薔薇色ファンタジー★ヴェルヴェットの小部屋

色褪せぬ美しきもの・映画・音楽・文学・絵画等。ヴェルヴェット・ムーンのサブchouchouの偏愛日記です。忙中有閑♪

内藤ルネ 『少女のままで』 写真:安東紀夫 『幻想西洋人形館』より

2008-04-29 | 文学・詩・絵画
『少女のままで』

許せない程たくさんの時間が過ぎ去っていた
薔薇色だった固い約束も
今 絶望の色に塗りかえられている
少女はいつまでも大人にならなかった
あの人が帰ってくるまでは
いつまでも少女のままでいようと心に決めていたから―

さめざめとした或る秋の夕暮れ
恋人はひっそりと帰って来た
若さも夢も彼の上から去っていた
少女と恋人は見つめあった
長いひととき やがて何も言わず恋人は部屋から出て行った
光のかげんなのだろうか ひどく年老いた少女は鏡台の小ひき出しから
瓶づめの錠剤を取りだして飲んだ
冷たく横たわった少女を
少女が愛していた人形がテーブルの上から
まばたきもせずに見つめている

詩:内藤ルネ 写真:安東紀夫  「幻想西洋人形館」より


★今日は祝日。”昭和の日”。いつの間にか祝日も増え、名称も変りあまり覚えられずにいるけれど、私はどうしても生まれて多感な時期を生きた”昭和”が好きでいる。今を生き愉しく心豊かに過ごしたいと想うと。あまりお人形のお話はこれまで此方には綴っていなかったかもしれない。幼い頃からお人形遊びの好きな私は中学生になっても帰宅後はまだお人形と遊んでいた。私の歳相応な読物や玩具を母はさり気なく差し出してくれていたように想う。中学に上がる前の春休みに”ビートルズ・ボックス”のレコードと私専用のレコードプレーヤーを買ってくれた。私が望んでいたのではないけれど、そこから今のお仕事に繋がる衝撃を受けた。母の愛溢れる企みのようにも想えおかしい。今から想うと言葉や物以上のものを沢山!両親から頂いて育ったと感謝している。もうこの世にいないけれど、心の中にいつも、いつまでもいてくれる。今はようやくそう思えるようになった。でも涙する...。私はお友達に誘われないといつでもお家で遊んでいる子供だった。子供の頃からぬいぐるみよりもお人形が好きだったので、一人で寝るようになってからは彼女たちと一緒に眠った。何をお話していたのだろう...。

母は少し警戒したのか、私のそれらのお人形を全て従姉妹の少女にあげてしまったときの悲しみを今も覚えている。多分そのことは何かしら尾を引いていたようにも想うし、人にも言えず色々考えたものだ。かなり深刻なことのように。そうして、社会人になってゆく中で再度お人形と一緒に居たい!と想うようになった。ベルエポック時代のアンチック・ジュモーやブリュたちは買えないけれど、私の心のお友達のような彼女たちが今は何人かいる。其々に名前があるのだけれど、不思議なもので最も愛着のある子はオール・ビスクではない。ある日、衝動買いした子。体調のバランスを崩しかけていた頃だった。何故かぶらりと入ったお店で彼女と出会った。目が合ったのだ。躊躇せず彼女を抱きしめるように買って持ち帰った。私が訳もなく涙が溢れて止まらないときに彼女はいつも一緒にいてくれた。お喋りしていたのだ。とても優しく私を慰めてくれた少女。ちょっとふとっちょで他に美人の子はいるけれど、最もよくお話をするのは彼女。私は毎年歳を重ねてゆくけれど、彼女たちは少女のまま。そのドイツの子は多分5、6歳のように幼い。この内藤ルネさんの詩はとても好きなひとつ。お人形がちょっと怖いらしい相方がプレゼントしてくれた小さな御本。お金持ちではないので高価なお人形は買えないけれど、彼女たちは私の愛するレコードや書物たちと同じお部屋で毎日静かに過ごしている。優しく微笑みを湛えて☆

(追記)
ようやくこうして怖気ずに想いを綴ることができるようになった。20代の頃はこのような気持ちを語る友人は僅かな人だけだった。そして、”病的である”ともその頃からもここ数年でも指摘されグスンとなることも。でも、もういい加減自分の気持ちを自分の言葉で語っても罪ではないだろうと想う。大好きな世界は奇妙で多少狂っているかもしれない。でも、ヒーローがデヴィッド・ボウイ様なのだから!捻じ曲がった歪んだ風変わりな世界が相変わらず好きでもあるし、メロドラマも大好き!こんな塩梅で生きている。高校を卒業する直前の仲の良かった友人の言葉が今も鮮明に蘇る。”好きな世界だけ見ていたら、いつか頭を打つよ。もっと広い世界を見ないと。”って。彼女は大人だったのだ、既に。その時、私は泣きながら帰宅した。それでももう随分の年月が経過しているけれど然程変ってはいないようにも想う。でも、私なりに少しは成長してもいる。嘗てのように”大人になりたくない!”とは想わないし、逆に歳を重ねる愉しさを考えたりしている。どなたがご覧くださっているのか分からないのですが、いつもありがとうございます!また、不気味に想われるお方もおられるかもしれませんが、軽く見過ごしてくださると幸いです。今後とも、どうぞよろしくお願い致します♪

吉屋信子 『白百合』 画:中原淳一 『花物語』より

2008-04-13 | 文学・詩・絵画
「花物語」

返らぬ少女の日の
ゆめに咲きし花の
かずかずを
いとしき君達へ
おくる。


このお言葉は『花物語』の序文に記されているもの。昭和14年というのだから同じ昭和でも随分と変容してきたと感じることができる。私はヨーロッパかぶれした子供時代から今に至るけれど、日本語がとても好き!三島由紀夫の文体、泉鏡花の世界、萩原朔太郎...と読み返せば常に新鮮な気持ちになる。それは、今ではほとんど使われない言葉、美しい日本語の響きに心が清められるかのよう。”少女小説”というと一等好きなお方は野溝七生子な私。あまりにも私の心の中に静かに存在するものゆえに、未だ綴ってはいないけれどいつの日にか♪

以前にも書いたのだけれど、私は百合のお花が好き。そして、色々と連なる想いが巡る相性の良いお花のようなのだ。吉屋信子の小説家としての曙、出発点だと仰っておられる『花物語』。私の持っているものは1985年に再販されたものなので、初回版(昭和14年)のものとは漢字や仮名遣いに変更がなされている箇所があるそうだ。上・中・下の三巻の中に数々の花物語が綴られている。少しずつ好きなお話の中から。

花かそもなれ
清きすがた
されどゆくすえ
思えばかなし
かしらなでつつ
われは祈ぎぬ
『神、花の姿、永久に変えぬ』

葉山先生という女学生たちの憧れのマドンナのような存在。慕う少女の気持ちが繊細でいじらしく心痛いほどに伝わる。辞職後、帰郷され、葉山先生は翌年にお亡くなりになった。でも、学舎の少女たちの胸にこのローレライの歌曲(ハイネの詩にリストが曲をつけたもの)は、白百合のお花が”純潔”と囁き咲くかぎりは、永久に共に生きるという美しくたおやかな物語。

独特の文体と世界なので、好きなお方と苦手なお方がおられるように想う。私はごく自然に好きだと想い読む。”少女(おとめ)”という言葉や世界をイメージして吉屋信子の作品を好きになったとも想えない...いつの頃からか自然と。この物語の少女たちのように、ただいつまでも好きなもの、大切にしていたいものたちを胸に永久(とわ)に共に生きていたいと願う。この「クララの森・少女愛惜」に限らず、『BRIGITTE』で好き勝手な拙い綴りは全て私の心の中の大切なもの。変れない、変らなくてよいのかも...と、私の琴糸に共鳴する美しい世界の住人たち、また同じ様に感じておられるお方がいてくださることに勇気付けられて生きています☆

花物語 上 (河出文庫 よ 9-1)
吉屋 信子
河出書房新社

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花物語 下 (河出文庫 よ 9-2)
吉屋 信子
河出書房新社

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