古事記 下つ巻 現代語訳 六十一
古事記 下つ巻
安閑天皇・宣化天皇
書き下し文
御子、廣国押建金日王、勾之金箸宮に坐し、天の下治らしめしき。 此の天皇、御子無し。乙卯の年の三月十三日に崩りましぬ。御陵は河内の古市の高屋村に在り。弟、建小廣国押楯命、檜坰之廬入野宮に坐し、天の下治しめしき。 天皇、意富祁天皇の御子、橘之中比賣命に娶ひて、生みませる御子、石比賣命、次に小石比賣命、次に倉之若江王、また河内之若子比賣に娶ひて、生みませる御子、火穗王、次に惠波王。此の天皇の御子たち并せて五柱の王。男三、女二。故火穗王は、志比陀君が祖。惠波王は、韋那君、多治比君の祖なり。
現代語訳
御子、廣国押建金日王(ひろくにおしたけかなひのみこ)は、勾之金箸宮(まがりのかなはしのみや)に坐(いま)して、天の下治(し)らしめました。 この天皇、御子無し。乙卯の年の三月十三日に崩(かむあが)りました。御陵は河内の古市(ふるいち)の高屋村(たかやのむら)に在ります。
弟、建小廣国押楯命(たけおひろくにおしたてのみこと)は、檜坰之廬入野宮(ひのくまのいおりのみや)に坐して、天の下治らしめました。 天皇は、意富祁天皇(おおけのすめらみこと)の御子、橘之中比賣命(たちばなのなかつひめのみこと)を娶(めと)いて、お生まれになられた御子は、石比賣命(いしひめのみこと)、次に小石比賣命(おいしひめのみこと)、次に倉之若江王(くらのわかえのみこ)、また、河内之若子比賣(かわちのわくごひめ)を娶いて、お生まれになられた御子は、火穗王(ほのおのみこ)、次に惠波王(えはのみこ)。この天皇の御子たちは、并(あわ)せて五柱の王。男三、女二。故、火穗王は、志比陀君(しいだのきみ)の祖(おや)。惠波王は、韋那君(いなのきみ)、多治比君(たじひのきみ)の祖です。
・勾之金箸宮(まがりのかなはしのみや)
奈良県橿原市曲川町にある金橋神社の境内に伝承地を示す石碑がある
・檜坰之廬入野宮(ひのくまのいおりのみや)
奈良県高市郡明日香村檜前にある於美阿志神社の境内に伝承地を示す石碑がある
現代語訳(ゆる~っと訳)
継体天皇の御子、廣国押建金日王は、勾之金箸宮においでになられ、天下を統治しました。
この天皇は、御子がいませんでした。
乙卯の年の3月13日に崩御しました。御陵は河内の古市の高屋村にあります。
安閑天皇の弟、建小廣国押楯命は、檜坰之廬入野宮においでになられ、天下を統治しました。
天皇は、仁賢天皇の御子、橘之中比売命と結婚して、お生まれになられた御子は、石比賣命、次に小石比賣命、次に倉之若江王、
また、河内之若子比売と結婚して、お生まれになられた御子は、火穂王、次に恵波王。
この天皇の御子たちは、あわせて5人の王。男が3人、女が2人。
その火穂王は、志比陀君の祖先です。恵波王は、韋那君、多治比君の祖先です。
続きます。
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ありがとうございました。
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