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「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」

この日、何の日? ──中国が喰われていった日々 ①(続々)

2022-06-30 | 侵略
この日、何の日? ──中国が喰われていった日々 ①(続々)

・とはいえ対立物を生み出すのが歴史の鉄則──中国革命運動のはじまり
 アヘン戦争後の状況で最も苦しむことになったのは、下層の民衆でした。清の政府は戦費と賠償金の支払いのため、人々に重税をかけました。銀不足による銀の高騰も人々を苦しめました。税金は銀で納めなければならないという決まりがあったからです。
 そんな中、洪秀全という人物がキリスト教の影響を受け、拝上帝会という組織を立ち上げました。
 中国におけるキリスト教の宣教師は、多くの場合、欧米の支配の手先としての役割を果たし、民衆から嫌われていました。その一方で、神の前の平等を説く思想は、洪秀全のような清のあり方に不満を抱く者の心をつかみ、やがては貧しく虐げられた人々を行動に駆り立てる大きな力となりました。
 似たようなことが16世紀のドイツで起こりました。1624年から25年にかけて30万人もの貧しい農民たちが領主に対して反乱を起こしました。それは「ドイツ農民戦争」と呼ばれ、この主要な指導者は宗教改革者のトマス・ミュンツァーでした。

 洪秀全は地上の天国を目指し、男女平等の土地分配や富の共有など画期的な政策を掲げて、1850年に清に対する武装蜂起を開始しました。
 最初に集まったのは1万人ほどの男女の信者でしたが、清の軍隊に勝利を重ねていきます。1851年に「太平天国」建国を宣言し、各地を転々としながら人々を結集し、1853年には南京を占領して太平天国の首都としました。そこには数百万人もの人々が集まりました。
 当初、欧米列強は太平天国に対して中立の立場をとっていました。それは太平天国がキリスト教の集団であると見なしたこと、そして内乱によって清の力が弱まることは中国支配を進める上で、好都合だと考えたからでした。ところが、太平天国の指導者は、アロー戦争の後に結ばれた条約を批判し出しました。ここから、欧米列強は、太平天国を中国支配の障害物と認識し、キリスト教とは無関係の“邪教”の徒であると評価を変えました。
 清の政府と欧米列強の利害は一致し、その連合軍によって、太平天国は1864年に壊滅させられました。しかし、14年にわたって中国の南半分に大きな影響を与えた太平天国に関する記憶は、直接体験した人はもちろん、後の世代の人々の間にもずっと残ることになります。

・今も生き続ける太平天国
 辛亥革命の中心人物、中華民国「建国の父」孫文は、太平天国壊滅から2年後に生まれましたが、太平天国を描いた文学で育ち、その物語に大いに傾倒しました。
 後に中国人民解放軍の元帥となる朱徳も同様です。彼は、壊滅から22年後に貧しい農民の家に生まれたのですが、彼が幼い頃、村を訪れる旅の職人たちの中に太平軍の兵士だった者がいました。その職人は、太平天国が貧民解放のためにいかに正々堂々と闘ったか、清朝や欧米列強がいかに卑劣であったか、そして、殺されたといわれる指導者は実は生き延びていた、あるいは幽霊となって今もさまよい歩いている、というような伝説を、せがまれるままに語ったのでした。そのことは幼い朱徳の心に深い印象を刻みつけ、後に八路軍(人民解放軍の前身)を組織した時も、民衆を大切にするその規範を軍の規律に取り入れたのでした。
 孫文や朱徳の体験は、ほんの一例にすぎません。中国の人口の80%以上を占める大衆は、太平天国の人々を英雄とたたえる、このような民間伝承や文学に親しんだのでした。それは、太平天国を無頼の徒とする清朝政府の公式見解とは真逆の観点でした。
 中国が、辛亥革命による中華民国の成立を経て、さらに中華人民共和国の建国に至った原動力の一つとして、太平天国は今もなお生き続けています。

 アヘン戦争から太平天国にまでつながるこれら一連の出来事は、現代の中国を理解する上で知っておきたいことの一つです。
(①終わり)


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