歴史だより

東洋の歴史に関連したエッセイなどをまとめる

<「嶋尾先生の英語論文を読んで」その8>

2011-01-03 10:31:08 | 日記
<「嶋尾先生の英語論文を読んで」その8>

次に桜井氏の論文を簡潔に紹介しておきたい。
本書に収められた第7章の桜井由躬雄論文 “ChapterVII Truong Giao Xuyên, or the School of Teacher Xuyên : French-style Education in a Village in Northern Vietnam during the 1930s.” (「チュオン・ザオ・スエン、すなわちスエン先生の学校――1930年代における北ベトナム村落のフランス式教育」)は示唆に富む。
嶋尾氏が論じた百穀社という村について、1930年から1947年まで存続したスエン先生の小学校について桜井氏は分析している。フランス植民地支配期には、フランス語が初等教育のカリキュラムの中に組み込まれ、フランス語を習得すれば、就職に有利で、高収入が期待できるために、人気があったことが報告されている(ただし、カリキュラム内容やスエン先生のフランス語会話能力は満足できるものではなかったのだが)。
科挙制はナムディン省では1915年に廃止されたと桜井氏は明記している(Sakurai, 2009, p.160.note 7.)。だから科挙制度廃止後から1945年8月革命までのベトナム教育制度の変遷を考えることになる。

フランス植民地支配期における百穀社の社会階層構造について、桜井氏は4タイプに分類する。
①20畝~30畝の水田を所有する地主(the landlords)。全400戸のうちわずかである。その子弟は村外の官僚になり、村政には重要でなくなる。
②公田2サオと私田1畝を所有する農民の中間層上部(the upper-middle tier of peasants)(1畝は3,600平方メートル。1サオはその10分の1)。1930年までその子弟は漢学を習い、斯文会(漢学に精通した村落知識人のクラス)に属し、村政に深く関与する。
③公田の分配は受けるが、私田をもたない農民の中間層下部(the 1ower-middle tier of peasants)。子弟は漢学の私塾に通う。
④下級農民(1ower-class peasants)。公田に対する権利すらなく、無学文盲であるので、村政へ参画できない。
ちなみに、1930年代になされたイヴ・アンリ氏の調査によれば、ナムディン省では1畝以下の零細土地所有者は全土地の74.2%を占めたという。また嘉隆4(1805)年地簿によれば、百穀村の土地占有者473人のうち、50畝(18ヘクタール)以上のいわゆる大土地所有者は、阮廷騎(50.6畝)だけである。たとえ大土地を所有していても、細分化された地片を集積して占有している場合がほとんどで、このような零細な土地集積による有力土地占有を百穀村型と桜井氏は称している(桜井、1987年、316頁~317頁。497頁註21)。
さて、現代教育が百穀社にもたらされるのは、1930年代で、それまでは中間層上部の村民は、漢学の私塾(private school)に通っていた。そして科挙を受験し、下級役人になるか、斯文会に加入し、村落の指導者となった。このことが中間層の村民の子弟の夢であった。しかし、フランス植民地政府は、科挙を廃止したので、私塾という伝統的制度によって媒介された外界との連結を破壊した。つまり、たとえ漢学に熟達したとしても、村の内外において行政部局に参入する道が絶たれていたのである。
20世紀に入ると、植民地権力は北方住民の一般教育に積極的に関与し始め、教育構造改革を推進したという。1920年代に地主は子弟をフランス式学校に通わせた。そして中間層上部の農民が主導して、既存の私塾に代わり、公立小学校の設立を要求し、1926年にはフランスは村にそれを認可したという。1930年ごろ、百穀にも村のディンを学校にし、そこへハドン省のダンフォン県出身のブイ・ヴァン・スエン(Bui Van Xuyen)が先生として招かれた。今日、「チュオン・ザオ・スエン(スエン先生の学校)」として知られている。スエン先生の学校は小規模ながらも、フランス教育制度の公立学校だったので、卒業生はナムディン省の中学校へ入学できた。この点が私塾との違いであるが、ただ実情は卒業生は村に留まり農夫となるか、ナムディン省の工場労働者となった(Sakurai, 2009, pp.160-167.)。
このように、桜井氏は一村落内の人物の履歴を丹念に追うことによって、1930年代当時の教育の実態を浮き彫りにしている。本書の序文で石井氏が述べた問題提起に関連して、植民地支配と社会階層および教育に関して、解説の意味でも若干の補足をしておきたい。
フランス語やクォック・グーといったフランス植民地時代の言語文化について、古田元夫氏は次のような興味深い叙述をしている。すなわち、クォック・グーは、植民地時代にあっては、しょせんはフランス語を補助する二次的な言語でしかなかったといわれる。その大衆への普及も、公教育よりは民間の知識人の自発的運動に委ねられた。その優位が確立するのは、ベトナム民主共和国の出現まで待たなければならなかった。
そもそも、フランス植民地時代には、各級官庁では、村から上がってくる報告や訴えを、ベトナム人官吏がフランス語に翻訳して、フランス人官吏の決裁をあおぐことになっていた。このシステムでは、村からの文書はどのような言葉で書かれていてもよかった。だから1945年までは、村の文書は漢文で書かれる場合がかなり残っていたらしい。しかしこの村レベルの漢字文明の伝統を、ベトナム民主共和国は、クォック・グーを国語とすることによって、一掃したとみなされる。この言葉をめぐる動向は、中国を中心とした軌道から離脱し、ベトナム人の近代ナショナリズムの必然的な結果であった。このような意味でも、ベトナムは東南アジアの「地域国家」としての道を歩んでいったと古田氏は捉える(古田、1995年、142頁~143頁)。
ところで、フランス語のlettré(学識教養のある人、文学に造詣の深い人)に対応するヴェトナム語は「士人」もしくは「文人」という言葉が用いられる。
「士人」の方が「文人」より少しだけ広い意味を包含し、教養ある人々、もしくは中国の道徳や中国の古典の知識によって自らの教養を高め続ける人々を指す。つまり「士人」は皇帝や官人はもとより、官吏、教師、紳豪、学生に至る人を包含する。
それに対して「文人」は特に官人と比較して、科挙の準備中で、村の子供たちに儒教の古典を教科書として使って読み書きを教えて生計をたてている受験志願者を指す。
文人の中心は「秀才」グループである。その地位は官人と大衆の間で両義的であり、挙人でも進士でもなく、官人と比較してみれば、「半成功者」である。秀才は民衆には優越感を抱き、官人には劣等感を感じ、その野心は再受験して、官人となることであった。少なくとも郷試を通っただけで地方社会では十分エリートであり、村民の尊敬を集めていた。そのエリートぶりは、例えば、1876年のハノイでは4500名の志願者に対し、秀才は50名にすぎなかったことからも知られる。大半の「秀才」は田舎で教育に携わっていた。国家は秀才に漢学を教える権利を与え、空席ができると「総教」(郡レベルの教育行政職)や、またその一段階上の「教授」や「訓導」に任命された。さもなければ、村の学校教師や地方の役所の吏員や役所の顔役に甘んじていた。
文人は政局に敏感で、政治的危機が生じると、一部の文人は指導者として民衆を動員し、糾合した。そして文人は儒教を拡める役目を担っていたので、フランス人やキリスト教徒に敵意を燃やしていた。また逆にフランス人やキリスト教徒の方も、文人を「第一番の敵」《leurs ennemis numéro un》(Tsuboï, 1987, pp.194-195)にしていた。

例えば、ピュジニエ司教は次のように書いている。
« Le parti des lettrés est et sera toujours hostile à la cause
française. Le corps des lettrés, dans la stricte acceptation du
mot, comprend seulement les anciens mandarins, tous les gra-
dés, les maîtres d’écoles et tous ceux qui font de l’étude des
lettres leur carrière, pour prendre part aux concours et acqué-
rir des dignités »
(Tsuboï, 1987, p.192.)

坪井氏試:
「文人一派はフランスの大義に敵意を抱いているし、将来も決して変わりはすまい。文人集団には、この言葉の厳格な意味では、退官した官人、あらゆる学位取得者、学校教師、選抜試験を受験し尊敬を受ける地位を獲得するために文学研究を職としている全ての者が含まれる」。
(坪井、1991年、171頁)
ピュジニエ司教の「文人」という言葉は、大体「文紳」と言い換えることができ、文人。名士、地方官吏、退官した役人という社会階層を包含している。

また1875年9月18日付の報告の中で、レナール駐フエ弁理公使は書いている。

« L’intérêt particulier, écrivait Rheinart,
le 18 septembre 1875, et les fantaisies, l’isolement dans lequel
est maintenu le pays, condamne à la misère la grande masse
de la population, celle qui produit, et cela pour satisfaire
la vanité des lettrés qui, ayant usé leur vie dans l’étude des
caractères idéographiques, veulent vivre en s’admirant et en
se posant en génies supérieurs devant les masses, tenues dans
l’ignorance. On conçoit que le contact des Européens ôte tout
prestige à ces faux savants, qui s’étaient complus à se poser
en êtres supérieurs, et qu’ils fassent tous leurs efforts pour
nous écarter. Ce sont tous des ennemis irréconciliables, car
ils combattent pour sauver leur amour-propre ».
(Tsuboï, 1987, p.195.)
レナール駐フエ弁理公使は書いている。
「個人的な利益、現実を直視せずに夢みる態度、この国が留め置かれている孤立状態、この三つが生産者である人口の大多数に窮乏を余儀なくしている。そしてこれは、生涯を漢字の研究ですりへらし、無知の状態のままにほっておかれている大衆を目の前において、自分たちは優れて天才的な人物であるとし、自画自讃しながら暮らしたいと望む文人の虚栄心を満足させるためなのである。これまで優越感に浸って悦に入ってきたこの偽学者たちの権威が、ヨーロッパ人との接触ですべて奪われるので、それ故彼らが全力を挙げて我々を排斥しようとしていることは想像に難くない。彼らは自分たちのうぬぼれを守り抜くために戦っているのだから、全員、和解の余地のない敵である。」
(坪井、1991年、173頁-174頁)

