放送大学で、学んでいます

大学を出ているので、編入で全科生になりました。心理学を中心に学びまして、今は、再入学により、再び学びを始めました。

ホームページビルダーで、ホームページをWordPressにしました。

2013年12月25日 | Weblog

時間がなく、延び延びになっていたWordPress計画(CMS)の端緒につきました。

まだ、コンテンツは、ホームページビルダーのデフォルトのままですが、レンタルサーバ「ロリポップ」で、ひとまずインストールされたようでうれしいです。

IEでも、スマートフォンでも、ちゃんと見えるようになっています。

ただ、ホームページビルダーによりHTMLで作られたサイトが、自動的に、WordPressに変換されるわけではありません。

サイトは、一から作り上げないといけないのですが、様々な設定をしなくても、一応、できあがるというのがすごいです。

便利なのは、もともとブログなので当たり前ですが、ブログのようにブラウザから書き込めるのが便利です。


続・面接授業体験記 「学問への憧れ 学生文化の昔と今」稲垣恭子先生

2013年12月23日 | 学習センター・面接授業

ただ、授業時間が短かったために、本来語られるはずであった’80年代以降は省略されることになったのは、残念であった。

バブルに浮かれて失われた’80年代は、時代の転換点を予見し、沈黙した時代なのかもしれない。

アイドルを崇拝し、ダンスミュージックが流行り踊り狂った時代で、警鐘を鳴らすものが隅に追いやられたように見える時代でもあった。

 

そういう時代をどう解釈するのか?

 

私の宿題として残ったのは、

1.「高等女学校」が、外国人によるキリスト教系の学校に対抗する目的で作られたものであったとしても、その「女学校文化」は、文化レベルでは、男子の文化と相補的な関係にあり、そういう雰囲気が人に与えた影響も多かったのだろうこと。それが、その後の彼女たちの社会生活において現象レベルとして特徴的に現れているものは何なのか。

2.とりわけ、’70年代とそれ以降を特徴付けるもの 今の学生は、どうなのだろうか。

3.日本は、明治以降、強固な社会構造(とりわけ学校制度)を維持することに力を注ぎすぎた結果、多少の平準化はもたらしたであろうが、それにより、ブルデューが想定したような文化資本を背景に時代を切り開く思想や諸々を創造するべき人が誕生しえていないこと。

4.3.の結果、平準化への希求が、かえって、社会格差を生み出したこと

などなど、多くの疑問を抱えるに至った。

 

稲垣先生は、大変エレガントなタイプの先生で、オリジナリティーのあるリサーチにより、研究をまとめられていて、たいへんすばらしい講義であったと思う。

できれば、「学生文化の現在」についての講座が、来期開講されるのを期待したい。

 

私は、心理学を主として、学ぼうと思っているので、女性の教授が「女学生」について語るということがなかったら、この面接授業を申し込んでいなかったはずである。

今年の秋には、金沢で、鈴木大拙館を訪ね、西田幾多郎との接点についても触れてきたことも、無意識下で、何らかの予感があったのかもしれない。

 

やはり、放送授業より、迫力もあるし、もう少し勉強しようという意欲も出てくるし、面接授業は、よいものだなあと感じている昨今です。


面接授業体験記 「学問への憧れ 学生文化の昔と今」稲垣恭子先生 in Kyoto branch

2013年12月23日 | 学習センター・面接授業

12月21日は、寒くて雨が降るだろうという予報があったので、万全の体制で臨んででかけることにしました。仕事柄、長時間机に向かっているのは慣れているというものの、実習・実験ではなく、講義というのは、かなり疲れるものです。

分野としては、「歴史社会学」に属する研究といえるものなのでしょう。

第1日目は、主として明治に入ってからの教育制度、とりわけ、旧制高校・帝大に焦点が当てられて、その全体像を俯瞰することから始まりました。第2日目は、高等女学校卒業生に関するリサーチの分析結果と、その背景やそれらに基づく考察がなされました。

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分析枠組みとして、N.エリアスが概念化した「文化」と「文明」、また、P.ブルデューの文化資本論などが用いられていた。

極めておおざっぱなまとめを行うとすると

エリアスが言う「文化」=旧制高校       ブルデューがいう「文化資本」 江戸文化や京都文化            女学生(高等女学校)

          「文明」=旧制女学校                「文化資本がない」 旧山の手文化(薩長藩邸)    地方から努力して帝大に来た学生

 

という結論になる。

 

さらには、

 

女学生=たしなみ文化 +α

という概念化を行っている。

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以上が、私がまとめた要点です。

ブルデューが文化資本、そういうものがなんとなくあるなあと実感するには、放送大学の面接授業のクラスではだめで、日仏学館のフランス語講座であるとか、

ドイツ文化センター(ゲーテ・インスティテュート)などのドイツ語会話講座などに行かないと、日本では、そのようなお嬢様がたには出会えません。

 

