目次
第1章から第9章へのリンク
第10章から第12章へのリンク
第13章から第20章へのリンク
第21章から第23章へのリンク
第24章へのリンク
第25章から28章へのリンク
29.あいさつ中毒者と覚醒剤中毒者
30.あいさつ信者という障害者や病人 みんな障害者、病人であるとも言える
31.閉鎖的な自分の世界に引きこもるあいさつ信者たち
32.赤ちゃんはコウノトリが運んできたとか、あいさつのウソと綺麗事
33.組体操の扇とあいさつ
34.近所で私にあいさつしてきた中学生ぐらいの男の子の怪しいあいさつ
35.不正アクセスとあいさつ
36.あいさつと人のせいにする人
37.日本人の裏の顔と表の顔 みんな内弁慶とも言える
第38章から第47章へのリンク
第48章から第52章へのリンク
第53章から第56章へのリンク
第57章から第59章へのリンク
第60章から第67章へのリンク
第68章から第75章へのリンク
第76章から第81章へのリンク
第82章から第86章へのリンク
第87章から第93章へのリンク
第94章から第99章へのリンク
29.あいさつ中毒者と覚醒剤中毒者
覚醒剤と言われているものに対して多くの人は悪く思っているだろう。
その覚醒剤をやっている人に対しても悪い印象を持っているだろうが、
あいさつをされたら、オウム返しであいさつしなければいけないと信じている人や、あいさつされたら最低限は会釈をすることを望んでいるような人や、一部の人に初めにあいさつをさせたがるあいさつ信者の人は、
自分の思い道理にあいさつさせたい人があいさつしなかったら不満を持ったり、相手を見下したり、相手があいさつするまであいさつしてきたり、後日会った時にもあいさつを返させるために初めにあいさつをしたりしている人のことを、覚醒剤中毒者と言われている人のように言えば、
「あいさつ中毒者」とも言えるし、あいさつを一部の人にだけ返させたいから初めにあいさつしている人のことは「あいさつ返しさせたい中毒者」とか、「一部の人にだけあいさつさせたい中毒者」とも言える。
自分が一部の人にだけあいさつを求めがているのにあいさつをされなかったことに疑問や不満を持って不快になり、それをあいさつをしてほしいのにしなかった相手のせいにするようなことをする人があいさつできる人は素晴らしいと褒められたりするのだ。
大勢が覚醒剤をやることをおかしいと思っていたり、覚醒剤をやっている人を見下していたりするので、覚醒剤や覚醒剤をやる人はは悪く思われやすいが、あいさつは、あいさつを初めにやることや、あいさつ返しをすることが正しくもないのに、大勢が正しいと勝手に信じているのであいさつ信者は悪く言われにくいのだ。
今まで数少ない人にあいさつしてきて、百発百中で言葉であいさつ返しされ、そのほとんどはオウム返しが帰ってきただろうから、
無意識や意識的にみんなが言葉であいさつ返しをすると勝手に信じ込んで、自分が正しいと信じているのに、自分の言いなりにならずにあいさつを返さない人に疑問や不満を持っても悪く言われない得なあいさつ信者の人達。
大勢が正しいと思わないことや、おかしいと思うことが出来ないことで不快になっている人や、覚醒剤などの様に大勢が悪いとかおかしいと思っているものがないとやっていけないという人のことは中毒者や中毒と言われて悪く言われる。
誰よりもあいさつできる人と言われている人のことを、誰よりもあいさつ中毒な人と呼ぶわけでもなく、コミュ力高いなどと褒める人もいる。
あいさつをしている人は、例外除いて、大切ではない人や、仲間だと思っていない人や、嫌いなだけの人や、どうでもいい人や関わる気もない人にしている場合が多いだろうが、そんな大切ではない軽視している人などにあいさつで関わってあげたと満足している人もいるだろうが、そんな人たちとあいさつだけで関わってあげようとか、あいさつとそれ以外の一部のことだけで関わろうとして、
勝手にそういうやり方だけで関わってやろうとして一方的なことをしているとも言えて、一部の人にだけあいさつで関わっているんだと中毒になっている。
あいさつを初めにして、百発百中で返された人が多いだろうから、これからもごく一部の人にだけあいさつを初めにしてやろうとか、
以前あいさつを返してきたから今後もずっと同じ反応が返ってくると決めつけて、いつもと同じように一部の人に初めにあいさつし続けて、
相手があいさつ返さないと疑問や不満を持ち、あいさつ返しが正しいという信仰に疑問を持たない人もたくさんいるのだろう。
例外除いて、大勢が信じていることや、やっていることを正しいことの基準にしているのだ。
もし、大勢があいさつを返さなかったり、あいさつを返していても、本当はあいさつ返しを正しいとは信じていなくて渋々あいさつしていることを知ったら、多くの人はあいさつを返さないことを許し、おかしいとは思わないだろう。
あいさつを返さな人を白眼視したり奇異な目で見たり、見下したり、嫌ったりする人がいるのは、自分があいさつ返しを正しいと信じているのに、あいさつ返しをしなかったか、大勢と同じことをすることが正しい、素晴らしいと信じているのに、あいさつせずに自分の思い道りのことをしなかったから不満を持ったり、攻撃してきたりするのだ。
あいさつ中毒者というのを、常識中毒者という言葉でも言える。
あいさつも、それ以外のことで喋っているのも、喋った人の心理や信仰心に全く興味がないか、ほとんど興味がない場合もあるのだ。
でも、大勢と同じことをしたという表面的なところだけを見聞して、色んな理由で褒める人もいるのだ。
たくさんの人が「こんにちは」と同じ言葉を言っても同じ意味で言っていることにはならない。
人の心理に興味がなければ、心理の面はどうでもいいことなのだ。
自分の思い道りの返答が帰ってくればそれで満足をしているだけの自己満足をコミニケーションや交流や触れ合いなどと言えばカッコが付くのだろう。
写真を撮る時の自撮り棒についてネットで誰かが、自撮り棒っを使って一人で写真を取ることでいろんな角度から
写真を取ることが出来る利点もあると良く言っている一方で、人と関わることが少なくなるというようなことを言っていた人がいた。
その人は観光地などで他人に写真を撮ってと言うことがなくなることで人との関りが少なくなるというようなことを書いていたのだが、
こういうことを思っているのも、人の気持ちや体調があまり分からない、人の気があまり読めないところがあるからだろう。
観光地にしろ、それ以外の所に行く人の目的や動機を分かっていなかったり、分かる気もなかったりして、色んな理由で他人に喋りかけた時に、自分が望む返答をしてほしいと思っていて、一部の人はそれをコミニケーションで喋ったなどと言うのだろうが、誰かに喋りかけた理由にはなっていない。誰かに喋りかける理由は人によって違うし、喋りかけた相手に何で返答してほしいのかの理由も人によって違うのに、
全てが同じ理由で喋ったり、あいさつしたりなどしているかのようにコミニケーション、人との触れ合いなどという言葉で片づけるようなことをする人もいる。
観光地に行く人には急いでいる人もいるだろうし、みんなが知らない人と喋りたいなどとは思っていないだろう。
