<「嶋尾先生の英語論文を読んで」その8>
次に桜井氏の論文を簡潔に紹介しておきたい。
本書に収められた第7章の桜井由躬雄論文 “ChapterVII Truong Giao Xuyên, or the School of Teacher Xuyên : French-style Education in a Village in Northern Vietnam during the 1930s.” (「チュオン・ザオ・スエン、すなわちスエン先生の学校――1930年代における北ベトナム村落のフランス式教育」)は示唆に富む。
嶋尾氏が論じた百穀社という村について、1930年から1947年まで存続したスエン先生の小学校について桜井氏は分析している。フランス植民地支配期には、フランス語が初等教育のカリキュラムの中に組み込まれ、フランス語を習得すれば、就職に有利で、高収入が期待できるために、人気があったことが報告されている(ただし、カリキュラム内容やスエン先生のフランス語会話能力は満足できるものではなかったのだが)。
科挙制はナムディン省では1915年に廃止されたと桜井氏は明記している(Sakurai, 2009, p.160.note 7.)。だから科挙制度廃止後から1945年8月革命までのベトナム教育制度の変遷を考えることになる。
フランス植民地支配期における百穀社の社会階層構造について、桜井氏は4タイプに分類する。
①20畝~30畝の水田を所有する地主(the landlords)。全400戸のうちわずかである。その子弟は村外の官僚になり、村政には重要でなくなる。
②公田2サオと私田1畝を所有する農民の中間層上部(the upper-middle tier of peasants)(1畝は3,600平方メートル。1サオはその10分の1)。1930年までその子弟は漢学を習い、斯文会(漢学に精通した村落知識人のクラス)に属し、村政に深く関与する。
③公田の分配は受けるが、私田をもたない農民の中間層下部(the 1ower-middle tier of peasants)。子弟は漢学の私塾に通う。
④下級農民(1ower-class peasants)。公田に対する権利すらなく、無学文盲であるので、村政へ参画できない。
ちなみに、1930年代になされたイヴ・アンリ氏の調査によれば、ナムディン省では1畝以下の零細土地所有者は全土地の74.2%を占めたという。また嘉隆4(1805)年地簿によれば、百穀村の土地占有者473人のうち、50畝(18ヘクタール)以上のいわゆる大土地所有者は、阮廷騎(50.6畝)だけである。たとえ大土地を所有していても、細分化された地片を集積して占有している場合がほとんどで、このような零細な土地集積による有力土地占有を百穀村型と桜井氏は称している(桜井、1987年、316頁~317頁。497頁註21)。
さて、現代教育が百穀社にもたらされるのは、1930年代で、それまでは中間層上部の村民は、漢学の私塾(private school)に通っていた。そして科挙を受験し、下級役人になるか、斯文会に加入し、村落の指導者となった。このことが中間層の村民の子弟の夢であった。しかし、フランス植民地政府は、科挙を廃止したので、私塾という伝統的制度によって媒介された外界との連結を破壊した。つまり、たとえ漢学に熟達したとしても、村の内外において行政部局に参入する道が絶たれていたのである。
20世紀に入ると、植民地権力は北方住民の一般教育に積極的に関与し始め、教育構造改革を推進したという。1920年代に地主は子弟をフランス式学校に通わせた。そして中間層上部の農民が主導して、既存の私塾に代わり、公立小学校の設立を要求し、1926年にはフランスは村にそれを認可したという。1930年ごろ、百穀にも村のディンを学校にし、そこへハドン省のダンフォン県出身のブイ・ヴァン・スエン(Bui Van Xuyen)が先生として招かれた。今日、「チュオン・ザオ・スエン(スエン先生の学校)」として知られている。スエン先生の学校は小規模ながらも、フランス教育制度の公立学校だったので、卒業生はナムディン省の中学校へ入学できた。この点が私塾との違いであるが、ただ実情は卒業生は村に留まり農夫となるか、ナムディン省の工場労働者となった(Sakurai, 2009, pp.160-167.)。
このように、桜井氏は一村落内の人物の履歴を丹念に追うことによって、1930年代当時の教育の実態を浮き彫りにしている。本書の序文で石井氏が述べた問題提起に関連して、植民地支配と社会階層および教育に関して、解説の意味でも若干の補足をしておきたい。
フランス語やクォック・グーといったフランス植民地時代の言語文化について、古田元夫氏は次のような興味深い叙述をしている。すなわち、クォック・グーは、植民地時代にあっては、しょせんはフランス語を補助する二次的な言語でしかなかったといわれる。その大衆への普及も、公教育よりは民間の知識人の自発的運動に委ねられた。その優位が確立するのは、ベトナム民主共和国の出現まで待たなければならなかった。
