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放送大学で、学んでいます

大学を出ているので、編入で全科生になりました。心理学を中心に学びまして、今は、再入学により、再び学びを始めました。

中村仁一「『治る』ことをあきらめる『死に方上手』のすすめ」講談社+α新書、2013年

2013年12月05日 | 読書日記

「大往生したけりゃ医療とかかわるな」や「どうせ死ぬなら『がん』がいい」などのタイトルでおなじみの中村仁一先生の「死に方」提言の書である。高齢化社会の中で、求められているにもかかわらず、類書は少ない。ただ、本書では、ご自身の「仏教」体験へも言及されているように、底流には、「特定の」仏教思想が流れているのかなあという印象を受ける。なので、科学の枠組みでの議論には、適さないのだろう。こんなに高齢化が問題になっているのに、「老人学」という分野は、まだ、手つかずにあるように見える。心理学でも、ほんの少し前までは、考察対象は、成人に達するまでで、精神分析の系譜としてエリクソンのアイデンティティー理論が人の一生をカバーでき、しかも、有用なものとして存在するのみなのかもしれない。老化とは、アイデンティティーのゆらぎを伴うために、青年期におけるアイデンティティーの問題とは、また、異なる対応が求められるのだろう。実際、教科書にしばしば引用される「ライフサイクル理論」は、「老年期」までカバーしている。「老年期」の課題は、統合と絶望である。「アイデンティティー」とは、「私とは何なのか・私は何が出来るか・私は何をしたいのか」がバランスよく保たれている感覚をいうものだとすれば、日常の忙しさで気づいていなかった齟齬に直面するのが、老年期だと言えるのかもしれない。かつては、そのような葛藤があったとしても、程なく死が訪れたので、そんなに大きなトピックになり得なかった。

私も、その端くれであって、老眼に悩まされながらも、可能であれば、若くありたいと願っていたりする。口では、「そんなに長らえても・・・」というけれども、それなら、その旅支度が整っているかというと心許ない。

定年に達した方やその後も働いているけれど、何かしら不安があるとすれば、そういう旅支度が出来ていないからなのだろう。しかも、青年期の旅のときのような「ワンダーフォーゲル」であるとか「バックパッカー」であるといったムーブメントもないに等しい。それに似たものとして、四国巡礼などが挙げられるけれど、還暦を迎えたぐらいでは、ちょっと抵抗があるのではなかろうか。

世界が、このような状況であるからこそ、人に頼らず、自分で試行錯誤して、自分なりのアイデンティティーを確立していくことが可能なのだとも言えよう。

通常の「老人医療」に異を唱える著者の情熱を糧として、「私は、どうしたいのか、私は、何が出来るのか」を問うていきたいと思う。

 

世の中が、「言葉」の世界である限り、そこから「自由」になることは、本当に難しいことである。

 

本書の提言は、多くの人の参考になると思う。これを読んで、自分自身で考えたり、人と対話することで、多少ともボラティリティーがあるにせよ、そこからインテグレーションへむけた行動につながるといいなあと考えている。