神の羊は神の御声を聞く

「わたしの羊はわたしの声を聞く」黙示録も予言されました。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」

神との正常な関係を築くことは極めて重要である

2020-01-12 22:13:46 | 書籍

神との正常な関係を築くことは極めて重要である

      人間は、自らの心で神の霊に触れることにより、神を信じ、愛し、神を満足させ、それによって神の満足を獲得する。また、自らの心で神の言葉に接する時、彼らは神の霊によって動かされる。正常な霊的生活を実現し、神との正常な関係を確立することを望むのであれば、あなたはまず自らの心を神に捧げ、神の前で自分の心を静めなければならない。自らの心を全て神に注いだ後、初めて、人間は徐々に正常な霊的生活を得ることが出来る。人間が神への信仰の中で自らの心を神に捧げず、心が神の中にあらず、神の負担を自分自身のものとして扱わなかった場合、彼らが何をしても、それは神を欺くことである。そして、まさしくそれが宗教に熱心な人々の行動のすべてである。これでは神から称賛を受けることは出来ない。神はこのような人からは何も得る事が出来ない。こういう人は、神の家の装飾品のように場所を取るだけで何の役にも立たず、神の業の脇役以外に使い道がない。神はこのような者を用いない。このような人間の内では、聖霊の働く機会はない。しかしそれ以上に、このような人には完全にする価値が無い。こういう部類の人間はまさしく「生ける屍」であり、彼らには聖霊により用いられることの出来る要素が全く無い。彼らは、すべてサタンによって占有され、サタンにより極端に腐敗させられ、また、神によって排除される対象である。現在、聖霊は、人間の長所を活用することのみならず、人間の欠点を完全なものとし、変化させることによっても、人々を用いている。あなたの心を神に注ぎ、神の前に静めることが可能であれば、あなたには、聖霊により用いられ、聖霊の啓示と光を受ける可能性と資格があり、またそれ以上に、聖霊によって自分の欠点を補ってもらう機会があるであろう。自分の心を神に捧げる時、あなたは更に深く肯定的な側面に入ることができ、より高いレベルの洞察に達することができる。否定的な側面においては、自らの過ちや欠点が一層分かるようになり、神の意志を満足させることをもっと熱心に求めるようになり、受動的にではなく、活発に真理の道に入るであろう。それは、あなたが正しい人間であることを意味するであろう。あなたの心が神の前に静まっていることを条件として、あなたが聖霊から称賛を享受できるかどうか、また、神を喜ばせるかどうかということの鍵は、あなたが積極的に入ることが出来るかどうか、ということである。聖霊が人に明察を与え、人を用いる時、それは、その人を決して消極的にすることはなく、常にその人を積極的に前進させる。たとえその人に短所があっても、その人はその短所に従って生きることを回避し、自分のいのちの成長の遅延を阻み、また、神の心を満足させることを求め続けることができる。これが、あなたが聖霊の臨在を得たことを充分に証明する基準である。人が常に消極的であり、啓示を受けて自分自身を知った後も依然として消極的で受動的であり、立ち上がり神と調和して行動出来ないのであれば、この種の者はただ神の恵みを受けるが、聖霊はその人と共にいない。人が消極的である時、それは、その人の心は神へ向いておらず、その人の霊が神の霊によって動かされていないことを意味している。このことは、全ての者たちによって認識されるべきである。