そもそも、フランス植民地時代には、各級官庁では、村から上がってくる報告や訴えを、ベトナム人官吏がフランス語に翻訳して、フランス人官吏の決裁をあおぐことになっていた。このシステムでは、村からの文書はどのような言葉で書かれていてもよかった。だから1945年までは、村の文書は漢文で書かれる場合がかなり残っていたらしい。しかしこの村レベルの漢字文明の伝統を、ベトナム民主共和国は、クォック・グーを国語とすることによって、一掃したとみなされる。この言葉をめぐる動向は、中国を中心とした軌道から離脱し、ベトナム人の近代ナショナリズムの必然的な結果であった。このような意味でも、ベトナムは東南アジアの「地域国家」としての道を歩んでいったと古田氏は捉える(古田、1995年、142頁~143頁)。
ところで、フランス語のlettré(学識教養のある人、文学に造詣の深い人)に対応するヴェトナム語は「士人」もしくは「文人」という言葉が用いられる。
「士人」の方が「文人」より少しだけ広い意味を包含し、教養ある人々、もしくは中国の道徳や中国の古典の知識によって自らの教養を高め続ける人々を指す。つまり「士人」は皇帝や官人はもとより、官吏、教師、紳豪、学生に至る人を包含する。
それに対して「文人」は特に官人と比較して、科挙の準備中で、村の子供たちに儒教の古典を教科書として使って読み書きを教えて生計をたてている受験志願者を指す。
文人の中心は「秀才」グループである。その地位は官人と大衆の間で両義的であり、挙人でも進士でもなく、官人と比較してみれば、「半成功者」である。秀才は民衆には優越感を抱き、官人には劣等感を感じ、その野心は再受験して、官人となることであった。少なくとも郷試を通っただけで地方社会では十分エリートであり、村民の尊敬を集めていた。そのエリートぶりは、例えば、1876年のハノイでは4500名の志願者に対し、秀才は50名にすぎなかったことからも知られる。大半の「秀才」は田舎で教育に携わっていた。国家は秀才に漢学を教える権利を与え、空席ができると「総教」(郡レベルの教育行政職)や、またその一段階上の「教授」や「訓導」に任命された。さもなければ、村の学校教師や地方の役所の吏員や役所の顔役に甘んじていた。
文人は政局に敏感で、政治的危機が生じると、一部の文人は指導者として民衆を動員し、糾合した。そして文人は儒教を拡める役目を担っていたので、フランス人やキリスト教徒に敵意を燃やしていた。また逆にフランス人やキリスト教徒の方も、文人を「第一番の敵」《leurs ennemis numéro un》(Tsuboï, 1987, pp.194-195)にしていた。
例えば、ピュジニエ司教は次のように書いている。
« Le parti des lettrés est et sera toujours hostile à la cause
française. Le corps des lettrés, dans la stricte acceptation du
mot, comprend seulement les anciens mandarins, tous les gra-
dés, les maîtres d’écoles et tous ceux qui font de l’étude des
lettres leur carrière, pour prendre part aux concours et acqué-
rir des dignités »
(Tsuboï, 1987, p.192.)
坪井氏試:
「文人一派はフランスの大義に敵意を抱いているし、将来も決して変わりはすまい。文人集団には、この言葉の厳格な意味では、退官した官人、あらゆる学位取得者、学校教師、選抜試験を受験し尊敬を受ける地位を獲得するために文学研究を職としている全ての者が含まれる」。
(坪井、1991年、171頁)
ピュジニエ司教の「文人」という言葉は、大体「文紳」と言い換えることができ、文人。名士、地方官吏、退官した役人という社会階層を包含している。
また1875年9月18日付の報告の中で、レナール駐フエ弁理公使は書いている。
« L’intérêt particulier, écrivait Rheinart,
le 18 septembre 1875, et les fantaisies, l’isolement dans lequel
est maintenu le pays, condamne à la misère la grande masse
de la population, celle qui produit, et cela pour satisfaire
la vanité des lettrés qui, ayant usé leur vie dans l’étude des
caractères idéographiques, veulent vivre en s’admirant et en
se posant en génies supérieurs devant les masses, tenues dans
l’ignorance. On conçoit que le contact des Européens ôte tout
prestige à ces faux savants, qui s’étaient complus à se poser
en êtres supérieurs, et qu’ils fassent tous leurs efforts pour
nous écarter. Ce sont tous des ennemis irréconciliables, car
ils combattent pour sauver leur amour-propre ».