会話の内容が、「今年のニューイヤーコンサートは、・・・」とか話されているときのコンサートは、浜崎あゆみではなく、ウィーン・フィルなのです。

ウィーン・フィルの演目は、シュトラウスなどになりますから、ブルデューからすれば、レベルの低い文化階層ということになるかもしれません。

日本では、「第九合唱」が年末によく行われますが、これは、大衆文化であって、ベートーヴェンだけれど、それに皆が慣れ親しんでいるわけではないので、ちょっと滑稽なのです。

 

社会学に関しては、ほとんど知らない私は、講義の中身までは、書くことは能力的に無理なのですが、ブルデューの構成概念にうまく収斂されており、興味深く有意義な授業でした。

ただ、様々な疑問も生じたのも事実なのですが、それらは、来世まで持ち越すことになりそうです。

なお、参考文献としては、下記のものが指定されています。

・教育文化を学ぶ人のために(稲垣恭子 編/世界思想社/¥2,310/ISBN=9784790715245 )

女学校と女学生―教養・たしなみ・モダン文化 (中公新書)
クリエーター情報なし
中央公論新社

京都学習センター喫茶室での昼食について 800円が640円になる不思議

2013年12月22日 | 学習センター・面接授業

京都学習センターでの面接授業「学問への憧れ・・」という講座に出てきました。

教育社会学を研究されている先生で、専門は「女子学生」らしいです。稲垣恭子先生という京大の先生です。放送大学でも、講義されていたようですが、すでに閉講になっています。

これは、心理学ではなく、社会学的考察なので、個別的な話題よりも、社会的普遍性を発見するのが、この学問の役割なのでしょう。

 

たとえば、夏目漱石の「こころ」を当時のエリート学生が物語るものとして読み替えると、その当時の様子が分かったりするのがおもしろいです。

 

わたしは、昔と現在を比較するには、集団の規模が違う点が気になったのですが、それも考察対象はいるらしくマーチン・トロウが、高学歴者が全体の何パーセントを占めるかで、高等教育を受ける人の割合が増加すれば、質的変化をもたらすという理論を提唱していたりして、おもしろいです。生涯学習における放送大学は、エリート教育のための機関ではないので、あまり、関係はありませんが、でも「知は力なり」と述べたベーコンが述べたように、マスの教育レベル・知識レベルが高まれば、それなりの社会的影響はあろうかとも思われます。

第1日目は、旧制高校から帝大へ進学するエリートなどが、なぜ、教養主義を受け入れたのか、あるいは、そういう主義になびいたのかについて、社会学的考察が述べられました。構造的なものとして、山の手文化と江戸文化を類比させて、前者が後者を駆逐していく様子との類似点なども説明されました。薩長の田舎ようなのエートスが、都会であった江戸の文化を侵食したように、田舎的規範が、教養主義に向かわせたのだという指摘には納得できました。

そういう意味では、歴史的経緯を背景に置けば、うまく社会現象を説明できるトピックだろうと思われます。

さて、昼食ですが、今回も、1階の喫茶店で、ピラフ定食を食べました。学生証を見せると、800円が、640円になります。

 

 

授業で、日経新聞の「私の履歴書」で、12月は、コトラーが書いているので、つい連想してしまったのですが、この喫茶店は、ある意味で、一般客を排除はしないんだけれど、ちょっと、学生でないと損だよと思わせることで、お客さんを選別しているといえましょう。

 

学生と言っても、社会人学生だと、定年退職者は、比較的貧乏なのに対して、現役の人だと、そうでないひともいることでしょう。

 

最近の大学の食堂は、お店も味もよくなっていて、むしろ、街中で食べよりもおいしいこともあるらしい中、どうして2割引なのか気になりました。

 

まあ、勉強している人を応援していますというのが、本当のところかもしれません。写真では、スープとサラダは食べたあとですが、このピラフのあとにコーヒーまで付いてきます。

 

お得感は、すごくあります。味も、悪くないので、京都学習センターに来られたら、利用されるのもいいかもしれません。


CHINA HISTORY 北新地 凍頂山 (トンチンシャン)で、天津飯を食す。in 京橋 京阪モール1F 片町口方面

2013年12月20日 | 生活全般

ときどき、昼食を食べに行く店のひとつです。

天津飯は、醤油味や甘酢味などから選択できます。雰囲気もよいので、気に入っている店のひとつです。

味も、上品な感じがして、街の中華料理屋とは趣が異なります。

天津飯に、サラダ、スープ、漬物2種類そして、杏仁豆腐のデザートも付いて、1000円。近くの大阪王だと、単品で500円ぐらいだったと思います。


幸福そうなな感じのカウンセラー、幸福そうなクライアント

2013年12月20日 | 臨床心理学

放送大学の面接授業は、ほぼ、初めて顔を合わすひとで構成されているので、土日連続講義の「臨床心理学実験・演習」は、さながらエンカウンターグループのような感じなるのも致し方ないことなのだろう。

