くるみの世界

金でやっていく世の中や、あいさつが正しいとされていることは
間違っているということを主張したいです。

脱あいさつ あいさつは正しくない9

2022年10月19日 | 脱あいさつ

目次
第1章から第9章へのリンク
第10章から第12章へのリンク
第13章から第20章へのリンク
第21章から第23章へのリンク
第24章へのリンク
第25章から28章へのリンク
第29章から37章へのリンク
第38章から47章へのリンク
48.あいさつ信者の心理は白人の黒人差別と同じだ
49.中傷、誹謗中傷という言葉の定義、意味付けとあいさつ
50.日本人もカースト民族
51.自由には責任が伴うという間違った信仰心
52.信仰を縛ることは出来ない
第53章から第56章へのリンク
第57章から第59章へのリンク
第60章から第67章へのリンク
第68章から第75章へのリンク
第76章から第81章へのリンク
第82章から第86章へのリンク
第87章から第93章へのリンク
第94章から第99章へのリンク

 

48.あいさつ信者の心理は白人の黒人差別と同じだ

差別で有名なのは、白人の黒人差別とかの人種差別や、特定の民族に対する差別だが、他の差別はあまり多くの人の話題に出ることはないし、そもそも差別という言葉で言い表されない場合が多いだろう。

一部の人だけがあいさつしないことは許さなかったり、見下したり、おかしいと思うのに、ほとんどの人があいさつしないことは許すようなことをしているあいさつ信者も差別をしているのだ。
あいさつ信者が、ごく一部の人にあいさつをさせたいのにあいさつされないことで勝手に嫌な気持ちになるのを、あいさつしなかった相手のせいにしている人がいるわけだが、大切ではない人にあいさつを求めて、あいさつをされなかったことをあいさつしなかった相手のせいにする冷酷さを持っていても、大勢と同じことをする人を正しい人だとか、良い人だと思う人が多いので悪くは言われにくいが、あいさつしてほしいのにしなかった少数派を白眼視したり、見下して、多数派が正しいと擁護する。

あいさつ返さなかった方が黒人側で、あいさつしてほしい人が白人側みたいなものだ。
ある特定の外見した人や、人の生き方や、信仰を見下して差別しているのは誰でもやっていることだろうが、あいさつ信者は自分のあいさつ信仰が正しいと信じているから、あいさつしてほしいのにしない方を悪者扱いしたり、見下して嫌う。
あいさつを返させるために、ごく一部の人にだけあいさつをする人は、他のあいさつ信者から擁護されるだろうが、
同じことを信じていない方のあいさつ非信者が叩かれる。

あいさつ信者は、あいさつしない人のせいで嫌な気持ちにさせられて、存在を軽視されたなどと、被害者意識を勝手に持っているのだろうが、
これを白人の黒人差別で言えば、「白人が黒人を見ていて嫌な気持ちになったり、見下したり、嫌った理由は嫌われた方の黒人に問題や原因があるんだ。
何もしていなかったら嫌われたりしないんだ」と言っていたら、おかしいとか、間違っていると多くの人は思うだろうが、
他のことでは嫌われた方が問題視される場合がたくさんある。
あいさつがそうで、あいさつを返さなかった方が、おかしい人、間違っている人だと思われやすいだろう。大勢と同じことをしない少数派のあいさつを返さない方が異常者扱いされて変な目で見られる。

あいさつされたいのにされないことで無視されたと思い、自分の思い道りにならなくて嫌な気持ちになったことを相手のせいにして、あいさつしなかった人を見下したり、不満を言ったり、嫌がらせしたりして、
根拠がなくても自分が感じたことが正しいと信じるあいさつ信者の狂気とも言えるし、あいさつ信仰は狂っているとも言える。
あいさつ以外のことでも大勢がやっていることが例外あれど正しいと信じる狂っている信仰が世の中でまかり通りまくっている。

白人の黒人差別の場合、どう見ても白人は黒人を仲間だとは思っていないだろ。
もし仲間だと思っていたら奴隷になどしないはずだ。あいさつでも同じで、そもそも相手を仲間だと思っていたら例外あれど、初めにあいさつなどしないだろうし、例外あれど仲間だとは思っていない大切ではない人だから、あいさつを返させるために初めにあいさつして、大切ではない人があいさつを返さないと不満を持ったり、見下したり、攻撃してくる。でも、あいさつを返さなったのが子どもや仲間とか好きな人ならば許す場合があるのは、ただの差別である。
人を選んで、ごく一部の人にだけあいさつを求めるのに、ほとんどの人にはあいさつは求めずに、ほとんどの人があいさつしてこないことは許すのも差別だ。
あいさつは常識だとか、社会のルールだとか、コミニケーションなどといい、美化して綺麗事を言っていても、あいさつする人の心理の実態が結構ドロドロしていて、冷酷なところもあるのだ。
あいさつしない人を見下したり、嫌ったり、悪態ついたり、攻撃してくる人がいることを知らない人は、都合のいいとこだけ見て、あいさつを良く言うのだろうけど。
人種差別はひどいことだと思う人が多くても、それ以外の差別はあまりひどいことだとは思われにくいのだろう。
動物を食べていることを嫌がっている人がいたり、人間は動物を食べるようにはできていないと言っている人もいるが、
犬猫は食べてはいけないけど牛、豚、ニワトリ、魚、イノシシなどは食べてもいいという信仰を持っている人も差別をしているのだ。

 

49.中傷、誹謗中傷という言葉の定義、意味付けとあいさつ

 

誹謗中傷や中傷という言葉がある。別の言葉で言えば悪口だ。
中傷という言葉の定義、意味付けが通じていなくて、みんなが同じ意味で中傷という言葉を使っていない。
中傷はダメだと言っている人は、言いたいことの詳細を詳しく具体的に言っていなくて、何を問題視しているのかがあまり分からない。私と同じことを思っている人もたくさんいるだろう。
不満を言っている人が具体的なことを言わないので、聞いた人も何を言いたいのか分からない場合が多いだろうが、
不満を持っている人や不満を言っている人自体が自分が何で不満を持っているのかをあまり把握できていない場合もたくさんあるだろう。
つまり、自分のこともあまり分かっていないところがあるのだ。
誰かが人間について「自分のことが一番分からない」と書いていたが、他の人より自分のことを分かっているところはあっても、
一方で分からないところもあるだろうから、この人の言っていることは当たっているところがある。