そしてピュジニエ司教は、ヴェトナム全土をフランスが植民地化した直後である1886年に、次のように記している。
Et Mgr Puginier en rajoute :
« Quant au lettrés, je ne crains pas d’affirmer que la France
les aura toujours pour ennemis, comme corps et comme indi-
vidus. Le parti de la lutte à outrance les connaît bien et se
sert d’eux encore aujourd’hui (en 1886, NDLR) comme
agents ».
« Les vrais Lettrés sont des homme orgueilleux, ingrats, sans
conscience, sans honneur, pleins d’estime d’eux-mêmes et de
mépris pous les étrangers. Quelquefois on a cru pouvoir se
servir d’eux et les gagner à la cause française. On se trompa
et on prouva qu’on ne les connaissait nullement.
« Jamais on n’obtiendra d’eux une adhésion franche et sin-
cère au Protectorat. Ceci, je l’affirme, parce que je le
sais ».
(Tsuboï, 1987, p.195.)
ピュジニエ司教
「文人について言えば、私はためらわず断言するが、集団としても個人としても永遠にフランスの敵であり続けるだろう。ヴェトナムの徹底交戦派は彼らを良く知っていて、今日[1886年]でも尚、彼らを工作員として使っている。」
「真の文人とは、うぬぼれが強く、恩知らずで、良心も信義もなく、自尊心と、外国人に対する軽蔑で一杯の人間である。何度か、彼らを利用してフランスの大義の味方にすることができると思ったこともあったが、それは考え違いで、我々が彼らを全く知らなかったことを曝け出しただけであった。彼らからは保護国制に対する率直かつ正直な賛同などは決して得られないであろう。私がこう断定するのは、私にはそれがよくわかっているからである。」
(坪井、1991年、174頁)
Quant au lettrés, je ne crains pas d’affirmer que la France les aura toujours pour ennemis, comme corps et comme individus.
文人について言えば、私はためらわず断言するが、集団としても個人としても永遠にフランスの敵であり続けるだろう。
Les vrais Lettrés sont des homme orgueilleux, ingrats, sans conscience, sans honneur, pleins d’estime d’eux-mêmes et de mépris pous les étrangers.
真の文人とは、うぬぼれが強く、恩知らずで、良心も信義もなく、自尊心と、外国人に対する軽蔑で一杯の人間である。
このような文人を育成した科挙制度的教育から、フランス式教育へどのように変遷したのかを更に探究される必要があろう。

《参考文献》
嶋尾稔「19世紀~20世紀初頭北部ベトナム村落における族結合再編」(末成道男ほか編『〈血縁〉の再構築:東アジアにおける父系出自と同姓結合』風響社、2000年所収)
嶋尾稔「ベトナム村落と知識人」(『知識人の諸相-中国宋代を基点として』勉誠出版、2001年)
嶋尾稔「ベトナムの家礼と民間文化」(山本英史編『アジアの文人が見た民衆とその文化』(慶応義塾大学言語文化研究所、2010年所収)
嶋尾稔「研究ノート 『寿梅家礼』に関する基礎的考察(㈣)」『慶応義塾大学言語文化研究所紀要』第40号、2009年
宮沢千尋「ベトナム北部の父系出自・外族・同姓結合」(末成道男ほか編『〈血縁〉の再構築:東アジアにおける父系出自と同姓結合』風響社、2000年所収)
井上徹「中国における宗族の伝統」(末成道男ほか編『〈血縁〉の再構築:東アジアにおける父系出自と同姓結合』風響社、2000年所収)
桃木至朗「社会主義農村の変化と伝統」(坪井善明編『アジア読本 ヴェトナム』河出書房新社、1995年所収)
宮嶋博史「東アジア小農社会の形成」
嶋陸奥彦「親族制度からみた朝鮮社会の変動――族譜の検討を中心に――」
(以上、溝口雄三ほか編『アジアから考える[6] 長期社会変動』東京大学出版会、1994年所収)
吉田浤一「中国家父長制論批判序説」(中国史研究会編『中国専制国家と社会統合』文理閣、1990年所収)
川島武宜『日本社会の家族的構成』岩波現代文庫、2000年
桃木至朗編著『海域アジア史研究入門』岩波書店、2008年
八尾隆生『黎初ヴェトナムの政治と社会』広島大学出版会、2009年
坪井善明『近代ヴェトナム政治社会史 阮朝嗣徳帝統治下のヴェトナム1847-1883』東京大学出版会、1991年
桜井由躬雄『ベトナム村落の形成― 村落共有田=コンディエン制の史的展開―』創文社、1987年
桜井由躬雄・石澤良昭著『東南アジア現代史3 ヴェトナム・カンボジア・ラオス』山川出版社、1977年
古田元夫『ベトナムの世界史 中華世界から東南アジア世界へ』東京大学出版会、1995年
白石昌也『東アジアの国家と社会5 ベトナム 革命と建設のはざま』東京大学出版会、1993年
松本信広『ベトナム民族小史』岩波新書、1969年[1993年版]
小倉貞男『物語ヴェトナムの歴史』中公新書、1997年
川本邦衛『ベトナムの詩と歴史』文芸春秋、1967年
真保潤一郎・高橋保『東南アジアの価値体系3ベトナム』現代アジア出版会、1971年
坪井善明編『アジア読本 ヴェトナム』河出書房新社、1995年
ファン・フイ・レー(小高拳訳)「家族と家譜」
桜井由躬雄・桃木至朗編『東南アジアを知るシリーズ ベトナムの事典』同朋舎、1999年
島田虔次『朱子学と陽明学』岩波新書、1967年[1978年版]
加地伸行『儒教とは何か』中公新書、1990年
小野和子「儒教イデオロギーにおける正統と異端」(『岩波講座 世界歴史12』岩波書店、1971年所収)
ルース・ベネディクト(長谷川松治訳)『完訳 菊と刀 日本文化の型』社会思想社、1972年[1995年版]
伊東貴之「「気質変化」論から「礼教」へ―中国近世儒教社会における<秩序>形成の視点―」(『岩波講座 世界歴史13 東アジア・東南アジア伝統社会の形成』1998年所収)
Yoshiharu Tsuboï, L’Empire Vietnamien : Face à la France et à la Chine 1847-1885, Éditions L’Harmattan, 1987.
Benjamin A. Elman eds., Rethinking Confucianism : Past and Present in China, Japan, Korea, and Vietnam, University of California, 2002.
Patrick J.N.Tuck, French Catholic Missionaries and the Politics of Imperialism in Vietnam, 1857-1914: A Documentary Survey, Liverpool University Press, 1987.
David G.Marr, Vietnamese Tradition on Trial 1920-1945, University of California Press, 1981[1984].
Lê Thânh Khôi, Histoire du Viêt Nam des origines à 1858, Paris, Sudestasie, 1987.
Philippe Papin, Histoire de Hanoi, Librairie Artheme Fayard, 2001.

<「嶋尾先生の英語論文を読んで」その7>

2011-01-03 10:29:50 | 日記
<「嶋尾先生の英語論文を読んで」その7>

このキリスト教と祖先崇拝の問題を次に考えてみたい。
阮朝の諸帝は、中国文化を尊重し、儒教的な統治を理想としていたので、祖先崇拝を否定するキリスト教に対して好意をもたなかったといわれる。嘉隆帝も、アドラン司教ピニョーの援助をうけていたから、最初はキリスト教を保護していたが、ピニョーが死去すると、態度を変えて冷淡になった。ただ、迫害の手は加えなかった。しかし明命帝は、弾圧を断行し、1825年以後、宣教師およびキリスト教信者が投獄殺害された。1836年になると大弾圧がなされ、7名のヨーロッパ人宣教師が死刑にされ、数百の会堂が破壊された。阮朝のキリスト教迫害政策は、鎖国主義と相まって、ベトナムの対外関係を危殆におとしいれた(松本、1993年版、139頁)。
明命帝は、外敵に備えるために、1833年1月6日、勅令を公布した。
「どのような形であれキリスト教を信仰することは禁止される。キリスト教改宗者はきっぱりと信仰を捨てること、でなければ死刑とする。すべての教会は破壊されるべきである。」
阮朝によるキリスト教に対する迫害は、1860年、フランス軍司令官パーユとの講和条約によって、キリスト教を合法化し、布教の自由が認められるまで、徹底した弾圧政策が続行した(小倉、1997年、234頁)。

フランスはインドシナ同化政策をとり、ル・ミル・ドゥヴィレ総督は儒教教育を否定し、フランス語の普及政策を実施した。そしてポウル・ベール総督はインドシナの支配を確立するためにかつての官僚層を一掃することを狙い、ハノイに「トンキン・アカデミー」を設立し、ベトナム人にフランス語普及をはかった。ポウル・ドゥメ総督(1897年から1902年まで断続的にインドシナ総督)は同化政策を強化し、官吏登用試験でも漢文を廃し、ローマ字化したベトナム語(この表記法は「クォック・グー」(国語)とよばれる)を使用するように通達し、一般にも普及されるようになる(小倉、1997年、225頁)。
そのクォック・グーの長所として、宣教師は2点を挙げている
①儒教思想に基づく考え方から人々を切り離すのに寄与できること。
②ローマ字体による表記は漢字よりも容易に身につけることができること(坪井、1991年、42頁。Tsuboï, 1987, p.49)。
例えば、この点について、ヴィボ神父(le Père Wibaux)は次のように述べている
Par ailleurs, les missionnaires apprenaient aux élèves la doc-
trine chrétienne en employant le quôc ngu, transcription pho-
nétique et romanisée de la langue, au lieu des caractères chi-
nois. Le quôc ngu présentait deux avantages : d’une part,
il concourait à détacher les esprits de la philosophie confu-
céenne ; d’autre part, cette transcription était plus facile à
assimiler que les caractères chinois. Dans les écoles chrétien-
nes, donc, on enseignait le français, le latin et le quôc ngu,
ainsi que le minimum de caractères chinois nécessaire.
(Tsuboï, 1987, p.49.)

