イランのハメネイによるイスラエル「懲罰」命令は実行されるだろう: IRGC
迫るイランのイスラエルへの対応。想定されるシナリオとは?
中東情勢が10月7日以降で最も緊迫している中、我々はどのようにしてここに至り、次に何が起こりうるのか?
レーニン解体
エセ「マルクス主義者」たちに
マルクスは激怒した
このパンフレットは前作「精神障害者の〈包摂〉」の補遺として、そこで扱いきれなかった問題について詳論しました。世界が帝国主義諸国と植民地人民の二つに分裂するなかで「レーニン主義」を解体することは焦眉の課題です。
「もしそれがマルクス主義であるならば、私はマルクス主義者ではない」(カール・マルクス)
前ページにある言葉はマルクスの有名な言葉ですが、独り歩きしており元の意味とは無関係に勝手な使い方をされているケースが多く見かけられます。ここでは原典に即して、マルクスの意図はなにだったのかを見ていきたいと思います。
この言葉が出てくるのはエンゲルスの手紙で「ところで、フランスにおけるいわゆる『マルクス主義』はたしかにまったく独特な産物なのであって、しかも、マルクスがラファルグに、もしそれがマルクス主義であるならば、私はマルクス主義者ではない、と言ったような独特な産物なのです。」というものです。(1882年11月2-3日 エンゲルスからエードゥアルト・ベルンシュタインヘ)
この手紙にある、マルクスが「もしそれがマルクス主義であるならば」と言った「それ」というのは何を指しているのでしょうか。これはベルンシュタインが当時のフランス労働党内の内紛をめぐって質問したことへのエンゲルスからの回答のなかの文章です。この内紛ではエンゲルスとマルクスは、内紛を起こしている当事者のうちのポシビリスト(実現可能なものから改革していくべきだという社会主義者、フランス労働党に加盟していた)の指導者であったブノア・マロンを批判して、ジュール・ゲード(フランス労働党の設立者で、もとは無政府主義者。フランスにおけるマルクス主義の宣伝者)を支持していました。結論を先に言うと「それ」が指すものはゲードの思想のことなのです。しかし、この手紙の意図は、内紛に関してゲードを批判するものではありませんでした。では何を批判しているのでしょうか。
その答えは、1881年10月25日のエンゲルスからベルンシュタインへの手紙の中に見出されます。ゲードがロンドンのマルクスを訪ねてフランス労働党綱領の前文をマルクスに口述してもらい、綱領のその他の部分(後半)の内容を討議していた時のことです。
「だが、ゲードがどんなにマルクスの代弁者ではないかは、ゲードが彼の最低賃金制の愚論を挿入することを頑固に主張したことから明らかであり、その責任を負うのはわれわれではなくてフランス人なのだから、われわれは、けっきょく、彼の好きなようにさせました――もっとも彼は理論的無意味さを認めはしましたが。」とエンゲルスは書いています。「フランス労働党綱領の最低賃金制」とは「B、経済綱領 二、法定の最低賃金。これは毎年各地域の食料価格におうじてきめられる。」というものでした。(「マルクス・エンゲルス全集」第35巻)
では、マルクス自身はこの件について何を言っていたのでしょうか。1880年11月5日のフリードリヒ・アードルフ・ゾルゲ宛の手紙のなかで「われわれの反対にもかかわらず、ゲードがフランスの労働者たちにあたえる必要があると考えた若干のどうでもいいこと、たとえば賃金の最低限を法律で定める、等々といったことを除けば(僕は彼に言った、フランスのプロレタリアートがそのような餌を必要とするほどまだ子供っぽいとすれば、だいたい綱領なんかを起草する必要はないではないか、と)・・。」(「全集」第34巻)
「Marxists Internet Archive Library」に即して、この問題がマルクス主義者の間でどのように議論されているのかをみていきます。(自動翻訳機を使って訳したので少し不自然な日本語であることはご容赦いただきたい。)「このときのマルクスとゲードのやり取りについてマルクスは次のように書いています。「この非常に短い文書の経済部分は、労働運動自体から実際に自発的に生じた要求のみで構成されています。さらに、共産主義の目標が数行で定義されている序文があります。」・・・しかし、綱領が合意された後、最小部分の目的をめぐってマルクスとフランスの支持者の間で衝突が起こりました。