薔薇色ファンタジー★ヴェルヴェットの小部屋

色褪せぬ美しきもの・映画・音楽・文学・絵画等。ヴェルヴェット・ムーンのサブchouchouの偏愛日記です。忙中有閑♪

ジャンヌ・モロー:JEANNE MOREAU / つむじ風:LE TOURBILLON (1962年)

2014-01-09 | 好きなシャンソン
 
 あけましておめでとうございます。今年も、どうぞ宜しくお願い致します。

 元旦に水無瀬神宮へ初詣に参り、篝火(お焚き上げ)を弱い胃腸にいただき、配布してくださっていた甘酒もとても美味しくいただきました。そして、おみくじは吉でした。記されていた言葉たちは、総じて「今までの過程、その先の道のりを地道に歩きなさい」と、いうようなものに感じました。そして、私自身、そのように思っていたので、自分の器内でこつこつ頑張ろうと想いを強くしています。

 この「つむじ風」というシャンソンは、今年最初に聴いた音楽ではないのですが、大好きなジャンヌ・モローがまだお若き頃の、フランソワ・トリュフォー監督の映画『突然炎のごとく』(1962年)の中で歌われる名曲が聴きたくなり、元日に聴いていましたもので、「薔薇色ファンタジー・ヴェルヴェットの小部屋」の2014年最初の記事にしたいと思います。今年は本業の音楽のことを、勝手な想いや纏わる想い出たちと共に、出来るだけ更新を続けたいと思います。

 
Jules e Jim - Jeanne Moreau - Le Tourbillon

 
 ★過去の記事の中に、画像か動画のサイズが大きすぎたものがあったようで、色々修正作業をしていました。やっと、レイアウト崩れが修復でき、ほっとしています。テンプレートもシンプルなものに衣替えしてみました♪


歌姫礼讃!★エディット・ピアフ:EDITH PIAF / 私の兵隊さん:MON LEGIONNAIRE (1937年)

2013-05-22 | 好きなシャンソン
 エディット・ピアフの代表曲である『Mon Legionnaire』は、邦題の『私の兵隊さん』として日本でも長く親しまれているシャンソンの一つではないでしょうか。この1937年頃のピアフはまだお若く、“モーム・ピアフ”と呼ばれていた頃です。モームとは小娘という意味で、12歳から歌い始めたピアフながら歌手としてはまだこれからという21歳の頃。この曲の創唱はマリー・デュバで、作詞はレイモン・アッソ、作曲はマルグリット・モノーによるものです。

私は彼の名前も何も知らない
でも彼は一晩中愛してくれた
私の外人部隊の兵隊さん
そして私を運命にゆだねたまま
その朝、去ってしまった
朝の光の中へ

彼はやせていて美しかった
彼は熱い砂のいい香りがしていた
私の外人部隊の兵隊さん
彼の額に陽がさしていて
そのブロンドの髪が
輝いていた


 同じ1937年のジュリアン・デュヴィヴィエ監督、ジャン・ギャバンとミレーユ・パラン主演のフランス映画『望郷』も大好きです。舞台はアルジェリアのカスバ。この地は当時フランスの植民地でした。パリ万博などの年でもありますが、ヨーロッパでは第一次世界大戦で敗北したドイツ軍が勢力を拡大し、あの第二次世界大戦へと突入してゆく僅か前の時期。そしてフランスは長くドイツ、ナチスの占領下でもありました。また、当時のアジアはヨーロッパ諸国の植民地でありました。大東亜戦争とも太平洋戦争とも呼ばれる大きな世界大戦。日本は強国アメリカと戦うことになるのですね...。


 セルジュ・ゲンスブールもこの『Mon Legionnaire』をカバーしています。セルジュの場合の邦題は『おれの外人部隊』です。アレンジも曲の雰囲気もすっかりセルジュ風になっています。吐き捨てるように実にクールに“モン・レジオネール"と歌う、その表現にセルジュなりの嫌悪をも感じます。少年時代の忘れられない光景がシャンソンと共に刻まれている、そんなセルジュの表現に私はなにか共感を覚えるようなのです。

『不思議の国のジュリエット』 イヴ・シモン(YVES SIMON)

2009-11-10 | 好きなシャンソン
●●●「私の好きなうた」●●●
"YVES SIMON / AU PAYS DES MERVEILLES DE JULIET " 1973年

