くるみの世界

金でやっていく世の中や、あいさつが正しいとされていることは間違っているということを主張したいです。

脱金社会 金でやっていく世の中は不正だ15

2023年05月07日 | 脱金社会

 

47.おかしい車社会と金でやっていく世の中

 

私は車の免許を一度も取ったことはないが、以前3回教習所に行っていたことがある。
一回目は私が20代後半の時で、岡山県の倉敷自動車教習所に行っていて、この教習所に29万円ぐらいの金を払ったと思う。
行かなくなった理由は、第2段階の路上教習3回目ぐらいまで行っていて、学科の性格テストの授業の時の先生が気に入らなくて、その後行かなくなった。
その学科の授業の時、私以外に中年の男の人と女の人が2人いて生徒は私を含めて3人だった。
先生は30代ぐらいの男の先生で、その先生は性格テストは当たっていると主張していた。
私がこの教習所でやった性格テストの結果の注意力レベルというのがあったと思うが、その結果が一番低かった。
その先生が性格テストで注意力レベルが低い結果だった生徒と路上教習に行った時に道路に猫が死んでいたことに先生は気づいていたけど言わなかったら、

生徒は猫を轢いたと言っていて、性格テストが当たっていると言っていた。
私はそれを聞いた後に、先生に異論をはさんで、第一段階の時に教習所内を別の先生と車に乗って走っている時に、

何かの看板だか、標識について気づいているかと聞かれたから、気づいていたので、気づいていると言ったら、

ほとんどの人はそれに気づいていないというようなことを言っていたことを持ち出して、

性格テストが当たっていると言っていること否定をして異論をはさんだ。
先生も自分が感じていることを否定されたから気に入らなかったのだろうが、

先生が私の原簿を見て「モリタニさん時間かかってますよ。注意力がないから時間がかかってるんです。」というようなことを言ってた。
私はそれが気に入らなく不快になったので、無言で教室を出て行って、その後その教習所には行かなかった。

私が他の人の平均よりは時間がかかっていそうなのは、第一段階の時に他の先生が言っていたことで何となく分かっていた。
第一段階の教習所内の教習の時に、年輩の男の先生が言っていたことで、一字一句覚えていないが、

他の先生は次に行く許可を与えないだろうから自分が次に行けるようにしとくというような感じのことを言っていたと思う。
別の時に受付に私がいた時に、今まで一度も私は担当したことがない男の先生が2人いて、そのうちの一人が私を見て「ああ、あの人か」と言った。
はっきり言わないことを大人な態度などと褒める人もいるが、私がいる所で言う必要もないことをいちいち言って幼稚で子供っぽいことを言っている。
私のいない影で、先生の間で私のことを平均より運転が下手な人がいるというようなことを言って話題にでも出していたのだろう。
性格テストの時の先生も私が時間がかかっているのは注意力がないからだと断定して、いい加減なことを言っている。
毎瞬毎秒、注意力が低いというのなら、なんで他の人があまり気づいていないものに私が気づいていたのかの理由にはならない。

この教習所のことをネットで調べたら、お客様満足度が90%を誇っていると書かれていた。
人や店や会社の評価は自分が嫌な思いをしていなければ悪評価はしないわけだし、嫌な思いをしても、わざわざネットや他人などに
悪評価していることをいちいち言わない人もいるし、悪評価と高評価の両方があった時に高評価しているところだけ言う人もいるだろう。

この教習所の年配の男の先生と路上教習に行って教習所に戻ってきた時に時間があったので、クランクに行けと指示されて、指示に従って
クランクに行った。クランクを走行している時に私はバックしたわけでもなく、縁石にぶつかったわけでもなく、ポールに当たったわけでもなく、
一応クランクを通った。クランクを通った後に、先生がいかにも上から目線でバカにしたようなことを言ってきて
「これで路上教習に行けたのか」というようなことを言っていた。
他の教習所の先生に対する評価にも人によって態度を変えると書いている人がいたりするが、