マルクスはこれを資本主義の枠組み内で達成可能な要求を煽動する実際的な手段と見なしましたが、ゲードはまったく異なる見解をとりました。「ブルジョワジーからこれらの改革を引き出す可能性を否定し、実際的な闘争綱領ではなく・・」、ゲードは、これらの改革を拒否すれば、労働者は革命的になると信じていました。「プロレタリア階級を最後の改良主義的幻想から解放し、労働者階級に・・・労働戦争を避けることは不可能であると納得させる」と。マルクスは、ゲードを「革命的言い回し」をして改良主義闘争の価値を否定していると非難して・・(冒頭の)有名な発言をしました。」以上が「Marxists Internet Archive Library」の記述です。
一見すると、「最低賃金制」の主張が労働者を「改良主義的な幻想から解放し、革命戦争を避けることは不可能であると納得させる」ような「革命的主義的な要求」であるということは、現代の私たちからは分かり難いことです。それには歴史を見ないといけないかもしれません。フランスで最初の最低賃金制「全職業最低保証賃金(SMIG)」が実現されたのは1950年の戦後革命期の獲得物でした。そのパリ集中傾向が正されて「全国一律の最低賃金制度(SMIC)」が創設されたのは1968年のパリ5月革命―フランス・ゼネストの成果としてでした。まさしく、「最低賃金制は革命によって実現された」のです。(「新たなる最低賃金制」労働省労働基準局賃金時間部長五十畑明1996)
マルクスはこのフランス労働党綱領をどのように評価していたのでしょうか。マルクスは先のゾルゲ宛の手紙のなかで、「これはフランスの労働者たちを、彼らの言葉だけの雲海から現実の地上に引きおろす強力な一歩となった。」「僕の見るところでは、これがフランスにおける最初の現実的な労働運動であることを証明している。」と高く評価しました。国際労働運動的にも、この綱領は高く評価されているそうです。
マルクスは運動の上で百かゼロかというような議論をする人ではなかったけれど、理論を歪めることは許せないということははっきりさせていました。だからゲードがフランス労働党綱領の中にマルクス主義を歪める議論を持ち込んだことがよほど許せなかったのでしょう。それが最初の言葉になったのだと思います。(この章を書くにあたって立教大学経済学部教授の佐々木隆治さんに助言をいただきました。感謝いたします。)
「ロシアのマルクス主義者」
ちょうどこのころ、マルクスはヴェラ・ザスーリチへの手紙で、当時のロシアの「マルクス主義者」のことを語っています。これはザスーリチから1881年2月16日の手紙で聞かれたことに答えたものです。その手紙のなかで、ザスーリチは、ロシアでは「資本論」が大きな人気を博しており、農業問題、村落共同体についての革命家たちの議論でも「資本論」が役割を演じていることを書き、「最近では、村落共同体は古代的な形態であって、歴史・・によって没落するべき運命に定められているという意見をしばしば耳にします。そういう意見をとなえる人々は、あなたの本当の弟子、『マルクス主義者』だ、と自称しています。」と書いてこの問題についてのマルクスの意見を求めました。(「マルクス・エンゲルス全集」第19巻p599)
マルクスはロシアのナロードニキの海外亡命者であって実際の革命には関与していない、いわば「評論家」だと見なしていたザスーリチには、その問題は「人民の意志」党に答えるつもりだからあなたには答えない、しかし、「私の理論が適用できるのは西ヨーロッパ諸国だけに限られている」というそっけない手紙を出しただけでした。しかし、その「下書き」では詳細に「村落共同体」の意義について検討しています。この下書きは生前には発表されることはなかったのですが、ロシア語で出版された「共産党宣言」第二版のマルクス・エンゲルスの手による序文にそこから導きだされた結論が書かれています。
序文には「ロシアの農民共同体は・・これから直接に、共産主義的な共同所有という、より高度の形態に移行できるであろうか?」「この問題にたいして今日あたえることのできるただ一つの答えは、次のとおりである。もし、ロシア革命が西欧のプロレタリア革命にたいする合図となって、両者がたがいに補いあうなら、現在のロシアの土地共有制は共産主義的発展の出発点となることができる。」と明確に、ロシアの村落共同体を基盤とした「人民の意志」党による革命が世界革命に火をつけるものとなりうると考えていたことが明記されているのです。
