くるみの世界

金でやっていく世の中や、あいさつが正しいとされていることは間違っているということを主張したいです。

脱あいさつ あいさつは正しくない14

2022年10月22日 | 脱あいさつ

目次
第1章から第9章へのリンク
第10章から第12章へのリンク
第13章から第20章へのリンク
第21章から第23章へのリンク
第24章へのリンク
第25章から第28章へのリンク
第29章から第37章へのリンク
第38章から第47章へのリンク
第48章から第52章へのリンク
第53章から第56章へのリンク
第57章から第59章へのリンク
第60章から第67章へのリンク
第68章から第75章へのリンク
76.自分が正しいと思い込んでいるところがある人間
77.人のせいにする人達とあいさつ
78.学校の先生の罪、親の罪、みんなの罪
79.日本人は自分を基準に物事をとらえる所がある
80.自分の姿を相手に見ているあいさつ信者 .
81.脱あいさつ、脱学校(だつがっこう)、脱金社会(だつかねしゃかい)
第82章から第86章へのリンク
第87章から第93章へのリンク
第94章から第99章へのリンク

 

76.自分が正しいと思い込んでいるところがある人間

 

釈迦を祖とする仏教の宗派が100を超えてると書いている本を読んだことがあるが、なんで同じことを言っているものに宗派が100を超えているというおかしなことになってるのか?
人が同じことを言っている人の言い分を同じように捉えていないからだ。
あいさつでも、あいさつをしろと他人から言われても、誰にでもあいさつはせずに、一部の人にしかあいさつしなかったり、
あの人があいさつ返さなかったら許さずに、この人なら許すという勝手な決まり作っていて、人に教えてもらったと言っているような人がいたり、実際はあいさつの決まりを独自に勝手に自分が決まりを作っていたり、
勝手に信じていることを、同じことを信じていない人に押し付けたり、
自分の思い道りにあいさつしない人を攻撃してきたり、見下してダメ人間などと言っている人もいる。

昔、私が小学校の時にそろばんを習いに行っていた。ある日、そのそろばん教室でそろばん以外のことで、伝言ゲームをしたことが一回あった。
私が覚えている限り、私が伝言ゲームをしたのは、それが初めてで、その後は伝言ゲームはやったことはない。
伝言ゲームとは、前の席に座っている人が後ろの人にある言葉を言い、後ろの人は自分が聞きとった言葉を自分の後ろの人に言っていき、
一番後ろの席に座っている人が聞き取った言葉をみんなに言うというようなことだ。
初めに言った人の言葉が最後の人まで伝わらない場合もあるだろう。
世の中や社会などと呼ばれている大勢の集団が生きているこの世界はこの様なものなのだ。

例えばAさんが言った言葉が「おじいさんが腕立て伏せをした時にオナラをした。」とBさんに言い、BさんはAさんが言ったのと同じ言葉を聞き取り、Cさんに「おじいさんが腕立て伏せをした時にオナラをした。」と言ったら、
Cさんが「言ってることちゃんと伝わったよ、おじいさんが腕折ってオナラをしたと言ったんだよね。」と言っているようなもんだ。
CさんはBさんから聞いた言葉をそのまま聞き取ったと信じ込んでいても実際は間違っているのだ。
伝言ゲームの場合、そこに参加している人全員が聞き取った言葉を紙などに書いておけば、どこで間違って伝わっているのかが
分かるだろうが、伝言ゲームをやっても誰の所で間違って伝わっているのかは紙とかに書いていないので分からないだろう。

ある一人の人の見た目を見たり、ある人の生き方や言動を知っても人によって思うことが違い、真逆のことを思っている場合もあるのだ。
思った本人は相手が自分にそう思わせたのだと信じ込んでいる場合があるのだ。
嫌な気持ちになったのは相手のせいで嫌な気持ちになったと信じている人もいるのだ。
同じ言動や態度を取っても他の人なら同じことを思っていない。

他の人も言っているが「みんな他人に関心がない」とか「自分を知りたいのは自分だけで、他の人は他人に興味がない」という感じのこと言っていたりするが、多くの人に関心がある人もいるだろうが、そういう人は例外の人で、多くの人はほとんどの人のことや、物事や世の中にあまり関心、興味はないと思う。
自分が感じたことが大切だから、自分が嫌な気持ちになった原因や理由を相手のせいにしたり、他人のせいにする場合があるのが人間と言われている生物だろう。
相手の信仰や気持ちが分からないという以前に、あまり分かる気もない人がたくさんいるのだろう。
でも、好きな人や尊敬している人などのことには関心、興味があり調べたり、好意的に喋りかけたりする。
どうでもいい人や嫌いなだけの人に喋りかけたり、あいさつしたり、調べるのは表面的な形だけだったり、仕事関係の人にやってる場合が多いだろう。

あいさつでも、他人のあいさつに対する信仰や気持ちを知らないし、知る気もない人があいさつのことを社会のルール、人間のルール、常識などと言ったり、子どもや職場の新人などに対してあいさつするようにと言う人もいるのだ。
大勢と同じことをするのが正しいと信じている人がたくさんいるだろうし、
大勢と同じことをしていないと変な目で見られたり、バカにされたりするのが嫌だろうからあいさつしている人もいるだろう。