(Tsuboï, 1987, p.195.)
レナール駐フエ弁理公使は書いている。
「個人的な利益、現実を直視せずに夢みる態度、この国が留め置かれている孤立状態、この三つが生産者である人口の大多数に窮乏を余儀なくしている。そしてこれは、生涯を漢字の研究ですりへらし、無知の状態のままにほっておかれている大衆を目の前において、自分たちは優れて天才的な人物であるとし、自画自讃しながら暮らしたいと望む文人の虚栄心を満足させるためなのである。これまで優越感に浸って悦に入ってきたこの偽学者たちの権威が、ヨーロッパ人との接触ですべて奪われるので、それ故彼らが全力を挙げて我々を排斥しようとしていることは想像に難くない。彼らは自分たちのうぬぼれを守り抜くために戦っているのだから、全員、和解の余地のない敵である。」
(坪井、1991年、173頁-174頁)
そしてピュジニエ司教は、ヴェトナム全土をフランスが植民地化した直後である1886年に、次のように記している。
Et Mgr Puginier en rajoute :
« Quant au lettrés, je ne crains pas d’affirmer que la France
les aura toujours pour ennemis, comme corps et comme indi-
vidus. Le parti de la lutte à outrance les connaît bien et se
sert d’eux encore aujourd’hui (en 1886, NDLR) comme
agents ».
« Les vrais Lettrés sont des homme orgueilleux, ingrats, sans
conscience, sans honneur, pleins d’estime d’eux-mêmes et de
mépris pous les étrangers. Quelquefois on a cru pouvoir se
servir d’eux et les gagner à la cause française. On se trompa
et on prouva qu’on ne les connaissait nullement.
« Jamais on n’obtiendra d’eux une adhésion franche et sin-
cère au Protectorat. Ceci, je l’affirme, parce que je le
sais ».
(Tsuboï, 1987, p.195.)
ピュジニエ司教
「文人について言えば、私はためらわず断言するが、集団としても個人としても永遠にフランスの敵であり続けるだろう。ヴェトナムの徹底交戦派は彼らを良く知っていて、今日[1886年]でも尚、彼らを工作員として使っている。」
「真の文人とは、うぬぼれが強く、恩知らずで、良心も信義もなく、自尊心と、外国人に対する軽蔑で一杯の人間である。何度か、彼らを利用してフランスの大義の味方にすることができると思ったこともあったが、それは考え違いで、我々が彼らを全く知らなかったことを曝け出しただけであった。彼らからは保護国制に対する率直かつ正直な賛同などは決して得られないであろう。私がこう断定するのは、私にはそれがよくわかっているからである。」
(坪井、1991年、174頁)
Quant au lettrés, je ne crains pas d’affirmer que la France les aura toujours pour ennemis, comme corps et comme individus.
文人について言えば、私はためらわず断言するが、集団としても個人としても永遠にフランスの敵であり続けるだろう。
Les vrais Lettrés sont des homme orgueilleux, ingrats, sans conscience, sans honneur, pleins d’estime d’eux-mêmes et de mépris pous les étrangers.
