水俣病患者に寄り添い半世紀 原田正純さん死去 公害の悲劇、世界に訴え 死亡
2012.06.12 夕刊
「公害の原点」とされる水俣病事件に長年向き合い、水俣病研究の第一人者だった医師の原田正純さん(77)=熊本市=が11日夜、亡くなった。半世紀にわたって現地を歩き、患者に寄り添い、その目線で研究を続けた。海外の公害事件の現場にも足を運び、「水俣病の教訓」を訴えることで世界に警鐘を鳴らした。
「見てしまった責任」-。原田さんは、水俣病と長く関わる理由をそう語った。1960年代初めの水俣。熊本大大学院生だった原田さんが見たのは、病を背負い経済的にも困窮し、差別に苦しむ患者の姿だった。
胎児性水俣病の発見から50年。「胎盤は毒物を通さない」が定説だった時代、汚染魚を食べていないという理由で子どもらは放置されていたが、ある母親は言った。「私は水俣病と思います」。その直感を受け止めた原田さんは研究を続け、胎児性水俣病患者の存在を明らかにした。
三池炭鉱の炭じん爆発によるCO(一酸化炭素)中毒、カネミ油症事件、世界各地の公害・環境汚染…。研究対象も行動範囲も世界規模だった。
カナダの先住民たちは、押し込められた居留地で水銀被害に苦しんでいた。「公害が起きて差別が生じるのではない。差別のある所に公害が生じるのだ」。水俣にも重なる世界の悲劇を、講演などで繰り返し訴えた。
住民調査を実施しない行政の姿勢には、一貫して批判的だった。複数症状の組み合わせを求める国の認定基準も「被害実態にあっていない」と指摘。水俣病特別措置法については「水俣病患者として補償されるべき人が、一律の低額補償の中に埋もれてはならない」と危惧していた。
がん、脳梗塞、そして白血病。自ら病と闘いながら執筆や講演を続けた。「水俣病は終わらない」-。活動の原点には、そんな思いがあった。最後まで案じていたのは、73年の判決でチッソの企業責任を断罪した水俣病1次訴訟の原告らの将来だ。胎児性患者も介護する親たちも高齢化。「水俣病を終わりにさせなかったのは彼らの功績なのに、世の中は彼らのことを忘れかけていないだろうか」
ともに1次訴訟を支えた富樫貞夫・熊本大名誉教授は「水俣病を分かりやすい表現で国内外に伝えた業績は大きい」。1次訴訟原告の浜元二徳さん(76)=水俣市=は「患者とも人間として深くつきあってくれた。心から信頼していた。本当に残念でならない。まだ話したいことがたくさんあったのに。もう原田先生のような人は生まれてこないのではないか。あまりに早い」と振り返った。
(石貫謹也、辻尚宏、久間孝志)
熊本日日新聞社
「先生、ありがとう」 原田正純さん死去 患者ら、深い悲しみ 水俣病 死亡
2012.06.12 夕刊
「原田先生、ありがとう」「まだ長生きしてほしかった」-。原田正純さんの死去から一夜明けた12日、その活動と人柄を慕った水俣病患者や支援者らに深い悲しみが広がった。
▽ ▽
関係者によると、原田さんは妻寿美子さんと長女、次女らに見守られ、自宅ベッドで静かに息を引き取った。最後は孫の手を握り、家族の語りかけにうなずいていたという。最近は寿美子さんが手入れした庭を眺めながら過ごし、見舞い客に笑顔で応対していた。「庭がきれいだね、ありがとう」。11日夕、寿美子さんへの感謝の言葉を口にしたという。
5月20日に面会したチッソ水俣病患者連盟の高倉史朗事務局長は「発熱はあっても、にこやかに応対していただいた。まだまだ長生きしてほしかった」。高倉さんが今後も水俣病訴訟を支援する覚悟を報告すると、原田さんは「大事なことだから、頑張りなさい」と声を掛けたという。
「先生ありがとう」。涙ながらに声を振り絞ったのは、原田さんが胎児性水俣病の存在に気付くきっかけとなった水俣市の金子雄二さん(56)。母親のスミ子さん(81)は「出会った日も、今と変わらない優しいまなざしだった。これまでどれほど助けられたことか」と振り返る。
