みなさま、こんにちは。
今日の練馬地区の朝は、バンバン雨が降っておりましたが、現在はすっかり止んで、いつもこちらのオフィスから見える富士山が、雲海に巻かれて幻想的だったので、早速写真をとってみました。が、所詮チビデジカメ。あまり綺麗に撮れなくてちょっと残念。
そういえば、今朝ニュースでアメリカでは今日から夏時間が始まると報道していた。・・・夏時間?・・・あんまり聴き慣れないから(学が無くてすみません)興味深く見てしまった。なんでも、日本との時差が1時間少なくなるらしい。
そいうえば、私の知人も昨日からサンフランシスコ(時差は17時間→16時間)へ旅立って行った。多分もう、現地には到着しているはずだから、早速夏時間を体験しているにちがいない。だけど、本人は多分気づいていないんだろうな・・・
気づいていないと言えば、昨日うちのスタッフ岩村が、おもしろいことを言っていた。
ご相談を受けた方の葬儀の現場を問題がないかどうか戸田火葬場へチェックしに現場へいってきてくれた。施行そのものは、火葬だけだった(最近、本当に多い!!)ので、特に問題もなく無事に終ったと報告を受けた。
その後の彼女の発言に、私はかなり驚かされた。
「私、思ったんですけど・・・意外とご喪家は、何も気づいていないし、何も感じていないんじゃないでしょうか?」
んっ?どういうこと?
詳しく聞いてみるとこんなことを述べていた。
この度は、菩提寺が群馬にあり、そこから副住職らしき若い僧侶がきていた。そのお寺は浄土真宗本願寺派で、群馬では、そこそこ大きく有名なお寺らしい。喪主は、そのご僧侶とは顔見知りで、姿を見たとたん、友達にあいさつするような感じだったという。
そのご僧侶は、到着して、席に座るなり、足を組んで、ず~っと、携帯でe-mailを釜前の読経が始まる寸前まで打ち続けていたのだという。
我々からすると、まず、その時点でありえない。
そして、もうひとつ驚いたのは、普通、ご僧侶は草履を履くと思っていたが、なんと、その方は、黒革靴に袈裟姿で読経をあげたというのだ。
何かの見間違いじゃない?って思わず聞き返してしまった。
火葬している間中は、そのご僧侶も喪主も同じように足を組みタバコをプカプカ吸いまくり、肩肘を組んだ足につきながら、なんだか話をしていた。
というのだ。
岩村は、その時、実は喪主というか、喪家というのは、僧侶がいいとか悪いとか態度がどうだとか何だとかって、全く気になっていないし、というか、目の前の事で精一杯で何にも気づいていないじゃないだろうかと思ったらしい。
彼女は、私にこう質問した。
「もともとお寺へ何も感じていないし、期待をしていない人が実は多い中で、私たちがやっていることは意味があるのでしょうか?業界を変えることなんて出来るのでしょうか?」
「変えられるかどうかの結果はわからない。でも、一般市民の人へ気づきを与えてあげるきっかけをつくる必要はあると思う。どんなに小さな雫でも、一滴水面に落ちれば、波紋をつくることはできるでしょ。」
と私は答えた。
何も知らないから、いざ、というときに騙されてしまう。「葬儀」とは、日常生活とは全く遠い存在。でも、こちらから能動的に働きかけ、少しでも知識を得てくれたなら、その距離は縮まるはずだ。
最期を迎えるその瞬間まで自分らしくあるためにも、終末期に対する人生設計(ライフデザイン)は、とても大切なことだと旅の案内人は思う。
今日の練馬地区の朝は、バンバン雨が降っておりましたが、現在はすっかり止んで、いつもこちらのオフィスから見える富士山が、雲海に巻かれて幻想的だったので、早速写真をとってみました。が、所詮チビデジカメ。あまり綺麗に撮れなくてちょっと残念。
そういえば、今朝ニュースでアメリカでは今日から夏時間が始まると報道していた。・・・夏時間?・・・あんまり聴き慣れないから(学が無くてすみません)興味深く見てしまった。なんでも、日本との時差が1時間少なくなるらしい。
そいうえば、私の知人も昨日からサンフランシスコ(時差は17時間→16時間)へ旅立って行った。多分もう、現地には到着しているはずだから、早速夏時間を体験しているにちがいない。だけど、本人は多分気づいていないんだろうな・・・
気づいていないと言えば、昨日うちのスタッフ岩村が、おもしろいことを言っていた。
ご相談を受けた方の葬儀の現場を問題がないかどうか戸田火葬場へチェックしに現場へいってきてくれた。施行そのものは、火葬だけだった(最近、本当に多い!!)ので、特に問題もなく無事に終ったと報告を受けた。
その後の彼女の発言に、私はかなり驚かされた。
「私、思ったんですけど・・・意外とご喪家は、何も気づいていないし、何も感じていないんじゃないでしょうか?」
んっ?どういうこと?
詳しく聞いてみるとこんなことを述べていた。
この度は、菩提寺が群馬にあり、そこから副住職らしき若い僧侶がきていた。そのお寺は浄土真宗本願寺派で、群馬では、そこそこ大きく有名なお寺らしい。喪主は、そのご僧侶とは顔見知りで、姿を見たとたん、友達にあいさつするような感じだったという。
そのご僧侶は、到着して、席に座るなり、足を組んで、ず~っと、携帯でe-mailを釜前の読経が始まる寸前まで打ち続けていたのだという。
我々からすると、まず、その時点でありえない。
そして、もうひとつ驚いたのは、普通、ご僧侶は草履を履くと思っていたが、なんと、その方は、黒革靴に袈裟姿で読経をあげたというのだ。
何かの見間違いじゃない?って思わず聞き返してしまった。
火葬している間中は、そのご僧侶も喪主も同じように足を組みタバコをプカプカ吸いまくり、肩肘を組んだ足につきながら、なんだか話をしていた。
というのだ。
岩村は、その時、実は喪主というか、喪家というのは、僧侶がいいとか悪いとか態度がどうだとか何だとかって、全く気になっていないし、というか、目の前の事で精一杯で何にも気づいていないじゃないだろうかと思ったらしい。
彼女は、私にこう質問した。
「もともとお寺へ何も感じていないし、期待をしていない人が実は多い中で、私たちがやっていることは意味があるのでしょうか?業界を変えることなんて出来るのでしょうか?」
「変えられるかどうかの結果はわからない。でも、一般市民の人へ気づきを与えてあげるきっかけをつくる必要はあると思う。どんなに小さな雫でも、一滴水面に落ちれば、波紋をつくることはできるでしょ。」
と私は答えた。
何も知らないから、いざ、というときに騙されてしまう。「葬儀」とは、日常生活とは全く遠い存在。でも、こちらから能動的に働きかけ、少しでも知識を得てくれたなら、その距離は縮まるはずだ。
最期を迎えるその瞬間まで自分らしくあるためにも、終末期に対する人生設計(ライフデザイン)は、とても大切なことだと旅の案内人は思う。