真の文人とは、うぬぼれが強く、恩知らずで、良心も信義もなく、自尊心と、外国人に対する軽蔑で一杯の人間である。
このような文人を育成した科挙制度的教育から、フランス式教育へどのように変遷したのかを更に探究される必要があろう。
《参考文献》
嶋尾稔「19世紀~20世紀初頭北部ベトナム村落における族結合再編」(末成道男ほか編『〈血縁〉の再構築:東アジアにおける父系出自と同姓結合』風響社、2000年所収)
嶋尾稔「ベトナム村落と知識人」(『知識人の諸相-中国宋代を基点として』勉誠出版、2001年)
嶋尾稔「ベトナムの家礼と民間文化」(山本英史編『アジアの文人が見た民衆とその文化』(慶応義塾大学言語文化研究所、2010年所収)
嶋尾稔「研究ノート 『寿梅家礼』に関する基礎的考察(㈣)」『慶応義塾大学言語文化研究所紀要』第40号、2009年
宮沢千尋「ベトナム北部の父系出自・外族・同姓結合」(末成道男ほか編『〈血縁〉の再構築:東アジアにおける父系出自と同姓結合』風響社、2000年所収)
井上徹「中国における宗族の伝統」(末成道男ほか編『〈血縁〉の再構築:東アジアにおける父系出自と同姓結合』風響社、2000年所収)
桃木至朗「社会主義農村の変化と伝統」(坪井善明編『アジア読本 ヴェトナム』河出書房新社、1995年所収)
宮嶋博史「東アジア小農社会の形成」
嶋陸奥彦「親族制度からみた朝鮮社会の変動――族譜の検討を中心に――」
(以上、溝口雄三ほか編『アジアから考える[6] 長期社会変動』東京大学出版会、1994年所収)
吉田浤一「中国家父長制論批判序説」(中国史研究会編『中国専制国家と社会統合』文理閣、1990年所収)
川島武宜『日本社会の家族的構成』岩波現代文庫、2000年
桃木至朗編著『海域アジア史研究入門』岩波書店、2008年
八尾隆生『黎初ヴェトナムの政治と社会』広島大学出版会、2009年
坪井善明『近代ヴェトナム政治社会史 阮朝嗣徳帝統治下のヴェトナム1847-1883』東京大学出版会、1991年
桜井由躬雄『ベトナム村落の形成― 村落共有田=コンディエン制の史的展開―』創文社、1987年
桜井由躬雄・石澤良昭著『東南アジア現代史3 ヴェトナム・カンボジア・ラオス』山川出版社、1977年
古田元夫『ベトナムの世界史 中華世界から東南アジア世界へ』東京大学出版会、1995年
白石昌也『東アジアの国家と社会5 ベトナム 革命と建設のはざま』東京大学出版会、1993年
松本信広『ベトナム民族小史』岩波新書、1969年[1993年版]
小倉貞男『物語ヴェトナムの歴史』中公新書、1997年
川本邦衛『ベトナムの詩と歴史』文芸春秋、1967年
真保潤一郎・高橋保『東南アジアの価値体系3ベトナム』現代アジア出版会、1971年
坪井善明編『アジア読本 ヴェトナム』河出書房新社、1995年
ファン・フイ・レー(小高拳訳)「家族と家譜」
桜井由躬雄・桃木至朗編『東南アジアを知るシリーズ ベトナムの事典』同朋舎、1999年
島田虔次『朱子学と陽明学』岩波新書、1967年[1978年版]
加地伸行『儒教とは何か』中公新書、1990年
小野和子「儒教イデオロギーにおける正統と異端」(『岩波講座 世界歴史12』岩波書店、1971年所収)
ルース・ベネディクト(長谷川松治訳)『完訳 菊と刀 日本文化の型』社会思想社、1972年[1995年版]
伊東貴之「「気質変化」論から「礼教」へ―中国近世儒教社会における<秩序>形成の視点―」(『岩波講座 世界歴史13 東アジア・東南アジア伝統社会の形成』1998年所収)
Yoshiharu Tsuboï, L’Empire Vietnamien : Face à la France et à la Chine 1847-1885, Éditions L’Harmattan, 1987.
Benjamin A. Elman eds., Rethinking Confucianism : Past and Present in China, Japan, Korea, and Vietnam, University of California, 2002.
Patrick J.N.Tuck, French Catholic Missionaries and the Politics of Imperialism in Vietnam, 1857-1914: A Documentary Survey, Liverpool University Press, 1987.
David G.Marr, Vietnamese Tradition on Trial 1920-1945, University of California Press, 1981[1984].
Lê Thânh Khôi, Histoire du Viêt Nam des origines à 1858, Paris, Sudestasie, 1987.
Philippe Papin, Histoire de Hanoi, Librairie Artheme Fayard, 2001.
