を入れた二個の共口(ともぐち)の瓶も転がって居る、就中(とりわけ)自分の注目を引いたのは同じく其処に残して行った酸水素吹管(さんすいそすいかん)で、夫れを使用して居る処から見れば、曲者は確かに化学の智識に飛んだ者に相違無い。乃(そこ)で金庫はと見れば、中味は何うやら無事らしいが併も鋲(びょう)の中の或物は大半抜き取られ、冷鋼鉄板を通して三分の一吋(インチ)程の穴が明けられてある、惟うに金庫の把手(ハンドル)の処迄仕事が運んだ時に、急に内部(なか)の電鈴(ベル)が鳴り出したので、それに喫驚した曲者は慌てて縄梯子を伝うて逃去ったものらしい。其中に表の入口の方で大勢の足音が聞こえたので急ぎ階下(した)へ降りて扉(ドア)を開けると、電話の報せに駆けつけた室伏家令や宮沼老人、扨ては渥美女史等である、殊に不思議な事には其中には蘭田の顔も入って居た。
是等の人々は自分の姿を見るなり交る交る其様子を質ねる、自分は是れに対して出来るだけ詳しく実状を物語り一刻も早く警察に報せる様にと云うと、気の早い宮沼老人は此処に来しなに電話をかえたから、追付け警官の出張を見るだろうとの事だ、やがて間も無く警官の一隊が駈つける、自分の報告を聞くと等しく取り敢ず警察犬を連れて恰(あま)ねく邸内を捜査し始めたが、曲者が遠に逃去った後と見えて何等別に得る処は無い、乃(そこ)で今度は三階に案内すると、彼等は此室でも数十分に瓦(わた)りて、頗る綿密なる調査をしたが、矢張何の発見する処が無かった、唯僅に辛うじて知り得たのは、金庫の表に指紋を印して無い処から、曲者は必ず手套(てぶくろ)をはめて居たと云う事と、前後の事情から推して曲者の忍び込んだのは、電鈴(ベル)の鳴る一時間前だと云う二点だけである。警官はやがて曲者の遺留品を持って引上げる、自分等もそれを送って本館の前まで行ったが、すると不思議や何処(いずこ)とも無く近く自働車の響音(ひびき)が聞こえる、「ハア」と自分は小首を捻った。

九七 血清の検査
これが日中かさも無くば、夜にもせよ十二時前ならば知らぬ事、此の真夜中に併も場所(ところ)は郡部の中渋谷である。事に場合が場合であるから、妙に自分は気になって室伏家令を見ると、室伏家令も矢張り気になるかして、同じく耳を聳(そばだ)てて居たが、
「矢張自働車だ、何の為に今頃…」と呟く様に警官に云った。
「そうですね」と警官の一人も怪しく思うたか首を傾げて「兎も角も一つ電話を拝借して心当りの派出所に聞いて見ましょう」と、それから玄関側の電話室に引返して附近の派出所に問合わせる様子であったが、暫くすると戻って来て、
「不思議な事には中渋谷の派出所は、孰れも自働車の通過したのを見かけないと云う事です、孰れ署に帰った上でよく取調べまして」と云い残して、其儘サッサと引揚げるのであった。夜明けには未だ余程時間が有る事とて、自分は一同に別れて、岡の上の図書室に戻ったが、阿里の室に入って見ると、睡眠剤の効果は恐ろしいもので、阿里は未だぐっすり熟睡した儘醒めようともせぬ。
此分ならばと先ず安心と、自分は再び三階の書斎に引返して寝台(とこ)に入ったが、一度いら立った神経は容易に沈まらぬ、従って却々眠られそうも無い。殊にもう二三日で新年を迎えようと云う十二月末の真夜中過ぎた其寒さと云ったら、一通りで無い。乃(そこ)で自分は床の中を抜出して、傍の瓦斯暖炉(ガスストーブ)に焚きつけた。斯うして暖を取り乍ら夜明迄考え明そうと思ったからである。蜂部の事も考えれば、糊谷老人の事も考える。就中(とりわけ)瑠璃子の事を多く考えたのは云う迄も無いが、夫れにも増して絶えず自分の頭脳を支配したのは今宵忍び込んだ曲者の事であった。
曲者の忍び込んだ第一の目的は、前後の事情に微(てら)して、金庫の中の古銅器にある事は知れ切った事であるが、夫れにしても不思議でならないのは、何故に人々が斯く此のつまらない古銅器に注目するかである、蜂部は勿論、阿里の話の様子では姫までも何うやら頻りに、自分が預かって居る古銅器を覘(ねら)って居るらしい、而して今夜の曲者と云い…して見れば其中には余程重大な或物が秘(かく)されて居る様に思われる。自分は金庫の中から例の古銅器を取出して、今更の様に夫れを眺めたが、何時見た処で何の変った処の無い、依然たる平凡な詰らない古銅器である。
一層打割って内部(なか)の秘密を検(しら)べてやろうかとも思ったが、併し考える迄も無く糊谷老人の遺書(てがみ)には来年の三月一日に是れを受取りに来る者があると書いてあったから、つまり自分は単にそれ迄一事保管を頼まれたのみに止まるのだ、して見れば自分には之を開くだけの権利が無い。況して古銅器に添えてある埃及紙(パピルス)の呪語(のろいことば)、それで無くてさえ此古銅器を預って以来、自分の周囲(みのまわり)は頻々として災難が起って来る様な気がする、開いたら最後如何(どん)な災害に襲われるかと思うと、敢て担ぐ訳では無いが思い切って夫れを打割るだけの勇気も無かった、斯様(こんな)事を考えて来ると、何だか急に古銅器を保管して居る事さえが気になって来る、一刻も早く其受取人と云うのが現われると宜いと、小児(こども)の様な考えも起して見たが。併し泣こうが笑おうが、三月一日迄は否が応でも保管せねばならぬのである。災難の来る来ないは別問題としても、第一斯う是れを覘う者が多くなっては、保管の方法から考えねばならぬ。思えば自分乍ら厄介千万な物を依頼(たのま)れたものであるが、併し頼まれた以上致し方は無い、受取人の来る迄一層中央金庫に保管をしようと思案を定めて、夜が明ると早々これを実行する事にした。
斯うして置けば古銅器の方は心配は無いが、唯心配なのは阿里の病気である、兎も角も一応今日は血清の検査をして見ようと、中央金庫からの帰途(かえりみち)に、夫れに必要な薬品四五種迄買集め、漸く邸に帰ったのは彼是朝の九時頃であった。
九八 毒虫の毒液
邸へ帰るなり取敢えず自分は、室伏家令迄此一両日阿里(アリー)の介抱の為めに勢い姫の診察を怠る事となる可き旨を答え、序(ついで)に渥美女史に食事を図書室迄運んで貰う様依頼して、それから漸く阿里の病気を見舞ってやった、自分が入って行くと、阿里は既に眼覚めたものらしく、寝台の上に胡坐をかいて居たが、自分の姿を見るなり慌てて毛布の中に潜込んだ。
「阿里、また起きてるね、何故然う私(おれ)の云う事を諾(き)かないんだ」小言を云うのでは無いが、遂斯様様子を見ると小言も云い度くなって来る。
「ええ、だって」と阿里は顔の半分を毛布の中から出して
「だって先生今日はすっかり宜いんだよ、もう全快(なおっ)て仕舞ったい」と相変らず負惜みを云う。
「其様事があるもんか、私の宜いと云う迄寝てるんだ」と阿里の身体を案ずればこそ、斯う自分は頭から阿里を叱り飛ばした、阿里は一言も無く強縮してベソをかいて居る、自分は其様子を見て一入(ひとしお)可愛そうでならなかったが、併し今が肝心の場合だから、何処までも笑顔を見せる事をせず、それから例の如く診察に取り掛ったが、昨夜一晩熟睡した故(せい)か、余程容体を見直して居る。
「何うだ先生、もう全快(なおっ)たろう」と又しても阿里が口を出す。
「何うか解るもんか」と自分は言下にそれを刎(はね)飛ばして「血を取って検査せぬ中は解りゃしないんだ」とキッパリ云った。
これは阿里の負惜みを利用して、用意に血液を絞る事を承知させ様と云う、云わば自分の計略である、すると果して阿里はこの計略にかかった。
「じゃ血を検査さえすれば直ぐ全快るかい」
「ウム全快るとも、直ぐ全快る」
「そんなら訳は無いやじゃ、早く取って呉れ、それとも己れが取ろうか」
「いいやお前では駄目だ、今支度をしてからだ、而して私が取ってやる」と自分は逸(はや)りに逸る阿里を制して血清検査に必要なる諸般(もろもろ)の準備(したく)を整えた。
「さァ腕を出せ、痛いぞ」と自分は小刀(メス)を握って阿里を睨んだ。
「痛い、何ッ糞ッ」と阿里は右手(めて)をニュッと自分の前に突き出して「さァ先生血をとって呉れ、まさか腕が無くなるんじゃあるまい」と何処迄も負惜みが強い。やがて小刀(メス)がキラリと光る。赤銅色(しゃくどういろ)の阿里の腕からは、見るも鮮かな血汐がボタボタと垂れる、自分はそれを玻璃(ガラス)板に受終るなり、予て用意して置いた繃帯で傷所(きずしょ)をクルクルと結えてやった。
「もう済んだのかい何の事だ」と阿里は呆れたと云う顔で
「じゃもう起きても宜いだろう」と又起きようとする。
「黙ってろ、検査してから決まるんだ」
と再び阿里を叱り飛ばして、自分は玻璃板に受けた血液を顕微鏡の下に持って行った。自分の眼に合う様、顕微鏡の角度は前になおして置いたから、検査は苦も無く行われた。すると驚くべし阿里の血球中には、自分がもしやと気遣って居た、恐る可き毒素がありありと発見せらるるのである、而(しか)して其の毒素も普通世間に有りふれた、植物性のものでも無ければまた鉱物から採った毒素でも無い、慥(たしか)に或毒虫の毒液から採った、真に恐るべき毒素である。
尚お念の為に、自分は更に用意して置いた一種の薬物を其血球の中に投じた、すると直に反応が現われて、愈(いよいよ)自分の想像が適中(あたっ)た事を証拠だてるのみだ、而しこれと同時に自分は今更の様に阿里の体力の強壮なるに驚いた、と云うのは、是れが普通の人間ならば其血球中に、これだけの毒素を含んでる様では、到底此夜の人で無いからだ、勿論それと云うのは、一つは台湾に於て毒虫の採集中、知らず知らず毒虫の為に嚙まれて自然に免疫されてる故もあるだろうが、兎に角阿里の体質で無ければ出来ぬ事だ。
「ウーム」と呻ったきり、あまりの怖ろしさに自分は暫時は言(ことば)も出なかった。
九九 愛嬌たっぷり
斯くて阿里の病気は普通の破傷風では無く、何者かの為めに怖る可(べき)動物性の毒素を其血液中に注入(そそぎい)れられたものだと云う事が解った。併し幸いな事には自分は予て、毒虫の研究をして居た処から、万一の場合を慮(おもんばか)って、自分の考案から成った一種の抗毒素を造って置いたから、早速それを阿里に注射する事にいsた。
素々体質(からだ)の健全(じょうぶ)な処へ持て来て、此の新式の抗毒素を注射したのだから、効能(ききめ)は面白い程早く顕(あら)われて、さしもの重病も雑煮を祝う頃には拭い去った様に全快して仕舞った、阿里は頻りに讐(かたき)を討とうと云って自分に強請(せがむ)が、見す見す夫れは蘭田の仕業と解って居ても、別に確とした証拠も無いから何うする訳にも往かぬ。自分は其都度阿里を矯(たしな)努めて其事を忘れさせようとした、其中に日は遠慮なくズンズン過(た)って、愈松も除(と)れた、すると珍しくも姫から、日頃精勤(?)の御褒美として、其日の夕方から三日間の暇が出た。