我が身可愛さがあり、自分や好きな人のことをあまり悪く言いたくない人が、自分達が間違ったことを信じていたり、やったりしたことを人のせいにしたりして、自分を問題視することはあまりなかったりする。
「あの人が言ってたり、やっていたりするから信じたんだ」などと思ったり、言ったりして人のせいにしていてもそれはウソなのだ。
自分の意見がない人は他人の言っていることを真に受けやすいなど言う人がいるが、人間は他人の言っていることや、やっていることのほとんどは取り入れもせずに、正しいとは信じない人が多いだろうに、
一部のことについては、裏付けを取らずに勝手に信じこんだり、他の人にもそれを正しいこととして言ったりして、自分が信じたことは根拠もなく正しいと信じているところがあるのだ。
裏付けや根拠がないことを信じないことも出来るのに、根拠なく自分が正しいと信じているところがある日本人のことを
控えめ、謙虚、つつましやかなど言う人がいるが、
いい加減で、適当で勝手で大雑把などとはあまり言わずに、名もなきその他大勢の庶民、国民などと言われている人たちを良く言いたいのだろう。

幼稚園や学校などで子供の時にあいさつしろと言われて、幼稚園ぐらいの時にあいさつを正しいと信じる人はあまりいないだろうが、
同じ人や別の人に初めにあいさつしたら、面白いように同じ言葉が返ってきて、面白がった人もいるだろう。
10代や20代や60代の人で今まで周りにいるほとんどの人にあいさつしなかった人も、一部の人にあいさつしてあげたら、全員があいさつ返してきたから
世界中のみんながあいさつしたら返すと勝手に間違ったことを信じてる人もたくさんいるのだろう。

今までうまくいっていたから今後も同じようになると思っていることを例えで言うならば、ある28歳の男がいて、この人は今までに27人の女をセックスに誘って断られたことがなく、27人の女全員とセックスをしてきた。
ある日、Aさんという女をセックスに誘ったのに無言でその場を去って行って、セックスを断られた28歳の男が不満を持ち、腹を立て、
「何でセックスを断られたのか分からない、俺のセックスの誘いを今まで断った奴なんかいないのに」と不思議がっているようなものだ。
この男が今まで20人以上の女をセックスに誘い、面白いように、すんなりとセックス出来てきて、今後も自分がセックスに誘えば女は断らないんだと
勝手に信じ込んでいたのが、自分の思い道りにならずにセックスを断られて勝手に嫌な気持ちになっているようなものだ。

今までうまくいってきたことを、これからも同じようにうまくいくと無意識、意識的に思っているので、自分の思っていることが、思い道りにならなかった場合に疑問を持ったり、不思議がったり、不満を持ったり、びっくりしたりするのだ。
災害があった時に、その災害にあった地域の人が、自分の住んでいる地域に災害が起きるとは思わなかったというようなことを言っていたり、
東日本大震災の後、私の母親と犬が寝ていた部屋には大きな衣装ダンスなどが数個あるので、私が衣装ダンスと天井の間につっぱり棒をつけていたら、
私の母が「岡山に地震はこない」というようなことを言ったのだが、
それを言った前にも後にも岡山に地震はきている。私の母が言いたいのは、岡山には小さい地震はおきても、大きな地震はおきないと言いたいんだろうが。

知っていることは「既知」と言い、知らないことを「未知」と言ったりするが、誰でも知らないことの未知の方が多くて、知っていることの既知の方が少ないのだ。
それなのに、自分は人間や世の中をすごい知っているように言う人もいる。
あいさつを社会のルール、人間のルールなどと言っているのも、実際は人のことをあまり知らない人がこんなことを言っているのだ。
少数の人にしかあいさつしてきていないのに、数十億いると言われている人類の全員があいさつ返すと勝手に信じているような人がいるのだ。
あいさつを初めにしたら、あいさつされた人はあいさつ返すと勝手に信じ込んで、分かった気になり、知ったかぶるのだ。
大勢と同じことしておけば何とかなると信じ込んで、根拠や裏付けもないことを正しいことの様に言ったり、思ったりしている人の方が、
まともな人や正しい人であるかのように言われたり褒められたりする場合もある。
だから、あいさつする人を素晴らしい人など言う人が出てくるのだろう。

あいさつしたらみんながあいさつ返すと勝手に信じ切っていたり、言葉であいさつ返さなければいけないと信じている人の中に、
あいさつ返さなかったり、会釈だけした人を変な目で見たり、見下したりしてダメ人間などと言う人がいる。
あいさつ返されたいからごく一部の人にだけあいさつしてきて、みんながあいさつ返すと間違ったことを信じているわけだが、
もし、相手があいさつを返さないことを分かってたら初めからあいさつなどほとんどの人はしないだろう。
つまり、相手のあいさつについての信仰などを知らない人が、その人のあいさつの信仰などについて知っていると思っているのだ。
そして、自分が正しいと信じているあいさつ返しををしなかった人を不審がり、変な目で見て、バカにしたり格下に見たりする人もいるわけだ。

 

 

77.人のせいにする人達とあいさつ

 