次に桜井氏の論文を簡潔に紹介しておきたい。
本書に収められた第7章の桜井由躬雄論文 “ChapterVII Truong Giao Xuyên, or the School of Teacher Xuyên : French-style Education in a Village in Northern Vietnam during the 1930s.” (「チュオン・ザオ・スエン、すなわちスエン先生の学校――1930年代における北ベトナム村落のフランス式教育」)は示唆に富む。
嶋尾氏が論じた百穀社という村について、1930年から1947年まで存続したスエン先生の小学校について桜井氏は分析している。フランス植民地支配期には、フランス語が初等教育のカリキュラムの中に組み込まれ、フランス語を習得すれば、就職に有利で、高収入が期待できるために、人気があったことが報告されている(ただし、カリキュラム内容やスエン先生のフランス語会話能力は満足できるものではなかったのだが)。
科挙制はナムディン省では1915年に廃止されたと桜井氏は明記している(Sakurai, 2009, p.160.note 7.)。だから科挙制度廃止後から1945年8月革命までのベトナム教育制度の変遷を考えることになる。
フランス植民地支配期における百穀社の社会階層構造について、桜井氏は4タイプに分類する。
①20畝~30畝の水田を所有する地主(the landlords)。全400戸のうちわずかである。その子弟は村外の官僚になり、村政には重要でなくなる。
②公田2サオと私田1畝を所有する農民の中間層上部(the upper-middle tier of peasants)(1畝は3,600平方メートル。1サオはその10分の1)。1930年までその子弟は漢学を習い、斯文会(漢学に精通した村落知識人のクラス)に属し、村政に深く関与する。
③公田の分配は受けるが、私田をもたない農民の中間層下部(the 1ower-middle tier of peasants)。子弟は漢学の私塾に通う。
④下級農民(1ower-class peasants)。公田に対する権利すらなく、無学文盲であるので、村政へ参画できない。
ちなみに、1930年代になされたイヴ・アンリ氏の調査によれば、ナムディン省では1畝以下の零細土地所有者は全土地の74.2%を占めたという。また嘉隆4(1805)年地簿によれば、百穀村の土地占有者473人のうち、50畝(18ヘクタール)以上のいわゆる大土地所有者は、阮廷騎(50.6畝)だけである。たとえ大土地を所有していても、細分化された地片を集積して占有している場合がほとんどで、このような零細な土地集積による有力土地占有を百穀村型と桜井氏は称している(桜井、1987年、316頁~317頁。497頁註21)。
さて、現代教育が百穀社にもたらされるのは、1930年代で、それまでは中間層上部の村民は、漢学の私塾(private school)に通っていた。そして科挙を受験し、下級役人になるか、斯文会に加入し、村落の指導者となった。このことが中間層の村民の子弟の夢であった。しかし、フランス植民地政府は、科挙を廃止したので、私塾という伝統的制度によって媒介された外界との連結を破壊した。つまり、たとえ漢学に熟達したとしても、村の内外において行政部局に参入する道が絶たれていたのである。
20世紀に入ると、植民地権力は北方住民の一般教育に積極的に関与し始め、教育構造改革を推進したという。1920年代に地主は子弟をフランス式学校に通わせた。そして中間層上部の農民が主導して、既存の私塾に代わり、公立小学校の設立を要求し、1926年にはフランスは村にそれを認可したという。1930年ごろ、百穀にも村のディンを学校にし、そこへハドン省のダンフォン県出身のブイ・ヴァン・スエン(Bui Van Xuyen)が先生として招かれた。今日、「チュオン・ザオ・スエン(スエン先生の学校)」として知られている。スエン先生の学校は小規模ながらも、フランス教育制度の公立学校だったので、卒業生はナムディン省の中学校へ入学できた。この点が私塾との違いであるが、ただ実情は卒業生は村に留まり農夫となるか、ナムディン省の工場労働者となった(Sakurai, 2009, pp.160-167.)。
このように、桜井氏は一村落内の人物の履歴を丹念に追うことによって、1930年代当時の教育の実態を浮き彫りにしている。本書の序文で石井氏が述べた問題提起に関連して、植民地支配と社会階層および教育に関して、解説の意味でも若干の補足をしておきたい。
フランス語やクォック・グーといったフランス植民地時代の言語文化について、古田元夫氏は次のような興味深い叙述をしている。すなわち、クォック・グーは、植民地時代にあっては、しょせんはフランス語を補助する二次的な言語でしかなかったといわれる。その大衆への普及も、公教育よりは民間の知識人の自発的運動に委ねられた。その優位が確立するのは、ベトナム民主共和国の出現まで待たなければならなかった。