「百聞は一見にしかず」ということわざは、すべての事象に対して、そうでないのは、一見してもよく分からないことを体験していると、「見なかった方がよかった」という結果に終わっていることを知っているからなのだろうか。

でも、イメージ療法は、体験してみないと、本を読んでいるだけでは、よく分からないのも事実なのではないでしょうか。

 

エンカウンターグループの体験記憶が、指数関数的に下がっていき、日常の世界にもどるように、そういうような感覚が、今の私にはあります。

 

そういう感覚を何とかして今のうちに書きとどめておきたいという思が強いのですが、文字化することの困難さがあって、日を追う毎に薄れてしまうんだろうと思っています。

 

幸福を広く分け与えることが出来る「幸福なカウンセラー」だと、こういうカウンセリングの世界では、よいのだろうと思います。

 

たいそう幸福な充実した人生を過ごしてきた人が、カウンセラーをめざすのかどうかは、なかなか分からないところですが、それは、ひとつの重要な要素だろうと思われます。

 

世の中には、不幸な人も多いので、本質的に幸福な人が、カウンセリングにやってくることは、あまりないのだろうと推測されます。

 

そうすると、カウンセラーも幸福で、クライアントも幸福だという幸福なもの同士のカウンセリングは、たぶん、ほとんど存在しないのでしょう。

 

どうしてみんながすべて幸福ではないのでしょうか。

 

自分の幸福をどうして他者に分けようとしないのでしょうか。

 

生まれてくると言うことは、それは均一でないにせよ、不幸を背負うことなのかもしれません。

 

 


便利な電子ブック「涼宮ハルヒの憂鬱5」を読む

2013年12月18日 | 臨床心理学

伊藤 ゆう「天使のdéjà vu」 講談社、1993年は、どうも絶版のようなので、今は、読むことが出来ません。

「涼宮ハルヒの憂鬱5」が電子書籍にありましたので、読んでみました。 キーワードは、「既視感」と「ループ」です。


「ループ」する感覚というのは、わかりにくいのですが、今の若い人たちには、そういう感覚に共感するものたちも出てきたと、川部哲也先生はおっしゃっていました。

この作品から受ける印象は、安部公房チックな感じもしなくはないのですが、70年代の時代精神における位置づけとは、現代では、かなり乖離があるので、読んでも懐かしい感じはしないのだろうと思います。

映画「マトリクス」(The Matrix)の話も出ていて、これは、劇場公開されたとき見ていたのですが、アクション映画と勘違いしていたこともあって、がっかりした記憶がよみがえってしまいました。しかし、空間がコンピュータによって閉鎖されている事態を描いた映画だと聞いて、そういえば、なるほどという思いがしました。

この「マトリクス」に対する評価は、話題にはなったけれど、誤解に基づいた批評も見られた。たとえば、そんなところに、漂っていないで、みんなで脱出するなりできひんの?といったイライラ感などを表明する人もいたように記憶しています。

 

時代は、「回る」時代から、「無限ループ」の世界に移りつつあるのかもしれないですね。

たとえば、就活がうまくいかなくて、派遣社員として、工場に赴いたとしよう。技術がないから、コンピュータによって管理されることになる。昔だと、人間がいて、「この部品は、あそこの棚の2段目にあるので、探してきなさい。」とか会話があるのだが、部品がなくなると、コンピュータが、部品調達カートのスイッチを入れよという指示を出すので、そばにあるそのスイッチを押すと、「D-4」という文字がディスプレイに表示され、矢印が、ピコピコと点滅し始める。その矢印の方向に沿ったラインに沿うように進むと、方向転換のアラームが鳴って、倉庫の方へと矢印の点滅が変わる。機械に指示されながら、倉庫の棚に着くと、カートと棚のセンサーが交信して、その部品のあるボックスのLEDが点滅する。手に取れるところのものは、箱が開いたら、ディスプレイに表示された個数をとるまで、カウントされ、終わると知らせてくれる。次の棚に行くように、ディスプレイに表示される。標準原価計算に基づく数量の製品を作るために定められた、標準移動速度より遅かったときは、今回の部品の運搬の出来具合は、CC評価になり、それは、コンピュータに記録される。次回も同じC評価だと、コンピュータは、解雇要因リストに自動的にピックアップしデータ化する。

連続C評価がたたり、それを見た人事課の人が、解雇してしまうと、次の職場に派遣されるのだが、今度は、バウムクーヘンの材料を運ぶ係だとしても、すべて、コンピュータに命令されて働くことになる。

 

