![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/67/ef/b8f22d7b1e556cde462a5b792f5a2c07.jpg)
ハート形に飾られた可愛らしい祭壇☆
治療法も見つかっていない「グッド症候群」という難病と闘いぬいた母。
去る8月4日 22時38分に,病の苦しみと痛み闘いから解放された。
その日私は大切な用が有ったにもかかわらず,何故か
「今日,会いに行かなければ後悔する」という思いが強く
ドタキャンをさせて戴いて早朝から大阪に飛んだ。
妙な“第六感(?)”の御陰で,母の最後の闘いの勇姿をこの目で
しっかり見る事が出来た。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/d4/6bf3e5705fd3c1a39a6020f2fb6301e9.jpg)
母の回復を疑わず,ご機嫌な午後の父
別の病院に入院している父に,なかなか見舞いの為の外出許可が下りなかったのに
やっと許可が下りたのがこの日。
半年以上ぶりに母に会える事が嬉しくて,上機嫌でお洒落して来ていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hawaii_plumeria.gif)
症例がまだまだ少なく阪大病院でも一例目であった母の難病。
治療の全てが“実験的手探り”だった。
最新の機械を導入して治療に当たって下さる…或は手術の前には都度都度
「この治療法に因って劇的に良くなる保証も無いし,
最悪死ぬ可能性も大きいが,助かる可能性に賭けてみるか?」
という様な内容の,“了解を求める説明”が主治医らから母に告げられる。
家族にしてみれば「何と直接的で残酷な宣告!?」と思える説明にも
「僅かでも可能性が有るなら,チャレンジする!!」と闘いを受け入れ続けた母。
最期には病理解剖を求められ,今後の為の研究用の細胞の採取も求められた。
父,姉,私全員の同意の確認がなされたが,
母も同じ苦しみを味わう人が減るきっかけに役立てば喜ぶであろうと
病理解剖を受け入れるサインをした。
“その御陰”と言うか“廻り”で,通夜と葬儀の準備に1日余裕が生まれ,
6日に通夜,7日が“お別れ会”となった。
“葬式”では無く『お別れ会』とし,
父&母が営んでいた焼き鳥屋時代の常連客さんといつもセッションしていた
曲を弾き語って頂いたり,姉や姪の“手紙”の読み上げをしたり,
義兄が寝ずに編集してくれた母の写真のDVDを上映したり…
焼香時,母の好きだった曲を流し…
私が朗読をしたりという会にした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/6c/4d758cb57379cf2d00fc395b21630946.jpg)
お別れ会の後の食事会では,母の遺影の前で昔のバンド仲間と1曲づつ弾き語りした父
父のギターで母が歌う光景が懐かしく想い出された
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/9f/36f6514da043872213cdbd6cc7f59eb7.jpg)
姉の好意で形見として分けてもらった,母が気に入っていたエメラルドの指輪
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/47/eeab5eca5fdeb965082005eab66f3fa0.jpg)
遺影に使った若き日の母の写真
母自身が一番気に入っていた写真らしく、入院中もこの写真を
肌身離さず持っていたので,姉が遺影に選んだとの事。
母は身体も弱く,身体的特性から「出産は母体の生命の保証は出来ない」
とまで言われ,何度も死産や流産を繰り返しながら,
姉と私が運良く産み落とされた。
まさに,命がけで姉と私を産んでくれた母。
本当に,有り難う。
これからは,お墓の中ではなく私の心に居続ける母…![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/b_bouquet.gif)
治療法も見つかっていない「グッド症候群」という難病と闘いぬいた母。
去る8月4日 22時38分に,病の苦しみと痛み闘いから解放された。
その日私は大切な用が有ったにもかかわらず,何故か
