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地球が回ればフィルムも回る(gooブログ)

『食卓の肖像』『悠久よりの愛 -脱ダム新時代』などを制作した記録映像作家、金子サトシのブログ。

ゆとり教育について

2005-04-11 02:17:41 | 障害者問題・教育問題
(この文章は下記の些些庵さんの「高校入試とゆとり教育」にトラックバックしたものです。)
http://sun.ap.teacup.com/sasa_an/18.html

初めまして。大変、興味深く読ませて頂きました。
基本的な論旨は賛成です。(ただ一部、違うところもあります。)
学力低下が言われていますが、「ゆとり教育」を見直すことより、子供への教え方をどう変えて行くかという方が重要だと思います。
ただ、僕は後で書きますが、ある程度は「ゆとり教育」を見直すことも必要かもしれないとは思うのですが。

今のようにパソコンも普及しインターネット社会だからこそ、子供たちが遊んだりする休日の時間を確保することは大切だと思うんです。そのためにも子供たちに週休2日は与えるべきだと思います。休日に遊びやインターネットなどで生きていく術を子供たちが身につける時間が必要だと思うから。
また学校というものは、ただ勉強を教えるためだけではなく、集まっているだけでも友達が出来たり、交際術を身につけていくわけですから、たとえ勉強が出来なくても行くことに意味は本来、あるはずなんです。
今の子供は学校が終わると塾に行き、勉強をするための場でしか、なくなっているんですね、学校や塾が。だからこそ、勉強が落ちこぼれたり、いじめや人間関係がうまく行かなかったりしていったんレールを外れると、もう学校へ行くこと自体がまるで意味がないものになってしまい、不登校に結び付いているように思うんです。
(それでも人間関係がうまく出来ずに不登校になる子供が出て来るのも分かりますから、そういう不登校の子供にも教育するシステムも一方では考えて行く必要はあるのかもしれませんが。)

学力低下については、もっと昔の寺小屋のようにひとり、ひとりのレベルに合わせて指導できるような体制を作るようにすることを考えた方がいいと思います。現在の、出来る子も出来ない子も一律に講義して教えるというのは無理があります。それでは出来る子は授業のレベルより先にいってしまい退屈してやる気をなくし、ついていけない子は置いて行かれることになり、双方によくないです。
その意味では、僕は飛び級を認めてもいいと思うんですよ。飛び級は差別だって言う人もいるんだけど、出来る子は飛び級させた方がいいと思います。それで、もっとひとりひとりをフォローする教え方をすることですね。昔の寺小屋みたく。子供の数が減っているからこそ、そういうことも可能になってきていると思いますし。

ただ子供が自ら考えるというのは、ある程度、基本的な学力を身につけてからの話だとは思います。だから小学生の子供に最初から自主性を身につけるように勝手に勉強しなさいというのは無理があります。それはやはり工夫してひとりひとりの子供が基本的な学力を身につけられるように教えて行くべきで、そのために出来ない子に補修の時間をもうけるのは仕方がないと思いますが。
たとえば学習障害の子供は、数字などを観念的に把握できないと言います。だから目に見えるものを示して教えて行くやり方がいいのだそうですが(NHKのクローズアップ現代の「学習障害」の特集でやっていました)、そうした今の子供に合った教え方の工夫は必要かもしれません。つまり、ビジュアルで示して教えるということですが。
ですから、自主的に学習させるというのはちょっと違うようには思いますので、その点では「ゆとり教育」を見直す必要はたしかにあるのかなと思うのです。でも、その見直しは、「ゆとり教育」を間違っていたと否定するのではなく、もっとひとりひとりに合わせて教えて行くようにするにはどうするかの教え方を見直し、そのこととセットで「ゆとり教育」というものがどうあるべきかを見直していくのがいいのではないかと思うのです。

長々、すみません。意味が伝わったでしょうか。
些些庵さんの文章に刺激され、考えてみました。




人間の不思議さ

2005-03-29 03:23:42 | 障害者問題・教育問題
テレビのニュースで高校生の車椅子バスケット選手の話をやっていましたが、日本のエースになる青年として期待されているらしいです。
障害者というのは健常者よりも劣っている人間なのかというとそんなことはなく、特定のことでは人にはない優れた面を持っていることも多いようですね。山下清や大江光が有名ですけれども。どうも、ある面で能力的に欠けていると、別の面で優れた能力を身につけ発揮したりすることがあるようです。つくづく人間の不思議さを感じます。

福祉の現場

2005-03-24 19:11:09 | 障害者問題・教育問題
渡辺一史『こんな夜更けにバナナかよ』というドキュメンタリー本を読んで知ったのですが、人工呼吸器をつけている人の痰の吸引は資格がなければ出来ないと禁止されています。そのため、人工呼吸器をつけた人は医療施設から自由に外に出れない現実があるそうです。ところが、この本で取上げられているように人工呼吸器をつけた人が施設の外に出た場合にどうしているのかというと、素人のボランティアの人が付き添い、禁止されている痰の吸引をやることになります。プロの介助職員は他の資格を公的に得ていて、禁止されることをしたらその資格が剥奪されて出来ないので、そうした仕事は素人のボランティアに押し付けられているわけです。
この本は、こうした福祉の現場をリアルに取材して描写していて、きれい事の言葉ではすまない現場の事情を浮かび上がらせています。

ここから連想して思ったのですが、たとえば児童虐待に関わる施設やボランティアの人達にも複雑な現場の事情があるのかもしれません。
児童虐待で子供がついには親に殺されてしまった事件の報道で、よく行政や施設は何も出来なかったのか、どうして親元に子供を返してしまったのかといった批判がされるのだけど、これは実際、難しい問題です。親がしっかりさえしてくれれば、親のもとで子供が育つのがいいというのはそれはそう思いますし。なかなか現場の人間がどうすればいいのか、判断に苦しむ局面は多いのではないでしょうか。専門家の人ほど、間違った判断をすることを出来ないから、素人のボランティアに実際の現場の処理を押し付けているようなことももしかしたらあるのかもしれません。(きちんと取材したわけでもなく、勝手な憶測で言ってるのですけれども。)

でも、福祉というのは観念的な概念だけではなく、具体的な現場があってこそ成り立つものだと思いますから、そうした現場の方々がいてこそ成り立っているのかもしれません。