くるみの世界

金でやっていく世の中や、あいさつが正しいとされていることは
間違っているということを主張したいです。

脱あいさつ あいさつは正しくない8

2022年10月17日 | 脱あいさつ

目次
第1章から第9章へのリンク
第10章から第12章へのリンク
第13章から第20章へのリンク
第21章から第23章へのリンク
第24章へのリンク
第25章から28章へのリンク
第29章から37章へのリンク
38.世にも奇妙なあいさつ
39.ことわざとあいさつ信者の適当さ、いい加減さ
40.自分がやりたいことを勝手にやっている人は問題視されずに、周りの人などの他の人が悪く言われる場合がある
41.あいさつ信者は水戸黄門ならぬ、あいさつ黄門だ
42.あいさつとDVD-RW
43.あいさつ信者という危うきに近寄らずや、触らぬあいさつ信者に祟りなしというわけにはいかない
44.近所の50代ぐらいの女の人のあいさつの謎
45.あいさつと葬式
46.関電と元助役の人の関係に見る他人の姿は自分の姿
47.誰を基準にしているのか?
第48章から第52章へのリンク
第53章から第56章へのリンク
第57章から第59章へのリンク
第60章から第67章へのリンク
第68章から第75章へのリンク
第76章から第81章へのリンク
第82章から第86章へのリンク
第87章から第93章へのリンク
第94章から第99章へのリンク

 

38.世にも奇妙なあいさつ

昔、テレビ番組でタモリという人が出ていた「世にも奇妙な物語」というテレビ番組があったのだが、この番組の題名(タイトル)のような言い方であいさつする人やあいさつのことを言い表せば、
「世にも奇妙なあいさつ」「世にも奇妙で変なあいさつ」「世にも奇妙なあいさつ信者」「世にも奇妙で変なあいさつ信者」「世にも奇妙で変なあいさつする人たち」「世にも奇妙で変な一部の人にだけあいさつする人たち」「世にも奇妙で変な一部の人にだけあいさつさせたい人たち」
「世にも奇妙で変なあいさつ信仰」「世にも奇妙で変なあいさつ宗教の信者たち」「世にも奇妙なあいさつの決まり(ルール)」「世にも奇妙な差別あいさつの決まり(ルール)」という感じだ。  

一部の国民のことを変人や変な人、変わり者などと呼んで他の人と差別化するようなことしている人がいるが、
こういう人はほとんどの人のことは変とは言わないだろう。
言葉というのは人によって同じ言葉でも違う定義、意味付けで使うので、同じ言葉を同じ意味で使わない場合もあるわけだが、
他の大勢と違うところがあることを変と定義づけるとすれば、みんな変なのだ。

大勢と同じことをしているところがあっても、おかしいと思うことをしていたり、間違っていることや不正を正しいと言っていることを変と言うとすれば、あいさつも変だし、あいさつする人も変な人である。

ほとんどの人のことを普通の人などという言葉で片づけたい人もいるだろうが、国民のことを「世にも奇妙で変な国民たち」とも言えるし、「大勢と同じことをする変な人たち」とか「大勢と同じことを正しいと信じる変な人たち」とか「世にも奇妙で変な大勢と同じことをするという演技をする人たち」とも言える。

私は今30代だが、10年以上前の20代半ばの時、大阪に住んでいたある日、新大阪駅に行ってた時にある本を買ったのだ。
私は昔も今もそんなに本は読まないのだが、新大阪駅の売店に売ってあったある本が、たまたま目についた。
題名に魅かれて私はその本を買ったのだ。
その本の題名(タイトル)は「人は見た目が9割」という本だ。
私と同じ理由でこの本を買った人は他にもたくさんいると思う。

本やブログなどでも、人にいかに興味を持ってもらって、手に取ってもらったり、買ってもらったり、読んで持ったり、見てもらうかは
本やブログなどの題名や表紙のデザインが重要だと思う。
もしこの本の題名が「人は見た目が大切」とか「人は中身が大切なのは言うまでもないけど、見た目も大切」とか「見た目にこだわろう」とか
「人は見た目が2割」とか「人は見た目が重要」などの題名だったら買っていなかったと思う。
中身の内容が同じであっても、題名や表紙のデザインで売り上げは変わるだろう。
同じことを言い表すのに言葉のいい方を変えると印象が変わるのだ。
大勢が嫌がる言い方や大勢が好む言い方などがある。

 

 

39.ことわざとあいさつ信者の適当さ、いい加減さ

ことわざに、一犬影に吠ゆれば百犬声に吠ゆ(いっけんかげにほゆればひゃっけんこえにほゆ)というのがあるのだが、
この意味を誰かは「一人の人間がいいかげんなことを言うと多くの人が、それを真実として広めること。」などと言っている。

別のことわざに、一人虚を伝うれば万人実を伝う(いちにんきょをつたうればばんにんじつをつたう)というのがあって、
このことわざの意味を誰かは「一人がウソを言うと、これを聞いた多くの人が、それを真実として言い広める」などと言っているのだが、
あいさつ信者の人もこんな感じだろう。
誰か一部の人がやり始めたあいさつを知り、あいさつ信者は自分に都合のいいようにあいさつを利用して、ごく一部の人にだけあいさつして、
ほとんどの人にあいさつしなくてもいいと勝手な信仰を持っているあいさつ信者達。

正しくもないことや、ウソを正しいと信じることは、特に大勢がやっていると正しいことだと信じこむ人が多いのだ。
誰でもバカで頭が悪いところがある。こういう適当でいい加減なことをしていても、あいさつする人や、
あいさつ信者は真面目な人とか、躾がなっている人とか、あいさつできる人は素晴らしいなどと言われて褒められたりして良く言われるのだ。
あいさつが正しいというウソも、ウソでも多くの人が正しいと信じれば、その多くの人は勝手に正しいと信じるのだ。

あいさつをすることは正しいことではないし、やらなくてもいいが、多くの人はあいさつされたらオウム返しであいさつを返さなければいけないとか、
最低限は会釈を返さなければいけないと信じていたり、一部の人に対して初めにあいさつをしなければいけないと信じている人もいるが、
それが正しい根拠もないし、正しいことでもないのに、自分が勝手に信じているあいさつを一部の人にしなければいけないという決まり(ルール)を他の人にも広めているのだ。