教習所の先生だけではなくて誰でも人によって態度を変えるのが人間と呼ばれる生物だが、

人間は先生が自分に悪態ついたりせずに、いかにもバカにしたようなことを言わなければ、
例外あれど、先生に悪評価はしないのだから、教習所や先生に対する評価は悪くは言わない人も多いのだろう。

2回目に私が行った教習所は、2022年の4月に39才の時に行った笠岡自動車学校だった。
普段、私は金はあまり持っていないが、あることで2022年の2月に金が入ってきたので、

その金で移動手段のためにオートマ小型二輪の免許を取り、原付2種のスクーターを買おうと思った。
私が住んでいる母親の実家の近所に、私が初めにあいさつしないことに不満を持ち、遠回しな態度で悪態ついてきたり、あいさつもしねーよなどと言ってくる老人がいたり、人の目を見ずに、いかにも形だけあいさつしてくる人がいて、その人に言葉であいさつ返しをしなかったら、立ち止まって無表情でじっーと見てきて奇異な目、白眼視をするような態度取られたり、他の老人が屁占めにあいさつしてきて、私の方を見ているその老人に会釈だけをしたら、すれ違った後に視線を感じて後ろを振り向いたら、歩きながら後ろを振り帰って私の方をじーっと見ていたりなどされていたりなどして、
外に出るのも苦痛だったりするところがあり、原付に乗っていたら、私が原付に乗っていても走行していない時に私の近くにこの人たちがいる時ではない限り、初めにあいさつしなかったと不満を持って悪態ついてきたり、あいさつ返しを求めて初めにあいさつしてくることもないだろうと思い、
原付の免許を取り、スクーターを買って原付に乗りたいと思っていたが、それに払う金もないのでスク―ターのことは、その後は意識しなくなっていたが、2022年の2月に入ってきた金でスク―ターなどに払える金が入ってきて、原付は30キロ制限があるので、それがないオートマ小型二輪の免許を取って、原付2種のスクーターを買おうと思ったのだ。私は実用的に使うのではオートマ小型二輪が欲しかったが、車の免許が取れたとしても、すぐに車に乗る目的もなく、車を買う金もないが、車の免許をオートマ小型二輪の免許を取るよりも先に取っておこうと思い、ネットで教習所について調べていた。

ある教習所で、初めて免許を取る人用のキャンペーン料金が他の教習所の料金より安い教習所があって21万円代ぐらいの料金だった。
この教習所にネットで2022年の3月に申し込んだら、その教習所から私のところにメールで、3月はもう締め切っていて、4月にも3月と同等の料金になるだろうから、4月にしてもらうか、キャンセルにするか連絡をくれというメールが届いた。私はキャンセルにしてもらった。
その教習所のサイト内に他の教習所への複数のリンクがあって、その一つが笠岡自動車学校だった。
笠岡自動車学校のサイトを見ていたら3月の最後の週の時に概に4月の初めて免許を取る人用のキャンペーン料金が書かれてあって、
初めて免許を取る人のオートマ車の料金は23万円代だった。
私は教習所に早く行きたかったので笠岡自動車教習所の方にネットで申し込みをした。
後日、私のスマホに笠岡自動車学校から女の声で留守電が入っていて、またかけると言っていた。
また後日に笠岡自動車学校から2回目の留守番電話が入っていて、留守電を聞くと何も音が入っていない20秒くらいの留守電だった。
2回目の留守電があった同じ日の午後に笠岡自動車教習所から3回目の留守電が入っていて、一回目と同じことを喋っていた。
一回目の喋っている留守電が10秒ぐらいで、2回目の留守電は一回目の2倍ぐらいの長さの無言の留守電が入っていたわけだが、
一回目のの留守電で喋っていた人とは違う人が2回目の留守電をかけていて、留守電で何を喋ったらいいのか分からないから無言だった
としても20秒間も何も喋っていないのはおかしい感じがしたので、2回目の電話は一回目の人と同じ人か、それ以外の人が私のことを良く思っていないから、20秒間ぐらい無言の留守電を入れていたのではないかと思って、なんか嫌なものを感じたので、ここの教習所に行くの嫌だなと思ったり、
行こうか、行くの辞めようかどうしようかと思っていたが、私はここに行くことに決めて、3回目の留守電の後に、自分の方から
教習所の方に電話をかけて、翌日に住民票と健康保険証を持って笠岡自動車学校に行った。

