トリックスター Ⅰ

　―第一印象はただ「青い」だった。
　他の色をすべて拒絶するようなその姿は。








　
　そこは巨大な水槽だった。

　地に埋め込まれた形の、その圧倒的な大きさの水槽は華美な装飾も実用性も何もない。ただ水を地と同じ高さまで張るためだけの存在。
　そこに張られた水は塵一つ落ちていない潔癖な美しさながら、光を弾いて水鏡のようになっており、外から中を見るのは不可能だった。だが水槽は中から直接敷布が続いており、それはまっすぐ玉座に続いていた。
　ヴィーナスは濃厚な水の匂いの中、目線の角度を変えて水槽の中身を覗き込めないかと首を微かに動かしていた。そんな彼女の傍の玉座にはクイーンが鎮座しており、膨らんだ腹部を撫でながら目前の水槽を穏やかに見つめている。
　そこはまるで中に水しかないような静謐さを保っていたが、やがて俄かに水面は波紋のように揺らぎだす。それは外からではなく、中から揺れているのだ。だが揺らいでもやはり水の中は見えない。ヴィーナスはそのときを根気よく待った。
　その動きから数秒もしないうちに、あぶく一つ立たずに水面は割れた。水を破るように水槽から出てくるその光景はどこか荘厳だった。
　顔を伏せ、まるで水から誕生するような佇まいで水槽から上がってくるその少女をヴィーナスは目を細めて見る。
　水しか纏っていないその肌は雪のように白く、濡れて頬に張り付いた青い髪は肩の上で短く揃えられていた。前髪の隙間から覗く伏せられた目は、ヴィーナスと同様青い。
　階段を上るように水槽から出てきた少女は、濡れた体のまままっすぐ玉座に歩み寄る。そのまま裸体を包むように腕で自分の体を抱くと、クイーンの足元に跪き深く頭を下げた。
「『マーキュリー』」
　クイーンの凛とした声が響く。その瞬間、全裸の少女は微かに青く発光すると同時に戦士のコスチュームにその身を包ませた。
　まさしく水星を守護に持つ戦士の誕生だった。
「これから生まれてくる私の娘のために、この王国の繁栄のために、どうかその力を尽くしてください」
　少女は顔をあげることもなく、沈黙を以ってクイーンの言葉を返す。
　そのコスチュームは彼女自身と同じく青と白のみで構成されている。水星の守護神という理知的なイメージなその色はしかし、他の色を徹底的に拒絶するような潔癖な印象をヴィーナスに与えた。

　跪く者と見下ろす者、お互いに目さえ合わせない。

　これが守護神としての最初の出会いだった。








「『マーキュリー』」
　その出会いの儀を終えたヴィーナスは、パレス内の回廊でマーキュリーに声をかけた。振り返ったマーキュリーの表情は緊張からなのか、初めて見たとき同様どこまでも無機質だった。
「これからよろしくね」
　名乗りはしなかった。同じ四守護神の長である自分はすでに知られているだろう。そう思った。
　ただ、これから長い付き合いになるのだから、こちらの第一印象はよくしておいた方がいい。愛の女神の微笑みには緊張も綻ぶことだろうとヴィーナスは極上の笑みを浮かべる。
　ヴィーナスは、月にいる者には誰にでも愛想よくあることを心掛けていた。外交上での場や戦いの場で見せる戦士然とは違い、身内には愛の女神として守護神の長として、誰をも愛すよう務めていたし、最高の美しさも持ち合わせて誰からも愛されている自負もあった。
　だがマーキュリーはそんなヴィーナスの極上の笑顔に、一度大きく目を見開いたかと思えば、直後ぎゅっと目を細め、まるで睨みつけるような目線でヴィーナスを見据える。その目の動きですらまるで人形めいていて、青と白で構成されている外見も相成ってひどく冷たく感じる。
「……マーキュリー？」
「………………………………………」
　ヴィーナスの不審さを隠さない声にマーキュリーは答えない。ただ、細めた瞼の下で青い瞳をぐるりと動かし、ヴィーナスの全身を確かめるように見つめ、最後に青と青の目、同じ色の瞳を合わせると、静かに頭を下げそのまま黙って背中を向けた。
「えっ……ちょ…無視？」
　ヴィーナスの言葉にまるで反応を返そうともしないマーキュリーは、ヴィーナスに背を向けたまま振り返ることもせず回廊を横切る。そしてそのまま王国のメイン・コンピュータルームに静かに歩を進めた。
　ヴィーナスは今まで対峙してきた誰とも違うリアクションにしばし目を見開き呆然とする。

　第二印象はあまりにも最悪だった。