楢篠賢司の『人間とは』

人間とは何かを研究しています。現在は経済学を自分のものにしたいと目下勉強中です。

パスワードを忘れていましたので

2008-10-31 20:02:16 | Weblog
パスワードを忘れたため何回ログインしても自分のページを開くことができませんでした。なんてあほなと自分ながらあきれています。それがふとしたきっかけから思い出したのです。そのきっかけとはオークションに入札するパスワードでした。

ただ、パソコンが引越しのため変わっていたために送り返されてくるメールを開くことができませんでした。二重のミスが重なりどうすることもできなかったのが現状でした。

今まで他人任せであった「楢篠賢司の人間とは何か」という題名のホームページを12月5日で閉めるつもりです。そこで自分なりの大切な文章をブログに書き込み残しておくつもりです。もし読んでくださる方はお付き合いのほどよろしくお願いいたします。

「楢篠賢司の人間とは何かの研究室」より移します。


歴史

 君たちは罪を犯している
人間の歴史を逆に進ませようとする大きな罪を…
何百年、何千年後かには罪を犯していたことにより罰に処せられるだろう
二千年、三千年前、そして一万年以上前の人間が
自然に対し、人間に対し無知であった時代ならともかく
人間が、自然が解りかけてきたこの時代に
君たちの行いは、また盲目の中へと人間を進ませていく

 君たちの犯した罪は大きい
人間が自由というものに向かって進んでいくなかで
また過去の暗い無の中に人間を連れて行く
君たちが持っている偶像
人間が何であるかを理解できる者たちにとっては
そこに何もないということを解る者たちにとっては
そのことに盲目となっている君たちがあまりにも哀しい
そして無いということには、無いという証明はいらない

 もし君たちが、そこに何か在るというなら
現在の生物学、現在の考古学、心理学を越えてでも
在るということを証明しなければならない
そして歴史を見、人間が自由と平等という目的に向かい進んできた歴史を
もう一度目を大きく見開き理解して欲しい

 生命の起源、そこから人間の歴史が始まっていたのだということを
観念を捏ね回さずに、純粋に受け取って欲しい


                        1968年3月




 伊豆の海は曇り空の下で白く濁っていた。空と海との境目のない遠方に目を向け、私は一人防波堤の上を歩いていた。ふと下の方で声がするのを聞き立ち止まった。潮の引いた防波堤の下の黒く波に洗われた大小の岩の上に、数輪の花を置いたように少女たちが屈みこんでいた。
何をしているのかな? 私は彼女達を真下に見、浴衣の裾を折り屈みこんだ。
「何か獲れるの?」
私は無言が堪らなくなり上から声をかけた。それほど曇り空の夕方の海は寂寞として、冷気さえ漂わしていた。一人の少女が顔を上げた。残りの少女達も私のほうに顔を向けてきた。
彼女たちはそこに人がいたということに驚いているようだった。

  私は、いつか私を無視しようとする少女達に近づくように下に下りていた。彼女らは岩の間に垂らした糸の先を一心に見つめていたが、私を完全に無視しきれない目は時々私を窺がっていた。その傍らに小さなバケツが置いてあった。私は近くにいた少女に見てもいいと尋ね返事も待たずに蓋を持ち上げた。かに、それは蟹だった。こぶし半分ほどの蟹が数匹底のほうでガサガサと音を立て這い回っていた。
「こんな蟹食べられるの」
私は自分でもおかしな質問をしたと感じた。少女達の目が私を理解しかねたかのように見つめていた。
「いや、だって地元の子が意味もない蟹なんか捕っているのが理解できなかったんだよ」
私は自分のだした質問がそこからの疑問であったことに気づいたが、心の中で感じただけで何も言わなかった。

