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楢篠賢司の『人間とは』

人間とは何かを研究しています。現在は経済学を自分のものにしたいと目下勉強中です。

富とは何か

2008-12-23 14:11:21 | Weblog
 富とは人生を豊かにするものが「富」であると言うとき、そこには広義に考えて人間の社会にとって、人間の労働であると言う解がきてしまう。
 
 そこでは人々は小さな部分部分を担当して、自己の労働を投入し、大きな社会を動かしていく。その中の一つが欠けても全ての人の人生を豊かにすることはできない。

 地球と言う大きな社会を動かすには個々の労働の集積こそが大切なものであり、『労働』こそ人間社会の富であると言うことができる。

 また労働は富を生み出すものであるという解釈もできる。それは現代の資本主義社会下においては『富』の考え方が身近なものと考えるよう訓練されているからではないかと思われる。

 そこでは人は『富』とは何かを突きつけられたとき、金銀財宝(その考えは古いかもしれないが)豪勢な邸宅、数え切れない程の桁数の並んだ預金通帳(貨幣)貨幣はいつでも他人の労働と交換できることから、人にとっては最大の富を手に入れたことになる。

 だが偏った貨幣所持は最終的には社会を危険な状態に落とす。それは今回の金融危機がその答となる。

 そのとき人は貨幣は富であると言うことができるであろうか。

 労働が人間社会の富であるというとき、その労働を拒否してしまう社会はやがて大きな試練に立ち向かうはずである。

 それは労働を拒否(失業)された人々が多くなればなるほど人間社会全体にとって試練は大きくなるはずである。

 今回の労働の拒否がどのくらいになるかわ定かでは無いが、現在はその入り口に入ってきたものと言える。

 

未来社会は労働の売り買いの無い社会

2008-12-17 15:17:35 | Weblog
昨日、予言というかたちでタイトルの書き出しをしたが、その書き出しに対し自分自身を分析してみると、現在の金融危機に対し世界はなんの手も打てないだろうという気持ちがあるからである。

 景気が日増しに後退しているにも関わらず株が値上がりしている現象、それをどう読み取るか。私は格差社会がより拡大していくとみる。
 
 注入された公的資金が多くの人達に回らず、少数の人の手に渡ってしまう。その人達にとって余裕の資金がほんのちょっとした理由付けをもって株式へと向かう。
 
 それは大企業が人員整理をいとも簡単におこなったことからの企業の信用という裏付けを得たからだとも言える。

 その反面には派遣社員・契約社員というかたちでいとも簡単に職を失い、この冬空の下、住むところも取り上げられてしまう。

 この傾向は今後より一層強くなっていく、つまり格差の拡大は今の状況では食い止めることができないのである。

 社会が変わるか、変わるとしたら。その回答が未来社会は労働の売り買いの無い社会という回答に行き着いてしまう。
 






ちょっと横道

2008-12-17 09:07:17 | Weblog
 ブログを書くことの難しさに現在直面している。
 今まで阿修羅と言う掲示板で縄文ビトのハンドルネームで色々と書いてきたが、年齢的にも体力的にも集中力が欠けている自分に気が付いてきたことから、ブログに転向した次第だ。

 まず何をどのような面から書くのかが最近わからなくなってきたのが今の現状だ。
時事的なことに自身のコメントを入れて書けば良いのか、自己主張として読む人を無視して自分なりの思想を書いていけばよいのか、最近迷ってきたのは確かだ。

 だがブログの良さに最近はまってきたのも自分自身気が付いている。それは何を書いても良いという一言に尽きるようだ。

 そこで今までハンドルネーム(縄文ビト)と、ペンネーム(楢篠賢司)の世界から一歩飛び出してみたいと決心した。

 私自身の職業は零細企業の社長である。小さな建売を買ったときから早40年、その庭先に小さな工場を立て旋盤2台(一台は中古)を購入しての、家内と二人三脚からの出発である。

 その間ニクソンショック、オイルショック、そして景気後退局面には他の零細企業よりもまず最初に仕事が無くなるということも何度となく経験してきた。

 その当時の中小企業金融公庫も払っていかれるのかと驚くほど(後に担当者から聞いた話)新しい設備投資に走り、現在では完全に最新設備のコンピュータ化して仕事は息子に任せ私自身は雑事に追われて一日を過ごしている。ただ身体的に無理はできないという理由もあるが。