      経験から分かることだが、最も重要な課題の一つは神の前で心を静めることである。それは、人々の霊的生活といのちの成長に関する課題である。唯一あなたの心が神の前に静まっている場合のみ、あなたの真理の追求とあなたの内の性質の変化が実を結ぶであろう。なぜなら、あなたは重荷を荷って神の前に来るからである。また、あなたは、絶えず自分に至らないことが多過ぎると感じ、知るべき真理があまりにもたくさんあり、経験すべき現実があまりにも多くあり、神の意志に全ての注意を集中させる必要があると感じているからである。また、これらのことが常にあなたの心を占めており、あたかもそれらがあなたを強く圧迫し、息ができなくなるかのようである。こうして、あなたは心に重荷を感じる(しかし、これは否定的な状態ではない)。神の言葉による啓示を受け、神の霊に動かされる資格があるのは、こうした人々のみである。彼らが神の啓示と光を受けられるのは、彼らの重荷の故である。また、彼らの心は重いからである。またそれは、彼らが払った代償と、神の前で受けた苦しみのためであると言える。というのは、神は誰も特別扱いしないからである。神は人々を常に公平に扱うが、人々に供給する際は無造作ではなく、人々に無条件で与えることはない。これは、神の義なる性質の一面である。実生活においては、まだ殆どの人々がこの領域に達していない。少なくとも、人々の心はまだ完全には神の方を向いていない。それゆえに、人々のいのちの性質には、まだそれほど大きな変化がない。それは、人々がまだ神の恵みの中だけに生きており、聖霊の働きを得ていないからである。神が人々を用いる際の条件は次のようである。人々の心が神に向いており、神の言葉の重荷を負い、神の言葉を慕う心を持ち、真理を求める決意を持っていることである。このような人々だけが、聖霊の働きを得て、頻繁に啓示と光を得ることが出来る。神が用いる人間は、礼儀正しく話し、不注意に語ることが無く、神の前で常に心を静めておくことが出来るが、外見から見ると不合理であり、他の人々と正常な関係を持っていないように見える。しかし、正にこういう人こそ聖霊に用いられるに充分なのである。神の言われるところの、この「不合理な」者は、他の人々と正常な関係を持っていないように見え、彼らには外面だけの愛や実践がない。しかし、霊的なことを分かち合っている時は、彼らは心を開き、神の前での実経験から得た啓示や光を、無私無欲で他の者たちに分け与えることが出来る。彼らはこのようにして神への愛を表し、神の心を満足させるのである。他の者たちがみな彼らを中傷し、嘲笑する時、彼らは外部の人々や出来事、物事により支配されるのを回避することができ、また、なおも神の前で静まっていることが出来る。このような人には、独自の洞察があるようだ。他の者たちがどうであれ、彼らの心は決して神を離れない。他の人たちがにぎやかに、また、おもしろそうにしゃべっている時でも、彼らの心は依然として神の前にあり、彼らは神の言葉について熟考したり、あるいは黙して心の中で神に祈り、神の意図を求めたりしている。彼らは、他の人々との正常な人間関係を維持することを決して主眼とすることが無い。このような人には全く人生哲学が無いように見受けられる。こういう人は、外見上は陽気で、愛想よくて、無邪気であるが、冷静な心も備えている。これが、神が用いる人の人間像である。人生哲学や「正常な理性」などは、このような種類の人間には伝わらない。このような人は、自らの心をすべて神の言葉に捧げており、その心には唯一神しか持っていないように見受けられる。このような種類の人こそ、神の言われるところの「理性の無い」人間であり、このような人こそが、まさに神により用いられる者である。神に用いられている人の印とは、いついかなる所においても、自らの心が常に神の前にあり、他人がいかに放埓であろうと、また彼らがどれほど欲情と肉に耽溺していようと、その人の心は、決して神を離れることが無く、群衆に流されることが無いということである。唯一このようなタイプの人のみが、神が用いるのに適し、まさに聖霊により完全にされる者である。このような境地に達することが出来なければ、あなたには、神のものとされ聖霊により完全にされる資格は無い。

