平成26年5月17日(土)。仕事を終えたあと、昔ながらのホットケーキを食べようと思って、三条寺町を上がったところにある喫茶店を訪ねたのですが、その途中に歴史的に有名な名前の寺である「本能寺」に寄ってきました。
寺町通りは、ずっと上(カミ)にあがると、昔住んでいたところもあり、大学に通っていたときも、通学路としてよく歩いてたので、懐かしいはずのところなのですが、ずいぶん変わってしまいました。
寺町通りの古本屋さんの中には、仏教書を専門に扱っているところもあって、仏教研究には、なくてはならない存在です。その古本屋さんも、2軒ぐらいになってしまいました。
今年は、NHKの大河ドラマで、織田信長が登場することもあってか、観光客や修学旅行生の姿も多かったです。
「本能」という字を見ると、生物は、生きようとする「本能」があるとか言う使い方で知られるように、その「本能」を連想しがちですが、それは、instinctの翻訳語として、明治期に導入された概念であるようです。
フロイトは、「生の本能」と、あとから、ユングの学説を受け入れる形(正確ではないですが)で、晩年には、「死の本能」(タナトス)という人間に備わった「コト」を自らの理論に付加するに至りましたが、
私の感覚からすると、あるとしても、「死の本能」は、無意識の世界に潜んだまま、ほぼ意識化されないような感じがあります。
イメージの世界での、たとえば、「死と再生」(ユング)は、あるのだろうと考えられますが、「本能しての死」は直観的にも知覚できないような気がしています。
つまり、「心機一転してがんばります」というようなときに、古いものを脱ぎ捨てるような感覚は、分かりそうに思えますが、「死」を意識することは、まれなことだろうと思われます。
いろんな連想の湧く「本能寺」へ寄ってきました。