 これからはちょっと寄り道と言うタイトルで現在の金融危機の中で零細企業が置かれている状況を、自身の思想的文章の合間をみて書いてみたいと思う。

予言。人類の未来社会は労働の売り買いの無い社会である

2008-12-16 16:41:59 | Weblog
 タイロルに予言と言うかたちで書いたが私自身としては決してオカルト的な予言とは考えていない。今までの人間の歴史をみたとき、確実に人間性を取り戻そうとしている姿をそこにみる事ができる。人間を家畜並みに奴隷として扱った社会、そこから脱却して現在では細々ながら民が主であるという、擬似民主主義社会、やがては真の民主主義社会になったとき、労働の売り買いの無い社会が実現されると考えている。

 何ゆえに労働の売り買いの無い社会が真の民主主義社会なのかと言うと、売り買いとは貨幣によって他者に労働を買い取られる社会であり、買い取る社会が現実に存在しているからである。

 買い取るとは他者に労働を私有化されることであり、歴史を遡ったとき他者に労働を私有化されない社会がそこにあるからである。

 労働を他者によって私有化されたときから人間社会に悪が蔓延ったといっても過言ではない。

 やがてこのことに人々が気づいたとき真の人間社会に一歩近づいたことになる。

 真の人間社会とは労働の売り買いの無い社会である。労働を人間社会の富であるといったとき、富は全体で享受しなくてはならない。

 気づくこと、それ以外ないような気がする。

富とは人生を豊かにするもの。それは労働である

2008-12-12 17:40:45 | Weblog
この題名にやっとたどり着いた。人が書いていない世界、手探りの世界がそこにはある。自分自身の頭の中で何度となく答を出しては消し、また新たな答を出していく。そしてたどり着いたのが『富とは労働である』という答になる。労働は富を生み出すものと考えることもできるが。そこには以前書いた文章の中でコラムニストの文章を引用させてもらったが、富とは肥沃な農場、効率的な工場、そこで働く技能の高い労働者などであると学んだ。となっていたが私なりにそれを一歩深読みをしてみたい。

まず「肥沃な農場」と書いているがそれは富を生み出す土地と考えることができる、ではどのようにして肥沃な農場が富を生み出すのか、いくらそこに肥沃な土地があったとしても、そこに人の手が入らなくては作物も実らない、肥沃な農場だけでは富を生み出すことはできない。そこに人間の労働が入ってはじめて作物を実らせ富を生み出すのである。
また人間の労働が入らない前の状態では耕作に適した土地とはいえない。富を生み出す肥沃な土地は人間の労働が入ってはじめて優良な耕作地として富を生み出すのである。

最初痩せ細った土地であったとしても、人の労働が入ることによって肥沃な土地へと生まれ変わる。そこから肥沃な農場が富を生み出すのではなく、人間の労働そのものが富を作り出し、富を生み出すものであるというとき、人間の労働そのものが人間社会の富であると言えないだろうか。

 私はあえて人間の労働そのものが国家の富であるという言葉は使いたくない。

 効率的な工場も同じことが言える、最初から効率的な工場があったのではなく、長い時間をかけ、そこで働く人間の労働があってはじめて効率的な工場になったといえる。またたとえ効率的な工場が出来上がったとしても、人間の労働がそこに投入されなくては物を生産することもなく、なんの富を生み出すこともない。

 そして最後に技能の高い労働者が富を生み出すということになっているが、何度もいうようだが最初から技能の高い労働者がいたのではない。最初は素人であったが先輩から技能を叩き込まれやがて技能の高い労働者へと育っていったのである。教え導いたのもそこに労働があったことによる。

最終的な結論『人間社会の富は労働である』と言うことになる。

次回は富(労働)は富として扱われているかということになる。




ちょっと寄り道 Ⅲ

2008-12-05 09:45:22 | Weblog

>スペインは、16-17世紀、南米大陸に進出して、各地から大量の金銀を略奪し、また鉱山を開発した。これがスペインを経由してヨーロッパ各国に流入した。その量は、銀16,886トン、金181トンという。この大量の金銀の流入が、ヨーロッパの価格水準を上昇させた。これは価格革命と呼ばれている。

