くるみの世界

金でやっていく世の中や、あいさつが正しいとされていることは間違っているということを主張したいです。

脱あいさつ あいさつは正しくない10

2022年10月20日 | 脱あいさつ

目次

第1章から第9章へのリンク
第10章から第12章へのリンク
第13章から第20章へのリンク
第21章から第23章へのリンク
第24章へのリンク
第25章から28章へのリンク
第29章から37章へのリンク
第38章から47章へのリンク
第48章から52章へのリンク
53.みんな色んなことを無視しまくっている
54.同じ言葉を同じ意味で使っていない みんな泥棒の差別社会
55.みんな自分の思い道りにしたいところがある独裁者であり、犯罪者でもあるとも言える
56.ゴミ捨て場のことなど みんな犯罪者とも言える
第57章から第59章へのリンク
第60章から第67章へのリンク
第68章から第75章へのリンク
第76章から第81章へのリンク
第82章から第86章へのリンク
第87章から第93章へのリンク
第94章から第99章へのリンク

 

53.みんな色んなことを無視しまくっている

以前ネットで誰かが書いていたことで、一字一句はっきり覚えていないが、
一番冷たいことは無視だというようなことを書いていた人がいる。
まず、無視という言葉の定義自体が人によって違うが、
多くの人の無視の定義は、喋りかけたり、あいさつをして返事をされなくて無反応なことを無視と定義づけている人が多いだろう。
自分の思い道りに返事をせずに無反応なことを気に入らないとか、おかしいと思っていて、一方で、返事をしても自分が気に入らないことを言ったら、不満を持ったり、嫌がらせをしたり、身体暴力をやったり、裁判を起こしたりなどする場合もあるのだ。
つまり、返事をしても、無反応でも自分が気に入らない態度を取れば、何をやっても不満を持つのだ。  

関わる気もない人や、どうでもいい人などに形だけ自己満足であいさつしたり、喋りかけたことをやさしいとか、思いやりとか、常識人とか、いい人などと言い、自分や自分と同じことをしている人を褒め称える人もいるだろうが、形だけの対応をされることを嫌がる人もいる。相手の心理や信仰心を知らないし、知る気もないことを相手のことを無視しているとは言わない人が多いだろう。
自分やほとんどの人を悪くは言いたくない人が多いのだろう。
どうでもいい人や大切ではない人に、形だけ喋りかけて気を使ってあげたなどと思って、自分や好きな人を良く言っても、形だけの対応をされた人が何を思ったのかの心理に全くか、ほとんど興味、関心もない人は相手の心理、信仰心を無視しているとも言えるが、どうでもいい人や大切ではない人に喋りかけてあげたり、あいさつをしてあげたり、アメやお菓子などをあげたから、相手のことを無視していないというのは綺麗事でカッコつけていて、自分達のことを悪く言いたくないのだ。

下らない言葉遊びをしていて、全くか、ほとんど興味、関心がない人に対して形だけの応対をしたり、一部のことにだけ興味があって喋りかけたり、一緒に行動したから、その人のことを無視していないというのだろうが、
その人のほとんどのことについては無視しているとも言える。

一切興味がない人に形だけあいさつし、あいさつ返されたら相手と繋がり、コミニケーションをしたと都合のいいように捉える人もいるのだ。
世の中や人間や人間以外の生物のほとんどに興味、関心がない人の方が多いだろうが、その興味がない対象のことを無視しているとも言える。
例えば、Aさんが作家のBさんのある本に興味を持って読んでも、Bさんが他にも本を書いているのに、Bさんの他の本には興味がないので読む気もなくても、AさんはBさんの本を一冊読んだからBさんを無視していないなどと言うのだろうが、Bさんのほとんどを無視しているとも言えるのだ。

あいさつをする人のことをコミニケーション能力が高いなどと言う人がいて間違ったことを思っているが、あいさつしている人は大切ではない人や、どうでもいい人にあいさつしている場合が多いだろうが、そんな形だけのあいさつをしている人は、あいさつをさせたい人のあいさつに対する信仰心や心理や体調を考慮、配慮などしていない場合が多いだろうから、
「相手の色んなことを無視してあいさつしている」とか「無視している人にあいさつした」とも言える。
でも多くの人は、関わる気もない人や興味がない人や、少しだけしか興味がない人に形だけあいさつしたり、喋りかけたり、アメやお菓子などをあげて働きかけることを無視していないと言いカッコつけて綺麗事を言うだろう。
表面的な形だけの態度を取り、相手の心理や信仰心などは無視している場合が多いだろうが、あいさつしたり、喋りかけると多くの人は無視とは言わないのだ。
無視されたと不満を持っている人も、不満を持っている相手や、それ以外の人や人間以外の生き物や色んなことを無視しまくっているのだが、
気づいていないのだ。誰でも頭が悪くてバカなところがあるのだ。
知らないことが一つでもあることをバカと言うと定義づければ、みんなバカなところなどたくさんある。

一番冷たいのは無視と言っている人は多分、無視をしていない人の方が多いと思ってそうだが、誰でも色んなことを無視しまくっているのだ。
あいさつされたいのにされないことで無視されたと思っている人が、あいさつしなかった人に不満を言ったり、嫌がらせをしたり、身体暴力をやることを、無視が一番ひどいから、不満を言ったり、嫌がらせをしたり、身体暴力をやることは無視よりはひどくないなどと思うのだろうが、
あいさつしなかった人の体調や性格やあいさつについての信仰心を知らずに、知る気もなく、相手を嫌ったり、見下したり、不満を言ったり、攻撃してくるのはあいさつしなかった相手のあいさつの対する信仰心や、体調や色んなことを無視しているのだが、多くの人はこれを無視とは言わないのだろう。
言葉を自分に都合のいいように使っているだけで、
我が身可愛さから、自分のことは無視してほしくないところがあるけど、他の人や色んなことを無視することは許していて自分に甘い。
あいさつされたいのに、あいさつされなくて無視されたと思っている人も、
自分のほとんどのことは知られなくてもいいと思っていて、自分や他人のほとんどのことは知らなくてもよくて、無視されてもいいと思っているくせに、勝手なことを思っているのだ。