知らない人と喋るのが苦手な人もいるのだ。知らない誰かに喋りかけて自分が嫌だとは思わない返答や応対されたら満足をする。
あいさつを他の人よりもたくさんの人にする人を、誰よりもあいさつできる人と言っている人もいるが、誰よりもあいさつ中毒な人とか、誰よりも一方的な人とか、誰よりも勝手にあいさつしている人とか、
誰よりも人の心理や体調を読む気がない鈍い人、などとは言わないのだ。
誰よりもあいさつできる人と言っている人はあいさつ信者だから、あいさつしている人を褒めたいだけだろう。
30.あいさつ信者という障害者や病人 みんな障害者、病人であるとも言える
一般に人間のことについて障害があると言われているのは、身体障害者や知的障害者や人格障害などと言われている人だが、
これは一部の人が勝手にこれらの人に障害者と言っているだけのことだ。
一部の人が体や体以外のところで、正常ではない、おかしいと思っているところがある人の一部に障害者と勝手に言っているのだ。
多くの人は障害者と言われている人とは違って、体にも、それ以外のところにも障害はないと思っているのだろうが、
障害者と言われていない人について、外見や言動や生き方を間違っていて、おかしいと思っているのだが、それを障害や障害者という言葉で言っていないだけだ。
間違っていることをしていたり、正しくもないことを正しいと信じていたり、自分が間違っているのに自分と同じことを信じていない人を
見下したり、逮捕したりしていることをしている人も障害者と言えるだろう。
正しくもないことを正しいと信じているのは誰にでもあることだろう。
そういうことを信じている人を障害者とは、ほとんどの人は言わないが、障害者とも言える。
ごく一部の人だけが障害者と言われているけど、誰でも障害者と言えるのだ。誰でもおかしいところはあるのだ。
私は心の病や精神病と言われているものは信じていないが、この精神病などと言われているのは一部の人が勝手に
人間として言動などや、精神、心がおかしいと思う人に、精神病や心の病、人格障害などと言っているだけであり、
おかしいところなど誰にでもあるのだ。おかしいから精神の病気と言うならば、みんな精神の病気である。みんな体以外でも病気や障害があるとも言えるのだ。
あいさつでも、多くの人があいさつを正しい、あいさつ返しが正しいと信じているあいさつ信者だろうが、あいさつ返しが正しい、あいさつが正しいことだというのは間違っていてウソなのに、それを正しいと信じているのも、
その信じていることを他の人に押し付けているのも異常で間違ったことをしている障害者であるとも言える。
あいさつ信者という障害者で、あいさつ障害者であり、あいさつ信者という病人で、あいさつ病者とも言える。
正しくもないことを正しと信じていることは正常から外れている障害や病気がある人だとも言える。
あいさつを返さない人や、それ以外のことで自分の望む反応をしない人をコミニケーション障害という人がいる。
簡単に言えば、自分が正しいのに自分が正しいと信じていることをやらない人を間違っている人だと言っているのだが、
他人の姿は自分の姿であり、自分も色んなことについて間違っていることを信じていたり、やったりしているのだが、それに気づいていないのだ。
関わる気もない人や、どうでもいい人や、大切ではない人や、あいさつ返しを正しいと信じていない人にあいさつ返しを求めてあいさつをすることを
コミニケーションという人がいるのは、あいさつ信者の人が自分の信仰が正しいと信じて、あいさつを良く言いたいからコミニケーションなどと言い綺麗事を言っているのだ。
自分があいさつだけか、あいさつと世間話ぐらいで誰かと関わってやろうと覚悟を決めて一部の人にだけ喋りかけたことを、
コミニケーションと言えばカッコが付いて美化できるが、自分が許可したことだけでしか人と関わろうとしていないのに、
あいさつしただけや、それ以外の一部のことで誰かと関わったということをコミニケーションという言葉でいい感じに言い、
高評価しているだけだ。
コミニケーションして関わったと思っている相手と、ほとんどのことで関わっていないし、ほとんどのことで関わる気もないのに、コミニケーション能力が高いなどと言ったりして美化して綺麗事を言っている。
自分の望む反応をしない人をコミニケーション障害と言ったり、病気などと言ったりして不満を持つが、自分も色んなことで誰かから不満を持たれているのに気づいていなかったり、気づいていても病気や障害とは言わずに、えこひいき差別しているのだ。
あいさつ信者の多くは、みんながあいさつを返すことを正しいと信じているとか、みんながあいさつ返すし、そうであるべきだと信じているだろうが、それが間違っていることに気づいていなくて、
人の心理が読めていなかったり、あいさつ返さしたい人の心理を読む気すらない人もいるのだ。
相手の心理が分からなかったり、分かる気もないことを、「人の心理が分からない障害」とか、「人の心理を分かる気もない障害」とか
「人の心理を知る気もない障害」とか「人の心理が分からない病」とか「人の心理を分かる気もない病」とか
「人の心理を知る気もない病人の気持ちが分からない病」とは言われないし、障害者や病人とは言われない。
自分が正しいと信じているので、正しいことをしているから障害や病気ではないと思っているのだ。
自分達のあいさつ返しが正しい信仰が間違っていることに気づいていないのだ。
自分が間違っているのに自分と同じことを信じない人を見下したり、嫌ったり、自分の信仰を押し付けることを人格障害などとは言わずに、
一部の人にだけ人格障害などと言って差別しているのだ。
ネットに誰かが「若い人はあいさつ返したくないんですか?押し売りになるから嫌だったらやらないけど」というようなことを書いている人がいた。
この人はあいさつを返されると思って若い人にあいさつを初めにしたら、思い道りにあいさつを返されなくて疑問を持ち、ネットに思っていることを書いたのだろう。
相手がどんな人なのか全くか、ほとんど分かっていないのに一方的に初めにあいさつをして、自分の思い道りにあいさつを返されないと疑問や不満を持ち、少数派のあいさつを返さない人が問題視されて悪く言われやすい。
全くか、ほとんど知らない人に一方的にオウム返しを求めて初めにあいさつをした人の方はおかしいとは思われにくいのは大勢があいさつを正しいと信じているあいさつ信者だからだ。
ガリバー旅行記のガリバーの体の大きさを正常だとすれば、ガリバーの周りにいる人がガリバーより小さいと、小さい人が異常とされて、病気や障害などと言われるようなものだ。
周りにいる人の数が多くて、大勢の方を正常で正しいとするならば、ガリバーの周りにいる人全員の体がガリバーよりも小さいならば、
ガリバーの体の大きさが異常だということにされるのだ。
あいさつでも、あいさつ返しが正しいと信じている人が多いから、あいさつを返さない人が問題視されたり、見下されたり、変な目で見られやすいのだ。
一般に知的障害と言われている人とは別の意味で、誰でも知的障害だとも言えるのだ。
ほとんどのことを知らなかったり、正しくもないことを正しいと信じていることや、間違ったことを感じていることを知的障害と呼ぶと定義付ければ、誰でも知的障害者だ。