「ヴェ・イ・ザスーリチの手紙への回答の下書き」のなかで、「下書き『第二草稿』」では「あなたの言うロシアの『マルクス主義者』は、私にはまったく未知の人々である。私が個人的な関係をもっているロシア人は、私の知っているかぎり、まったく反対の見解をいだいている。」と書いています。マルクスが関係をもっていたのはナロードニキの「人民の意志」党だったからです。これはザスーリチらとは対立していた党派でした。(「全集」19巻p400)
当時のロシアでは、「資本論」が1872年にロシア語に翻訳されていました。この本のことをマルクスは「優れた訳だ」と書いています(マルクスの生前にはドイツ語版の他には、フランス語訳、ロシア語訳しか外国語にはなっていませんでした。)「『資本論』が他のどの国よりもよく読まれ、評価されているロシアでは、われわれの成果はいっそう大きい。われわれは一方には、批評家たち(大部分は若い大学教授たちで、一部は僕とも個人的に交際があるが、それと若干のジャーナリストだ)をもち、他方にはテロリストの中央委員会(「人民の意志」党のこと)をもっている。」と先のゾルゲ宛の手紙(1881年11月5日)にマルクスは書いています。
「共産党宣言」はバクーニン(無政府主義者)の翻訳で1869年にロシアで出ていましたが、当時は「珍品」扱いされていたそうです。初めてマルクス・エンゲルスが関与したロシア語のマルクス主義の本が出たのは、1882年のプレハーノフの翻訳による「共産党宣言」第二版でした。
ザスーリチが言っていたのは、このロシア語訳「資本論」を学んだ人たちだったのでしょう。プレハーノフによる「共産党宣言」ロシア語訳が出た後のマルクス主義のロシアでの普及をマルクスはとても喜んでいました。ザスーリチらの亡命者グループはのちに「マルクス主義者」になり、プレハーノフを含めて「ロシア・マルクス主義者」と呼ばれました。このなかからロシア社会民主労働党(1898年結党。のちのボリシェヴィキとメンシェビキ)が生まれました。
「左翼社会革命党」の誕生
いっぽうで、マルクスが支持し、ザスーリチらとは対立していた「人民の意志」党はナロードニキのなかから1879年に生まれ、1887年に帝政ロシアの大弾圧によって壊滅しました。この間に、1881年にはロシア皇帝アレキサンドル二世の暗殺に成功しました。1887年の大弾圧は皇帝アレキサンドル三世の暗殺計画の失敗によるものですが、このときの暗殺者にはウラジミール・レーニンの兄も含まれていました。
その後も再建の動きは続き、1890年代末には「社会革命党(エスエル党)」として再生されました。この党は、ロシアの人口の大多数を占めた農民を基盤としており、「ロシア・マルクス主義」派が「共産党宣言」ロシア語第二版のマルクス・エンゲルスによる序文に背反して、都市労働者による革命を主張していたことと激しく論争しながら生まれました。彼ら「エスエル党」は、マルクスが「人民の意志」党を支持していたことも、ロシアでの村落共同体を中心とした農民革命からの世界革命を展望していたこともまったく知らなかったようです。(「左翼社会革命党1917―1921」スタインベルグ)
「村落共同体」はストルイピン反動期(1906-1911)に、革命の母体になるとして解体を目的とした激しい攻撃を受けました。しかし、農民は抵抗し続け1917年2月革命によって完全に息を吹き返しました。
「社会革命党(エスエル党)」はのちに、1917年10月ソビエト革命を「ボリシェヴィキ」と共闘して実現した「左翼エスエル党」に発展しました。「左翼エスエル党」は「ボリシェヴィキ」内閣に入閣しましたが、「ブレスト・リトフスク講和条約」に反対して内閣を離脱しました。「右翼エスエル党」員によるレーニン銃撃事件(この犯人が「エスエル党」内の左翼なのか右翼なのかは分からないのだと伝え聞いていましたが、レーニン全集第28巻p527には「右翼エスエル党」員だったと書かれています)や、「左翼エスエル党」自身による「ボリシェヴィキ」に対する警告的な小蜂起を口実として、「ボリシェヴィキ」によって「反革命だ」と規定されて弾圧され、数年後に国内組織は壊滅しました。その「ボリシェヴィキ」による大弾圧は、過酷であったことで知られたツアーリでさえも縮みあがるような、残酷で大規模なもので、のちのスターリンによる大粛清を予感させるものでした。重監獄に超長期間投獄されていた大勢の「左翼エスエル党」員たちが後に釈放された時には、彼ら彼女らは全員が肉体的にも精神的にも「廃人」にされていたと言います。(「左翼社会革命党1917-1921」)