      もしあなたが、神との正常な関係を持ちたいのであれば、自らの心を神に向けなければならない。そして、それを土台として、あなたは他の人々との正常な関係をも得るであろう。神との正常な関係を持たなければ、あなたが他の人たちとの人間関係を維持するために何をしようとも、また、そのためにいかに励み、いかに多くの労力を費やしたとしても、それは依然として人間の人生哲学に属するものであろう。あなたは、人々が自分を賞讃するように、人間の観点と哲学により、人々の間で自らの地位を維持している。あなたは、神の言葉に従って人々との正常な関係を確立してはいない。もしあなたが、人々との関係に重点を置かず、神との正常な関係を維持し、自らの心を進んで神に捧げ、神に従うことを学んだならば、全ての人々との関係も極めて自然に正常なものとなるであろう。このようにすれば、これらの人間関係は、肉の上にではなく、神の愛という土台の上に成り立つのである。そこには肉に基づく相互関係は、ほとんど存在しないが、霊においては、交わりと同時に、互いへの愛、慰め、補給がある。これら全ては、神を満足させる心を基礎として為されるのである。このような人間関係は人生哲学によって保たれているのではなく、神のために重荷を荷うことによって自然と形成される。これらの関係には、人間の努力は不要であり、それは神の言葉の原則により行われる。あなたには、神の心に対して思慮深くあろうとする意欲があるだろうか。あなたには、神の前で「理性の無い」者となる意欲があるだろうか。あなたは、自ら進んで心を完全に神に捧げ尽くし、人々の間で自分の地位を考慮しないだろうか。あなたが接した全ての人々のうち、あなたが一番良い関係を持っているのは、誰であろうか。また、あなたが最悪の関係を持っていたのは、誰であろうか。あなたの人々との関係は、正常であろうか。あなたは全ての人々を平等に扱うだろうか。あなたの人々との関係は、自分の人生哲学に従って保たれているであろうか、それとも神の愛という基盤の上に築かれているであろうか。人が神に自分の心を捧げなければ、その人の霊は鈍感になり、麻痺し、意識を失ってしまう。このような人は神の言葉を決して理解することが無く、決して神との正常な関係を持つことは無いだろう。この種の人は、自分の性質を決して変えないだろう。人の性質を変化させることとは、人が神に自らの心を完全に捧げる過程であり、また神の言葉から啓示と光を得る過程でもある。神の業は、人を積極的に入らせるだけでなく、人が自分の消極的側面を認識した後、その側面を取り除くことが出来るようにする。あなたが、自らの心を神に捧げることが出来るのであれば、自分の霊の中の微妙な動きの一つひとつを感じることが出来るようになり、神から受け取った一つひとつの啓示と光を知る事が出来るであろう。このことをしっかり保ちなさい。そうすれば、あなたは聖霊により完全にされる道へ、徐々に入るであろう。神の前であなたの心を静めることができればできるほど、あなたの霊は一層敏感で繊細になるであろう。そして、あなたの霊が聖霊による感動をもっと感知できるようになればなるほど、あなたの神との関係は一層正常なものとなるであろう。正常な人間関係は、自らの心を神に捧げることを基礎として成り立つのであって、人間の努力によって達成されるものではない。神なしでは、人々の間の関係は単なる肉の関係である。そうした関係は正常ではなく、情欲に耽溺することであり――それは神が嫌悪し、忌み嫌う関係である。たとえあなたが、自分は霊に動かされていると言っても、いつも自分が心を惹かれる人々や、自分が敬服する人々と交わりを持ちたがり、自分が心を惹かれない求道者が居て、その人に偏見を持ち、その人とは交わろうとしないなら、それは、あなたが感情的な人間であり、神との正常な関係を全く持っていないことを、もっぱら証明するだけである。あなたは、神を欺き、自らの醜さを隠そうとしているのである。たとえあなたがある程度の理解を分かち合うことが出来ても、正しくない意図を抱いているのであれば、あなたが為す全てのことは、ただ人間の基準によってのみ、良いと見なされるものである。神はあなたを褒めはしないであろう。あなたは神の重荷によってではなく、肉によって行動している。神の前で自らの心を静め、神を愛する全ての者たちと正しいやり取りをすることが出来るなら、その時初めてあなたは神により用いられるに相応しい者になるのである。このように、あなたが他人とどのように交わろうが、それは人生哲学によるのではなく、神の重荷のことを心に思い、神の前で生きることであろう。あなたがたのうち、そのような者は何人居るであろうか。あなたの他の人との関係は、本当に正常であろうか。あなたの人間関係はどんな基礎の上に築かれているのだろうか。あなたの中には、いくつ人生哲学があるのか。それらはすでに投げ捨てられただろうか。あなたの心を完全に神に向けることができないのであれば、あなたは神のものではなく、サタンから来た者であり、最終的にはサタンのもとへ戻されるであろう。あなたには神の民の一人となる価値が無い。これらのこと全てをあなたは慎重に考慮する必要がある。

 

宗教的な奉仕の仕方は排除されなければならない

2020-01-11 15:07:11 | 書籍

宗教的な奉仕の仕方は排除されなければならない

    