2021年6月7日の夜10時代に私が家のリビングにいた時に、珍しく外から誰かの声がしたのでリビングの窓を開けたら二人の男の喋り声が聞こえてきた。
歩きながら喋ってい私の住んでいる家の前を通り過ぎていくのならば声は小さくなっていくはずだが、同じぐらいの声の大きさで喋っているのがずっと聞こえていたので、喋っている人たちは歩いて喋っているのではなくて、同じ場所で喋ている感じだった。
その人達が誰なのかの私の推測は、私の住んでいる家から道を挟んだ斜め前の家に住んでいるおじいさんと、別の場所に住んでいるこのおじいさんの中年の息子だと思った。
私の住んでいるところは田舎で大道りの近くではないし、昼も夜もあまり人や車が通るところではないし、以前にも夜に同じ人の声を何回か聞いたことがある。
私はこの時間帯にはリビングにいることが多いが、喋り声を聞くことはほとんどないのに同じ場所でずっと喋っている人がいるのは、すぐ近くに住むおじいさん親子だと思った。
しゃがれた元気のない声の人はおじいさんの声で、大きい声で元気のある声の人は息子の声だろうと思った。
私の親がここのおじいさんの奥さんのことをハラダさんと呼んでいたのでハラダという人みたいだ。
2人とも片言で短く喋っていて、喋っている声が全部が聞こえたわけではないが、元気のある声の方が「○○で見た」と言った。
しゃがれた声の方が何かを言った後に、元気のある声の方が「愛想がない」「変わっている」と言っているように聞こえた。
私の勘違いの可能性もあるが、愛想がない、変わっているというのは私のことを言っているような気がした。「○○で見た」と言っていた
○○は、私が住んでいる所から数キロ離れた場所の地名で、私はこの地域に自転車で何回も行ったことがあり、
この人がその地域で私を見たことを言っているような気がしたのだ。
愛想がないと言った元気がある声の人の前に何かを喋った方は「あいさつしなかった」か「あいさつ返さなかった」と言ったのではないかと私は推測している。それに対して愛想がない、変わっていると言っていると思った。

以前、数回このじいさんに初めにあいさつされたことがあるのだが、私は言葉であいさつを返さなかったので、このじいさんはあいさつのことで私のことを嫌っていたりなどして私に不満を持っている可能性があると思う。
このじいさんのあいさつは、私の目を見ずにあいさつをしてきていて、珍しい変わっているあいさつをしている。
別の日にじいさんが私があいさつを返すかを確認するための実験的な感じの態度を取ってきたあいさつをしてきたことがある。
ある日、私が家の裏側から表の庭の方に行こうと歩いていた時に、数メートル先にハラダじいさんが自転車にまたがって、じっと止まっていた。
じいさんは私の方は見ておらず、じいさんの体は私から見て横を向いていた。だんだん、じいさんの方に近づいて行って私がじいさんの隣に来た時に、こんにちはとじいさんが言ったことがあったのだが、私は言葉ではあいさつはしなかった。

あいさつを初めにする人の多くはあいさつをする時に相手の目を一瞬にしろ、じっと見るにしろ、目を見る人が多いだろうが、
このじいさんは目を見ずにあいさつしてくるのだ。6月7日に聞こえてきた愛想がないとか、変わっていると言っているのが私のことを言っていようが、言っていなかろうが、このじいさんのあいさつは珍しい変わったあいさつをしているとも言えるし、人の目を見ずにあいさつをすることが、
愛想がないあいさつをしていて無機質、機械的で、いかにも形だけのあいさつをしているとも言える。
あいさつに限らずに人と喋る時に、何かの作業をしていて目が離せない状況でもない時に、全く人の目を見ないことを嫌がる人がいるが、自分がそれを嫌でなかったり、嫌がっている人がいることを知らなければ、
目を見ずに喋ることを嫌がっている人がいることを知らない人もいるのだ。
人の目を見るのが怖いなどと言う人がいるが、ほとんどの人はそんなことは思っていないだろう。

この親子は私の住んでいる家から聞こえてくるドアを閉める大きい音に不満を持っている人達だと思っている。
この人達が明らかにドアの音に不満を持っていることに私が気づきだしたのは2020年の前半の時で、私が家の庭にいた時に一階の部屋のドアを叔父がすごい大きい音で一回閉めた後にハラダさんの家の方から
大きい音で一回ドアを閉める音がしたのだが、ドアを閉める音がうるさいと思って不満を表すためにドアを閉めたと思った。
ハラダさんのとこは近くに、じいさんの男の兄弟も住んでいるみたいで、この兄弟の人が不満を持ってドアを閉めた可能性もあると思った。
2020年の6月か7月ぐらいの夜の7時か8時頃に、私が暗がりの中で庭にいたら、道路の右側から誰かが一人歩いてきて左の方に通り過ぎて行った。
そのすぐ後にハラダさんの家の方から、ものすごい大きい音で一回車のドアを閉める音がした。
その時にハラダさんの家の前に軽自動車が止まっていた。以前から何度もハラダさんの家の前にシルバーの軽自動車が止まっているのは見たことがあって、その車はハラダさんの息子の車だと思う。
私はその時にハラダさんの家の前に止まっていた車も以前何回も見た車も同じ車だと思っていて、大きい音で車のドアを閉めたのはハラダさんの息子がやったと思っている。
では、なんでハラダさんの息子が大きい音で車のドアを閉めたのかの理由は、私の家から聞こえてくる大きい音で家のドアを閉めるていることで、この息子の親か、近くに住んでいるこの息子の叔父が嫌な思いをしていることに対して不満を持っているからやったのだろうと思っている。