斯うなって来ると先ず蘭田の事や乃至(ないし)阿里の事を考えるよりは真先きに瑠璃子の事を思い出してくる、瑠璃子と云えば瑠璃子親子は、昨今(さくねん)の冬一の宮旅館(ホテル)から吸い取られた様に姿を消した儘である、それから彼是廿日(はつか)許りになるのだが、未だ自分には何の音沙汰も無い、自分は此機会を利用して御殿山の宅を訪ねて見ようと思ったが、考えて見ると蜂部にしろ、また瑠璃子にしろ、御殿山の宅に帰って来て居れば自分に知らせずに居る筈は無いから、便りの無い処を見れば未だ東京に帰って来ないのかも知れないと急に思い返す時、フト胸に浮んだのは糟場夫人である。
「然うだ糟場夫人を訪ねて見よう、したら或は蜂部等の行方が判るかも知れない」と斯う思って、自分は早速邸を出て電車に乗った、何となれば蜂部の云う様に、糟場夫人が蜂部の敵なれば無論の事、また自分の想像の如く友人関係だとすれば猶更、孰(いずれ)にしても夫人が蜂部親子の行方を知らぬ筈は無いと考えたからである邸を出た時は曇って居たが向こうに着いた時は月が出て居た、時計を見ると何時の間にやら九時を過ぎている、電鈴(ベル)を押して案内を乞うと。出て来たのは例の標札の主なる真の織山藤枝嬢である。「夫人は」と聞くと「不在です」と答える「行先は」と問うと「判りません」と云うのだ、前回と違って愛想気の無い事夥(おびただ)しい。
自分は例の癇癪を起りかけたが、併し斯んな女と争うた処で仕様が無いと思ったから夫人が帰ったら自分が訪ねた旨伝えて呉れる様伝言(ことづて)を頼んで其処を辞した、而して笠森稲荷の前迄来たが扨(さ)てこれから何処に行ったものかに付いては、鳥渡(ちょっと)思案せねばならなかった、勿論此儘邸に引返せば阿里も喜べば、姫も喜ぶ、阿里の喜ぶのは構わぬが、姫に喜ばれるのは自分には何より情無い、併も折角貰った三日の暇である、何処に泊ったもので有ろうと暫時考えたが、其中に思い出したのは先日の洋食屋の事である。
「兎も角も何か温かい料理を喰べた上で」と、斯う独言(ひとりごと)して、再び元来し道を引返すと幸い未だ洋食屋が起きて居た。硝子戸を開けて室内に入ると、奥から飛び出したのは先日の主人(あるじ)である。
「オヤお珍しい、正月早々御年賀のお帰りですか」と相変らず愛嬌たっぷりである。
「イヤ然う云う理由(わけ)でも無いが」と自分は有合う椅子に腰を下ろして、
「君の処の生麦酒(ビール)を飲もうと思ってね」と、半ば冗談らしく云った。すると主人も同じく声高に笑って、
「ハハハ然う旦那の様に仰ゃられると、遂料理も勉強したくなって来ますよ…処で何様(どんな)料理(もの)を差上ましょう、何(ど)の道糟場夫人の御手料理を召上った後ではお口に合う筈はありませんが…」
「処が大違い、夫人が留守だと云うのでね」
「夫人がお留守ですって、其様事はありゃあしません、だって私ゃ現に先刻お見受けしたんですもの」

一〇〇 怪しき自働車
「だって今訪ねたら織山とか云う女が、夫人は留守だと云ったぜ」と云う、皆まで云わせず主人は急に笑い出して、
「ハハハハじゃ旦那は体よく居留守を使われたんだ、十日許り前の霙(みぞれ)の降った晩帰って来た筈ですもの」十日許り前の霙の降った晩と云えば、彼の自分の書斎に何者か忍び込んだ晩の事である。
「真実(まったく)かい」と自分は念を押した。
「ええ真実(まったく)ですとも」と主人は確信あるものの様に頷いて
「運転手が然う云って居りましたから間違いは有りませんや、何でも其晩は徹夜(よっぴて)自働車に乗廻されて、彼様(あんな)弱らされた事は無いと云ってましたぜ」
「徹夜、夫人がかい」
「ええ、夫人と其外に、顔は見えなかったが、もう一人妙な紳士と二人だったそうで、中渋谷から千駄ヶ谷にかけて、一晩中何用あると云う事はなしに乗廻されたと云う事でしたよ」
実に不思議な事を聞くものである、其夜警官の一隊を本館(おもや)の前迄送り出した時に、自分も室伏家令も、近く怪しき自働車の響音(ひびき)を聞いたので、其時警官を煩わして附近の派出所に問合せて貰うと、其返辞は孰(いず)れも自働車の通過を目撃(みとめ)なかったと云うのであった事は、読者も既に知ってる筈だ。然るに今此家の主人の話に拠れば、其晩糟場夫人が怪しき紳士と同乗して、徹夜中渋谷から千駄ヶ谷の附近を自働車で乗廻したと云う事である。して見れば慥かに玻璃島家の近所も乗廻ったものに違いは無くまた自分等(たち)の聞いた自働車の響音(ひびき)も或は夫人の乗ったものだったかも知れぬ。唯何の為に乗廻したものかは解らぬが、自分には妙にそれが、自分の書斎に忍込んだ曲者に関係がある様に思われてならなかった。
此様事を考えて居る中に、誂えた料理も出来上れば、注文した酒も来る。相手欲しやの自分は主人を相手に盛んに飲みもすれば、盛んに喰いもした。それで無くてさえ饒舌(おしゃべり)の主人は、酔が廻ると共に舌も滑らかになって来て、其翌日を初めとして、今日迄都合三四度程大阪訛の紳士が糟場夫人を訪ねて来た事、而して其紳士が何うやら探偵らしかったから、其れを恐れて糟場夫人が留守と見せかけるのだろうと云った様な、種々(いろん)な想像まで取交ぜて、残らず自分に物語るのであった。自分は夫の紳士と云うのは必然(てっきり)鳥松刑事だと推察(かんがえ)たので愈(いよいよ)蜂部が夫人の宅に隠れて居る様に思われたから、益(ますます)腰を据えて大に飲んだ。而して其結果酔潰れて、主人(あるじ)夫婦に二階迄担ぎ上げられた様には思ったが、それから後は全く夢現(ゆめうつつ)であった。翌日眼を覚ますと果して自分は昨夜の洋食屋の二階に寝て居た、時計を見ると既に正午(ひる)を過ぎて居る、慌てて飛起きて階下(した)へ行くと、親切な主人夫婦は快く自分の身辺(みのまわり)に世話を焼いて呉れる。遂また腰が据わりそうなので、早速帰ろうとすると、どこ迄も親切な主人は自分が宿酔(ふつかよい)の容子を見てとったか、夕方迄寝て居てはと勧める。遂自分も其気になって再び其処の二階に腰を据える事となったが、而(しか)して邸の事も多少気になるので、電話をかけて阿里を呼び出すと、邸には別に変った事は無いが、瑠璃子から自分へ手紙が来てるとの事である。乃(そこ)で早速それを阿里に読ますと、此手紙の着いた日の夕方大森も八百二番へ電話をかける様にとの事だ、瑠璃子の手紙の届いたのは今朝なそうであるから、して見れば電話をかけるのが今日の夕方な訳だ、自分は何だか死んだ人にでも逢った様な気がして、唯もう夢中になって日の暮るのを待って居た。其中に愈夕方になったので、自分は昨晩以来の勘定に、心許りの茶代を添えて主人に与え、早速洋食屋を出た。而して瑠璃子の事を考え乍ら、何処で電話をかけたものかとぶらぶら山内(さんない)迄来かかった。他(はた)で考えれば洋食屋の電話を使えば宜さそうにも思われるだろうが、誰だって恋人との電話は他人に聞かれ度くないものである。
一〇一 白髭の老紳士
やがて漸く自働電話の側迄来たので、早速電話をかけ様としてると、其途端に下の方から此方を指して上って来る人の足音が聞こえた。見るともなしに其方を見ると、外套の襟を立てた身長高き白髭の老紳士が、少しく屈み勝ちにして急足に坂を上って此方へ来る。夜目には確(しか)と判らぬが、自分には夫れが何うやら鳥松刑事の様に思われた。
電話をかける手を止めて、密(そっ)と息を殺して待って居ると、其前を横切る拍子にチラと見た横顔、自分は此の老紳士が愈鳥松刑事に相違無き事を確かめた。此の老紳士が鳥松刑事だとすれば自分は瑠璃子に電話をかける処に話で無い、其後を附けて行くと、事に依ったら飛んでも無い活劇が見られないものでも無いと考えたから、幸い向うが気付かぬのを宜い事にして、其儘電話室を抜け出し、見え隠れに其後から尾行した。
鳥松刑事は素より然うとは知る由も無い、三縁亭前から右へ折れて寺内を通り抜ける、愈自分の想像が当りそうになって来たから、轟く胸を押鎮めて、尚も自分は其趾に附いて行くと、生憎と急に空が曇って来て、雨さえ少しく振り出して来た、而して笹森稲荷の森まで来ると何時の間にか鳥松刑事の姿を見失った。
「ハテ何処に行ったのか知ら」と、暫時は自分も途方に暮れたが、併し坂下の方へ下りて行く様子も無かったから、必然(てっきり)これは森の中と自分も続いて其中に入った。而してものの十間許りも行くと、突当りは生垣になって居るが、其隙からはよく彼方(むこう)の邸内が見える。覘いて見ると夫れが外ならぬ糟場夫人の宅なのだ。して見れば矢張り自分の見た眼は曇らず、鳥松刑事は自分と同じく、此森の中の何処かに密んで居て、邸内の中の何処かに密んで居て、邸内の様子を覘ってるに相違無い。
斯う思ったから自分も、これは何でも気永に待つに如かずと、有難い木根に腰を掛けて休み乍ら其処に身を忍ばせた。此処からはよく糟場家の食堂が見える、電灯はカンカン点いて居て、仏国(フランス)窓は残らず開放されて居るが、階下の室内には誰も居ない、向うの方では女中共がガチャガチャ皿を洗って居る音がする、多分夕飯が済んで間も無いのであろう、自分は自分乍ら其物好きに呆れつつ、暫時(しばし)其様子を眺めて居た。
すると間も無く其音も止んで、四辺(あたり)は暫く静かになって来る、其拍子に右方の窓が開けられた。見ると現在昨夜迄留守だと云って居た糟場夫人が、窓に向けて据えられてある洋琴(ピアノ)を弾き出したで無いか、曲はワルツらしかった。暫くすると二階の窓が開いて、其処から一人の男が首を出したが、それは自分の僻見(ひがみ)か知らぬが、妙に蘭田の様に思われた。
それから一時間余も経ったかと思う頃料理人(コック)が来て窓を閉め始めたが、夫が済むと今度は灯光(あかり)を消し始めた。時計を見ると十一時半だ。
やがて糟場家の灯光(あかり)はすっかり消されたと覚しく、四辺まで真暗になって仕舞ったが、併し自分は未だ鳥松刑事が森の中に居る様な気がしたので、其儘見動(みじろ)ぎもせず待って居ると、意外意外真暗な糟場家の二階から急に強烈な電光が、窓越しに颯(さっ)と崖下の方へ向けて発射されるのである。一度、二度、三度、消えては光り、光ってはまた消える。それが都合三度まで繰返された、自分は直にそれが糟場夫人の其仲間に対してなす処の一種の信号なる事を知った。愈以て何事か起るに相違無いと、胸を踊らして待って居ると、果してそれから廿分許りの後にシトシトと芝草を踏む足音が聞こえて、森に面した生垣の中の木戸は、音も無く一人の夫人を吐き出した。黒い上着(コート)に黒い肩掛(ショール)、星明に透して見ると紛れも無くそれが糟場夫人である。

一〇二 刻一刻危険が
先刻の信号と云い其服装と云い、自分は一見して夫人が何人かと出会う為に、故意(わざ)と裏木戸から忍出たものと睨んだ。而して何処に行くのかと尚も様子を窺って居ると、やがて木戸に鍵金をかけ終った夫人は、それから生垣に沿うて樅の古木の前を抜け、稲荷の杜前迄行ったが、其処から別に何処へ往く様な様子も無い。