      全宇宙における神の働きが始まって以来、神は多くの人々を神に仕えるように運命づけてきた。そこにはあらゆる社会的地位の人々が含まれている。神の目的は、神の心を満たすことと、神の地上での働きが、必ずとどこおりなく成就するようにすることである。これが神に仕える人々を神が選ぶ目的である。神に仕える人は誰もがこの神の旨を理解しなければならない。この神の働きを通して人々は、神の知恵、神の全能性、また神の地上における働きの原則をよりよく見て取ることができる。神が実際に働きを行なうために地上に来て人々と接触するのは、人々が神の業をより明確に知ることができるようにである。今日、あなたがたのこの集団は幸運にも実践の神に仕えている。これはあなたがたにとって計り知れない祝福である。実のところ、これは神が人を引き上げているのである。神に仕える人の選択において、神は必ず神自身の原則をもっている。神に仕えることは、人々が想像するように、ただ熱心さの問題ではないことは絶対である。今日あなたがたは、神の前で神に仕える人は誰であれ、それは彼らに神の導きと聖霊の働きがあるから、また、彼らは真理を追究する人々であるから、そうしているのを見ている。これらは、神に仕えるすべての人に要求される最低限の必要事項である。

      神に仕えることは単純な作業ではない。堕落した性質が変わらないままの人は決して神に仕えることはできない。もしあなたの性質が神の言葉により裁かれ、罰されていないのならば、その性質はいまだにサタンを表している。これは、あなたの奉仕があなた自身の善意から出ていることの十分な証明である。それはサタン的性質にもとづく奉仕である。あなたは自分の元来の性格のまま、また個人的好みに従って神に仕えている。さらに、自分が行いたいことが何であれ、神はそれを喜び、行ないたくないことが何であれ、神はそれを嫌うとあなたは思い続けている。そして働きにおいては、自分の好みに完全に左右されている。これを神への奉仕と呼ぶことができるであろうか。あなたのいのちの性質は、究極的には少しも変えられることはない。それどころか、自分は神に仕えているのだからと、ますます頑固になり、そのため、堕落した性質はさらに深く根付いたものとなる。このようにして、おもに自分の性格にもとづいた神への奉仕に関する規則と、自分自身の性質に従った奉仕から派生する経験をあなたは内面的に作り上げるようになる。これは人間の経験から来る教訓である。人間の人生哲学である。このような人々はパリサイ人と宗教官僚に属する。このような人々は目を覚まし悔い改めないならば、最後には終わりの日に出現する偽キリストとなり、人間を騙す者となるであろう。話しにでる偽キリストと詐欺師は、この種の人から現れる。もし神に仕える人々が自分たちの性格に従い、自分たちの意思のままに行動したならば、彼らはいつでも追放される危険にある。他人の心を獲得し、見下すような態度で他人に訓戒し人々を制限するために自分の長年の経験を神への奉仕に応用する人、そして決して悔い改めず、自分の罪を告白せず、地位からくる恩恵を諦めない人は、神の前に倒れるであろう。このような人はパウロと同類の人間であり、自分の経歴の長さゆえに大胆に振る舞ったり、資格を見せびらかしたりする。神がこのような人々を完全にすることはない。このような奉仕は神の働きのじゃまをする。人は古いものに固執することを好む。過去の観念、過去からの物事に固執する。これは奉仕への大きな障害である。それらを捨て去ることができなければ、それらがあなたの全生涯を圧迫するであろう。たとえ脚を折るほど走り回ったり、大変な労苦を背負っても、また神への奉仕において殉教したとしても、神は少しもあなたを褒めることはない。それどころか逆であり、神はあなたを邪悪な行いをする者だと言うであろう。

