くるみの世界

金でやっていく世の中や、あいさつが正しいとされていることは間違っているということを主張したいです。

脱あいさつ あいさつは正しくない4

2022年10月15日 | 脱あいさつ

21.信じていることが違う

 

学校の授業で習うことを学び、学習という言葉で言い表す人も多いだろう。
学び、学習という言葉の定義を、自分が感じたことが正しいという意味で使っている人もいるだろう。
「自分が感じたことが正しい」ということを違う言葉で言えば、「自分が信じていることが正しい」とも言える。

以前、私の住んでいる家の近所の人が家から離れたところにある幼稚園の前にいるのを私が見たことがあって、私達の住んでいる家の近所にも幼稚園があるが、近くの幼稚園には行ってなさそうだった。
私が叔父や私の母親と車に乗っている時に、この話題を出した時に叔父が言っていたことで、一字一句覚えていないが、たくさんの人がいる所に行った方が人のことを知るというようなことを言っていたと思うが、私がそれに異論を言うと、子どもにでも分かるというようなことを言われた。

「たくさんの園児がいるところにいれば、色んな外見や色んな言動を取る子どもがいることを、
たくさん知れるんだ」ということを学びや学習と言えばカッコが付くだろうが、ある言動やある外見の人を見ても、みんなが同じことなど思わないのは分かり切っていることなのに自分に都合のいいようにしか思わないのだろう。
園や学校で同じ人の外見や、同じ言動を見ても、みんなが同じことなど思わないので、同じ人の外見を嫌う人もいれば好きになる人もいるし、
同じ言動を悪だと思う人もいれば、いいことだと思う人もいるのだ。
あいさつを知った多くの人は、あいさつしたらオウム返しをすることが正しいと勝手に信じるが、みんながそんなこと信じていない。
子どもがあいさつを返さないのは許し、好きではない大人が返さないのは許さないと勝手にあいさつの決まりを作ることを学びや学習などと言えば
カッコが付くが、あいさつ信者は正しくもないあいさつを勝手に正しいと信じて自分独自のあいさつルールを作って信じているだけのことだ。

自分が感じたことが正しいと根拠や裏付けもなく信じることを学びや学習、勉強などと言えば良く言える。
他人の感じたことに対して、自分が正しいと思うことを思っていたり、自分に都合のいいこと思っていたり、素晴らしいと思うことを
思っていた場合には学びや学習などと言いやすいのだろう。
一方で、自分と同じことを感じていなかったり、自分に都合が悪いことを思っていたり、悪だと思うようなことを
思っていた場合は学びや学習とは言わずに、おかしいとか、間違っていると思ったり、否定してきたりする。
自分を基準に人や物事を判断しているのだ。
だから、ある外見や言動を取った生徒を知っても、複数の先生がいたら、その人のについて同じことは思わない場合もあるので、
その生徒を嫌う先生もいれば、嫌わない先生もいるのだ。
生徒が髪を染めていることを良く思わない先生もいれば、髪を染めてもいいと思う先生もいるのだ。
学校で生徒に色々教える先生自体が、誰とでも同じことを思っているわけではない。
教育者と言われている人や親がほとんどのことを知らない人たちなのだ。

子どもに対して先生や親の多くが思っていることは、
自分がおかしいと思うことや、気に入らないことをやらなければ、大体なにをやってもいいと信じていそうだ。
他の人が嫌がっていたり、悪いと信じていることでも自分がおかしいとか、ひどいと思っていないことはやってもいい場合が多いと思っていそうだ。

知ったことに対して、みんなが同じことを思わないのに、幼稚園や学校に行くことを学びと言っているのもバカげている。
そもそも、人間についての信仰がばらばらで同じことを信じていない。
子どもに自分の信じていることや、学校の授業で教えることを教育、育てる、躾などと言っているが、子どもは生まれた時にはみんな同じ性質を持って生まれてきたと信じている人もいそうだが、人によっては血液型性格判断や、生まれた時の星の位置による星座の性格などや、親や先祖の遺伝子から継がれた性格などで人の言動や感じることが決まると信じる人もいるわけだ。

