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そよ風に乗って

過ぎ去った思い出や、日々の事を
そっとつぶやいています。

関西と関東では骨壺の大きさが異なる訳・・

2015-12-17 23:04:42 | 私の事


姉の家にまだ旦那さんのご遺骨が置いてあります。
お墓のこともまだ決められないでいます。すぐには決められないですよね

骨壺が本当に大きいので気になります。
私たち姉妹は関西出身で、骨壺は小さいのを見た記憶しかありませんでした。
なので姉の旦那さんの遺骨のすべてが大きな骨壺に納められた時には少々驚きました。

前回記事で取り上げた本(人生のかたづけ 整理術)がきっかけとなって粉骨を知り
調べていくうちに、関西と関東では骨壺に入れる骨の量が異なる事を知りました。
関西では、喉仏など主要なお骨だけを収めるのに対し
関東では、すべての遺骨を納めるそうです。

それで、こんなに大きな骨壺になってしまうのですね。

正直なところ、大きな骨壺がいつまでも姉の側に有るのは、
気が滅入るのではと心配になり始めていたのです。

それで、粉骨についてインターネットで調べてみると、
粉骨して小さい骨壺に移せる事や、散骨用に小分けしてもらえる事などを知りました。

これならば、お墓の問題は、先に延ばすとしても、小さいサイズになって
骨壺も洒落た容器に代えれば、気持ちも晴れるのではと思いました。

いずれ、将来、お墓をどうするか決めるまで急がずに置いておけますし、
散骨もできます。

粉骨をして散骨もしてくれる、お寺さんも有るみたいです。

一つの供養の形としての選択肢ですね。


 


最後に逝くのは私の覚悟で

2015-09-08 23:59:00 | 私の事


旦那さんを亡くして一人暮らしになった次女姉。
先日電話で話した時は、2か月ほど前に私が姉の家を訪れた時の事を
すっかり忘れていて、認知症が始まってしまったのかと心配になりました。

今日電話してみると、
「あの電話の後でいろんなことを思い出したわ。」
と思い出したことをいろいろ話してくれて
いろいろありがとうね。と言っていました。

ア~良かった。どうなるのかと思いました。

私が訪ねた日の記憶がすっぽりと抜けてしまったのですから。ホッとしました。

そう言えばお姉さん(長姉)の時もそんなことが有ったよね~
との話になりました。
長姉も旦那さんを亡くした後、げっそりと痩せて
やはり一時的に記憶が怪しげな時期が有ったのです。
もう10年以上前の事ですが、その後、元気を取り戻し一人で旅行するなど
楽しみも見つけて生きています。
せっかくスリムになったのを維持できれば良かったのに、
元通りになってしまったのは残念だねと笑った事がありましたが。

やはり相当なストレスとなるのでしょうね。

姉たち二人は、旦那さんを亡くしてしまいましたが
この歳になると、皆に見送られて無事に逝けて良かったね。と私は思います。
歳の順に逝ければいいです。

私は末っ子なのでこの先みんなを見送って最後に残ってしまったら寂しいだろうなと
雨の音を聞きながら、しんみりと思ってしまいます。

でもその寂しさは私が引き受けよう、そのためには元気でいなくては・・・。

そんなこと考えると寂しくなります。
姉にも早く元気を取り戻して、楽しく残りの人生を送って貰いたいと思うのですが。

元気になるのはもう少し時間がかかりそう。


戦争を知らない子供たちとは

2015-08-10 23:41:23 | 私の事


戦争の事はほとんど知らないまま、生きてきました。

自分も歌の題名のように、戦争を知らない子供だったわと
気になりだしたのはほんの数年前からです。

終戦前の1944年生まれです。

私達の子供の頃は戦争の事は、皆忘れたように話題にならず、
教えられず、語られず、少しずつ世の中が便利になり、
物が増えて豊かになっていく過程を
経験しながら今に至りました。

歴史の授業では近代史になると、時間切れで3学期終了。
先生も、戦争について何をどう教えて良いのか分からなかったのではないかと
今になっては思います。

私の生家は神戸市で終戦直前の空襲で焼けました。
夫の生家は熊谷ですが焼けたのは終戦の前日だったそうです。

知っておきたいと思い始めてから、本は図書館で借りて読んでいます。

昭和20年夏、僕は兵士だった(徴兵された方達の体験記) 梯久美子 角川書店
南の祖国に生きて・インドネシア残留兵とその子供達   上坂冬子 文芸春秋
終わりなき旅・中国残留孤児の歴史と現在        井出孫六 岩波書店
満州の8月15日                     田上洋子編