この教習所の受付に行った時に受付の年配の女の人が私を応対したのだが、
この人がオートマ車の料金が書かれてある紙を私の方に見せて、黄色いマーカーで線を引きながら説明をしていた時に「おうどうなので」と意味深な感じのことを言った。おうどうとは王道と言っていると思うが、料金の説明の時に、おうどうと言っているのもおかしいが、私について思っていることを直接的には言わずに遠まわしに言っているのだろう。
その後、学科の授業の時に男の先生が、以前の生徒に車の免許を取りに教習所に3回来ている生徒がいたことを話していた時に、
この生徒のことをキングと言っていた。
この教習所では例外の少数派の人のことを王道とかキングと呼んでいるのか、たまたまこの先生と受付の人が王(キング)という言葉で言っていただけなのか分からないが、受付の人がわざわざ私を目の前にして、おうどうと言っていたり、留守電の2回目で無言の電話が20秒ぐらいかかってきていることも、初めのうちから良い感じではなかったのはその後の予兆だったような感じもする。

一回目の実技の時に永柄惣一先生という年配の男の先生が私を担当することになった。
私が外で先生を待っていると、永柄先生が対向から歩いてきて、開口一番「免許取るの初めて?」と聞いてきたので、私ははいと答えた後に、
私が持っていた原簿を先生に渡した後に先生が「住所と生年月日言って」と言ったので、私は住所を言い、生年月日を西暦で言ったら、
和暦で言うように言われた。原簿に書かれてある生年月日は和暦の昭和で書かれていた。
他の生徒にこんなことは聞いていそうもないし、私の見た目が若くは見えないから、免許停止で再度免許を取りに来ていると思ったとしても、
生年月日を何で聞いたのかは、私が入所前に受付で住民票や保険証などの身分証明書を渡していることは分かっているだろうが、
その身分証明書を偽って、なりすましている可能性があると思ったのだろう。
教習所の外周を私が運転している時に永柄先生が、今まで教習所に行っていたことがあるかと聞いてきたので、あると答えた。
私の前にいた車がまっすぐな道で道路から車体が横にそれて走っていたのだが、初めての人はあんな感じの走りなる場合があるのに
私にはそういうのがなかったから、以前教習所に行っていたことがあると思ったみたいだ。
2回目の実技の時の富田健三先生が運転席に座った時に片言で「途中まで」と私に言ってきた。多分、私が以前に教習所に途中まで行っていたことを
永柄先生から聞いて言ったのだろう。
教習所内を走っている時も、富田先生はどこの教習所に行っていたのかを聞いてきたけど、その時は名前ははっきり覚えていないので、覚えていないと言った。それ以外でも、なんで行かなくなったのかなども聞いてきた。

実技が7回目ぐらいまで終わっていた時に、学科の授業を受けるために2階の教室の左の一番前の席に私が座っていた時に、
右斜め後ろに気配を感じたので右後ろを振り返ると赤星先生と、次に学科の授業をする伊丹先生が後ろの開いている引き戸のドアの所に
立ち止まって何かを話しているように見えた。
別の時に、私が模擬試験を受けた時に生徒は3人いて、先生は伊丹先生だった。一人の生徒は模擬試験が終わったので教室を先に出ていった。
次に私が終わって、先生がお疲れ様と言ったので、私もお疲れさまと言って教室の前の出入り口から出て行って、ものの数歩歩いたところで
私が出て行った教室の方から男の声でへっへっへっというような笑い声が聞こえてきたのだが、その声の前後に喋り声など何も聞こえなかった。
教室には先生と、もう一人男の生徒がいたが、推測だが私は女だが声が男みたいな声をしているので、その声に違和感を感じておかしいと思ったから
先生が笑ったか、若くもないのに学科の授業を受けていることをおかしいとでも思ったりして先生が笑っているような気もした。
赤星先生と伊丹先生が後ろのドアのところで何かを話ているのも、何か私のことを言っているのではないかと思った。