生まれた時にみんなが同じ性質だったならば、周りの人から同じ言動を取られたら、みんなが同じことを思うようになるということなる。
気に入らない言動を取った人に「親の躾がなっていないから」「親に甘やかされたから」などと思い、親が正しいことを言っていないから正しいことが出来ていないと理由をつける人もいるだろうが、そんな人も、自分も親や他人の信じていることを正しいと信じずに否定しているところがあったりして、人の言うことを聞かないところがあるだろうが、自分の言いなりにさせたい人が自分の思い道りのことをしないと不満を持つのだ。
適当、いい加減に自分が思いたいようにしか思わないのだ。
自分と同じことを信じている人がいたら安心して、やっぱり自分が正しいと信じたり、より多くの人が自分と同じことを信じていると、より安心したりする人もいるだろう。

生まれた時にみんなが同じ性質ではなく、それぞれ違う性質を持っているならば、同じ言動を取られても同じことは思わない場合もあることになるが、
人間が生まれた時に目に見えない内面にどういう性質があるかについては信じていることが違うので、誰かの言動や服装を見ても、知っても同じことなど思わないのだ。

西洋占星術(せいようせんせいじゅつ)の月の星座について書いているのを読んでいたら、月の星座がみずがめ座の人は、小さい頃から人の言うことを聞かないという感じのことが書かれていたのだが、月の星座がみずがめ座ではなくても、人の言うことを聞かないところは誰にでもあるだろうから、
誰にでも当てはまることとも言える。
それとも、他の星座の人も人の言うこと聞かないところはあるけど、月の星座がみずがめ座の人は、他の星座の人よりも人の言うことを聞かないとという意味で言っているのだろうか?

私の母親が親戚の悪口を言っていて、「親が教えていないから」というようなことを言っていたが、自分も親の言うことを何でも聞いているわけではないのだ。母方のおばあちゃんは2018年に亡くなったが、
私の母親は60才過ぎても、おばあちゃんの言ったことに不満を言っていた。

あいさつを返さない人に対して、「あいさつを学んでこなかったから」と理由をつける人はあいさつ返しをしなかった理由を、
あいさつされたらあいさつ返しをしろと誰かから教えられていないからとか、他の人があいさつ返しをしているのを聞いたことがないから、あいさつを返さなかったんだと思っている人もいそうだが、
あいさつ返しをしないことに不満を持っている人も、他の人があいさつしているのを聞いたり、あいさつしろと言われても、
ほとんどの人にはあいさつせずに生きてきているのに、自分の思いたいような適当でいい加減な理由をつけるのだろう。
イスラム教やキリスト教などの宗教と言われているものを知っても、日本人の多くはこれらを良く知ろうとはしない人が多いだろうし、
良く知らなくても正しいことではないと思い、これらの宗教の信者ではない人もたくさんいるのだ。
色んなことを知っても、その全てを正しいことだとは信じてこなかっただろうに、自分と同じことを信じていないと、知らないからやらないのだと思う人もいるのだ。

学校教育と言っているのも宗教であり、子どもは学校に行かなければいけないという決まり(ルール)を決めて、
大勢がそれを正しいと信じているが、正しくもないし、学校には行かなくてもいいのだ。
それなのに、学校に行かなければいけないと信じている人は学校に行かない子どもを問題視して、登校拒否を直すなどと言ったりして、
自分が正しいと信じているのだ。これを教育などと言い、自分の方が正しいと信じているのだろう。
大勢が学校に行かなくなったら、学校に行かないことをおかしいとか間違っているとは思わなくなるだろうけど。

人間は自分が正しいと信じているところがあるから、自分が正しいと信じていることをしないと不満を持ったり、
白眼視してきたり、疑問を持っても、自分がしなくてもいいと思っていることをしていないことに対しては不満や疑問は持たない。
自分が信じていることを基準に判断していて自分中心に物事や人を見ているのだ。

 

韓国人に日本や日本人を嫌っている人がいるのは、韓国の反日教育のせいであると言っている人がいたが、私は違うと思っている。
韓国人みんなが日本や日本人のことについて悪く言っていることを知っても、日本人や日本を悪く思ったり、嫌うとは思えない。
日本人が日本人を嫌ったり、見下したり、日本のことを悪く言っている人がいるのは多くの日本人も知っていることだろう。
日本人が日本人を色んな理由で嫌っている理由を、日本人が日本人に反日教育をやっているから日本や日本人を悪く思っているとは思わないだろうに、
なんで外国人の場合は反日教育から日本人を嫌っているというようなこと言う人がいるのだろうか?