「では彼処で何人か待合すのだな」と思って居ると、やがて五分間許りもしたと思う頃、坂下から此方へ来るらしい人の足音がして、それが鳥居迄来たと思う時分に、厭な低音(ひく)い口笛が聞こえた。蜂部で無くて其口笛の在るじは何人であろう、すると此方でもそれに答える様な口笛を吹く、自分が森の中から樅の木蔭迄忍び寄った時には、既に二人は早何事か相談を始めて居た。自分は樅の枯木にヒタと身を寄せて、只管(ひたすら)其話の内容を聞こうとしたが、社殿(やしろ)を隔てて居る故(せい)か能くは聞こえぬ、否聞こえてもその意味が判然(はっきり)解らなんだ、唯何でも「危険」と云う語が屢(しばしば)二人の間に繰返された様である、而して話の模様では、蜂部が糟場夫人の為めに、頻りに其臆病を責られてる様子だ。するとやがて蜂部の声として、
「いいや臆病でせんのでは無い、此上危険を冒したく無いからだ」と、前よりは稍(やや)判然聞えた。
「危険を冒したくない」と蜂部の言(ことば)を受けた夫人はそれを嘲ける風で、
「左様(そんな)に怖ければ妾が実行(やっ)ても宜いが…併しお前さんも男じゃ無いか大森が都合が悪いのなら、お前さんの都合の宜い処へ連れて行って…」と迄は聞えたが、後は再び聞えなくなった。併し自分は此処まで聞けば充分である、「危険を冒す」と云い「大森」と云い、それが瑠璃子の身の上に拘った事で無くて何で有ろう、話の容子では瑠璃子の身に刻一刻危険が迫りつつあるとしか思われぬ。
然う思って来ると二人の話を窃聞(ぬすみぎ)きしてる処で無い、兎も角も瑠璃子に電話をかけねばと、自分は思わず知らず樅の木蔭を離れかける途端、誰やら後の方から忍び足に此方(こなた)へ来る様子だ。ハッと我に帰って再び樅の陰に隠れた自分は瞳を凝らして其方を見ると、別人ならぬ鳥松刑事だ、鳥松刑事は自分の前を横切って社の後に出ようとするのだ。
眼を転じて蜂部等はと見れば、此時二人は漸く相談を終たか、これも社前を離れて寺内の方へ行く、鳥松刑事は無論其趾を尾行(つけ)る、平常ならば何を措いても其仲間に加わる筈の自分だが、今夜はこれから瑠璃子に電話をかけねばならぬのだから、遺憾乍ら見す見す其仲間外れをせねばならなかった。自分は杜の前に立った儘、暫く其後姿を眺めて居たが、其中に尾行られてる人も尾行てる人も、同じ様に寺内の暗(やみ)に吸込まれて了う。自分は此様子を見届けると同時にそれから早速坂を下りて電車通へ出て、其処から瑠璃子に電話をかけた。彼是れ夜は十二時近いので、未だ起きてるか何うかと思ったが、宜い具合に父の帰りを待つつ起きて居るとの事だ、晩(おそ)くも三十分の後には自働車で会いに行くと云う自分の電話に、非常に喜んだ様子で成可く早く来いとの返辞である、而して蜂部は三日前に旅館(ホテル)を出た限り、今に帰って来ないので、今迄独り寂しく暮して居たと附加えた。
そうと聞いては矢も楯もたまらぬ自分は自働電話を出るなり、其足で自働車屋を叩き起し、早速大森旅館まで貸自働車(タキシー)を急がせた、予定の三十分より五分早く着いたが、それでも向(むこう)に着いたのは十二時過ぎであった。瑠璃子は殆ど手を取らぬ許りにして自分を客間に連れて行って呉れた。暖炉(ストーブ)を焚付けるやら、暖(あった)かい紅茶を入れて呉れるやら、自分の女房でも斯うは出来まいと思う程自分を歓迎して呉れた。
一〇三 不思議な盗賊
一日千秋と云う譬(たとえ)はあるが、自分と瑠璃子との間は丁度それだ、お互に別れ別れとなって居たのはたった二十日余りに過ぎぬが、自分も瑠璃子もそれが何でも二三年も会(あわ)なかった様な気がして、二人の間には夫れから夫れと過(すぎこしかた)夫の話が出る。唯此場合自分として頗る物足ぬ感じがしたのは、自分と瑠璃子との間は依然友人関係に止まって、夫れ以上何等話が進捗しなかった事である。とは云え、これは強(あなが)ち瑠璃子が情知らずだと云うのでは無く、自分が其思いのたけを打明けなかった故(せい)もある、自分は紳士として、死んだ古里村の友人として、瑠璃子の胸に未だ恋人を失うた悲しみの全く消失せぬ中に、自分の思いを打ち明けるのが如何にも後めたく思われたからである。単に自分の胸中を打明るでさえこれだ、他日機会があって打明けた処で、それが果して瑠璃子に容れられるものか何うか、思えば思う程自分は其恋の前途を悲観せぬ訳には行かなかった。だが其様事は気振(けぶり)にも露わさず、自分は表面は何処迄も清い親切な友人として瑠璃子に臨んだ、瑠璃子は素より夫れ以上を自分に希望(のぞ)んで居ないのだから、この親切な自分の態度に満足して、幾度か謝意を述べつつ一の宮以来のいきさつを物語った。それに拠れば矢張其時第一に探偵の来訪に気付いたのは瑠璃子で、夫れと見るなり蜂部に此由を告げ、自分が鳥松刑事に引致せられる中に、急ぎ旅館(ホテル)の裏口から遁れ出て、直ぐに上野行の直行に乗ったとの事である。すると蜂部は一の宮署から下谷署に電話がかけられたろうと云う事を恐れて、途中から土浦行に乗換え、土浦から夜行で水戸に行き、水戸に一週間許り滞在して十日許り前に大森に来たとの事である。自分は其の当時から大方其様事だろうと想像して居たから、此様な瑠璃子の話を聞いても、別に驚きもせねば怪しみもせなんだ、而して瑠璃子の話が終ると同時に、同じく一の宮以来の経過を物語り、警察の訊問の有様から、所持品を残らず引掻き廻されて非常に困った事を話した末。
「イヤ何うした事か昨年東京に帰って来てからは散々です、加之(おまけ)に十日許り前には盗賊(どろぼう)に見舞われる」とウカと過日(すぎし)夜の一件を口走った。すると瑠璃子は非常に驚いた風で、
「では何か大切な物でも…」と頗る心配そうだ。
「イヤ別に盗られたと云う訳でも無いのですが」と自分は其夜の次第を掻抓んで物語り、
「盗賊にしては実に不思議な盗賊です、外にいくらも高価なものが有ったのに、夫れには殆ど目も呉れず金庫の中に入れて置いた古銅器を睨(ねら)ったらしかったのですから」
「古銅器と申しますと」と瑠璃子。
「糊谷老人から預った、何でも老人が澎湖島(ほうことう)の附近から掘出したと云う」と茲迄自分が云いかけると、
「えッ、えッ、ではもしや夫れは砲弾形の…」と、何故か瑠璃子は非常に驚いて顔色を変えた。
「貴女は何うしてそれを」と怪しみ乍ら自分は斯う問うた。
「知ってる処で無い、彼品(あれ)を知らないで」と瑠璃子は矢張唇を顫わし乍ら「彼品は悪魔の壺です、怖ろしい、彼品を持って居る人には怖ろしい災難が来ると云う伝説のある…何故貴方が其様品を…大変ですから早くお捨てなさらんと…」
と、其様子は万更狂言とは思えぬ。
「処が然うは往かんのです」と自分は瑠璃子の語(言葉)遮って
「今云った通り糊谷老人から、三月一日まで保管を頼まれてるのですから…したが貴女は何うしてそれを御存じなのです」
「何うしてって…父が…父から…」と、瑠璃子は僅に斯う云うのみである。
「じゃ蜂部さんが彼品を見て知ってるのですね」
「ええ、而して彼品の中に如何物があると云う事も…」蜂部が古銅器の外形(かたち)を知ってる位なら別に不思議もないが、其中の秘密も知ってると云うに至っては実に意外の新事実である。

一〇四 寂しい微笑
自分はそれから瑠璃子に向って、古銅器の中に秘されて居る秘密や、乃至蜂部が何うしてそれを知ってるかを種々聞質(ききただ)して見たが、瑠璃子は何うしても夫れを云わぬ。
「時機(とき)の来る迄は是非保たねばならぬ秘密ですし、それに妾も詳細(よく)は知らないので御座いますから…強いて申しますと貴方を欺く事になりますから、何卒(どうぞ)それだけは…」
と殆ど泣ぬ計りにして頼むのであった。斯う云われて見ると、自分にしても夫れでもと云う訳には往ない。
「然うですか、じゃ此上無理にお質ねしますまい、三月一日を今から楽みにして待ましょう」と云った。すると瑠璃子は依然下を俯向いた儘、ホーッと太息を洩らして、
「楽みですか苦しみですか、併しそれが聞かれましたら、貴方が今御想像なすって居らっしゃる以上の秘密が顕れますでしょう」と云い終って相変らず寂しい微笑(ほほえみ)を見せた。斯う話が理につんでは、何処まで行っても初めの陽気さには帰らぬ、自分は何うにかして瑠璃子の気を変えようと思ってる中に遂々一夜を談り明かしたと見えて、此時夜は全く明放れた。
乃(そこ)で自分は瑠璃子を誘い出して、朝の海岸を散歩(ぶらつく)ことにした、而して瑠璃子の気を転ずる為めに、故(わざ)と古銅器の話を避けて昨夜芝公園に於る自分の探偵談を物語った。処が今度は前にも増した失敗で、気を変える処が却て、瑠璃子は蜂部の身の上を案じ初めた。
「では若しや父は其鳥松刑事とやらに捕まったので無いでしょうか」と蒼蠅(うるさく)自分に聞くのである。親とは云い乍ら名ばかりの、その実冷淡極まる蜂部を斯くまで瑠璃子は案ずるのである、自分は一方瑠璃子が此可憐(いじら)しい心底(こころね)に同情しつつも一方では其あまりに女らしきに過ぎるのが歯痒くてならんのだ。
「イヤ親子の情としては然うあるべきでしょう、が併し父上は警察の眼で睨んで居る様な事実があったとしたら、父上の事を御考えになるより先ず、貴女は貴女の事を考うべきでは無いでしょうか」と云って遣った。
「ええ、夫れは然うですけど…矢張父は何処までも父で御座いますから…」瑠璃子は依然として却々煮え切らない。自分は何うかして夫れを煮切らせようと考えたが、此時フト思い出たのは亡古里村の事である。自分は早速これを利用する事に考えついた。
「併し如何に父上で有ろうと悪い事は矢張悪いのですから…人間は如何なる場合でも第一に自分と云うものを考えて、それから外に及ぼしませんと…現に古里村の如きは」と云いかけて瑠璃子の顔を見た。果然瑠璃子は自分の計略にかかった、而して其顔色は颯と動いた。
「えッ、えッ、古里村さんは何うと仰ゃるのです」と早や其声は顫えて居た。
「イヤ何うと云うのではありません、つまり自分と云う者を第一に考えなかったから彼様(ああ)した死に様をしたと云うのです」
「えッ、じゃ貴女も古里村さんは普通のご病気でお亡くなんなすったので無いと…」
「ええ、夫れならば此様な手紙を死ぬ一二時間前に私に宛て書く筈は無いのですから」と斯う云って自分は隠袋(ポケット)に蔵(しま)ってあった古里村の手紙を瑠璃子に渡した。瑠璃子は古里村の手紙と聞いて、最初(はじめ)は懐かしそうに手にとったが、読み行く中に次第に顔が青ざめて来た。
「何うです、今私の云った事がそれでも理窟がないでしょうか」と自分は瑠璃子の顔を覗き込んだ。
「ええ、全くで御座います、彼方(あのかた)もこれで見ると御自分の事をお考えなさらなかった為めに…無益の事に興味を持れた為に…」と、瑠璃子は更に何事かを語り継んとする時に、急に後方(うしろ)で人の自分等を呼ぶ声がする。両人(ふたり)は話を止めて其の方を振返った。
一〇五 私と云う保護者