誰かが気に入らないから身体暴力をやったり、影で物を壊すなどの嫌がらせをしたり、戦争をやったり、人を悪く言うことよりも、
自分や好きな人が誰かに喋りかけたり、あいさつした時に自分が望む返事をされなかったことの方がひどいことだと思う人もいるだろうが、
今まで自分が一番嫌だったのが、あいさつを返されなかったり、喋りかけて返事をされなかったことだという人は、自分が大切で可愛いから、
他の人が別のことで嫌な思いをしていたり、戦争に行ったりすることよりも、自分が喋りかけたり、あいさつした時に望んでいる返事をしなことの方が、一番冷たくて、ひどいことと思い、自分を基準にした物事の捉え方をしているのだろう。

多くの人は自分や好きな人が戦争に行くことになったら、あいさつ返されないとか、喋りかけたのに返事をされなかったことよりも嫌がったり、苦しむだろうが、自分や好きな人が戦争に行ったことがなかったり、あまり色んなことで苦しんでいない人などは、あいさつを返されなかったとか、
喋りかけて返事をされなかったことで嫌な思いをしたことが
一番ひどくて、冷たいことなどと思う人もいるのは、人間は自分が一番可愛くて、我が身が可愛いから、自分が一番嫌な気持ちになったことが一番ひどいことだと思う人もいるのだろう。

金でやっていく世の中が正しいと信じている金信者が、値段がついているものに金を払わない人を逮捕することを許したり、税金を払わない人に差し押さえすることを許している人も、自分が信じていることが正しいのに、自分が信じていることが無視されていると思っているのだろう。
他の人も自分と同じことを信じなければいけないところがあると思っているのに、それをやらない人は間違っていると思っているのだろう。
自分の信仰心が無視されたと不満を持っているが、そんな人も不満を持った相手や、それ以外の人の信仰心や色んなことをを無視しているのだから同じようなものだ。

 

54.同じ言葉を同じ意味で使っていない みんな泥棒の差別社会

「自分自身の私利私欲ではなく、子どもの様に純粋に生きる」などと言うようなことを言っている人がいたが、下らない言葉遊びや、差別をしているのだ。
子どもが自分のやりたいことをすることは純粋、ピュアと言う人がいるわけだが、自分のやりたいことをやることを、欲と言うとすれば、私欲とも言えるわけだし、自分がやりたいからやることを私利と呼べば、子どもも私利私欲があるということになるし、子ども以外でも誰でも私利私欲があると言えるのだ。

人に喜んでほしいとか、人の利益になりたいからという理由で何かをやった人には、その人のやったことで誰かが嫌がっていても、武器を持って攻撃しに行っても、人のためとか、純粋などと良く言って高評価する人もいるのだ。
人に喜んでほしいとか、人の利益になりたいという理由でやったわけではないことを、誰かが嫌がっていても、嫌がっていなくても私利私欲と言う人もいるだろう。
誰かが嫌がることをしたり、人や人以外の生き物の気持ちが分からなくても、人に良かれと思ってやったとか、人のためにやったと言えば
悪く思われにくい。
人が嫌がることをやっていたり、人の気持ちが分からない点では同じなのに、誰かの利益になりたいという理由でやった人のことは私利私欲とは言い表さず、誰かの利益になりたいと思ってやったわけではないことは私利私欲という言葉で言い表す人がいてバカな言葉の定義を持っているのだ。
「自分のため」と「人のため」という言葉を正反対の意味で使う人が多いだろうが、これらの言葉は同義語とも言えるのだ。
自分のためという理由で何かをやっていると思われている人と、人のためという理由で何かをやっていると思われている人が、どちらとも、自分がやりたいと思っていることをやっているのならば、自分がやりたいことをやっているという点では同じなのだ。
人のためにやったと言われている人は、自分がやったことで人の役に立ってほしいとか、人の利益になってほしいと思ったから人のための人というように言われていても、自分がやりたいことをやっているだけであり、自分のためと言われている人と変わらないのだ。
人のためにやっていると言われている人を褒める人は、人のためにやったと言われている人がやったことで誰かが嫌がっていても、
嫌がっている人がいるというところに全くか、ほとんど関心がない人が多いのだろう。
自分以外の誰かのことを良い意味で思ったことが素晴らしいと思いたい人は、その人たちがやっていることで、誰かが嫌がっていることではなくて、
自分が素晴らしいと思った人を褒めて良く言いたいだけなのだ。
自分以外の誰かのことを良い意味で意識したということを褒めたい人は、
その人たちがやったことで迷惑していたり、嫌がっている人のことを考えていない場合が多いのだろう。

関わる気もない人や、嫌いなだけの人に、あいさつを初めにやって、あいさつ返しをさせたい人をコミニケーション能力が高いとか、素晴らしいという人も同じで、あいさつをされた人が何を感じているのかを分かっていなかったり、相手に興味がない場合が多いのだろう。
自分以外の人にあいさつで働きかけて、あいさつ返せという欲求を持つことを素晴らしいとか、心の成長が出来ているなどと褒めて、
あいさつされた人の心理に関心がない場合が多いのだろうけど。
自分以外の誰かにいい意味で働きかけたと思う人を褒めて高評価して、
自分のことだけしか考えていないと思っている人を見下してバカにして蔑むようなことをしている人は人のことを差別してバカにしているだけだ。

美形を好きな人が、自分のために役に立っているから、この人たちを好きになり褒めて、ブスだと思う人を嫌っている人が自分が嫌な気持ちになる相手だから、嫌ったり見下していることと同じで、自分が素晴らしいと思う人を褒めて、バカにして見下している人のことを嫌って、下に見ているだけだ。
人のためにという理由で行動している人の方が素晴らしくて、人のためにという理由で行動していない人の方が劣った人間だと勝手に信じて、
自分好みの人を褒めているだけだ。
同じことをしたのに、人のためにという理由でやった人の方が、人のためにという理由でやった人よりも素晴らしい上層階級の人間であるかのように上に見る人もいるのだ。
キャバクラなどの水商売の人がいる店に行く男の多くは、美形の女が目当ての人が多いだろうが、女を見れたり、女と喋ったから嬉しいのではなくて、自分が好きな美形の顔の女を見れたり、美形の女と喋れたから嬉しいように、人のための人と思っている人を高評価する人は、人の利益のためにと思って何かをやった人を好んでいるから高評価するのだ。