誰かや何かを悪く言っているのを見聞して、自分も同じように嫌われている対象を色んな理由から嫌う人がいるが、みんなが嫌いはしない。自分が正しいと信じていることをやらない人に対して、教えられていないからやらないとか、知らないからやらないのだという理由を付ける人がいるが、じゃあ、日本人の多くがイスラム教やキリスト教や、それ以外の宗教と言われているものを知っているのに信じていないのは何でなのかということになる。
みんな自分が知っている決まりのほとんどなど正しいことだとは信じていないだろう。
それなのに、自分が正しいと信じていることをやらない人に、
知らないからやらないとか、教えられてないからやらないなどと理由を付けたりする人もいるのだ。

日本人が乱や戦や戦争をやってきたことについて、昔の日本人も今の日本人もみんなが同じことなど思っているわけがないのだ。
日本人が戦争をやったことについて、日本人が日本人を悪く思っている人には自虐しているなどと言う人もいる。、
日本人を悪く言いたくない人は日本人を悪く言う人に不満を持つ人もいるが、そんな人たちも日本人の中の一部のことは
見下していたり、悪人だと思っているので悪く言うのだ。
自分が好きな人について誰かは「この人はこんなにいいことをやったいい人なんだよ。私がこの人を好きだから、
他の人もこの人を好きにならなければいけないんだ。」というようなことを思う人もいるだろうが、自分がいいことだと思うことを他の人は良くないと思う場合もあれば、善人だと思う人がやれば良く言うのに、
悪人だと思う人がやれば偽善者や偽善行為などと言ったりして
真逆の評価をしたりするのだ。人間は自分が思いたいようにしか思わないのだ。

「何が正しいのか分からないから」とか「何が正しいのか分からないこの世の中で自分の信じたことをやる心の強さ」というようなことを言う人がいる。
自分が信じていることをまかり通らせたり、自分に都合のいいことをしている人を正当化させるには、この言い分は都合がいい言葉だ。
正しいことが何かは分からないから、自分がやりたいことをやり、自分がやったことは正しいことだと信じて、自分が正しいと信じていないことを信じている人のことは見下したり、刑法違反ならば逮捕したりする勝手なことをやっているが、みんな泳がされていて、野放しにされているところがあるのだ。
自分や誰かがやったことに不満を言う人に、「やっていない人に言われたくない」という人がいるが、何かをやった人にも気に入らなければ不満を持ったり、止めてきたり、裁判起こしたり、逮捕したりなどするのだから、
自分が気に入らなければ何かをやっても、やっていなくても不満を持つのだ。

日本人に「人は物事がうまくいかない時に自分を責める。みんなそうだろうけど」というようなことを言っている人がいた。
「物事がうまくいかない」というのは言い方を変えれば「自分の思い道りになっていない」とか「自分の信じている通りにならない」とも言える。
物事がうまくいかない時に人が、うまくいかないことを自分に問題あり、自分せいだと思っているだけなのならば、
誰かや何かのせいにはしないし、他人を問題視はしないだろうが、現実の人間の中には物事がうまくいかず、自分の思い道理になっていないことを、自分以外の誰かや何かのせいにしている人がいるのは分かり切っていることだ。
自分の思い道りにならなかった時に思うことに、自分のせいではない、自分の責任ではない、自分は悪くない、自分は間違っていない、
自分が正しいなどと思ったり、自分が信じていることをやらなかった人や、自分の思い道りの言動を取らなかった人のせいにしているのを、相手が間違っている、あの人のせいだ、あの人の責任だ、子どもは悪くない親が悪い、政治家が悪い、子どもがおかしいことするのは大人がおかしいから、社会が悪い、常識なっていない、非常識、分かってない、マナー違反、モラルの欠如、ダメ人間、低俗、低レベル、獣、畜生、悪魔、人のこと考えていない、勝手、自己中、わがまま、独裁的、支配的、
調子乗っている、親に甘やかされたから、自分ばかりが正しいと思ってる、運が悪い、親の因果を背負った、他人のお荷物背負わされた、
自分の人生返してほしい、謝れ、嫌い、運が悪い、などと言っていたりする。
どう見ても、物事がうまくいかずに、自分の思い道りになっていないことを、自分以外の誰かや何かのせいにしているところが人間にはあるのだ。