「今日,会いに行かなければ後悔する」という思いが強く
ドタキャンをさせて戴いて早朝から大阪に飛んだ。
妙な“第六感(?)”の御陰で,母の最後の闘いの勇姿をこの目で
しっかり見る事が出来た。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/d4/6bf3e5705fd3c1a39a6020f2fb6301e9.jpg)
母の回復を疑わず,ご機嫌な午後の父
別の病院に入院している父に,なかなか見舞いの為の外出許可が下りなかったのに
やっと許可が下りたのがこの日。
半年以上ぶりに母に会える事が嬉しくて,上機嫌でお洒落して来ていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hawaii_plumeria.gif)
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hawaii_plumeria.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hawaii_plumeria.gif)
症例がまだまだ少なく阪大病院でも一例目であった母の難病。
治療の全てが“実験的手探り”だった。
最新の機械を導入して治療に当たって下さる…或は手術の前には都度都度
「この治療法に因って劇的に良くなる保証も無いし,
最悪死ぬ可能性も大きいが,助かる可能性に賭けてみるか?」
という様な内容の,“了解を求める説明”が主治医らから母に告げられる。
家族にしてみれば「何と直接的で残酷な宣告!?」と思える説明にも
「僅かでも可能性が有るなら,チャレンジする!!」と闘いを受け入れ続けた母。
最期には病理解剖を求められ,今後の為の研究用の細胞の採取も求められた。
父,姉,私全員の同意の確認がなされたが,
母も同じ苦しみを味わう人が減るきっかけに役立てば喜ぶであろうと
病理解剖を受け入れるサインをした。
“その御陰”と言うか“廻り”で,通夜と葬儀の準備に1日余裕が生まれ,
6日に通夜,7日が“お別れ会”となった。
“葬式”では無く『お別れ会』とし,
父&母が営んでいた焼き鳥屋時代の常連客さんといつもセッションしていた
曲を弾き語って頂いたり,姉や姪の“手紙”の読み上げをしたり,
義兄が寝ずに編集してくれた母の写真のDVDを上映したり…
焼香時,母の好きだった曲を流し…
私が朗読をしたりという会にした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/6c/4d758cb57379cf2d00fc395b21630946.jpg)
お別れ会の後の食事会では,母の遺影の前で昔のバンド仲間と1曲づつ弾き語りした父
父のギターで母が歌う光景が懐かしく想い出された
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/9f/36f6514da043872213cdbd6cc7f59eb7.jpg)
姉の好意で形見として分けてもらった,母が気に入っていたエメラルドの指輪
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/47/eeab5eca5fdeb965082005eab66f3fa0.jpg)
遺影に使った若き日の母の写真
母自身が一番気に入っていた写真らしく、入院中もこの写真を
肌身離さず持っていたので,姉が遺影に選んだとの事。
母は身体も弱く,身体的特性から「出産は母体の生命の保証は出来ない」
とまで言われ,何度も死産や流産を繰り返しながら,
姉と私が運良く産み落とされた。
まさに,命がけで姉と私を産んでくれた母。
本当に,有り難う。
これからは,お墓の中ではなく私の心に居続ける母…
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/b_bouquet.gif)
お母さまのご逝去の報に接し,心よりお悔やみを
申し上げます。
大変な難病と闘っていらしたのですね。
7月の日記の文中で,お忙しくも,御両親と和やかな
時間を過ごされた御様子でしたので,御急変にただ
ただ驚くばかりでおります。でも,何ごとにも屈し
なかったお母さまの最後の闘いは,さぞや勇ましか