レ・タイン・コイ氏はキリスト教が祖先崇拝を否定したとして、阮朝の宗教政策について言及している(レ・タイン・コイ、368頁)。
LA POLITIQUE RELIGIEUSE
Les seuls Européens qui résidaient alors au Viêt Nam étaient les mis-
sionnaires. Selon Chaigneau, il y avait sous Gia-long 300 000 catholiques
dans le Nord et 60 000 dans le reste du pays. Le progrès de l’évangéli-
sation commençait à alarmer la cour. L’ancienne société reposait en
effet sur les trois relations fondamentales du prince et du sujet, du père
et du fils, du mari et de la femme. Or, on voyait les chrériens rejeter le
culte des ancêtres 49 et s’insurger contre leurs obligations envers la cité et
l’Etat. Ce n’est point le fanatisme religieux – rien n’est plus éloigné
de l’esprit viêtnamien – mais le désir de conserver l’unité morale et poli-
tique qui inspira les édits de proscription. De plus, les missionnaires,
au lieu de se cantonner dans leur rôle spirituel, se mêlèrent ici comme
ailleurs de politique. Ils cherchèrent à exciter les convertis contre le
pouvoir légitime afin de préparer l’avènement d’un Etat favorable au
christianisme. On les verra plus tard frayer la voie à la conquête fran-
çaise. Aussi beaucoup de prêtres seront-ild condamnés non pour leur
prédication religieuse, mais sous l’accusation d’espionnage et de fomen-
tation de troubles.
Minh-mang était profondément imprégné de l’éducation confucéenne
et pénétré d’une haute conception de ses devoirs. Le 18 février 1825,
comme la Thétis avait débarqué clandestinement un missionnaire à Da-
nang, ce qui semblait constituer un défi à son autorité, il lança son pre-
mier édit de prosctription : « La religion perverse des Européens corrompt
le cœur des hommes. Depuis longtemps, plusieurs navires étrangers,
venus ici pour faire le commerce, ont laissé des prêtres dans notre Etat.
Ils ont séduit et perverti le cœur du peuple, ils ont altéré les bonnes
coutumes. N’est-ce pas là véritablement une grande calamité pour l’em-
pire? C’est pourquoi il convient que nous nous opposions à ces abus
afin de ramener notre peuple dans le droit chemin... » Il ordonnait de
fermer les églises et d’exercer une sévère surveillance sur les navires et
sur les côtes. Puis il manda tous les missionnaires à Huê afin, dit-il,
d’entreprendre la traduction de livres européens, en fait pour priver les
chrétiens de leurs directeurs. Mais beaucoup continuèrent dans la clan-
destinité leur œuvre d’évangélisation.

49. On sait que le culte des ancêtres, condamné par la bulle « Ex quo singulari » de
Benoît XIV en 1742 (question des « rites chinois ») a été autorisé de nouveau par
Pie XII dans l’instruction « Plane compertum » du 8 décembre 1939.
(Lê Thânh Khôi, Histoire du Viêt-nam des origines à 1858, Paris, Sudestasie, 1987, pp.368-369.)


《試訳》
当時ベトナムに居住していた唯一のヨーロッパ人は、宣教師たちであった。シェノーによれば、嘉隆帝治下に北部で30万人、そして国の残りに6万人が存在していた。伝道が進展すると、宮廷を不安にさせ始めていた。旧社会は実際に君臣・父子・夫婦という3つの基本関係に根拠を置いていた。すなわちキリスト教徒は祖先崇拝を拒否し、都市と国家に対する義務に反抗することが見られた(註49)。そのことは宗教的狂信ではなく(ベトナム人の心から隔たったものでもなく)禁令が懐かせた道徳的政治的統一性を保持したい欲望である。さらに宣教師たちは、精神的役割の中に閉じこもる代わりに、政策の他の所であるように、ここにかかわり合った。彼らはキリスト教に好都合な国家の出現を準備するために、合法的権力に対して改宗者を憤怒させようと努めた。やがてフランス人の征服への道を彼らが切り開くことが見られるであろう。同様に多くの司祭たちは、宗教的説教のためではなく、スパイ行為と暴動形成の告発のもとに有罪の宣告をされることになる。

明命帝は儒教教育が深くしみ込み、高い義務感が浸透していた。1825年2月18日にテティス号はダナンで密かに宣教師を上陸させたので(このことは当局に対する挑戦になったように思われる)、彼は最初の禁令を発した。すなわち
「ヨーロッパ人の邪教は、人々の心を堕落させる。ずっと以前から、商売をしにやって来た外国船は我が国に司祭たちを置いていった。彼らは人民の心を誘惑し退廃させ、良い慣習を悪化させた。それは帝国にとって本当に大きな災難となるのではないか。これこそ、我が人民を正しい道に引戻すために、我々がこれらの悪習を禁止すべき理由である。」
彼は教会を閉鎖し、船舶や沿岸に対して厳しい監視を行なうように命じた。そして彼は実際キリスト教徒から指導者を奪おうと、ヨーロッパの書籍の翻訳にとりかからせるために、すべての宣教師をフエに召喚したといわれる。しかし多くの者は、内密に福音伝道活動を続けた。

註49
1742年のベネディクトゥス14世の「エクス・クオ・シングラリ」大勅書によって有罪の判決を下された祖先崇拝は、1939年12月8日の「プラネ・コムペルトゥム」聖勅の中で、ピウス12世によって許可されたことがわかる。

またパパン氏も、ベトナムのキリスト教政策について次のように述べている。
11. La conquête française(1873-1886)
C’est par le biais des missions et sur le mode évangélique
que les Français avaient pénétré au Viêt-nam dans la seconde
moitié du XVIIe siècle. L’empereur Gia-Long, qui expiait sa
dette envers l’évêque Pigneau de Béhaine, toléra le prosély-
tisme catholique, mais son successeur, l’empereur Minh-Mạng
(1820-1840), voyait d’un très mauvais œil le royaume se couvrir
de paroisse échappant à son contrôle. Il fit interdire la propa-
gation de la foi dès 1825 et, entre 1833 et 1840, plusieurs
prêtres vietnamiens, espagnols et français furent condamnés à
mort. Ce martyrologe tranchait singulièrement avec l’expan-
sion des activités évangéliques partout ailleurs en Asie, et sur-
tout en Chine où l’Église catholique devait ouvrir pas moins de
quatorze vicariats entre 1844 et 1860. À Paris, les Missions
étrangères, fortes du soutien de l’impératrice Eugénie, pressè-
rent alors le gouvernement de porter secours aux chrétiens du
Viêt-nam. L’Église souhaitait conquérir une place qu’elle était
en train de perdre en Europe sous la triple action corrosive de
la crise religieuse, de l’anticléricalisme républicain et des
menaces que le Risorgimento italien faisait planer sur Rome et
les États pontificaux. L’enjeu était d’importance.
(Philippe Papin, Histoire de Hanoi, Librairie Arthème Fayard, 2001.p.211.)

《試訳》
フランス人が17世紀の後半にベトナムに浸透したのは、布教の方策と、福音の様式によるのである。ザロン帝は、ピニョー・ド・ベーヌ司教から恩義を受けていたので、カトリック改宗の勧誘を大目に見ていたが、後継者のミンマン帝(1820-1840)は、王国が支配を免れた小教区でおおわれるのを悪意をもった眼差で見た。彼は、1825年以降、信仰の広がることを禁止し、1833年から1840年までの間にベトナム、スペイン人、フランス人の司祭が死刑の宣告を下された。その犠牲者名簿はアジアのほかのどこでも、福音活動の拡大と大いに対照をなした。とりわけ、中国では、カトリック教会は1844年と1860年の間に、14もの助任司祭の所管区域を開くことになった。パリでは、当時、外国伝道は、皇后ウジェニーの強い支持で政府にベトナムのキリスト教徒に救いの手を差しのべるようにせき立てた。教会は、宗教的危機、共和国の反教権主義、イタリアのリソルジメント(19世紀中葉、イタリアで行なわれた祖国の統一と解放とを目ざす運動)が、ローマとローマ教皇国家に迫られた脅威といった腐蝕性の三重作用のもとにヨーロッパで失いつつあった地位を勝ちとることを願った。賭け金が重要であった。

以上、阮朝期のキリスト教布教およびフランス植民地支配について、概観してきた。また、フランス人のベトナム統治の変遷については、一般に次にように理解されている。すなわち、1886年、ベトナム施政を軍人から文官に改める。つまり総監はド・クルシイ将軍からポール・ベルに変えた。彼は前文部大臣でパリ大学教授であった。彼は租税の減免や教育機関の設立を行ない、懐柔策をとった。ただ、ベトナム人の抵抗運動は、地方の豪族や官紳を指導者として衰えなかった。キリスト教会を焼き、信徒を虐殺した。ある意味において、中国思想と西洋思想の戦いでもあったといわれる。フランス人がこの反乱をレットレ(儒教の徒)の乱と呼んでいるのはこのためである。しかしその抵抗運動は、近代的組織と兵器が欠けていたので、フランス軍によって打ち破られた。1888年、咸宜帝がフランス軍に捕えられ、北アフリカのアルジェリアに流されると、勤王運動はほとんど鎮圧された(松本、1993年版、159頁~160頁)。

今回の嶋尾氏が検討した対象地域は、ナムディン省のバックコック村(百穀社)である。つまりハノイから南へ約80キロのところに、ナムハー省の省都ナムディン市があり、そこから西南に10キロ足らず行った村である。ここが嶋尾氏や桜井氏が文献収集や聞き取り調査を行なった農村である(桜井、1987年、306頁。桃木、1995年、56頁)。
この村と宗教との関係についていえば、バイッコックはカトリックの村ではなかったようである。しかし紅河のもう少し下流の村々にはカトリック教徒が多く、1954年に大勢が南へ逃げたと桃木氏は百穀村と宗教との関係について指摘している(桃木、1995年、57頁)。旧百穀村は、アイデンティティ確認のために「伝統」回帰が起こっているとの指摘もある。すなわちコックタイン合作社内の寺、孔子廟、亭(ディン)(村の守り神をまつった神社兼集会所)、デン(一般の神社)は、すべて抗仏戦の中で破壊されたが、デンの1つが1991年に再建された(桃木、1995年、62頁)。
桃木氏は、「伝統」回帰の1つとして、ゾンホ活動にも注目しており、1990年代に実見した17のうち7つの祠堂が再建・修築されたと報告している(桃木、1995年、62頁)。
嶋尾氏は、そのタイトルが示すように、家譜と祠堂を中心として、ベトナムの村落の「中国化」について考察されたわけである。ただ、その際に、その「中国化」の内容の検討とともに、家譜編纂と祠堂建設の背景にある孝や祖先崇拝といった儒教的思想構造についても、今後立ち入って検討してもらいたい。嶋尾氏が取り上げた地域と、他の地域を比較検討しつつ、宗教文化の実態が解明されることを期待したい。