他人のせいにしていないのならば、自分の思い道りにならなったことに、他人に対して不満など持たないだろうし、
相手を変えさせようとしたりしないだろうし、謝れなど言わないだろうし、逮捕などしないだろうし、裁判など起こさないだろうし、嫌がらせなどしてこないだろう。
自分が感じていることや、信じていることに根拠のない自信を持っているところが人間にはあり、人や物事を自分の思い道りにさせようとしているところがある。

自分の仲間や尊敬する人が、ある言動を取ってうまくいかなかったら、その人たちのせいにしない人が、どうでもいい人や、見下してい人が同じ言動を取ったら許さずに不満を持ったり、嫌がらせをしてきたり、攻撃してくるような人がいるのも、物事がうまくいかないことを自分のせいにしているのではなくて、どうでもいい人や、見下している人のせいにしているのだ。

人には色んな人がいて、自分の思い道りにならずに、物事がうまくいかないことを自分以外の何かのせいにしやすい人と、
あまり自分以外のせいにはしない人もいるだろうが、
「物事がうまくいかない時に人は人は自分を責める」と言っている人も、人が自分以外の誰かや何かのせいにしていることを知っているだろうに、
人間のことを良く言いたいから、こんなことを言っているような感じがする。

あいさつをしてほしいと思っている人があいさつをしなかったら不満を持ち、影で不満を言ったり、本人のいる所で不満を言ったり、
悪態ついたり、嫌がらせしてきたり、身体暴力をやる人がいたり、
あいさつしていても、あいさつを返した人が元気のない愛想のないあいさつをしたと不満を書いている人が相手に
問題があるとブログに書いている人がいたりするのも、自分に問題があるとは思っておらず、相手のせいにしているのは見え見えだろう。
あいさつ返しは根拠がなくても正しいのに、自分の思い道りにならずに、物事が自分の思い道りにならなかったのは、
自分が正しいと信じていることをやらなかった人の責任で相手に問題や原因があると思っている。
あいさつさせたい相手があいさつしなかったことで、あいさつしなかった人を嫌ったり、見下しているのも、自分に問題があるとか、自分のあいさつ返しが正しい信仰が間違っていると思ったのならば、あいさつしなかった相手を嫌ったり、見下したりはしないだろう。

 

 

22.同じことを思っていない

 

誰かが信じていることは他の人は信じていない。頭では分かっていても実際は分かっていなかったりするのだ。
私の母親の信じていることで、ほとんどの人は絶対に信じていないであろうことがある。
数年前に、カタログから欲しいものを選んではがきに書いて送ったら、選んだものが送られてくるカタログを貰っていて、
はがきには「○○センター行」というような文字が印刷されていたのだが、行きの文字を消して「御中」と書けと母親に言われた
ので、私は御中と書くのを拒否したのだが、私の母親は、「御中と書かない人は書かないといけないことを知らないから書かない」というようなことを言っていたり、「自分のところに出すのに様とは書かない」というようなことを言っていた。私の母親は行と書いているのを様というように捉えているのだろう。
これと同じことを私が小学生の時にも一回言われたことがある。
小学生の時に通信教育のチャレンジをやっていたのだが、そこに郵便で出す封筒があって、その封筒に文字が初めから印刷されているのだが、
その封筒に御中と書けと言っていた。私の母親は手紙やはがきの一部には御中と書かなければいけないと信じているみたいだが、
みんながそれを正しいとは信じていないし、チャレンジの封筒とか、カタログのはがきは届い先で人が御中と書いているのかどうかを確認している人などいなさそうだ。

私が20代前半ぐらいの時に、私の母親が私と私の姉のことを、「二人とも今時の感じじゃない」というようなことを言っていたのだが、
私の母親も、それ以外の人もほとんどの人の外見など知らないだろう。私の母親やそれ以外の人が、今時の感じという言葉で言いたいことは、
テレビや雑誌に出てきている同年代の人と同じ外見や雰囲気ではないと言いたいのだろう。
今の10代や20代の人にギャルという人がいても、世界中の同年代の人はギャルファッションなどやっていないだろう。
若い人がみんな同じ服装やファッションをしているわけがないが、一部の人の外見を見て、この年代の人の多くはこういう外見なんだと勝手に信じ込んでいる人もいる
のだろう。あいさつも、ほんの一部の人にしかあいさつしていないのに、その一部の人が全員オウム返しをしてきたら、他の人もみんなオウム返しをしてくると信じて、思い込んでいる人がたくさんいるのだろう。