現代の「マルクス主義者」
前章で明らかになったのは、レーニンらロシア社会民主労働党・ボリシェヴィキ(ロシア共産党)が、都市の労働者階級の利益のために、ロシアの村落共同体(農民)から収奪をおこない、国民の多数者である農民たちを虐待、略奪、虐殺していくなかで、農民層を代表していた「左翼エスエル党」をツアーリも上回る残酷さで虐待と拷問、虐殺によって壊滅させるという、目的意識的な「仲間殺し」を組織したことでした。これがのちのスターリン大粛清への道を開きました。それがマルクスの本来の人間主義的な革命論にはまったく反していたことは明らかです。たまたまボリシェヴィキに逆らう党があったから弾圧したという面よりも、むしろ、ロシアの人口の圧倒的多数を占める農民が都市労働者による「独裁的な収奪」に抵抗していたから、その農民層に支持されていた「左翼エスエル党」の存在そのものを消してしまいたかったのでしょう。
日本の左翼は、歴史的にはマルクス・レーニン・スターリンを賛美する中から形成されました。1956年のハンガリー・プロレタリア革命とそれに対するスターリン亡き後のフルシチョフ体制下でのソ連軍による反革命的な大虐殺に驚愕した左翼の一部は、反スターリン主義という立場をとる「新左翼」党派を結成しました。その内実はレーニン主義を継承したのはスターリンではなくて、トロツキーだという思想でした。路線的には「マルクス・レーニン主義」というスターリンによって定式化された思想を引き継いでいました。しかし上記のことから明らかなように、「マルクス・レーニン主義」というのは形容矛盾しています。マルクス主義と「レーニン主義」は相矛盾する対立的な思想体系です。マルクスの思想は少数者であるブルジョワジーによる多数者である労働者階級への支配と独裁に反対し、多数者による少数者への独裁的な支配から「階級の廃絶」への道が開かれるという人間主義的な思想です。「レーニン主義」は人間解放の思想とは無縁のただの独裁政党と独裁者を正当化する思想体系でした。スターリンは極端なかたちで正しくレーニンのやり口を継承していたのです。「レーニンを継承する」として結党された新左翼諸党派ははじめから「人民への暴力的な独裁者」という烙印を押されて誕生したのでした。
レーニン主義を引き継いだ日本共産党や新左翼各派は、他党派との意見の相違を暴力で相手を屈服させることで沈黙させるという「内ゲバ主義」を採用しました。(社会党社青同・解放派はレーニン独裁主義に反対していたローザ・ルクセンブルクの思想を採用しました。しかし、ローザも反「左翼エスエル党」でした。)このなかで1969年の東大安田砦決戦で機動隊導入前夜に敵前逃亡するなど、数々の右翼日和見主義的な行動を批判されて左翼内で孤立していた「革マル派」が、劣勢を挽回し、左翼運動や労働運動内での独裁的な地位を確立しようとして高度に組織化された軍事力と諜報機関(組織的な盗聴アジト)を使った「他党派解体のための党派闘争」を基本路線としました。だから、「革マル派」への対抗暴力はまったくの正当防衛でした。しかしそのことは、そのほかの党派への「レーニン主義的暴力」を免罪するものではありません。中核派が三里塚闘争における運動論の違いを理由として「第四インター派」幹部に重傷を負わせたことは「革マル派」と同断でした。(ただし「第四インター派」の「反内ゲバ主義」は「革マル派」とは闘わないという誓約でした。)レーニン主義はその出発点から、マルクスの「共産党宣言」ロシア語第二版序文への背反と「仲間殺し」という血塗られた思想として始まっていたのです。
反レーニン主義のマルクス主義者
そのなかでレーニン主義への批判として始まった「西欧マルクス主義」は別種のものでした。この思想は、ハンガリーのルカーチ・ジェルジュやイタリアのアントニオ・グラムシのレーニン主義への批判から始まりました。
また、日本では世代的に新左翼世代よりも若い、佐々木隆治や齋藤幸平が反(非)レーニン主義的なマルクス主義者として思想形成したようです。最近では学生がマルクスの本に興味をもって読み始めていると聞きます。