<「嶋尾先生の英語論文を読んで」その6>

2011-01-03 10:28:06 | 日記
<「嶋尾先生の英語論文を読んで」その6>

ベトナムの父系出自組織であるゾンホを理解する際に、日本の「家」との比較は有効である。日本の「家」について、社会学的アプローチにより理論化した学者として、川島武宜氏がいる。その日本の「家」は、父系の血統(男子をとおして連続する血縁)集団である。ただ、その血統は生理的血統のみでなく、擬制的血統すなわち養子制度によっても存在する。「家」の同一性は、姓(氏、家名)および祖先祭祀の同一性によって象徴される。「家」の構成員は、その同一性を保持して存続してゆくものであるという信念を持っている。
また「家」は次のような意識、すなわち信念体系・価値体系によって支えられている。
①血統連続に対する強い尊重――特に旧武士層においては、父系血統に対する強い尊重、女性の蔑視――、および祖先と子孫一体であるという信念
②多産の尊重、子を生まない妻の蔑視
③祖先の尊重
④伝統の尊重
⑤個人に対する「家」の優位
⑥家の外部においても個人をその属する家(特に「家格」)によって位置づけること(「毛なみ」の尊重)
こうした「家」の定義と関連して家父長制が問題となる。家父長制とは、家長が家族構成員に対して支配命令し、川島氏によれば、後者が前者に服従する社会関係である。
その家父長制の具体的内容として、
①家族構成員に対してその行動を決定し、それに服従させる家長の権力
②この権力を保障するための道具としての幼少時からのしつけ、および家族内の「身分」の差別と序列、家長による財産の独占と単独相続制、家長の「顔」(権威)を支える諸々の行動様式
を挙げている。一般的には、これらの諸要素は旧武士層・地主層ではその程度が強く、一般庶民にあっては弱いとする(川島、2000年、155頁~157頁)。
近代における儒教の受容という問題を考える際に、また川島氏は、明治時代と儒教について、次のように述べている点は示唆的である。すなわち、明治維新により、幕藩体制を支えてきたイデオロギーとしての儒教も存在根拠を一旦失う。しかし明治政府は1879年に至り、「文明開化政策」・欧化政策を捨て、武士的儒教的道徳を再編成することを決めた。この政策転換は、侍講元田永孚の『教学大旨』(1879年)に負うていた。そこには儒教が統一中央集権政府を支えるべきイデオロギーとして採用され、「孝」の道徳がその一部分とされた。その後、明治20年代に儒教的「孝」の思想一般が国民教育の基礎とされた(川島、2000年、91頁~93頁)。
日本の明治時代のイデオロギーとしての「孝」には子をつくること、つまり子孫を残すことを義務に含んでいる。
川島武宜氏は、この点について次のように述べている。「「家」の中での親子の間の道徳たる「孝」は、親につかえるだけでなく、親の先祖につかえる(祖先祭祀)義務を含み、したがって、祖先祭祀をうけつぐべき子をつくる義務をも当然にその内容として含んでいるのである。子をつくるということが儒教でいかに重要視されたかは舜の結婚についての有名な話からも了解される。」と述べ、『孟子』万章章(例えば、岩波文庫、1994年版、121頁~127頁)を引用している(川島、2000年、105頁~106頁)。結婚は、子を作り祖先の祭りを絶やさぬようにするという「孝」のための手段である。結婚は子たる者の義務とされる(川島、2000年、108頁)。
今回の嶋尾氏が検討した家譜編纂や祠堂建設という活動も儒教のこの「孝」イデオロギーの延長線上に位置づけられよう。つまり、「孝」イデオロギーには、子をつくり親につかえることを基本とするが、ひいては祖先祭祀により親の先祖につかえることまでも含んでいるのである。
ところで、中国やベトナムといった東アジアの儒教社会にキリスト教が入ってきた際に、どのような問題が発生したのであろうか。その際に、祖先崇拝を骨子とする儒教と、それを原則として認めないキリスト教との関係が問題となる。とりわけ、祖先崇拝の問題である。この問題についても、キリスト教の宗派によって対応が異なっていた。例えば、ポルトガルの保護を受けていたイエズス会の宣教師は適応性があった。だから中国の官僚の信者が天壇に至って天(天帝、上帝)を祭る行事に参加したり、孔子を祭ったり、また一般信者が家において祠堂で祖先を祭ったりすることを認めていた。
しかし一神教のキリスト教の立場から言えば、信者は唯一の神のみを仰ぎ信ずべきであり、祖先崇拝は異教徒のすることとして、認められなかった。例えば、スペインが支援したドミニコ会やフランシスコ会の宣教師は、イエズス会と違って、信者の祖先崇拝を禁じた。そしてイエズス会が中国で成功したのは、祖先崇拝を禁じなかったことになると見て、イエズス会を攻撃し、典礼問題(Rites Controversy)の問題が発生する。
この典礼問題の中心は、祖先崇拝や孔子・天帝(上帝)崇拝を宗教的儀礼と見るか否か、そしてカトリックの教義とこれの中国の儀礼との妥協をどの程度認めるのかということであった。この問題に関して、ローマ法王は、一神教を崇めるキリスト教の立場から、中国における儀礼(典礼)を否認することを決定した。これに対して、中国側も祖先崇拝を排斥するキリスト教に反対したのである(『桑原隲蔵全集』第3巻「支那の孝道」1968年、65頁以下)
「孝」に関する桑原隲蔵氏の古典的名著『中国の孝道』は、中国人にとって「孝」が重要な道徳的規範であったことを実証的に解明しているが、キリスト教との関係で次のように述べている点も見逃せない。すなわち、キリスト教側の祖先崇拝の儀式に対する態度に関しては、1704年のローマ教皇クレメント11世の教令(Décret)や、ベネディクト14世の勅書(Bull)によって一定した。ただ桑原氏はキリスト教徒の態度は必ずしも一定しなかった事例にも言及している。すなわち、1890年には、上海で耶蘇教宣教師総会が開かれたが、マルチン(Martin=丁韙良)は、中国人の祖先崇拝の儀式に寛容な態度をとり、中国の国情と調和を図るべきであるという見解をもっていた。このように祖先崇拝を排斥することは、布教上の暗礁になると公言する宣教師もいたことも紹介している。しかしこの意見は採用されずに、総会は祖先崇拝の核心は、偶像崇拝(Idolatry)にあるために排斥せざるをえないと決議した(桑原全集、1988年版、65頁~67頁、90頁~93頁備考23、学術文庫、1989年版、132頁~136頁)。

ここには多神教的なアジアの神(かみ)と、キリスト教の唯一神としての神(ゴッド)との神観念の問題とともに、祖先崇拝や祖霊信仰をどのように取り入れて布教活動を行なうのかという問題がある。中国や日本の儒教や仏教は、これら祖先崇拝と祖霊信仰を取り入れることによって信者を拡大していった(加地、1990年、215頁~217頁)。
ところで、西洋史における祖先崇拝の問題はどうなっていたのかについても付記しておく。祖先崇拝は東北アジア人固有のものではなく、ヨーロッパにおいてもキリスト教が布教に成功するまでは、祖先崇拝が行なわれていた。フュステル・ド・クーランジュの名著『古代都市』(田辺貞之助訳、白水社、1944年初版、1961年)には、古代ギリシア・ローマでは、死者には他界(地下)があり、祖先崇拝の「家族宗教」が生きていたことを述べている。しかしキリスト教がこの祖先崇拝の「家族宗教」をヨーロッパから駆逐してしまったという(加地、1990年、148頁~150頁)。

またルース・ベネディクトも、名著『菊と刀』において、この孝行について考察している。すなわち孝行は日本や中国と共有している崇高な道徳律であった。ただその孝行の性格は、中国と日本とでは宗族ないし家族構造に適合しているために、その内容は相違が見られた点を指摘していた。
中国の宗族は財産と土地と寺院とを所有し、有望な子弟の奨学基金をもっている。そしてほぼ10年毎に系譜を発行し、宗族の恩典にあずかる者の名前を明らかにした。人は自分の属する宗族に対して忠誠を捧げなければならず、祖先伝来の家憲に従って、秩序が維持された。こような半自律的な宗族の共同社会が国家から任命された長官をトップとする官僚機構によって統治されたのは、時代的にみて時たまのことであったとみる。
一方、日本では事情が異なっていた。姓は中国の宗族制度の根本であったが、日本では19世紀の半頃まで、苗字を名のるのを許されたのは貴族や武士(サムライ)の家柄に限定され、系図をつけたのは上層階級だけであった。そしてその系図は、現在生きている人間から逆に時代を遡って記録するものであり、昔から順に時代を下って始祖から別れて出た同時代の人びとを洩れなく網羅するものではなかった。
そして忠誠を捧げるべき相手も異なっていた。中国の場合、親類縁者の一大集団である宗族であったが、日本の場合は封建領主であった。封建領主はその土地に存在する主権者であったから、中国の地方官のように一時的にその任地に赴く外来者とは雲泥の差があった。
苗字や系図をもたない日本の「庶民」でも、遠い先祖や氏族の神がみを神社や聖所で崇拝した。しかし神社には村民が全部集まった。それは祭神の領域内に住んで、神社の祭神の「子供」[氏子]であるからであって、先祖が共通であるという理由からではない(つまり血縁原理からではなく、地縁原理からである)。日本の祖先崇拝は神社ではなく、家族の居間に設けられた仏壇で行なわれ、そこに安置してある位牌に対して礼拝がなされる。墓地においてさえ、曽祖父母の墓標になると、文字の書き替えも行なわれず、3代前の先祖でさえ、誰の墓かということは忘れらていく。
「したがって、日本の「孝行」は、限られた、直接顔を合わせる家族間の問題である。それはせいぜい自分の父親と父親の父親、それに父や祖父の兄弟とその直系卑属ぐらいを包含するに留まる集団の中で、世代や性別や年齢に応じて自分にふさわしい位置を占めることを意味する」と、ベネディクトは日本の「孝行」を理解した(ベネディクト、1995年版、60頁~63頁)。