振返って見ると、其れは旅館(ホテル)の給仕(ボーイ)が、蜂部から瑠璃子に宛てた電報を持って来たのであった。開いて見ると意外にも、蜂部は既に御殿山の本宅に帰って居るから、瑠璃子にも至急帰って来いと云うのである。今の今迄若しや鳥松刑事の為めに捕まえられたので無いかと心配して居たのであるから、瑠璃子の喜びは一通りで無い、早速旅館に引返して朝餐(あさめし)を喫(したた)め一緒に東京に帰ろうと云い出した。自分とても素より依存のあるべき筈は無いから、旅館に帰るなり自働車を呼んで貰う事にして、其中に朝餐も済せば荷物の整理もした、而して瑠璃子が着物を着更えて終った頃漸く自働車が来たので、両人(ふたり)は愈東京に引き返す事となった。
自分は其恋人として同乗して帰るのだから斯様嬉しい事は無い筈だが、併し考えてみれば然う喜んで居られぬ、と云うのは瑠璃子の身に漸く危険が迫りつつあるからだ、昨夜蜂部と糟場夫人との間に行われた密談が、果して瑠璃子の身に関った事だとすれば、、斯うして東京に近づくと云う事は、一歩一歩瑠璃子が危険に近づきつつある道理となるのだ、自分は何うにかして瑠璃子を救いたいと思ったが矢張何うとも出来ぬ、情無い事には瑠璃子は蜂部の様な悪人でも、矢張世間並の自愛に富んだ父と思ってるから何うとも出来ぬ。斯う思い乍ら自分は密(そっ)と瑠璃子の方を見ると、瑠璃子も矢張り何事か考えに耽って居る。
「大変お考えですね―古里村の事ですか」と聞くと。
「ええ」と瑠璃子は莞爾(にっこり)して「だって彼方(あのかた)が、何の為に父の戸棚が怪しいと云い出したのか、それが妾に分からないんですもの」
「さァ、併し貴女程蜂部さんの秘密を御存知の癖にそれが判らんと云う筈は無いと思いますが」自分は斯う再び蜂部の秘密を瑠璃子から釣り出そうとしたが矢張今度も魚は鉤(はり)にかからぬ。
「ホホホホまた父の秘密を妾(わたし)の口から聞こうとなさるのね」と笑ったが瑠璃子は急に真面目になって「如何程彼の方の死んだのが口惜しいからと云うて、夫れが為に父の秘密を訐(あば)くと云う事は…若し彼の方の死んだのが、幾分妾達に関係がありますのなら、やがて妾も同様な運命に陥るので御座いましょう、夫れでも妾は甘んじて、父の秘密をお墓の中に持って行きますわ」斯う云った瑠璃子の眼には充満(いっぱい)涙が溜まって居た。自分も此の可憐(いじ)らしい様子を見ては、其の上追窮する気にもなれない、却てそれを励ます様に、
「ハハハハ馬鹿に陰気な事を云い出しましたね、真(しか)し今度は私と云う保護者が就いて居ますよ、勿論あまり頼みにならんかも知れませんがね」と半(なかば)冗談に云った。
「全くね」と瑠璃子も笑って「だけど一の宮旅館(ホテル)でのお手並では随分怪しいものね、幸いある時は妾は鳥松刑事の顔を知って居たから宜かった様なものの…」これには自分も一言も無かった、自分が頭を抱えて笑えば、瑠璃子も同じく真(しん)から可笑しい様に笑う、斯うして二人は笑って居る中に、何時しか自働車(くるま)は御殿山なる蜂部家の玄関に横着(よこづけ)にされた。
自働車の音を聞いて家内(うち)から蜂部が飛び出して来た、自分の姿を見て鳥渡(ちょっと)変な顔をしたが、何と思ったか急に何時に無い上機嫌で、殆ど手を取らぬ許りにして二人を食堂に案内するのだ。自分等三人は少し時間は早いが、夫れから共に食卓を囲んで昼餐(ひるめし)を食う事になった、処が何故か食事の間にも、蜂部跛瑠璃子の顔を眺めては顔色が悪いと云って心配する、それが二度も三度も重なったので、自分は堪り兼ねて、
「いいや顔色の点ならば御心配に及ばんです、それは病気の為めでは無く私が古里村の私に宛た最後の手紙の話をしてからです」と思わずウカと口を滑らした。すると今度は蜂部は急に顔色を変えて、
「おや古里村さんの最後の手紙が発見されたと云うのですが、而して夫れには何んな事が書かれてあったんです」と自分に迫るのだ。

一〇六 乗馬の稽古
自分は失敗(しまっ)たとは思ったが後の祭である、併し秘し了(おわ)せるだけ秘して見ようと。
「イヤ別に大した事も…私と郊外に行く約束したのが、急に令嬢と遊びに行くこととなったので取消すと云う違約を詫た僅(だけ)のものでした。ねえ令嬢」と瑠璃子に同意を求める様に斯う云うと、瑠璃子も黙って頷いて見せた。けれども蜂部は却々其様(なかなかそんな)小児(こども)欺しに乗る様な男で無かった。
「イヤ其様事は無い筈だ、屹度私の事に就て何とか書いてあったでしょう、古里村君は私に対して或事から非常に悪感情を懐いて居た筈でしたから」
「イヤ決して其様事は…」
「飽迄も無いと云うのですか、では貴方の言(ことば)を信じましょう、するとハハハハ古里村君は神の様な紳士となる訳ですね」斯う云った蜂部は其儘別に追窮もせず妙な笑いに紛らしたが、其厭な顔と云ったら、未だ自分の眼前に彷彿(ちらつく)ような気がするのである。其中に漸く食事も終えたが、斯う一度気拙(まず)くなって見ると急に素の楽い団欒(まどい)には帰らない。自分は見す見す瑠璃子の危険を自覚(さとり)つつも、結局此家に長居が出来ない事となって来た。
予定の三日にはまだ一日を剰(あま)して居るのだが、瑠璃子の傍に何時までも居る事が出来ぬとすれば邸に帰る外は無い、自分は厭々乍ら蜂部の宅を辞して邸に帰る外は無い、自分に何時までも居る事が出来ぬとすれば邸に帰る外は無い、自分は厭々乍ら蜂部の宅を辞して邸に帰る外は無い、自分は厭々乍ら蜂部の宅を辞して邸に帰った。自働車と違い帰りには山の手電車を利用したので、邸に着いたのは三時過ぎであったが、見ると同時に似合わず姫は玄関の前で乗馬の稽古をしてる、而して其相手は外ならぬ蘭田ともう一人は意外にも阿里である。
「オヤ阿里お前迄、何うしたと云うのだ」と自分が不審がると、姫はヒラリと馬から降りて、
「お帰りなさい、斯様に早くお帰りになるまいと思って居ましたのに」と云う時続いて阿里も蘭田も馬から降りた。
「今日から室伏老人の注意で乗馬の稽古を初めたんです、君がお帰りが無いから止むを得ず私が御相手を仰せつかった訳で」と蘭田は相変らず厭な世辞笑いをする。
「そうですが夫れで阿里もお相手に狩出されたと云う訳ですね」
「ええ」と姫は自分の言(ことば)を引とって「阿里は相手と云うよりは妾の師匠(せんせい)としてお頼したんですのねぇ阿里」
「ああ」と頷ずいた阿里は此時始めて口を開いて「己等(おらア)昨日先生が何が好きかと聞かれたから馬が好きだと云ってやったんだ、すると今度は己等に出来るかと聞くから先生より上手(うま)いと云ったら教えて呉れろと云うんだ、で今日から教えてやる事にしたんだ、ねえ先生宜いだろう」と頗る得意そうである。
「ああ、宜い処で無い」と云ったが、此時自分の胸に浮んだのは姫等の奸策である。奸策と云ったら或は語弊があるか知らんが、兎に角これに依って手っ取り早く云えば、姫は自分の好な道で自分の足を止め様とするのだ。而して序(つい)でに阿里まで懐柔(てなずけ)にかかってるのだ。
斯う思うて来ると自分も思わず苦笑せざるを得なんだが、併し思うて来ると自分も思わず苦笑せざるを得なんだが、併し同じく姫に毎日附纏われるにしても、好きな道なら未だしも我慢が出来ると思ったから、自分も早速賛成して愈其翌日から姫の相手を勤める事となった。勿論斯うして居る間にも、絶えず瑠璃子の事が心配にならぬで無いが、と云って今迄の様に足繁く瑠璃子を訪ねる暇も無し、また有た処でああした関係から蜂部との間が今迄に無く気拙くなったのであるから、それからは日に一度電話で瑠璃子の安否を聞く事にして、夫れで自ら慰める事にした。
斯(こう)した日は二十日余りも続いたが幸い瑠璃子の身には何事も起らなんだ、して見ると矢張蜂部と糟場夫人との密談は外の事であったのかと遂自分の心に油断が生じて来た。而して乗馬を始めてから丁度一月目の朝の如きは例(いつ)に似ず瑠璃子に電話を掛ける事も忘れて姫と遠出に出た。油断、油断、悪魔の乗ずるには此時が最も宜い時である。

自分は飽迄も夫れが熱の為めだと思ったから、
「阿里何故其様(そんな)無理をする、寝て居るんだ、今診察をしてやるから」と、無理に阿里を寝かそうとした。すると阿里は平常(いつ)に似ず自分の云う事を聞かぬ。
「大丈夫だい起たって、彼奴等が何時迄も此処に居るから故意と睡た態(ふり)をして居たんだい」と案外元気である。自分は鳥渡(ちょっと)不思議に思ったが、矢張例(いつも)の負ん気が云わす言だろうと思って、無理から、殆ど叱り飛ばす様にして寝かした上診察すると、熱は有るにはある。非常な、普通の者なら囈言(うわごと)も云い兼ねる程の大熱である。
「これでもお前は大丈夫だと云うのかい」と、自分は抜き取った許りの検温器を阿里に示して「見ろ四十一度五分からあるじゃ無いか、強情も宜加減(いいかげん)にしろ」と叱る様に云った。阿里は此一言にベソをかかぬ許りに凋(しお)れて、
「だって三時頃から見ると、まるで全快(なおっ)たも同様だい」と未だ負惜みを云う。これで三時頃から見ると比較にならぬとすれば、三時頃に於る阿里の容態察す可しである。
「三時頃は其様に悪かったのかい」
「ああ何だかフラフラする様な気がすると思ったら階段(はしご)の処に倒れて居たんだ、それでも其前に金庫の鍵を猿股の中に蔵(しま)って置いたから宜かったが、然うで無いと悪人の為めにすんでに盗られる処だったい。今となって考えると悪人奴己等(おいら)から鍵を盗ろうと思って、それで足に変な薬を塗って呉(くれ)たんだ」と鍵を出して自分に渡すのである。実に意外な事を聞くものである。蘭田に金庫の鍵を盗まれまいと思って、それを猿股の中に蔵って置くなどと云う処は何処迄も阿里式であるが、飽迄も夫れを盗らんが為め阿里の傷口に毒物を塗るとは、実に聞捨て難い処である。
「阿里夫れは真実(ほんとう)かい」と聞くと、
「ああ、だって夫れから急に変な気持になったんだもの」と阿里は判然(はっきり)答える。して見れば最早蘭田が阿里の傷口に何物かを塗ったと云う事は疑う処は無いのだが、併し其毒物が果して阿里が云う如く毒物であるか否やは医者と云う立場から何うでも一度顕微鏡で血清を検査した上で無ければ断言が出来ぬ。兎も角も万事は明日の事と独り頷いた自分は、
「宜し宜し、己が敵をとってやるから、ようく今夜は寝て早く全快(なお)る工夫をするんだ」と嚙んで含める様に云い聞かして、更に阿里に睡眠剤の頓服(とんぷく)を与えてやった。疲れ切って居る身体と云い、殊に日頃薬嫌いの阿里であるから、随って薬の効果は面白い程即座に現われる。斯くて二十分許りの後には今度こそは真実にぐっすり寝込んで仕舞った様である。