イヴ・シモンの1973年の「カルチェ・ラタンの孤独」(邦題)の中の名曲の一つ。このアルバムの中には「ゴロワーズ・ブルーの幻想」という名曲も収録されている。どちらを選ぼうかと迷いました。今現在の気分に従いこの「不思議の国のジュリエット」を。現在ではもう作家としての活動に重点を置かれ、最近での音楽作品というと「愛の後に」という映画音楽(シナリオも担当)が私の体験では新しいもの。70年代から80年代に数多くのアルバムをリリースしながら小説も多数。各国で翻訳され出版されている。絶版作も多くまだ少ししか読めていませんが「感情漂流」や「魂のなかの愛」(共に翻訳は永瀧達治氏)もお薦めしたい。イヴ・シモンの魅力はロマンティック!声も歌詞も楽曲も全てがロマンティックなのです。ボヘミアン的な経歴ながらもいつも都会で生きる人間の愛と苦悩を描き続けている様にも思える。この曲の中に出てくるキーワードに大きく反応してしまう私。1973年の古い歌が2003年の今なお色褪せないのです。魂のある歌とはそういうものですね。

ジュリエット、あなたは背中に4枚の赤い翼を付けて
水辺を歩いていた
あなたは少し狂ったレコードテープで、
ルイス・キャロルのアリスを歌っていた
  ママン、ひな菊を摘みに行きましょう
  ジュリエットの不思議な国に
68年の古い映画で、あなたは
フレンチポテトを食べる中国女だった
フェルディナンド・ゴダールは、喫茶店の鏡の反対側から
あなたを解き放っていた
  ママン、ひな菊を摘みに行きましょう
  ジュリエットの不思議な国に
ハリウッドに乗り込むには、あなたは肘を張って行かなきゃ
ならないことをよく知っている
スーパースターやマレーネの娘達が
ジュリエット、あなたをアメリカの夜に閉じ込めてしまう
  ママン、ひな菊を摘みに行きましょう
  ジュリエットの不思議な国に


「BRIGITTE 第03号」より

『ナントに雨が降る』 バルバラ(BARBARA)

2009-11-10 | 好きなシャンソン
●●● 「私の好きなうた」 ●●●
"BARBARA / ナントに雨が降る" 1965年

バルバラ!孤高な気高き旋律。優雅な気品と激情を合わせ持つ神秘な声。初めて、この声に出会った作品にこの曲が入っていました。そして、歌詞の内容を後に知りいっそう好きになった曲です。今まで母から聞かされていたシャンソンというイメージとは赴きの違う、美しいピアノの調べとバルバラの吐息と声に圧倒されたものです。間違いなくこの曲は、シャンソンの名曲の一つとして永遠に語り継がれて行くものでしょう。ユダヤ人であるバルバラの歌手デビューは平坦な道のりではありませんでした。この曲を発表した時、既に30代半ば。60年代のバルバラの声はあまりにも繊細で艶があり、このような悲しくも美しい曲がよく似合います。この室内楽とでも言えそうな、バルバラならではのシャンソン世界を見事に表現していると思います。この曲と出会って10年余り経ち私の父も亡くなりました。今でもこの曲を聴くと悲しくなるのですが同時に私の心を落着かせてもくれます。このピアノとバルバラの声の震えだけで充分な比類なき名曲!私にとっての生涯大切な一曲だと思います。

~ ナントに雨が降る NANTES ~

ナントに雨が降る 私を放ってほしい
ナントの空は私の心を悲しくしてしまう
ちょうど一年前の そんな朝
ナントの街はやはりどんよりとして 私が駅から出た時
今まできたことのなかった街は 私にとっては見知らぬ街
メッセージが来なければ 旅行などしなかったでしょう
"マダム、グランジュ・オー・ルー通り25番地へ お越し下さい
急いで!希望はあまりありません 彼は最期の時に あなたに会いたいといいました"
長い長い放浪の後 やっと彼は私の心の中へ戻ってき
彼の叫びは沈黙を破り... 彼が去ってしまってから 
長い間、私はこの放浪者、この不明者を 待っていた
ああついに彼は私のところへ戻ってきた 
グランジュ・オー・ルー通り25番地 
私はあの出会いをなつかしく思い出し
廊下の奥にあったこの部屋を 思い出の中に深く刻み込んだ 
私が行くと、暖炉のそばに座っていた 4人の男が立ち上がり 
部屋の明かりは寒くて白く 彼等は晴れ着を着ていた 
その見知らぬ人たちに 何も質問せず 何も言わず、ただ彼等をみただけで 
私はすでにもう遅すぎたことが解った それでも私はそこにいた 
グランジュ・オー・ルー通り25番地に 
彼はもう決して私に会うことなく すでにこの世を去っていた 
さあこれがあなたの知っている物語
彼はある晩戻ってきて それが彼の最後の旅 最後の岸辺になってしまった  
彼は死ぬ前に 私の微笑で暖まりたがっていた 
けれどその夜のうちにこの世を 去ってしまった彼 
別れの言葉も"ジュ・テーム"もいわないで...
海に続く道にある 石の庭に横たわって 安らかに眠ることを祈ります 
私は彼をバラの花の下に横たえた 父よ、我が父よ...
ナントに雨が降る そして私は思い出す 
ナントの空は 私の心を悲しくしてしまう...