また日本人の孝行の解釈と祖先崇拝の特徴について、ベネディクトは次のような意味のことを述べている。「子を持って知る親の恩」という諺があるが、ここでの親の恩とは父母からしてもらう、日ごとの愛護と骨折りのことを指し、日本人は孝行を現実主義的に解釈している。そして日本人は祖先崇拝の対象を、今なお記憶に残る最近の先祖だけに限っており、このことが日本人をして幼年時代に現実に何かにつけこれらの人びとの世話になったことを、一層痛切に感じさせるという日本人はなまなまと記憶されている者以外の祖先に対する孝行を重視しない。日本人はもっぱら今ここにあるものに集中する。日本人の孝行観の実際の重要性は、孝の義務を現に生きている人びとの間に限っている点にある。そして日本人の孝行が及ぶ対象範囲も中国よりも狭く、限定されることを指摘している。すなわち日本では伯父伯母や甥姪といった比較的近い親類に対する義務ですら孝行と同列に扱わない。一方、中国では、このような親類より遠い親類も、共同の資源から分け前を受ける。そして中国の場合、孝行は何世紀もの間の歴代の祖先や、その祖先の後裔である宗族を包括する。ここに日本と中国との家族関係についての大きな相違があるという(ベネディクト、1995年版、118頁、143頁、159頁)。
以上がベネディクトの孝行に対する見解である。ベネディクトの著作の限界と評価については、巻末に付された川島武宜氏の「評価と批判」が参考になる。行動とその背後にある基本的な考え方の両方を分析し、罪の文化と恥の文化、義務と人情の対比といった二分法的思考を分析の武器として、どこまで日本人の価値観の体系を探り当てられるのかという問いも含めて、再検討の余地が多分にあることも確かである。
また著者がまだ1度も日本に来たことがなく、その書の目的は元来、日本を征服し、占領統治するという戦争目的のために書かれたものであった。事実の誤解や疑問となる議論が見られるのも確かである。
このような限界があるにしても、ベネディクトは文化人類学者として、日本人の行動や日本の個々の事象から体系的関係と総合的な型(パターン)を探ろうとした。そしてこの著作により、「生活の営み方に関する日本人の仮定を検討」し、「日本をして日本人の国たらしめているところのもの」(本文、1995年版、19頁)を探求した点は評価されるべきであろう。日本の社会構造は異質的要素によって構成されたhierarchyとして捉え、日本人の行動や考え方の多くがこの封建的なhierarchyという構造的モメントによって規定される点を明示した。
川島氏の言葉を借りるならば、本書では「日本人の行動および考え方の構造的な把握」がなされている(同上、374頁)。日本人の精神生活と文化についての全体像を描き出し、その諸特徴を導き出した。本書が古典的名著とされる所以もここにあろう。

ところで、ベトナムのこの「孝行」に関する研究は殆んど知られていない。嶋尾氏は冒頭で紹介した論稿「ベトナムの家礼と民間文化」において、若干触れている。刑部尚書兼東閣大学士胡士揚(1622―1681)が17世紀後半に著した『胡尚書家礼』の序文には、父母が生きているうちは、喪礼を見るべきではないと考えられているが、実際に死に臨んで家礼を慌てて読んでも間に合わず、不孝者として笑われるだけで、父母の恩に報いるために礼書を読む必要があると説いたという(嶋尾、2010年、105頁)。
ベトナムにおいて「孝行」が具体的にどのようなものとして観念され、祖先崇拝、家譜編纂や祠堂建設とどのように関わっていたのかを検討する必要があろう。これは先に見てきた文化論との関わりにおいても重要な論点となろう。

嶋尾氏は、冒頭で紹介した近著に所収された論稿「ベトナムの家礼と民間文化」において、科挙官僚を輩出した県とキリスト教の関係について触れている。すなわち、17世紀後半に『胡尚書家礼』を著した刑部尚書兼東閣大学士胡士揚(1622―1681)が生まれ育った乂安鎮瓊瑠県瓊堆社の文化的環境として、瓊堆社は阮朝期の郷試合格者は55人に上り、南定省の行善社に次ぎ、全国で第2位であること指摘する。それとともに、アラン・フォレスト氏と牧野元紀氏の研究に依拠して、乂安は古くからキリスト教の拠点であり、瓊瑠県にはキリスト教の学校も建設され、儒教一色の土地ではなかった点に触れている(嶋尾、2010年、106頁~108頁)。先の2人の研究は、次のものである。
Alain Forest, Les Missionnaires Français au Tonkin et au Siam XVIIe – XVIIIe siècles Livres II Histoires du Tonkin. Paris : L’Harmattan, 1998.
牧野元紀『18世紀以前のパリ外国宣教会とベトナム北部宣教:修道会系宣教団体および現地政権との関係を中心に』富士ゼロックス小林節太郎紀念基金小林フェローシップ2007年研究助成論文、2009年(筆者いずれも未見)





<「嶋尾先生の英語論文を読んで」その5>

2011-01-03 10:26:27 | 日記
<「嶋尾先生の英語論文を読んで」その5>

そもそも中国の士大夫と儒教、とりわけ朱子学との関連は一般にどのように考えられているのであろうか。
宋学の主体は士大夫である。士大夫とは唐代、科挙制度の確立とともに起こり、宋代に確固たる勢力となった支配階級である。士大夫の特徴は、儒教経典の教養を保持する読書人である点に求められる(島田、1978年版、14頁)。元代、明代、清代と約700年間、科挙は朱子学的立場の解釈でなければ合格しなかった。朱子学以後の近世において、中国社会に影響を与えていたのは朱子学であったが、1905年、科挙が廃止され、1911年辛亥革命で清朝が倒れる。王朝体制と不可分の関係にあった経学の時代は終焉するとともに、朱子学も急速に力を失っていったと考えられる(加地、1990年、212頁~213頁)。
儒教は礼教性(表層)と宗教性(深層)とからなるとされる。キリスト教は儒教の宗教性、すなわち祖先崇拝や招魂儀礼を批判した。魯迅ら中国近代の知識人は儒教の礼教性を批判したが、宗教性への批判ではなかった。そのため現代においても、儒教の宗教性は生き残っている。すなわちそれは孝である。祖先崇拝・親への敬愛・子孫の存在という三者を1つにした生命論としての孝、死の恐怖・不安からの解脱に至る宗教的な孝である(加地、1990年、220頁~223頁)。
また井上徹氏の「中国における宗族の伝統」(末成道男ほか編『〈血縁〉の再構築-東アジアにおける父系出自と同姓結合』風響社、2000年所収)は中国の宗族を考える際に示唆する所が多い。
近代につながる宗族の起点は宋代に求められ、その宗族の特徴としては祠堂、族譜、共有地という物的装置を備えている点が挙げられる(井上、2000年、45頁、49頁)。そして中国の宗族の伝統の形成過程について概観している。それを要約すると以下のようになろう。
祖先嫡系の宗子が祖先祭祀を通じて同祖の親族を統合すべきであるという考えを宗法主義という。これは宋代の科挙官僚制度に対応して登場したものである。ただ、科挙制の官僚身分は世襲ではなく、原則として一代限りである。そして家産均分の慣行があったので、官僚の家産も細分化されてゆく。官僚身分が一代に限定され、家産均分による細分化が行われると、原理的には没落の危機に陥ってしまうことになる。
そこで科挙制的知識人(士大夫)は、宗法主義により集団を編成し、それを恒久的に維持するために共有財を設置し、族譜を編纂し、祠堂を建設し、族人の日常生活を保障し、教育を施し、子孫を官界に送り出し、世襲官僚の家系を確立しようとした。だから、科挙制の開始が宗法主義登場の最大の契機ということになる。そして宗族は官僚輩出の基体としての意義を担っていた(こうした宗族のモデルとしては、江南の蘇州府城に拠点を置く范氏義荘が有名である)。
また宗法主義は、庶民から官僚への上昇と子孫の下降(没落)という社会的流動性(社会移動)に対する対抗手段として編み出されたともいえる。それと同時に、持続的に官僚を送り出す宗族が成立すれば、国家への忠義も保証され、国家も安定するという論理で、宗族を正当化した。ここに宗法主義が知識人の間で理念として保持され続けた理由の一つがある(同上、49頁~50頁)。
明朝の宗法主義の焦点は、宗子(嫡子)が祭祀を通じて族人を統合する場としての祠堂であった。明朝の家廟制度は、洪武3年(1370)、朱子の『家礼』の祠堂制度に準拠して制定された。ただ、『家礼』とは異なり、大宗による始祖祭祀は捨象された。祠堂、族譜、共有地という一連の装置を備える宗族集団は、明代後期、16世紀以降形成された(同上、51頁~52頁)。
ところで宗族普及のプロセスにおける地域偏差を考えた場合、何が宗族を発達させた要因とするかについては、議論がある。例えば、東南中国の辺境を取り上げたフリードマンは、治安の不安定さによる防衛の必要性を重視した(同上、62頁。Freedman, 1958.)
井上氏は、治安の悪さ、経済的条件の劣悪さ、資源の乏しさに起因して、防衛的、相互扶助的機能の必要性により、宗族が発展したのではないかと仮定している。宗族の広義化の現象、すなわち宗族は名門の家系を樹立する装置として出発し、その普及プロセスで防衛、相互扶助などの機能を備える集団へと変質していったと想定している(井上、2000年、63頁)
ところで、近代において、西欧資本主義は、王朝秩序を動揺・解体させていった。だから近代は漢族が宗族を求めた時代とも考えられる。つまり、西欧資本主義こそ、宗族の肥大化をもたらした源ともいえる。相互扶助と親睦を目的として同姓のものが結合するパターンもみられたが、これは宗族の広義化の伝統を引き継いだものであった。祠堂、族譜、共有地という物的装置を十全に設置しなくとも、同じ男系祖先を戴くことによってネットワークを作り上げていった。近代特有の現象として、共有地を経済基盤とした宗族が都市(城、鎮)を中心として分布したという(同上、62頁~63頁)。このように井上氏は、中国の宗族の伝統について展望を示している。