この車のドアを閉める前の月ぐらいのある日の夜に、ハラダさんの家の方から外で大きい声で「隣の家」という声が聞こえてきたことがある。
その後「気をつけて」という声がしたのでハラダさんのところの息子の一人が兄弟が帰る時に気をつけてと言ったのだろうと思っている。
ここのじいさんの奥さんから息子が2人いると聞いたことがあるので、その日、息子2人が親の所に訪ねて来ていた時に、
親か叔父が息子に対して私の住んでいる家から聞こえてくる
ドアを閉める大きな音に対する不満を言ったのだろうと思っている。だから外に出た時に「隣の家」と言ったのだろうが、たまたま外で言った可能性もあるし、私の家に住んでいる人に聞かせたいから、わざと外に出た時に言った可能性もあると思った。
これらのことから見ても、夜にすごい大きい音で車のドアを閉めたのはハラダさんの2人の息子のどちらかだろうと思っている。
この大きい音を出した息子は私を庭で見た時に、私がすごい大きい音で家のドアを閉めている奴だと思ったのか、大きい音でドアを閉めている奴ではなくても、家族も同罪と思って不快になり大きい音でドアを閉めたのだろう。
どちらの理由で大きい音でドアを閉めていても、私の住んでいるところは住宅街なので大きい音でドアを閉めることで周りの他の人や、この人の身内にも音が聞こえているはずだが、そのことが頭になくて人のことを考えていないところがある可能性もあるわけだし、周りの家に住んでいる人に音が聞こえているのが分かっていて凄い大きい音を出していたとしても、他の人のことを考えてはいないところがあるわけだ。
この息子は大きい音で家のドアを閉めている方が悪気があろうと、悪気がなかろうと自分の身内が大きい音で迷惑して嫌な思いをしていて、
自分たちが嫌がることをしているのは相手が自分たちのことを考えていないからだと思っていそうな気もするが、自分も大きい音で家のドアを閉めている相手や、他の近所の人のことを考えていないところがあるから音で嫌がらせをしているのだ。

その後、2021年8月の上旬の月曜日の深夜1時代ぐらいに、私がリビングにいて電気をつけてインターネットをしていた時にハラダさんの家の方から男の声で「まだ起きてんのか。はよー死にねー」という声が聞こえてきた。
この2時間くらい前の前日の夜11時代ぐらいに、ハラダさんの家の方から車を閉める音が一回聞こえた。息子が車で来た時にドアを閉める時の音か、
車で帰っていく時に車のドアを閉めた音だと思った。
翌日の深夜12時代にまた車のドアを閉める音が聞こえたので、前日の11時代の車のドアの音は来た時の車を閉める音で、
12時代の音は息子が帰っていく時の車のドアを閉める音だと思っていたら、
深夜1時代に、「まだ起きてんのか。はよー死にねー」という声が聞こえたので、嫌がらせで音を出すために外に出てきて車のドアを閉めただけで、
その後に親の家にまた入ったか、一旦どこかに車で行って1時間後ぐらいにまた親の家に戻ってくるということをやっていそうな感じがするとも思った。
「まだ起きてんのか。はよー死にねー」と言っていたのは、ハラダさんの息子が言ったのではないかと思っている。

この同じ月の8月に私は庭の井戸ポンプの防音をするために、井戸ポンプの周りを木の板で囲うことにした。
木の一部はホームセンターのナフコで買って切ってもらい、他に使う木は以前からうちの家にあった長細い木を使うことにした。
玄関を閉めて、細長い木を玄関で手動のノコギリで切る作業を2日間連続でやり、その時に電動ドライバーも使った。
一週間後ぐらいに、また木を手動のノコギリで切り、合計3日間手動のノコギリで木を切る作業をやった。
3回目にノコギリで作業した日の翌日か2日後ぐらいの平日の昼頃にハラダさんの家の方の近距離から電動で木を切る音が短時間してきて、
その後、ヤスリで擦るような音も聞こえた。更にその後、電動で金属を切る音が短時間した。
今住んでいる母親の実家の所に引っ越して来てから、この家に10年ちょっと住んでいて、家にいる時間が長いが、こんな音を家の近くで聞いたことなど一度もない。
私が3日間ノコギリと電動ドライバーを使った後に、ハラダさんの家の方から電動で木などを切る音がしたのは、私の家から出てくる手動ノコギリで木を切る音や電動ドライバーの音と、以前からうちの家のドアを閉める音に不満を持って、ハラダじいさんか、じいさんの兄弟が音で嫌がらせ、仕返しをしたいからやったのではないかと思っている。
ハラダさんや、それ以外の人がたまたま電動のノコギリを使っただけで、シンクロニシティ―なんじゃないのかとか思う人もいるかもしれないが、私は違うと思う。
その後、翌月ぐらいに数回電動で金属を切る音が短時間だけ聞こえた。