あいさつ信者も全然知らない人や、よく知らない人に初めにあいさつしたら絶対にオウム返しであいさつを返されると間違ったことを信じている知的障害だとも言えるし、知能障害などとも言える。
でも、あいさつ信者の方は自分が正しいと信じているので、あいさつをされた人が無反応だったり、会釈をすると疑問や不満を持ち、相手が間違っていて、おかしいと思うのだ。
間違ったことをしていて、正常でもないことのほとんどのことを障害という言葉で言い表わすとおかしいと思う人もいるだろうが、
障害と言わないと自分達に問題があるとは気づきにくいだろう。
あいさつという正しくもないことを大勢が正しいと信じて、知ったかぶっているところがあるし、あいさつ信者のほとんどは、今までにあいさつしてきて百発百中でオウム返しであいさつを返された人が多いだろうから、あいさつ返しが正しい信仰は間違っていないと信じているのだろう。
大勢と同じことをしていることを変わっているという言葉で言い表す人はあまりいないだろうが、あいさつやそれ以外のことで間違ったことを正しいと信じていて、それを他の人にも押し付けていることは、異常で変わっているとも言える。
知らないことを知っていると知ったかぶっていて、頭がいい人、賢い人であるかのように気取っていても、実際はほとんどのことは知らないのだ。
全く知らない人や、ほとんど知らない人に勝手にあいさつして、相手を自分の言いなりにさせようとしていて、
変な異様なことをしているあいさつ信者という障害者の人達とも言える。
多くの人は子どもが学校に行くことを正しいし、しなければいけないことだと信じているだろう。
多分、多くの人は子どものほとんどは幼稚園や学校に行ったら、親や先生が誰と喋れとか、仲良くなれとか指示しなくても勝手に仲のいい子が出来たり、仲は良くなくても休み時間に一緒にいるような相手が自然と出来ると思っているだろう。
休み時間や弁当を食べる時に、いつも一人か、ほとんど一人の人は例外の人であると思っているだろう。
仲のいい人や、それ以外の人と喋ったり、遊んだりなどすることを学び、心の成長などと言って良く言い美化する人もいるだろう。
あいさつも、子どもが勝手にあいさつを返させたいと思った人にだけ初めにあいさつすることや、誰かからあいさつされたらオウム返しを形だけでもしたらいいと思ったり、一部の人にだけあいさつすることを学びや心の成長などと言ったりして、自分の思いたいように思うのだろう。
子どもが自分が喋りたい人にだけ喋り、あいさつを返させたい人にだけあいさつしていて適当に気分次第のことをやっていても、
勉強や学びと言えばカッコが付いて綺麗事にはできる。子どもが一部の人にだけあいさつ返しをさせたいから、あいさつを初めにしていることを
子どももあいさつ障害者だと言ったらカッコが付かないだろう。
一部の大人があいさつ返しが正しいというウソを子どもに押し付け、
子どもも小さい時から鈍いところがあるから、あいさつ返しが正しくもないウソあることが見抜けない人が多いのだろう。
あいさつとは異常で異様なカルト宗教で、ほとんどのことは断って拒否することが許されるが、初めにあいさつされたら、オウム返しでのあいさつ返しか、最低限でも会釈をしないと許さなかったり、疑問や不満を持つ人がたくさんいるのだ。
表面的なものしか見ていないので、あいさつを返したということが同じだから、あいさつをした動機や理由や、あいさつに対する信仰心などの内面の理由も同じだと信じている人や、あいさつをした動機などの心理には全く関心がない人もいるだろう。
あいさつをさせたい相手の全てか、ほとんどに興味もなく、相手の全てかほとんどを無視しているような人たちが、
自分や好きな人にあいさつを返されないと無視されたと自分中心な捉え方をしているが、自分もそんな人だと言うことに気づいていないのだ。
関わる気もない人や大切ではない人や、どうでもいい人や嫌いなだけの人などにあいさつ返しを求めてあいさつして、
あいさつ返しをした人のことを多くのあいさつ信者は
正しいことが出来ていると思ったり、いい人などと高評価したり、関る気もない人にあいさつしていることに思いやりや優しさなどと言う人もいるのだろうが、自分や多数派に甘かったり、自分が正しいと信じていることをやったから褒めるのだろう。
以前、叔母がうちの家に来た時に私の母親が叔母に、私たちと同じ家に住んでいる叔父がスマホを持って行かずに出かけて行った時に、
母親が叔父にスマホを持って行ったことを話したら、
叔母が「甘やかしすぎじゃ、甘やかしすぎじゃ、甘やかしすぎじゃ、ほっときねー」というようなことを言っていた。
他の人なら優しい、思いやりがある、いい人などと思う人もいるだろう。
人間は同じ言葉を同じ意味で使っていないし、同じことに対して同じことを思っていないのだ。
叔母はスマホを持って行く必要はないと思ったから甘やかしていると思ったのだろう。
あいさつの場合、あいさつを返した人のことを、初めにあいさつした人に対しての甘やかしだとはほとんどの人は思うわけがない。
あいさつ信者はあいさつ返しを正しいと信じているので、正しいことをしたと思っているから甘やかしているとは言わないのだ。
あいさつ返したことを、コミニケーション、社会のルール、気づかいだとか言っても、甘やかしているとは言わないのだ。
あいさつ信者は自分が初めにしたあいさつに百発百中であいさつ返しされた人が多いだろうから、初めにあいさつして、あいさつ返されると、自分のあいさつ返しが正しい信仰は間違っていないと自信を深めるのだろう。
誰かの望むことをしたのは同じでも、やったことを正しいとか、いいことだと思えば高評価して、間違っているとか、おかしいとか、悪いと思えば悪評価するのだ。
誰でも根拠がなくても自分が正しいと信じているところがあるのだろう。
31.閉鎖的な自分の世界に引きこもるあいさつ信者たち
例外除いて、あいさつ信者は関わる気もない人や、大切ではない人、どうでもいい人などの一部の人にあいさつをさせたがっているが、
あいさつ信者を良く言う人は、コミニケーション能力が高いなどと言っている人もいるが、
あいさつさせたい相手と、あいさつ以外で関わる気もなかったり、あいさつと世間話程度で表面的な関りしかしていなくても、
人と関わる能力が高いなどと言われて、良く言われたりする。
一部の人にだけ、色んな理由であいさつをしている人はコミニケーションを取れているとか、開放的で開けているとか、思う人もいるのだろうが、閉鎖的とも言えるのだ。
形だけ人にあいさつしたり、好きな人にあいさつしていても、あいさつだけか、あいさつとそれ以外の一部のことでしか関わっていないのに、
開放的で開けていて、社交的でコミニケーション能力が高いなどと良く言われて得するところがあいさつ信者にある。
関わる気もない人に嫌々あいさつしていて、いかにも表面的なことをやっていて、あいさつ以外のことで関わる気がなかったり、あいさつとそれ以外の一部のことでしか、あいさつした相手と関わる気もない人は閉鎖的なあいさつをしているとも言える。
表面的にうわべだけ大勢と同じように一部の人にだけあいさつして、人と人が関わったということにしておきたいのだろうが、