滅私奉公で社会や仕事のために生きていると思われている人が、実際は他人が決めた決まりをほとんど守らなかったり、自分が信じていることを
他の人にあからさまに押し付けたりしているのだ。
一部の要望は色んな理由で聞き入れても、他の要望は聞き入れないのだ。
例えば、多くの人はあいさつや金でやっていく世の中が正しいと信じている。
「あいさつを初めにしろ」「あいさつしたら返せ」や「値段ついているものに金を払え。
税金、年金や罰金などの金を払え。税金払わないと差し押さえをする。値段ついているものに金を払わないと逮捕したり、罰金を取るぞ。」ということを思っているだろうが、自分が信じていること、感じていることを内面で思っているだけであろうが、本人に直接、自分の信仰や自分の思い道りにならなかったことの不満を言おうが、自分以外の人を利用して警察に逮捕させようとしたり、裁判を起こしたりするのは、自分が正しいと思っていたり、自分の思い道りにしたいのだ。だから私利私欲ではない人がいるとか、滅私奉公の人などと言って良い感じに言い高評価しているのも何かおかしいのだ。

人間の中には「自分の思っていることも言わずに、他の人に合わせてあげた」などと思っている人もいるだろうが、言うことを聞かないと殺すぞなどと脅されているとかなら別として、人の決めた一部の決まりや、一部の他人の要望を守っている多数派の大勢の人を滅私奉公をしているなどと言って、多数派をいい人であるというように美化したい人もいるのだろう。

自分が逮捕されたくないから、値段が正しいと思わなくて不満があっても金を払うことを「自分のやりたいこともせずに、他の人に合わせたんだ」と自分を抑え滅私したと言いたい人もいるのだろうが、金を払わないことも出来るし、買わないことも出来るのに、自分で金を払っているのだから、自分で決めたことで滅私などしていないとも言えるのだ。

「大勢と同じことをするのが例外あれど正しい」と信じている人は多いだろうが、だから、あいさつしたら返さなければいけないとか、金でやっていく世の中が正しいと信じて、あいさつ返さなかったとか、金を払わなかったと不満や疑問を持ち、あいさつされなかった人が嫌な気持ちになるとか、
金を払わないと金を払われなかった店や、税金や年金を払っている人が不満を持って嫌な思いをするから、金は払わなければいけないし、年金や税金は払わなければいけないと思っている人のことを、「人のことを考えている」「人のための人」や「他己愛」や「愛」や「他人への思いやり」「他人へのやさしさ」などと言う人もいるだろうが、言葉というものが、どうにでも使えて自分の思い道りに使えるものなので、自分に都合のいい使い方をするのだろう。
金でやっていく世の中で大勢の人が苦しんでいて、金でやっていく世の中は不正で異常な頭がおかし世の中だが、この金社会をやることで、誰かが嫌がって迷惑していても、自分が金でやっていく世の中を正しいと信じているなら、正しいと信じていない人を見下したり、逮捕することをやってもいいと勝手に信じていることを「自分のため」という言い方をしないのだ。
汚いとか、差別しているとは言わないのだ。
金信者の中には「人のために金でやっていく世の中をやっていて、社会に貢献して、社会参加をして、正しい生き方をしているのだ。私たちの方が正しい」と思っている人もいるだろう。

人のためにとか、滅私奉公とか他己愛とか愛や社会のルールなどの言葉に隠している定義、意味付け、本当の意味、本音、本心を言えば都合が悪いから
はっきり言っていない人もいるだろう。
これらの言葉に隠している意味は、自分以外の一人や一匹や特定の一部の人や、大勢がいい思いをしたり、嫌な気持ちにならないならば、一部の人は死んでもいいとか、逮捕して牢屋にいれたらいいとか、見下したり、悪人や罪人と呼べばいいと思っているのだろう。
悪や罪の定義は人によって違うが、悪や罪の一部の人の定義は例外除いて、大勢と同じことをしないことを悪や罪と定義づけているだろう。

金でやっていく世の中も、あいさつもカルト宗教なのだ。
一般に宗教と呼ばれているイスラム教や創価学会などで、信者だった人がその宗教の信仰しなくなったとか、宗教の決まりを守らないことで、
部屋に閉じ込めたり、縄で体を縛ったり、身体暴力をやったりすると、おかしい宗教という意味などでカルト宗教と呼ばれるだろうが、
金でやっていく世の中が正しいと信じている人も金宗教というカルト宗教の信者なのだ。
何に値段を付けてよくて、何に値段付けたらダメかは、それぞれが勝手に決めていて、金信者たちは金宗教の教祖だとも言える。

刑法違反で逮捕することをやってもいいとしている刑法という法律や、それをまかり通らせている人達のことをカルト宗教の信者や教祖とは言わないし、あいさつしてほしいのにしない人を見下したり、本人の前で悪態ついたり、攻撃してくる人をカルトあいさつ宗教の信者や教祖とは言わずに、
一部の人の信じている宗教だけをカルトなどと言い、差別しているのだ。
金でやっていく世の中なんか異常なカルト社会だ。
このおかしい社会で多くの人が、金でやっていく世の中で金に関することで気に入らないことを他人のせいにして生きているのだ。

税金を払わない人に、「真面目な人が損をする」などと言い、税金払っている人を良く言う人の中には税金を払うことを正しいと信じていないのに
税金を払っていない人に対して羨ましさ、妬み、嫉みで不満を言っている人もいるだろう。
自分が税金を払わないことで税金Gメンに差し押さえをされたくないとか、他人から嫌われたくないなどの理由で、払いたくなくても嫌々払っている人もいるだろう。

この金でやっていく世の中を正しいと信じている人や、給料や印税を貰うようなことをするのが正しいと信じている人などを普通の人や堅気の人間や、一般人、いい人、善人、真面目な人、常識人などと呼んでいる人も多いだろうが、例外あれど、大勢と同じことをしない人を見下してたり、羨ましがったり、牢屋にいれたり、嫌がらせしたりなどすることを「本当は怖い普通の人と呼ばれている人」「本当は怖い堅気の人間と呼ばれている人」「本当は怖い一般人と呼ばれている人」「本当は怖い善人(いい人)と呼ばれている人」「本当は怖い真面目な人と言われている人」「本当は怖い常識人と呼ばれている人」などとも言える。
大勢と同じことをしない人や、自分が正しいと信じていることをしない人を見下したり、牢屋に入れたり、攻撃してきたりする人が
普通の人や堅気の人間や一般人、いい人、善人、真面目な人、常識人などと呼ばれて良く言われて高評価されている。