彼ら新世代のマルクス主義者に対して、私たち旧世代の新左翼思想家ができることは、彼ら彼女らのじゃまをしないように、レーニン主義の罪業を暴ききり、再びレーニン主義の害毒が若いマルクス主義者を支配しないように、根底的に「レーニン主義」を思想的に解体しきることだと思います。
それが若い世代のマルクス主義者に旧世代が贈る、最後の一仕事です。
若きマルクス主義者たちに贈る
イスラエルによるハマスのハニヤ氏暗殺に際して
私はネタニヤフの7月24日のアメリカ議会演説の次の箇所に注目する。
すなわち、抵抗するパレスチナ人の皆殺しと、イスラエルに屈服するアラブ国家だけからなる全中東の支配を議会壇上から宣言したことだ。7月31日のイランへの侵略攻撃はただこの脈絡でのみ理解することができる。ハニヤ暗殺は明確なイラン国家への侵略的な挑戦なのだが、イスラエルがイランによる報復を避けることができると判断していたのだろうか。そうではない。かえって挑発によってイランを戦争に引き込み、軍事的に、すなわち殲滅戦争によってイラン国家を叩き潰す決意が背景にあるのだ。その決意を示したのが、アメリカ議会演説の「イスラエルに従うアラブ国家による新中東支配体制建設」の決意表明だったのだ。
それがアメリカ帝国主義議会主流派の支持を受けたということは、全世界の抵抗勢力(レジスタンス)と帝国主義諸国支配階級の全面戦争が開始されているのだということをわれわれも自覚し覚悟しなければならないということだ。自覚し覚悟して戦いを始めよう。
以下、ロイター報道より
「ネタニヤフ氏は戦争終結後のガザについて、イスラエルの破壊を求めないパレスチナ人が主導する「非武装化・非過激化」した姿を描いていると説明。当面の間はイスラエルがガザの治安を全面的に管理する必要があるとの認識も示した。
また、イスラエルとアラブ諸国の間で中東の安全保障同盟を構築する将来像についても語った。」
精神科病院のスマホ制限是正を 当事者団体が厚労省に要望
厚労省の小林秀幸・精神・障害保健課長(左)に要望書を手渡す早坂代表=人権精神ネット提供
精神障害のある人の当事者団体、一般社団法人人権精神ネット(早坂智之代表)は10日、精神科病院に入院する患者のスマートフォン使用を一律に制限するのは不適切であることを全国の精神科病院に通知するよう厚生労働省に申し入れた。
同団体が今年5月、兵庫県内の病院を調べたところ、カメラ機能で他の患者を撮影することを防ぐため、全病棟で一律に制限する病院があったという。 同団体は同じような例がほかにもあるとみて、全国規模の実態調査をすることも厚労省に求めた。厚労省はどのように対応するか、7月末までをめどに回答するとした。
同団体が同日、厚労省の精神・障害保健課の担当者と話し合い、その結果を記者会見で説明した。 虐待への対応に有効 同団体は病院職員から虐待された患者が助けを求める上で、スマホは有効だと主張。その理由として「通報先をネットで調べられる」「通話内容を職員に聞かれずに話せる点が院内の公衆電話と異なる」ことを挙げた。
一方、カメラ機能の不適切な使用があれば、スマホの使用場所を限定するなどの方法でクリアできるため、一律に制限する理由にはならないとした。 現行制度では、入院患者が院外の人と通信することは原則自由だが、その規定(厚労大臣告示第130号)は1988年に定められた。携帯電話のない時代のもので、スマホが通信手段に当たるかは明確でない。
この点を明確にしたい同団体が昨年、厚労省に尋ねたところ、厚労省は同12月、「患者の病状を踏まえつつ、病院管理者の判断により、患者が携帯電話を使うことは適当」と回答した。今回の申し入れはこれを広く周知するよう求めたものだ。
スマホの使用は、女性相談支援センターでのDV被害者らの一時保護でも制限されている。加害者に居場所を特定されないようにというのが理由だが、厚労省は2019年6月、一律の制限を見直す方針を表明。20年12月に具体的な対応指針を策定し、通知した。
斎藤幸平の新著『マルクス解体』読後第一感想。
斎藤は1987年生まれの日本のマルクス主義者である。日本ではマルクス主義が20年間に及び約100人の死者を出した「内ゲバの時代」によってすっかり縮小し、ほとんど滅亡寸前のところに、内ゲバ終息後に生まれた斎藤が新しい光を投げかけたことで、若者はもとより老マルクス主義者たちによっても注目されている。(なお「内ゲバ」については「他党派解体の暴力」を基本路線とした加害者である革マル派と被害者であった中核派、解放派を同列に並べて非難する内田ら一部の論者がいることは、その時代を知るものとも思えない権力におもねる立場の暴論である)。