ちなみに朱子学と『家礼』について若干の解説を加えておこう。
朱子学の特徴は、生命論としての孝、家族論、政治論といった従来の儒教理論体系(宗教性と礼教性)に、宇宙論・形而上学といった哲学性を重ねたことにあるといわれる(加地、1990年、188頁)。
知識人、すなわち読書人であった科挙官僚は、「居敬」や「窮理」といった儒教の礼教性を深化させていった。ただ庶民は、祖先崇拝を核とする儒教の宗教性に関心があった。朱子は祖先崇拝という核心を切り捨てず、理気二元論という存在論から鬼神の説明を行なった。鬼神の鬼とは死人の魂を指し、恐ろしい存在であるが、祖先崇拝の原型である。儒教古典中の「鬼」は、祖先の祭祀と関わっており、知的科挙官僚にも納得できる説明が必要であった。その説明ができてこそ、儒教の核心である祖先崇拝が成り立つことになる。気(世界の物の質料)である祖先の魂は散じてゆくが、子孫が誠敬(まごころ)を尽くして祭ると、子孫の気と通じ感応して、この世にやってくると考えた(招魂)。朱子が41歳で母を亡くしたときに、『家礼』を撰したと伝えられる。この本は、母の葬礼を基礎に研究し、実践した副産物であり、家における冠昏(婚)喪(葬)祭のあり方を示したものである。そこでは儒教における礼教性と宗教性が示される。家には祠堂(みたまや)をたて、そこに祖先の神主(しんしゅ)[仏教でいう位牌]を置き、ここが家族の精神的拠りどころとなるという。そして冠・婚・祭は居宅で行なうが、報告や挨拶を行なう祠堂が重要な舞台となる。喪も居宅で行なうが、喪礼のある段階が終ると新しい神主を祠堂を置くこととなる(加地、1990年、204頁~210頁)。

祖先崇拝の思想において、中国では父子は一体のものとして捉えられた。この点、法制史家の滋賀秀三氏は父子一体論を提示した。すなわち、後継者は、実子であれ養子であれ、人そのもの(法律的には人格)を継ぐものである。人間は祖墳に葬られ、子孫によって永く祭り続けられことが重要であった。人間の死は万事の終わりではなく、子孫による死後の祭礼で人生が完結した。
この死後の祭祀は、生前の奉養、死亡時の葬喪とともに、「孝」(子の親に対するつとめ)の三様態をなした。つまり、養・葬・祭は子の三つの重要なつとめであった。とくに葬喪の義務は孝の頂点ともいえ、「孝衣(喪服)」「帯孝(喪に服する)」など孝の字は端的に喪を意味する場合が多いといわれる。
逆に『孟子』離婁篇(小林勝人訳注、岩波文庫(下)、1972年[1994年版]、55頁)には、
「孟子曰く、不孝に三あり。後(のち)なきを大なりとなす。舜の[父母に]告げずして娶るは、後なきが為なり。君子は以て猶告ぐるがごとしとなせり。」とある。この不孝に三ありに対して趙岐は礼としての不孝を三つ挙げて、説いている。
「親の意に阿(おもね)り従って、親を不義に陥れるのは、一の不孝である。家が貧しく親が老いても、禄仕(しかん)をしないのは、二の不孝である。娶らないで子供がなく先祖の祀(まつり)を絶つのは三の不孝である。この三者の中で、後(子孫)がないのが最大の不孝である」と。
朱子もこの趙岐の説によっていると小林勝人氏は注している(小林勝人訳注、岩波文庫(下)、1972年[1994年版]、55頁)。
このように、孟子、趙岐、朱子ともに、後(子孫)がなく、祖先崇拝が絶えることを最大の不孝とみなしているのである。祠堂を建設して、先祖を祭祀し、子孫を残して、家系を存続させ、家譜を編纂するに足るようにすることこそ、孝行であったということになる。
ちなみに先の引用箇所の英文訳を紹介しておく。
Mencius said, ‘There are three ways of being a bad son. The
most serious is to have no heir. Shun married without telling his
father for fear of not having an heir. To the gentleman, this was
as good as having told his father.’
D.C.Lau, Mencius, Penguin Books, 1970[2003], pp.86-87.
D.C.Lau氏は意訳して、「不孝」の部分を「a bad son」とする。最悪なのは、「to have no heir」つまり、相続人・後継者がいないことなのである。
このように、血すじが絶えることは、己れにとっても父祖に対しても、最大の不孝とみなされたのである。死したる鬼は子孫の捧げる祭祀によって幸福でありえた。祭ってくれる者がなくなれば、鬼は餒(う)えるとされ、「不祀之鬼」は最も悲しむべき不幸な運命と考えられた。滋賀氏は、父子は分形同気であるという思想が、中国人の相続観念の根底をなしていたとみる。つまり父と息子は個体としては分れていても、一つの生命の連続であった。人格の相続と祖先祭祀とは、生命の連続という同一の実体から生ずる二つの現象的効果である(滋賀、1981年版、112頁)。

許烺光氏は、中国における親族関係は男系血筋(father-son line)の継続に基本的価値がおかれ、これを中心に組織されているとみる。つまり、雲南地方の社会学的実態調査をもとに、father-son identificationという造語によって、父子の関係を把握した。それは「何であれ、一方のある所のもので他方もあり、一方の持つ所のものを他方も持つ( “whatever the one is, the other is; and whatever the one has, the other has.”)という関係を指した(滋賀、1981年版、131頁)。

滋賀氏は、この許氏のfather-son identificationは社会経済的側面を見たものであり、自らが父子一体と表現したものは、法律的側面を見たものという違いにすぎず、本質的には同一の実体を指したものであると解説している(滋賀、1981年版、132頁)。

このことを滋賀氏は英文の論文
Shūzō Shiga, “Family Property and the Law of Inheritance in Traditional China,”
in David C. Buxbaum ed., Chinese Family Law and Social Change : in Historical and Comparative Perspective, University of Washington Press, 1978. においても、次のように論述している。
Also, as long as the father is alive, the son might
just as well not exist, for it is only with the father’s death that he makes his
appearance as a being who steps without further ado into the father’s place.
I call this the rule of the single father-son unit (fushi ittai ; fu tzu i t’i). It
might be defined as a rule whereby during the father’s lifetime the son’s
personality is absorbed into the father’s, while after the latter’s death his
personality is extended into that of his son. Father and son are a continuum
of the same personality, not two beings in mutual rivalry. It is only when there
is more than one son that personality conflicts arise among them as brothers.
Further, in relation to their father, each of them merges with him into a single
unit. Consequently, in relation to one another they are equal. The principle
of father and son as a single unit contains within itself that of the equality of
brothers…
Professor Francis L. K. Hsu has created the term “father-son identification,”
explaining the relationship in terms of “whatever the one is the other is, and
whatever the one has the other has.” My own thought of a father-son unit
occurred to me independently of this, and my findings were published at
virtually the same time as his. By amazing coincidence, they point to an
identical reality. If from the juridical point of view there exists between father
and son what I call the father-son unit relationship regarding the possession
of property rights, then there would have to be between father and son a
relationship of the common enjoyment without discrimination of all advan-
tages, both social and economic, over all property, whether tangible or
intangible ; in other words what Professor Hsu calls a “father-son identifica-
tion.”
(Shūzō Shiga, “Family Property and the Law of Inheritance in Traditional China,”
pp.119-121.)

《試訳》
また父が生存する限り、息子は存在しないようなものである。というのは、あとは苦もなく父の地位に歩を進める存在として現れるのは父の死を伴った時でしかないからである。私はこれを「父子一体」の原則と呼んでいる。その原則の定義としては、父の生存中は息子の人格は父のそれに吸収される一方で、父の死後はその人格は息子の人格に延長される。父と息子は同一人格の連続体であり、両者は相互の対立関係にない。人格の対立が兄弟としての彼らの間に起こるのは一人以上の息子がいる時のみである。さらに父に関して、彼らの各人は一つの単位に吸収される。その結果として、相互にして彼らは平等である。一つの単位としての父と息子の原理は、兄弟の平等の原理自体の中に含まれる。
フランシス・L.K.許教授は、「父子同一化」という用語を造語した。この用語で、「何であれ、一方のある所のもので他方もあり、一方の持つ所のものを他方も持つ」という関係を説明した。父子の単位という私の考えは、これらは独立して私の心に浮かんだ。私の研究結果は、彼のそれと実際上同時に出版された。驚くべき偶然の一致で、両者は同一の現実を指す。もし法律上の観点から、父子の間に財産権の所有に関して父子単位関係を私が称したところのものが存在するならば、父子間には有形であろうと無形であろうとあらゆる財産に対して、社会的かつ経済的にあらゆる利益の区別なく共同で享受する関係であらねばならないであろう。言いかえれば、許教授が「父子同一化」と呼んだところのものである。
(滋賀秀三「伝統中国における家族財産と相続法」1978年、119頁~121頁)