      宗教的な観念をもたず、古い自分自身を脇へやる覚悟ができており、純朴に神に従う人々を、神は今日から正式に完全にし、また神の言葉を待ち望む人々を神は完全にする。このような人々は立ち上がり、神に仕えるべきである。神には終わることのない豊かさと無限の知恵がある。神の驚くべき働きと貴い言葉は、それらを享受するさらに多くの人々を待っている。現状では、宗教的な観念をもつ人、経歴の長さゆえに尊大に振る舞う人、自分自身を脇へやることができない人は、これらの新しい物事を受け入れるのに困難を覚える。このような人々を聖霊が完全にする見込みはない。もし人が服従の決心をせず、神の言葉を渇望していないのならば、新しい物事を受け取ることはできない。そのような人々はますます反抗的に、ますます狡猾になり、最終的には悪い軌道に乗ってしまう。神は現在その働きを行ないながら、神を真に愛し、新しい光を受け入れることのできるさらに多くの人々を引き上げる。そして自分の経歴の長さゆえに尊大に振る舞う宗教官僚たちを、神は完全に切り捨てる。変化を頑固に拒む人々も、神は一人として欲しない。このような人になりたいのか。あなたは自分の好みに従って神に仕えるのか。それとも神が求めることを行なうのか。これはあなたが自分自身で知っておくべきことである。あなたは宗教官僚の一人なのか。それとも神に完全にされる生まれたばかりの赤子なのか。あなたの奉仕のどれほどが聖霊に褒められるのか。どれほどが神がわざわざ称賛するほどでもないものなのか。長年の奉仕の後、いのちのどれほどが変化したのか。あなたはこれらのことをよくわかっているのか。もし真の信仰があるのなら、以前からの古い宗教的観念を脇へやって、新しいやり方で神にさらによく仕えるであろう。今、立ち上がるのは遅すぎない。古い宗教的観念は、人のいのちを抑えつけてしまう。人が得る経験は、人を神から遠ざけ、独自のやり方で物事を行なうようにしてしまう。もしそれらを捨てないのならば、それはいのちの成長のつまずきの石となる。神に仕える人々を神は常に完全にしてきた。神はそのような人々を軽々しく追放することはない。もし神の言葉による裁きと刑罰を真に受け入れるならば、もし古い宗教的実践と規則を脇へやることができ、古い宗教的観念を今日の神の言葉を判断する基準として用いるのをやめるならば、そのとき初めてあなたには未来がある。しかし、もし古い物事に執着し、いまだにそれらを大切にするならば、救われることはない。神はこのような人々には一切気を留めない。もし本当に完全にされたいと望んでいるのならば、以前からのあらゆるものを完全に捨て去る決心をしなければならない。たとえ以前になされたことが正しかったとしても、たとえそれが神の働きであったとしても、それを脇へやり、それに執着することをやめることができなければならない。たとえそれが明らかに聖霊の働きであり、聖霊により直接に行なわれたことであったとしても、今日はそれを脇へやらなくてはならない。それにしがみついてはならない。これが神が要求することである。すべては刷新されなければならない。神の働きと神の言葉において、神は以前にあった古い事柄に言及することはなく、神は昔の歴史を追究することはない。神は常に新しく、決して古いことがない神である。神は過去の神自身の言葉にさえ執着することはなく、このことから、神はいかなる規則にも従わないことが明らかである。この場合、もし、人間であるがゆえに、あなたが常に過去の物事にしがみつき、捨て去ることを拒否し、それらを形式的なやり方で堅苦しく適用するものの、神はもはや以前のやり方では働いていないのであれば、あなたの言動は破壊的ではないであろうか。あなたは神の敵になってしまったのではないであろうか。あなたはそれらの古い物事のせいで自分の全生涯を破滅させてしまうつもりなのか。それらの古い物事のために、あなたは神の働きを妨害する人となる。あなたがなりたいのは、このような人なのか。こうなるのを本当に望まないのであれば、今していることを直ちに止めて、向きを変えなさい。そして、初めからやり直しなさい。神はあなたの過去の奉仕を覚えていることはない。

 

堕落した人間は神を体現することができない

2020-01-10 08:03:02 | 書籍

堕落した人間は神を体現することができない

  人はサタンの影響から解き放たれることはなく、鎖につながれ暗闇の中で生きて来た。サタンに大きく影響を受けてから、人の性質はますます堕落してしまった。すなわち、人は絶えず堕落したサタンの性質を持ち、真に神を愛することもできず生きている。今後、人が神を愛したいと願うなら、独善、自尊心、高慢、うぬぼれ、そしてサタンの性質に属するすべてのものを取り除かねばならない。さもなければ、人の愛は不純で、まさにサタンの愛そのものであり、そのままで神の承認を受けることなど断じてできない。もし人が聖霊によって直接完全にされ、扱われ、砕かれ、刈り込められ、訓練され、懲らしめ、練られるのでなければ、誰も神を真に愛することはできない。もしあなたが自分の性質の一部は神を現していて、よって、神を真に愛することができると言うなら、あなたは傲慢な言葉を語る人で、非常識な人である。そのような人たちは大天使である!人の生まれつきの性質のままでは神を体現することはできない。人は神の完全化を通して生まれつきの性質を取り除き、聖霊の働きを通して神の心を探り、神の心を行って初めて、その生き方が神によって認められる。聖霊によって用いられる人でなければ、肉によって生きる者はそのままでは誰も神を体現することはできない。しかも、聖霊に用いられている人の性質であっても、その人の生き方が神を完全に体現しているとは言えない。その人の生き方は聖霊によって支配されているとしか言えない。その人の性質が神を体現することはできない。