実技の6回目から9回目を担当したのは赤星幸考先生だった。8回目の実技は無線だと決まっているみたいだ。
実技の7回目の時の最後の方で、私が乗っている車が停車している時に助手席に座っている赤星先生が、次は無線がいいか、それ以外がいいかを
私にいちいち聞いてきた。本来8回目は無線であって、運転が下手だから一人で乗る無線はやらせたくないと思っているのか、
私を色んな意味でバカにしているから無線をやらせたくないと思っているのか、いちいち私に無線にしたいのか、無線以外にしたいのかを聞いてきているのもおかしいし、運転が他の人より下手だと思ったから一人で乗る無線をやらせたくないと思っているのならば、「本来8回目は無線だけど、あなたは
運転が下手だから無線はやらないから」と言うことも出来ただろうに、わざわざ、どちらがいいかと私に聞いてきたが、
私が無線がいいと言おうと、それ以外がいいと言おうと、無線なしと言いそうな感じもしたし、バカにしている感じもしたので、
適当に「どっちでもいいと」答えといてやったら、無線なしと言ってきた。
無線なしと決めるならば、初めから無線なしと言っておけばいいことだが、適当なんだろうし、私をバカにしているのだろう。

実技8回目ぐらいの時に私の原簿に赤星先生が「一つ一つの操作を丁寧に」と書いていた。私に言いたいことなのだろうが、そこに書いたことを読んでおいてと口で言うわけでもなく、口で言った方が早いだろうに、わざわざ文字で書いて、その文章を読んでおいてとも言わない。
一つ一つの操作を丁寧にと言っているのも何が言いたいのか全く分からない。具体的な説明がなく、丁寧な説明をしていないのだ。
実技9回目ぐらいの時に、赤星先生が教習所内で私が左折する時に「見てない」と片言で言っていたが、何が言いたいのかよく分からない。
近くに車や人が来ていたわけでもなく、どこを見ていないと言いたいのだろうか?
この同じ場所で、左折する時にわたしがいつもハンドルを左に切るより前に、赤星先生からハンドル切ってと言われたので、左にハンドルを切ったら、左前輪が脱輪した。脱輪後に赤星先生が「ハンドル切りすぎ」と言った。
他人の姿は自分の姿、目くそ鼻くそで、一つ一つの操作を丁寧にと言っているこの先生も、一つ一つの言葉の言い方が丁寧ではなく片言で言っている。

多くの人が左折時に何となく適当にハンドル切っていて、大回りにもならないし、脱輪もしない人が多ければ、いちいち言葉でどこでハンドルを少しだけ切れと言わなくてもうまく左折できている人が多ければ、出来ていない人が異常でおかしいと思う人も多いだろう。
もし多くの人が出来ていなければ、それが普通と言うだろう。
人の言うことを聞かないことにも不満を持たれるが、人の言うことを聞いても不満を持たれる場合もあるのだ。
私が赤星先生にハンドル切ってと言われて、すぐに言うことを聞いてハンドルを切っても、左前輪が脱輪したことについて、先生に問題があるのではなくて、私をバカにして私の方を問題視する人もいるだろう。いちいちハンドルを少し切ってと言わなくても、どれぐらいハンドルを切ればいいのか分かれよと思う人もいるだろう。
大勢がうまく出来ないことを出来なかったら、おかしいとは思われにくいが、大勢が出来ていることを出来ていないとおかしい、異常、障害という言葉で言い表されたりする。
同じ人間じゃないのだから、同じことに同じことなど思わないのだ。

