日本書紀 巻第四
大日本彦耜友天皇
(おおやまとひこすきとものすめらみこと)
懿徳天皇
(いとくてんのう)
大日本彦耜友天皇は、
磯城津彦玉手看天皇
(しきつひこたまてみのすめらみこと・安寧)の
第二子です。
母は渟名底仲媛命
(ぬなそこなかつひめのみこと)といいます。
事代主神の孫、鴨王(かものきみ)の娘です。
磯城津彦玉手看天皇の
十一年の春・正月一日に、
皇太子となりました。
年は十六歳。
三八年の冬・十二月に、
磯城津彦玉手看天皇が崩御なされました。
元年、春・二月四日、
皇太子が天皇に即位しました。
秋・八月一日、
磯城津彦玉手看天皇を、
畝傍山の南の御陰井(みほとい)の
上(ほとり)の陵に葬りました。
九月の朔日、乙丑(きのとうし)。
(安寧)皇后を尊び皇太后としました。
この年、太歳は辛卯(かのとう)。
二年、春・正月五日、
都を軽(かる)の地に遷しました。
これを曲峡(まがりお)の宮といいます。
二月十一日、
天豊津媛命(あまとよつひめ)を
皇后としました。
別の一書では、
磯城の県主・葉江(はえ)の男弟猪手(いて)の
娘・泉媛。
また別の一書では、
磯城の県主・太真稚彦(ふとまわか)の
娘・飯日媛(いいひひめ)と伝えています。
后は、
観松彦香殖稲天皇
(みまつひこかえしねのすめらみこと)を
生みました。
また別の一書では、
天皇の(同)母弟
・武石彦奇友背命(たけしひこあやしともせ)を
生んだと伝えています。
二十二年、春二月十二日、
観松彦香殖稲尊を皇太子としました。
年は十八歳。
三十四年、秋・九月八日、
(懿徳)天皇は崩御されました。
・軽(かる)
橿原市大軽町辺