「一人虚を伝うれば万人実を伝う(いちにんきょをつたうればばんにんじつをつたう)」ということわざにあいさつのことを当てはめて言えば、
「誰かがやり始めた正しいという根拠もないし、やらなくてもいいあいさつを、多くの人が正しいことで真実であると言い広めている」だ。
あいさつを一部の人にだけして、あいさつされた人があいさつを返さなければいけないと信じるあいさつ信者の適当さ、いい加減さ。
誰か一人がやっていることを大勢がやると正しいことだと信じられやすい。
一人が発明したもので、大勢がやっていなくても、大勢の役に立つものを発明すればエジソンの様に褒められたりするが、
大勢がやっていないことで大勢が悪いことだと思っていることや大勢が迷惑するようなことをやると不満を持たれやすい。

日本人はきっちりしていて真面目だという人もいるが、それは日本人の一面であり、いい加減で適当なところもたくさんあるのだ。
正しくもないことが正しいこととされていることだらけだが、その正しくもないことを正しいと信じているところは誰にでもあるだろうが。

 

 

40.自分がやりたいことを勝手にやっている人は問題視されずに、周りの人などの他の人が悪く言われる場合がある

 

私が今住んでいる家から少し離れた所に畑がうちの畑があるのだが、
母方のおばあちゃんが畑作業をしていた時期に、私が住んでいる家のリビングに私と叔父がいた時に、叔父が私の目を見ずに大きい声で「わけーもんがやらずに、年寄りがやっとるがな」というようなことを言ったのだが、
意味は私への不満、嫌みだろう。畑作業を私がしていないと不満を言っているのだが、叔父が畑作業を楽しみでやっていたり、他の人に畑作業をやられたくないのなら不満は言わないだろう。
おばあちゃんは野菜などの種をまいたり、それを収穫したりなどしていたが、叔父は野菜のことはやっていないと思う。
叔父が畑に果物の苗木をいくつか植えていて、それに水をやったりしていただけだろう。
おばあちゃんが私に畑作業を手伝ってと言ってきた時には、私は大体手伝っていたが、叔父はそれを知らないのだろう。

叔父はおばあちゃんが、なんで畑作業をしているのかの理由について、その時々で言っていることが違うのだ。
一字一句はっきりと覚えていないが、ある時にはおばあちゃんが畑作業をしていることを「年寄りは人のために、人のためになんだよ」というようなことを言っていた。
「おばあさんが取りたいだろうから残しておいた。」というようなことを叔父が言っていたのだが、はっきりと覚えていないが、
叔父はなすびのことを言っていたと思うのだが、おばあちゃんが野菜の収穫をしたがっているだろうから自分は野菜を取らずに残しておいたと言っているのに、一方では、年寄りは人のためにやっている人だから畑作業をやっているかのように言っていて矛盾したことを言っているのだ。

叔母が数年前に私が住んでいる家の固定電話に電話かけてきて、私がその電話に出た時に叔母がおばあちゃんの畑作業を手伝ってあげてというようなことを言ってきて、それに対して私が手伝っていると言って返答をしたら、
一字一句覚えていないが、叔母は世間体があるからというような感じのことを言っていたと思う。
その電話を切った後、私の母親の携帯に叔母から電話があったみたいで、
おばあちゃんにあまり畑作業やらせるなと言っていたのではないかと思う。
90代ぐらいの年寄りが一人で畑作業をしていたら、近所の人などから変な目で見られる場合があるとでも思っているのだろう。
おばあちゃんが日が暮れて暗くなっても畑作業をしている時があって、
私の母親が、「ふうが悪いから」などとおばあちゃんに言っていた。
私の母親は近所の目などの世間体があるから暗くなるまでやってほしくないと思っていたみたいだ。
はっきり覚えていないが近所の誰かが、うちのおばあちゃんが畑作業をしていることを「家に帰りたくないんだぞ」と言うようなことを言っていたらしい。

おばあちゃんが畑作業をやっていたのは、畑作業をやることを好きでやっているように思えた。
そもそも、体調がすごい悪い人や、畑作業をやりたくない人が、一日に数時間も畑で作業するとは思えない。
手伝ってくれとおばあちゃんに頼まれたから畑に行った時に、私が近くにあったクワをなんとなく持っていたら、数メートル離れた場所にいたおばあちゃんが私の方に来て「あんたにはできない」と言って、
私が持っていたクワを取って、土にクワを入れだした。エンドウマメの支柱を作ることをおばあちゃんから私が頼まれた時も、
私が縦と横の棒を紐で結んだところを、後から紐をほどいていた。結び方が気にいらなかったのか、紐の位置が気に入らなかったのか知らないが、
おばあちゃんは私に畑作業を手伝って欲しくて頼んでも、この畑は自分のもので自分のやり方でやりたいと思っていたような感じがする。

2月か3月ぐらいの時に、ジャガイモをおばあちゃんと植えていて、翌日ぐらいに畑に行った時に、ジャガイモを植えた土の上にワラを置いていたのをおばあちゃんが取っていて、土からジャガイモを取り出していて、
深く植えているから、というようなことを言っていたと思うが、ジャガイモを植え直していたのだが、冬は野菜は畑でやることがあまりないから、ジャガイモの植え方に問題があるかのように理由を付けて、他にやることがないから、ジャガイモを植え直していた可能性があると思っている。
私がおばあちゃんの畑作業を手伝っていないから、おばあちゃんが畑作業をやっているのではなくて、おばあちゃんは自分がやりたくて畑作業をやっているのだ。他の人がおばあちゃんに畑作業をやれなどと言っていなくても
勝手にやっているのに、叔父は私が畑作業をやらないで、年寄りの方が畑作業をやりたくもないのにやっているとおかしいことを思っていて、
いい加減なことを思っている。

畑作業のことで言えば、叔父と同年代ぐらいの男の人が畑作業しているのだが、その男の人は九州出身みたいで、叔父が九州の人は働き者と言っていたり、畑作業をやっていることを褒めていた一方で、
畑作業が趣味であるかのようなことも言っていた。