睡って仕舞いさえすればもう此方(こっち)のものである。此種類の病気は充分睡眠さえ採れば、従って熱も自然と下るのだから、自分は一先(ひとまず)安堵の胸を撫で下ろして室外に出た。而して静かに階段を下り、入口の扉(ドア)に錠を下ろした後、直に三階の自分の室に帰ろうと思ったが、併し考えて見れば何を云うにも阿里は彼の通りの身体である。頑健(たっしゃ)な身体は薬の効(きく)のも早いが覚めるのも早い、して見れば若し万一夜中にでもなって目を醒まされた日には何にもならぬと考え、再び阿里の室に引返した。時計を見れば既に夜の十一時半である。
「宜し今夜は徹夜(よあかし)だ」と傍(かたえ)のソファーに横になって其日の夕刊を読み初めたが、気は慥(たしか)な様でも日中散々諸方を駈ずり廻った事であるから、何時睡るとは無しに自分はウトウトとなった。斯うして自分は凡そ幾時間仮睡(うたたね)したか知れぬが、其中に急に喫驚(びっくり)して眼を覚さねばならなかったと云うのは、自分の頭の上に当ってけたたましい物音が聞こえたからである。
九六 一条の縄梯子
唐突(だしぬけ)に頭の上で起ったけたたましい物音、自分は直にそれが、三階の書斎に据えつけてある金庫の電鈴(ベル)の音な事を知った。
読者に断って置くのを忘れて居たが、自分が此館に引移ると同時に、姫から借用してある金庫と云うのは、玻璃島家の先代直文伯が、秘密書類を入れて置く為めに、ワザワザ外国から取寄せた当時の最新式金庫で、今日でもあまり世間に類の無い、若し符号を知らざる者が之を開けようとして把手(ハンドル)に手を掛けたが最後、金庫の内部に仕掛けてある電鈴が、けたたましく一時に鳴出すと云う組織(しくみ)になって居るものである。斯うした金庫の電鈴(ベル)が急に鳴り出したので、自分の眠ってる暇に、何者か三階の書斎に忍び込み、而して其室にある金庫を開けんとしてる事は最早疑いを容れぬのだ。喫驚して飛び起きると、邸内には盛んに犬が吠えて居る、愈以て唯事で無い。自分は卓子(テーブル)の抽出(ひきだし)を探って短銃(ピストル)を取り出した、而して短銃(ピストル)を片手に密(そっ)と廊下に出た、廊下から三階の書斎迄は可成(かなり)の道程がある、自分としては此場合、出来る事ならば一足飛びにも駆け昇り度いのであったが、それが出来なかったと云うのは一つは是れが為め、折角眠についた阿里の眼覚むる事を恐れたのと、更に最一つ若し其為めに曲者を逃がす様な事があってはならぬと思うたからだ。
併し此折角の注意も結局は無益であった、勿論阿里は幸いにして此の騒ぎにも眼を覚まさなんだが、一方三階に忍び込んだ曲者は、自分が漸く書斎に辿り着いて電灯を捻った時は既に影も形も止めず、只徒(いたず)らに窓から庭へ垂れた一条の縄梯子を見るに過ぎなかった。
自分は備付の室内電話を以て、早速此旨を本館に報らせると同時に、仔細に室内を検査したが、すると曲者は余程慌てたと見えて、金庫の下の絨毯の上には、頗る精巧に出来て居る西洋眼灯(ブルスアイス)も放り出してあれば、瓦斯(ガス)や其他の薬品を入れた二個の共口(ともぐち)の瓶も転がって居る、就中(とりわけ)自分の注目を引いたのは同じく其処に残して行った酸水素吹管(さんすいそすいかん)で、夫れを使用して居る処から見れば、曲者は確かに化学の智識に飛んだ者に相違無い。乃(そこ)で金庫はと見れば、中味は何うやら無事らしいが併も鋲(びょう)の中の或物は大半抜き取られ、冷鋼鉄板を通して三分の一吋(インチ)程の穴が明けられてある、惟うに金庫の把手(ハンドル)の処迄仕事が運んだ時に、急に内部(なか)の電鈴(ベル)が鳴り出したので、それに喫驚した曲者は慌てて縄梯子を伝うて逃去ったものらしい。其中に表の入口の方で大勢の足音が聞こえたので急ぎ階下(した)へ降りて扉(ドア)を開けると、電話の報せに駆けつけた室伏家令や宮沼老人、扨ては渥美女史等である、殊に不思議な事には其中には蘭田の顔も入って居た。
是等の人々は自分の姿を見るなり交る交る其様子を質ねる、自分は是れに対して出来るだけ詳しく実状を物語り一刻も早く警察に報せる様にと云うと、気の早い宮沼老人は此処に来しなに電話をかえたから、追付け警官の出張を見るだろうとの事だ、やがて間も無く警官の一隊が駈つける、自分の報告を聞くと等しく取り敢ず警察犬を連れて恰(あま)ねく邸内を捜査し始めたが、曲者が遠に逃去った後と見えて何等別に得る処は無い、乃(そこ)で今度は三階に案内すると、彼等は此室でも数十分に瓦(わた)りて、頗る綿密なる調査をしたが、矢張何の発見する処が無かった、唯僅に辛うじて知り得たのは、金庫の表に指紋を印して無い処から、曲者は必ず手套(てぶくろ)をはめて居たと云う事と、前後の事情から推して曲者の忍び込んだのは、電鈴(ベル)の鳴る一時間前だと云う二点だけである。警官はやがて曲者の遺留品を持って引上げる、自分等もそれを送って本館の前まで行ったが、すると不思議や何処(いずこ)とも無く近く自働車の響音(ひびき)が聞こえる、「ハア」と自分は小首を捻った。

九七 血清の検査
これが日中かさも無くば、夜にもせよ十二時前ならば知らぬ事、此の真夜中に併も場所(ところ)は郡部の中渋谷である。事に場合が場合であるから、妙に自分は気になって室伏家令を見ると、室伏家令も矢張り気になるかして、同じく耳を聳(そばだ)てて居たが、
「矢張自働車だ、何の為に今頃…」と呟く様に警官に云った。
「そうですね」と警官の一人も怪しく思うたか首を傾げて「兎も角も一つ電話を拝借して心当りの派出所に聞いて見ましょう」と、それから玄関側の電話室に引返して附近の派出所に問合わせる様子であったが、暫くすると戻って来て、
「不思議な事には中渋谷の派出所は、孰れも自働車の通過したのを見かけないと云う事です、孰れ署に帰った上でよく取調べまして」と云い残して、其儘サッサと引揚げるのであった。夜明けには未だ余程時間が有る事とて、自分は一同に別れて、岡の上の図書室に戻ったが、阿里の室に入って見ると、睡眠剤の効果は恐ろしいもので、阿里は未だぐっすり熟睡した儘醒めようともせぬ。
此分ならばと先ず安心と、自分は再び三階の書斎に引返して寝台(とこ)に入ったが、一度いら立った神経は容易に沈まらぬ、従って却々眠られそうも無い。殊にもう二三日で新年を迎えようと云う十二月末の真夜中過ぎた其寒さと云ったら、一通りで無い。乃(そこ)で自分は床の中を抜出して、傍の瓦斯暖炉(ガスストーブ)に焚きつけた。斯うして暖を取り乍ら夜明迄考え明そうと思ったからである。蜂部の事も考えれば、糊谷老人の事も考える。就中(とりわけ)瑠璃子の事を多く考えたのは云う迄も無いが、夫れにも増して絶えず自分の頭脳を支配したのは今宵忍び込んだ曲者の事であった。
曲者の忍び込んだ第一の目的は、前後の事情に微(てら)して、金庫の中の古銅器にある事は知れ切った事であるが、夫れにしても不思議でならないのは、何故に人々が斯く此のつまらない古銅器に注目するかである、蜂部は勿論、阿里の話の様子では姫までも何うやら頻りに、自分が預かって居る古銅器を覘(ねら)って居るらしい、而して今夜の曲者と云い…して見れば其中には余程重大な或物が秘(かく)されて居る様に思われる。自分は金庫の中から例の古銅器を取出して、今更の様に夫れを眺めたが、何時見た処で何の変った処の無い、依然たる平凡な詰らない古銅器である。
一層打割って内部(なか)の秘密を検(しら)べてやろうかとも思ったが、併し考える迄も無く糊谷老人の遺書(てがみ)には来年の三月一日に是れを受取りに来る者があると書いてあったから、つまり自分は単にそれ迄一事保管を頼まれたのみに止まるのだ、して見れば自分には之を開くだけの権利が無い。況して古銅器に添えてある埃及紙(パピルス)の呪語(のろいことば)、それで無くてさえ此古銅器を預って以来、自分の周囲(みのまわり)は頻々として災難が起って来る様な気がする、開いたら最後如何(どん)な災害に襲われるかと思うと、敢て担ぐ訳では無いが思い切って夫れを打割るだけの勇気も無かった、斯様(こんな)事を考えて来ると、何だか急に古銅器を保管して居る事さえが気になって来る、一刻も早く其受取人と云うのが現われると宜いと、小児(こども)の様な考えも起して見たが。併し泣こうが笑おうが、三月一日迄は否が応でも保管せねばならぬのである。災難の来る来ないは別問題としても、第一斯う是れを覘う者が多くなっては、保管の方法から考えねばならぬ。思えば自分乍ら厄介千万な物を依頼(たのま)れたものであるが、併し頼まれた以上致し方は無い、受取人の来る迄一層中央金庫に保管をしようと思案を定めて、夜が明ると早々これを実行する事にした。
斯うして置けば古銅器の方は心配は無いが、唯心配なのは阿里の病気である、兎も角も一応今日は血清の検査をして見ようと、中央金庫からの帰途(かえりみち)に、夫れに必要な薬品四五種迄買集め、漸く邸に帰ったのは彼是朝の九時頃であった。
九八 毒虫の毒液
邸へ帰るなり取敢えず自分は、室伏家令迄此一両日阿里(アリー)の介抱の為めに勢い姫の診察を怠る事となる可き旨を答え、序(ついで)に渥美女史に食事を図書室迄運んで貰う様依頼して、それから漸く阿里の病気を見舞ってやった、自分が入って行くと、阿里は既に眼覚めたものらしく、寝台の上に胡坐をかいて居たが、自分の姿を見るなり慌てて毛布の中に潜込んだ。
「阿里、また起きてるね、何故然う私(おれ)の云う事を諾(き)かないんだ」小言を云うのでは無いが、遂斯様様子を見ると小言も云い度くなって来る。
「ええ、だって」と阿里は顔の半分を毛布の中から出して
「だって先生今日はすっかり宜いんだよ、もう全快(なおっ)て仕舞ったい」と相変らず負惜みを云う。
「其様事があるもんか、私の宜いと云う迄寝てるんだ」と阿里の身体を案ずればこそ、斯う自分は頭から阿里を叱り飛ばした、阿里は一言も無く強縮してベソをかいて居る、自分は其様子を見て一入(ひとしお)可愛そうでならなかったが、併し今が肝心の場合だから、何処までも笑顔を見せる事をせず、それから例の如く診察に取り掛ったが、昨夜一晩熟睡した故(せい)か、余程容体を見直して居る。
「何うだ先生、もう全快(なおっ)たろう」と又しても阿里が口を出す。
「何うか解るもんか」と自分は言下にそれを刎(はね)飛ばして「血を取って検査せぬ中は解りゃしないんだ」とキッパリ云った。
これは阿里の負惜みを利用して、用意に血液を絞る事を承知させ様と云う、云わば自分の計略である、すると果して阿里はこの計略にかかった。
「じゃ血を検査さえすれば直ぐ全快るかい」
「ウム全快るとも、直ぐ全快る」
「そんなら訳は無いやじゃ、早く取って呉れ、それとも己れが取ろうか」
「いいやお前では駄目だ、今支度をしてからだ、而して私が取ってやる」と自分は逸(はや)りに逸る阿里を制して血清検査に必要なる諸般(もろもろ)の準備(したく)を整えた。
「さァ腕を出せ、痛いぞ」と自分は小刀(メス)を握って阿里を睨んだ。