『マルクス解体』では、私が前著『重度精神障害を生きる』において展開した「1869年11月にマルクスは植民地主義的な抑圧民族の立場から、まず第一に植民地主義側の民族は被抑圧民族解放のために闘わなければならないという立場への、コペルニクス的な転換を成し遂げた。その時から、マルクス主義は真に被抑圧者、被差別者の側の、障害者解放運動の理論への発展可能性を獲得した」という論理を、本書では、まさに私が自著の中で引用した1869年12月のマルクスからエンゲルスへの手紙を引用して、斎藤の言葉で論述している。もちろん「障害者解放云々」ということを斎藤が言っている訳ではなくまた、斎藤はこのマルクスの転換は1868年から始まっていると述べている。しかし斎藤が1968年から始まったと言っている大転換によって、マルクスはそれまでの彼自身の「生産力至上主義」を否定した資本主義批判を展開するに至った。そのことは、重度障害者(重度精神障害者)を社会的な解放の主体として労働者と同列に並べることを可能にし、また新社会における尊厳ある地位を障害者(精神障害者)に保証したのだ。このことから、マルクス主義は障害者解放理論としての発展可能性を獲得したと言える。なぜならば、1868年までの生産力至上主義的なマルクス主義では、従来から「効率に劣る」として様々な場、労働現場からだけではなくて社会運動からさえも排除されてきた障害者(重度障害者)はせいぜい「救済」の対象であったり、「周縁的な実存」ではありえても、自己解放の主体、新しい社会を労働者と共に並んで建設していくべき主体としては登場しえなかったからである。
すでに帝国主義批判理論を媒介とした障害者解放論は存在したが、資本主義そのものの批判の次元における障害者解放論は欠如したままだった。当時の1970年「7・7」自己批判という被差別人民への「贖罪」の思想はマルクス主義の言葉では語られることがなかった。実際に、障害者解放運動は社会主義運動においては周縁化されており、労働者階級と同等の解放の主体、新社会建設の主体としては、理論的にも実践的にも扱われてこなかった。このことが、マルクス主義者であり重度精神障害者である私を長年悩ませた事実だったのだ。私は同情や救済なんかされたくはない。解放の主体としての尊厳ある立場を求めてきたのだ。その私の解答が前著『重度精神障害を生きる』だった。
1868年からのマルクスが生産力至上主義(と史的唯物論)を捨てていたことの論証によって、「新社会(昔から言われていたような生産力の発展の果てにある遠い将来の共産主義社会ではなくでは、生まれ変わったばかりの新社会のこと)ではもはや生産に血道をあげる必要はない」と宣言することによって、はじめて「労働能力がない」とされてきた重度障害者(重度精神障害者)は一人の人間としての、労働者階級と同等の、自己解放によって新社会を建設する者としての尊厳ある「場」を獲得したと言えるのではないか。その「場」を実証的に論証したことが、私にとっては『マルクス解体』の最大の成果物であると思う。もちろん、私が前著を書き上げるためにかなりの量の『マルクス・エンゲルス全集』を読み込む必要があったのに比して、本書では容易に素材を提供してくれるという意味であって、本書自体が障害者解放論を展開している訳ではないことは、言うまでもないであろう。
スペイン、ノルウェー、アイルランドがパレスチナを承認する中、イスラエルは世界の舞台でますます孤立する
ワシントンD.C.の政策研究所のフェローで作家のフィリス・ベニスは、スペイン、ノルウェー、アイルランドがパレスチナの国家としての地位を承認しても、ガザと被占領ヨルダン川西岸地区のパレスチナ人が直面している悲惨な状況は変わらないと述べた。
「しかし、今起きていることは、イスラエルと米国内のイスラエル支援者の孤立度が増し、パレスチナ人の権利に対する外交的支援がエスカレートすることを意味している。これら全てが、イスラエルが世界でますます孤立していることを意味している」とベニスはアルジャジーラに語った。
「アメリカ合州国では、伝統的に政治的立場を超えて持っていた支持を失いつつある。これは今や党派的な問題です。共和党の問題です」とベニスは言った。