一般に泥棒の定義や意味付けは、他人の家などから物を取って行った人や、店で売られている値段ついているものに金を払わなかった人や、
スリや詐欺などと呼ばれている刑法違反をした人を泥棒と言いやすいが、みんな泥棒とも言えるのだ。
刑法違反で泥棒と言われていること以外で泥棒と言われているので有名なのが税金泥棒だが、自分が正当に得たと思っている金を税金を取られるのが正しいと信じていない人や、使われたくない所に税金を使われることに税金泥棒と言っているが、正当に得た金などあるわけがなく、本来全ての物に値段はついていないのだから、色んなものやサービスに値段付けて金を客から取り、そこから給料や印税などを貰うことは合法の不正であり、合法詐欺、合法泥棒だ。
商売以外でも、本来、人がやっていることは金に換算できるものではないので、給料を貰っているのも給料泥棒なのだ。
刑法違反ではないので警察呼んでも捕まらないだけだ。
詐欺師と言われている人が刑法違反で捕まるが、本来全ての物に値段はついていなのに値段付けているのも全て詐欺だが、みんなで助け合いをしておらず、金がないとやっていけないのと、大勢がやっていることは正しいという信仰を持っている人が多いから値段付けたり、年金、税金、罰金などを取ることを詐欺とは呼ばない差別をしているのだ。
年金、税金、罰金などを取るのも合法の不正なのだ。大勢が正しいと信じているから金でやっていく世の中はまかり通るのだ。

金でやっていく世の中が正しいから、年金や税金や値段ついているものに金払えとか、給料や印税という形で金を貰うようなことをしなければならないと信じているたくさんの人たちは、自分達と同じことを信じていない人に
不満を持ったり、不満を言ってきたり、見下したり、逮捕したりすることを許している「信仰泥棒」や「信じていること泥棒」とも言えるのだ。
自分と同じ信仰を持っていない人に対して不満を持ち、警察を呼んで逮捕させる人も、逮捕する方の警察も泥棒だが、合法だから捕まらないだけだ。
私は昔、万引きをしたことがあるが、万引きを悪く言うのも、金でやっていく世の中が正しいという信仰を持っている人が値段が付いているものに金を払わないことに不満を持っていたり、子どもが万引きしたら許すような差別をしていたり、この値段は不正だと思っているところがある人もいたり、
値段が付いているものに金を払っていない人に対する妬みや羨ましさがある人もいるだろう。

一般に泥棒と言えば、他人の物を取ったということを言うが、自分が正しいから他の人も自分と同じことをしろと思い、同じことをしない場合に刑法を利用して逮捕しても、「他人の信じていることを盗んだ」とか「他人の信仰を盗んだ」とは言わない。
絶対に正しい根拠がなくても自分が正しいと信じているところがあるのだ。
あいさつも同じで、あいさつ返すのが正しいと信じていたり、初めにあいさつをしろという決まりを勝手に作り、それをはっきり言葉で言うわけでもなく、自分が正しいと信じていることをやらないと不満を持ったり、見下したり、悪態ついたり、攻撃してくることは信仰泥棒とも言えるのだ。

刑法違反した人のことも嫌ったり、見下したりするが、刑法違反ではなくてもあいさつなどのことでも見下したり、嫌っているのだ。
刑法違反や刑法違反以外で誰かを見下したり、嫌っている人に共通するのは、自分が正しいと信じていることをしなかったとか、大勢と同じことをしていないとか、自分に都合の悪いことなど、自分が嫌いな特徴を持っているから不満を持っているのだ。
「私が正しいんですよ」とは言わずに、社会のルールや常識、マナー、モラル、当たり前、正義などという言葉で誤魔化していて、何が言いたいのかをはっきり言わないのだ。

天皇家の人が税金から皇室費という形で金をたくさん取ることは合法なので泥棒とは言われにくいが、税金を取るのも不正であり、天皇家に皇室費を取っていることをみんなが正しいとは信じていないし、良く思わない人がいても合法だと悪く言われにくい。
カルロスゴーンが自分の会社から金をたくさん取っていたら、法律上は違法なので警察に通報されて捕まった。
例外あれど、逮捕されると多くの人が悪印象を持ち、悪く思われやすいが、
逮捕された人を見下したり、悪く思っている人は逮捕されている人に対する悪い意味の差別をしているのだ。
金を得ているということで誰かが不満を持っている点では天皇家の人もカルロスゴーンも、詐欺師と言われている人も、スリと言われている人も、
年金を貰う老人も、生活保護受給者も生活保護不正受給者も商売人も、宝くじが当たった人も、ヒモ生活の人も、給料や印税という形で金を貰っている人も、それ以外のことで金を貰っている人も同じことだ。刑法で違法か合法の違いなだけで、違法ならば逮捕される場合もあるだけで、合法ならば金を貰っていることに不満を持たれていても逮捕にはならないだけだ。
一部の人が金を得ていることが違法なら逮捕して、それ以外ならば逮捕しないというのは差別しているだけだ。
金でやっていく世の中という不正な社会で、平気で堂々とえこひいき差別をしている人たちが普通の人や一般人や善人と呼ばれているのだ。

何かのテレビ番組で、海で生きている野生の一匹のあるイルカについて、一字一句覚えていないが誰かが「人間の世界と同じで、頭がいい人は集団から追い出される。
このイルカも同じで、頭が良くて群れから追い出されたか、
自分から群れを出てきたのだろう」というようなことを言っていたと思う。
人間の世界で頭がいいと思われている人みんなが集団から追い出されるわけではないが、追い出される場合もある。

大勢と同じことをする人のことを頭のいい人、要領のいい人と言われる場合もあるだろうが、金でやっていく世の中が正しいと大勢と同じことを信じる人のことを、正しいことが分かっている頭のいい人だと思う人もいるだろうが、金でやっていく世の中は不正だ。
間違っていることをしていたり、不正をやっている人の方が正しいとされ、その人たちと同じことをしない人の方が間違っていて、不正だと思われる場合もあるのだ。
あいさつが正しいとか、金でやっていく世の中が正しいとか、子どもは学校に行くのが正しいと信じていることも不正で間違っているのだ。
金でやっていく世の中で金を払わないことで逮捕されるのも、金を払わない人を金でやっていく世の中から追い出して排除して牢屋の中に入れて監禁しているのだ。カルト金社会の異常さだ。
イルカのことで誰かが言っていたように、金でやっていく世の中が不正で間違っていると気づいている頭がいい人の方が異常者扱いされたり、
悪者扱いされて排除されて、金でやっていく世の中が正しいと信じている間違ったことを信じいている人の方が良く思われるのだ。金でやっていく世の中が間違っていて不正だと気づいている人の数は少数の一部の人だけだろう。
金でやっていく世の中が間違っていると分かっていて、値段ついているものに金払わなければ逮捕される場合もあるし、税金を払わなければ強制で差し押さえをされる場合もあり、不正な金でやっていく世の中を辞めたくても、
金でやっていく世の中が正しいと信じている金信者がそれを許さないのだ。

