(この文章は下記の些些庵さんの「高校入試とゆとり教育」にトラックバックしたものです。)
http://sun.ap.teacup.com/sasa_an/18.html
初めまして。大変、興味深く読ませて頂きました。
基本的な論旨は賛成です。(ただ一部、違うところもあります。)
学力低下が言われていますが、「ゆとり教育」を見直すことより、子供への教え方をどう変えて行くかという方が重要だと思います。
ただ、僕は後で書きますが、ある程度は「ゆとり教育」を見直すことも必要かもしれないとは思うのですが。
今のようにパソコンも普及しインターネット社会だからこそ、子供たちが遊んだりする休日の時間を確保することは大切だと思うんです。そのためにも子供たちに週休2日は与えるべきだと思います。休日に遊びやインターネットなどで生きていく術を子供たちが身につける時間が必要だと思うから。
また学校というものは、ただ勉強を教えるためだけではなく、集まっているだけでも友達が出来たり、交際術を身につけていくわけですから、たとえ勉強が出来なくても行くことに意味は本来、あるはずなんです。
今の子供は学校が終わると塾に行き、勉強をするための場でしか、なくなっているんですね、学校や塾が。だからこそ、勉強が落ちこぼれたり、いじめや人間関係がうまく行かなかったりしていったんレールを外れると、もう学校へ行くこと自体がまるで意味がないものになってしまい、不登校に結び付いているように思うんです。
(それでも人間関係がうまく出来ずに不登校になる子供が出て来るのも分かりますから、そういう不登校の子供にも教育するシステムも一方では考えて行く必要はあるのかもしれませんが。)
学力低下については、もっと昔の寺小屋のようにひとり、ひとりのレベルに合わせて指導できるような体制を作るようにすることを考えた方がいいと思います。現在の、出来る子も出来ない子も一律に講義して教えるというのは無理があります。それでは出来る子は授業のレベルより先にいってしまい退屈してやる気をなくし、ついていけない子は置いて行かれることになり、双方によくないです。
その意味では、僕は飛び級を認めてもいいと思うんですよ。飛び級は差別だって言う人もいるんだけど、出来る子は飛び級させた方がいいと思います。それで、もっとひとりひとりをフォローする教え方をすることですね。昔の寺小屋みたく。子供の数が減っているからこそ、そういうことも可能になってきていると思いますし。
ただ子供が自ら考えるというのは、ある程度、基本的な学力を身につけてからの話だとは思います。だから小学生の子供に最初から自主性を身につけるように勝手に勉強しなさいというのは無理があります。それはやはり工夫してひとりひとりの子供が基本的な学力を身につけられるように教えて行くべきで、そのために出来ない子に補修の時間をもうけるのは仕方がないと思いますが。
たとえば学習障害の子供は、数字などを観念的に把握できないと言います。だから目に見えるものを示して教えて行くやり方がいいのだそうですが(NHKのクローズアップ現代の「学習障害」の特集でやっていました)、そうした今の子供に合った教え方の工夫は必要かもしれません。つまり、ビジュアルで示して教えるということですが。
ですから、自主的に学習させるというのはちょっと違うようには思いますので、その点では「ゆとり教育」を見直す必要はたしかにあるのかなと思うのです。でも、その見直しは、「ゆとり教育」を間違っていたと否定するのではなく、もっとひとりひとりに合わせて教えて行くようにするにはどうするかの教え方を見直し、そのこととセットで「ゆとり教育」というものがどうあるべきかを見直していくのがいいのではないかと思うのです。
長々、すみません。意味が伝わったでしょうか。
些些庵さんの文章に刺激され、考えてみました。
http://sun.ap.teacup.com/sasa_an/18.html
初めまして。大変、興味深く読ませて頂きました。
基本的な論旨は賛成です。(ただ一部、違うところもあります。)
学力低下が言われていますが、「ゆとり教育」を見直すことより、子供への教え方をどう変えて行くかという方が重要だと思います。
ただ、僕は後で書きますが、ある程度は「ゆとり教育」を見直すことも必要かもしれないとは思うのですが。
今のようにパソコンも普及しインターネット社会だからこそ、子供たちが遊んだりする休日の時間を確保することは大切だと思うんです。そのためにも子供たちに週休2日は与えるべきだと思います。休日に遊びやインターネットなどで生きていく術を子供たちが身につける時間が必要だと思うから。
また学校というものは、ただ勉強を教えるためだけではなく、集まっているだけでも友達が出来たり、交際術を身につけていくわけですから、たとえ勉強が出来なくても行くことに意味は本来、あるはずなんです。
今の子供は学校が終わると塾に行き、勉強をするための場でしか、なくなっているんですね、学校や塾が。だからこそ、勉強が落ちこぼれたり、いじめや人間関係がうまく行かなかったりしていったんレールを外れると、もう学校へ行くこと自体がまるで意味がないものになってしまい、不登校に結び付いているように思うんです。
(それでも人間関係がうまく出来ずに不登校になる子供が出て来るのも分かりますから、そういう不登校の子供にも教育するシステムも一方では考えて行く必要はあるのかもしれませんが。)
学力低下については、もっと昔の寺小屋のようにひとり、ひとりのレベルに合わせて指導できるような体制を作るようにすることを考えた方がいいと思います。現在の、出来る子も出来ない子も一律に講義して教えるというのは無理があります。それでは出来る子は授業のレベルより先にいってしまい退屈してやる気をなくし、ついていけない子は置いて行かれることになり、双方によくないです。
その意味では、僕は飛び級を認めてもいいと思うんですよ。飛び級は差別だって言う人もいるんだけど、出来る子は飛び級させた方がいいと思います。それで、もっとひとりひとりをフォローする教え方をすることですね。昔の寺小屋みたく。子供の数が減っているからこそ、そういうことも可能になってきていると思いますし。
ただ子供が自ら考えるというのは、ある程度、基本的な学力を身につけてからの話だとは思います。だから小学生の子供に最初から自主性を身につけるように勝手に勉強しなさいというのは無理があります。それはやはり工夫してひとりひとりの子供が基本的な学力を身につけられるように教えて行くべきで、そのために出来ない子に補修の時間をもうけるのは仕方がないと思いますが。
たとえば学習障害の子供は、数字などを観念的に把握できないと言います。だから目に見えるものを示して教えて行くやり方がいいのだそうですが(NHKのクローズアップ現代の「学習障害」の特集でやっていました)、そうした今の子供に合った教え方の工夫は必要かもしれません。つまり、ビジュアルで示して教えるということですが。
ですから、自主的に学習させるというのはちょっと違うようには思いますので、その点では「ゆとり教育」を見直す必要はたしかにあるのかなと思うのです。でも、その見直しは、「ゆとり教育」を間違っていたと否定するのではなく、もっとひとりひとりに合わせて教えて行くようにするにはどうするかの教え方を見直し、そのこととセットで「ゆとり教育」というものがどうあるべきかを見直していくのがいいのではないかと思うのです。
長々、すみません。意味が伝わったでしょうか。
些些庵さんの文章に刺激され、考えてみました。