「痛い、何ッ糞ッ」と阿里は右手(めて)をニュッと自分の前に突き出して「さァ先生血をとって呉れ、まさか腕が無くなるんじゃあるまい」と何処迄も負惜みが強い。やがて小刀(メス)がキラリと光る。赤銅色(しゃくどういろ)の阿里の腕からは、見るも鮮かな血汐がボタボタと垂れる、自分はそれを玻璃(ガラス)板に受終るなり、予て用意して置いた繃帯で傷所(きずしょ)をクルクルと結えてやった。
「もう済んだのかい何の事だ」と阿里は呆れたと云う顔で
「じゃもう起きても宜いだろう」と又起きようとする。
「黙ってろ、検査してから決まるんだ」
と再び阿里を叱り飛ばして、自分は玻璃板に受けた血液を顕微鏡の下に持って行った。自分の眼に合う様、顕微鏡の角度は前になおして置いたから、検査は苦も無く行われた。すると驚くべし阿里の血球中には、自分がもしやと気遣って居た、恐る可き毒素がありありと発見せらるるのである、而(しか)して其の毒素も普通世間に有りふれた、植物性のものでも無ければまた鉱物から採った毒素でも無い、慥(たしか)に或毒虫の毒液から採った、真に恐るべき毒素である。
尚お念の為に、自分は更に用意して置いた一種の薬物を其血球の中に投じた、すると直に反応が現われて、愈(いよいよ)自分の想像が適中(あたっ)た事を証拠だてるのみだ、而しこれと同時に自分は今更の様に阿里の体力の強壮なるに驚いた、と云うのは、是れが普通の人間ならば其血球中に、これだけの毒素を含んでる様では、到底此夜の人で無いからだ、勿論それと云うのは、一つは台湾に於て毒虫の採集中、知らず知らず毒虫の為に嚙まれて自然に免疫されてる故もあるだろうが、兎に角阿里の体質で無ければ出来ぬ事だ。
「ウーム」と呻ったきり、あまりの怖ろしさに自分は暫時は言(ことば)も出なかった。
九九 愛嬌たっぷり
斯くて阿里の病気は普通の破傷風では無く、何者かの為めに怖る可(べき)動物性の毒素を其血液中に注入(そそぎい)れられたものだと云う事が解った。併し幸いな事には自分は予て、毒虫の研究をして居た処から、万一の場合を慮(おもんばか)って、自分の考案から成った一種の抗毒素を造って置いたから、早速それを阿里に注射する事にいsた。
素々体質(からだ)の健全(じょうぶ)な処へ持て来て、此の新式の抗毒素を注射したのだから、効能(ききめ)は面白い程早く顕(あら)われて、さしもの重病も雑煮を祝う頃には拭い去った様に全快して仕舞った、阿里は頻りに讐(かたき)を討とうと云って自分に強請(せがむ)が、見す見す夫れは蘭田の仕業と解って居ても、別に確とした証拠も無いから何うする訳にも往かぬ。自分は其都度阿里を矯(たしな)努めて其事を忘れさせようとした、其中に日は遠慮なくズンズン過(た)って、愈松も除(と)れた、すると珍しくも姫から、日頃精勤(?)の御褒美として、其日の夕方から三日間の暇が出た。
斯うなって来ると先ず蘭田の事や乃至(ないし)阿里の事を考えるよりは真先きに瑠璃子の事を思い出してくる、瑠璃子と云えば瑠璃子親子は、昨今(さくねん)の冬一の宮旅館(ホテル)から吸い取られた様に姿を消した儘である、それから彼是廿日(はつか)許りになるのだが、未だ自分には何の音沙汰も無い、自分は此機会を利用して御殿山の宅を訪ねて見ようと思ったが、考えて見ると蜂部にしろ、また瑠璃子にしろ、御殿山の宅に帰って来て居れば自分に知らせずに居る筈は無いから、便りの無い処を見れば未だ東京に帰って来ないのかも知れないと急に思い返す時、フト胸に浮んだのは糟場夫人である。
「然うだ糟場夫人を訪ねて見よう、したら或は蜂部等の行方が判るかも知れない」と斯う思って、自分は早速邸を出て電車に乗った、何となれば蜂部の云う様に、糟場夫人が蜂部の敵なれば無論の事、また自分の想像の如く友人関係だとすれば猶更、孰(いずれ)にしても夫人が蜂部親子の行方を知らぬ筈は無いと考えたからである邸を出た時は曇って居たが向こうに着いた時は月が出て居た、時計を見ると何時の間にやら九時を過ぎている、電鈴(ベル)を押して案内を乞うと。出て来たのは例の標札の主なる真の織山藤枝嬢である。「夫人は」と聞くと「不在です」と答える「行先は」と問うと「判りません」と云うのだ、前回と違って愛想気の無い事夥(おびただ)しい。
自分は例の癇癪を起りかけたが、併し斯んな女と争うた処で仕様が無いと思ったから夫人が帰ったら自分が訪ねた旨伝えて呉れる様伝言(ことづて)を頼んで其処を辞した、而して笠森稲荷の前迄来たが扨(さ)てこれから何処に行ったものかに付いては、鳥渡(ちょっと)思案せねばならなかった、勿論此儘邸に引返せば阿里も喜べば、姫も喜ぶ、阿里の喜ぶのは構わぬが、姫に喜ばれるのは自分には何より情無い、併も折角貰った三日の暇である、何処に泊ったもので有ろうと暫時考えたが、其中に思い出したのは先日の洋食屋の事である。
「兎も角も何か温かい料理を喰べた上で」と、斯う独言(ひとりごと)して、再び元来し道を引返すと幸い未だ洋食屋が起きて居た。硝子戸を開けて室内に入ると、奥から飛び出したのは先日の主人(あるじ)である。
「オヤお珍しい、正月早々御年賀のお帰りですか」と相変らず愛嬌たっぷりである。
「イヤ然う云う理由(わけ)でも無いが」と自分は有合う椅子に腰を下ろして、
「君の処の生麦酒(ビール)を飲もうと思ってね」と、半ば冗談らしく云った。すると主人も同じく声高に笑って、
「ハハハ然う旦那の様に仰ゃられると、遂料理も勉強したくなって来ますよ…処で何様(どんな)料理(もの)を差上ましょう、何(ど)の道糟場夫人の御手料理を召上った後ではお口に合う筈はありませんが…」
「処が大違い、夫人が留守だと云うのでね」
「夫人がお留守ですって、其様事はありゃあしません、だって私ゃ現に先刻お見受けしたんですもの」

一〇〇 怪しき自働車
「だって今訪ねたら織山とか云う女が、夫人は留守だと云ったぜ」と云う、皆まで云わせず主人は急に笑い出して、
「ハハハハじゃ旦那は体よく居留守を使われたんだ、十日許り前の霙(みぞれ)の降った晩帰って来た筈ですもの」十日許り前の霙の降った晩と云えば、彼の自分の書斎に何者か忍び込んだ晩の事である。
「真実(まったく)かい」と自分は念を押した。
「ええ真実(まったく)ですとも」と主人は確信あるものの様に頷いて
「運転手が然う云って居りましたから間違いは有りませんや、何でも其晩は徹夜(よっぴて)自働車に乗廻されて、彼様(あんな)弱らされた事は無いと云ってましたぜ」
「徹夜、夫人がかい」
「ええ、夫人と其外に、顔は見えなかったが、もう一人妙な紳士と二人だったそうで、中渋谷から千駄ヶ谷にかけて、一晩中何用あると云う事はなしに乗廻されたと云う事でしたよ」
実に不思議な事を聞くものである、其夜警官の一隊を本館(おもや)の前迄送り出した時に、自分も室伏家令も、近く怪しき自働車の響音(ひびき)を聞いたので、其時警官を煩わして附近の派出所に問合せて貰うと、其返辞は孰(いず)れも自働車の通過を目撃(みとめ)なかったと云うのであった事は、読者も既に知ってる筈だ。然るに今此家の主人の話に拠れば、其晩糟場夫人が怪しき紳士と同乗して、徹夜中渋谷から千駄ヶ谷の附近を自働車で乗廻したと云う事である。して見れば慥かに玻璃島家の近所も乗廻ったものに違いは無くまた自分等(たち)の聞いた自働車の響音(ひびき)も或は夫人の乗ったものだったかも知れぬ。唯何の為に乗廻したものかは解らぬが、自分には妙にそれが、自分の書斎に忍込んだ曲者に関係がある様に思われてならなかった。
此様事を考えて居る中に、誂えた料理も出来上れば、注文した酒も来る。相手欲しやの自分は主人を相手に盛んに飲みもすれば、盛んに喰いもした。それで無くてさえ饒舌(おしゃべり)の主人は、酔が廻ると共に舌も滑らかになって来て、其翌日を初めとして、今日迄都合三四度程大阪訛の紳士が糟場夫人を訪ねて来た事、而して其紳士が何うやら探偵らしかったから、其れを恐れて糟場夫人が留守と見せかけるのだろうと云った様な、種々(いろん)な想像まで取交ぜて、残らず自分に物語るのであった。自分は夫の紳士と云うのは必然(てっきり)鳥松刑事だと推察(かんがえ)たので愈(いよいよ)蜂部が夫人の宅に隠れて居る様に思われたから、益(ますます)腰を据えて大に飲んだ。而して其結果酔潰れて、主人(あるじ)夫婦に二階迄担ぎ上げられた様には思ったが、それから後は全く夢現(ゆめうつつ)であった。翌日眼を覚ますと果して自分は昨夜の洋食屋の二階に寝て居た、時計を見ると既に正午(ひる)を過ぎて居る、慌てて飛起きて階下(した)へ行くと、親切な主人夫婦は快く自分の身辺(みのまわり)に世話を焼いて呉れる。遂また腰が据わりそうなので、早速帰ろうとすると、どこ迄も親切な主人は自分が宿酔(ふつかよい)の容子を見てとったか、夕方迄寝て居てはと勧める。遂自分も其気になって再び其処の二階に腰を据える事となったが、而(しか)して邸の事も多少気になるので、電話をかけて阿里を呼び出すと、邸には別に変った事は無いが、瑠璃子から自分へ手紙が来てるとの事である。乃(そこ)で早速それを阿里に読ますと、此手紙の着いた日の夕方大森も八百二番へ電話をかける様にとの事だ、瑠璃子の手紙の届いたのは今朝なそうであるから、して見れば電話をかけるのが今日の夕方な訳だ、自分は何だか死んだ人にでも逢った様な気がして、唯もう夢中になって日の暮るのを待って居た。其中に愈夕方になったので、自分は昨晩以来の勘定に、心許りの茶代を添えて主人に与え、早速洋食屋を出た。而して瑠璃子の事を考え乍ら、何処で電話をかけたものかとぶらぶら山内(さんない)迄来かかった。他(はた)で考えれば洋食屋の電話を使えば宜さそうにも思われるだろうが、誰だって恋人との電話は他人に聞かれ度くないものである。
一〇一 白髭の老紳士
やがて漸く自働電話の側迄来たので、早速電話をかけ様としてると、其途端に下の方から此方を指して上って来る人の足音が聞こえた。見るともなしに其方を見ると、外套の襟を立てた身長高き白髭の老紳士が、少しく屈み勝ちにして急足に坂を上って此方へ来る。夜目には確(しか)と判らぬが、自分には夫れが何うやら鳥松刑事の様に思われた。
電話をかける手を止めて、密(そっ)と息を殺して待って居ると、其前を横切る拍子にチラと見た横顔、自分は此の老紳士が愈鳥松刑事に相違無き事を確かめた。此の老紳士が鳥松刑事だとすれば自分は瑠璃子に電話をかける処に話で無い、其後を附けて行くと、事に依ったら飛んでも無い活劇が見られないものでも無いと考えたから、幸い向うが気付かぬのを宜い事にして、其儘電話室を抜け出し、見え隠れに其後から尾行した。
鳥松刑事は素より然うとは知る由も無い、三縁亭前から右へ折れて寺内を通り抜ける、愈自分の想像が当りそうになって来たから、轟く胸を押鎮めて、尚も自分は其趾に附いて行くと、生憎と急に空が曇って来て、雨さえ少しく振り出して来た、而して笹森稲荷の森まで来ると何時の間にか鳥松刑事の姿を見失った。