誰かが畑作業をしているのは、農家の人ならば自分たちが生活していくことなどに金が要るので、金を得るためにやっていたりするだろうが、
農家ではない人は金を貰うためではなく、別の動機や理由でやっているわけだ。
あいさつもこれと同じように、同じ理由であいさつしているわけではないのだ。
あいさつする理由を社会のルールや人間のルールや常識などと言ったり、親の真似をしてあいさつしているなどと思う人は、
あいさつしている人の本当の目的、動機、心理を分全くか、ほとんど分かっていなかったり、分かる気もないのだろう。

あいさつ信者が勝手にあいさつが正しい信仰を持ち、ごく一部の人にだけあいさつを求めて自分の言いなりにならないと
わがまま勝手に不満を持ち、自分が感じたことが正しいと間違ったことを思っているのも、私が畑作業をやっていないかのように勝手に決めつけて、
私にケチ付けている叔父も同じようなものだ。

天皇に色んなものを背をわせて悪い気がする、というようなことを北野武が言っていたのだが、ほとんどの人は同じことを思わないだろう。
天皇家の人は法律や大勢の人から特別扱いされて、他の多くの人とは違って税金からたくさん金を貰えていたりして、
国民が天皇家を背をっているとも言える。国民がやっていないことを天皇がやっていて、大変なんだと言いたい人もいるだろうが、
国民も天皇がやっていない色んなことをやっている。

誰かが何かをやっていると、何かをやっている人の方を高評価して、大変なことをしていて偉いと褒められる場合があり、
こういう人の周りの人や、離れた所にいる人の方が不満を言われたりして悪く言われる場合もあるのだ。
子どもを悪く言いたくない人が、子どものやることや、やらないことで不満があると、子どものせいにはせずに、周りにいる大人や、離れた所にいる大人のせいにしてきて、子どもを問題視せずに大人を問題視しているのも同じことだ。
例外除いて、初めに何かをやった人が高評価されたり、色んな理由でその初めにやり始めた人のやっていることを取り入れている人が
正しいとされのだ。取り入れている人の人数が多ければ多いほど、人間の正しさだと多くの人から勝手に信じられる。
その代表的なものが、あいさつが正しい信仰や、金でやっていく世の中が正しい信仰や、子どもは学校に行くことが正しい信仰だ。

 

 

41.あいさつ信者は水戸黄門ならぬ、あいさつ黄門だ

 

あいさつを初めにしてきた人にオウム返しであいさつを返さなければいけないという信仰は、あいさつを初めにしてきた人の方が正しくて、えらい人で、上の人だから、上の人に合わせて従えと言っているような感じでもある。

水戸黄門というドラマで助さんか、格さんさんが「この印籠が目に入らぬか。こちらにおわすお方をどなたと心得る。
恐れ多くもさきの副将軍水戸光圀公にあらせられるぞ。」と言って、水戸黄門が出てくる。
水戸黄門という上の立場の人はお前たちより上の立場であり、正義なのだから、悪人は水戸黄門に従えよという上から目線だが、
あいさつも同じようなもので、あいさつしたら返すことが正しいと信じている人が正しい正義なのだから、あいさつを初めにした人が素晴らしい人で正しい、えらい人だから、あいさつされた人は
あいさつを返せと言いたい人もいるのだろう。

「この印籠が目に入らぬか。こちらにおわすお方をどなたと心得る。
恐れ多くもさきの副将軍水戸光圀公にあらせられるぞ。」と言っているのに似せて、あいさつのことを言うとすれば、「あいさつをしたのが聞こえなかったのか。あいさつを初めにした方をどなたと心得る。
仲間ではない人や、大切ではない人にあいさつを初めにすることが出来るあいさつ黄門様にあらせられるぞ。」という感じだろう。
例外除いて、知らない人や、仲間ではない人や、大切ではない人などに対して、初めにあいさつした人は素晴らしい、えらい人なのだから、あいさつされたらあいさつ返せよとでも言いたい人もいるだろう。
あいさつを初めにした人の方がえらい人みたいになっているところがあり、
初めにあいさつした人からあいさつされた方が初めにあいさつした人に合わせて従ってあいさつを返せというようになっているのだ。
あいさつ返されたがっている人が正しいから、あいさつされた人は返さなけれいけないという間違った信仰がまかり通っている。
あいさつ信者は、あいさつ黄門とか、あいさつ黄門様とも言える。

 

42.あいさつとDVD-RW

 

私が以前DVD-RWに入れた写真などを見ようと家で使っているパソコンにDVD-RWを入れて、PowerDVDというソフトでDVD-RWを見ようと思ったら、このディスクのDVDには対応していませんという文章が出てきた。
誰かがネットに、以前見れていたDVD-RWがWindows10にしてから、同じDVD-RWを認識しなかったと書いていた。

あいさつでは、あいさつを返さない人を、まともな人間だと認識しない人があいさつ信者の中にはいるのだ。
あいさつを返さない人はダメ人間、人間の底辺、人間として下の人であると思っている人がいるのだ。
自分が正しいと信じていることを好きでもない人や仲間だと思っていない人がやらないと許さなかったり、正しい人間だとは認めないのだ。
あいさつしてあげたら、みんながオウム返しをすると信じている人は、
DVD-RWがどのパソコンでも再生できるとか、どのソフトでも再生できる思っているようなものだ。
以前使っていたソフトで再生できたから、別のソフトでもこのDVDは再生できると思って、再生しようとしたら再生できなくて疑問や不満を持っているようなものだ。
いつもと同じようにすんなりと物事が進んでほしいと思っていて、簡単で楽なことをしたいのに、それが出来ずに不快になって嫌な思いをしている人もいるだろう。

パソコンでDVDを見ようとして再生されなかった場合は、再生されない理由をネットなどで調べて、再生できるように自分が今までやったことがないことをやって、使ったことがないソフトをパソコンにインストールしたりするなどして、今までと違うことを取り入れたりする人もいるだろうが、
あいさつを返させたいのに返されなかったあいさつ信者の中には、自分の信じているあいさつ返しが正しい信仰は間違っていないと信じ切っている信者もいるので、あいさつを返さな人の方を変えようとして、あいさつするまでしつこくあいさつしてきたり、本人のいる近くで不満を言ったり、嫌がらせなどをしてきたりして、自分の方を問題視したり、変えようとはしないのだ。
あいさつ信者のことを、「このディスクのDVDには対応していません」という言葉に似た言い方で言い表すと、「自分と同じ信仰を持っていない人は受け付けない場合があり、同じ信仰を持っていない人の信仰には対応しません。だから、あいさつを初めにしたら、オウム返しであいさつしてほしい。私の信仰に合わせてほしい。」という感じだろう。

