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リートリンの覚書

日本書紀 巻第三 その九

己未(つちのとひつじ)の年の春、
二月二十日、
諸将に命じて士卒を選びました。

この時、
層富県(そほのあがた)
波哆(はた)の山崎に、
新城戸畔(にいきとべ)という者がいました。

また和珥(わに)の坂下に、
居勢祝(こせのはふり)という者がいました。

臍見(ほそみ)の長柄の山崎に、
猪祝(いのはふり)という者がいました。

この三箇所の土蜘蛛(つちぐも)は、
どの者も、武勇の力を頼りにして
朝庭(服属)することを拒みました。

そこで天皇は一隊を派遣し、
皆討伐しました。

また高尾張邑に土蜘蛛がいました。
その風貌は、
身の丈が低く手足が長い者で、
侏儒(ひきひと)と似ていました。

皇軍は、
(かずら)を結んだ網をかぶせて襲い、
その者を殺しました。

そこでその邑の名を改めて
葛城(かずらき)としました。

そもそも磐余(いわれ)の地の旧名は
片居(かたい)
または片立(かたたち)といいました。

我が皇軍が、
賊兵を打ち破るにおよんで、
大軍がその地に集まり
満ちあふれていました。

そこで名を改めて
磐余(いわれ)としました。

あるいは、
天皇は先に
神酒の甕(かめ)の米を召し上がり、
出陣して西方を討伐しました。 

この時、
磯城八十梟師がそこに集まっていました。
そして皇軍との大戦が繰り広げられました。

そして、
ついに皇軍によって
磯城八十梟師は討滅されました。

故に名付けて、
磐余邑としました。

また、皇軍が敵を威圧した所を、
猛田(たけだ)といいます。

城を造った所を、
城田(きだ)と名付けました。

また、賊衆が戦死して倒れた屍が、
肘を枕にした所を、
頬枕田(つらまきだ)と呼びました。

天皇は、前年の秋九月に、
密かに、天香山の埴土を取って、
沢山の平皿を作り、
自らも斎戒(ものいみ)して、
諸神を祭り、
ついに平定することができました。

そこで土を取った所を、
埴安(はにやす)と名付けました。

三月七日、
天皇は令を下されて、
「私が東征に出発してから、
ここに六年が経過した。

その間に皇天の威光を受けて、
凶徒を誅滅した。

辺境の地は未だ鎮静しておらず、
残る賊徒もなお頑強ではあるが、
中洲の地はもはや戦乱ではない。

誠によろしく、
ここに都を拡張し、
大きな宮殿を造ることにしよう。

今はまだ、国が始まったばかりで、
民の心も素朴である。

彼らは巣に棲み、
穴に住みこのような習俗が常である。 

そもそも聖人は法制を立てるものであり、
その道理は必ず時勢に適合するものだ。

仮にも民に利があるのなら、
どうして聖人の創造を
さまたげたりできるだろうか。

まさしく山林を切り拓き、
宮殿を経営し、
謹んで皇位につき、
人民を治めよう。

上は天の神が授けた徳に答え、
下は皇孫の正を養う心をひろめていこう。

そののち、
六合を一つの国にして都を開き、
八紘を覆い宇(宮)とするもの
またよきことではないか。

見渡せば、
畝傍山の東南、橿原の地は、
おそらく国土の奥深いところではないか。
そこに都を定めよう」
と仰せになりました。

この月に、
役所に命じ、宮殿を造り始めました。

庚申(かのえさる)の年、
秋八月十六日。

天皇は正妃を立てようとしました。
改めて広く子女を求めました。

時にある人が奏上して、
「事代主神が、
三嶋溝橛耳神(みしまみぞくいみみ)の娘、
玉櫛媛(たまくし)と共寝して生まれた子で、
媛蹈韛五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)
とう者がいます。
その者は国中でいちばん美しい者です」
と申しました。

天皇はたいそう喜びました。


・層富県(そほのあがた)
奈良県生駒郡

・和珥(わに)
奈良県天理市和珥

・臍見(ほそみ)の長柄(ながら)
奈良県天理市長柄か

・侏儒(ひきひと)
侏儒・朱儒(しゅじゅ)とは、
こびと、一寸法師。
背丈が並外れて低い人。
見識のない人をあざけていう語。

・磐余(いわれ)
奈良県桜井市中部から橿原市東南部

・猛田(たけだ)
奈良県橿原市東竹田



登場した神様の詳細はこちら

事代主神

玉櫛媛(たまくし)
・媛蹈韛五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)


続く

最後まで読んで頂き
ありがとうございました。





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