閑(ひま)じぃのブログ by 閑斎

趣味の紙紐細工創りとその時々の歌、旅の紹介です。遠方には行かなくなり近くで楽しい仲間との歌を楽しんでいます。

「藤村実穂子 メゾ・ソプラノ・リサイタル」

2024-08-22 05:45:52 | きのうの歌
 
きのうの日の出に出会いました。反対側は富士に代わって満月が望めました。
きのうの朝は、「クラシック倶楽部」で「藤村実穂子 メゾ・ソプラノ・リサイタル」を
聞かせて貰いました。。
きのうの歌は、ストレッチの終わりに聴いた「五木の子守唄です。貧しかった家の
子供が金持ちの家での奉公、死と背中合わせの生活を謡ったものでした。
 
Youtube には藤村実穂子さんのはありませんでした。
Itsuki no Komoriuta
 
きのうの放送で聴いた歌です。
藤村実穂子 メゾ・ソプラノ・リサイタル ヴォルフラム・リーガー(ピアノ)
モーツァルトやマーラー 日本の懐かしい子守歌…。世界の藤村実穂子が時空を超えた
心地よさを音楽で表現。
夕暮れの情緒 
さすらう若者の歌 から 1.
さすらう若者の歌 から 4.恋人の二つの青い目
メーテルリンクの詩による6つの歌 作品13
2つの日本の子守唄(日本民謡集より)
 
きのうは”どうせやるなら”の3点セット(午後2時半出発+スロージョギング+腹式
呼吸)が無事出来、いい汗をかきました。帰路のコンビニで作品製作参考用の印刷を
やり、往復、4,779歩でした。
 
ネットのニュースにオーバーツーリズムの代表だった富士山の目隠しが、台風が来た
ことで撤去されたとのこと。さて、観光客はどうする??
 
今朝は雨の27℃、晴れたり曇ったりで最高は31℃となっていますね。
 
歌「五木の子守唄」の解説です。
五木の子守唄(いつきのこもりうた)は、熊本県球磨郡五木村に伝わる子守唄である。子守唄には子守女がみずからの貧しく恵まれない薄幸な境遇(年貢代わりに働かされる)を嘆き、悲しい日々の生活心情を基盤に,この種の子守唄は伝承されてきている。第2次大戦レコードに吹き込まれてから大流行したが,地元のものとはやや曲節の違ったものになっている。現在では熊本県を代表する民謡としても知られる。

子守唄と守り子歌

日本の民謡や童歌などで、「子守唄」とされる歌には、本来の童話(子供を寝かしつけるための歌)と、守り子唄(もりこうた)と呼ばれる唄とがあるといわれており、五木の子守唄は、守り子唄のひとつである。

守り子唄とは、子守をする少女が、自分の不幸な境遇などを歌詞に織り込んで子供に唄って聴かせ、自らを慰めるために歌った歌である。かつて子守の少女たちは、家が貧しいために、「口減らし」のために、預けられることが多かったという。

歌詞には「おどま勧進勧進」という言葉が出てくる。

おどま かんじん かんじん あん人たちゃ よかしゅ よかしゃ よかおび よかきもん

ここに出てくる「かんじん」とは、「三十三人衆」と呼ばれる地主層に対しての「勧進」(小作人)という意味で、ここでは「物乞い」「乞食」という意味で用いられている。歌の意味は「私は乞食のようなものだ。(それにくらべて)あの人たちは良か衆(お金持ち、旦那衆)で、良い帯を締めて立派な着物を着ている」となる。

伝承によれば、治承・寿永の乱(源平合戦)に敗れた平氏一族が五家荘八代市)に定着したので、鎌倉幕府梶原氏土肥氏など東国武士を送って隣の五木村に住まわせ、平氏の動向を監視させたという。その後、これら武士の子孫を中心として「三十三人衆」と呼ばれる地主層が形成され、「かんじん」と呼ばれた小作人(名子小作)たちは田畑はもちろん、家屋敷から農具に至るまで旦那衆から借り受けて生計を立てなくてはならなかった。娘たちも10歳になると、地主の家や他村へ子守奉公に出された。五木の子守唄はこの悲哀を歌ったものである。

 

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2 コメント

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あきらさん、こんにちわ。 (閑斎)
2024-08-22 14:50:15
あちらこちらに行かれていますね。
歌の生まれた場所にはそこでしか感じない何かがあるんでしょうね。
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Unknown (あきらとマドンナ)
2024-08-22 14:32:49
 五木村も行きましたが、ダムの影響で新しい街に生まれ変わってしまいガッカリ?しました
椎葉村の方がまだ趣がありました
返信する

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