関わる気もない人にあいさつなどで喋りかけたり、形だけの返答を求めるようなことをして、自分が望む返答をしてほしい、自分の望む態度を取ってほしいと一方的で自分中心な閉鎖的な自分の世界に引きこもっているところがある。
誰かにあいさつしたり、喋りかけて、自分が正しいと思う反応したり、自分に都合のいい反応が返ってくると、例外除いて、
相手とコミニケーションを取ったとか、正しいことが出来ていると思って自己満足したりなどするのだろうが、相手の心理に全くかほとんど興味、関心がなかったり、相手の気持ちや信仰心などを勝手に決めつけて間違ったことを思っているのに、自分が感じたことが正しいと勘違いして、間違ったことを思っていて自分の心の中で自分の思いたいように思っているのは、
閉鎖的で閉じられた自分の世界に引きこもり、自分の思いたいように思っているだけなのだ。
世の中では人に喋ることで悪いと思わないことの多くにはコミニケーションなどと言う場合が多いようだが、
人に喋りかけたり、あいさつした本音や本当の信仰心を隠して、自分や大勢がやっていることなどを美化して、綺麗事を言いたいだけだろう。
一部の人にだけあいさつしてほしい本音や、自分独自に作っているあいさつの決まり(ルール)については隠していて、
あいさつしてほしい相手に対して、何であいさつしたのかの理由や目的、動機、あいさつの信仰心については言っておらず、
自分の本音については秘密にして隠していて、あいさつのことにおいて相手に対して開いていないとも言えるけど。
あいさつ信者もあいさつ非信者も、性は秘め事などと言うが、性のことだけではなくて、自分に関するほとんどのことについて、
あいさつしてほしい人や、あいさつしてほしいと思っていない人に対しても自己開示などしていなくて閉鎖的、排他的なのだ。
表面的に形だけ一部の人にあいさつしただけで開放的で相手と関わりコミニケーションを取ろうとしている人であるかのように
良く言う人もいるのだからバカげている。
家の中に長期間いる人を引きこもりなどと呼んでいるが、家の外に出ている人も閉鎖的なところがたくさんあり、
家の外に出て精神的に引きこもっている人たちが社交的やコミニケーション能力が高いなどと言われている場合もあってバカげている。
「あの子と関わってあげてもいいけど条件付きだぞ。無条件ではない。
あいさつで関わってあげよう。初めにあいさつするから、絶対に言葉でオウム返しして」と相手に望んでいる人のことを
人と関わる能力が高いだとか、あいさつはコミニケーションなどと言って、おかしいことを言い、間違ったことを思っている人もいる。
「あいさつだけで関わってあげる。毎回会うたびにあいさつを返させたいから、あなたに初めにあいさつするから、言葉であいさつ返して」という
信仰や欲求をあいさつ信者が持っていても、ほとんどの人はあいさつ信者だろうから、おかしいとは思わないのだろう。
あいさつ信者は、あいさつ返しは正しいことで、人として当たり前のことと思い、それをおかしいとは思わない。
あいさつ非信者が形だけ渋々あいさつをしていても、あいさつ信者は相手があいさつを返すことを正しいとは信じていないということが分からない。
でも、自分の思い道りにあいさつを返してきたり、初めにあいさつしてきたら自分と同じことを信じているんだと勘違いする人もいるのだろう。
自分の内面で信じていることは正しいことなのだと信じ、誰かに初めにあいさつして、毎回あいさつを返されたら、あいさつは正しい、
あいさつ返しは正しい、自分が正しいと自信を持つのだろう。
誰かにあいさつや、あいさつ以外で喋りかけたり、誰かに何かを働きかけたから、社交的やコミニケーション能力が高いと言って良く言うのは、
人が誰かに喋りかけたり、あいさつしたり、働きかけた動機や心理、理由、信仰心が分からないところがあるし、分かる気もなかったりするから、
適当な個人的評価で自分が正しいと思うことをした人や、大勢と同じことをする人を褒める場合が多いのだろうけど。
あいさつをしたからコミニケーション能力が高いなどと言っているのはおかしいし間違っているのだ。
関わる気がない人にあいさつしている場合や、相手をバカにしているからあいさつしている場合もあったりするのに、
それをコミニケーションなどと言ったりしているのはおかしい。
あいさつされたから嫌われていないけど、あいさつ返さない人はあいさつを初めにした人を嫌っているなどと信じていたり、
みんながあいさつを正しいと信じていると信じ込んでいたりなどして、閉鎖的な自分の内面の世界に引きこもりながら、
形だけのあいさつをしている人の方が多いだろうに、あいさつをコミニケーションや社交、社会のルールなどと言えば、
大勢と同じように一部の人にあいさつしている人を美化できて、素晴らしい人だと思う人もいるのだからバカげている。
あいさつ信者の多くは、あいさつを返させたい相手の内面を知ろうとはしていなくて、自分の内面を知ってほしいところと知ってほしくないところがあり、あいさつのことにおいては自分があいさつを返されたいと思っていることを言葉で言わなくても知ってほしくて、
相手があいさつを返したら、相手はあいさつを正しいと信じているんだと思ったり、自分のことを嫌っていないと思ったりなどして勘違いしている人もいるのだろう。
あいさつ以外でも、誰でも閉鎖的なのだ。
ごく一部の人とだけ、形だけや、それ以外のことで関わり、関わっている人とは一部のことでしか関わっていなくて、その関わっている人のほとんどとは関わっていないのだ。
関わっている人の全てと関わりたいと思っている人などほとんどいないだろう。
AさんがBさんの一部と関わりたいと思っていて、Bさんとセックスしたことがなくて、Bさんとセックスをしたいと思っていて、
Bさんをセックスに誘ってもAさんから断られたら、Aさんとセックスすることは出来ないのだ。
ナンパやセックスの誘いをした時に断られたら不満を持つ人がいるが、あいさつと同じで、自分が相手に求めていることを相手がやらないから不満を持ち、我がままなだけで、相手のことを考えていないのだ。
でも、あいさつの場合は人によっては関わる気もない人や、どうでもいい人などにオウム返しや、最低限の会釈を求めてあいさつをしたのは、
相手のことを考えて気を使ってあげたなどと言う人もいるのだろうが、
自分のことを良く言いたかったり、あいさつ信者が自分と同じあいさつ信者を良く言いたいだけだろう。
関わる気もない人や、どうでもいい人のことも、好きな人のことも全く分かっていないか、あまり分からないだろうに、
相手のことを考えたと言えばカッコが付くだろうが、相手のことを分かっていないのに勝手に相手のことを決めつけているだけの自己満足をして良く言っているのだろう。
私みたいな奴があいさつはおかしい、間違っていると言い、それが大勢に広まらなければ、お互いが相手と関わる気もないのに形だけあいさつしあったり、片方があいさつ非信者なのに、あいさつ信者はあいさつをされることを求めて、思い道りにならなければ疑問や不満を持ち、
人によっては攻撃してきたり、不満を言うようなことはなくならない。