例え話を書くが、Aさんという人物に対して、10人の人たちがAさんを「Aさんは顔がブスだ。雰囲気とか言動も気持ち悪い。
人間としても劣っていて、他の人よりも格下の人間で嫌いだ。」と思っていて低評価していたとする。
BさんはAさんの前で直接、具体的にその思っていることを言った。
CさんはAさんの前で直接、バカにしたような物の言い方と、
バカにするような表情や目つきで「Aさんはきれいな顔だね。立派な人だね」と思ってもいないことを言い、
Aさんを見下して嫌っている本心を逆の言葉に込めて言った。
DさんはAさんや大勢が見聞できる所ではAさんに思っていることを言わずに、Dさんの家族や友人にだけAさんについて思っている悪口を具体的に言った。
EさんはAさんについて低評価していることを誰にも言わず内面で思っているだけ。
FさんはAさんについて低評価していることを曲にして楽器演奏で表した。
GさんはAさんに対して低評価していることを絵で抽象的に表した。
HさんはインターネットにAさんについて低評価していることをAさんの名前を出さずに具体的に書いていて、
AさんはHさんがネットにそれを書いていることは知らない。
JさんはインターネットにAさんについて低評価していることをAさんの名前は出さずに具体的に書いていて、AさんはネットでJさんが書いたことを読んで、これは絶対に自分のことを言っているに違いないと思った。
KさんはインターネットにAさんについて低評価していることをAさんの名前を出して書いたが、AさんはKさんが書いたことを知らない。
MさんはインターネットにAさんについて低評価していることをAさんの名前を出して書いて、AさんはMさんが書いたことを読んだ。
10人の人達は全員Aさんに対して同じように低評価していて、思っていることは同じだが、その思ったことを外側に表す時の表し方が違い、
Eさんだけは低評価していることを内面で思っているだけだ。

中傷、誹謗中傷はダメだと思っている人が言いたいことで問題視をしているのは、人のことを嫌ったり、見下したり、気持ち悪がっていることなどを問題視しているのか、悪人だと思っている人や政治家、やくざ、反社会勢力などと言われている人や、自分が見下している人や嫌いな人のことを嫌ったり、気持ち悪がることは思ってもいいけど、それ以外の人を嫌ったり、見下したり、気持ち悪がるのは思ってはいけないことだと問題視しているのか、
悪人だと思う人にも、善人だと思う人にも本人が見聞できる所で本人に否定的なことや見下したり、気持ち悪がっていることを言ってはいけないけど、
本人が見聞できないところで言うのはやってもいいと思っているのか、
本人が見聞できる所で本人を嫌ったり、見下したり、気持ち悪がることを書いたとしても、書いた人間の名前や顔などの個人情報の一部を
出しているのならば言ってもいいが、個人情報を出していない人は言ってはいけないと思っているのか、中傷はダメだと言っている意味をはっきり言っていないので何が言いたいのか分からないのだ。

中傷についてツイッターで何人かの人が書いていることを読んだが、人によって真逆のことを言っていたりして、違うことを言っているのだ。
ある人は自分の個人情報を晒すなら言ってもいいと言い、別の人は個人情報を晒していても言ってはダメだと言っている人もいる。
中傷はダメだと言っている人に対して、災害の時に行政の人を公開リンチにしていただろというようなことを言っている人もいれば、
中傷と批判は違うなどと言う人もいて、人によって言っていることが全く違うのだ。

中傷と批判は違うと言っているのも、人に否定的なことを言ったり、バカにして悪口を言ったりするのを、言われた方に問題があると思っている場合は、否定的なことを言ったり、悪口を言ったことを批判と言い、
言った方に問題があり、悪いと言いたい場合は、悪口や否定的な言い分を中傷や誹謗中傷などと言う人もいるのだろう。
否定的なことや、バカにすることを言われた本人がどう思うかではなくて、もし自分が言われたらひどいと思うことはやってはダメとか、
自分が許せないことだから叩いたりする人もいるのだ。

あいさつも同じで、自分の好きな人にあいさつ返してほしいのにあいさつ返さなかったとか、初めにあいさつしてこなかったことに不満を持っている人がいても、自分の好きな人自体はあいさつされなかったことに不満を持っていなくても、好きな人にあいさつしてほしいのに、あいさつしないことを許さない人もいるのだ。
悪口を言われた人自体が嫌がっていなくても、他の人がそれをひどいと思っていたり、悪口を言った人を悪者に仕立てたかったら、
言われた本人が嫌がっていなくても、悪口を言った人の方が悪く言われる場合もあるのだ。
人に否定的なことを言ったり、見下したり、バカにするようなことは昔からあるし、普段から多くの人が言っていることなのに、
メディアが一部の人の悪口を話題に出すと色んな理由で一部の人が取り上げて、騒ぎだすのだ。
例えば、メディアでコロナ渦という言葉を誰かが使い出すと、一部の人もコロナ渦という言葉を使いだすのだ。
中傷、誹謗中傷という言葉より、悪口という言葉の方が分かりやすいと思うが、メディアが中傷や誹謗中傷という言葉を使うから、
それを真似して同じ言葉を使う人もいるだろう。

自分の思い道りにならないことで不満を持ったり、嫌がらせしてきたりすることを悪くいう言葉は、「わがまま、勝手、人のことを考えていない、自分ばかりが正しいと思っている、自己中、自分中心的、図々しい」などの言葉で言うだろうが、あいさつは大勢があいさつ返しを正しいと信じているあいさつ信者で、自分が正しいと信じていて、あいさつを返さない方をおかしいと思っているから、あいさつ信者の人の中には、自分の思い道りにならなかったことに不満を持ったり、不満を言ってきたり、嫌がらせをしたりすることを「わがまま、勝手、人のこと考えていない、自分ばかりが正しいと思っている、自己中、自分中心、図々しい」などとは言わずに、あいさつを返さない方にこれらの言葉で言い表してくる人もいるだろう。