ったことでしょう。お父様の外出許可がこの日に
おりた事や,遥か東京の地に住んでいらっしゃるきん
ぎょさんに大阪へ行かねばと思い立たせた事。
そしてお別れ会の日にお父様にギターを弾かせた事。
全て天国に行かれたお母様の粋なお計らいだったの
かも知れませんね。ギターを弾くお父様の後ろで
微笑むお母さま。本当にいい顔なさっています。
きんぎょさんもお力落としのことでしょうが,遺され
たお父様のためにも,一刻も早く悲しみからお立ち直り
になる事を陰ながらお祈りしています。
合掌…。
寂しがりの母は,最期の力を振り絞って
「今スグ会いに来てー! 最期を看取ってー!」って
テレパシーを送ったのじゃないかな…と思います(笑)
父も、遠く離れた病院に入院している母に逢いたい一心で治療も頑張り,
最期はしっかり手を握って見送ってあげられたのです。
臨終を告げられて皆ひとしきり母に最期の言葉をかけた後,
それぞれ連絡等を取りに一瞬母のベッドを離れた時。
片足を切断して自由に動けない父は,車いすをベッドギリギリに寄せさせ,それでもベッドによじ上れないので私に手を貸す様に指示し、「ご苦労さん! ありがとう」と言って母の唇にキスしました。
家で商売をしていたので,結婚してからいつも一緒に二人三脚だった父と母。
それだけに,遺された父に空いた心の穴を埋めるのはとても難しい事だと思います。
父の心のケアに心を向けようと思います。
素敵なお別れ会を、お母様はきっと喜んでいらしたでしょうね。
お父様と一緒に、歌ってらしたことでしょう。
お母様、大変可愛らしい方でしたのね。
お父様のキス、じーんとしました。
それにしても、きんぎょさんの第六感といい、お父様の外出許可といい、愛の力ですね。
色んな偶然が重なって家族全員が久しぶりに集結出来たのは
本当に不思議な力を感じています。
思い残す事無く,召されて行ったと信じたいです
幸運なのかどうか分かりませんが、僕は今だに
親しい人や身内のお別れに直面したことがありません。
でも必ずいつかはその場面が来るのだろうと想像して
悲しくなることがあります。
その場に立たれた方の気持ちが分かるわけでは
到底ありませんし、こんな時に何て言ったら良いのか
正直分かりません。。。
ただ、きんぎょ♪。さんの文を見て
やはりこうやって想ってくれる家族がいることが、
お母様にとって、とてもとても幸せな事だったんじゃないか
と思います。
元気出してくださいね。
母と面識の無い方にも,こうしてお悔やみの言葉と
私へ励ましの言葉を頂戴出来て,本当に有難く思っています。
部屋に飾った母の写真に毎日「おはよう」とか「ただいま」と声を掛けていて
むしろ距離が縮まった感じ。
私が早く元気にならなくちゃって思います
びっちさんがまだ,大切な方とのお別れを経験していらっしゃらないのは
幸せな事ですね!!
びっちさん自身も健康に留意なさって下さいね
命の大切さや今ある自分の健康を今まで以上にありがたく感じるようになりました。
祖父はしばらくギターを弾いていなかったのでもうひけなくなったかと思っていたのにとても楽しそうに弾いていて思わず泣いてしまいました。
千の川になってという名曲が流れる世の中
その、すばらしい曲に気持ちも救われますが
流れる度に思い出してしまいます。
着物美人を見かけると「いっぱい譲ってもらった着物をせいぜい着せてもらいましょう」
などと思い出し涙ぐんでしまいます。
じぃにはばぁばんの分も長生きしてもらいたいから,じぃを元気づける手紙やメールを
ちはるもいっぱい出してあげてね
ばあばんも花火大会好きなんだね。
横浜は花火大会が多くて、花火が上がる音が響きます。
でも、行けなくて、、寂しくなってしまいます。
こんばんは、北東に流星が見えるらしくさっき買い物の帰り自転車を運転しながら一個だけ見えました。
ピークは深夜2時位みたいですが、流星のおかげで,とてもうれしくなりました。
私はね,変に重い意味じゃなく,
ばぁばんの好きだった事する時や楽しい場所に行く時は
写真を持ってって,一緒に楽しもうと思うよ
きっとお母様もどこかで微笑んでおられたと思います。
お母様のご冥福を心よりお祈りいたします。
こっちで残された者達がいつまでもメソメソしているのをどこかで見ていて
「あんたら,湿っぽいで!! 私はこっちで結構楽しくやってるねんで
ひばり(美空)ちゃんも居てるし!!」
なんて,言ってるかもしれません