人との関り、言葉を交わす、あいさつを交わすとか、コミニケーションなどとカッコ付けて綺麗事を言い、自分の閉鎖的な閉じられた世界に巻き込みたいのだろうが、自分はほとんどのことに合わせることはないのだ。
あいさつはあいさつ返しを求める大勢のあいさつ信者の熱狂的なカルトあいさつ宗教だとも言える。
宗教の押し売りはダメと言われていても、あいさつは宗教と言われていないから押し付けてもいいという信仰だろうが、
宗教と言われていないものでも、ほとんどのことは押し付けたらだめだと思っている人の方が多いだろうが、あいさつにおいては、なぜかそれが許されるのだ。大勢があいさつ信者だから、あいさつしてあげたら、あいさつ返せという決まりを信仰することをおかしいとは思わないのだろう。
金でやっていく世の中も同じで、絶対に値段ついているものに金を払え、税金や年金を払えと強要していて、金でやっていく世の中自体が不正なのに、それに気づていない人が多く、間違っていることをしている人の方が正しい人にされていて、不正で閉鎖的な金でやっていく世の中に全ての人を巻き込んで、金でやっていく世の中という不正な社会に加担させたいのだろう。
あいさつ信者や金でやっていく世の中が正しいと信じている人は、自分と同じことをしない人はあいさつや、金社会という正しいことを受け入れない閉鎖的で頑固な間違っている人とか思っているだろうが、自分たちの方が間違っているのだ。
他人に頑固だとか意固地だとか、頭が固いとか言う人は自分にもそういうところがあり、他人の姿は自分の姿なのだ。
32.赤ちゃんはコウノトリが運んできたとか、あいさつのウソと綺麗事
赤ちゃんはコウノトリが運んできたなどと言う場合があるが、もちろんウソであり、人間の赤ちゃんが出来たのは、セックスやエッチ、性行為などと呼ばれていることをやったか、体外受精をやって
妊娠して赤ちゃんが出来ているということはほとんどの人は分かってっていることだ。
コウノトリが赤ちゃんを運んできたと言っているのは綺麗事で言っているだけだ。
あいさつをされたら、オウム返しであいさつをしなければいけないと信じている人がたくさんいたり、オウム返しをしなくても、最低限、会釈をしなければいけないと信じていることは正しいことであるとか、人としてすべきことだと信じている人がたくさんいても、あいさつをしなければいけないということはウソだ。
あいさつをしている目的や理由や動機はみんなが同じ理由や同じ信仰でやっているわけではないのだから。
あいさつをしている人の本当の理由、心理、信仰心を全くか、ほとんど知らないのに適当に社会のルールやコミニケーションなどという言葉で
言い表して片づけている。
あいさつが出来る人は素晴らしいなどと高評価している人がいるが、
褒められている人たちが、あいさつを誰がどうゆう目的や理由で一番初めにやりだしたかを知らないだろうし、
多くの人は知る気もないだろう。そんな人たちがごく一部の人にだけあいさつ返しを求めてあいさつをするのも、
自分に都合のいいようにあいさつを利用して使っているだけだ。
教育者と言われているような先生があいさつ運動をしているのもいい加減なことをしているだけだ。
今までは綺麗事がまかり通ることが多かったのかもしれないが今後はそうでもないだろう。
今までの時代は、大雑把に言えばウソの時代だ。
今後は今までほどウソはまかり通らないだろう。
あいさつが正しい、あいさつを初めにされた人は、言葉であいさつ返しをしなければいけないというウソの決まり事(ルール)
もまかり通らなくなるだろう。
金でやっていく世の中も不正のウソ社会だが、この金でやっていく世の中も今後はなくなり、金がなくても生きていける世の中になる。
世の中や社会などと言われている所のありとあらゆることに金が間接的にも直接的にも関わっているが、
本来全てのものに値段などついていないことは考えなくても分かることだが、みんなで助け合いをすることが出来ていなくて、金がないとやっていけなくて死活問題で、多くのものに値段を付けてもいいと自分に都合のいいように信じている人の方が多いのだ。
今までは一部の人の人生や信仰心や心理の一部は本やメディアや歌や映画などを通して知られてきたけど、ほとんどの人のことは知られていなかったが、今後はもっと知られていくだろう。
あいさつ信者やあいさつ非信者も、あいさつを初めにされたら、声が出る人はみんがあいさつ返すと信じている人が多いだろうが、
声が出て耳が聞こえる人のみんながあいさつ返すわけでもないし、
みんながあいさつを正しいと信じているわけではないことも知られていくことになるだろう。
33.組体操の扇とあいさつ
扇という組体操があるが、あいさつも体操の扇みたいなものだ。
AさんとBさんとCさん3人で扇をやる時に、Bさんが真ん中で、AさんとCさんは両端の位置にいたら、
AさんはBさんが嫌いでBさんの手を触るのを嫌がったので、Cさんを真ん中にしたらAさんは嫌がらなかった。
あいさつもこんな感じで、嫌いなだけの人や見下している人や関わる気もない人やどうでもいい人に、あいさつという形で相手をしてあげたので、
絶対にオウム返しであいさつ返させたいか、最低限会釈をさせたいと思っていて、あいさつが真ん中のCさんという感じだ。
組体操の扇でAさんは真ん中のCさんと手をつないでCさんを通じてBさんと一緒に組体操の扇をかろうじてやっているのだ。
もし、真ん中にCさんなどの別の人がいなければ、AさんはBさんと一緒に組体操などしていないようなものだ。
必要最低限な関りなどと言ったりして、どうでもいい人や、嫌いなだけの人、仲間だと思っていない人、大切ではない人に
あいさつを初めにさせたがったり、あいさつを返されることで、この人たちと繋がり、関わったということにしておきたい自己満足をしているあいさつ信者の人達。
扇を3人でやったことを誰かがコミニケーションや触れ合いや、繋がりなどと言って良く言い高評価しても、扇をやっている人の全てか、そのうちの一人がやりたくもないのに嫌々やっていてもコミニケーションとか、
ふれあいや社交などと言えばカッコが付いて綺麗事にして、美化できる。
ほとんど関わる気もない人に、あいさつだけか、世間話や、食べ物などをあげたりなどだけで関わってあげると自己満足で誰かに働きかけて、
自分が望まない態度を取られたり、自分が嫌だと思う言動を相手から取られたら嫌がる。
性的なことでは関わりたくないと思っている人に、性的な言動を取られるから不満を持ったり気持ち悪がるのだ。
形だけあいさつをして、かろうじて関わったことにしておきたいという表面的でうわべだけのことをしていても、
何であいさつを一部の人にだけにしているのかについては、突っ込んで知りたいとも思っていなかったり、あいさつしている本当の理由を知らないのに知っていると思っている人もいるのだ。
扇のCさんがあいさつみたいなもので、嫌いなだけの人や、関わる気もない人、どうでもいい人と、あいさつを通して関わるあいさつ信者の人もたくさんいるのだ。
34.近所で私にあいさつしてきた中学生ぐらいの男の子の怪しいあいさつ
以前、夜の6時頃に私が住んでいる家の玄関の外側の所に私がいた時に、
若い男の子の声で「こんばんわ」という声がしたので振り向いたら、