私たちが住んでいる所から少し離れた同町内の住宅街の中に昔、店に使っていたようなシャッターがある建物がある。
聞き間違いかもしれないが、以前私の親が、そこがハラダさんの所と関係があるようなことを言っていた気がするのだが、
2020年の後半に、そのシャッターがある場所の近くを私が自転車で通っていた時に、ハラダさんの家の方から聞こえてきたのと同じ電動で金属を切る音が聞こえてきたので左後ろを振り返ると2人の大人がいて、その人たちが金属を切っていたのだ。
もし、私が以前親から聞いたのが間違いではなければ、ハラダじいさんか、じいさんの兄弟は昔、その場所か別の所で電動で金属を切る仕事をしていた可能性があるのではないかと思った。
うちの家に住んでいる者に嫌がらせ、仕返しの意味で電動で金属を切る音を出すためだけに、新品か中古で電動のこぎりをわざわざ買ってきて音を出すのなら、家のドアを閉める音で嫌がらせをすることも出来るだろうが、わざわざ数回、短時間だけ電動のこぎりを嫌がらせ、仕返しに使うためだけに買わないと思うので、以前に仕事で電動のこぎりを使っていたことがあって使い方が分かっていた可能性があるのと、電動のこぎりを元職場から借りてきている可能性もあると思った。

私はごみを捨てに行くのはほとんど夜なのだが、2020年か2021年の後半のある日の朝の早い時間に、自転車の前かごにゴミ袋を乗せて捨てに行こうとした時に自転車が横に倒れて、自転車のベルが一回鳴った。その翌日ぐらいの夕方に私が家にいた時に、私の家の庭の前の方から自転車のベルが一回鳴り、そのあと少しして自転車のベルがもう一回鳴ったのだ。
いつも自転車のベルの音を聞くことはほとんどないのに、私の自転車が朝に倒れてベルが鳴った翌日ぐらいに鳴った自転車のベルの音は、
ハラダのじいさんがやっている可能性があると思った。
以前の朝6時ぐらいの時に私が庭の作業をしていた時に誤って足をプランターの上に置いた時にプランターが音を立てて割れたことがあるのだが、その後ハラダさんの家の方から足音がしたのだが、ハラダじいさんが、いつも聞かない音を聞いて様子を見に来た可能性があると思っている。
自転車のベルの時もベルが鳴った後に外に出て見に来たか、窓を開けて見た可能性があって、私が外にいたのを見て、嫌いな家の奴が自転車のベルを鳴らしたから、気に入らなくて自転車のベルを意図的に嫌がらせの目的で鳴らした可能性があると思った。

2020年の8月か9月ぐらいに、同じ家に住んでいる叔父の部屋のクーラーが壊れていて、ハラダさんの家の近くにあるうちの家の建物の2階にクーラーがある部屋があり、そこを叔父が使うことになったので、私がその部屋で短時間だけ掃除機をかけた翌日ぐらいに、ハラダさんの家の方から掃除機の音がしてきた。
今までハラダさんの家の方や近所で掃除機をかける音など聞いたことがない。
ハラダじいさんか、その兄弟の人が掃除機をかける音を嫌がらせ、仕返しの目的でやっているのではないかと思った。

2020年後半の夜6時ぐらいに私が家にいる時に、いつもなら車が閉まる音はほとんど聞こえないのに連続して4回車のドアが閉まる音がしたので、
ハラダさんの息子が嫌がらせ、仕返しの目的でやっているのではないかと思い、家の裏から外に出て見に行ったら、ハラダさんの家の前に、見覚えのある軽自動車が止まっていて、車の前の部分だけが見えた。
運転席に誰か座っていて白い手袋だか、軍手みたいなものを付けている時だった。
ドアを閉めているところを見てはいないが、いつもならこの時間帯に車のドアが閉まる音などほとんど聞こえないのに、4回も連続で閉まる音が聞こえ、
外に出たら音がした方に人が乗っている車が止めてあったのは、その車に乗っていたのはハラダさんの息子で、その人が嫌がらせで音を出していると思った。

叔父が一階の部屋のドアを大きい音を出して閉める部屋のドアには2020年5月に私がドアダンパーを付けたので、その後、一階のそのドアから大きい音が出ることはなかったが、2020年の8月の上旬ぐらいのある日、
ドアダンパーを付けたドアがある部屋から、ものすごい大きい音で一回ドアが閉まる音が聞こえた後に、ハラダさんの家の方から車のドアが閉まる音が一回した後、一回目のドアの音よりも更に大きい音で車のドアが閉まる音が聞こえたのだが、ハラダじいさんか、近くに住んでいる兄弟の人が私の叔父が閉めたすごい大きい音で部屋のドアを閉めたことに対する不満の仕返し、嫌がらせで車のドアを2回閉めたのではないかと思っている。

叔父がものすごい大きい音で部屋のドアを閉めているのも珍しいだろうし、おかしくても、それに対する不満を表すために、
その音を出しているわけではない近所の人や、自分の身内が住んでいる家の隣で身内にも聞こえる大きな音を出して不満を表しているハラダさんのところの人達も、ある意味似たり寄ったりの目くそ鼻くそ、五十歩百歩なのだ。
他の多くの人なら、ものすごい大きい音なら例外あれど嫌がる人は多いだろうし、そこまで大きい音ではない音に対しても不満を持っている人もいるだろうが、音で仕返し、嫌がらせはしない人が多いと思う。もし、その大きい音を出すことで、他の人にその音が聞こえたら悪いと思う人が多いだろうから、音で嫌がらせする人は少ないと思う。隣人の小野やその息子が私の独り言の音に対する不満を持ち、音の嫌がらせをしてきているが、大きい音だから許さないのではなくて、独り言が気持ち悪いから許さないという不満、嫌悪感だろうが、音の大きさは別として自分が許せない音を出す人に対して、
音の嫌がらせをしている点ではハラダさんのところも小野のところも同じだ。