「我々は、スペインとノルウェーがアメリカの非常に緊密な同盟国であるという状況を見ている。アイルランドはバイデン大統領の心の中で特別な位置を占めています。そして、これらの国々は今、イスラエルに背を向け、パレスチナ人の権利に目を向けているのです」と彼女は述べた。
「象徴的なレベルでは、これはイスラエルの孤立という点で非常に重要だ」
ロシア招かずイスラエルは招待 「広島市はダブルスタンダード」と被爆者団体などが抗議 8月6日の平和記念式典
配信中国放送
ことしの平和記念式典で、広島市がロシアを招かず、イスラエルは招待する方針を固めたことについて、被爆者団体などが「ダブルスタンダード」だと抗議しました。 【写真を見る】ロシア招かずイスラエルは招待 「広島市はダブルスタンダード」と被爆者団体などが抗議 8月6日の平和記念式典 広島市は、ことしの平和記念式典にウクライナへの侵攻を続けるロシアと、同盟関係にあるベラルーシを3年連続で招待しない一方で、ガザ地区への攻撃を続けるイスラエルは招待する方針です。 広島市によりますと、この決定について「イスラエルは呼ぶべきでない」「ガザでの戦闘を容認するのか」といった抗議のメールが9日までに国内外から1020件届いているということです。 10日は県被団協や県原水協のメンバーが広島市役所を訪れました。そして「紛争の有無にかかわらず本来、全ての国を招待すべきで、広島市は『ダブルスタンダード』と批判されても仕方ない。早急に対応を改めるべき」だと訴えました。 広島県原爆被害者団体協議会(県被団協) 佐久間邦彦 理事長 「国際平和都市として、やはり広島こそ紛争はやめろと訴えるべきというのが一番にあります。紛争があるから広島に呼ばないというのはおかしい」 広島市は「全ての国を招待するのが基本なのでイスラエルは招待するが、ロシアは、日本の姿勢に誤解を生じさせないため、例外的に招待しない。現時点でこの方針は変わらないが、意見は市長に伝える」と答えました。
中国放送
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【参考資料】YouTubeチャンネルげんの部屋;@gensroom
げんの部屋56;精神障害者の解放と労働現場での統合化・より抜粋
「民主主義は工場の前で立ち止まる」
いまの資本主義的な労働現場では「民主主義は工場の前で立ち止まる」と言われています。僕自身は1980年代から精神障害者であることをオープンにして働いていた職場で排除されていって、1991年に解雇された訳ですが、ちょうど労働組合の「全逓反マル生闘争」という職場民主化闘争が敗北していく過程と同じ時期です。第二次世界大戦敗戦直後に左派労働運動が大きな力を持っていた時期から、資本家たちがその力を奪う過程がせめぎ合いながら仕上げに入ったのが、中曽根政権による1982年以降の『国労』解体を目的とした国鉄分割民営化でした。その目的は『総評』を解体することであり、1979年10・28の全逓の屈服確認文書に始まり2007年に小泉政権の郵政民営化で完成に至る一連の『全逓』解体攻撃によって『総評』は息の根を止められ、1989年に文字通りに解散しました。戦後の闘う労働運動が持っていた最後の拠点であった『国労』や『全逓』を解体することが目的の攻撃でした。当時の中曽根総理大臣は「『総評』を解体して改正憲法を安置する」とその目的を隠しもしていませんでした。
革マルの内ゲバ主義
しかし体制内左翼も反体制左翼を含めて左翼陣営は、反撃の決戦を挑むことができませんでした。とくに、武装した右翼日和見主義党派であった革マル派が『動労』本部派に持っていた組織を延命させる目的で、『国労』解体攻撃の先兵として『国労』組合員いじめの先兵化したことで、労働運動は大混乱しました。当時の『動労』は春闘などで革マル派と同じ色のヘルメットを全員が被っているほど革マル派が影響力を持っていました。しかし、その戦闘力を中曽根政権に向けるのではなくて、同じ労働組合である『国労』に向けるという「内ゲバの論理」そのものを発動した訳です。この『動労』革マルの「内ゲバ」によって労働運動は一つの塊として団結することが全くできず、まともに決戦を挑むこともできずに完敗しました。もし「決戦」を挑んでも負けたかもしれませんが、「労働者・労働組合の権利」はもう少し守られたでしょう。少なくとも今の労働運動の悲惨な情況はもう少しましなものになっていたでしょう。
