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リートリンの覚書

日本書紀 巻第三 その十

九月二十四日、
媛蹈韛五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)
を正妃にむかえました。

庚酉(かのえとり)の年、
春正月一日、
天皇は橿原の宮で帝位につかれました。

この年を天皇の元年とします。

正妃を尊んで皇后としました。
皇后は、
皇子の神八井命(かんやいのみこと)
神渟名川耳尊(かんぬなかわみみのみこと)
を生みになられました。

古語(ふること)は、(この天皇を、)
「畝傍の橿原に、
大地の底の岩に宮柱をしっかりと立て、
高天原に破風(はふ)を高くそばだてて、
初めて天下を治めた天皇を、

名付けて
神日本磐余彦火々出見天皇
(かんやまといわれひこほほでみてんのう)
と申し上げる」
と、褒めたたえています。

初めて天皇が天津日嗣を草創した日に、
大伴氏の遠祖の道臣命が、
大来目部を率いて、
密かな策を承り、
(なぞら)え歌、
(さか)さ語で、
妖気を打払いました。

倒語を用いるのは、
始めてここに起こったのです。

二年、
春二月二日、
天皇は功を定め恩賞を行いました。

道臣命に宅地を授け、
築坂邑(つきさか)に居住させ、
特に寵愛されました。

また大来目を
畝傍山の西川辺の地に居住させました。

今も来目邑とよぶのは、
これが起源なのです。

珍彦(うずひこ)を倭の国造にしました。

また弟猾(おとうかし)に猛田邑を与え、
猛田の県主(あがたぬし)としました。
これは
菟田の主水部(もひとりべ)の遠祖です。

弟磯城、
名は黒速(くろはや)を、
磯城(しき)の県主としました。

また剣根なる者を
葛城(かずらき)の国造としました。

また頭八咫烏もまた恩賞の列に入れました。
その子孫は
葛野主殿県主(かずののとのものあがたぬし)です。

四年、
春二月二十三日、
「我が皇祖の霊が、
天より降りご覧になられ、
私の身を照らし助けてくだされた。

今多くの賊を平定し、
国内は無事である。
天孫をまつり(皇祖への)
大孝を申しのべるがよいだろう」
詔なされました。

そこで祭庭を鳥見山の中に設立し、
その血を上小野の榛原(はりはら)
下小野の榛原と呼びます。
そこで皇祖の天神を祭りました。

三十一年、
夏四月一日、
天皇は巡幸しました。

腋上(わきがみ)
嗛間丘(ほほまのおか)に登り、
国の形状を望み巡らせて、
「なんとも、美しい国を得たものだ。
内木綿(うつゆう)の狭い国だが、
あたかも蜻蛉(とんぼ)
交尾したような形だ」
と仰せになられました。

これにより初めて
秋津洲(あきづしま)の名が起こりました。

昔、伊弉諾尊はこの国を名付けて、
「日本(やまと)は浦安(うらやす)の国、
細戈(くわしほこ)の千足(ちだ)る国、
磯輪上(しわかみ)の秀真国(ほつまくに)
と仰せになられました。

また、
大己貴大神(おおあなむちのかみ)は、
名付けて、
「玉垣の内の国」
とおっしゃられました。

饒速日命(にぎはやのみこと)は、
天磐船(あまのいわふね)に乗り、
大空を駆け巡りて、
この郷(くに)を見下ろして、
降りて来て、
「虚空(そら)から見た日本(やまと)の国」
といいました。

四十二年、
春正月三日、
皇子神渟名川耳尊を皇太子に立てました。

七六年、
春三月十一日に、
天皇は橿原の宮で崩御されました。
時に御歳一二七歳。

翌年、
秋九月十二日、
畝傍山の東北の陵に葬りました。


・古語(ふること)
古文献

・築坂邑(つきさか)
奈良県橿原市鳥屋町辺

・畝傍山の西川
久米川

・来目邑
奈良県橿原市久米町

・腋上(わきがみ)の嗛間(ほほまの)丘
奈良県御所市本馬東方の独立丘陵か

・浦安(うらやす)
心安(うらやす)で四海安寧

・千足(ちだ)る
美しい矛が充実した

・秀真国(ほつまくに)
石の祭壇を持つ優れた国

・玉墻(たまかき)の内つ国
美しい垣、つまり青垣山に囲まれた国


登場した神様の詳細はこちら


・大己貴大神

日本書紀 巻第三 神武天皇。
いかがだったでしょうか?

神武天皇がいなかったという説がありますが、
自分は実在の人物だったと思っています。

国を建国することはそれは大変な事業だったと思います。
それを成し遂げた神武天皇。

今尚、彼の作り上げた国が残っている。
これは世界に誇れることだと思います。

多くの先人たちが褒め称えた美しい日本国を
守っていきたいものです。



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