1972年にスウェーデンであった国連人間環境会議に、共に参加した胎児性患者の坂本しのぶさん(55)は「病気のことは何でも聞いてくれて、相談に乗ってくれる人だった。長生きしてほしかった」。母親のフジエさん(87)も「一番頼りにした先生だった」と肩を落とした。
「本願の会」副代表の緒方正人さんは「患者の声を聞く姿勢を貫いた人で、御用学者ではなく本物の先生だった。患者たちも深く信頼していた」。
熊本学園大の水俣学研究センター長を引き継いだ花田昌宣教授は「水俣病はもちろん、炭鉱事故による一酸化炭素中毒やカネミ油症事件など、公害被害者である弱者に寄り添う反骨の医師だった。文学や政治にも通じ、言葉の端々に幅広い知識と視野を感じさせた」と振り返る。
「水俣病問題解決のための大きな柱を失った」と、原田さんと共に不知火海沿岸住民の健康調査を続けていた藤野糺医師(熊本市)は嘆く。「全ての被害者を救済するために、もっと力添えが欲しかった」
患者とチッソの補償協定締結に立ち会った元社会党書記長の馬場昇さんは「年齢は私の方が上だが、恩師のような存在だった」。環境ジャーナリストのアイリーン・美緒子・スミスさんは「住民に向き合い、訴えにきちんと耳を傾ける人だった。その姿勢を学んだことは、今取り組んでいる脱原発の活動にも生きている」と話す。
親交が深かった潮谷義子元知事は「誠実で優しく、思いやりのある素晴らしい人だった。訃報を聞いて昨夜は一睡もできなかった」と話した。
●功績大きい
○蒲島郁夫知事の話 水俣病問題に一生涯をささげられた功績は非常に大きい。水銀などは胎盤を通って胎児に伝わらないという常識を覆し、水俣病を通して世界的に公害問題に貢献された。人間として尊敬する先生であり、早過ぎるご逝去は残念でならない。
●心より感謝
○細野豪志環境相の話 歴史を振り返れば、水俣病は政府がもっと早い段階で被害者に寄り添って対応していれば、状況は違ったと思う。原田先生は、政府に対して厳しい見解を含めて指摘いただいてきた方だった。心より感謝を申し上げ、心よりご冥福を祈りたい。
熊本日日新聞社
[死亡]原田正純さん死去/さつま町出身、水俣病研究第一人者=77歳
2012.06.12 朝刊
水俣病研究の第一人者で、50年余り患者救済に尽力してきた医師の原田正純(はらだ・まさずみ)さん=さつま町出身=が11日午後10時12分、急性骨髄性白血病のため、熊本市内の自宅で死去した。77歳。
原田さんはラ・サール高から熊本大医学部に進学。水俣病公式確認から5年後の1961年、同大大学院神経精神科教室在籍時に初めて水俣を訪れ、患者を診察。62年、「胎盤は毒物を通さない」とされていた当時の医学界の常識を覆し、胎児性水俣病を立証した。65年、胎児性水俣病の論文で日本精神神経学会賞を受賞した。
69年に発足した水俣病第1次訴訟を支援する水俣病研究会にも参加。原告患者の診断書作成に携わったほか、以降、多くの水俣病裁判で患者側の証言台に立った。
また「現場に真実があり生活の場で診る」現場主義を貫き、出水市や長島町獅子島でも患者宅を一軒一軒訪ね、潜在的患者の掘り起こしを続けた。
99年に熊本学園大教授に就任。05年、同大で「水俣学研究センター」を立ち上げ、センター長に就任。水俣病を医学だけでなく政治、経済、社会学など多角的、学際的に探る「水俣学」を提唱した。
また、水俣病だけにとどまらず、三池炭鉱(福岡県)の一酸化炭素中毒、土呂久(宮崎県)のヒ素中毒、カネミ油症(福岡、長崎県など)の研究にも携わった。
2010年3月に同大を退職後も、講演などで精力的に活動していた。今年4月、体調を崩し熊本市内の病院に入院、5月連休明けからは自宅で療養していた。