不快になったのは不満を持った相手のせいだと思っているのだが、音で嫌がらせをすることで自分が嫌いではない近所の他の人や、
自分の家族にも嫌がらせで出している音が聞こえているのだからバカなことをしているのだ。
自分が不快になったのを相手のせいにしている人はたくさんいるだろうが、自分も誰かから嫌がられたりして、迷惑されているのだ。
自分が不快になったのは自分のせいではないとか、自分は人が嫌がることはしていないと思っている人もいるだろう。
あいさつでも、自分があいさつしてほしいのにあいさつされないことで疑問や不満を持ち嫌な気持ちになったことを他人のせいに
している人がいるから、あいさつしなかった人に怒りだしたり、嫌がらせしたり、相手に不満を言うのだ。

 

 

78.学校の先生の罪、親の罪、みんなの罪

 


学校の先生や親が子どもにあいさつするように言っていて、
正しくもない間違っているあいさつを大勢が正しいと信じているから、あいさつを人間として正しいことであるとウソを付いている。
子どもも鈍いところがあり、みんながあいさつをしたいわけではないことに気づかない子どももたくさんいるだろうし、自分があいさつさせたい人にだけあいさつを求めて勝手なあいさつしているだけ。

人が嫌がることをしていることや、正しくない不正を罪と呼ぶとするなら、あいさつ運動を学校でしていたり、それ以外でも先生や親が誰かにあいさつをするように言っているのも罪だ。
みんなが誰にでもあいさつしたいわけでもないし、あいさつを返すことや、初めにあいさつをすることを正しいとは信じていない人もいて、あいさつを嫌がっている人や迷惑している人もいるのだから、あいさつをするように言っている学校の先生や親やそれ以外の人にも罪があるとも言えるのだ。
一般に罪と言えば、刑法違反で逮捕されるようなことをしたことを罪と言う場合が多いが、誰かが嫌がることをしている点では同じことなのだ。
言葉の定義は人によって違うから、あることを罪と言う人は罪と言い、罪と言わない人は罪とは言わない。

あいさつ信者は、いい加減、適当にあいさつの決まり(ルール)を決めつけて自分がやりたい時にだけあいさつしているだけだ。
あいさつに限らず、誰かが嫌がることなどみんなやっているのに、ほとんどのことは罪とは呼ばれない場合が多いが、みんな罪があるとも言えるのだ。

「日本人は国家犯罪に甘い」と言っていた人がいるが、権利者側がやった刑法違反に甘いところがあると言っているのだろうが、刑法違反ではなくても、日本人は権力者側が決めたことで自分に都合がいいことや、正しいと思うことを権力者が決めた場合は、それをまかり通らして甘いのだ。
政治家や知事などを権力者と言うが、多数派も勢力の強い権力者の様になっていて、あいさつをされたら、あいさつを返さなければいけないことが人間の正しさだと大勢が信じているのだ。
あいさつ返しをしないことは刑法違反ではないが、刑法違反をした人よりもあいさつ返しをしない人に対しての方がよっぽど嫌っていたり、見下している人もいるのだ。
人がひどいと思うことは刑法違反だけではないのだから、あいさつ返さないことに対しても、ひどいことをしていると思う人はいるから、
あいさつ返しをしない人を見下したり、嫌うのだ。
日本人は例外除いて、多数派に甘くて少数派に冷たいとも言える。
日本人だけではなくて、日本人以外も大体こんな感じだろうけど。
あいさつを返さない少数派に冷酷なところがあり、自分の適当な、あいさつ信仰はまかり通らせて自分に甘いところがある。

 

 

79.日本人は自分を基準に物事をとらえる所がある

 

日本人は英語に比べると、はっきり主語を言わずに言葉を使ったり、
主語以外のことでも、はっきり言わずに、あいまいな言い方をするなどと言われていたりするが、日本人にはっきり言わないところがあるのは、
はっきり言うと都合が悪いから、あいまいな言い方をしたり、遠回しに言っている場合と、はっきり言わなくても自分の言いたいことが通じると思っている場合と、はっきり言わないことで自分の言いたいことが通じないと思っていてもはっきり言わない場合があるだろう。

日本人に英語を使う外国人のことを、I(アイ)と言って、私はと言うのは、自分中心であるかのように言っていた人がいるが、日本人が主語を言わないことが多いから、自分のことを言っていないということにはならないし、
「私は」と言っていないから自分中心に物事を捉えていないとは言えない。
日本人は主語を抜いたりして、はっきり言わないところがあるだけで、自分中心なところがある人達だろう。
あいさつのことでもそうだが、はっきり言わなくても自分に合わせて従ってほしいと思っているようなところがあるのだ。
自分の思い道りにならないと不満を持ったり、不満を言ったり、嫌がらせをしたりするようなところがある。