そもそも、フランス植民地時代には、各級官庁では、村から上がってくる報告や訴えを、ベトナム人官吏がフランス語に翻訳して、フランス人官吏の決裁をあおぐことになっていた。このシステムでは、村からの文書はどのような言葉で書かれていてもよかった。だから1945年までは、村の文書は漢文で書かれる場合がかなり残っていたらしい。しかしこの村レベルの漢字文明の伝統を、ベトナム民主共和国は、クォック・グーを国語とすることによって、一掃したとみなされる。この言葉をめぐる動向は、中国を中心とした軌道から離脱し、ベトナム人の近代ナショナリズムの必然的な結果であった。このような意味でも、ベトナムは東南アジアの「地域国家」としての道を歩んでいったと古田氏は捉える(古田、1995年、142頁~143頁)。
ところで、フランス語のlettré(学識教養のある人、文学に造詣の深い人)に対応するヴェトナム語は「士人」もしくは「文人」という言葉が用いられる。
「士人」の方が「文人」より少しだけ広い意味を包含し、教養ある人々、もしくは中国の道徳や中国の古典の知識によって自らの教養を高め続ける人々を指す。つまり「士人」は皇帝や官人はもとより、官吏、教師、紳豪、学生に至る人を包含する。
それに対して「文人」は特に官人と比較して、科挙の準備中で、村の子供たちに儒教の古典を教科書として使って読み書きを教えて生計をたてている受験志願者を指す。
文人の中心は「秀才」グループである。その地位は官人と大衆の間で両義的であり、挙人でも進士でもなく、官人と比較してみれば、「半成功者」である。秀才は民衆には優越感を抱き、官人には劣等感を感じ、その野心は再受験して、官人となることであった。少なくとも郷試を通っただけで地方社会では十分エリートであり、村民の尊敬を集めていた。そのエリートぶりは、例えば、1876年のハノイでは4500名の志願者に対し、秀才は50名にすぎなかったことからも知られる。大半の「秀才」は田舎で教育に携わっていた。国家は秀才に漢学を教える権利を与え、空席ができると「総教」(郡レベルの教育行政職)や、またその一段階上の「教授」や「訓導」に任命された。さもなければ、村の学校教師や地方の役所の吏員や役所の顔役に甘んじていた。
文人は政局に敏感で、政治的危機が生じると、一部の文人は指導者として民衆を動員し、糾合した。そして文人は儒教を拡める役目を担っていたので、フランス人やキリスト教徒に敵意を燃やしていた。また逆にフランス人やキリスト教徒の方も、文人を「第一番の敵」《leurs ennemis numéro un》(Tsuboï, 1987, pp.194-195)にしていた。
例えば、ピュジニエ司教は次のように書いている。
« Le parti des lettrés est et sera toujours hostile à la cause
française. Le corps des lettrés, dans la stricte acceptation du
mot, comprend seulement les anciens mandarins, tous les gra-
dés, les maîtres d’écoles et tous ceux qui font de l’étude des
lettres leur carrière, pour prendre part aux concours et acqué-
rir des dignités »
(Tsuboï, 1987, p.192.)
坪井氏試:
「文人一派はフランスの大義に敵意を抱いているし、将来も決して変わりはすまい。文人集団には、この言葉の厳格な意味では、退官した官人、あらゆる学位取得者、学校教師、選抜試験を受験し尊敬を受ける地位を獲得するために文学研究を職としている全ての者が含まれる」。
(坪井、1991年、171頁)
ピュジニエ司教の「文人」という言葉は、大体「文紳」と言い換えることができ、文人。名士、地方官吏、退官した役人という社会階層を包含している。
また1875年9月18日付の報告の中で、レナール駐フエ弁理公使は書いている。
« L’intérêt particulier, écrivait Rheinart,
le 18 septembre 1875, et les fantaisies, l’isolement dans lequel
est maintenu le pays, condamne à la misère la grande masse
de la population, celle qui produit, et cela pour satisfaire
la vanité des lettrés qui, ayant usé leur vie dans l’étude des
caractères idéographiques, veulent vivre en s’admirant et en
se posant en génies supérieurs devant les masses, tenues dans
l’ignorance. On conçoit que le contact des Européens ôte tout
prestige à ces faux savants, qui s’étaient complus à se poser
en êtres supérieurs, et qu’ils fassent tous leurs efforts pour
nous écarter. Ce sont tous des ennemis irréconciliables, car
ils combattent pour sauver leur amour-propre ».