  人の性質は神によって定められている――これに議論の余地はなく、肯定的なことと考えることができる。しかしサタン­­によって大きく影響されて来た。だから人の性質は全てサタンの性質なのである。神の働きはその性質の通り、まっすぐで分かりやすい。だから自分もまたそのように振る舞っているのだと言う人もあるだろう。人もまた神と同じこの種の性格を持っていて、彼の性格は神を体現していると言う。そのような事を言うのはいったいどんな人だろうか。堕落したサタンの性質が神を体現することなどできるのだろうか。自分の性質は神を現していると宣言する人は誰でも神を冒涜しており、それは聖霊に対する侮辱である!聖霊がどのように働くかを見ると、神の地上での働きは征服することのみで、人間の堕落したサタンの性質は大半が清められないままだ。人の生き方は依然としてサタンのイメージを伴っている。それは人の善性で肉の行動を現している。もっと正確に言うなら、それはサタンを体現し、決して神を体現するものではない。たとえ人が地上において天国の生活を楽しむことができるほど神をすでに愛し、「私がどれほど神を愛しても、十二分に愛したとは言えません!」とさえ言うことができ、最高の領域に達していても、あなたは神を生き、神を体現しているとは言えない。人の本質は神の本質とは違うからだ。人は決して神を生きることはできないし、ましてや神のようになることなどできない。聖霊に支配されて人が何かしたとしても、単にその人のする事が神の願うことと一致しているだけである。

  サタンの行いの全ては人を通して示されている。今や人の行い全てはサタンの表現であり、よって人が神を体現することはできない。人はサタンの化身で、人の性質は神の性質を体現することはない。良い性格の人たちも中にはいて、神がそのような人たちの性格を通して働き、その働きが聖霊によって支配されることもあるが、人の性質が神を体現することはない。神が彼らに働くのはただ彼らがすでに持っている物を用い、それを拡張しているに過ぎない。昔の預言者や神によって用いられた人たちでも、誰も神を体現することはできない。全ての人たちは置かれた状況から衝動的に神を愛するようになるが、ひとりとして自覚を持って神と協調しようとする者はいない。肯定的なものとは何だろうか。神から直接もたらされるものはすべて肯定的である。しかし、人の性質はサタンの影響を大きく受けており、神を体現することはできない。肉となった神――その愛、苦難を受ける覚悟、義、従順、へりくだり、目に見えない肉となった内なる神――これらのみが直接神を体現できるのである。これは彼が来た時、罪の性質を持たず、神から直接来たからである。彼はサタンの影響を受けていない。イエスは罪なる肉の姿を取っているけれど、決して罪を体現してはいない。だから、十字架を通して(十字架の苦難も含めて)働きが達成される時まで、イエスの行動、行なった業、言葉は直接すべて神を体現している。イエスの事実は、罪の性質を持っている人は誰も神を体現することができず、人の罪はサタンを表わしていることを証明するに足りる。すなわち、罪は神を体現することはなく、神には罪がない。聖霊によって人になされた働きも、聖霊によって支配されていたと言えるだけで、神に代わって人がそれを成したと言うことではない。人に関する限り、彼の罪も性質も神を体現することはない。今日、また過去にも聖霊によって人になされた働きを見ると、ほとんど聖霊によって成し遂げられている。それゆえに、人は真実を生きることができる。しかしこれはひとつの側面に過ぎない。聖霊によって扱われ、訓練されて尚真理を生き抜くことができる人はほとんどいない。すなわち、聖霊の働きが存在しているだけで、それに対する人の協調がないからだ。わたしの言うことがはっきり分かるだろうか。それでは、聖霊と一致してひたすら励み、本分を尽くすには何をしたらいいのだろうか。

 