過去の歴史に学ばないバカなところがある人類とも言える。
今までも大勢がやってきたことで、大勢の人や少数の人が嫌がっていたり、ひどいと思っているようなことがある。
その一部に乱や戦や戦争があるが、人のためにやったと良く言ったり美化する人がいるが、多くの人はこれらのことを良いことや素晴らしいとは思わないだろう。
あいさつする人は、あいさつをごく一部の人にしかやらないだろうが、あいさつを初めにした人や、あいさつ返しをした人みんなが、あいさつが素晴らしいとは思ってはいないし、常にあいさつで良い気持ちになったりなどしていないだろうし、あいさつを嫌がっている人や正しいと信じていない人もいるのだ。

今も続いている金でやっていくこの世の中で多くの人が苦しんでいるのだ。
大勢が学校に行っているが、学校で凄い嫌な思いしている人もいれば、そこまで嫌なことはなく、なんとなく学校に行っているような人もいるだろうし、学校でほとんどの時間は授業をやっているが、その授業を好きな人はあまりいないだろうし、授業で知ったことを、その後忘れていることがたくさんある人もいるだろうし、何で学校の授業で勉強しないといけないの?と疑問を持っている人もいる。
金でやっていく世の中とか、戦争などで武器を持って攻撃しに行くことなど大勢でやっていることで、多くの人が嫌がっていることもあるのだ。
一人が嫌がっていても逮捕されることもあれば、ほとんどのことでは誰かが嫌がることをしても逮捕にはならないどころか、
嫌がった方が悪く言われる場合もあるし、あいさつでもみんながあいさつを正しいとは信じてはおらず、嫌がっている人もいるのだ。

 

55.みんな自分の思い道りにしたいところがある独裁者であり、犯罪者でもあるとも言える

多くの人は独裁者や独裁的という言葉は、独裁国家と言われている国の一番上の立場の人に使ったり、自分や誰かに何かを指示してきたり、図々しいとか思う人の一部などに独裁者や独裁的などという言葉を使い、
ほとんどの人のことを独裁者や独裁的などとは言わないだろう。
支配者や支配的などという言葉も独裁者という言葉と同じで、独裁国家と言われている国の上の立場の人や、ごく一部の人にだけこの言葉を当てはめているだろうが、誰でも独裁者であり、支配的であるとも言えるのだ。

あいさつを初めにしろとか、あいさつ返しをしろと信じているあいさつ信者も独裁的な独裁者や、支配的な支配者とも言えるのだ。
あいさつしあった2人の両方ともがあいさつ信者だったり、2人ともがあいさつをされたことでいい気持ちになり、利益だった場合は独裁や支配とは言いにくいだろうが、片方があいさつ非信者で嫌がっていたり、あいさつをしたいとか、あいさつを正しいと信じていない人に初めにあいさつしてきて、
あいさつ返しをさせたがったり、初めにあいさつしないことに不満を持っている人は独裁的、支配的とも言えるのだ。

誰かに初めにあいさつして、仲間ではない人や好きではない人などがあいさつ返さないことは許さないと思っているような人が、あいさつしてほしい相手を自分の思い道りにさせたいと思って初めあいさつしてきているのは独裁的な独裁者や、支配的な支配者とも言えるが、こんなことを言っているのは私ぐらいなものだろう。
他の人の独裁者や支配者という言葉の定義や意味付けは、こういう定義ではないだろうからあいさつを初めにさせたかったり、あいさつ返しをさせたい人を独裁者や支配者とは言わないだろうけど。

面白いもので、言葉の言い方を変えると同じことを言っているのに多くの人が良く思う言葉と、悪く思う言葉がある。
独裁者や支配者という言葉は多くの人が悪い意味で使う言葉だろうが、
ほとんどの人はいい人だとか、日本人は控えめな人だと信じている人や、
日本人のほとんどを良く言いたい人はほとんどの日本人に対して独裁者とか支配者とか呼んでほしくはないだろう。

日本人や日本人以外の多くは、独裁国家と言われている国の一番上の立場の一人か、その一番上の立場の人と、その周りにいる人のごく少数が決めたことで、国民の少数か、特に大勢の国民が不満を持って嫌がっていると、
「あの国は独裁国家だ」とか「独裁者が国民のことを考えずに勝手に決めてるのはおかしい」とか「一部の少数の人で決めたことを、その決めたことに賛同していない人に押し付けるのはおかしい」などと思い、
「あの人達は独裁的、支配的だ」とか思うだろうが、
なんで、大勢が決めたことで一人や少数の人が賛同していないことは例外あれど、悪くは言われにくく、独裁者とか支配者とは言われないのか?

例えば、日本は表向きには名目としては民主主義と言っている。
国民が主役で国民の望むことが現実になっているかのようにでも言いたい人もいるのだろうが、実際は何でも国民が望んでいる通りにはいかない。
国民のことや日本の色んなことを決めるのに政治家や知事、市長などを選ぶのに多数決で決めるような変なことをしているのだ。
一部の人の信仰は「大勢で決めたことはみんなで決めたことである」と信じている人もいるだろうが、どう見ても、みんなで決めてなどいないわけだ。

私は大勢で決めたことで正しくもない間違っていることをしていることを「集団独裁」や「大勢独裁」や「多数派独裁」などと呼んでいて、
それをやっている人を「集団独裁者」や「大勢独裁者」や「多数派独裁者」などと呼んでいる。
金でやっていく世の中は正しくもない不正で、本来全てのものに値段などついていないのは分かりきっていることなのに、値段をつけたり、何もないところに給料額を作り出して、給料を払うという合法の不正をやっていたり、
あいさつしたら返せというあいさつ返ししろという正しくもない信仰を押し付けていることは、集団独裁、多数派独裁、大勢独裁とも言える。
だから、日本は独裁国家だ。

一般に、「あれをしろ」とか「これをするな」とか直接誰かに言っていないと、内面で自分が正しいと信じていることをやらないことに不満を持ったり、嫌がらせしても、独裁的とか独裁者とはほとんど言われないだろうが、
本人に直接言ったか、内面で不満を思ったか、影で不満を言ったり、書いたりしたかの違いで、人を自分の思い道りにさせたいと思っている点では、
独裁者と言われている人も、それ以外の人も同じことなのだ。
日本人を控えめや謙虚、つつましやかとか言う人の中には、他人に対して日本人が自分が信じていること、感じていることをやってほしがっていることを直接言ったしてなかったり、思い道りのことをしなかったことに対して不満を持ったことを直接言わずに、影で不満を言ったり、影で嫌がらせをしたり、内面で不満を持っているだけなことを謙虚、控えめ、つつましやかなどと言っていい感じに言う人もいるだろうが、日本人は自分が正しいと信じているところがあり、自分が正しいと信じていないことをやると不満や疑問を持ったりして、相手を自分の思い道りにさせたいと思っているところがあるのに、直接、本人や大勢が見聞できる所で不満を言ったり、
嫌がらせをしたりしているのを知らない場合が多いだろうから独裁的や支配的ではないと思う人が多いのだろう。

あいさつを初めにさせたかったり、あいさつ返しをさせたい人の中には、自分が正しいから相手を自分の思い道りにさせたくて、
あいさつをさせたいのに相手があいさつしないと内面で不満を持ったり、影で不満を言ったり、本人のいる所で悪態ついたり、不満言ったり、殴ったり、嫌がらせをするのも独裁的、支配的なのだ。
多くの人は自分が正しいと思うことを誰かに言ったり、言葉以外の形で誰かに自分が正しいと信じていることなどをやらせようとしても、
独裁や支配とは言わない。正しいと信じていることを他人に押し付けることは悪く言わない人が多いので独裁や支配とは言われにくいし、
この人たちを独裁者や支配者とも言わない。

私は過去に給料を貰うようなことをしていた時期と、給料を貰うようなことをしていなかった時期があるが、近所の一部の老人が、どう見ても私のことを、給料を貰うようなことをしていない奴か、その可能性がある奴だと思われている。
同町内に70代のハルちゃんと呼ばれているじいさんがいて、この人とはほとんど会わないが、数年前に私が庭にいる時に、じいさんが自転車に乗って右から左に通り過ぎて行こうとしている時に無言で私を見ている時の
表情や雰囲気が、どう見ても不満たら気に私を見ていたのだが、私が給料を貰うようなことをしていない奴と思っていて気に入らないから、
言葉では言っていないけど、態度にそれが表れていたんだと思っている。
それから数年後、2021年の土曜日の午後に庭で園芸作業をしていたら気配がしたので、左斜め後ろを見ると、このじいさんが自転車に乗って私がいる庭の前を通っている所だった。その後、この人が「ふーん」と言ったのだが、私が作業をしていたのは土曜日だったが、私のことを給料を貰うことをしていないと断定か、半信半疑で思っていて、給料を貰うようなことをしていないのが間違っていると信じていて、私に遠まわしにその気持ちを知ってほしがっている感じがする。
はっきり言わないことを、やんわりさりげなくなどと、いい感じに言い、控えめなどと褒める人もいるのだろうが、給料や印税という形で金を貰っていない人を見下して、格下に見て、劣っている人間であると蔑んでいる人はたくさんいるだろうが、このじいさんもそういう人だと思う。
近所のイノウエ夫婦なども私に不満を持っていて、私に初めにあいさつさせたいようだが、遠回しに悪態つていたり、不満たら気な態度を取ってい、直接的に不満を私に言葉で言ってくることはないわけだ。
言葉ではっきり言わないのは控えめで大人な態度だと高評価して褒める人もいるのだろうが、はっきり言わずに遠まわしない態度で悪態ついてくるのなら、はっきり言葉で言えばいい。

私の家の隣が職場で、私の叔母の同級生の男の人でエイちゃんと呼ばれている人が働いている。
以前、私が庭にいた時に、職場の方からこの人が歩いて私のいた庭の前に左側から来て、庭の門の前ぐらいまで来た時に、また来た道を戻って行ったことがあったのだが、推測だが私が庭にいるのをたまたま見かけて、ハルちゃんというじいさんと同じで、私が給料貰うようなことをしていない奴か、その可能性がある奴だと思っていて、給料貰うようなことをしていない奴は間違った生き方をしていると思って不満を持っていて、私の様子を監視しに来ているのではないかと思った。
以前に私が家のリビングにいた時に私の母が私の名前を呼んだ直後に、隣の職場の方から男の声で「働いてんのかな?」という声が聞こえたのだが、
この声はエイちゃんの声ではないかと思っているのだが、私の母が私の名前を呼んだ後すぐに働いてんのかなと言っているのと、この言葉の前後に
喋り声が何も聞こえていなかったので、私のことを働いてるのかなと言っているのではないかと思った。

以前、私が平日の午後に庭にいたら「おるんか」と男の声が聞こえたから、声のする方を見たら、イノウエ夫婦が歩いていた。
イノウエのじいいさんがおるんかと言った後にイノウエばあさんが小さい声で何かを言っていた。
このばあさんが普段、他の人と喋っている時は声が大きいのだが、私に聞かれたくないことだから声を小さくして喋ったのではないかと思っている。
その喋っていたであろう内容は「あの子、多分働いていないからこの時間に庭にいるんだよ」とか「あの子、絶対に仕事してないよ」というような感じのことを言っていたのではないかと思っている。
長期的に家にいる人も色んな理由で不満を持たれたり、おかしいと思われているが、家の外に出ていて、いかにも何かの作業をしていても、給料や印税という形で金を貰っていなければ見下してきて不満を持つ人もいるのだ。
給料や印税という形で金を貰っている人も不満を持たれているのだから、何やっても逆のことをやっても不満を持つ人は不満を持つのだ。

ほとんどの人は自分やほとんどの人には罪はない、犯罪者ではないと思っているのだろうが、言葉は言葉遊びなので、自己満足でどうにでも使えるから、悪や罪はない、悪人や罪人はいないとも言えるし、悪人はいるとも言える。
自分か大勢が見下していたり、ひどいと思っていることをやっている人や、人や人間以外の生物が嫌がることをやっている人を悪人や罪人、犯罪者と呼ぶと定義付ければ、みんな悪人だし、みんな犯罪者だ。
はっきりと言葉の定義を言わずに、ごく一部の人だけを格下に見て、悪者や犯罪者などの汚名で呼び、えこひいき差別している。

給料、印税という形で金を貰っていないことを見下してる人がいるが、
人を見下していることを罪や悪と呼ぶと定義付ければ、「見下し罪」や「蔑み罪」や「格下に見ている罪」とも言えるし、そういう人のことを「見下し犯」や「「蔑み犯罪者」や「見下し容疑者」や「蔑み容疑者」や「格下に見ている犯」とも言える。
多くの人は今まで生きてきて、誰からも直接、犯罪者や悪人などとは言われてこなかっただろうし、もし言われても、自分やほとんどの人はいい人だと信じているだろうから、こんなこと言われたら、すぐに中傷などと言い、不満を言うだろう。
自分達は法律のほとんどや、ほとんどの決まりを守らないのに一部の人が決まりを守らないことは刑法違反であれ、刑法違反以外のことでも不満
を持つのだ。こんなことを思っている人を「差別犯罪者」や「えこひいき犯罪者」などと呼ぶわけでもない。

私の近所の人や、それ以外の人でも給料や印税という形で金を貰っていない人を例外あれど、見下している人は根拠はなくても自分が正しいのに
正しいと信じていることをやっていない人は間違っているとか、劣っていると蔑んでいる人がたくさんいるだろうが、自分達の方が金でやっていく世の中が正しいとか、例外除いて、ほとんどの人は給料や印税という形で金を貰うことをしなければいけないと信じているのだ。
日本人は自分に自信がないなどと言っている人がいるが、正しい根拠や裏付けがなくても自分が感じたことが正しいと信じているところがある。
例外除いて、根拠や裏付けもないのに自信満々に金でやっていく世の中や、あいさつ返しはしなければいけないと信じている人が多いのは大勢がやっているからだと信じている人が多いだろうが、これが集団独裁、多数派独裁、大勢独裁なのだ。
人が嫌がることをした一部の人は逮捕されたり、罰金取られたり、独裁者などと言われるが、ほとんどの人はそうは呼ばれない。
「後ろ指を挿される」という言葉があるが、意味が影で悪口を言うなどだが、日本人のことを「陰口民族」と言ってた人がいたが、
本人や大勢が見聞できないところで、人のことを悪く言うことを陰口と呼ぶ人が多いだろうが、多くの人は影で悪口(中傷)をしているだろう。見下している人のことを本人や大勢が見聞できないところで悪く言ったり、
大勢が見聞できる所で匿名で言っているのだ。匿名で悪口言っていたり、少数の人にだけ直接、悪口を言っているので、
ほとんどの人のことを悪口を言っている人だとは思わない人もいるのだろうけど。

 

 

56.ゴミ捨て場のことなど みんな犯罪者とも言える

 

私が住んでいるとこのゴミ捨て場は檻みたいなゴミ捨て場で、
左側にドアがないところが一部あって、そこは乾電池を捨てるための空き缶があり、紙を張るところがある。
以前、めったに捨てに行かないが、乾電池を捨てる時にゴミ捨て場の左側の所に行った時に、紙を張るところにA4ぐらいの大きさの紙に「ペットボトル等不法投棄犯人に告ぐ。関係機関には通報済み。町内会では過去にさかのぼり損害賠償を検討中『廃棄物の処理及び清掃に関する法律第25条第1項14号』に違反することになり(5年以下の懲役・1千万円以下罰金又は併科)」と書かれていたのだが、資源ごみの日にゴミ袋にペットボトルを入れて置いていたり、埋め立てゴミの日に粗大ごみがあったのを見たことはあるが、
多分、町内会の人がゴミ捨て場を管理しているのか、埋め立てゴミの日に捨てられていた粗大ごみを町内会の人が有料で捨てに行っていて、
自分達が金を払っていることを損害と言っていそうな気もするが、捨ててほしくないごみを捨てているのを、「ペットボトルは資源ゴミではありません」とか「○○は埋め立てゴミではありません。粗大ごみで捨ててください」などと分かりやすい場所に紙を張ることはしないのだ。
ゴミ捨て場の左側は普段、ほとんどの人は行かないだろうから、ごみ捨て場のドア外側か、ゴミ捨て場のごみを置く中に紙を張ったほうが見られやすいだろう。
ペットボトル等不法投棄犯という言い方は、法律違反をしていて罰金になるようなことだから犯人という言葉で言い表していそうだが、
それなら、ペットボトル等不法投棄犯と言っている人も、それ以外の人もみんな法律などほとんど知らないし、知る気もないだろうし、
知っている法律でも守っていない法律はあるだろうから同じなのだ。道路交通法をすべて守っている人はいないだろうが、「道路交通法違反犯」とは
ほとんどの人は言わないだろう。みんな自分に都合よく法律を利用しているだけだ。
ペットボトルなどをゴミの日に捨てるものではないものを置いていたとしても、損害賠償を検討していると本当に思って書いていようと、
損害賠償請求など検討していないのに形だけ書いていようと、ほとんどの人ならこういうこと書かなさそうだが、同じ物事が起きてもみんなが同じことなど思わないということだ。あいさつにおいてもおなじことで、
あいさつ返されたいのに返されないことにみんなが不満を持ったり、嫌がらせしたり、あいさつ返さなかった人を見下したり、嫌ったりはしない。

このゴミ捨て場にはゴミ捨て場の鍵を開け閉めする決まりがあるが、私はこの決まりは要らないと思っているのだが、他の人もゴミ捨て場は開けていてもいいと思っている人もいるだろう。
ゴミ捨て場の開け閉めをしろという決まりで嫌がっている人がいることを損害と言うのならば、ゴミ捨て場の決まりを嫌がっている人は、損害を被っているとも言えるのだ。
人に不満を言う人は、自分や自分と同じことで不満を持っている人の不満の言い分だけを持ち出して、いかに自分や自分たちが被害者で
損害を被っているのかを言いやすいが、その不満を言っている人たちに不満を言われた人や、それ以外の人が不満を言っている人に同じことや別のことで不満を持っていたりするものだ。