「ハテ何処に行ったのか知ら」と、暫時は自分も途方に暮れたが、併し坂下の方へ下りて行く様子も無かったから、必然(てっきり)これは森の中と自分も続いて其中に入った。而してものの十間許りも行くと、突当りは生垣になって居るが、其隙からはよく彼方(むこう)の邸内が見える。覘いて見ると夫れが外ならぬ糟場夫人の宅なのだ。して見れば矢張り自分の見た眼は曇らず、鳥松刑事は自分と同じく、此森の中の何処かに密んで居て、邸内の中の何処かに密んで居て、邸内の様子を覘ってるに相違無い。
斯う思ったから自分も、これは何でも気永に待つに如かずと、有難い木根に腰を掛けて休み乍ら其処に身を忍ばせた。此処からはよく糟場家の食堂が見える、電灯はカンカン点いて居て、仏国(フランス)窓は残らず開放されて居るが、階下の室内には誰も居ない、向うの方では女中共がガチャガチャ皿を洗って居る音がする、多分夕飯が済んで間も無いのであろう、自分は自分乍ら其物好きに呆れつつ、暫時(しばし)其様子を眺めて居た。
すると間も無く其音も止んで、四辺(あたり)は暫く静かになって来る、其拍子に右方の窓が開けられた。見ると現在昨夜迄留守だと云って居た糟場夫人が、窓に向けて据えられてある洋琴(ピアノ)を弾き出したで無いか、曲はワルツらしかった。暫くすると二階の窓が開いて、其処から一人の男が首を出したが、それは自分の僻見(ひがみ)か知らぬが、妙に蘭田の様に思われた。
それから一時間余も経ったかと思う頃料理人(コック)が来て窓を閉め始めたが、夫が済むと今度は灯光(あかり)を消し始めた。時計を見ると十一時半だ。
やがて糟場家の灯光(あかり)はすっかり消されたと覚しく、四辺まで真暗になって仕舞ったが、併し自分は未だ鳥松刑事が森の中に居る様な気がしたので、其儘見動(みじろ)ぎもせず待って居ると、意外意外真暗な糟場家の二階から急に強烈な電光が、窓越しに颯(さっ)と崖下の方へ向けて発射されるのである。一度、二度、三度、消えては光り、光ってはまた消える。それが都合三度まで繰返された、自分は直にそれが糟場夫人の其仲間に対してなす処の一種の信号なる事を知った。愈以て何事か起るに相違無いと、胸を踊らして待って居ると、果してそれから廿分許りの後にシトシトと芝草を踏む足音が聞こえて、森に面した生垣の中の木戸は、音も無く一人の夫人を吐き出した。黒い上着(コート)に黒い肩掛(ショール)、星明に透して見ると紛れも無くそれが糟場夫人である。

一〇二 刻一刻危険が
先刻の信号と云い其服装と云い、自分は一見して夫人が何人かと出会う為に、故意(わざ)と裏木戸から忍出たものと睨んだ。而して何処に行くのかと尚も様子を窺って居ると、やがて木戸に鍵金をかけ終った夫人は、それから生垣に沿うて樅の古木の前を抜け、稲荷の杜前迄行ったが、其処から別に何処へ往く様な様子も無い。
「では彼処で何人か待合すのだな」と思って居ると、やがて五分間許りもしたと思う頃、坂下から此方へ来るらしい人の足音がして、それが鳥居迄来たと思う時分に、厭な低音(ひく)い口笛が聞こえた。蜂部で無くて其口笛の在るじは何人であろう、すると此方でもそれに答える様な口笛を吹く、自分が森の中から樅の木蔭迄忍び寄った時には、既に二人は早何事か相談を始めて居た。自分は樅の枯木にヒタと身を寄せて、只管(ひたすら)其話の内容を聞こうとしたが、社殿(やしろ)を隔てて居る故(せい)か能くは聞こえぬ、否聞こえてもその意味が判然(はっきり)解らなんだ、唯何でも「危険」と云う語が屢(しばしば)二人の間に繰返された様である、而して話の模様では、蜂部が糟場夫人の為めに、頻りに其臆病を責られてる様子だ。するとやがて蜂部の声として、
「いいや臆病でせんのでは無い、此上危険を冒したく無いからだ」と、前よりは稍(やや)判然聞えた。
「危険を冒したくない」と蜂部の言(ことば)を受けた夫人はそれを嘲ける風で、
「左様(そんな)に怖ければ妾が実行(やっ)ても宜いが…併しお前さんも男じゃ無いか大森が都合が悪いのなら、お前さんの都合の宜い処へ連れて行って…」と迄は聞えたが、後は再び聞えなくなった。併し自分は此処まで聞けば充分である、「危険を冒す」と云い「大森」と云い、それが瑠璃子の身の上に拘った事で無くて何で有ろう、話の容子では瑠璃子の身に刻一刻危険が迫りつつあるとしか思われぬ。
然う思って来ると二人の話を窃聞(ぬすみぎ)きしてる処で無い、兎も角も瑠璃子に電話をかけねばと、自分は思わず知らず樅の木蔭を離れかける途端、誰やら後の方から忍び足に此方(こなた)へ来る様子だ。ハッと我に帰って再び樅の陰に隠れた自分は瞳を凝らして其方を見ると、別人ならぬ鳥松刑事だ、鳥松刑事は自分の前を横切って社の後に出ようとするのだ。
眼を転じて蜂部等はと見れば、此時二人は漸く相談を終たか、これも社前を離れて寺内の方へ行く、鳥松刑事は無論其趾を尾行(つけ)る、平常ならば何を措いても其仲間に加わる筈の自分だが、今夜はこれから瑠璃子に電話をかけねばならぬのだから、遺憾乍ら見す見す其仲間外れをせねばならなかった。自分は杜の前に立った儘、暫く其後姿を眺めて居たが、其中に尾行られてる人も尾行てる人も、同じ様に寺内の暗(やみ)に吸込まれて了う。自分は此様子を見届けると同時にそれから早速坂を下りて電車通へ出て、其処から瑠璃子に電話をかけた。彼是れ夜は十二時近いので、未だ起きてるか何うかと思ったが、宜い具合に父の帰りを待つつ起きて居るとの事だ、晩(おそ)くも三十分の後には自働車で会いに行くと云う自分の電話に、非常に喜んだ様子で成可く早く来いとの返辞である、而して蜂部は三日前に旅館(ホテル)を出た限り、今に帰って来ないので、今迄独り寂しく暮して居たと附加えた。
そうと聞いては矢も楯もたまらぬ自分は自働電話を出るなり、其足で自働車屋を叩き起し、早速大森旅館まで貸自働車(タキシー)を急がせた、予定の三十分より五分早く着いたが、それでも向(むこう)に着いたのは十二時過ぎであった。瑠璃子は殆ど手を取らぬ許りにして自分を客間に連れて行って呉れた。暖炉(ストーブ)を焚付けるやら、暖(あった)かい紅茶を入れて呉れるやら、自分の女房でも斯うは出来まいと思う程自分を歓迎して呉れた。
一〇三 不思議な盗賊
一日千秋と云う譬(たとえ)はあるが、自分と瑠璃子との間は丁度それだ、お互に別れ別れとなって居たのはたった二十日余りに過ぎぬが、自分も瑠璃子もそれが何でも二三年も会(あわ)なかった様な気がして、二人の間には夫れから夫れと過(すぎこしかた)夫の話が出る。唯此場合自分として頗る物足ぬ感じがしたのは、自分と瑠璃子との間は依然友人関係に止まって、夫れ以上何等話が進捗しなかった事である。とは云え、これは強(あなが)ち瑠璃子が情知らずだと云うのでは無く、自分が其思いのたけを打明けなかった故(せい)もある、自分は紳士として、死んだ古里村の友人として、瑠璃子の胸に未だ恋人を失うた悲しみの全く消失せぬ中に、自分の思いを打ち明けるのが如何にも後めたく思われたからである。単に自分の胸中を打明るでさえこれだ、他日機会があって打明けた処で、それが果して瑠璃子に容れられるものか何うか、思えば思う程自分は其恋の前途を悲観せぬ訳には行かなかった。だが其様事は気振(けぶり)にも露わさず、自分は表面は何処迄も清い親切な友人として瑠璃子に臨んだ、瑠璃子は素より夫れ以上を自分に希望(のぞ)んで居ないのだから、この親切な自分の態度に満足して、幾度か謝意を述べつつ一の宮以来のいきさつを物語った。それに拠れば矢張其時第一に探偵の来訪に気付いたのは瑠璃子で、夫れと見るなり蜂部に此由を告げ、自分が鳥松刑事に引致せられる中に、急ぎ旅館(ホテル)の裏口から遁れ出て、直ぐに上野行の直行に乗ったとの事である。すると蜂部は一の宮署から下谷署に電話がかけられたろうと云う事を恐れて、途中から土浦行に乗換え、土浦から夜行で水戸に行き、水戸に一週間許り滞在して十日許り前に大森に来たとの事である。自分は其の当時から大方其様事だろうと想像して居たから、此様な瑠璃子の話を聞いても、別に驚きもせねば怪しみもせなんだ、而して瑠璃子の話が終ると同時に、同じく一の宮以来の経過を物語り、警察の訊問の有様から、所持品を残らず引掻き廻されて非常に困った事を話した末。
「イヤ何うした事か昨年東京に帰って来てからは散々です、加之(おまけ)に十日許り前には盗賊(どろぼう)に見舞われる」とウカと過日(すぎし)夜の一件を口走った。すると瑠璃子は非常に驚いた風で、
「では何か大切な物でも…」と頗る心配そうだ。
「イヤ別に盗られたと云う訳でも無いのですが」と自分は其夜の次第を掻抓んで物語り、
「盗賊にしては実に不思議な盗賊です、外にいくらも高価なものが有ったのに、夫れには殆ど目も呉れず金庫の中に入れて置いた古銅器を睨(ねら)ったらしかったのですから」
「古銅器と申しますと」と瑠璃子。
「糊谷老人から預った、何でも老人が澎湖島(ほうことう)の附近から掘出したと云う」と茲迄自分が云いかけると、
「えッ、えッ、ではもしや夫れは砲弾形の…」と、何故か瑠璃子は非常に驚いて顔色を変えた。
「貴女は何うしてそれを」と怪しみ乍ら自分は斯う問うた。
「知ってる処で無い、彼品(あれ)を知らないで」と瑠璃子は矢張唇を顫わし乍ら「彼品は悪魔の壺です、怖ろしい、彼品を持って居る人には怖ろしい災難が来ると云う伝説のある…何故貴方が其様品を…大変ですから早くお捨てなさらんと…」
と、其様子は万更狂言とは思えぬ。
「処が然うは往かんのです」と自分は瑠璃子の語(言葉)遮って
「今云った通り糊谷老人から、三月一日まで保管を頼まれてるのですから…したが貴女は何うしてそれを御存じなのです」
「何うしてって…父が…父から…」と、瑠璃子は僅に斯う云うのみである。
「じゃ蜂部さんが彼品を見て知ってるのですね」
「ええ、而して彼品の中に如何物があると云う事も…」蜂部が古銅器の外形(かたち)を知ってる位なら別に不思議もないが、其中の秘密も知ってると云うに至っては実に意外の新事実である。

一〇四 寂しい微笑
自分はそれから瑠璃子に向って、古銅器の中に秘されて居る秘密や、乃至蜂部が何うしてそれを知ってるかを種々聞質(ききただ)して見たが、瑠璃子は何うしても夫れを云わぬ。
「時機(とき)の来る迄は是非保たねばならぬ秘密ですし、それに妾も詳細(よく)は知らないので御座いますから…強いて申しますと貴方を欺く事になりますから、何卒(どうぞ)それだけは…」
と殆ど泣ぬ計りにして頼むのであった。斯う云われて見ると、自分にしても夫れでもと云う訳には往ない。
「然うですか、じゃ此上無理にお質ねしますまい、三月一日を今から楽みにして待ましょう」と云った。すると瑠璃子は依然下を俯向いた儘、ホーッと太息を洩らして、
「楽みですか苦しみですか、併しそれが聞かれましたら、貴方が今御想像なすって居らっしゃる以上の秘密が顕れますでしょう」と云い終って相変らず寂しい微笑(ほほえみ)を見せた。斯う話が理につんでは、何処まで行っても初めの陽気さには帰らぬ、自分は何うにかして瑠璃子の気を変えようと思ってる中に遂々一夜を談り明かしたと見えて、此時夜は全く明放れた。