数メートル離れた私の住んでいる家の庭の前の道路を中学生ぐらいの人が一人歩いていて、 私は無言で頭を少し下げた。
後日、夜6時代ぐらいに庭で私が剪定された木の枝などをゴミ袋に入れている時に、庭の前を通りすがった人が「こんばんわ」と言ってきたので、頭だけ下げておいた。
そのあいさつをしてきた人は以前、夜に私にあいさつしてきた中学生ぐらいの男の子だった。
その後、私がゴミをゴミ捨て場に持って行って、ゴミ捨て場から家に帰っていく時に斜め対向に誰かが2人歩いていて、
私の近くに来た時に、「こんばんわ」と言った。そのあいさつをした人の声を聞いて分かったのだが、さっきあいさつしてきた
男の子の声だった。その子の隣には、その子より背の低い子が一緒に歩いていて「こんばんわ」と言ってきた。
その後、すぐに私は私の住んでいる家の庭に入った。
その後に少し時間が経ってから、斜め後ろから、さっきの中学生ぐらいの男の子の声で「こんばんわ」という声が聞こえてきた。
さっき通りすがった後、すぐに来た道を戻ってきたのだろう。
この3回のあいさつ以外に、中学生ぐらいの男の子は私が庭にいる時にもう一回あいさつしてきていて、4回もあいさつしてきている。
私の推測だが、この男の子は自分があいさつした時に私が言葉であいさつせずに、頭をさげたことをバカにしていたり、
面白がって、わざと何回もあいさつしている可能性もあると思った。
その時、外は暗かったが私の家の前には街灯があり、人の姿形は分かる明るさはあったので、その男の子は私が庭にいた時に3回あいさつしてきているが、あいさつした相手が同じ私だということを分かったうえで、
わざとあいさつしてきた可能性があると思っている。
この日のことか、別の日か忘れたが、私が夜に庭の暗がりの中で、蛇口から水を出しながら何かを洗っていた時に、
後ろから「こんばんわ」という声が聞こえたので振り返ると、
さっきの中学生ぐらいの男の子がいたので、形だけ無言で頭を下げておいた。
誰かが、いかにも何かをやっている作業中でも、それを中断させても、
あいさつを言葉で返させたいか、最低限会釈をさせたかったのだろうか?
この中学生ぐらいの人は、近所の中年の女の人で、いかにも惰性で形だけあいさつしている人で、人の目を見ずにあいさつする人がいるが、
今まで初めにあいさつしてきたら、みんなが言葉であいさつを返したから
他の人も同じことをするだろうと決めつけて知ったかぶり、相手の心理、信仰心や体調を何も考えていないの丸出しであいさつを初めにしてくる一方的な人みたいに、相手の心理など分かってもいないし、分かる気もないのに、自分にあいさつ返してほしいという欲求や信仰心を押し付けているだけで、あいさつしている理由が人と心理の部分で関わる気が全くか、ほとんどない人みたいな感じで、初めにあいさつしたら、いつもオウム返しが返ってくると信じて、自分の信仰心をまかり通らせたいだけの機械的なあいさつしている感じだ。
多くの人のあいさつはこんな感じだろうが、あいさつ返しは言葉であいさつ返しをしなければいけないという信仰心が
正しいと信じているだけで、相手の気持ち、心理、信仰心を知らないし、知る気もなく一方的なあいさつをしている感じがした。
あいさつをする人を褒める人ならば、知らない人に積極的、能動的にあいさつしていて素晴らしくて、コミ二ケーション能力が高いなどと褒める人もいるだろう。
この男の子のあいさつは、みんながあいさつしたいなどとは思っていないことを小さい時から分かっていないといういい例だろう。
この男の子が行っていたであろう同町内の小学校の校舎に、笑顔であいさつと書いていたような気がする。
笑顔が漢字だったか、ひらがなだったか覚えていないが、
笑顔であいさつをしろと誰かに言われていても、誰も常に笑顔であいさつなんかしないだろうし、他の子どもも笑顔であいさつしろと言われても、無表情であいさつをする場合が多いだろうが、あいさつしたところだけを持ち出して、子どもは大人からあいさつを教えてもらったなどと言う人もいるのだろうが、人が決めたほとんどの決まりを大人も子どもも、ほとんど守らないだろうが、子どもがあいさつをごく一部の人にしていることは大人の真似をしただとか、大人が教えてあいさつをしているなどと思う人もいるのだ。
35.不正アクセスとあいさつ
昔と違って、日本人や外国人の多くもパソコンやスマホなどを使ってインタ―ネットやアプリなどを使うようになったり、
SNSやブログなど色んなWebサイトなどを利用している。
SNSやブログWebサイトなどでアカウントを作る時などに自分の名前や住所、生年月日などを入力している。
不正アクセスや、情報の漏洩などと言われているものがあるが、
自分の個人情報などが、自分が知らない所で他の人に使われていたり、見られていたり
して自分に関することがどこかに漏れていても気づいていない人もいるのだ。
自分の中では、パソコンやスマホなどを使っている時に、いつもと同じように使えているとか、
特別おかしいと思うようなことがないから、不正アクセスはされていない、自分のパソコンやスマホに入っている写真などは、
他の人には知られていなくて漏れていないと思い込んでいても、実際は自分が知らないだけで、不正アクセスされているのだ。
私も不正アクセスされていたがすぐには気づいていないのだ。
嫌がらせや、家に誰かが侵入していることも、それをされて日数が経って後々、気づいている人もいれば、
ずっと気づいていない人もいるだろうし、やられてからすぐに気づいている場合もあるだろう。
私の家の隣人2軒の人たちが、私の家から出てくる音に不満を持っていて、
半年以上や一年以上にわたって音の嫌がらせをしてきているのに私は気づいているが、
私と同じ家に住んでいる他の2人は嫌がらせで音を出されていることに気づいていないと思う。
車のドアを短時間の間に数回バン、バン閉めることなどをしているのだが、私の親や、近所の他の人にもその音は聞こえているだろうが、
多分、ほとんどの人はその音を嫌がらせの音だとは思っておらず、車に乗り降りする時にドアを閉めた音だと思っていると思う。
あいさつも同じで、あいさつされたから嫌われていないと思っている人や、
あいさつを高評価してコミニケーションだとか社会のルールだとか、
いい感じに良く言う人がいるが、あいさつをしている一人一人の目的や動機や理由に、全くかほとんど分かっていないと思う。
あいさつを返されたいから初めにあいさつしたのに、あいさつを返されなかった時に、あいさつを返さなかった人や、オウム返しをせずに会釈だけをした人の
心理や理由も分かっていない場合が多い思う。
あいさつ返しは正しいという信仰を持ち、あいさつ返しをされないと嫌われているか、嫌われている可能性があると
信じている人がいるが、みんながあいさつ返しを正しいと信じていないことを分かっていなかったり、
知らない人にはあいさつをしなくてもいいという信仰を持っている人がいることを知らないのだ。
勝手に目に見えない内面で色んなことを思い、思ったことが正しいことではなくても正しいんだと信じている場合があるのだ。