「僕にもやらせてくれない」
私は餌にする小魚を糸の先に結び付けている少女に聞いたが、少女は返事をしなかった。私は小刻みに動く少女の手元を真向かいの位置で膝を折り見ていた。少女は付け終わると黙って餌の付いた竿を差し出す、私は意志が通じていたことが嬉しかった。竿を取ると岩の間に屈みこむように餌を沈ませた。曇り空をそのまま落とし込んだように濁った海も、間近で見るとガラスのように冷たく澄んでいるのが分かった。時々打ち寄せる波も白い泡を残しやがてそれも消える。私が垂らした小魚の死骸が鱗を銀色に光らせ、くる波、引く波にもまれながら岩の間で踊っていた。その餌に引かれ、赤いハサミを持った蟹が近づいてくる。それは広い海を我が物顔に孤独者を主張しているような一匹の生物であり、硬い甲羅の中には神を知りながらも神に近づけなかった人間が持つ傲慢さを隠しこんでいるようだった。それは餌に釣られて近づいてきたという感じではない。自分が支配する海域内の侵犯者を罰するという強い意志を持った感じだった。

 ほどなくして私はその蟹を釣り上げた。私の前でセクシイさを首筋に感じさせる屈みこんだ少女の丸網の中にその蟹は入っていた。私の前に蟹を差し出した少女に私は
「ううん…もしよかったら海に放してやってくれる」
私は少女の目を見つめ自分自身の心の中に問いかけ、今の気持ちから逃れたいという気持ちの代弁を釣った蟹を開放してやるという行為の中に読み取った。
「でも…」というように少女は迷っているようだった。
「どうせ飼ってもすぐ死んじゃうじゃない、それなら自然のままに生かしておくのが一番いいと思う」少女は理解したかのように私にかにを渡してきた。私は体に似合わない大きなハサミを振り回し掴みかかろうとする蟹を海に戻してやった。
 海はなおいっそうの静寂とともに夜の気配を漂わせてきていた。


                              1964年3月



人間とは



私はときたま、この喧騒たる社会を逃避するように人間の行うこと、また人間の行ってきたことに思考を働かせるよりも、人間そのものを考えてみたいという気持ちになる。
 人間の社会は必然性を持って永遠に続くというものではないと言える。それが何千年後か、何万年後になるか解らないが終局がくるのが必然的である。

       題して「人類の終局はどのようなかたちで来るか?」

1 第三次世界大戦ということが考えられる。
  人間が考えることによって進歩した科学が人類を滅ぼし、全ての生物をも滅ぼしてしまう、はたしてそれが許されるかどうか。
 
なぜなら、この地上に人間を存在させたという偉大なる偶然(この広大な宇宙の中に生物が棲めるという地球という物を存在させた力、また鉱物的なものから生命《植物・動物》を発生させた力。そしてあらゆる進化を経て人間にまで成長させた力、その力を『神の力』と考えてしまえば簡単であるが、無神論者として考えるとき、こんな条件の良い偶然はこの広大な宇宙の中でも、そうめったに起こるというものではないと言える。もしかしたら、現在我々が住んでいるこの地球だけかもしれないし、永遠に二度とこんな偶然は起こらないかもしれない)だけは、人間の手によって滅ぼすということに腹が立つが…。

2 人間は子孫を残せなくなるという時がくるのではないか。つまり科学の進歩が、人間を自然から遠ざけるとき、人間の楽をしたいという意識が子孫を残すという苦しみを伴う不自由な本能(それが自然なのであるが)を遠ざけてしまうのではないか。かつて人間が理性という名において本能的なものを捨ててきてしまったように。その時代が来たら悲劇だと思う。

1964年(これは西暦ではない、人間は人間自体の力で歩もうと考えたとき、政教分離という考えのもと、イエス・キリスト(神)から出発した西暦という年号を廃し新たな年号をつけた)の×月○日、テレビは世界政府の悲劇的な二ユースを伝えた、
過去一年の間人類は一人の子孫もこの地球上に残せなかった。人類は減少の一途をたどり、××年後には最後の人間もこの地上を去るというものであった。

                           

1964年4月
             

これは私が若い(20代)のとき書いた文章です。少しずつ移してきますのでお許しください。