前述したように、父子は分形同気である。すなわち「父子は至親なり、形を分けて気を同じうす」といわれる。父と子は現象的には二つの個体であるけれど(分形)、父子のうちに生きる生命そのものは同一である(同気)。子は父の生命の延長であると観念された。父子間を生命の連続と認めることは、中国人の人生観の基本であった。中国の倫理体系の核心をなす至高の徳目とされた「孝」の概念も、この認識から生じたと考えられている(滋賀、1981年版、35頁)。
父子一体の意味は、承継の関係そのものである。息子は父の承継人である。父の人格は息子に延長する。この関係は息子の人格は父に吸収されるという関係を伴っている。家族をめぐる権利関係において、父が生存する限り、息子の存在は父の蔭に隠れて無に等しい。反面、父が死亡すれば、息子は父に代わる存在として現れる。このように、息子の人格は父に吸収され、父の人格は息子に延長するということは、両者の間に人格の対立が存在せず、両者は同一人格であることを意味する。この関係を滋賀氏は法律的意味における父子一体の原則と名づける。
そして兄弟同居の家において、家産は兄弟全員によって相互に等しい持分において、総手的に共有されていた。このような兄弟相互の関係を父子一体の原則に対応する意味で、兄弟平等の原則と滋賀氏は名づける。中国の秦漢以後の社会体制においては、嫡長一系を特に尊重すべき実質的な条件は一般に存在しないとみる。確かに儒教の経書の嫡中には、長子孫による宗廟主祭権の単独相続の観念が顕著に現れ、主祭権者は同族を統轄する権威を有すべきことが同族組織の基本とされるが、こうした古典に記された原理は一種観念的な影響力を持ち続けたが、長子、長孫に対して財産上若干の特別分を与える慣習となって残存したにすぎないとする。この点、日本の家族制度における本家のように長子・長孫が同族を統轄する特別な責務を負い、権威を保持していたのとは対照的である。中国の場合、すべての息子は十全な資格をそなえた承継人として父を祭り、家産の分割を兄弟間で平等に請求することができた。このように、中国家族法は父子一体の原則を経とし、兄弟平等の原則を緯として成り立っていると滋賀氏はみるのである(滋賀、1981年版、77頁、129頁、252頁~253頁、267頁~268頁)。

また滋賀氏は、中国の宗族について、「一つの泉から幾条もの水が分れ流れるように、また一つの幹から千枝万葉が生い茂るように、宗族とは一個の祖先の生命の延長拡大にほかならない。族人のうちに祖先を認めることから同族の結合が生ずる。」
その典拠として、『講解聖諭広訓』第2条に「(前略)却総是一個人、就如水有分派的一般、你看一股泉、流将下去、分作幾条」を引用している(滋賀、1981年版、37頁、49頁注61)。この表現は、嶋尾氏がゾンホを喩えた諺に類似するが、ベトナムの方の諺の起源とともに、その出典は何か問われよう。


滋賀氏は儒教の核心をなす至高の徳目とされた「孝」について次のように解説しているので、引用しておこう。
The sons’ position, as described above, was on the other hand inextricably
bound up with a duty to recognize their father as the source of their own
existence, to surrender to their father all of the fruits of their own activities,
and to submerge their own existences entirely into their father’s. This is the
concept of filial piety (hsiao), which constitutes the core of China’s morality.
It takes the form during the father’s lifetime of a prohibition against the sons
saving the fruits of their labor as private possessions, as well as of a duty to
serve and obey the father within a life pattern of “common living, common
budget,” while after his death it assumes the phase of a duty to sacrifice to his
spirit. Because of the sacrifices, the relationship of a lifetime continues
unbroken, and the food and clothing required by the deceased are furnished
him symbolically, but beyond that the person in question is never allowed to
forget the fact that he is himself present as a continuation of his father.
People are aware that their fathers are alive in their own persons. Thus is
born, first of all, the duty to be circumspect with regard to one’s own person
and also with regard to life in general. There also results the duty to produce
and rear descendants, to find marriage partners for them, and to save things to
bequeathe to them. In one’s descendants one sees one’s own ancestors, and
to those descendants one commits one’s ancestors’ lives as well as one’s own.
At the same time, one sees those ancestors first in the brothers who got those
ancestors’ chi, then in the clan (t’ung tsu) as a whole. From this is born a
sense of clan solidarity.
In sum, then, a man lives in those who sacrifice to him, and his property is
also inherited by those who sacrifice to him. The joint and simultaneous
succession to sacrifices and property is indissoluble. This is the basic guideline
of China’s inheritance law.
(Shūzō Shiga, “Family Property and the Law of Inheritance in Traditional China,”
in David C. Buxbaum ed., Chinese Family Law and Social Change in Historical and Comparative Perspective, University of Washington Press, 1978, pp.124-125.)


<「嶋尾先生の英語論文を読んで」その4>

2011-01-03 10:25:10 | 日記
<「嶋尾先生の英語論文を読んで」その4>

さて、今回の嶋尾氏の英語論文は、氏の研究業績の中でどのように位置づけられるのであろうか。氏の研究史上に位置づけるならば、その起点は、次の2つの論稿に求められる。
①「19世紀~20世紀初頭北部ベトナム村落における族結合再編」(末成道男ほか編『〈血縁〉の再構築:東アジアにおける父系出自と同姓結合』風響社、2000年、213頁~254頁)
②「ベトナム村落と知識人」(『知識人の諸相-中国宋代を基点として』勉誠出版、2001年、107頁~117頁、とりわけ第4節「村と科挙」(112頁~116頁)
これら2つの論稿の構成は次のようになっている。
「19世紀~20世紀初頭北部ベトナム村落における族結合再編」(末成道男ほか編『〈血縁〉の再構築:東アジアにおける父系出自と同姓結合』風響社、2000年、213頁~254頁)の構成
はじめに
一、百穀社と村内のゾンホの概況
二、18世紀以前の村の状況
 1.16世紀の転換
 2.<阮公(阮功)>族をめぐる村の紛争とその祭祀圏
  ①阮公朝
  ②沛郡公
 3.<裴允>族をめぐる紛争
 4.<阮琅>族の反儒教的反動?
 5.<阮廷>族における儒教と風水の受容
三、19世紀の族結合
 1.家譜編纂という事件
  ①裴允族
  ②阮廷族
  ③阮如族
  ④阮琅族
  ⑤裴輝族
  ⑥村の俗例(規約)の制定
 2.祠堂建設という事件
  ①裴輝族
  ②裴輝璠
  ③阮才族
四、仏領初期の族結合
 1.家譜の再編
 2.ミドルネームの確立
おわりに

「ベトナム村落と知識人」(『知識人の諸相-中国宋代を基点として』勉誠出版、2001年、107頁~117頁)の構成
一、伝統ベトナムの知識人の条件
二、漢字・漢文による文書行政国家
三、グエン朝の科挙
四、村と科挙
五、村の儒者と村を越える儒者

末成道男氏は、シンポジウムの総括コメントの中で、嶋尾論文「19世紀~20世紀初頭北部ベトナム村落における族結合再編」(末成道男ほか編『〈血縁〉の再構築:東アジアにおける父系出自と同姓結合』風響社、2000年)を次のように評価している(末成、2000年、299頁)。すなわち、嶋尾論文は、ベトナムの1つの村の文献史料と聴き取り資料を収集・分析し、父系集団結合の事例を提示し、歴史学の立場からベトナムの親族研究の1つの到達点を示している。その概要としては、父系制形成は13世紀ころから始まるが、本格的な展開は16、17世紀以降であり、父系的な同姓の族意識は18世紀までには確立していたとする。ただし、17世紀~18世紀には、既に父系親族の活動が社の地域的範囲を超える場合もあったものの、その基盤は脆弱であった。19世紀以降、族結合の基盤整備が行なわれて、家譜の編纂と祠堂の建設により、強固なものとなっていった。
末成道男氏もベトナムのゾンホに関して、文化人類学の立場から関心をもち、研究している。その調査地は、潮曲社という村落であり、黎朝の1505年に阮嘉猷という進士を輩出したが阮朝期には1人も挙人を出していない。しかし家譜や祠堂はよく揃っている。この事実をどう解釈するかという問題に関して、嶋尾氏は次のような要因を考える必要があることを指摘している(嶋尾、2000年、251頁注43)。
①挙人に到達しなかった秀才以下の知識人の役割
②黎朝期以来の文化的伝統
③ハノイへの近接
④金縷社、姜亭社、定功社といった潮曲社の東に隣接する村々が阮朝期に挙人を輩出していること。
嶋尾氏と末成氏はそれぞれ歴史学もしくは文化人類学の立場から、ゾンホという同じ主題を研究したが、嶋尾氏の調査地はナムディン省の百穀社であり、末成氏の調査地潮曲社とは異なる。科挙系官僚の輩出数において対照的な性格を有する地域の比較は興味深く、2つの地域差が如実に反映されており、2人の議論を契機にして、学際的交流が更に深まり、今後新たな成果があがることを期待したい。