不正アクセスなどをされていることに気づいていないように、あいさつにおいても、多くの人があいさつについて何を信じているのか、何を思っているのかに
気づいていないところがあるのだ。
不正アクセスされていても気づいていない場合があるように、あいさつされたからといって、あいさつされた人が嫌われていないということにはならないし、あいさつ返さなかった人があいさつを初めにした人を必ずしも嫌っているということにはならない。
自分が正しいと信じていること、自分が正しいと思い込んでいることが間違っていて、正しくもないことを信じている場合もあるのだ。
あいさつが正しいとか、あいさつされたら言葉であいさつ返しをすることが正しいという信仰は間違っていて不正だ。
どうでもいい人や、嫌いなだけの人や大切ではない人、
仲間扱いしていない人などに絶対に100%あいさつ返しをさせようとしていることは人間の正しさであるという信仰は間違いで不正だ。
あいさつを返さない人をダメ人間と言っている人もいるが、みんながあいさつを正しいと信じていないのに一方的に絶対にあいさつを返させたいと思い、勝手にあいさつしてきて、自分の思い道りにあいさつ返されないからと、あいさつを返さない人を見下して、
蔑み、格下に見る低俗な悪質あいさつ信者もいるのだ。
36.あいさつと人のせいにする人
私の母親づてに聞いたのだが、私の母親の知り合いが、ある人から買い物に行こうと誘われて、買い物に行くのに乗っていく車は
誘われた方の人の車で行こうと誘ってきた人が言ったらしく、誘われた方の人は断ることが出来ないと断らなかったらしく、
後から影で不満を言っていたみたいだ。
こういう不満は大勢の人が影で言っているだろうがやりたくないことを断ることが出来るのに、色んな理由から断らずに、後で影で不満を言ったり、本人の近くで不満を言う人もいる。
「こんなこと言ってきた。信じられる?」というようなことを思っているのならば断わることも出来ただろうに、
自分可愛さから自分のことを問題視する人はあまりいないのだろう。
例外除いて、相手の誘いを断ることで殺されると思っているわけでもなく、
嫌がらせされると思っているわけでもないだろうに、勝手に相手の誘いを受け付けて、後から不満を言う勝手な人達。
行きたくない、やりたくないのなら断ることが出来るのに勝手に承諾して、
本人のいない影で不満を言い、不快になったのを相手のせいにしている人もいるのだ。
誘ってきた人の方を図々しいとか、厚かましいなどと言い、悪評価してバカにしている人達も、
誰かからバカにされていたり、図々しい、厚かましとか思われているのだ。
影でコソコソ悪口を言っている人が、自分も影で悪口を言われているのに気づいていなかったりするのだ。
他人が何を思っているのか、ほとんど分かっていないし、分かる気がない人が多いと思う。
人に図々しい、厚かましいというようなことを思うのは、自分もそんな人間なのだ。
人が嫌がることをやっている人に不満を持つ人が自分も人や人以外の生物が嫌がることをやっているのだ。
嫌がられていることに気づいていない場合が多いと思う。
あいさつでも、関わる気もない人や、大切でもない人にあいさつを絶対に100%返されると勝手に信じ込んで、
自分の思い道理にあいさつ返されないと不満を持つ人が、あいさつ返さなかったことが信じられないと思っている人もいるわけだ。
関わる気もない人やどうでもいい人に形だけあいさつしている自分をおかしいとは思わずに、あいさつしてほしいのにしなかった人を
問題視したり、悪者扱いしたりして、自分のあいさつ返しが正しい信仰を正当化させている。
37.日本人の裏の顔と表の顔 みんな内弁慶とも言える
「日本人は相手のいいところは気付きやすくて、自分のいいところは気付きにくい」と言っている人がいるが、
「いいところ」という言葉をみんなが同じ意味では使っていないのだ。
人にいいところはないとも言えるし、悪いところもないとも言えるのだ。
いいところという言葉は、自分以外の誰かに好かれているところがあったり、役に立っているところがあるという意味で使っている人が多いだろう。
誰かが好きなところや、誰かの役に立っているところは、他の人や人間以外の生き物から嫌がられていたり、役に立っていないところだったりするのだが、良く思われているところだけを持ち出して、いいところと言っているのだ。
例えば、家族に料理を作っている人や、飲食店で客に料理を作っていたり、家のペットに食べ物をあげたりしていて、
その料理、食べ物に動物が入っている場合も多いだろうが、動物を食べていることを嫌がる人もいる。
誰かが動物が入っている料理を喜んでいて、作った人が人の役に立っていると言っても、他の誰かは嫌がっているのだ。
「日本人は小さい時から、出る杭は打たれるとか、控えめにとか、出しゃばらないようにという教育をされてきている」と言っている人がいたり、
日本人は謙虚、控えめ、つつましやかだとか言う人もいるが、言葉は言葉遊びだからどうにでも言えるのだ。
自分の思っていることを一つでも言っていないことを謙虚、控えめ、つつましやか、出しゃばっていないと言うのなら、
日本人も日本人以外も誰でもそういう人であるとも言えるし、
自分の思っていることや、やりたいことを一つでも言ったり、やったりしていることを、謙虚ではない、控えめではない、
つつましやかではない、出しゃばっていると言うとすれば、誰でもそういう人だということになるのだ。
自分の思っていることを言いたかったのに、何かしらの理由で言わなかったり、本人がいない影で言っていたり、本人の近くで遠まわしな言い方して言っていたりなどして、自分の思っていることを言っているところもあるのだ。
それを分かっている他の人が、日本人のことを影口民族と言っていたりする。
奥ゆかしさ、謙虚、控えめ、つつましや、出しゃばらないなど言うと聞こえがいいだろうが、陰口を言っている、影で悪口を言っている、陰湿、
陰険などと言ったらカッコが付かないから、あまり言わないのだろう。同じことを言うのでも、言い方を変えると思うことが変わるのだ。
日本人の中には気に入らない人に影で嫌がらせしている人がいることを悪い感じに言わずに良い感じに言うとすれば、「日本人は控え目で、謙虚でつつましやかで、出しゃばったりしない人だから、
気に入らない人がいて、不快になっても、その不快な気持ちを本人の目の前で言わないし、本人の目の前で本人の物を壊したりしないし、本人の目の前で本人の家や畑の花などの植物を引っこ抜いたり、踏んづけたり、足で踏んで花の茎を折ったりはせずに、本人の目の前や、監視カメラがあるところでは嫌がらせをしない人なのですね」
悪い感じに言えば、「日本人は謙虚、控えめ、つつましやかではないところがあって、出しゃばるところがあるので、
気に入らない人がいて、不快になっても、その不快な気持ちを本人の目の前で言ったり、本人の目の前で本人の物とかを壊したりせずに、影で悪口を言ったり、影で陰険、陰湿に嫌がらせしていたりしているので、
本人の目の前で本人の家や畑の花などの植物を引っこ抜いたり、踏んづけたり、足で踏んで花の茎を折ったりはせずに、