(Tsuboï, 1987, p.195.)
レナール駐フエ弁理公使は書いている。
「個人的な利益、現実を直視せずに夢みる態度、この国が留め置かれている孤立状態、この三つが生産者である人口の大多数に窮乏を余儀なくしている。そしてこれは、生涯を漢字の研究ですりへらし、無知の状態のままにほっておかれている大衆を目の前において、自分たちは優れて天才的な人物であるとし、自画自讃しながら暮らしたいと望む文人の虚栄心を満足させるためなのである。これまで優越感に浸って悦に入ってきたこの偽学者たちの権威が、ヨーロッパ人との接触ですべて奪われるので、それ故彼らが全力を挙げて我々を排斥しようとしていることは想像に難くない。彼らは自分たちのうぬぼれを守り抜くために戦っているのだから、全員、和解の余地のない敵である。」
(坪井、1991年、173頁-174頁)
そしてピュジニエ司教は、ヴェトナム全土をフランスが植民地化した直後である1886年に、次のように記している。
Et Mgr Puginier en rajoute :
« Quant au lettrés, je ne crains pas d’affirmer que la France
les aura toujours pour ennemis, comme corps et comme indi-
vidus. Le parti de la lutte à outrance les connaît bien et se
sert d’eux encore aujourd’hui (en 1886, NDLR) comme
agents ».
« Les vrais Lettrés sont des homme orgueilleux, ingrats, sans
conscience, sans honneur, pleins d’estime d’eux-mêmes et de
mépris pous les étrangers. Quelquefois on a cru pouvoir se
servir d’eux et les gagner à la cause française. On se trompa
et on prouva qu’on ne les connaissait nullement.
« Jamais on n’obtiendra d’eux une adhésion franche et sin-
cère au Protectorat. Ceci, je l’affirme, parce que je le
sais ».
(Tsuboï, 1987, p.195.)
ピュジニエ司教
「文人について言えば、私はためらわず断言するが、集団としても個人としても永遠にフランスの敵であり続けるだろう。ヴェトナムの徹底交戦派は彼らを良く知っていて、今日[1886年]でも尚、彼らを工作員として使っている。」
「真の文人とは、うぬぼれが強く、恩知らずで、良心も信義もなく、自尊心と、外国人に対する軽蔑で一杯の人間である。何度か、彼らを利用してフランスの大義の味方にすることができると思ったこともあったが、それは考え違いで、我々が彼らを全く知らなかったことを曝け出しただけであった。彼らからは保護国制に対する率直かつ正直な賛同などは決して得られないであろう。私がこう断定するのは、私にはそれがよくわかっているからである。」
(坪井、1991年、174頁)
Quant au lettrés, je ne crains pas d’affirmer que la France les aura toujours pour ennemis, comme corps et comme individus.
文人について言えば、私はためらわず断言するが、集団としても個人としても永遠にフランスの敵であり続けるだろう。
Les vrais Lettrés sont des homme orgueilleux, ingrats, sans conscience, sans honneur, pleins d’estime d’eux-mêmes et de mépris pous les étrangers.