あいさつを初めにする人のほとんどは、何かしらの理由からあいさつ返しをさせたいからやっているだろうが、あいさつを初めにしている人の一部はあいさつ返しを求めて初めにあいさつしているわけではない。
宅配業者が荷物を届けに家などに来た時や、セールスで家などを訪問する仕事の人や、コンビニやスーパーなどの店で店員が客にあいさつした場合は、
あいさつした相手にあいさつ返しをさせたいと思っていない場合が多いだろう。
宅配業者やセールスで家などに来る人は、あいさつを返させたいから家などを訪れているのではないのだ。
宅配業者の人ならば、荷物を受け取ってもらうことを目的に来ているので「こんにちは、宅配便です」と言っても、ほとんどの宅配業者はあいさつ返されたいと望んでいないだろう。
セールスも自分の会社のサービスや商品を売る目的で来ているのだから、こんにちはと言ったとしても、すぐ本題に入るか、世間話でもしてくるだろうから、あいさつ返させたい人はあまりいないだろう。

あいさつではなくても、他人に喋りかけて返事をしなくても、多くの人がおかしいと思わない場合もある。
他人に働きかけて相手が無反応でもおかしいとも思われずに許される場合もあるのだ。
ほとんどのことは断って拒否することが許される。
あいさつ返しをしないというのは、あいさつ返しを断っているわけだが、
あいさつの場合はあいさつ返しを断ることを許さない人がたくさんいるのだ。
自分の信仰の方が正しいと信じていたり、大切ではない人や見下している人にあいさつしてほしいのに、あいさつされないと不満を持つ人もいるのだ。

チラシ配りやポケットティッシュを配る仕事の人が、駅前などで知らない人などに、チラシやポケットティッシュを配っていて、
チラシなどを目の前に差し出された人が受け取らずに無反応で通り過ぎても、多くの人は無視とさえ言わないだろうし、
無視と言ったとしても、やってもいい無視と思うだろう。
スーパーなどで試飲試食の仕事をしている人が、近くを通る人に商品の試飲試食を勧めて、喋りかけられた人が無反応で通り過ぎても、試飲試食をしなくても、ほとんどの人はおかしいとも思わなければ、無視とも言わないだろう。
これら以外の喋りかけやあいさつをする人と、チラシ配りやポケットティッシュを配る仕事の人や試飲試食の仕事の人との違いは、
チラシ配りやポケットティッシュを配る仕事の人や試飲試食の仕事の人の多くは給料という金を貰うために仕事をやっているだろうから、
歩合ではなくて、時給で給料を貰えるならば、チラシやポケットティッシュや試飲試食の食べ物や飲み物を人に受け取ってもらったり、
飲食してもらわなくても金は貰えるので、絶対にチラシやポケットティッシュや試飲試食の食べ物、飲み物を受け取ってもらう必要もなければ、
受け取ってもらおうと働きかけた相手にあいさつをされたいと望んでいないので初めからあいさつもしないのだ。

人に働きかける目的が違うのだ。あいさつを初めにする人の多くは、色んな理由であいさつを返させたいから初めにあいさつをしているのだ。
だからあいさつを返さないと自分の思い道理にならなかったので疑問や不満を持つのだ。
ほとんどのことを断っても許されるのは、そのほとんどのことを断ってもいいと多くの人が許可して許しているからだ。
仕事の面接で不採用にして断ってもいいし、入試で落としてもいいし、遊びやセックスの誘いや、色んな誘いを断ってもいいと多くの人が許して許可しているのだ。

多くの人がしなければいけないと信じていたり、断ってはいけないと信じていることの代表的なものは、あいさつ返しはしなければいけない、値段がついているものには金を払わなければいけない、年金や税金を払わないといけない、ほとんどの大人は給料や印税という形で金を貰うようなことをしなければいけない(大勢が仕事や職業と言っているものをしなければいけない)、子どもは学校に行かなければいけない、などだろう。

白人の黒人差別は有名だが、同民族や同人種の中にも差別はあるのだ。大切ではない人や見下している人や嫌いなだけの人や、ちょっとだけ好きぐらいの人が、自分や好きな人にあいさつを返さなかったり、初めにあいさつしてほしいのにしないことを許さない冷酷さや差別心を
普通の人や一般人と呼ばれている人達が持っているのだ。
あいさつを返さない人をダメ人間と呼ぶ人もいるが、刑法違反した人のこともダメ人間と言ったりして同等に扱っている人もいるのだ。
ダメ人間という人がダメ人間である。あいさつしてほしいのにしなかった人を見下してダメ人間と思った人もダメ人間だとも言える。
給料や印税という形で金を貰うようなことをしていない人(大勢が無職やニートなどと呼んでいる人)を見下したり、嫌ったり、バカにしたり、
死んでほしがってたり、給料を貰うようなことをやってほしいと思っている人がいるが、こういう人たちは、給料や印税という形で金を貰うようなことをしていない人に対して、なんで不満を持ったり、嫌がっていたりしているのかをはっきり言っていないのだ。
給料や印税という形で金を貰うようなことをしていない人は苦しんでいないとか、楽しているとか、何もしていないなどと思っている人もいるみたいだが、何もしていない人などいないだろう。
呼吸していることも何かをやっているし、テレビや映画を見ていても、ネットをやっていることも、家の家事、掃除、洗濯をやっていることも何かをやっているのだから。
給料や印税という形で金を貰うようなことをしていない人を嫌ったり、見下したりする人は、給料や印税という形で金を貰うようなことをしていない人が自分が正しいと信じている生き方をしていないのが気に入らないとか、
楽しているとか、苦しんでいないとか勝手に決めつけて不満を持っているバカな人達だろう。

例え話として、AさんとBさんとCさんとDさんとEさんとFさんとGさんとHさん8人が同じ絵を同じ時間をかけて描いた。
Aさんは以前から肩書をアーティストと名乗っていて、他の多くの人もAさんをアーティストの仕事をしていると思っている。
Aさんは描いた絵を値段をつけて売ったが売れなかった。
BさんはAさんが描いたのと同じ絵をメルカリやラクマやフリマ(フリーマーケット)で値段をつけて売ったら、フリマで売れた。
CさんはAさんが描いたのと同じ絵を値段をつけて売りはせずに誰にも見せなかった。
DさんはAさんが描いたのと同じ絵を値段をつけて売りはせずに、家族や友人に見せたら褒めらて、この絵で癒されたと思った友人もいた。
EさんはAさんが描いたのと同じ絵を値段をつけて売りはせずに親戚にタダで絵をあげた。
FさんはAさんが描いたのと同じ絵をインターネットで無料で公開した。
GさんはAさんが描いたのと同じ絵をユーチューブ(YouTube)に公開した。Gさんはユーチューバーではない。
HさんはAさんが描いたのと同じ絵をユーチューブ(YouTube)に公開した。Hさんはユーチューバー。
8人の人たちが同じ絵を同じ時間をかけて描いたが、多くの人はAさんのことは仕事をしていて、就労していて、働いていて、無職ではないと思うだろう。
8人の中でAさんとBさんの2人が絵に値段をつけて売ったが、Bさんのことを仕事をしている、働いているという人はあまりいないと思う。
同じ絵を描き、それに値段をつけていることは同じでも、多くの人が芸術家やアーティストと呼んでいる人が値段をつけて絵を売れば、
その絵が売れようが売れまいが仕事と言う人が多いだろう。
Hさんはフォロワーの多いユーチューバーで金が入ってきている人だ。