本人の目の前や、監視カメラがあるところでは嫌がらせをしない人でコソコソしていて、影で出しゃばっていて、多くの人の前や本人の前では、自分の本心や本性を隠していて、自己主張が強いところがあるのですね」
と言えばカッコが付かないだろう。
内弁慶という言葉があるが、家では強がって強気だが、外ではそういうところがない人というような意味だろうが、
実際は内弁慶と言われていても、子どもが家で母親に対しては強気であっても、父親のことは怖がっていて、父親には強気な態度はとらなかったり、妻がある時には夫に対して強気でも、別の時には夫に対して強気ではなかったりとか色々だろう。
外に出ても、ある人達には強気だったり、威張っているけど、別の人達には威張ったりしないのだ。
人によって態度を変えているなどと言う人がいるが、誰でも人によって態度を変えているが、そのいい証拠が日本人の多くは、人によって喋り方を変えていて、ため口で喋ったり、敬語で喋ったりするのだ。
礼儀がなっている、躾がなっていると言えば聞こえがいいが、明らかに人によって態度を変えているいい例だろう。
人と話すときの内容も、ある人たちとは恋愛やセックスや出産の話をするのに、他の人にはその話題は出さないことも
人によって態度変えているとも言えるし、ほとんどの人にあいさつしないのに、一部の人にはあいさつしているのも人によって態度変えている。
「あいつ上にはへこへこなんだよ」と言っている人がいるのも、人によって態度が違うと言っているのだ。
内弁慶というのを影弁慶とも言うみたいだが、この言葉の定義は家の中だけで強がって、威張っているという意味だけではなくて、
別の意味でも誰でも影弁慶や内弁慶だとも言えるだろう。
その別の意味は、自分が正しいと思っていることを
堂々と本人や大勢が見聞できるところでは本心、本音を言わずに、影で本心を言っていたり、内面で自分が正しいと信じているようなとこ。
本人や大勢の見聞できる所で自分が正しいと信じている本音を言うと不満を言われたり、攻撃されたり、裁判を起こされたりするのが嫌だから、
本人や大勢が見聞できないところで本音を言っているのも影弁慶、内弁慶とも言えるだろう。
本人や大勢の前では言わなくても、嬉しいことでも、嫌なことでも、人をバカにするようなことでも、影では自分の本音を言っていたりして、内弁慶、影弁慶である。内弁慶や影弁慶を裏弁慶(うらべんけい)とも言えるだろう。人間には表の顔と裏の顔があるのだ。
日本人のことは内弁慶民族とか、裏弁慶民族とか、影弁慶民族とも言える。
本人や大勢がいないところでは本音の言動を取ってたり、大勢の前では本音を言っていても本人の前では言っておらず、
裏の顔があるのだ。日本人だけではなくて、日本人以外も内弁慶なところはあるだろう。
人類は誰でも影で一部の人にだけ本音を言っているところがある内弁慶だとも言える。
影で本音を言っていたり、本心をまかり通らせる行動をしているから、影でどんな言動を取っているのか分からない所があるのだ。
セックスやオナニーなど性的なこともいい例で、例外あれど他の人の前ではやらなかったり、言わなかったるするので、
どんなことしているのかが分からないのだ。
自分が正しいと信じていることで言いたいことを他の人に言わせたがったりして、自分では言わなかったりするのも、内弁慶、影弁慶だ。
一見、控えていて、奥ゆかしく、つつましやかなどと良く思われそうだが、
自分のやりたいことを他の人にやってもらうことで、自分は何もしていないように見えて、自分の代わりに他の人にやってもらっていて、
自分が正しいと信じていて強気には見えなくても、内面では自分が正しいと信じていて強気なのだ。
両思いの人とか、家族、親戚や、見下している人などには強気なところがある人は多いだろう。
家族の前とか、仲のいい人の前では強気なところがあっても、仲のいい人以外に強気な態度を取ると、「調子乗っている」「勘違いしてる」「でしゃばり」「それは○○な人が言うこと」などと
他の人が不満を持ったり、言ったりしてくる場合がある。
人を同じ人間だとは思っていなかったり、人を上下に分けていたりしている人はたくさんいるだろうから、人によって態度を変えることを望んでいる人も多いだろうに、自分が周りにいる人に同じ言動を取ってほしい人が、人によって態度を変えると不満を持つ人もいる。
あいさつ信者であいさつを返させたいから、あいさつを初めにさせたがっているのに相手が初めにあいさつをしてことなかったり、
あいさつ返されたいのにあいさつ返しされないことで影で不満を言ったり、影から嫌がらせをしてきたりする人も、
本人の目の前ではあいさつが正しい信仰を持っていることを言葉で具体的に言って説明することをしないのも、内弁慶、影弁慶、裏弁慶という感じだ。あいさつを返させたいから、先にあいさつをするという態度を取っても、あいさつに対する信仰心の具体的な信仰については言わずに隠しているのだから。
私が家でこの文章を書いていた時に家のチャイムが鳴り、私の母親が玄関に向かって行った。
郵便局から郵便配達員が再配達の荷物を届けに来たのだが、私の母親が玄関を開ける前に配達員の人が先に引き戸の玄関のドアを開けていたみたいで、
私の母親が「逆です」と言った。
うちの家の玄関の引き戸のドアは、外側から見た時に左側のドアの方を開ける人がほとんどなのだが、一部の人は右側から開ける。
この時の配達員の人は家の外側から見て右側のドアを開けたのだろう。私の母親は以前にも玄関のドアの開け方に不満を言っていて、
書いておかないとダメだなというようなことを言っていた気がする。
玄関のドアは左側から開けてくれと書いておかないといけないと言っているのだろう。
私の母親は家の玄関の引き戸は家の外側から見て左側から開けなければいけないと信じているのだろう。色んな信仰心があるのだ。
私がこの郵便配達員の文章を書く時にグーグルで「ゆうパック 配達員」と調べていたら、関連キーワードに「ゆうパック 配達 ひどい」とか「郵便局 配達員 態度悪い」とか「配達員 クレーム 逆恨み」とか
「ゆうパック 感じ悪い」とか「郵便配達員 変な人」という言葉が出てきた。
どの職業や、そこで働いている人や、それ以外の人達も人間の外見、見た目や、言動に不満を持たれるのはよくあることだろう。
政治家に対する不満はメディアが取り上げるので、多くの人は政治家が嫌われていたり、不満を持たれていることをよく知っているだろうが、
ほとんどの職業や、そこで働いている人や、それ以外の人が不満を持たれていたり、嫌われていることはあまり知られていないだろう。
郵便配達員の人にネットで不満を書いている人がいることも、ほとんどの人は知らないだろう。
郵便配達員の誰かに変な人と言っている人もいるが、私の母親からドアの開け方を逆ですと言われた配達員の人も、
私の母親のことを変な人だと思っている可能性もあるだろう。
あいさつでも、あいさつ信者はあいさつを返さない人に変な人とか、おかしいとか、感じ悪いと思う人の方が多いだろう。
あいさつ非信者からしたら、あいさつ正しいと信じているあいさつ信者の方をおかしいとか、変だとか、間違っていると思っているのだ。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます