安倍総理から菅総理へバトンが渡され、様々な懸案を抱えながらも新体制で歩み始めた日本。
さてこれからどんな舵取りがなされていくのかと、国民の様々な立場での様々な思いが錯綜している。
とは書いたものの。もうその当日から駅周辺で、〇〇は許せないだの、モリカケ桜の究明だのと、数年前と同じことを同じトーンで念仏のように流し続ける野党側支持の集団を目にしたが、何のプランも進歩もないのだろうか。
野党側の人々はメディアと同様に、理由はどうであれ国の舵取りをする自民党に対し、とにかく楯突き思いつく限りの文句を浴びせ、いちゃもんをつけるだけの集団にしか見えない。
小学生の口喧嘩より酷いものだ。
昭和の小学校の学級会では、必ず制止された行為だ。
同じ質問を何度もしたり、誰かの言葉尻ばかりを捉えたりしても、当然だ。
重要な話し合いや議論が挫かれてしまうからだ。
個人を責め立てて「アベを許さない」などと黒板に書きなぐったりしたら、あの頃ならば当然職員室に呼びだされたであろう。
令和の今でもこれは「いじめ」ではないのか。
そんなことを大の大人が、よってたかって迎合し、薄笑いさえ浮かべている様子に嫌悪感と大きな違和感を持つ。
そしてもう一つの集団がある。
こちらは理由はどうであれ、権力のあるものに人目も憚らず擦り寄っていく。普段は影が薄くて国民には見えていないかもしれないが、公明党(創価学会)である。なぜか与党側にいる。
自民党は、とにかく何をしても野党に執拗に叩かれるが、同じ与党の公明党や国土交通大臣が激しく追及されることは全くない。
与党を揺さぶろうとするなら、公明党を糾弾して切り離すほうが手っ取り早いと思えるのだが。不思議である。
つまり今や巷ではあまり聞かれなくなった「鶴のタブー」が、まだ国会に存在するということだろうか。
もしもそうであるなら、国民のための政治などとは程遠い話になる。
2010年5月以降、重病説や死亡説までもが流れた、彼等が属する創価学会のトップ、池田氏の本当の病状すら明らかにできない、以前から嘘と闇に覆われた集団。
そんな政党が与党に陣取り、大臣にまでなっているのはどう考えてもおかしい。そんな国で良いのか。
しかも彼らがよく口にするのは「公明正大」。笑うしかない。
公明党を糾弾しないのは野党だけではない、自民党も同じだ。
本当に国を思う保守ならば、公明党と組めるはずがない。
公明批判を選挙の際にきちんと口にするのは、一握りの保守だけだ。
そして自民党は、国のために発言、行動する人々を、野党が言うがままに見捨ててきた。
なぜタッグを組んで、日本を思う保守を守ろうとしないのか?
そして他の件であっても、なぜ当たり前のことを当たり前の言葉で説明しないのか?
間違いではないことまで、なぜ簡単に撤回するのか?
真実であるのに口を噤むことが、誰かのためになるのだろうか?
事実や国を守ろうとする言動が標的にされて、中傷や策謀で砕かれることがあってはならない。
また言葉の印象とは真逆の「ヘイトスピーチ条例」などという国民への言論弾圧についても早く一蹴すべきである。
こんなことでは国民を守れないし、子供たちの教育にも当然影響するであろう。
どうも最近の日本人には「喜怒哀楽」の「怒」が欠けているように思う。
もちろん品位を保ちつつだが、国民も保守の政治家ももっと堂々と怒るべきではないだろうか。
とても強引な分け方をすると、既にこの国はアメリカ(民主主義)に付くか、中国(共産主義)に付くかの最終選択を迫られている状況だ。
今さら言うことではないが、勝手な言い分だけで他国の領土に侵入してくるような中国に付いていこうと考える国民は少ないであろう。
だがご存じのように現在の野党も公明党も中国との繋がりがとても深い。
国を守るために、他の国々では当たり前の「スパイ防止法」を作るためにも、まず早急に与党内から公明党を排除するべきだ。
それが実行されるまでは、自民党への信頼も集まるはずがない。
古すぎる映画だが、怒った大魔神が悪を一網打尽に成敗するために山からやって来る姿を、期待しながら思い出している。