ユーチューバーで金を貰っている人をバカにしている人もいる。自分が何かをやり、ユーチューブで公開して合法でユーチューバーとして金を貰っていても、それを良く思わない人もいれば、仕事や職業とは言わない人もいるだろうが、仕事と呼ぶ人もたくさんいるのだ。
AさんとBさんとHさんは自分が描いた絵を誰かが見たり、その絵を売って買われているのは同じなのに、Aさんが一番多くの人から仕事と言われるだろう。
なぜ絵を描いているのは同じであるのに全く逆のことを思われるのかということだ。
子どもなどの例外は除いて、給料や印税という形で金を貰うことをしないといけないと信じている人は、
その人が何かやっていても、給料や印税という形で金を貰うことをしていなければ不満を持ったり、見下す人もいるのだ。
老人は長年生きてきたから自分は人間や世の中を若者より知っていると思っている人もいるだろうが、昔と今の世の中など色々違うわけだ。インターネットやスマホは老人より若い人の方がたくさん使ってるだろう。
ユーチューバーを老人のどれぐらいの人が知っているのだろうか?若い人の方が知っていそうだ。
今は家で撮影した動画をアップロードして、ユーチューバーで
金を貰う人もいる世の中だ。昔はインターネットもスマホもアプリもなかったのだ。

本人がいない所で「働いてるのかな?」と人のことを言う人がいたり、本人に「働いてるの?」などと聞いてくる人がいる。
こういう人達が本当に聞きたいことの詳細を詳しく言っていないけど、こう言うことを聞いてくる人が言いたいことは、
「給料や印税という形で金を貰うようなことをしているのか?大勢と同じことをしているのか?」と言うことを聞きたいのだろう。
つまり、さっきの8人の例え話にもあるように、何かをしているのは同じであるにも関わらずに、大勢と同じように給料や印税という形で金を貰うようなことをしていない人をバカにしていたり、見下していたり、蔑んでいたり、間違っていると思っている人もいるのだ。
立派だと思う人の場合は子どもみたいに生きて存在しているだけでもいいし、給料や印税という形で金を貰う必要はないと多くの人が思っていそうだ。
素晴らしい作品を作っているとか、素晴らしいものを作っていると思った場合は、それに値段をつけて売ることを認めて、気に入らないものや作品に値段を付けることは許さない人もいるのだ。
立派だと思う人にはたくさんの給料や印税あげてもいいけど、それ以外の人にはそんなにたくさん金をあげてはいけないなどと思っている人もいるだろう。
ただの差別だ。白人だけが差別しているわけではないのだ。差別など誰でもしているのだ。

結局、何かをやっていても、何もやっていないと思っていても、それで金を貰っていようと貰っていなかろうと誰かが不満を持つのだ。
不満を持つ理由の一つは羨ましさ、妬みなのだ。ずるい、せこいと思って羨ましいのだ。
メルカリで売られている何かについて誰かが「まじめに働くのバカバカしくなる」というようなことを言っていたのだが、
自分から見てメルカリで売れている新品や中古品の商品を下らないとか、価値が低いと思うようなものが高額だと思う値段で買われていると、
週5日、一日7時間や、それ以上の時間で給料を貰うようなことをしている人と比較して、せこい、ずるいとか思っていそうだ。
大勢と同じことをする人や、週5日、一日7、8時間やそれ以上の時間、給料を貰うことをしている人の方が真面目であると信じている人もいるのだ。
金でやっていく世の中に加担して、それを正しいと信じていて、大勢と同じことをしない人を真面目ではない人だと思ったり、悪者扱いしている人のことを真面目な人などと呼んでいるのだ。
金でやっていく世の中に加担して、この金社会を勝手に正しいと信じて、他の人がこの金社会で苦しんでいても、それを辞めようとはしなくても真面目な人とか、真面目に働いているなどと言えばカッコが付いて綺麗事にはなる。多数派を良く言いすぎなのだ。

メルカリでビックリマンシール1枚や20枚が数千円や1万円や5万円で売れれば、せこい、ずるいなどと思う人もいるのだろう。
自分が素晴らしい人とか、立派だと思っていない人が自分や立派だと思っている人よりもたくさん金を貰っていると許せなくて不満を持つのだろう。
ビックリマンシールなどを数千円やそれ以上で買いたい人や、金を出しても欲しいと思う人もいるということだ。
誰かにとって要らなくてゴミだと思うものが、他の人にとっては必要なものであったり、素晴らしいものだと思っていたり、宝なのだ。
誰かにとってのゴミが他の人にとっては宝なのだ。

無職やニートと言われている人を見下して蔑んでいたり、間違った生き方をしていると思っている人がいたり、あいさつをしてほしい相手があいさつをしないと見下したり、嫌ったりしても、他の人なら同じことを思っていないのだ。
劣っていると思う人のことをゴミと呼ぶ人がいるが、ほとんどの人はその人のことをゴミとは呼ばないだろう。
自分が価値のないと思っていたり、見下している人について、他の人はその人のことを好きだと思っていたり、大切な存在だと思っているのだ。
働いていない人は死ねと言っている人がいたり、死ねとは思っていなくても、見下したり、間違った生き方をしていると思っている人は多いだろうが、動物を食べている人に対して、こんな人類なくなればいいのにと言っている人もいたり、人間は動物を食べるようにはできていないと言っている人もいるが、働いていないと言われている人を嫌って見下している人も、動物を食べている人は多いだろうが、動物を食べていることで誰かから見下されて嫌がられているのだ。
同じ言葉の定義、意味付け自体が違ったり、同じ人や物などに対して思っていることも真逆だったり、全然違うことを思っているのだ。
誰でも自分中心の捉え方をしているのだ。人間と言われている人が知っていることなどごく一部のことだけで世の中や人間についてほとんど知らないのに、ほとんどのことを知っていると思っている人もいるのだろう。ほとんどのことに対して無知であるということを知らない人もいるのだ。