数年前、私のおばあちゃんが入院していた病院に行った時に、おばあちゃんが看護師の女の人に採血された後に、私がありがとうございましたと言った後、おばあちゃんの手を抑えていた介護士の女の人が部屋を出て行った後に、隣の部屋から喋り声など聞こえていなかったのだが、
別の介護士の若い女の声で笑い声がした後、同じ女の声で「わざとらしい」と言う声が聞こえてきて、その後に「今時の感じじゃない」と言った。
若い介護士が言ったのは私のことを言ったと思っている。おばあちゃんの手を抑えていた方の介護士が部屋を出て行った後すぐに、若い介護士に
私が採血後にありがとうございましたと言ったことを腕を抑えていた看護師が若い看護師に言ったのだろう。
それを聞いた若い介護士が採血後にありがとうと言ったことををおかしいと思って、わざとらしいと言ってそうだ。今時の感じじゃないと言ったのも私の外見のことについて言ったと思っている。
私の母親と同じで、ほとんどの人のことを知らなくても知っているかのような知ったかぶりをしているのだ。
採血後にありがとうと言っていることにも、みんなが同じことは思わないだろう。おかしいと思う人もいれば、おかしと思わない人もいるだろう。
同じ服装をおしゃれとか、センスがいいと思う人もいれば、カッコ悪い、ダサい、センスが悪いと思う人もいるのだ。
御利益信仰はあさましいと言っている人もいたり、コンビニ店員に清算後にありがとうと言っている人のことをおかしいと思っている人もいるが、
ほとんどの人は同じことは思わないだろう。
自分と同じことを思っている人を例外あれど普通という言葉で言い表し、同じことを思わない人を変わっているなどと言いやすいのだろうが、
大勢と同じことを思ったり、やったりしていることを普通と言い、大勢と違うことをやったり、思っていることを変わっていると言うとすれば、
誰でも普通で誰でも変わっているのだ。

 

 

23.人間は自分が思いたいようにしか思わない

人間や人と言われている人達について全て同じ人間だと思っている人などいないだろう。
人間の中には、同じ人間だと思っていないのに一部のことにおいてはみんなが同じことを信じたり、思わなければいけないと思っている人がいるのだ。
その一つがあいさつをされたら、あいさつを返せということだ。
同じ人間だと思っていないのに、初めにあいさつしたら、みんながあいさつ返すことが正しいと信じていることでは、みんなが同じことを思っていると信じているのだ。

あいさつを返されたいのにあいさつ返しをされなかったり、初めにあいさつさせたい相手が、初めにあいさつしてこないことに不満を持つ人は例外あれど、相手を大切だと思っていなかったり、どうでもいい人だったり、元々嫌っている人や見下している人で軽視して軽く見ている相手だから、
自分の思い道理にあいさつしないことを許さないのだろう。子どもがやることが許されやすいところがあるのは、多くの大人が子どもが好きだから許したり、大目に見たりしやすいところがあるからだ。あいさつを返さなかった人に嫌がらせしたということをネットに書いていた人が、子どもでもないのにあいさつ返さなかったというようなことを書いていたのだが、これも大人と子どもを大きく二種類に分けていて、大人なのにあいさつを返さなかったから許さないと言っているのだ。
あいさつのことにおいて、自分が正しいと信じているのに自分が正しいと思うことをやらないから不満を持ち、相手を攻撃しに行く人もいる。

花などの植物や野菜を栽培する時に多くの人は、ネットや本や人から栽培方法を教えてもらおうとするだろう。
自分が花や野菜を上手く育てようとする時に、その花や野菜がどんな性質なのかを全く知らないか、よく知らないので、よく知っている他の人から栽培方法を教えてもらおうとする人が多いだろう。
自分や他の人にはない、自分に都合のいい良い利点がある花や野菜などが上手く育ってほしいから、栽培を失敗したくないから、栽培方法を調べて、その花や野菜の性質に自分が合わせようとするのだ。
乾燥を好むなら水はあまりやらないようにし、夏の暑さで枯れやすい花なら日陰に移動させたりするのだ。
自分がまた見たいと思う好きな花は残ってほしいので、うまく咲くように気をつかうのだが、あいさつの場合は、あいさつを返させたいと思っている相手は大切ではない、どうでもいい人の場合や嫌いなだけの人だったりする場合が多いだろうから、相手に配慮などしない場合が多いのだろう。

