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リートリンの覚書

東京史跡巡り 京橋周辺


東京史跡巡り

京橋
(きょうばし)



京橋川に架けられていた中央通りの橋です。

江戸時代の京橋は、木造で、公儀橋(こうぎばし)であり、欄干の柱頭部に 擬宝珠(ぎぼし、ぎぼうしゅ)という飾りがついていました。他にこの飾りがついていた橋は、日本橋と新橋のみでした。




京橋の親柱

所在地 中央区銀座一丁目二番先・一一番先
京橋三丁目五番先

 京橋は、慶長八年(一六〇三)の創建とされる日本橋とほぼ同時期に初めて架けられたと伝えられる歴史のある橋です。昭和三十八年から四十年にかけての京橋川の埋立て工事に伴って撤去されましたが、その名残を留めるものとして、石造の親柱二基と、石およびコンクリート造の親柱一基が残されています。
 このうち、二基の石造親柱は、明治八年(一八七五)に石造アーチ橋に架け替えられた時のものです。江戸時代の伝統を引き継ぐ擬宝珠の形をしており、詩人の佐々木支陰の筆による「京橋」と「きやうはし」の橋名が彫られています。
 また、石およびコンクリート造の親柱は、大正十一年(一九二二)の拡張工事でアール・デコ風の橋に架け替えられた時のものです。照明設備を備えた近代的な意匠を持ち、「京橋」「きようはし」の橋名と「大正十一年十一月成」の銅板のプレートが付けられています。
 明治・大正と二つの時代に設置された親柱は、近代橋梁のデザインの変化を知ることができる貴重な建造物として、中央区民文化財に登録されています。
平成二十二年三月
中央区教育委員会




京橋
 名称の由来について『新撰東京名所図会』では「京橋川に架かする橋にて。日本橋、江戸橋に対して名けたるものなり」とあり、また、日本橋から東海道を通って京へと向う最初の橋にあたることから名付けられたともされる。
 橋の創架については様々な説があり明らかではないが、『京橋区史』によると「京橋は古来より其の名著はる。創架の年は慶長年間なるが如し」とある。また、『新撰東京名所図会』には「創建は詳かならされとも。其の年月は日本橋と大差なかるべし」とあるので、この橋は慶長年間(1596~1615)に初めて架けられたと考えられる。
 京橋は、幾度か架け替えが行われ、明治8年(1875)には橋長11間(約19・8m)幅員8間(約14・4m)の石造アーチ橋に架け替えられた。その後、市区改正事業に伴い明治34年(1901)に橋長、幅員共に10間(約18m)の鉄橋となった。この橋は大正11年(1923)の拡幅工事により架け替えられ、昭和4年(1929)にも架け替えが行われたが、昭和38~40年の京橋川埋め立てに伴い撤去された。
 なお、京橋の親柱は明治8年のものが橋北詰め東側と橋南詰め西側に、大正11年のものが橋南詰め東側に保存されている。


京橋川
(きょうばしがわ)


東京都中央区にあった河川です。

江戸時代に、開削された人工の河川です。現在は埋め立てられ、東京高速道路がその上を通っています。



京橋川
 外堀から北紺屋町(現在の八重洲二丁目)と南紺屋町(現在の銀座一丁目)との間に分かれて東に流れ、白魚橋先で楓川、桜川(八丁堀)・三十間堀と合流した。延長0・6㎞。江戸時代には、比丘尼橋、中之橋、京橋、三年橋、白魚橋が架かる。
 その開削年代は詳らかではないが、家康の江戸入り後、慶長年間(1596~1615)に行なわれた最初の天下普請で外堀とともに開削された水路であるとされる。比丘尼橋と中之橋間の左岸には薪河岸、中之橋と京橋間の左岸には大根河岸、京橋と白魚橋間の左岸には竹河岸、右岸には白魚河岸があった。
 京橋川は昭和38~40年に埋め立てられて、屋上に東京高速道路株式会社の自動車道路がある細長いビルにかわった。現在、自動車道路の下は飲食店や駐車場になっている。中央通りと交差する京橋跡には「京橋大根河岸青物市場跡」と「江戸歌舞伎発祥の地」の碑(京橋三丁目4番先)、京橋の親柱(京橋三丁目5番先・銀座一丁目2番先・11番先)と「煉瓦銀座の碑」(銀座一丁目11番ち先)が建っている。



白魚河岸・薪河岸・竹河岸



白魚河岸
 京橋川の西沿岸に設けられた河岸で、享保年間(1716~1736)南方に設けられた白魚屋敷にちなんで白魚河岸と呼ばれていた。

薪河岸
 京橋川の北西沿岸の比丘尼橋と中之橋との間にある河岸地で、薪炭を扱う問屋が建ち並んでいたことから呼ばれていた。

竹河岸
 竹河岸は、京橋川の北東沿岸の京橋と白魚橋間にある河岸地で、竹商人が多くいたことから里俗で呼ばれていた。竹の多くは、千葉県から高瀬舟に載せて京橋川に入って来たものや、群馬県から筏(いかだ)に組んで送ったものであったという。青竹が連ねられている竹川岸の様子は、歌川広重の「名所江戸百景」にも描かれており、その光景は目にさわやかな風物詩であった。

中央区 土木部公園緑地課




大根河岸


大根河岸
 大根河岸は、数寄屋橋辺りに形成されていた青物市場が火災に遭った後、水運の便が良い京橋川の北西沿岸に移転したことに始まるとされる。この河岸地では、大根の入荷が多かったことから大根河岸と呼ばれて大変なにぎわいを見せていた。しかし、大正12年(1923)の関東大震災の後に中央卸売市場が築地に完成したことにより、大根河岸も昭和10年(1935)に移転した。
 なお、この地にある「京橋大根河岸青物市場跡」の碑は京橋大根河岸会会員により昭和34年(1959)に建立されたものである。



最後に

史跡巡りをするたびに、たくさんの写真を撮影してきました。

そろそろ、まとめてみようと試みたのですが…

しかし、撮影したはずの大根河岸跡の写真が、いくら探せど見つからず、

なぜか、説明文だけが残っていました。

写真はどこへ行ったやら〜。

感想も、大分前に見学したもので、覚えておらず…😅





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