真の文人とは、うぬぼれが強く、恩知らずで、良心も信義もなく、自尊心と、外国人に対する軽蔑で一杯の人間である。
このような文人を育成した科挙制度的教育から、フランス式教育へどのように変遷したのかを更に探究される必要があろう。
《参考文献》
嶋尾稔「19世紀~20世紀初頭北部ベトナム村落における族結合再編」(末成道男ほか編『〈血縁〉の再構築:東アジアにおける父系出自と同姓結合』風響社、2000年所収)
嶋尾稔「ベトナム村落と知識人」(『知識人の諸相-中国宋代を基点として』勉誠出版、2001年)
嶋尾稔「ベトナムの家礼と民間文化」(山本英史編『アジアの文人が見た民衆とその文化』(慶応義塾大学言語文化研究所、2010年所収)
嶋尾稔「研究ノート 『寿梅家礼』に関する基礎的考察(㈣)」『慶応義塾大学言語文化研究所紀要』第40号、2009年
宮沢千尋「ベトナム北部の父系出自・外族・同姓結合」(末成道男ほか編『〈血縁〉の再構築:東アジアにおける父系出自と同姓結合』風響社、2000年所収)
井上徹「中国における宗族の伝統」(末成道男ほか編『〈血縁〉の再構築:東アジアにおける父系出自と同姓結合』風響社、2000年所収)
桃木至朗「社会主義農村の変化と伝統」(坪井善明編『アジア読本 ヴェトナム』河出書房新社、1995年所収)
宮嶋博史「東アジア小農社会の形成」
嶋陸奥彦「親族制度からみた朝鮮社会の変動――族譜の検討を中心に――」
(以上、溝口雄三ほか編『アジアから考える[6] 長期社会変動』東京大学出版会、1994年所収)
吉田浤一「中国家父長制論批判序説」(中国史研究会編『中国専制国家と社会統合』文理閣、1990年所収)
川島武宜『日本社会の家族的構成』岩波現代文庫、2000年
桃木至朗編著『海域アジア史研究入門』岩波書店、2008年
八尾隆生『黎初ヴェトナムの政治と社会』広島大学出版会、2009年
坪井善明『近代ヴェトナム政治社会史 阮朝嗣徳帝統治下のヴェトナム1847-1883』東京大学出版会、1991年
桜井由躬雄『ベトナム村落の形成― 村落共有田=コンディエン制の史的展開―』創文社、1987年
桜井由躬雄・石澤良昭著『東南アジア現代史3 ヴェトナム・カンボジア・ラオス』山川出版社、1977年
古田元夫『ベトナムの世界史 中華世界から東南アジア世界へ』東京大学出版会、1995年
白石昌也『東アジアの国家と社会5 ベトナム 革命と建設のはざま』東京大学出版会、1993年
松本信広『ベトナム民族小史』岩波新書、1969年[1993年版]
小倉貞男『物語ヴェトナムの歴史』中公新書、1997年
川本邦衛『ベトナムの詩と歴史』文芸春秋、1967年
真保潤一郎・高橋保『東南アジアの価値体系3ベトナム』現代アジア出版会、1971年
坪井善明編『アジア読本 ヴェトナム』河出書房新社、1995年
ファン・フイ・レー(小高拳訳)「家族と家譜」
桜井由躬雄・桃木至朗編『東南アジアを知るシリーズ ベトナムの事典』同朋舎、1999年
島田虔次『朱子学と陽明学』岩波新書、1967年[1978年版]
加地伸行『儒教とは何か』中公新書、1990年
小野和子「儒教イデオロギーにおける正統と異端」(『岩波講座 世界歴史12』岩波書店、1971年所収)
ルース・ベネディクト(長谷川松治訳)『完訳 菊と刀 日本文化の型』社会思想社、1972年[1995年版]
伊東貴之「「気質変化」論から「礼教」へ―中国近世儒教社会における<秩序>形成の視点―」(『岩波講座 世界歴史13 東アジア・東南アジア伝統社会の形成』1998年所収)
Yoshiharu Tsuboï, L’Empire Vietnamien : Face à la France et à la Chine 1847-1885, Éditions L’Harmattan, 1987.
Benjamin A. Elman eds., Rethinking Confucianism : Past and Present in China, Japan, Korea, and Vietnam, University of California, 2002.
Patrick J.N.Tuck, French Catholic Missionaries and the Politics of Imperialism in Vietnam, 1857-1914: A Documentary Survey, Liverpool University Press, 1987.
David G.Marr, Vietnamese Tradition on Trial 1920-1945, University of California Press, 1981[1984].
Lê Thânh Khôi, Histoire du Viêt Nam des origines à 1858, Paris, Sudestasie, 1987.
Philippe Papin, Histoire de Hanoi, Librairie Artheme Fayard, 2001.