南日本新聞社
2012.06.12 夕刊
「公害の原点」とされる水俣病事件に長年向き合い、水俣病研究の第一人者だった医師の原田正純さん(77)=熊本市=が11日夜、亡くなった。半世紀にわたって現地を歩き、患者に寄り添い、その目線で研究を続けた。海外の公害事件の現場にも足を運び、「水俣病の教訓」を訴えることで世界に警鐘を鳴らした。
「見てしまった責任」-。原田さんは、水俣病と長く関わる理由をそう語った。1960年代初めの水俣。熊本大大学院生だった原田さんが見たのは、病を背負い経済的にも困窮し、差別に苦しむ患者の姿だった。
胎児性水俣病の発見から50年。「胎盤は毒物を通さない」が定説だった時代、汚染魚を食べていないという理由で子どもらは放置されていたが、ある母親は言った。「私は水俣病と思います」。その直感を受け止めた原田さんは研究を続け、胎児性水俣病患者の存在を明らかにした。
三池炭鉱の炭じん爆発によるCO(一酸化炭素)中毒、カネミ油症事件、世界各地の公害・環境汚染…。研究対象も行動範囲も世界規模だった。
カナダの先住民たちは、押し込められた居留地で水銀被害に苦しんでいた。「公害が起きて差別が生じるのではない。差別のある所に公害が生じるのだ」。水俣にも重なる世界の悲劇を、講演などで繰り返し訴えた。
住民調査を実施しない行政の姿勢には、一貫して批判的だった。複数症状の組み合わせを求める国の認定基準も「被害実態にあっていない」と指摘。水俣病特別措置法については「水俣病患者として補償されるべき人が、一律の低額補償の中に埋もれてはならない」と危惧していた。
がん、脳梗塞、そして白血病。自ら病と闘いながら執筆や講演を続けた。「水俣病は終わらない」-。活動の原点には、そんな思いがあった。最後まで案じていたのは、73年の判決でチッソの企業責任を断罪した水俣病1次訴訟の原告らの将来だ。胎児性患者も介護する親たちも高齢化。「水俣病を終わりにさせなかったのは彼らの功績なのに、世の中は彼らのことを忘れかけていないだろうか」
ともに1次訴訟を支えた富樫貞夫・熊本大名誉教授は「水俣病を分かりやすい表現で国内外に伝えた業績は大きい」。1次訴訟原告の浜元二徳さん(76)=水俣市=は「患者とも人間として深くつきあってくれた。心から信頼していた。本当に残念でならない。まだ話したいことがたくさんあったのに。もう原田先生のような人は生まれてこないのではないか。あまりに早い」と振り返った。
(石貫謹也、辻尚宏、久間孝志)
熊本日日新聞社
「先生、ありがとう」 原田正純さん死去 患者ら、深い悲しみ 水俣病 死亡
2012.06.12 夕刊
「原田先生、ありがとう」「まだ長生きしてほしかった」-。原田正純さんの死去から一夜明けた12日、その活動と人柄を慕った水俣病患者や支援者らに深い悲しみが広がった。
▽ ▽
関係者によると、原田さんは妻寿美子さんと長女、次女らに見守られ、自宅ベッドで静かに息を引き取った。最後は孫の手を握り、家族の語りかけにうなずいていたという。最近は寿美子さんが手入れした庭を眺めながら過ごし、見舞い客に笑顔で応対していた。「庭がきれいだね、ありがとう」。11日夕、寿美子さんへの感謝の言葉を口にしたという。
5月20日に面会したチッソ水俣病患者連盟の高倉史朗事務局長は「発熱はあっても、にこやかに応対していただいた。まだまだ長生きしてほしかった」。高倉さんが今後も水俣病訴訟を支援する覚悟を報告すると、原田さんは「大事なことだから、頑張りなさい」と声を掛けたという。
「先生ありがとう」。涙ながらに声を振り絞ったのは、原田さんが胎児性水俣病の存在に気付くきっかけとなった水俣市の金子雄二さん(56)。母親のスミ子さん(81)は「出会った日も、今と変わらない優しいまなざしだった。これまでどれほど助けられたことか」と振り返る。