などや、色んな作家さんが書かれた随筆なども読み
いろいろ知る事が出来ました。
誰にも話すことが出来ない経験を持ったまま
苦しい人生を生きて来られた方もおられるでしょう。
気がつかなかったけれど私の近くにもおられたかもしれません。

体験者の声を聴き、歴史を知る事は大切です。
議員さん達にも沢山本を読んで勉強してもらいたいですね。

私はこのまま、平和な時代を生かせてもらって逝くことが出来ると思いますが
子供達や孫の代もその後々もずっと平和な日本であってほしいと祈る気持ちです。


母の思い出2

2015-07-08 00:37:11 | 私の事


私の生まれ育った家は、終戦直前の空襲で焼かれた後に
建て直された平屋の家でした。

神戸は、何度か大きな空襲に見舞われていますが
我が家は終戦直前に落とされた焼夷弾で焼けたそうです。

両親と姉が二人、父方の祖母と、曾祖母の7人家族でした。
曾祖母は、私の記憶の中ではいつも寝ているお婆ちゃんで

子供たちは、ねんねのお婆ちゃん と呼んでいました。
祖母のことは、おうちのお婆ちゃん と呼んでいたのです。

そして、母方の祖母は他所に住んでいましたがピアノのお婆ちゃん と呼んでいました。
何故ピアノなのかは、いずれまたの機会に書きますね。
祖父達はすでに他界していました。


前回、家はJRの住吉の駅の近くに有ったと書きましたが
駅の北口には駅前広場が有りました。

車もめったに通らない時代です。
子供にはとても大きな広場に感じました。

お盆の頃になると、数日間その広場で盆踊りが有りました。
賑やかで楽しい行事でした。

姉たちは浴衣を着て踊っていました。
私は小さくて母に連れられて見物していました。

会場に、四角い金魚鉢のような水槽に入った、赤い色のジュースが置いてありました。
参加者が飲めるように置いてあったのだと思います。

赤い色は美味しそうでした。母に飲みたいと言いましたが
お腹を壊すからダメと言われ、絶対に飲ませてはくれませんでした。
美味しそうでしたけれどね~

母は私が小学校に上がる少し前に、結核で亡くなりました。
半年ほど前に、父が先に結核で亡くなって
その前には、ねんねのお婆ちゃんが亡くなっていましたので

家族は、おうちのお婆ちゃんと、3人の子供の4人家族になってしまいました。
おうちのお婆ちゃんの苦労が始まりました。

私は盆踊りが大好きで、小学校にあがってから、踊りの輪に入って踊るようになりました。
姉たちは、もう興味を示さなくなったのですが
私だけが、踊っていました。盆踊りの音楽が聞こえてくると友達誘って、とんで行きました。

あの頃の盆踊りの曲は、炭坑節 が良くかかっていました。
他の曲もかかっていたのでしょうが、覚えていません。


月が出た出た月が出た
三池炭鉱の上に出た
あんまり、煙突が高いので
さぞや、お月様、煙たかろう さのよいよい

覚えているものですね。なつかしいです。

そして、母のいなくなった盆踊り会場では
あの赤いジュースは、魅力的でしたが
母に、お腹壊すからダメ と言われたことを思い出し
飲むことはありませんでした。

9歳まで、その家で暮らしました。
盆踊りの輪に入って踊ったのは3~4年間でした。

 


母の思い出1

2015-07-05 23:38:45 | 私の事

4~5歳の頃でした。
戦後で、今のように物のあふれている時代では有りませんでした。

母は、時々電車に乗って買い出しに行っていたようでした。
父はサラリーマンでした。
私の家は当時、神戸市の住吉と言う省線(現JR)の駅に近かったので
駅で母を見送った記憶が有ります。
三宮とか元町とか、沢山お店が有る町まで行っていたのでしょう。


ある日、駄菓子屋さんにあるようなお菓子のセットを一式仕入れてきたことが有りました。
子供たち3人に、紙に書いたお金をくれて
それでおやつの時間に、毎日テーブルに並べたお菓子を買わせてくれたのです。
お店屋さんごっこでした。

ある日、私が買ったお菓子のくじが大当りで、鯛の形をした大きな砂糖菓子が賞品でした。
私は大喜びだったと思いますが

母はMちゃん大当たりや、すごいね。と褒めてくれてから
皆に分けてあげようね、と等分に二人の姉達にも分けました。
父や母にも分けたかもしれませんが、その辺りの記憶はありません。

私が当てたのに、一人で食べられないんだと思いましたが
そういう場合は、皆で分け合って食べるものなんだなと教えられた気がします。

三つ子の魂100まで、と言いますね。
母親は6歳の時に亡くなりましたが、短い時間にきっといろんな事を教えてくれて
沢山の愛情ももらったと思います。

母の数少ない記憶。
書き留めておきたくなりました。