 

 

43.あいさつ信者という危うきに近寄らずや、触らぬあいさつ信者に祟りなしというわけにはいかない


君主危うきに近寄らずと言うことわざがあるが、徳のある人や身分の高い人は危険だと思うところには近づかないという意味みたいだが、
少し違う意味でこのことわざを使うと、身分が高くなくても徳がなくても(徳の定義は人によって違うが)、自分が危険だと思うところには近づかないようなした方がいいという意味でも使えるだろう。

私が20代後半であいさつが間違っていて不正だと気づき、初めにあいさつしてきて、あいさつを返されたがっている人を嫌に思うようになったが、
出来るだけ住宅街にいるときは、人がいる所はあまり通らないようにしている場合もあったり、私が住んでいる近所に私が初めにあいさつしないことに遠まわしに悪態をついてきたり、直接的に「あいさつもしねーよー」と言ってくる老人がいたり、私が気を付かって、あいさつしてきた人に無言で頭だけ下げて会釈をした後に、白い目や奇異な目で見てくる人が何人かいたりして私も不快だが、こういう人がいる時間帯はなるべく家の外に出ないようにしたりしている。
あいさつ以外のことでも、目つきや表情や態度で私をあからさまに嫌がっている態度を取ってきた人が犬の散歩などに出る時間帯は、あまり外に出ないようにしている。
相手も私のことを色んな理由で気に入らないと思っていたり、嫌っているから私のことを見たくないだろうし、私も悪態つかれたり、
気味悪そうな目で嫌そうに見られるのは嫌なので、どちらにとっても合わない方がいいだろう。
たまに私は予想を外すときもあるが、以前ほどは近所で外に出た時に人を見かけることはなくなった。

私が初めにあいさつしないことに不満を持っている近所のイノウエのばあさんが2021年の8月ぐらいの時の夜7時すぎで外がまだ明るい時に、
私は数時間前に畑の作業をするために畑に行っていて、自転車で畑から帰っている時に数十メートル前にイノウエのばあさんらしき人が犬と
一緒にいて、私がいる方に向かって歩いているように見えた。私がまっすぐに行けばこの人に近ずくことになる。
この人には近くで会いたくないので、ちょうど道が3つに分かれているところに私がいたので、まっすぐには行かずに右の道に行って
遠回りで家の方に向かったら、ばあさんには会わなかった。
近所の人にあいさつするのが人間の正しさだとか、コミニケーションだと信じている人は、相手が本当にあいさつや会釈をしている理由など分からないのだろう。
あいさつを嫌がっている人がいることに気づいていない鈍い、鈍感なところがあり一方的で支配的なところがあるのだ。
あいさつしたから、あいさつを嫌がっていないということにはならない。
君子危うきに近寄らずみたいに、危険だと思うところには近づかないようにした方がいいとは言っても、現実にはそれは難しいだろう。
家から外に出るときや、ベランダに出ている時など、自分が嫌な気持ちになる人と全て会わないようにするのは難しい。
人間は自分が正しと信じているところがあるので、自分が正しいと思うことをやらなかったら、不満や疑問を持ち、本人の目の前で悪態ついてきたり不満を言ったり、影で不満を言っていても、回りまわって本人の耳に入ったりして、不満を言われていることに不快になったりする場合もあるだろう。
近所でも、それ以外の所でも誰かが嫌がることをしたら嫌がられるし、自分が嫌だと思うことがあれば不快になるので、例外あれど、自分が嫌な気持ちになりたくないから、嫌だと思う人とは会わないようにするか、自分が嫌がることをやっている人の方を職場などから辞めさせようとしたりする。
人間は自分が可愛い、我が身がかわいいから、例外あれど嫌な思いはしたくないのだ。

君子危うきに近寄らずと同じようなことわざに、触らぬ神に祟りなし(さわらぬかみにたたりなし)があるが、意味が危険だと思うことに関わりを持たなければ嫌な思いをしたり、不利益を被らないという意味みたいだが、
人間関係においてはそれは無理だろう。長期間家にいる人でも同居人から不満を言われたりして、自分のやっていることを否定されたりなどするだろうし、人間は同じ人間ではないので、人の好き嫌いや信仰心などは人によって違うから、自分が気に入らない言動を取る人間や、
気に入らない外見や体臭などの人などを嫌ったり、自分が嫌がる言動を辞めさせようとしたり、変えさせようとしたりする。
人間は自分が正しいと信じているところがあるので、自分が正しいと思うことをやらないと疑問や不満を持つ。

触らぬ神に祟りなしという言い方より、触らぬ人間に祟りなしと言った方いいような気もする。
触らぬ神に祟りなしいうことわざの意味は人間のことについては「人が正しいと信じていることや人の要望には合わせて従えよ。そうしたら、
相手が嫌な気持ちになったりしないから、不満を言われたり攻撃されることはないから」でもいいだろうけど。
人間は自分が可愛いのだから、自分の思い道理にしたがるから、相手に合わせて従っておいた方が無難だ。
人間は多かれ少なかれ自分に甘いところがあるだろうから、自分の言いなりになった人や、自分が好きな外見をしている人に好意を持ったり、褒めたりする。
自分の言うことを聞いた人に「素直ないい子だ」と言ったりして褒めるのも自分が可愛いので、自分の言いなりになった人を褒める。