あいさつは正しくはないが、金でやっていく世の中も正しくはないし、不正であり、本来モノやサービスに値段などついていないが、
みんなで助け合いをしようとしないので、金でやっていく世の中などやって、自分たちが何かをやったりしたことに給料や印税という形で金を貰うことは正しいと勝手に信じているのだろう。
合法であろうと違法であろうと、自分たちが気に入らない金の得かたをしていると不満を言ったりして叩く人もいるのだ。
例えば、親の年金で自分の生活費が払われていたり、自分が欲しいものを買ったり、ヒモ生活と言われている人が女から生活費とか、欲しい物に金をを払ってもらったり、株で金得たりすることは法律上は違法ではなくても、こういう生き方を間違っていると信じている人がいたり、バカにしている人もいるのだ。
自分がやったことに給料や印税という形で金を貰うことが正しい金の得かたであると信じている人がたくさんいるのだ。
大勢と同じように給料や印税という形で金を貰うようなことをしていない人をバカにするようなこと言っても、中傷や誹謗中傷とは言われにくいだろう。
大勢がバカにしていたり、見下していることは正しいことだと思われやすいから許されやすいのだろう。

中傷(悪口)をしていない人はほとんどいないだろう。
日本の法律に侮辱罪、名誉棄損罪というものがある。
内面で人をバカにして侮辱することを思っていたり、本人のいない影で悪口を言ったり、本人のいる所で悪口を言っていても、
ほとんどの人には侮辱罪、名誉棄損罪は適用されない。だからこの法律も差別法だ。
多くの人は誰かや何かをバカにして侮辱しているだろうに、一部の人だけが侮辱罪や名誉棄損罪を適用されるのは不公平だし差別だ。
多くの人はこれらの法律を知っていても、ほとんどの悪口をひどいことや、悪などとは思わないだろう。

誰かが「人を攻撃する人は自分が先に相手から攻撃されたと思っている」と書いていたのだが、誰かに不満を持ったり、本人や本人以外に不満を言ったり、逮捕したり、裁判起こしたり、裁判を起こそうとしたり、嫌がらせしたりなどしている理由のほとんどは、「人を攻撃する人は自分が先に相手から攻撃されたと思っている」ということで理由が付くと思っている。
攻撃という言葉の部分を、人への不満に置き換えれば、例外あれど、人に不満を持っているのは不満を持たれている相手のせいで不満を持ったと思っている場合が多いと思う。

「人を攻撃する人は自分が先に相手から攻撃されたと思っている」というのを言い方変えれば、「人に不満を持つ人は例外あれど、相手のせいで不満を持ち、嫌な気持ちにさせられている。
だから、相手のせいで不満を持ち、不利益をこうむり、迷惑をしているのだから相手に不満を言ったり、嫌がらせしたり、逮捕したり、裁判を起こしてもいい」というようなことを思っているのだろう。
更に別の言い方で言えば、「自分が正しい。正しいという根拠がなくても自分が感じたことが正しい」と思っているのだろう。
自分が正しくて、相手が間違っていると思い不満を言う場合に、無責任とか、責任取れ、など言うのは、自分が正しいから、自分や誰かが迷惑したり、嫌な気持ちなったのは、嫌がった人ではなくて嫌がられた人に原因があるということを認めろと言いたいのだろう。

法律自体が不正だが、みんな自分に都合にいいように法律を利用しているだけなのだ。
ほとんどの法律を知る気もなく、ほとんどの法律を知りもせず、知っている法律の一部は守っているのだ。
中傷、侮辱、名誉棄損など多くの人がやっていることだが、ほとんどの人に侮辱罪や名誉棄損罪は適用はされない差別をしている。
おかしいことを罪というとすれば、差別していない人などいないだろうから、差別していることを差別罪と言うとすれば、みんな差別罪を犯しているとも言えるのだ。
逮捕されたら犯罪者や罪があるとして、一部の人にだけ罪名を付けているが、それ以外の人にも罪はあるとも言えるのだ。
バカと言う人がバカというように、犯罪者と人に言う人も犯罪者だということになる。

あいさつをしてほしいのに、あいさつされなかったことに不満を言う人は、あいさつのことにおいては自分が正しいのに、自分の思い道りにあいさつしなかった人に不満を持ち、相手が悪いとか、相手に原因があると思っている人もいるのだ。
「人を攻撃する人は自分が先に相手から攻撃されたと思っている」をあいさつされなかったことに不満を持っている人のことを当てはめて、言い方を変えれば「あいさつしてほしいのにあいさつしない人に不満を持ったり、攻撃する人は、自分があいさつされないことで嫌な気持ちになったのは、あいさつしなかった人のせいだと思っている」ということだろう。
自分の思い道理りにならないから嫌な気持ちになったのは、自分に問題はなくて、相手に問題があり、相手が悪いと信じているのだ。
日本人の場合、日本人は自分に自信がないという人がいるが大げさな言い分で、正しい根拠や裏付けがないのに自分が正しいと信じているところがあるのだ。

 

50.日本人もカースト民族

 

インドのカーストは多くの日本人はどこかで見聞したことがあって有名だろう。
日本人もカースト民族で縦社会であり、ヒエラルキーや差別はあるが、
日本人には差別はないとか、あまり差別はないと信じている人もいるだろう。
白人の黒人差別やユダヤ人差別などは有名で特定の人種や民族を見下したり、嫌っている。
でも、誰かを見下したり、嫌っている理由は、生まれた時の肌の色とか、民族で嫌っているだけではないことは多くの人は分かっているだろうが、
あまり大勢の見聞できる所では言わないだけだろう。

あいさつでも、初めにあいさつしないとか、あいさつ返さなかったということで嫌ったり、見下す人もいるのだ。
あいさつを初めにしないとか、あいさつを初めにしてオウム返しをしないことに不満を持ったり、あいさつ返しをしないことで見下したり、嫌うのは信仰差別とも言えるだろう。
みんながあいさつを正しいとは信じていないし、知らない人にあいさつしなくてもいいという信仰を持っている人もいるのだ。
例外除いて、大勢と同じことをしない人を下に見ている人もいるが、誰でも大勢と同じことしていないところなどたくさんあるのに、
自分やほとんどの人が大勢と同じことしていないことは許すような差別をしている。