多くの人は大勢からは嫌われたくないだろうし、大勢が信じていることや、大勢がやっていることを正しいと信じているだろうから、
もし、ゴミ捨て場を開け閉めしなければいけないゴミ当番を大勢が嫌がっていたり、大勢がおかしいと思っていて、そのことをゴミ捨て場を管理している人が知ったらゴミ捨て場を開け閉めする当番をなくす可能性が高いと思う。
メディア、マスコミの影響力は大きいので、テレビのワイドショーや、視聴者が多い時間帯のテレビ番組でゴミ捨て場の開け閉めをする当番を大勢が嫌がっていたり、おかしいと思っていると放送すれば、ゴミ捨て場を管理している人や、町内会の人がそのテレビを見ていたり、誰かからその話を聞いたらゴミ捨て場を開け閉めする決まりをなくす可能性が高いだろう。
あいさつでも同じことで、あいさつを返させたいがために初めにあいさつしてくる人の多くは悪気もないし、悪意がない人が多いだろうけど、
みんながあいさつすることを正しいとは信じていないとか、知らない人にはあいさつしなくてもいいというあいさつの決まり(ルール)を信じている人がいるとか、知らない人と喋ることに抵抗がある人がいることなどを知らない無知だが、みんながあいさつしたいなどとは思っていないことを知ったら、知らない人にあいさつしたり、知っている人に対してもあいさつをする人は減るだろう。

お歳暮や土産物や食べ物を誰かにあげている人も、あげた相手から、ありがとうと言われたとか、いらないと言われていないから嫌がっていない、
迷惑していないと思っている人もいるのだろうが、嫌がっていたりする人もいるのだ。嫌がっている本心を聞いたことがないから分からないのだろう。
もし、何かをあげた相手が嫌がっていたり、迷惑しているのが分かったら、ほとんどの人はあげないだろうが、嫌がっていることに気づいていないからあげるのだ。

私が大阪に住んでいた時にマンションに住んでいたが、そこにはゴミ当番などなくて、いつでもごみは捨てれた。
同じ日本でも、同じではないところはたくさんあって、ゴミ捨て場がいつも開いているところもあれば、閉まっているところもあり、
ゴミ当番があるところもあれば、ないところもあるのだ。

私が大阪にいた時は、回覧板を回すなどなかったが、今住んでいる所では回覧板を回さなければいけないのだが、回覧板を持ってくる相手や、持って行く相手が嫌いな人なら地獄の回覧板回しみたいな人もいるだろう。
回覧板に書いていることも大した内容が書かれているとも思わない。
回覧板ではなくて、メールに回覧板に書かれている内容を送るようにしたらどうかと私は思うが、メールアドレスを持っていない人や、メールアドレスを町内会の人に教えたくない人もいるだろうから、
回覧板を回すことは今後もやったらいいと思う人もいるだろうし、メールアドレスの方がいいと思う人もいるだろう。
回覧板を回すのを嫌がっている人がいることを知らない人もたくさんいるだろうし、回覧板を回すことを嫌がっていることを、回覧板回しの犠牲者や被害者とは、ほとんどの人は言わないだろう。
何かを嫌がっている人がいても、ほとんどのことは被害者や犠牲者とは言われないくて、ほとんどのことでは嫌がっていることを損害という言葉では言い表さないのだ。
人間にしろ、人間以外の生物にしろ、誰かが嫌がっていることをしている人を、罪と言うと定義付ければ、みんな罪人であり、犯罪者だ。
同じことを言い表すのでも、言葉の言い方で印象が変わる。人が嫌がることを罪と呼んだり、それをやっている人を罪人や犯罪者と呼べば印象が悪くなりやすい。
自分のことを棚に上げて、人のことは非難して悪く言いやすい人が多いのだろう。
一部の人だけを犯罪者や罪人などと呼び、自分たちが不正をやっていたり、誰かが嫌がることをやっていることは許したり悪く言わないのを差別や、
えこひいきという言葉で言い表すとすれば、差別罪や、えこひいき罪だ。

ゴミ捨て場の決まりを守っている人をきっちりしていて、真面目などと良く言う人もいるだろうが、ゴミ捨て場の開け閉めする決まりを作っている人も、正しいと信じて守っている人もどちらもバカであるとも言えるのだ。
自分が正しいと信じている決まりを守っている人を褒め称えていても、同じ決まりを正しいと信じていない人からしたら、その決まりや、決まりを守っている人をおかしいとか、バカだと思われている場合もあるのだ。
多くのあいさつ信者は、仲間ではない人や関わる気もない人にあいさつしたことを褒めていても、みんなが同じことなど思っていない。
ほとんどの決まりなど正しくもなかったり、正しいと信じていなくても見栄体裁などの理由で嫌々守っている場合もあるのだ。
正しくもない決まりをバカのルール、アホのルールとも言えるが、その決まりを守っている人を褒めたい時にはルールを守る、きっちりしていて真面目な人と褒めた
りするだろう。ゴミ当番でカギを開け閉めする決まりも、あいさつしたら返せという決まりもバカのルールだ。
この決まりを守っている人の方が、素晴らしい人などと言われて褒められ得をするところがある。
ゴミ当番が、カギを開けるのを忘れていたり、忘れてはいないけど開けなかったら、開けていないゴミ当番が問題視されやすいだろう。
「あなたがゴミ捨て場を開けていなことで他の人がごみを捨てれなくて迷惑する」などと不満を持たれるだろうが、ゴミ捨て場の鍵の開け閉めをする決まりを決めた人や、その決まりを正しいと信じて守っている人や、
不満を持ってはいるけど決まりを守っている人を問題視する人はあまりいないだろうが、正しくもないうえに、誰かがその決まりを嫌がっていても、決まりを守っている方の人や決まりを作った方は悪く言われにくいだろう。
あいさつもそうで、あいさつを初めにやりだした人や、あいさつを一部の人にだけやることを正しいことだと信じてやっている人は悪く言われにくいが、あいさつ返さない人の方が問題視されて悪く言われやすい。少数派の方が叩かれやすいのだ。
正しいことをしていると思っている人に対して、誰かが不満を言ったり、嫌がらせすると、それをされている人が子どもだとか少数派だと弱い者いじめと言われたりするだろうが、自分が正しいと信じていることをやらない人には、例外あれど、その人たちが子どもであれ、少数派であっても弱い者いじめとは言わずに、自分が正しいと思うことをしなかったことで嫌な気持ちになった自分が被害者、犠牲者だと思って正しいと思うことをしなかった人を叩いてくる。人間は自分が一番かわいいのだ。

 



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