労働運動のあるヨーロッパと無い日本
いまのヨーロッパではストライキが頻発して労働者たちの闘いが大規模に存在するのに日本では「ストライキは迷惑」という観念が労働者・市民の中にも広くしみ込んでいます。これは『国労』解体を目的にした「ストライキ迷惑論」というイデオロギー攻撃の結果でしかありません。パリの街がストライキでゴミだらけになり、鉄道はしょっちゅう止まっていても、ヨーロッパの労働者・市民は当然のこととして受け入れています。一方日本では『連合』系労組がストライキを打つことはめったになくて、ユニオン系労組の闘いがあるのみです。全日本建設運輸連帯労働組合関西生コン支部に国家権力が襲い掛かり労働組合壊滅攻撃をしていても、反撃しているのは少数派労働運動です。
その結果としてヨーロッパでは賃金は上がっているのに、日本では実質賃金が下がるという悲惨な状況になっています。しかし、ユニオン系労組は反撃の拠点になりうると思っています。少数派であることは事実です。そのなかで精神障害者解放運動は一部のユニオンと結び付いています。
精神障害者が統合化された社会
私たち600万人を超える精神障害者にとっては、社会全体の「統合化」された社会への転換が必要だと思います。一般的には「包摂」(インクルーシブ)された社会という言い方をしますが、これは包み込むという意味合いです。僕はもっと強く違うものを結合させ発展させた共同体という意味合いにおいて「統合化」(インテグレイト)された社会と言っています。「包摂」も「統合化」も工場では実現されていません。知的障害者や身体障害者が「自宅就労」であったり「工場とは別棟」の系列子会社に集められて就労していたりするケースが見受けられます。これは立派な「分離」の見本です。精神障害者も「クローズド」、すなわち病気であることを隠して就労しているケースはあるでしょう。しかし、「重度」とされた精神障害者には就労の機会は極めて少ない訳です。もちろん、すべてにおいて例外はありえます。「統合化」「包摂」が工場では認められないのは、「民主主義が工場の前で立ち止まる」ことと密接に関連しています。
精神障害者が日常に感じている差別の視線
精神障害者が日常的に感じている「差別」されているという実際の感覚は重要です。強制入院制度や精神保健福祉法の問題は重要なことですが、それだけでは物事の半面であって精神障害者の差別の実態はそれだけではありません。労働現場での統合化、包摂(インクルーシブ)の問題、社会における「差別する視線による監視」の問題が解決されないと、結局は「ひとつの鎖は解いたが、新たな別の鎖でつなぐ」ことにしかなりません。実際に、普通に社会に置かれていたと言われる江戸時代が終わって精神医療が始まった明治以降、精神障害者は次々と新しい鎖でつながれてきました。しかし、重要なことは、医療の問題だけを見ていても精神障害者が差別されている情況は解決しません。多くの労働現場では精神障害者は排除され続けており、「社会構成員」である一人の人間だとは見なされていません。「常に差別する視線によって監視されている存在」が精神障害者の日常なのではないでしょうか。地域社会において「精神障害者だと見做したら差別し排除する意志を持った視線によって監視されている」ことの恐怖が、精神障害者の内面を縛る鎖となっています。強制入院のことは重要ですが、それだけを考えていても、このような精神障害者を縛っている鎖を解くことはできません。
「工場に民主主義を実現する」闘いと一体で
だから僕の精神障害者解放の考えの実現は、「工場に民主主義を実現する」闘いと不可分ですし、全日建関生支部とかユニオン系労組の労働運動と不可分だと思っています。そういう意味では今までの精神障害者運動とは少し離れていると感じられるおそれも感じます。しかし、労働現場での「統合化」「包摂」の闘いをしないで「強制入院反対」の主張だけをしていることは物事の半面に精神障害者を縛り付けて、新たな鎖でくくり付けてしまうおそれのある論理であることを述べてきました。ユーチューブチャンネル『げんの部屋』が労働者的な闘いも範疇にしている根拠もそこにあります。
精神障害者解放運動と労働運動・労働組合運動を結合すること、統合化する考えが必要なことは、僕の基本的で日常的な考え方です。
(『げんの部屋』56 を編集・再構成しました)。