神が創造したのは、唯一神の子である実相としてのキリストである「私」である。
「神」と「神の子」は、実在として、完全な一体なので、
「神はある」と「私はある」は、実在として一体であり、それ以外には存在しない。
完璧な神の子、つまり、実相としてのキリストである「私」は、神の創造能力も受け継いだ。
「私」は、「私」を創造した神を知りたいと願った。
しかし、神の子が、神を知ろうとしたとき、つまり、客体である「私」が、主体である神を知ろうとしたとき、
客体が主体であろうとする矛盾が生じ、それは、「私」が神の主体性を奪うことになり、
ひとつである心に分裂が生じ、偽の主体であるエゴである私が生まれ、二元性という幻想の世界が始まった。
神は、二元性の世界を、創造していない。
この世界は、神の主体性を奪ったと信じる信念体系であるエゴの私が、創造能力を誤用して創造した。
この宇宙、肉体を持つ人間でさえも、エゴの私が意識の中で創造したのであって、神が創造したのではない。
神の子の「私」は、神の懐で、今も安全に完全な平和の中にいる。
本当の「私」とは、神の子である実相としての真実の自己である「私」であり、神の分け御霊である「私」である。
神が望まれるのは、私が、神の子として、この真実の自己の「私」に目覚めることである。
神の子は、神と完全に一体であった。今でも常に一体である。
イエスのメッセージは、シンプルだった。
「わたしと父とは、ひとつである」とは、内なるキリストに目覚め、キリストを体現した者が、言える言葉である。
しかし、最終的には、意識を持つ全ての者が、その境地に達すれば、言える言葉なのだ。
イエスは、「わたしと父とは、ひとつである」と言えるキリストを体現した最初の者だった。
実相としてのキリストとして、あなたもわたしも、本質的に同じだというのが、イエスのメッセージだったのだ。
キリストになるためには自分自身が本来キリストであることを宣言する必要がある。
キリストを自分の肉体に現すためには純粋な動機、思い、言葉で、自分の求める生き方を生き抜く。
このことを徹見した時、イエスは社会に乗り出してこの悟りを世界に宣言する勇気を得た。
『ヒマラヤ聖者の生活探究』 第2巻 神性開顕 ベアード T.スポールディング (著) P20より
私の拙い演奏をよかったら、どうぞ。