「BRIGITTE 第01号」より

『かもめ』 唄・ダミア:DAMIA 作・リュシアン・ボワイエ:LUCIEN BOYER

2009-11-07 | 好きなシャンソン
『シャンソンの悲劇女優』と謳われたシャンソン歌手のダミア(本名はマリー・ルイーズ・ダミアン)。映画にもなった『暗い日曜日』や『人の気も知らないで』も大好きだけれど、この『かもめ』は寺山修司や浅川マキの世界と共に私の心に浸透し続けている曲。悲哀のドラマが3分弱のシャンソンの中にある。どこの海だか分からないけれど、遠い異国の知らない時代。でもその海は今も存在するだろう。海で死にゆく船乗りたちの魂とかもめが対になる。死にゆく船乗りたちの声であるかのように、暗い空の下を飛び回りながら信心深い魂を集め悲しい声で啼いている...物悲しくも美しい!こんな悲哀がたまらなく好きで仕方がない。ダミアが歌ったことで有名になったけれど、オリジナルは1905年のリュシアン・ボワイエ(お美しいリュシエンヌ・ボワイエというシャンソン歌手と名が似ています)。英国で舞台出演をした後にフランスに帰国し、1911年頃から歌い始め40年余り歌手として活動されたという、シャンソン・レアリストの代表的なお方。黒い衣装に身を包み暗いステージにはスポットライトのみだったという。また、第二次世界大戦という時代背景もとても重要。先述のジャン・ドラノワ監督の『ノートル=ダム・ド・パリ』にも出演されていたけれど、シャンソンとフランス映画の絆はとても深いもの。このカテゴリーはまだまだゆっくり続く予定です♪

海で死にゆく船乗りたちは
苦い海の底に投げ込まれる
まるで石のように、
不信心なキリスト教徒たちと共に
天国へはゆかないのだ
天使長聖ピエールに会うことなどはできないのだ


『ミラボー橋』 曲・唄:レオ・フェレ 詩:ギョーム・アポリネール

2008-07-07 | 好きなシャンソン
ギョーム・アポリネールの有名な詩のひとつ『ミラボー橋』は、楽の調べと共に記憶されている。私の世代ではない時代の詩であり曲。これらの古き時代の詩情、情感というものが好き。なので、時代の流れも気にならず、すっかり疎くなっているけれどこれで良いと私は想っている。『ミラボー橋』というシャンソンはイヴェット・ジロー、日本でも石井好子さん他、今も多くのお方が歌い継いでいるけれど、やはりレオ・フェレが好きかな。レオ・フェレはアポリネールに限らず、ヴェルレーヌやランボー、ボードレール、ルイ・アラゴン...と多くのフランス詩人の詩に曲をつけて歌ったお方。文学シャンソンと呼ばれるもの。素敵な芸術遺産だと想う☆

『ミラボー橋(Le Pont Mirabeau)』

ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ
われらの恋が流れる
わたしは思い出す 悩みのあとには楽しみが来ると

日も暮れよ 鐘も鳴れ
月日は流れ わたしは残る

手と手をつなぎ 顔と顔を向け合おう
こうしていると
二人の腕の橋の下を 疲れたまなざしの無窮の時が流れる

日も暮れよ 鐘も鳴れ
月日は流れ わたしは残る

流れる水のように恋もまた死んでゆく
恋もまた死んでゆく
命ばかりが長く 希望ばかりが大きい

日も暮れよ 鐘も鳴れ
月日は流れ わたしは残る

日が去り 月がゆき
過ぎた時も
昔の恋も 二度とまた帰ってこない
ミラボー橋の下をセーヌ河が流れる

日も暮れよ 鐘も鳴れ
月日は流れ わたしは残る

訳:堀口大學


アポリネール詩集 (新潮文庫)
アポリネール
新潮社

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『白薔薇(白いバラ)』 ベルト・シルヴァ:BERTHE SYLVA(1925年)