日本人のことを人の気持ちが全部わかる人が多いとか、ほとんど人の気持ちが分かると思っている人もいるみたいだが、
私は日本人は、ほとんど人の気持ちが分からない人だと思う。
日本人がはっきり物を言わないところがあるのは、相手の言葉の定義とか、相手のことを全く分かっていなかったり、ほとんど分かっていないのに、はっきり言わなくても自分言いたいことを分かってもらえるとか、
相手が自分に合わすべきだと思っているところがあるからだと思う。
だから、自分の言いたいことを相手が分からなかった場合に、気づかないとか、気がきかないなどと、不満を言っているのも、
自分の言いたいことが相手に通じていないのを、相手を原因にして、相手に問題があると思っているところがあるのだ。

例えば、Aさんの数メートル離れた所にコップが2つあって、コップの近くにBさんがいた時に、AさんがBさんに、Aさんから見て左側にあるコップを取ってほしいことをはっきり言わずに、「Bさん、左のコっプ持ってきて」と言ったら、BさんがBさんから見て左のコップを持って行ったら、
Aさんが「それじゃない。左のコップって言っただろ。」と言い、Bさんが「だから、左のコップ持ってきたでしょ」と言ったことに、
Aさんが「あんたから見て左じゃなくて、私から見て左のコップのことを言ったんだ。気が利かないな」と言ったとする。
Aさんは自分の思い道りにならないことをBさんに問題があると思い、Bさんに気が利かないと不満を言っているが、自分が詳しいことをはっきり言わなかったことを問題視はしていないのだ。
日本人には多かれ少なかれAさんのようなところがあるのだ。
AさんはBさんに分かる言い方をしなかったことを問題視するのではなくて、
Bさんが自分の言いたかったことを分からなかったことを問題視して自分に問題があるとは思わない。
日本人は自分に甘いと言われていたりするが、それに気づいていない人もたくさんいるだろうが、自分可愛さがあり、自分が相手より大切なら、相手よりも自分を擁護して自分のことを正当化しやすいのだ。
人間は自分が可愛くて大切なのだから、コップのことでも自分が思いたいように思うだけなのだ。
Bさんが気が利かないと思いたい人はそう思うし、Aさんの言い方が気が利かないと思う人は、そう思うだけのことだ。
人間は自分が思いたいようにしか思わないのだ。

誰かが言っていたことだが、クモの巣に引っかかったクモを先生がクモの巣から放したことに、一人の子どもが「クモがかわいそう」と言ったという。
先生のやったことに多くの人は共感するだろう。蝶がクモに食べられたり、クモの巣に引っかかったまま死んだらかわいそうと思って、
クモの巣から蝶を放したがる人がいる一方で、他の人はクモが蝶をエサとして食べなかったら生きていけないからクモがかわいそうと思う人もいるということだろう。
あいさつも同じで、あいさつを返されなかった人の方が大勢から憐れまれたり、かわいそうとか思われそうだし、あいさつ返さなかった人の方が悪く言われやすかったり、変な目で見られるだろう。
クモのことで言えば、クモがかわいそうと言った方が変わっている人と思われるだろう。
あいさつでも、あいさつ返さなかった少数派の方が、おかしい人や、変わっている人と思われやすいだろう。
大勢と同じことをやらなかったり、大勢と同じことを思っていないと変な目で見られたり、バカにされやすいのだ。

日本人があいさつされたら返すことが正しいと信じていることは「私はあいさつを返すことは正しいと信じている」と言えるが、
この言い方を主語を抜いた言い方で言えば「あいさつを返すことは正しいと信じている」と言えば、みんながあいさつを返すことを正しいと信じているというようにも捉えられる言い方になる。
主語を入れていえば、「私はあいさつを返すことを正しいと信じている」とか「俺はあいさつを返すのを正しいと思っている」ということになるが、
日本人の中には例外はあれど、「私は」を「私たち」にするようなところがあるのだろう。
だから、「私はあいさつを返すことを正しいと信じている」は
「私たちはあいさつ返すことを正しいと信じている」というように思っているようなところがあるから、あいさつしたらみんながあいさつ返すと間違ったことを信じているところがある感じもする。
「自分がやられて嫌なことはやらないように」というようなことを言う日本人がいるが、自分が嫌なことを他の人もみんな嫌がっていると思う人もいるのだろう。
自分が嫌がっていることを他の少数の人や大勢の人が嫌がっている場合もあるだろうが、全ての人が嫌がっているということはないだろう。
日本人が自分中心に人間を捉えているところがあることのいい例だ。

 

 

80.自分の姿を相手に見ているあいさつ信者

 

あいさつしたら、オウム返しで返されると信じている人や、最低限会釈などを求める人の中に、自分の思い道りにあいさつを返さなかった人に不満を言ったりして悪態ついてきたり、ネットに不満、悪口を書く人がいるが、ほとんどの人なら、あいさつ返されなくて不満を持っても内面で思っているだけか、本人のいない所で誰かに不満を言うだけだろう。
ネットに不満、悪口を書いていたり、本人の近くで不満を言ったりして悪態ついたり、嫌がらせをしたり、身体暴力を振るう人など例外中の例外だろう。