触らぬあいさつ信者に祟りなしとはいかないのが現実で、家の外に出たら、あいさつする人の中には人の後ろ側からあいさつしてきたり、
人の目を一切見ずに「自分に合わせて言葉であいさつしてよ」という態度であいさつしてくる人もいて、こういう人に会釈をして気を使ってあげても、
人の目を見ていないのだから会釈していることにも気づかないし、あいさつを正しいと信じていない人がいることにも気づいていないし、
あいさつにおいて自分の思い道りになると信じ切っていたり、目を見てあいさつしている場合でも、オウム返しを求めているのにオウム返し以外の言葉や、会釈や無反応でも不満や疑問を持つあいさつ信者もいるので
あいさつ信者の信仰心と関わらないわけにはいかないのだ。
こういう人を普通の人やコミニケーション能力が高いなどと言っている人もいるのだからバカげている。
人の目を見なかったり、相手と関わる気もない人や、嫌がらせであいさつをしていても、あいさつが正しいと信じている人や、
あいさつを嫌がっている人などがいることを知らない人の中にはあいさつする人を褒める人もいるのだ。
どうでもい人や嫌いな人にも時間や気を使ってあいさつを返させたいからあいさつしてあげたのだから、あいさつ返してほしいと欲求を持っているあいさつ信者は、自分の気持ちは大切で自分の信仰心は守りたいけど、自分と同じことを信じていない人の心など全くか、ほとんど大切でもないのだろう。
自分の信仰がまかり通らなくて無視されたと思ったことを、存在が無視されたなどと言ったりして、あいさつ返しをしなかった大切ではない人に罪の意識を着せて、被害者を気取り、わがまま勝手なことを思っているあいさつ信者もいる。これが一般に宗教と言われているものならば、
人によってはカルト宗教とか言いそうなものも、大勢があいさつ信者であり、あいさつ返しを正しいと信じているから、あいさつ返さない人を悪者にしやすいのだろう。結局、人間は自分が一番かわいいのだ。
給料や印税という形で金を貰っていない人を問題視して不満を言っている人の中には、例外を除いて、ほとんどの人は給料や印税という形で金を貰うことをしなければいけないのに、それをやっていないから許せないと思っている人もいるだろう。
自分の思い道りになっておらず、自分が正しいと思うことをしていないから不満を持つのはあいさつのことでも同じことなのだ。

自分のあいさつ返しが正しいと信じている信仰を一度も否定されたことがないあいさつ信者が多いだろうから、あいさつ返されないことで自分の信仰が否定されたと思い、おかしいと思ったり不快になり、あいさつ返さなかった方がおかしいし、間違っていると思う人が多いのだろうが、
こういうあいさつ信者に白眼視されたり、不満を言われたり、嫌がらせされたくなくても、現実は外に出て人のいる所に行けば、
あいさつ信者という危うきに近寄らないことは難しいことだ。
自分が信じていることに合わせて従ってほしいのが、あいさつ信者があいさつする理由なのに社会のルールやコミニケーションなどと言ってウソを付き、綺麗事を言う。
あいさつして人と関わったとか、コミニケーションと言えばカッコが付くが、あいさつ信者の「この関係の人にはあいさつしなければいけない」「あの子だけが初めにあいさつしてほしい」とか、
「あいさつ返しはオウム返しでなければいけない」とかの信仰心に合わせて
関わってほしい、自分の信仰を知って自分と同じ信仰を持ってほしいという、暗黙で無言の信仰の押し売りをしている。
初対面の相手や、よく知らないし、よく知る気もない人があいさつについては自分と同じ信仰を持っていると勝手に信じきっている人がたくさんいて頭が悪いバカなところがあるのだ。
相手の信仰や要望に合わせた人を良く言う場合は、要領がいい人や大人、やさしい、思いやりがあるなどと言ったりするが、
なんで正しいと信じていないのに、相手の信仰や要望に合わせて従ったのかについては興味さえなかったり、知っていても言わないのだろう。

あいさつ以外のことでも、現実生きていると他の人と間接的にも直接的にも関わらないわけにはいかないので、危うきには近寄らずというわけにはいかないし、触らぬ神に祟りなしとはいかないだろう。
出来れば人間関係で、自分の外見を嫌がっている人とか、自分のやることや、やらないことに不満を以前に言ってきた人や、不満を言いそうな人とは
関わりたくないとか、会いたくないと思っても現実はそうはいかないだろう。



44.近所の50代ぐらいの女の人のあいさつの謎

 
あいさつが正しいと信じている人はあいさつ返しされたらそれでいい人が多いだろう。
相手があいさつした心理、信仰心の方に関心がないから、相手の心を知りたいわけではない場合が多いだろうが、あいさつさせたいと思い、自分の思い道りにあいさつ返したら、自分の信仰心や気持ちが通じたと勘違いしている場合も多々あるだろう。

私の近所に住んでいる女の人で、ほとんど会わないが、私に初めにあいさつしてくるのだが、ほとんど目を見ずにあいさつしてくるのだ。
初めにあいさつしてきた時に斜め前にこの人がいて、この人の目もと見たら、ずっと下向いていて瞼しか見えず、瞳も見えなかった。
別の時に私の左斜め後ろからあいさつしてきて、私は何も言わなかったら、私の横の方で立ち止まって、無表情できょとんとした表情で
私の目をじーっと見ていた。
その後、近所であった時に言葉では何も言わずに私の方は全く見ずに目もあっていないが、下を向いたまま会釈してきた。
この日の前後ぐらいの時、この人に会った時に私の横に来た時に、こんにちはと言って目を見ずにあいさつしてきた。

その後、長い間会っていなかったが、この人に2021年に2回近所で会った時に、この人があいさつしてきた。私が以前に言葉であいさつしなかったことを知っているはずだが、何の目的で言葉であいさつしてきたのかの推測だが、暗い中で以前会ったことがある私だと気づいていないくて他の人だと思っているか、私だと気づいていた場合は、あいさつを以前に言葉でしなかったことに不満を持っていて、言葉であいさつ返すまでしつこくあいさつをさせようとしてあいさつしてきているのか、あいさつを返させる目的ではなくて、適当なあいさつの決まりを決めていて、近所を通りすがる人には
あいさつを言葉で返そうが、返さなかろうがあいさつをしなければいけないという決まりを私が言葉であいさつ返さなかった後に
自分独自に適当に決まりを決めたのか、それとも、あいさつを言葉で返されないことに対する遠まわしな不満を表していて、あいさつを初めにした後に言葉であいさつを返さないことを分かったうえで、わざと嫌味で私にあいさつしてきている可能性もあるのかもしれないと思った。

もう一回は夜の7時代にこの人の夫とこの人が資源ごみを捨てに行っている時に、私がこの人たちの前を通った時に、私の方を見ながらあいさつしてきた。この人の夫はあいさつはしてこなかった。
あいさつしている人は自由にあいさつする人を決めている場合が多いだろうが、ほとんどの人にはあいさつせずに勝手にあいさつしているが、
この人も自由なあいさつしているのだ。ある時には人の目を見ずにあいさつしたり、別の時には人の目を見てあいさつしてきたり、
言葉であいさつせずに会釈をする前後に一切目を見ずに下を向いて会釈するだけだったりして自分独自のあいさつをしているのだ。
この人はあいさつ信者だと思うけど。
この人は言葉であいさつを返さないことをおかしいと思っているみたいだが、人の目を見ずにあいさつしていることを誰かが知ったら、
人の目を見ずにあいさつしていることをおかしいと思う人もたくさんいるだろうけど。
自分がおかしいと思うことをしていないから、人からおかしいとは思われていないことにはならない。

この女の人も私があいさつ返さない理由を分かっていないだろうし、私もこの人が過去にあいさつしてきた理由や、私が言葉であいさつを返さないのを知ってからも私に言葉であいさつしてくる理由は推測は出来ても、実際の理由など分からない謎だし、自分でもあいさつを一部の人にだけさせたがっている理由に気づいていない人もいるだろう。
他の多くの人があいさつしている理由が形だけ表面的にしている人が多いという大雑把なところは分かるが、詳しい理由や詳しい心理などは
分からないので謎な部分がある。
あいさつ信者の人の中にはあいさつしている人の心理が謎と思っているどころか、社会のルールやコミニケーションなどと言い、
あいさつしている人の心理や、あいさつに対する信仰心を分かっているつもりになっている人がたくさんいるのだろうが、実際はほとんど分かっていないだろう。
自分が感じたことや信じていることが正しいと信じることと、本当のことは別のことだ。

知る者は言わず言う者は知らず、という老子が言った言葉があるが、意味が物事をよく理解している人はあまり口に出さないけど、よく知らない人の方が喋るという意味みたいだが、これは当たっている所と当たっていないところがある。
よく知っている人が色んな理由で全くか、ほとんど知っていることについて言わない場合もあれば、よく知っていて、その知っていることについて詳しく説明したり、たくさん書いたり、喋る場合もあるし、
よく知らないことに何も言わない人もいれば、適当、いい加減なことを言ったり、間違ったことを言っている場合もある。
あいさつでも、人間をあまり知らない親や先生が子どもにあいさつしろと言ったり、近所や職場などで、全くか、ほとんど知らない人が絶対にあいさつを返すと自信を持っていて、相手のあいさつに対する信仰心を知っていると
勘違いしている人が、あいさつを正しいとは信じていない人や、知らない人にあいさつをしなくてもいいという信仰を持っている人に、
あいさつを返せと自分の信仰や欲求を押し付けていて、いい加減なのだ。
自分が知らないことがあることに気づいている所と気づいていないところがあるのだ。
人の目を見ずにあいさつする人は少数派だろうが、こういう人を知っている人のほとんどは、他の人の目を見ずにあいさつする人がいることを言わない人が多いだろうし、言ったところで無名な人が言ってもほとんど広まることもないだろう。

知る者は言わず言う者は知らずという言い方に似せて、あいさつ信者のことをいい表せば、「人間をあまり知らない者があいさつしろと言い、あいさつ正しいと信じていない人がいることを知っている者でもあいさつさせたがる者とあいさつをさせたがっていない者がいる」という感じだ。
みんながあいさつを正しいと信じていない人がいることを知ったら、今まで大切ではない人や、仲間扱いしていない人や、関わる気もない人に初めにあいさつしてきた人の多くは初めにあいさつしなくなる人
の方が多そうだが、一部のあいさつ信者はあいさつ非信者がいること知っても、しつこくあいさつしてくる人もいそうだ。

 

45.あいさつと葬式

 

通夜や葬式や法事に行きたくもないのに形だけ出る人を褒める人もいれば褒めない人もいるだろう。
田舎で同じ班の人が亡くなったら通夜や葬式に出なければいけないという決まりがあるところがある。
私の住んでいる所にはこの決まりがある。
ほとんどの人は行きたいとは思わないだろうけど形だけ通夜や葬式や法事に出る人が多いだろう。

どうでもいいと思う人や、全然知らない人や、嫌いなだけの人が亡くなって形だけ通夜や葬式や法事に出ることを良く言って褒める人は常識や常識人とか、普通の人とか、一般的などと言い表すだろう。
大勢と同じことをすることや、自分が正しいと思うことをやっている人を良く言ったり、褒めたり、高評価をするのだ。
一方で形だけ葬式や通夜や法事に出ることをおかしいとか、辞めたらいいとか思っていて、葬式や通夜や法事に出ることを高評価はしない人もいるだろう。
同じことをしていることに、みんなが同じことなど思っていないのだ。

あいさつも同じで、あいさつをする人は例外あれど、仲間だと思っていない人や、大切ではない人にあいさつする場合が多いだろうが、
仲間ではない人や大切ではない人や関わる気もない人にあいさつしたり、人の目を見ずにあいさつしたりすることを素晴らしいとか、コミニケーションとか社交、交流などと良く言って高評価する人もいれば、
大切ではない人や嫌いなだけの人や関わる気もない人に形だけあいさつしたり、人の目を見ずにあいさつすること良く思わなかったり、嫌がる人もいるだろうし、そんな気持ちや理由であいさつするなら、あいさつしない方がいいと思う人もいるだろう。

人の目を見ずにあいさつしていても、あいさつする人は素晴らしいとか、コミニケーション能力が高いなどと良く言う人もいるが、
人の目を見ずにあいさつしていることが、あいさつをした相手に対して失礼だとか、おかしいと思わない人もいれば、人の目を見ずにあいさつすることを嫌がる人もいる。あいさつに限らずに何かの作業中でもないのに人の目を見ずに喋る人を嫌がる人もいる。
あいさつを返さない人を愛想がないという人がいるが、あいさつを返している人も初めにあいさつしている人も多くの人は無表情であいさつしているだろうけど、無表情であいさつしていたり、面倒くさそうにあいさつしていたり、人の目を見ずにあいさつしてることを愛想のないあいさつをしているとはほとんどの人は言わないのだろうが、愛想のないあいさつとも言えるのだ。
あいさつ返さないからおかしいと思う人の中には、あいさつをする時に人の目を見ずにあいさつしてくるようなことをしている人がいるが、
そんな自分のあいさつをおかしいとは思わないのだろう。