2007-05-05 | 好きなシャンソン
1925年録音のベルト・シルヴァ(Berthe Sylva)のシャンソンの名曲の一つ。『白いバラ』としての表記の方が有名なのかもしれない。今日まで多くのシャンソン歌手の方々が歌い継いでいるけれど、クレシオン(創唱)はこのベルト・シルヴァ。私は世代的にロックやポップス(時に前衛的な音楽も)に慣れ親しんでいる。しかし、これまた母の影響で”シャンソン”という音楽を知る。世紀の大歌手エディット・ピアフが大好きな方だった。ところが、私は当時は(失礼極まりないけれど)ピンと来ず、バルバラやブリジット・フォンテーヌに傾倒していった(今も大好き)。次第にロックやフレンチ・ポップスと同時にシャンソンを聴くようになり今日も変わらない。日本では”シャンソン”と”フレンチ・ポップス”と区別された扱いながら、本来はフランス語で歌われる歌全般(Chanson de varietes)”歌謡”のこと。私のような世代だと、レトロなフランス歌謡をシャンソンと感じるのは仕方のないことかもしれない。”シャンソン”と言えどもいくつかの種類があり、音楽評論家の方々によってもその分類は様々である。この『白いバラ』はシャンソン・レアレストの名曲で、フランスで愛され続け、最も美しいシャンソンの1位に選出(1980年)されたそうだ。

『白薔薇(LES ROSES BLANCHES)』

 それはひとりの小さな パリの少年の話
 その子の身よりといえば母親だけ
 年若く、貧しいその母親は
 悲しみと不幸に沈んだ 大きな瞳をしていた
 彼女は花が大好きで
 ことに、薔薇の花を愛していた
 いたいけなその少年は日曜日ごとに
 自分のほしいものを買うかわりに
 白い薔薇の花を母親にもっていった
 やさしく彼女にだきついて
 花をさしだしながら
 「今日は日曜日だから
 はい、ママン
 大好きな白い薔薇の花だよ
 ぼくが大きくなったら
 花屋に行って
 白い薔薇の花を全部買ってあげる
 大好きなママンのために」

 去年の春
 突然運命はやってきて
 ブロンドの髪の働き者をおそった
 彼女は病に倒れ、そして少年は
 母親が病院に連れて行かれるのを見た
 四月の、とある朝のことだった
 行き交う人々にまぎれて
 体をふるわせながら
 市場に立っていた
 一文無しのあわれな少年は
 すばやくひとつかみの花を盗んだ
 花売りの娘が驚くと
 少年はうなだれて言った
 「今日は日曜日だから
 ママンに会いにいくところだったの
 ぼくはこの白い薔薇の花をとったよ
 ママンが好きだから
 小さな白いベッドの上で
 ママンはぼくをまってるの
 ぼくはこの白い薔薇の花をとったよ
 ぼくの大好きなママンのために」

 心動かされた花売りの娘は
 やさしく少年に言った
 「その花をもっておいきなさい、あなたにあげるわ」
 彼女が少年にキスをすると、彼はかけだした
 人々は晴ればれとした顔で少年を許した
 そして少年は母親に花をあげるために
 病院に走ってやってきた
 するとそれを見たひとりの看護婦がいった
 「あなたのママンはもういないのよ」
 小さな少年は白いベッドの前に
 くず折れるのだった
 「今日は日曜日だから
 はい、ママン
 大好きだった 
 白い薔薇の花だよ
 空の上の
 大っきなお庭に行くんだったら
 この白い薔薇の花を
 もっていくといいよ...」

訳詩:中島三紀 『薔薇色のゴリラ』より


私がこのベルト・シルヴァの歌声を知ったのはフランスのレコード屋さん。90年代の初めのこと。やたらと編集盤など沢山見かけるので安かったのでジャケットの気に入ったものを数枚買って帰った。そして、何だかその歌声に興味を持った。塚本邦雄氏の『薔薇色のゴリラ』という本が好きでその中にこの曲の事も書かれていた。そして、訳詩も載っていて感動した、とても。優しく美しい心に胸を打たれる。これは歌(詩)、でも、ひとつのドラマが描かれている。今の流行歌にはない美しさ。なので、こういう古いシャンソンが好き。このような気持ちは映画を観ても感じることだし、常に思うこと。だからと言って今を生きる私は懐古主義一辺倒に陥ることもなく、好きだと思うものに触れ、それらを堪能し喜ぶ。”温故知新”。私の生活の中で私が生きるためにいつまでも大切にしていたい。