あいさつをしたらあいさつ返しをすることが正しいとか、オウム返しで返すことが正しいと信じている人は自分は大勢と同じ普通の人で、まともな人だと思っている人もいるだろう。
あいさつを返さない人を常識なっていないとか、変わっているとか、ダメ人間などと言って見下したり、嫌っている人が自分も独自にあいさつの決まり(ルール)を決めつけて勝手なあいさつをしていて、
自分はほとんどの人にあいさつしないくせに、自分があいさつをしないことは許し、他の誰かがあいさつをしないことは許さなかったり、
子どもや好きな人が自分にあいさつをしないことは許すような差別をしていたりして、変わったあいさつ信仰を持っている変わり者のあいさつ信者だが、自分が変わっていて、おかしいことに気づいていない人もいるのだ。
あいさつ返さない人に不満を持っている人は、あいさつを返さな人に自分の姿を見ているところもあるのだ。全く同じではないので分かりにくいのだろう。

大勢と同じことをせずにあいさつを返さなかったから常識がなっていないと低評価や悪評価している人も、他のことでは大勢と同じことをしていないところがたくさんあるくせに、それに気づいているところと、気づいていないところがあっても自分には甘いところがあり、悪くは言いにくいのだろう。
キリスト教の信者がたくさんいることを知っていても、キリスト教をよく知ろうとしていなくても、キリスト教を信じていなくても
常識がなっていないとは言わないのに、あいさつを返さないことには、常識がなっていないと不満を持つあいさつ信者もいる。

人の目を見ずにあいさつする人は少数だろうが、少数の人しかやっていないことを変わっていると定義付けるならば、人の目を見ずにあいさつしている人も変わっているあいさつの仕方をしているのだが、
あいさつしたところだけを持ち出して、あいさつは大勢がやっているから変わっていないという人もいるだろう。

 

81.脱あいさつ、脱学校(だつがっこう)、脱金社会(だつかねしゃかい)

 

学校に行く理由を人によって全然違う理由を付けていたりする。
自分が思いたいように思うのだから、同じことに対して同じことを思わないわけだ。
学校に行く理由を、算数や国語や社会など色んな授業を受けることで
同じことに対しても違う見方が出来ることを知るために学校に行くかのように言っている人がいる。
別の人は、学校は行かなくてもいいことを知るために行くと言っている。
大勢と同じことをすることに対して自分が思いたいように思うのだ。
大勢と同じことをすることを美化して綺麗事を言いたい人は、勉強や学び進化などと言って良く言いたがる。
人間として正しいことは、例外あれど大勢と同じことをすることだと信じている人がたくさんいるだろうから、学校に行くことや、あいさつを返すことが正しいと勝手に信じているのだ。
そして、同じことをしない人を見下して、蔑んできたり、バカにする。
例外除いて、大勢と同じことをして、大勢と同じことを感じることが正しい正解だと信じている人がたくさんいる。
大勢と同じことをすることに良い意味を付けて、自分が大勢と同じことをたくさんしてきたことや、大勢と同じことをする多数派を良く言い、例外あれど人間としての正しさは大勢と同じことをすることであると決めつけたい人がたくさんいるのだろう。
自分が嫌ではなかったからとか、自分や大勢に都合がいいことだから良く言って褒めて、他の人にも同じことをさせようとする人がいる。
こういう人が自分達に都合がいいことや、いい思いをしたことを他の人に押し付けても、人のためのいい人などと良く言われたりして褒められる場合が多いだろう。

学校に行くことが正しい根拠や裏付けなどどこにもないし、学校など行かなくてもいいが、学校に行くことを正しいことだと信じていたり、正しいとは信じていなくても、親の中には見栄や体裁、世間体を気にして
学校に行かせたい親もいるだろうし、子どもの中にもそれを気にして学校に行っている人もいるだろう。
大勢と同じことをしていないと異常者と思われたり、不審がられたり、気味悪がられたり、バカにされる場合があるので、こういうことを思われないために、大勢からバカにされたり、嫌われないために学校に行っている人もいるだろう。
学校に行っていない人をバカにしていたり、間違っていると思っている人は、学校に行っていない人が大勢と同じことをしていないから
間違っていると思っていて、おかしいと思っている人もいるだろう。
大勢が学校に行っていなかったら学校に行かないことを許して許可するのだろうけど。大勢が正しいと信じている人はいい加減で適当なのだ。

大人のあいさつ信者の一部は、学校のあいさつ運動などであいさつ返しが人間として正しいことだと子どもに言いたいのだろうが、これも間違いで
あいさつ返しや、あいさつすることが正しい根拠などどこにもない。あいさつを正しいと信じるあいさつ信者がたくさんいるだけだ。
学校には行かなくてもいいというのを、別に言い方でいえば「脱学校(だつがっこう)」で、あいさつは正しいことではなくて、やらなくてもいいというのを別の言い方で言えば「脱あいさつ(だつあいさつ)」だ。
大勢がやっているから正しいと信じていることの中には、金でやっていく世の中が正しい信仰があるが、金でやっていく世の中も不正で間違っているが、この金でやっていく世の中をなくして、辞めていくことは「脱金社会(だつかねしゃかい)」とも言える。

 



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