1972年にスウェーデンであった国連人間環境会議に、共に参加した胎児性患者の坂本しのぶさん(55)は「病気のことは何でも聞いてくれて、相談に乗ってくれる人だった。長生きしてほしかった」。母親のフジエさん(87)も「一番頼りにした先生だった」と肩を落とした。
「本願の会」副代表の緒方正人さんは「患者の声を聞く姿勢を貫いた人で、御用学者ではなく本物の先生だった。患者たちも深く信頼していた」。
熊本学園大の水俣学研究センター長を引き継いだ花田昌宣教授は「水俣病はもちろん、炭鉱事故による一酸化炭素中毒やカネミ油症事件など、公害被害者である弱者に寄り添う反骨の医師だった。文学や政治にも通じ、言葉の端々に幅広い知識と視野を感じさせた」と振り返る。
「水俣病問題解決のための大きな柱を失った」と、原田さんと共に不知火海沿岸住民の健康調査を続けていた藤野糺医師(熊本市)は嘆く。「全ての被害者を救済するために、もっと力添えが欲しかった」
患者とチッソの補償協定締結に立ち会った元社会党書記長の馬場昇さんは「年齢は私の方が上だが、恩師のような存在だった」。環境ジャーナリストのアイリーン・美緒子・スミスさんは「住民に向き合い、訴えにきちんと耳を傾ける人だった。その姿勢を学んだことは、今取り組んでいる脱原発の活動にも生きている」と話す。
親交が深かった潮谷義子元知事は「誠実で優しく、思いやりのある素晴らしい人だった。訃報を聞いて昨夜は一睡もできなかった」と話した。
●功績大きい
○蒲島郁夫知事の話 水俣病問題に一生涯をささげられた功績は非常に大きい。水銀などは胎盤を通って胎児に伝わらないという常識を覆し、水俣病を通して世界的に公害問題に貢献された。人間として尊敬する先生であり、早過ぎるご逝去は残念でならない。
●心より感謝
○細野豪志環境相の話 歴史を振り返れば、水俣病は政府がもっと早い段階で被害者に寄り添って対応していれば、状況は違ったと思う。原田先生は、政府に対して厳しい見解を含めて指摘いただいてきた方だった。心より感謝を申し上げ、心よりご冥福を祈りたい。
熊本日日新聞社
[死亡]原田正純さん死去/さつま町出身、水俣病研究第一人者=77歳
2012.06.12 朝刊
水俣病研究の第一人者で、50年余り患者救済に尽力してきた医師の原田正純(はらだ・まさずみ)さん=さつま町出身=が11日午後10時12分、急性骨髄性白血病のため、熊本市内の自宅で死去した。77歳。
原田さんはラ・サール高から熊本大医学部に進学。水俣病公式確認から5年後の1961年、同大大学院神経精神科教室在籍時に初めて水俣を訪れ、患者を診察。62年、「胎盤は毒物を通さない」とされていた当時の医学界の常識を覆し、胎児性水俣病を立証した。65年、胎児性水俣病の論文で日本精神神経学会賞を受賞した。
69年に発足した水俣病第1次訴訟を支援する水俣病研究会にも参加。原告患者の診断書作成に携わったほか、以降、多くの水俣病裁判で患者側の証言台に立った。
また「現場に真実があり生活の場で診る」現場主義を貫き、出水市や長島町獅子島でも患者宅を一軒一軒訪ね、潜在的患者の掘り起こしを続けた。
99年に熊本学園大教授に就任。05年、同大で「水俣学研究センター」を立ち上げ、センター長に就任。水俣病を医学だけでなく政治、経済、社会学など多角的、学際的に探る「水俣学」を提唱した。
また、水俣病だけにとどまらず、三池炭鉱(福岡県)の一酸化炭素中毒、土呂久(宮崎県)のヒ素中毒、カネミ油症(福岡、長崎県など)の研究にも携わった。
2010年3月に同大を退職後も、講演などで精力的に活動していた。今年4月、体調を崩し熊本市内の病院に入院、5月連休明けからは自宅で療養していた。
南日本新聞社