同じことを言い表すのにも、誰かを見下したり、バカにしたり、嫌っていることを差別という言葉で言えば、差別している方がひどいとか、間違っていると思われやすいだろうが、嫌っている、バカにしているという言葉だけで言えば、あまりひどいことのようには思わない場合もあるだろう。
あいさつも、例外除いて、仲間扱いしていない人や、大切ではない人に対してあいさつをする場合が多いだろうから、自分と関係ない人にあいさつして関わってやったなどと思っている人もいるだろう。

あいさつしてほしいのにあいさつしなかったのが、仲間や家族や子どもなら許すのに他の人ならば許さないの人が日本人にいるのも、日本人にも差別心があり、同民族に対しても差別をしているところがあるのだ。
関わる気もない人や、嫌いなだけの人やどうでもいい人にあいさつしたことを高評価して、素晴らしいとか、気遣いや、やさしさ、思いやりなどと言うのも日本人が自分や多数派に甘いところがあるからだろう。
自分の思い道りにならずに、あいさつさせたい人があいさつしなかったことを許さずに嫌ったり、見下したり、嫌がらせしに来たりするような
ことしているあいさつする人を素晴らしい、気遣いや思いやりであいさつしたと高評価すれば美化出来て綺麗事にはできるけど。

金でやっていく世の中が日本でなくならないのも、多くの日本人が金でやっていく世の中を正しいと信じている金信者だからだ。
多くの人が金でやっていく世の中は不正でおかしいと思い、この金社会に加担しなければ、金でやっていく世の中などまかり通るわけがないのだ。
多くの人は例外除いて、大勢がやっていることを常識やマナー、モラル、社会のルール、当たり前などという言葉で言い表しているけど、
大勢がやっていることで不正で間違っていることを同じことを信じていない人に押し付けたり、刑法違反ならば逮捕することをしているのは、
日本人もカースト民族で人を上に見たり、下に見ているところがあり、同じ人間だと思っていなかったり、仲間や家族だと思っていないから、
こういうことをしているところがあるのだ。例えば、同じ刑法違反をしたのに、自分や仲間や子どもならば警察呼ばずに逮捕させようとはしないのに、
他の人ならば逮捕させるために警察を呼んだりするような、えこひいき差別をしている。

金でやっていく世の中を助け合いや社会貢献などと言い、人のためにやっているなどと良く言う人は綺麗事を言っていたり、
金でやっていく世の中で色んな人が色んなことで苦しんでいることを知らない人だったり、金でやっていく世の中で苦しんでいる人がいるのを知っていても大切でもない人や、どうでもいい人や、嫌いなだけの人が苦しんでいても他人事なのでどうでもよかったり、金でやっていく世の中が正しいと信じている金信者だから、金社会を良く言うのだろう。

例外除いて、正しいと信じていなくても権力者や多数派に合わせて従えというような世の中になっているのだ。
正しいと信じていなくても権力者側が税金、年金を払え押し付けていて、多くの国民もそれを正しいと信じている人もいるのだ。
「俺ら以下が俺らに逆らってくる」というようなことを思っている人もたくさんいるだろう。
下は上に合わせて従わなければいけないと言う信仰を持っている人もいるのだ。
今後は、金でやっていく世の中など確実になくなるし、政治家や市長、知事などもいなくなる世の中になるから、これらの上の立場の人が決めたことに従って合わせろと言うことはなくなるだろう。

 

51.自由には責任が伴うという間違った信仰心

 

自由には責任が伴うと言う人がいるが、これはただの信仰であり、みんながそんなことを信じていない。
会社や学校や色んな集団の中で、自分や好きな人や善人だと思っている人に都合の悪いことがあると、その集団の一番上の人や、一番上の立場ではなくても、他の人よりも立場が上の人のせいにする人がいるのだ。
いい人だと思う人や自分や好きな人を悪く言いたくない人の中には、
嫌いな人や見下している人やどうでもいい人のせいにしたりする人もいるのだ。

親や先生や政治家や市長や知事などの上の立場の人などが決めたことを正しいと信じていようが、信じていなかろうが他人の決めた決まりを色んな理由で守ってきたことで、自分の思い道りにできないことを洗脳されたとか、やらされたとか、人生奪われたとか言ったり、思ったりして被害者を気取って上の立場の人をスケープゴートにして人のせいにしているところがあっても、自分が可愛いから、自分のことを問題視して悪く言わないようにしてきていたのが、自分の本心をまかり通らせて生きたら
それも出来なくなるだろう。
私たちは被害者で権力者などにやらされて、図々しい人に言いなりにさせられてきたと思っていれば楽できるところもあるが、
自分の思い道りの言動をたくさんまかり通らせたら、人から嫌われたり、みんなと同じ人間だと思われなくて、変わり者とか言われてバカにされたり、変な目で見られたりするのが嫌な人もたくさんいるだろうから、
自分が正しいと信じていない決まりを嫌々、形だけ守っていた方が都合がいい人もいるだろう。
自分の本当の信仰心や本音、本心を隠すことで、自分が人からバカにされたり、変な目で見られる可能性が低いからだ。
大勢と同じことを思っていないとか、大勢と同じことをしていない人だと思われたくないから、自分の本音や信仰心を隠して
生きてきて、大勢の人から普通の人や一般人とか、いい人などと言われている人もたくさんいるだろう。

自由には責任が伴うという言葉に隠している意味は、
誰かが一番初めにやったことや、誰かが初めに決めた決まりを別の人がその決まりや、誰かが一番初めにやったことを色んな理由で真似して、
真似した人がそれをやったことで嫌な気持ちになったり、真似した人に都合の悪いことになった時に、一番初めにやった人や、
決まりを初めに決めた人のせいにするという信仰だろう。
他人のせいにすると楽だし、我が身可愛さ、自分可愛さがあるから全く自分を悪く言いたくないとか、ほとんど自分を悪く言いたくないとか、
自分を問題視したくないから、他人のせいにしたがることを自由には責任が伴うなどという人もいるのだろう。
一番初めに何かをやったり、初めに決まりを決めた人を問題視して、その人たちのせいにして、その人たちの真似をした人を問題視はせずに、初めに何かをやった人の自由には責任があるけど、その人たちの真似をした人たちが、真似をしたことで嫌な思いをした場合は真似をした方には責任がないという信仰心を持っている人もいるのだろう。

