古事記 下つ巻 現代語訳 六十四
古事記 下つ巻
用明天皇
書き下し文
弟、橘豊日王、池邊宮に坐して、天の下治らしめすこと參歳。 此の天皇、稻目宿禰大臣が女、意富藝多志比賣に娶ひて、生みませる御子、多米王。一柱。また庶妹間人穴太部王に娶ひて、生みませる御子、上宮之廐戶豐聰耳命、次に久米王。次に植栗王、次に茨田王。四柱。また當麻之倉首比呂が女、飯女之子に娶ひて、生みませる御子、當麻王、次に妹須加志呂古郎女。此の天皇、丁未の年の四月十五日に崩りましぬ。御陵は石寸の掖上に在り。後に科長の中の陵に遷しまつる。
現代語訳
弟、橘豊日王(たちばなのとよひのみこ)は、池邊宮(いけのへのみや)に坐(いま)して、天の下治(し)らしめすこと參歳。 この天皇は、稻目宿禰大臣(いなめのすくねのおおおみ)の女(むすめ)、意富藝多志比賣(おおぎたしひめ)を娶(めと)いて、お生まれになられた御子は、多米王(ためのみこ)。一柱。また庶妹(ままいも)間人穴太部王(はしひとのあなほべのみこ)を娶いて、お生まれになられた御子は、上宮之廐戶豐聰耳命(かみつみやのうまやどのとよとみみのみこと)、次に久米王(くめのみこ)。次に植栗王(えぐりのみこ)、次に茨田王(まんだのみこ)。四柱。また、當麻之倉首比呂(たぎまのくらのおびとひろ)の女、飯女之子(いいめのこ)を娶いて、お生まれになられた御子は、當麻王(たぎまのみこ)、次に妹(いも)須加志呂古郎女(すかしろこのいらつめ)。
この天皇、丁未の年の四月十五日に崩(かむあが)りました。御陵は石寸(いわれ)の掖上(わきかみ)に在ります。後に、科長(しなが)の中の陵(みささぎ)に遷しました。
・池邊宮(いけのへのみや)
伝承地未詳
・河内磯長原陵(こうちのしながのはらのみささぎ)
大阪府南河内郡太子町大字春日にある春日向山古墳(かすがむかいやまこふん)は、宮内庁より河内磯長原陵にに治定されている。
現代語訳(ゆる~っと訳)
敏達天皇の弟、橘豊日王は、池辺宮においでになられ、天下を統治すること3年でした。
この天皇は、稲目宿禰大臣の娘、意富芸多志比売と結婚して、お生まれになられた御子は、多米王。1人。
また異母妹・間人穴太部王と結婚して、お生まれになられた御子は、上宮之厩戸豊聡耳命、次に久米王。次に植栗王、次に茨田王。4人。
また、當麻之倉首比呂の娘、飯女之子と結婚して、お生まれになられた御子は、當麻王、次に妹須加志呂古郎女。
この天皇、丁未の年の4月15日に崩御しました。御陵は石寸の掖上にあります。後に、科長の中の陵に遷しました。
続きます。
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