乃(そこ)で自分は瑠璃子を誘い出して、朝の海岸を散歩(ぶらつく)ことにした、而して瑠璃子の気を転ずる為めに、故(わざ)と古銅器の話を避けて昨夜芝公園に於る自分の探偵談を物語った。処が今度は前にも増した失敗で、気を変える処が却て、瑠璃子は蜂部の身の上を案じ初めた。
「では若しや父は其鳥松刑事とやらに捕まったので無いでしょうか」と蒼蠅(うるさく)自分に聞くのである。親とは云い乍ら名ばかりの、その実冷淡極まる蜂部を斯くまで瑠璃子は案ずるのである、自分は一方瑠璃子が此可憐(いじら)しい心底(こころね)に同情しつつも一方では其あまりに女らしきに過ぎるのが歯痒くてならんのだ。
「イヤ親子の情としては然うあるべきでしょう、が併し父上は警察の眼で睨んで居る様な事実があったとしたら、父上の事を御考えになるより先ず、貴女は貴女の事を考うべきでは無いでしょうか」と云って遣った。
「ええ、夫れは然うですけど…矢張父は何処までも父で御座いますから…」瑠璃子は依然として却々煮え切らない。自分は何うかして夫れを煮切らせようと考えたが、此時フト思い出たのは亡古里村の事である。自分は早速これを利用する事に考えついた。
「併し如何に父上で有ろうと悪い事は矢張悪いのですから…人間は如何なる場合でも第一に自分と云うものを考えて、それから外に及ぼしませんと…現に古里村の如きは」と云いかけて瑠璃子の顔を見た。果然瑠璃子は自分の計略にかかった、而して其顔色は颯と動いた。
「えッ、えッ、古里村さんは何うと仰ゃるのです」と早や其声は顫えて居た。
「イヤ何うと云うのではありません、つまり自分と云う者を第一に考えなかったから彼様(ああ)した死に様をしたと云うのです」
「えッ、じゃ貴女も古里村さんは普通のご病気でお亡くなんなすったので無いと…」
「ええ、夫れならば此様な手紙を死ぬ一二時間前に私に宛て書く筈は無いのですから」と斯う云って自分は隠袋(ポケット)に蔵(しま)ってあった古里村の手紙を瑠璃子に渡した。瑠璃子は古里村の手紙と聞いて、最初(はじめ)は懐かしそうに手にとったが、読み行く中に次第に顔が青ざめて来た。
「何うです、今私の云った事がそれでも理窟がないでしょうか」と自分は瑠璃子の顔を覗き込んだ。
「ええ、全くで御座います、彼方(あのかた)もこれで見ると御自分の事をお考えなさらなかった為めに…無益の事に興味を持れた為に…」と、瑠璃子は更に何事かを語り継んとする時に、急に後方(うしろ)で人の自分等を呼ぶ声がする。両人(ふたり)は話を止めて其の方を振返った。
一〇五 私と云う保護者
振返って見ると、其れは旅館(ホテル)の給仕(ボーイ)が、蜂部から瑠璃子に宛てた電報を持って来たのであった。開いて見ると意外にも、蜂部は既に御殿山の本宅に帰って居るから、瑠璃子にも至急帰って来いと云うのである。今の今迄若しや鳥松刑事の為めに捕まえられたので無いかと心配して居たのであるから、瑠璃子の喜びは一通りで無い、早速旅館に引返して朝餐(あさめし)を喫(したた)め一緒に東京に帰ろうと云い出した。自分とても素より依存のあるべき筈は無いから、旅館に帰るなり自働車を呼んで貰う事にして、其中に朝餐も済せば荷物の整理もした、而して瑠璃子が着物を着更えて終った頃漸く自働車が来たので、両人(ふたり)は愈東京に引き返す事となった。
自分は其恋人として同乗して帰るのだから斯様嬉しい事は無い筈だが、併し考えてみれば然う喜んで居られぬ、と云うのは瑠璃子の身に漸く危険が迫りつつあるからだ、昨夜蜂部と糟場夫人との間に行われた密談が、果して瑠璃子の身に関った事だとすれば、、斯うして東京に近づくと云う事は、一歩一歩瑠璃子が危険に近づきつつある道理となるのだ、自分は何うにかして瑠璃子を救いたいと思ったが矢張何うとも出来ぬ、情無い事には瑠璃子は蜂部の様な悪人でも、矢張世間並の自愛に富んだ父と思ってるから何うとも出来ぬ。斯う思い乍ら自分は密(そっ)と瑠璃子の方を見ると、瑠璃子も矢張り何事か考えに耽って居る。
「大変お考えですね―古里村の事ですか」と聞くと。
「ええ」と瑠璃子は莞爾(にっこり)して「だって彼方(あのかた)が、何の為に父の戸棚が怪しいと云い出したのか、それが妾に分からないんですもの」
「さァ、併し貴女程蜂部さんの秘密を御存知の癖にそれが判らんと云う筈は無いと思いますが」自分は斯う再び蜂部の秘密を瑠璃子から釣り出そうとしたが矢張今度も魚は鉤(はり)にかからぬ。
「ホホホホまた父の秘密を妾(わたし)の口から聞こうとなさるのね」と笑ったが瑠璃子は急に真面目になって「如何程彼の方の死んだのが口惜しいからと云うて、夫れが為に父の秘密を訐(あば)くと云う事は…若し彼の方の死んだのが、幾分妾達に関係がありますのなら、やがて妾も同様な運命に陥るので御座いましょう、夫れでも妾は甘んじて、父の秘密をお墓の中に持って行きますわ」斯う云った瑠璃子の眼には充満(いっぱい)涙が溜まって居た。自分も此の可憐(いじ)らしい様子を見ては、其の上追窮する気にもなれない、却てそれを励ます様に、
「ハハハハ馬鹿に陰気な事を云い出しましたね、真(しか)し今度は私と云う保護者が就いて居ますよ、勿論あまり頼みにならんかも知れませんがね」と半(なかば)冗談に云った。
「全くね」と瑠璃子も笑って「だけど一の宮旅館(ホテル)でのお手並では随分怪しいものね、幸いある時は妾は鳥松刑事の顔を知って居たから宜かった様なものの…」これには自分も一言も無かった、自分が頭を抱えて笑えば、瑠璃子も同じく真(しん)から可笑しい様に笑う、斯うして二人は笑って居る中に、何時しか自働車(くるま)は御殿山なる蜂部家の玄関に横着(よこづけ)にされた。
自働車の音を聞いて家内(うち)から蜂部が飛び出して来た、自分の姿を見て鳥渡(ちょっと)変な顔をしたが、何と思ったか急に何時に無い上機嫌で、殆ど手を取らぬ許りにして二人を食堂に案内するのだ。自分等三人は少し時間は早いが、夫れから共に食卓を囲んで昼餐(ひるめし)を食う事になった、処が何故か食事の間にも、蜂部跛瑠璃子の顔を眺めては顔色が悪いと云って心配する、それが二度も三度も重なったので、自分は堪り兼ねて、
「いいや顔色の点ならば御心配に及ばんです、それは病気の為めでは無く私が古里村の私に宛た最後の手紙の話をしてからです」と思わずウカと口を滑らした。すると今度は蜂部は急に顔色を変えて、
「おや古里村さんの最後の手紙が発見されたと云うのですが、而して夫れには何んな事が書かれてあったんです」と自分に迫るのだ。

一〇六 乗馬の稽古
自分は失敗(しまっ)たとは思ったが後の祭である、併し秘し了(おわ)せるだけ秘して見ようと。
「イヤ別に大した事も…私と郊外に行く約束したのが、急に令嬢と遊びに行くこととなったので取消すと云う違約を詫た僅(だけ)のものでした。ねえ令嬢」と瑠璃子に同意を求める様に斯う云うと、瑠璃子も黙って頷いて見せた。けれども蜂部は却々其様(なかなかそんな)小児(こども)欺しに乗る様な男で無かった。
「イヤ其様事は無い筈だ、屹度私の事に就て何とか書いてあったでしょう、古里村君は私に対して或事から非常に悪感情を懐いて居た筈でしたから」
「イヤ決して其様事は…」
「飽迄も無いと云うのですか、では貴方の言(ことば)を信じましょう、するとハハハハ古里村君は神の様な紳士となる訳ですね」斯う云った蜂部は其儘別に追窮もせず妙な笑いに紛らしたが、其厭な顔と云ったら、未だ自分の眼前に彷彿(ちらつく)ような気がするのである。其中に漸く食事も終えたが、斯う一度気拙(まず)くなって見ると急に素の楽い団欒(まどい)には帰らない。自分は見す見す瑠璃子の危険を自覚(さとり)つつも、結局此家に長居が出来ない事となって来た。
予定の三日にはまだ一日を剰(あま)して居るのだが、瑠璃子の傍に何時までも居る事が出来ぬとすれば邸に帰る外は無い、自分は厭々乍ら蜂部の宅を辞して邸に帰る外は無い、自分に何時までも居る事が出来ぬとすれば邸に帰る外は無い、自分は厭々乍ら蜂部の宅を辞して邸に帰る外は無い、自分は厭々乍ら蜂部の宅を辞して邸に帰った。自働車と違い帰りには山の手電車を利用したので、邸に着いたのは三時過ぎであったが、見ると同時に似合わず姫は玄関の前で乗馬の稽古をしてる、而して其相手は外ならぬ蘭田ともう一人は意外にも阿里である。
「オヤ阿里お前迄、何うしたと云うのだ」と自分が不審がると、姫はヒラリと馬から降りて、
「お帰りなさい、斯様に早くお帰りになるまいと思って居ましたのに」と云う時続いて阿里も蘭田も馬から降りた。
「今日から室伏老人の注意で乗馬の稽古を初めたんです、君がお帰りが無いから止むを得ず私が御相手を仰せつかった訳で」と蘭田は相変らず厭な世辞笑いをする。
「そうですが夫れで阿里もお相手に狩出されたと云う訳ですね」
「ええ」と姫は自分の言(ことば)を引とって「阿里は相手と云うよりは妾の師匠(せんせい)としてお頼したんですのねぇ阿里」
「ああ」と頷ずいた阿里は此時始めて口を開いて「己等(おらア)昨日先生が何が好きかと聞かれたから馬が好きだと云ってやったんだ、すると今度は己等に出来るかと聞くから先生より上手(うま)いと云ったら教えて呉れろと云うんだ、で今日から教えてやる事にしたんだ、ねえ先生宜いだろう」と頗る得意そうである。
「ああ、宜い処で無い」と云ったが、此時自分の胸に浮んだのは姫等の奸策である。奸策と云ったら或は語弊があるか知らんが、兎に角これに依って手っ取り早く云えば、姫は自分の好な道で自分の足を止め様とするのだ。而して序(つい)でに阿里まで懐柔(てなずけ)にかかってるのだ。
斯う思うて来ると自分も思わず苦笑せざるを得なんだが、併し思うて来ると自分も思わず苦笑せざるを得なんだが、併し同じく姫に毎日附纏われるにしても、好きな道なら未だしも我慢が出来ると思ったから、自分も早速賛成して愈其翌日から姫の相手を勤める事となった。勿論斯うして居る間にも、絶えず瑠璃子の事が心配にならぬで無いが、と云って今迄の様に足繁く瑠璃子を訪ねる暇も無し、また有た処でああした関係から蜂部との間が今迄に無く気拙くなったのであるから、それからは日に一度電話で瑠璃子の安否を聞く事にして、夫れで自ら慰める事にした。
斯(こう)した日は二十日余りも続いたが幸い瑠璃子の身には何事も起らなんだ、して見ると矢張蜂部と糟場夫人との密談は外の事であったのかと遂自分の心に油断が生じて来た。而して乗馬を始めてから丁度一月目の朝の如きは例(いつ)に似ず瑠璃子に電話を掛ける事も忘れて姫と遠出に出た。油断、油断、悪魔の乗ずるには此時が最も宜い時である。

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