母方のおばあちゃんが亡くなった時に、亡くなる前におばあちゃんは寝たきりだったが、みんな先は長くないと思っていただろうが、
私の姉がおばあちゃんが入院していた病院に来ていた時に叔母に、
おばあちゃんが亡くなった時に自分は葬式に出なければいけないとは思っていないというようなことを言っていて、自分に出てほしいのだったら礼儀として出るけどというようなことを言っていた。
叔母は東京に住んでいる片方の子どもに仕事を休んでまで来なくてもいいとか、孫が学校を休んでまで来なくてもいいというようなことを言っていたが、おばあちゃんが亡くなった後の葬式には孫もひ孫も全員が葬式に来ていた。
葬式に出ている人が絶対に葬式に出ないといけないとは思っていないのだ。形だけ出ている人も多いだろう。

葬式は生きている人の自己満足と言ったりする人もいるが、それは本当のことだ。
亡くなった好きな人の顔を最後に見たいなどの理由で葬式に出る人もいるだろうが、別に葬式に出たいとは思っていなくても形だけ出る人がいたりして、葬式は生きている人の自己満足でやっているのだ。
法事も親戚や株内の人が形だけ出ている場合が多いだろうし、株内を辞めたがっている人がいても形だけ出ている人もたくさんいるだろう。
亡くなった人のことをいい意味で思って法事に出席しているのではなく、形だけ法事に出ているのだ。
こういうのを悪く言えば、バカの葬式、バカの法事だ。
形だけ黒い喪服を着て大勢と同じことをしていれば変な目で見られにくい。
叔父が株内の人が亡くなった時に「時代は家族葬の時代なんだから自分のところだけでやればいいのにな」というようなことを言っていたが、その後、自分の母親が亡くなった時には家族葬ではなくて、親戚や株内や近所の同じ班の人も来るような葬式をやっていて矛盾したことをやっているのだ。
叔父が自分が亡くなった時の葬式のことについて家族葬でいいと言っていた後に、葬式には呼ばないのに法事に呼ぶのはおかしいかというようなことを言っていた。
叔父や叔父以外の人でも、葬式には親戚や近所の班の人や株内が来ることが正しいとは信じていなくても、大勢と同じことをしていないと
変な目で見られるのを嫌がったり、大勢と同じ人だと思われたいから形だけ親戚や近所の班の人や株内が葬式に来るようなことをしている人もたくさんいるのだろう。

あいさつでも同じで、あいさつ非信者の人の多くはあいさつされたら、あいさつ返したり、形だけ初めにあいさつする人もいるだろうが、
本当はやりたくないと思っていても、バカにされたり、変な目で見られるのが嫌だったりなどの理由で嫌々、形だけあいさつする人が多かったり、
最低限会釈していたりするだろう。
でも、人が何で色んなことをやっているのかほとんど興味、関心がない人の方が多いだろうから、そんなことはどうでもいい人の方が多いだろう。

 

46.関電と元助役の人の関係に見る他人の姿は自分の姿

 

以前ニュースで取り上げられていた関電と元助役の人との関係を癒着などと言って一部の人が問題視しているが、癒着など誰にでもあることだろう。ほとんどの人の癒着は問題視せずに一部の人の癒着は問題視するのだ。

正しいと思う関係や人としてすべきことだと信じている関係については「癒着」とは言わずに良く言うのだ。
近所や職場の人にあいさつはしなければいけないと信じていれば、
他の人にもそれを求め、自分が信じていることと同じことをしないと許さなかったり、奇異な目で見たりする人がいる。
あいさつする人を常識人やあいさつ出来る人などと褒めて良く言い、あいさつ返しを断れば異常者やダメ人間扱いし、
あいさつしている関係の人たちを癒着しているとか、あいさつ癒着などとは言わずにコミニケーションや社会のルールなどと言ったりする。
言葉という変なもので、自分に都合のいいように言葉を使って言葉遊びしているだけだ。

給料や印税という形で金を貰っている人に、この人たちが働いている店や会社や取引先との関係を癒着とは言わない。
金がないと生きていけない世の中で、給料という金を貰わないと生きていけないので、合法をいいことに金を貰っていても、会社や店や客や同僚などとの癒着とは言わないのだ。
やってもいいと思う関係や、やってもいいと思うことには常識、普通、コミニケーション、社会のルール、人間のルールなど言って変な言葉遊びしていのだろう。

例えば、気に入らないことを言っている人がいたら、気に入らないことを言った人に直接不満を言ったり、影で不満を言ったりして、
その不満の言い分に「考えてものを言ったのか」とか「他に言い方ないのか」とか「想像力がない」「人のこと考えてない」などと言って不満を言うが、正しいと思うことを言ったり、大勢と同じことを言ったりすると許されやすく「普通の人」とか「常識なってる」「良識がある」「分かってる」などと言い褒めたり、良く言ったりするのだ。
大勢と同じことを思ったり、やったりするのなら考えなくてもいいと信じていて、大勢と同じことしていなかったら、気に入っていることなどは例外だが、許さなかったり、変な目で見たり、白眼視してきたり、不満を持ったり、不満を言ってきたりするのだ。
大勢が笑っているところで考えもせずにすぐに笑うことについては悪く言わずに普通などと思い、大勢が笑わないことを笑ったら、
おかしいと思ったり、変わっている人などという言葉でその人を言い表したりする場合がある。

元助役と関電との関係を読売新聞では「癒着」「いびつな関係」や「異様な関係」や「もたれ合い」などと言っているが、他人の姿は自分の姿であり、一部の人にこんなこと言っているのは、自分達も同じようなことしているのだが、全く同じことをしているわけではないので一見関係ないように思うのだろう。

関電の人が元助役の人から金を貰っていたと問題視しているが、木を見て森を見ず、小を見て大を見ずで視野が狭く、
金でやっていく世の中自体が正しくもない不正で頭がおかしい、イカレていて異様でキチガイな世の中、社会で、こんな不正な金社会を多くの人が正しいと信じているのだ。多くの人が金信者なのである。
多分、関電の人の多くか、もしくは全員が金信者だろうし、関電の癒着などと問題視している人たちも全員かほとんどが
金信者だろうが、同じ金信者であるにも関わらずに、金のことなどを問題視しているのもおかしくて、同じキリスト教のプロテスタントとカトリックが争っていたような感じだ。
金信者であることは同じなくせに、自分達ほとんどの人の金の使い方は正しくて正当であるかのように勝手に信じ込んで、
一部の人の金の使い方には合法であれ、違法であれ問題視したり、不正であるなどと思い、変なおかしいことを信じているのだ。
一部の人だけがおかしくて金に汚いかのように勝手に信じて、ほとんどの人は正しい金の扱い方をしていると信じているのだ。
どちらも金でやっていく世の中という正しくもない不正な社会、世の中で生きていて、目くそ鼻くそ、五十歩百歩なのだ。