正しいと信じてもいないのに自分に都合がいいことだという理由で他人がやっていることを真似したり、他人が決めた決まりを勝手に守って
都合が悪くなると初めにそれをやった人のせいにして甘えているのだ。
あいさつでは逆で、一部の人にあいさつをしてほしいと求めて、あいさつされないと、あいさつ返しされたくて初めにあいさつした人や、
一番初めにあいさつをやりだした人が問題視されるのではなくて、あいさつしてほしいのにしなかった方が問題視されたり、おかしいと思われたり、攻撃されたりする。

子ども好きな人の中には、子どもが正しいと思うことをしなかった場合、親や先生や大人が教えてないからとか、子どもが間違っていることをしていると思った時に大人が止めなかったからなどと思う人がいるが、
止めても言うことを聞かなかったり、大人や誰かが指示を出しても言うこと聞かなかったりする場合もあるのに、子どもが好きな人の中には子どもを問題視しない代わりに大人のせいにする人もいるのだから、
自由には責任が伴うと言っている人がいるのは間違っているのだ。子どもが自分が感じたことを自由にまかり通らせて何かをやっても、
そのやったことを間違っていて、おかしいと思っても子どものせいにはされずに大人のせいにしている場合もあるのだから。
子どものことに限らずに、誰かがやったことでおかしいと思うことや、気に入らないことがあると上の立場の人や、初めに何かをやった人のせいや、
嫌いな人やどうでもいい人や下に見ている人のせいにされる場合がある。
ほとんどの人をいい人だと信じていて、一部の人を悪人だと信じている人の中には、いい人だと思う人が悪いとか、おかしいと思うことをやったら、悪人だと思う人のせいにしたりする人もいる。
ごく一部の人を悪者にして問題視することで、自分やほとんどの人を悪く言わずに問題視するのは、初めに何かをやった人のせいにして、その人がやったことを取り入れて嫌な思いをした人を問題視しないようにするには、
自由には責任が伴うという言い分は都合がいい。

 

 

 

52.信仰を縛ることは出来ない

 


「今までは窮屈できっちりとした時代だったけど、これからはおおらかで自由になる」などと言っている人がいたのだが、この人の言っていることは間違っている。
今までは窮屈できっちりとした時代だったと言っているが、今までもおおらかで自由なところはたくさんある。
例えば、牢屋の中にいる人は物理的な体が離れた牢屋の外に出て遠く離れた所に行くという自由はないが、内面で思うことの自由はあるとも言えるのだ。警察や裁判官やそれ以外の人がお前が間違っていると言ってきても、
自分は間違っていないと思うことは出来るし、内面で思うことは自由だ。
牢屋の中に入れられたり、柱に縛りつけられたり、手錠をかけられたり、足枷をつけられて、いかにも体の自由を奪われていても、内面の自由まで奪うことは出来ないとも言える。
体の自由を奪われても、自分が何を信じるかの心、精神や信仰の自由を奪うことは出来ないとも言えるのだ。
「牢屋に入れたり、手錠をかけて体の自由は奪っても、心や信仰の自由まで奪えないぞ」という感じだ。
洗脳されたとか言う人がいるが、同じことを信じない人もいるのに、正しいという根拠がない何かを信じたことを洗脳されたと言い、人のせいにしているのだ。
何かを勝手に自由に信じたとも言えるが、それを他人から信じ込まされて窮屈であるかのように思い、自分が被害者だと思っている人もいるのだ。

あいさつで言えば、あいさつを初めにしてあげたから、あいさつを返せという信仰を持っている人が多いだろうが、子どもや好きな人があいさつを返さないことは許したり、好きではない人があいさつ返さなかったら許さない人もいるわけだが、しなければいけないと信じていることを自分や好きな人が守らなかった場合は許すのは、好きな人や自分にはおおらかで、それ以外の人にはおおらかではないのだ。ただの差別だが、関わる気もない人やどうでもいい人などに、あいさつ返しを求めて初めにあいさつしたり、誰かにあいさつを返したことを、きっちりしていると言えばカッコが付くが、
あいさつをする人の心理や、あいさつに対する信仰心は同じではないので、きっちりしている人だからあいさつをしたということにはならない。
ほとんどの人にはあいさつしないのに、ごく一部の人にだけあいさつしているのは自由に勝手にあいさつしているのだ。
誰かからあいさつしろと言われても、あいさつしないことは出来るし、誰にあいさつするかしないかは自分が決めているのだ。

今までも色んなことにおおらかな所はあるし、おおらかではないところもあるし、両方あるのだ。
例えば、人や人間以外の生き物が嫌がることをしていても、
ほとんどのことでは逮捕にはならないが、一部のことでは逮捕になり、ほとんどの人は誰かが嫌がることをしても逮捕にならずに、
泳がされたり、ほったらかしにされていて、おおらかな対処をされているとも言えるが、一部の人は逮捕されたり、裁判起こされたり、
嫌がらせをされたりなどしていて、おおらかな対処などされていない。

万引きしたのが大人でどうでもいい人ならば逮捕させたがっても、子どもや自分や自分の仲間が同じことをしたら警察は呼ばなかったりするようなことをして、えこひいきして差別していたりする人もいるのだ。
誰かが嫌がることをしていても、誰がやったかによっては許して、おおらかな場合があったり、許さなくて、おおらかではない場合もあるのだ。
誰かがやった何かに対して、誰かは悪評価したり、攻撃しに行っても、他の人は悪評価してはいないのだ。
自分に都合の悪いところにはおおらかではなく、どうでもいいことや悪いと思っていないことに対してはおおらかなのだ。

江戸時代は仏教という宗教には禁教令は出されないが、キリスト教には禁教令を出したり、キリスト教以外の宗教でも、宗教の普及活動している人が捕まっているのだ。
江戸時代を平和などという言葉で言い表す人もいるが、おおらかではないところもあり、窮屈なところもあるが、窮屈ではない、おおらかなところもあったのだ。
今の日本の法律では大麻栽培や所持で逮捕になったりするが、江戸時代に大麻取締法などないので逮捕にはならなかっただろうし、オランダではどこかの店で大麻を吸ってもいいらしいが、日本みたいに逮捕にはならない。
江戸時代の権力者は大麻や、それ以外の多くのことにはおおらかでも、キリスト教信者や、それ以外の一部のことにはおおらかではなかった。