そのとき、人は、既視感を体験するかもしれない。ループという世界に入ってしまうと、それが、普通の体験として認識するようになってしまうのかもしれないですし。

先日、ウェラブルコンピュータの話題をNHK「クローズアップ現代」でやっていたが、そういう時代が来ているのだろうと思うひとも多いかもしれません。

 

中島みゆきが「回る 回るよ 時代は回る」と謳ったときは、そこには、また、よいときも来るからねというメッセージがあったように思うのは、私だけでしょうか。

 

「ループ」は、そこから逃れられない。「ループから逃れようとする」ものには、ループから排斥されるのである。


臨床心理学実験・演習Bの面接授業体験談

2013年12月16日 | 学習センター・面接授業

担当の川部哲也先生は、心理療法家で、研究者としての存在は、仮のお姿なのだそうだが、おそらく教育にもたいそう熱心でおられるようで、二日間の授業は、老身にはややこたえました。

機銃掃射のように、飛び出すトピックは、大泉洋の水曜どうでしょう』という北海道テレビ放送のローカル番組から「LINEはずし」まで、多岐に亘りましたので、それらを消化するには、もうしばらくかかりそうです。

佐々木玲仁 『結局、どうして面白いのか ──「水曜どうでしょう」のしくみ』、フィルムアート社、(2012)

にある当該番組紹介が、最後まで、伏線となり、私は、まだ、見たこともなく、その書物を読んだこともないのに、川部ワールドに浸ることとなりました。

この種の授業は、「禅」の体験に似たようなところがあって、文字にすらできないものは、いくら、このようなメディアが発達しても、本質を伝えることはできません。

「禅」においては、こころならこころを言語化しないというか、するならば、こころのように言語化する「方法」が取られるために、言語に必ず「意味やイメージ」と結びつける「くせ」がついていると、ことばの持つ音としての世界を体験することが不可能なのと似ています。

第1日目は、「既視感」に関して、あるマンガが紹介されたり、「バラエティー番組」研究としての「水曜どうでしょう」の話があったりして、意表を突かれ、そっちの話のほうがおもしろそうという後ろ髪を引かれながら、「言語によるコミュニケーション」とウィニコットが開発したスクイッグル法を使った「言語によらないコミュニケーション」の実習がありました。が、後者のほうは、それから派生した方法であったかもしれません。

第2日目は、宮崎駿「千と千尋の神隠し」のアニメを見て、その中にある「成長」のモチーフなどを発見するというような課題と、風景構成法の実習がありました。後者は、かなりおもしろいです。何となく知ってはいるけれど、実際には行ったことがなかったので、新鮮でもありましたし、イメージで、たとえば、幸福な感じなどを他の人に分けてあげられるような、そのようなことが可能なのだろうという感覚を得たことは、大変な驚きでもありましたし、楽しいできごとでありました。

順番からすると「心理学実験」を先に五つ並べて抽選に臨んだ結果、5つ外れたものの、満足度は、かなり高かったので、偶然というのも侮れません。


おそらく、1980年代前半頃に、「風景構成法」という名前の書物が、中井久夫著作集の別巻として書店に並んでいたように思います。それから、約30年余にして、それが、どういうものなのかをおおよそ知る機会が得られたことになります。 

最後に、参考文献。

下記のうち、「大人になることのむずかしさ」と「ぼくらの中の発達障害」は、読了済み。後者は、最近の書物ですが、前者は、かなり昔にでています。

ちなみに、「水曜どうでしょう」のDVDもローソンで発売されたりもしているようです。





臨床心理学実験・演習B

2013年12月08日 | 学習センター・面接授業

平成25年12月14日・15日に臨床心理学実験・演習Bの面接授業があります。用意するものとして、

・黒サインペン(中細) ・12色以上のクレヨン
・A4版  画用紙4枚(100円ショップで購入可) ・動きやすい服装

が、書かれています。

とりわけ、動きやすい服装というのが、どの程度なのかわかりにくいのですが、女性の和服などはだめなのかもしれません。

ただ、和服も、見た目が和服というと、華道や茶道を連想させ、「静」のイメージがあるのですが、

和服しかなかったときは、これで、動き回っていたわけですし、特別な留め袖だとか小紋だとかは、よそ行きの着物なので、TPOさえわきまえれば、

動きやすい服装だろうと思われます。ただ、着るのがたいへんです。

同様に、ビジネススーツも、若者向けのストレッチが効くものでも、ちょっと動きやすいイメージはないでしょう。

作業服や防災服などは、動きやすいイメージがあります。

衣食住という言葉があるように、衣服は生活のなかで重要な要素を占めます。動物で言えば、クジャクの羽のような役割もあります。

自分を他者に対して、アピールする目的もありましょうし、それ故に、何を着ていこうかと悩むわけです。