あいさつを初めにしたり、あいさつ返しした人を良く言って高評価したい人は、大切ではない人や嫌いなだけの人にあいさつをしたことが相手への配慮で気を利かしたなどと良く言う人もいるだろう。
大切ではない人や嫌いなだけの人などを軽視して軽く見ている人やどうでもいい人に、自分の時間やエネルギーや気を使ってあげたのだから、
相手も自分にあいさつを返すということをしなければいけないのだと思っている人もいるだろう。悪く言えば、恩着せがましい、押し付けがましい。
あいさつ返しをさせたいから、あいさつを初めにしたのだから、あいさつを返せと見かえりを欲求していることを社会のルールやコミニケーションなどと言えばカッコが付くのだろう。
人間は何から何まですべてが同じだとは思っていなくても、あいさつしたら、みんながあいさつを返すと信じている人がたくさんいて、
知ったかぶりをしているのだ。

あいさつにおいては、みんながあいさつを返すことを正しいと信じているとか、みんながあいさつを返したいと思っていると勘違いしている人がたくさんいる。
花で乾燥を好むものに水をたくさんあげて、その花がダメになった時に、花に対してダメな花だとか、「自分は花を見たくて気を使ってたくさん水をあげたのに、花の株すべてがダメになったから愛想がない花だ」などとは言わないだろう。
自分がその花のことを良く知らないのに、勝手に適当に水をあげたりして、水のあげすぎで根腐れして花がダメになっても、
水をあげていた人が優しい人だと褒められる場合もあるのだ。
花とかの植物に対しても人間に対しても、相手のことを全く知らないか、ほとんど知らなくて、適当に自分がやりたいようなことをしている人が、大勢と同じことをしていたり、大勢が高評価するようなことをした場合は、植物がダメになっても、人が嫌がっていても悪く言われにくいところがある。
大勢と同じことをしている人を素晴らしい人や正しい人だと思っている人もいて、少数派が白眼視されたり、バカにされてナメられやすい。
上に見ている人や多数派のやっていることは取り入れやすいところがあるのが人間だろう。
例外あれど、少数派を軽視してバカにしているのだ。だから、あいさつを返さない人が変な目で見られたり、攻撃されたりする場合がある。
例外あれど、好きな人や尊敬している人などや、自分にはない利点がある人や花などには、相手の信じていることや、やっていることを尊重しやすかったり、相手に合わせやすいが、どうでもいい人や見下している人や嫌いなだけの人などのことは尊重はしていないので合わせない場合が多いだろうが、
例外もあり、どうでもいい人や見下している人や嫌いなだけの人がやっていることが大勢と同じことをしているのならば尊重する場合もあり許したりする。

白檀(びゃくだん)というサボテンがあるのだが、このサボテンについてネットで誰かが、この花が咲いているのをあまり見ないのは優しい人が多いからだというようなことを書いている人がいた。このサボテンは数か月ぐらい水をやらないようにしないと花が咲かないらしい。
白檀に花が咲かない理由が水をやり続けているから花が咲かないのは水をあげている人が優しい人だからだと思う人もいるのだ。
優しい人などいないとも言えるのだが、自分が素晴らしいと思うことをやっている人のことや、自分に都合のいいことをしている人のことは
高評価して優しい、いい人だと褒める人が多いのだ。

自分の都合や、自分の言葉の定義で何かを評価していて、自分中心の判断をしていて、勝手な個人的な評価をしているだけだ。
白檀がどういうサボテンなのかを知らないのに、水をずっとあげているのも、他の花に毎日のように水をあげていてもダメになっていなくて花が咲いているから、白檀も同じであると勝手に思って水をあげ続けているのは不勉強だとか、バカだとか、白檀のことを調べてないことがいい加減だとか、適当だという言葉では言い表さずに、優しいと言う人もいるのだ。