 上記はコラムニスト原田泰氏の富とは何かの引用であるが。私も貨幣を研究しているものとして「富とは何か」の関連性があるものとして書いていきたい。

 そこで価格革命の説明を簡単にしておきたい。
価格革命とは16世紀半ば以降新大陸発見に伴いアメリカ大陸から大量の銀がヨーロッパに流入し、銀価格が下落したことから、他の物価の高騰を招いたことによる。これはインフレといわれるものであるがその原因としていくつかの解説が行われている。
 その中で16世紀西欧における人口急増に原因があるという論者(川北稔)の需給関係のバランスが崩れたためという見方と、貨幣量が大量に増加してしまったためという見方がある。

【原因論】(ネット上の検索)このような物価騰貴の原因については,基本的に通貨的要因を強調する意見と一般商品の需給バランスを重視する学説とがあって対立している。

 そこで私の意見だが、貨幣を交換財であるとみなすことから、次に何との交換をするのかということになる。当然貨幣は商品との交換である、つまり貨幣を介して商品を買うという行為、それを貨幣と商品との交換をしていることになると考えてしまうだろう。だが買う立場の人が貨幣を持つているという前提がそこにはある。商品を買おうとする人はその貨幣(お金)をどのようにして手に入れたのか、たぶんその人は自分が働いて得た給料であるということになるだろう。

 つまり私が言いたいのは貨幣は労働によって得ることのできる交換財であるということだ。相手が売る商品も当然のこと労働で作り出したものである。
物を売る、または買う行為、それは両者が貨幣を介して労働を交換していることになる。その行為が安定している状態であれば交換は1対1の労働の交換になる。だが貨幣量が多くなれば、その貨幣量に対し労働によって作られる商品が品薄となりやがては商品の価格が上がっていく。これがインフレである。その状態では不足した商品を作るために活発な経済活動となり好況を呈する。だが初期の状態では一部の人間による買占めという行為が発生し商品は上がるが労働賃金は据え置かれたものになる。

 現在の経済はそこに色々な行為、買占め、売り惜しみ、やがては作りすぎた商品を売るために他国への貿易、それも行き詰れば消費側の未来の労働を担保としたローンでの販売となる。
 
 やがて借りたローンの支払いが不能となったとき、過剰になった商品はデフレ状態をもたらす。

以前書いたブログ『富とは何か』ちょっと寄り道Ⅱから

2008-12-04 09:07:27 | Weblog
以前書いた文章から

2008-12-01 13:30:14 | Weblog『富とは何か』ちょっと寄り道Ⅱ

 原田泰氏の「本当の富とは何か」というコラムに行き当たった。以下はアドレスと引用であるある。  http://www.dir.co.jp/publicity/column/081001.html 

 >アダム・スミスとイギリスは、この状況を見て、金銀は富ではあるが、より重要な富は、将来にわたって富を生み出す肥沃な農場、効率的な工場、そこで働く技能の高い労働者などであると学んだ。ここから、イギリスの産業革命が始まった。

 そして昨日書いた文章として肥沃な農場等々、富を生み出すものであり富ではないと言うこと。

 富とは人間生活にとって豊かに人生を送るものでしかないと言うこと。そこに豊かに送れる側の人間と、貧困のまま人生に終止符をうってしまう人間がいると言うこと。

 アダム・スミスを引用してこのコラムを書いた人も、人間としての富(人類が幸福になるため)ではなく一部の人間が、または一部の人間のために動く国家が富めるには、と先に考えがあったのではないだろうか。

 これからの経済学は、現時点ではまり込んでいる世界的な金融危機、それ等は一部の人間の富だけを追及した結果起こったものであるといえる。これを乗り越えた世界は「真の富とは何かを」人間全体として考える経済学の中から生まれなくてはならない。

富とは何か? 現在の段階で導き出される結論として

2008-12-03 21:42:53 | Weblog

富とは、一言で纏めるとするならば人間の生活を豊かにするものということができる。ただそこには一部の人間の生活が豊かになるのと、人間全体の生活が豊かになるのとでは大きな開きがある。

 一部の人間が人生をエンジョイするため、豪勢な邸宅に住み金に糸目をつけず金銀宝石で身を飾る。だが対極に大多数の人間が人生をエンジョイすることもかなわづ貧困に明け暮れ一生を終える姿もある。

 富とは何かを問うた時、最初に頭に浮かぶのは前者の豪勢な生活ではないだろうか。
それは人間全体の富ではないといえる。

 先に結論を書いてしまったがこれから本題に入っていく導入部となる。