真面目で決まりを守っていて、きっちりしていると言われている人や、自分のことをそういう人だと思っている人が、ほとんどの決まりを守らなかったり、守っていても原則どうりに決まりを守らないような人のことを真面目だとか、きっちりしているなどと言われているところがあり、良く言われる場合もあるのだ。
あいさつはしないといけないと信じているあいさつ信者が、ほとんどの人にあいさつしないのに、自分や誰かにあいさつしないことは許さないような、おおらかではないところがあっても、ほとんどの人があいさつしないことに対しては許していて不満など持たないのだから。
同じことをやったのに、あの人のことは許しておおらかでも、この人のことは許さないと思い、おおらかではない。

今までは自由ではなかったかのように言っているが、今までも色んなことに対して自由なところもたくさんある。
私たちは他人のせいで窮屈で自由ではない時代に生きていたなどと被害者を気取っている人もいるのだろう。
親や先生や権力者などに色々な決まり(ルール)を決められて洗脳されて、やらされてきたと勘違いしているところがあるのだ。
自分達が他人の決めた決まりの一部を勝手に正しいと信じて取り入れたり、正しいとも信じていないのに見栄、体裁などで勝手に一部の決まりを守り、
同じことをしない人を逮捕したり、嫌がさせしたり、嫌ったりして、
真面目な人が損をして、図々しい人が得をするなどと言っている人もいたり、自分達と同じことをしない人を妬み、羨ましがっているところがあるのだ。
同じことをやっていない人がいるのを百も承知で勝手に一部の決まりを守っているのに、他人からやらされているという不満を持っていたり、同じことをしない人に不満を持っているのだ。

金でやっていく世の中を勝手に正しいと信じているのに、他人にやらされているとか、自分の金を取られていると被害者意識を持ち、無職やニートと言われている人を勝手に嫌ったり、見下しても、金でやっていく世の中が正しいと信じている人は金でやっていく世の中を辞めようとはしないのだ。
法律にはたくさんの決まりが決めてあるが、そのほとんどを知ろうともせずに、知っている法律でもすべてを守っているわけではないし、守っている法律でも原則道理には守らない場合もあるのに、守っている決まりがあるところだけを持ち出して、きっちりしていると言って高評価したりする。

外国に住んでいる日本人が日本のことを決まりがたくさんある国と言っていて、「ルール オブ ジャパン」というようなことを言っていたが、日本の中に決まりがたくさんあっても、その決まりのほとんどを日本人が守っているわけがない。守っている決まりも原則道理に守っていない場合も多いだろう。
決まりがあることと、その決まりを守っていることは別のことなのに、ごちゃ混ぜにしているバカな人もいるのだ。
日本にある色んな決まりなど知らないことが多いだろうし、日本に法律があるのを知っていても、ほとんどの法律を知ろうとしていない人の方が多いだろうに。
ほとんどの決まりなど守っていないのだから決まりがあるから窮屈だということにはならない。

一部の決まりを守らないことで、逮捕されたり、税金Gメンの差し押さえをされたり、道交法違反で捕まるような強制が入るのは一部のことで、
ほとんどの決まりを守らなくても逮捕などされない。
法律違反以外でも、誰かが勝手に正しいと信じている決まりを守らなかった時に身体暴力をやられたり、嫌がらせをされたりする場合があるが、
ほとんどの場合こんなことはやられないだろう。
誰かが信じている決まりを守らないから不満を言われたり、嫌がらせをされたり、逮捕されたりするようなことがあるのは日本人だけではなくて、
日本人以外でも同じことだ。

遠い昔ならば、日本人も外国人も金でやっていく世の中などなかったし、あいさつも誰もしていなかっただろうから、昔の方がこれらのことにおいては楽で、金のことや、あいさのことでの不快さ、不満などなかったのだ。
日本人は無宗教や無神論者という人もいるが、これはウソで、正しい根拠がなくても日本人は色んなことを信じていて、それを宗教や教義や信仰や信者や教祖という言葉でいい表していないだけだ。

自分が正しいと信じていることをやらない人には間違っていて、おかしいと思うのだろうが、正しいと信じていないのに一部の決まりを守っているのは、バカにされたり、逮捕されたり、見下されたり、嫌われるのが嫌だから形だけ一部の決まりだけ守っていて、同じ決まりを守らない人に不満を持つのは妬みや羨ましさの場合が多いだろう。
自分もやりたくないのに形だけ嫌々やっていることをやっていない人を羨ましがったりして不満を持つのだ。
自分が正しいと信じていることをやらない人に間違っていると思っているから逮捕したり、嫌がらせしたり、不満を言う場合と、大切ではない人、仲間ではない人や見下して格下に見ている人が自分の言うことを聞かないから、逮捕したり、嫌がらせしたり、不満を言う場合があるだろう。
自分の言いなりにならない人を許さないのは、人間は自分が一番可愛いからだ。自分の思い道りにならなくて嫌な気持ちになったのを他人のせいにしやすいのだ。
あいさつでも、もしあいさつをしてほしいのに、あいさつをしなかった人が自分より大切だと思っていたら、不満など持つはずがない。大抵、あいさつしてほしい相手は大切ではない、仲間だと思っていない人にする場合が多いだろうから、そんな大切ではない人があいさつをしてほしいのに自分の言いなりにならずにあいさつしなことは許さない冷酷さがあるのだ。

家庭や職場や近所や国や、それ以外の自分が属している集団で誰かが決めた決まりの全てなど守っているわけがない。
守っている場合も正しいと信じていないのに、逮捕されたくないから、嫌われたくないから、不満言われたくないから形だけ守っている人のことを、
人によってはきっちりしていて真面目などという言葉で言い表すのだろう。
正しいと信じていないのに、誰かにやれと言われたことに対して、従って言うこと聞いたことを高評価する場合には要領がいいなどと言われたりして、
逆に言うことを聞かないことで、不満を言われたり攻撃された人のことを悪く言う場合は要領が悪いとか不器用な人などと言ったりするが、
自分が正しいと信じていない決まりを守っている人を悪く言う言い方に「クソ真面目もどうなん」とか言ったりする人もいる。

 



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