あいさつも同じことで、関わる気もない人や、どうでもいい人や、嫌いなだけの人や見下している人にあいさつを返させたいから、初めにあいさつをすることを、コミニケーション、素晴らしい人などと良く言って褒めている人もいるが、あいさつを正しいと信じていない人など嫌がっている人もいるのだが、嫌がっている人がいるのを知らなかったり、知っていても大勢と同じことをしているあいさつしている人の方を褒めて、嫌がっている人がいることを知らないことを、バカで鈍いところがあると思う人はあまりいないだろう。
白檀のこともあいさつも同じで、白檀やあいさつを返させたい人のことを全くか、ほとんど知らないし、知る気もない人の方がやさしいとか、
素晴らしい人などと言われて褒められて、片方を高評価するが、乾燥を好む植物自体が何を思っているのかとか、あいさつを返させたい相手が何を信じているのかの相手の内面のことや、体調はどうなのかを全く分かっていなかったり、分かる気もない人の方が一方的に他人に働きかけるようなことをしても褒められる場合もあるのだ。
同じことをやっても良く言う人もいれば、悪く言う人もいて自分が思いたいようにしか思わず、誰でも自分中心に人や物事を決めつけているところがある。

 

数年前に叔父が話していたことで、叔父が近所の人と話していた時に肩の調子が悪いということを喋ったみたいだ。
後日、叔父が喋った相手と会った時に肩の調子について話題に出してきたらしく、叔父はその人のことを、心の底から優しい人だと高評価していて、普段色んなことをやっていたら以前聞いたことを忘れているだろうに、
覚えていたのは優しい人だからだと思ったようだ。
他の人が肩のことを話題に出したことを知っても、優しい人だとは思わない人もたくさんいるだろうが、同じことに対しても同じことなど思わなくて、自分が思いたいように思うだけだ。

優しいなどと言われている人は、自分のやりたいことをやって、それが他の人にとって都合がよかったり、自分が素晴らしいと思うことをやったから、優しいと言われて良く言われているだけなのだ。
自分が勝手に信じている正しくもないことをまかり通らせて、誰かに働きかけるようなことをして一方的なことをやっている人も、
それが都合のいい人には褒められて、それが都合が悪い人からは不満を持たれるだけだ。
誰かのやったことを悪評価、低評価する場合には、甘やかしすぎとか、過干渉とか過保護とか、子どもに甘いなどと言っていたりするが、
誰かが褒めたことでも、他の人ならば高評価はしないのだ。大勢に都合のいいことや、大勢が正しいと信じていることは、
常識や社会のルールや優しさ、気遣いなどと良く言うのだろう。
人が嫌がることをしても、嫌がることをした方が良かれと思ってやったと思えば優しい人や思いやりなどと言い高評価されて、
誰かの利益になることをしても、やった人を悪人だと思えば、偽善者や偽善行為などと言ったりして悪く言う人もいるのだ。

 

若い人の中にテレビや雑誌に出てくる同年代の若者と同じような服装やファッションをしている人がいるのを見た時に、
「今時の子」と思ったり、言ったりする人がいるが、それは見た目、外見の表面、うわべだけを見て分かっているようなことを言っているだけで、同じ服を着ていたり、同じような服を着たり、同じようなファッションをしている人達が、なんでその服やファッションをしているのかの動機や理由や信仰心などの内面の部分を分かっていなかったり、分かる気もない人もいるのだ。

着ている服や身に着けているアクセサリーなどのファッションは好きで身に着けている場合や、親や恋人の好みや要望で着ていたり、職業上の制服だから着ている場合や、周りの人と同じような格好をしていないとバカにされたりしたくないからやっている場合や、以前に自分の服装やファッションをバカにされたことなどがあって、それが嫌だから好きでもないし、
嫌いな服装やファッションをしている場合など、色々な理由で服やアクセサリーなどを身に着けているのだ。
表面的には全く同じ服などを身に着けていても、目に見えない中身の内面までが同じ理由や動機で同じ服を着ているということにはならないのだ。
多くの人は、人の外見は見たくなくても目に入ると、それを意識することになるので、勝手に自分が思いたいように思い、自分が信じたいように信じるのだ。
あいさつも同じことで、あいさつしている人や、オウム返しであいさつを返した人や、あいさつをされて会釈だけした人が、なんでその反応をしたのかも、自分が思いたいように思い、信じたいように信じているだけのことだ。

 



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