神の業の段階について

2020-01-09 11:20:12 | 書籍

神の業の段階について

   外面的には、現時点における神の業の諸段階はもう完了し、人類は既に裁きと刑罰を体験し、打ち砕かれ、また、神の言葉による精錬を受け、効力者の試練や刑罰の時代の精錬、死の試練、引き立て役の試練、そして神への愛といった諸段階を踏んで来たように見える。人間は、各段階で大きな苦難を受けたにもかかわらず、未だに神の意志を理解できずにいる。ちょうど効力者の試練の時と同様に、そこから人間が得たもの、理解したもの、それを通して神が望む成果などの問題について、人間は未だに理解が不明瞭である。神の働きの速度を考えると、現在の進度では、人間が遅れを取り戻すことは絶対にあり得ないと思われる。そのことから分かるのは、神はまず最初にそれらの業の段階を人類に明示しているが、神は、どの段階においても、人間が想像し得るレベルに必ずしも達する必要はない。しかし、神はそれを使って問題を明瞭化しようとしているのだ。人を完全にして本当に神のものにするためには、神が上記の段階を遂行しなければならない。この業を行うことの目的は、一群の人々を完全にするために神が遂行しなければならない段階を、人間に見せることである。故に、神の業の諸段階は外面上は完了しているが、実質的には、神は人類を完全にすることを正式に始めたばかりである。人々が明瞭に理解すべきなのはその事である。すなわち、神の業の段階が完了しているのであって、それは神の業が完了しているということではないのだ。しかし、人間が自分の観念によって信じるのは、神の業の段階は既に人類に明示されており、神の業が完了したことに疑いの余地は無い、ということである。このようなものの見方は完全に誤りである。神の業は人間の観念に則したものではなく、あらゆる面で人間の観念に対する反撃である。神の業の段階は殊更に人間の観念にそぐわないものであり、そのことは神の知恵を示している。このことから分かるのは、人間の観念はあらゆる面で混乱を招くものであり、人間が想像しうることは、すべて神が反撃しようとするということである。これは実経験に基づく識見である。人々は皆、神が速く働き過ぎると思い、彼らがまだ何も理解できずに混乱し、当惑している間に、神の業は知らないうちに完了してしまったと考える。神の業のあらゆる段階が、このようである。殆どの人々が、神は人間をもてあそんでいると思っているが、神の業の背後にある意図は、そのようなものではない。神が働く手段は反芻の一つで、まずは馬の背に乗って疾走しながら花々を垣間見るように行ない、次に細部に及び、その後それらの細部を充分に洗練するのである。それは人間の意表を突く。人間は、あるところに達するまで切り抜けさえすれば神は満足するはずだと考え、神を騙そうとしている。だが実際、どうしてその場しのぎの試みによって神を満足させることができようか。神は、最大限の効果を得るため、また人間に神の知恵を一層認識させ、神の義、威厳、侵害不可能な性質をもっと理解させるために、人間の意表を突き、不意を打つ手段で業を為す。

  神は人間を完全にする業を今公けに開始した。人間は、完全にされるために、神の言葉による啓示、裁き、刑罰を受け、神の言葉による試練と精錬(効力者の試練など)を受けなければならない。それに加えて、人間は死の試練に耐えることが出来なければならない。つまり、神の意志を本当に行う者は、神の裁き、刑罰、試練のただ中でも心の奥深くから讃美に溢れ、完全に神に従い、自我を捨て去り、こうして誠実で純粋な心を一つにして神を愛することが出来る。こういう人こそが完全にされた者である。またそれは、神が行いたいと願い、達成することを望んでいる業でもある。人間は、神が働く手段について、安易に結論を出してはならない。また、人間はただ、いのちの中へ入ることを追求できるだけである。これが基礎である。神が働く手段を絶えず詮索してはならない。それは、あなたの将来性を妨げるだけである。あなたは、神の働く手段を現在どれほど見たことがあるのか。あなたは、どれだけ従順であっただろうか。神が働く手段の一つひとつから、どの程度得るものがあったであろうか。あなたは、神により完全にされることを望んでいるであろうか。あなたは、完全な人間となる心構えが出来ているであろうか。あなたがたが完全明瞭に理解すべきなのは、これらのことである。それこそが、あなたがたが入るべきことなのである。