嶋尾氏は、「表2 百穀社のゾンホをめぐる出来事」について年表にまとめている(嶋尾、2000年、234頁。尚、英文では1922年から1940年にかけての祠堂再建が表にまとめられている[Shimao, 2009, p.73. note32.])
それによれば、1954年以降に、抗仏期に破壊された阮曰族祠堂が再建されたことが1件、そしてドイモイ政策を経て、1990年代には、やはり抗仏期に破壊・焼失された祠堂が再建されたようで、1991年に裴允族、1993年に阮益族、裴文族、1994年に陳族、阮文族といった事例を挙げている。
このように1990年代には抗仏期に破壊・焼失された祠堂を再建された動きは、何が影響しているのか、その政治的社会的、または思想的背景は何であろうか。現代における祠堂再建および家譜再編纂の意義は何であろうか。少なくとも前近代に盛行をみた科挙制という政治制度的バックボーンや朱子学的思想は消滅しているのであるから、それに代わる族結合原理が存在するのであろうか。そもそもベトナムの科挙制度は、郷試は北部では1915年まで、中部では1918年まで続けられ、会試は1919年まで行なわれた。ただ20世紀に入ってから、科挙試験の中身は漢文の試験だけでなく、ベトナム語やフランス語、歴史・政治の科目が加わったといわれる(嶋尾、2001年、111頁)。
ところで、父系出自血縁原理は、ベトナム以外ではどのように考えられているのであろうか。
東アジア社会における父系出自観念を、社会主義体制といった現代的脈絡との関連で見ると、どのようなことが指摘できるのであろうか。この点で、伊藤亜人氏は「コメント 父系血縁原理の現代的脈絡――韓国社会をめぐって」において、次のような点に言及している。
中国の社会主義体制のもとでは、父系血縁原理は、その理念を阻害する宗派主義として、否定する政策がとられてきた。そのため人類学者は、漢民族の社会主義体制の周辺地域である台湾、香港、東南アジアの華僑社会に関心を寄せたという。また韓国では、親族などの個人的な人脈以外に、都市の社会的紐帯として、宗教とりわけキリスト教の信仰が浮上してきた。つまり有力な親族や同郷人を人脈にもたない人々にとって、教会が精神的のみならず、社会的接点として機能するようになってきた(伊藤、2000年、277頁~278頁)。
こうした伊藤氏のコメントは、近代の父系血縁原理の変容および社会的紐帯を考える際に、示唆するところが多い。一方、嶋尾氏は、「ベトナム村落と知識人」において、村々の儒者をつなぐ師弟関係のネットワークが植民地化前夜に存在し、フランス侵略初期には、例えばナムディンにおいて、その師弟のネットワークが抗戦のネットワークとして活用されたことを指摘している。そして知識人のネットワークづくりは20世紀初頭の開明的知識人層の運動では全国規模で展開され、漢字・漢文エリートの人格的関係が広域の運動形成のための重要な契機であったという展望を記している(嶋尾、2001年、116頁~117頁)。こうした指摘は、先に紹介した宮沢氏の議論とともに、前近代と近代の社会的紐帯の連続性と断続性の問題を再考するきっかけを与えてくれることであろう。

嶋尾氏はナムディン地方のフィールドワークにより、様々な資料(史料)を収集してきた。とりわけ、集中的な調査地となったのが、前述したように、南定(ナムディン)省-務本(ヴバン)県-程川上(チンスエントゥオン)総百穀(バックコック)社である。ベトナム村落におけるこの村落の位置づけは、『国朝郷科録』により阮朝期の挙人の出身者をみると、百穀社から3人の挙人が輩出している(1841年の挙人の裴輝潘、1891年の挙人で92年副榜となった武善悌、1900年の挙人の阮周新)。「ベトナム村落と知識人」において触れてあるように、阮朝期に挙人を輩出した村落数は、2346村で、そのうち過半数(1462村)は一人の挙人しか出ていないことを思えば、40人以上を輩出した超エリート村とは比較にならないが、かなりのエリート村と位置づけられる。ただし、19世紀の挙人の数だけで判断するのは危険であるとして、末成道男氏が調査した潮曲という村は、阮朝期に挙人を1人も出していないが、家譜や祀堂はよく揃っていることも指摘している。
ところで、先の指摘との関連でいえば、村々の儒者をつなぐ師弟関係のネットワークが植民地化前夜に存在し、バックコック社の挙人の追悼碑文を、ファン・ヴァン・ギが著している点に言及している。すなわち、彼はナムディン省ダイアン県タムダン社の人で、1838年に進士に合格し、官職を歴任したほか、帰郷して故郷に学校を開いて門弟を育成した。ナムディン省の督学として科挙の受験生の指導にあたった。弟子達(多くは秀才クラス)を動員して、沿海地の開拓や村の米備蓄倉庫の建設などの公共事業を推進した。フランス侵略初期には、ナムディンにおいて、師弟のネットワークが抗戦のネットワークとして活用された。

嶋尾氏は、別稿において、1945年以降の百穀社内の家譜編纂についても言及している。すなわち1950年には、阮琅族第2支の家譜が漢字とローマ字の両方で編まれていたが、1966年には、阮公族がローマ字で総合的な家譜を作っているという(嶋尾、2000年、245頁)。1991年には村の最大ゾンホ裴輝族は、各人の事跡についてはほとんど触れていないものの、道良公以来の男子成員を網羅する大家譜を完成した。1945年以降、漢字漢文の家譜に替わってローマ字表記の家譜が作成されるというように変わってくる。(そして祠堂建設については、科挙制廃止後も、その建設が存続していたことは嶋尾氏も触れている。)
このような歴史的な変化に注目すると、伝統ベトナムの知識人の条件とはかけ離れたところで、族の活動としての家譜編纂が現代になっても存続していることに気づく。
かつて嶋尾氏はかつて「ベトナム村落と知識人」において、伝統ベトナムの知識人の条件として、3つを挙げていた。
①漢字・漢文を知っていること。
②中国の古典(経書、史書など)の素養があること。
③漢字・漢文で詩や賦を作ることが出来ること。
これら3つの条件は、中国式の官吏任用試験である科挙試験の教養であると論じた(嶋尾、2001年、107頁~109頁)。
このように科挙制は伝統ベトナムの知識人の存立条件として、重要な歴史的意義を持つものであったが、1910年代に廃止されてしまう。そればかりか、漢字そのものも公文書のみならず、家譜上からも消滅することになる。フランス植民地化とともに、公文書で漢字を使用することを禁止されてはいたが、1945年以降は、漢字にかわりクォック・グーというベトナムのローマ字表記の動きが現れてくる。
このように見てくると、漢字からクォック・グーへの変化は単に言語表記の変遷にとどまるものではなく、政治社会的、かつ文化的転換であったことに気づく。それにもかかわらず、家譜の編纂や祠堂の建設が1990年代の現在に至るまで執拗に続けられるのはなぜであろうか。こうした疑問が湧いてくる。
その要因については、時代的に区分して、改めて考察されるべき問題であると思う。今回、英語論文で嶋尾氏が主に検討対象とされた時代の阮朝期、とりわけ19世紀から20世紀初めは、科挙制の制度的実施と儒教思想に支えられていた時代であった。この時代については、題名にある「中国化(Sinification)」があてはまるであろう。ただ、その際に、家譜編纂と祠堂建設の思想的背景については必ずしも考察されていない(この点は後述)。

ところで八尾隆生氏は、家譜を「一族の来歴を示した家の歴史書」と定義し、原家譜は、15世紀頃から作成されたと推測している。ちなみに、漢喃研究院所蔵家譜の作成年代の平均は、1835.1年であるという。また、家譜という史料のもつ問題点としては、
①家譜の「中空構造」という特徴
②再構成の際に作為性が介入することを指摘している(八尾、2009年、22頁~23頁、52頁)。
家譜のもつこのような史料的限界を克服する上で、八尾氏は偽作する可能性が低く、信頼性のおける史料として、碑文に注目している(八尾、2009年、53頁)。こうした点を家譜を史料として利用する際に留意して歴史研究を進める必要があろう。
史料上の注意点以外に、次に歴史理論上の問題についてコメントを付しておきたい。周知のように、宮嶋博史氏は、東アジアに共通する社会構造上の特徴を小農社会という概念で捉えることを提唱した(溝口、1994年、6頁。宮嶋、1994年、67頁~96頁)。この学説を受けて、ベトナム史の八尾隆生氏は、近年の大著『黎初ヴェトナムの政治と社会』において、ベトナムの15世紀の黎朝社会を、この小農社会と規定する試みをしている(八尾、2009年、180頁~181頁、412頁、419頁~421頁。なおその書評として、本ブログ「八尾隆生先生の著作を読んで」を参照のこと)。
それでは、宮嶋氏の提示する小農社会論とは、どのようなものであろうか。ここでそれを簡潔に要約しておこう。
 小農社会とは、自己および家族労働力のみをもって独立した農業経営を行なう小農が、支配的な存在であるような社会を指す(宮嶋、1994年、70頁)。東アジアの小農社会は、人口の急速な増加と農業技術の変革という2つの条件を前提として成立し、中国では明代前期に、朝鮮・日本では17世紀頃にその転換を完了したと考えられている。そして小農社会成立の前提となった耕地の大開発を推進した主たる階層は、中国の士大夫層、朝鮮の両班層、日本の武士層である。中央集権的な官僚制的支配を統治理念にもつ朱子学を、彼らは政治的支配層として受容した(同上、82頁~85頁)。
小農社会の成立は、農業のあり方のみならず、社会構造や国家支配のあり方をも大きく変え、政治的支配と土地所有の遊離や民衆の均質化といった特徴をもたらし、家族・親族のあり方をも変えた。日本では、小農社会の成立により、「イエ」が形成された。そして家父長権が強化され、それに伴って女性の地位が低下してゆき、相続制においても分割相続から単独相続への変化が進行した。一方朝鮮では、李朝前期までは、両班の間では、男女均分相続が行われたので、母方の血縁も父方と同様に重視され、父系血縁集団としての同族集団は強固な存在ではなかった。しかし17世紀になると、相続制度では男子優待・長男優待へと、結婚後の居住形態も妻方居住から夫方居住へと変化していった。こうして父系血縁関係の重要性が高まり、同族結合も強化され、その同族結合を誇示するために、17、18世紀になってから、族譜が本格的に作成され始めた。両班層に始まるこうした家族・親族制度が一般民衆にまで及んでいくのは、18世紀以降のことである。一方、中国の場合は、不明な点が多いと断りながらも、同族結合が強化されていくのは、明代以降であるとし、宋代以前にまで遡るものとは考えにくいという。
このように東アジアの小農社会の成立に伴って形成されてきた家族・親族制度は大きく変化し、近代以降もその特徴は継承された。例えば、20世紀の朝鮮において族譜刊行が盛に行なわれたことからもわかるように、同族結合は強化されてきた。14世紀から17世紀にかけて、小農社会の成立に伴う社会構造上の特徴は、従来「伝統」として一括され、「近代」と対立させて、「伝統」は「近代」によって解消・消滅してゆくものとして捉えられてきた。しかし事態は逆で、「伝統」は「近代」の中で再生・強化されていくものとして、理解し直すことが必要であると説く。つまり東アジアの長期にわたる社会変動の分水嶺は、前近代と近代の間ではなく、小農社会成立の前後、すなわち「伝統」の形成以前と以後の間に置かれるべきではないかと提言している(同上、91頁~94頁)。