「もたれ合い」の意味が「互いに寄りかかり依存しあうこと、仲間内でかばい合うこと」などと定義してるみたいだが、そんなこと誰でもやってることなのに、自分たちが気に入らないことや、間違っていると思っていることなどについては、もたれ合いや癒着などと言うのだ。
家族や友達や恋人がプレゼントくれたとか、家族が20歳未満ぐらいの自分の家族に生活費などの金を出してもらっていても、
もたれ合いや癒着や異様な関係など言わないだろう。でも、20才以上で60歳未満ぐらいの学生や、障害者や主婦(夫)でもないような人が
家族から生活費出してもらっていたら間違っていることをしていると思う人もいて悪く言われたりする。

両思い同士の関係には愛などという言葉を使って、友愛、家族愛、恋愛と言ったり、両思いでなくても自分が素晴らしいと思うようなことを他人にすれば、人類愛などと言ったり、やさしさ、思いやり、親切などと言って良く言ったりするのに、気に入らないことや正しいと思わないことには癒着や異様な関係などと言う人もいるのだろう。
言葉などこんなものであり、同じ言葉をみんなが同じ意味や定義では使っていないのだ。

政治家や金に汚いなど思っている人のことを「カネ、カネ、カネの人」みたいに言ったりしているが、自分達も金でやっていく世の中で金使いながら生きていて、ほとんどの人は金社会が正しいと信じているくせに、
自分たちのことは悪く言わないのだ。変な差別している。

大勢がやっていることや大勢が許していることには「いびつ」などという言葉を使わないくせに、大勢が間違っていると思っていることや、気に入らないこととかには、いびつなどという言葉を使うのだろう。

あいさつにおいても、あいさつが正しいとか、しなければいけないと信じているあいさつ信者達が、自分達もほとんどの人にあいさつしないくせに、
一部の人達があいさつをしないことにはダメ人間などと言って見下したり、不満を言ったり、攻撃してきたりしているような感じだ。
そんなあいさつについて、異様なあいさつ信仰とか、異様なあいさつとか、いびつなあいさつルールとか言わないし、
ごく一部の人とだけあいさつしている関係を、いびつなあいさつ関係や、異様なあいさつ関係や、あいさつ癒着などとは言わないのだ。
あいさつ信者は、初めにあいさつしたら、あいさつ返しするのが正しいと信じているので、こういう信仰を持っていることをおかしいとは思わないので、同じ人と1回か、2回以上あいさつしあったことを癒着や、いびつ、異様な関係とは言わないのだろう。

 

 

47.誰を基準にしているのか?

 

163㎝の身長は高いのか、低いのかということに対して誰かがネットで、自分の娘は小学生で163㎝あるから高くないと言っていた人がいるのだが、
他の人なら同じことは思わないだろう。
成人している男が163㎝なら身長が低いと思う人もたくさんいそうだが、成人女性の身長が163㎝なら低いと思う人はあまりいないと思う。
同じ身長でも性別が男か女かでは思うことも違うだろう。

この様に誰を基準にして物事などを判断しているのかは簡単で自分を基準にしているのだ。
子どもが信用できるから、子どもが感じたことが正しいと信じるのは、そう感じた自分が正しいと感じているのだ。
大勢が感じていることや、大勢がやっていることを正しいと信じている人は自分がそう感じたから、自分が感じたことが正しいと信じているのだ。
でも言葉の言い方としては、人によっては子どもや大勢が信じていることや、やっていることを正しいと信じたり、
信用したりするのは自分に自信がないからで、他人を基準にしているという言い方をする人もいるだろうし、他人軸などと言う人もいるだろうが、
これは間違いだ。他人軸だとか他人を基準にしているのならば、他人が決めた決まりを何でも信じているわけでもなければ、
守るわけでもないし、取り入れるわけでもないのだ。
自分に都合がいいから取り入れたとか、正しいと断定や半信半疑で信じているから信じていたり、やれと言われた人から不満を言われたり攻撃が怖いから形だけ従っていても、言うことを聞かないことも出来るのに自分で渋々人の言うことを聞いていたりするのだから、
それを選んでいるのは自分なので、自分を基準にしているのだが、他人が言っていることを正しいと信じて取り入れていようと、嫌々取り入れていようと他人が言っていたからという理由で何かをやることを他人軸で生きているなどと言ったりする人もいるのだろう。
同じ言葉を同じ意味で使っていないのだ。

イスラム教やキリスト教を日本人の多くは知っていても、正しいと信じていない人が多いだろうが、自分の内面でこれらの宗教は正しくないと信じ、よく知らなくても、そう感じたから信じないのだ。
多くの人は他人の決めた決まりのほとんどを正しいとは信じていないだろうが、あれは間違っていて、これが正しいと
勝手に自分が思っているのだ。だから他人軸の人がいると言っているのもおかしいとも言えるのだ。
あいさつ返しが正しいと信じている多くの人は、自分が今まであいさつしてきた数少ない人が全員オウム返しをしてきた場合が多いだろう。
だから、自分だけの経験から、自分が全員にあいさつ返されたから、あいさつしたらオウム返しであいさつ返すのが正しいと信じた人が多いのだろう。
オウム返し以外の言葉か会釈をされた人も、許容範囲内の言葉や態度を返してきたから、オウム返し以外の言葉か会釈も受け付けて許しても、
無反応を受け付ける人はあまりいないだろう。
誰かに教えてもらったからあいさつを信じたのではないということだ。
誰かにあいさつしろと言われてやったとか、あいさつしている誰かの心を吸ってあいさつしたというのならば、
何でほとんどの人にはあいさつをしないのか、同じ人にあいさつする時としない時があるのかの答えにはならない。

 



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