放送大学で、学んでいます

大学を出ているので、編入で全科生になりました。心理学を中心に学びまして、今は、再入学により、再び学びを始めました。

本能寺に寄ってきました。

2014年05月18日 | 京都巡り

平成26年5月17日(土)。仕事を終えたあと、昔ながらのホットケーキを食べようと思って、三条寺町を上がったところにある喫茶店を訪ねたのですが、その途中に歴史的に有名な名前の寺である「本能寺」に寄ってきました。

寺町通りは、ずっと上(カミ)にあがると、昔住んでいたところもあり、大学に通っていたときも、通学路としてよく歩いてたので、懐かしいはずのところなのですが、ずいぶん変わってしまいました。

寺町通りの古本屋さんの中には、仏教書を専門に扱っているところもあって、仏教研究には、なくてはならない存在です。その古本屋さんも、2軒ぐらいになってしまいました。

今年は、NHKの大河ドラマで、織田信長が登場することもあってか、観光客や修学旅行生の姿も多かったです。

「本能」という字を見ると、生物は、生きようとする「本能」があるとか言う使い方で知られるように、その「本能」を連想しがちですが、それは、instinctの翻訳語として、明治期に導入された概念であるようです。

 

フロイトは、「生の本能」と、あとから、ユングの学説を受け入れる形(正確ではないですが)で、晩年には、「死の本能」(タナトス)という人間に備わった「コト」を自らの理論に付加するに至りましたが、

私の感覚からすると、あるとしても、「死の本能」は、無意識の世界に潜んだまま、ほぼ意識化されないような感じがあります。

イメージの世界での、たとえば、「死と再生」(ユング)は、あるのだろうと考えられますが、「本能しての死」は直観的にも知覚できないような気がしています。

つまり、「心機一転してがんばります」というようなときに、古いものを脱ぎ捨てるような感覚は、分かりそうに思えますが、「死」を意識することは、まれなことだろうと思われます。

 

いろんな連想の湧く「本能寺」へ寄ってきました。


高野山金剛峯寺にお参りに行き、お守りを頂いてきました。

2014年05月11日 | 放浪や旅行

空海と言えば、高野山。その金剛峯寺にお参りに行き、お守りを頂いてきました。

数年前に行ったときにもらってきたお守りが傷んでしまったので、他のお守りで代用していたのですが、しっくりこないので、高野山へは早く行きたいと思いながら、今頃になってしまいました。

高野山も、いわゆるパワースポットで、神や仏などの世界との接点であるのでしょう

平成27年は、開創1200年とかで、プレイベントも始まっています。2014(平成26)年5月10日(土)に行ったところ、「阿字観」の体験イベントが企画されていました。「阿字観」は、梵字の「阿」という字に向き合って瞑想する修養法です。

天台宗の「小止観」や「摩訶止観」も、瞑想法ですが、瞑想などの具体的方法や瞑想中の注意事項及び展開などが具体的に書かれていて、臨済宗や曹洞宗などの禅による瞑想よりは、方法論が具体的である点で、言語的な情報は多いものの、

どこでも出来るというものではなさそうです。「阿字観」を行うには、梵字で「阿」と書かれた道具が必要なので、それが、ある種の制約になっています。むやみやたらと行って、人格が変化するとか、よくない方向に行くのを防止する「枠組み」として作用しているようにも感じられます。

来られている方の中には、巡礼用の衣装を身につけた方も多かったです。