この同じ日に、教習所内で見通しの悪いところから外周に私が出て行く時に、私は右左を見たら何も来ていないように見えた。ゆっくりと外周に出ようとして、左側を見たら車が来ていることに気づいた。赤星先生がブレーキを掛けた後に「見た振りしない」と言ってきた。
見た振りなどしていないけど。誰でも見た方向の全てが目に入っているわけではないだろう。
この先生がブレーキを踏んでなかったら、私がその後にブレーキ踏んでいた。

この日こんな感じのことがあって、実技を2時限やった後、配車受付で今度の実技の予約をしに行った時に、一日に2回の予約を入れてもらおうとしたら、12回目が検定の日で検定は3日前に申し込みをしないといけないというような感じのことを言われて、先生に聞いてないのかというようなことを言われた。私はみきわめや検定のことなど何も聞いていない。
この時、配車受付の所にいる時に不気味な怪しい言葉が聞こえてきた。
私を担当したことがない男の先生が電話を持っていて「モリヤミキコさん」と言った。その言葉を喋る前に、この先生の喋り声は聞こえなかった。
私の名前は守谷美喜子(もりたにみきこ)だが、苗字をモリヤと間違えられるときもある。だからモリヤミキコと言った時に私のことを言っているのかなとも思った。
少しして、また「モリヤミキコさん」と同じ先生が言ったのだ。私は送迎バスを利用していて、その日も帰りの送迎バスの予約を入れていたのだが、
送迎バスに乗る時間がきているのに私がまだ来ていないから、送迎バスの運転手が私がいるかどうかの確認をしているのかとも思ったが、
電話に出た先生は確認を取るようなことをしていなかったので送迎バスの人からの電話ではないと思った。
ミキコという名前の人はあまりいないだろうし、モリヤミキコと2回言った前後に他に喋っていないのもおかしい感じだし、
この先生に人間以外の何かが乗り移ってそういうことを言わせているのか、何か変なものを感じた。実技の予約は翌日に一回だけ入れてもらった。
私はすぐに車に乗る目的もなかったし、モリヤミキコと言っている怪しい感じのことや、それ以外のことで、その教習所に行くのは辞めようと思い、家に帰った後に教習所に電話をかけて実技の予約のキャンセルをしてもらった。

その後、2022年の4月の半ばに、オートマ小型2輪の免許を取りに行くために12万円ぐらい払ってマスカット自動車学校に入所した。
本当は他の所に行こうと思っていたが、他の教習所は2輪の受付を締め切っていたり、大型バイクしか受け付けていなかったりしていたのでここにした。
私は免許を持っていないので、学科の授業を受けるわけだが、学科の3回目ぐらいの時に、私が教室にいた時に上浦聖司先生という若い男の先生が授業の始まる前に教室に入ってきた。
私は教室の出入り口の一番近くの一番前の席に座っていて、同じ部屋には他にも生徒はいた。
上浦先生が教室の前側の壁の横にあったキャスター付きの白い黒板を少し移動させて、黒板の後ろ側に行き、小さい声で短く何かを喋った後に、すぐに黒板の後ろから出てきた。
他の部屋の壁に固定電話があった部屋があったので、その部屋にも壁に固定電話があって、固定電話か、上浦先生が持っているスマホで教習所の職員の誰かと話していると思ったが、どちらにせよ喋っている時間がすごい短かい。推測だが、私について喋っている可能性があると思った。
私のいない影で職員全員か一部の職員に私のことを不審に思っていることを言っていたりしていた可能性があって、
この先生は私の原簿などで私の顔を知っていて、「あの人いたよ。」みたいなことを電話で他の職員に言ったのではないかと思った。
岡山県の田舎に住んでいて、39才で原付の免許も持っていなくて、オートマ小型2輪の免許を取りに来ていたり、現住所は岡山県でも、
教習所に出している住民票に書かれている前の住所は大阪なので、これらのことで変な目で見て怪しんでいそうだ。
実際、その後のシミュレーションの時に山崎先生が、シミュレーションが終わった後に色々私に聞いてきた中に、「最近、引っ越してきたん?」と聞いてきたので、住民票に書かれていた以前の住所の大阪のことを誰かから聞いたか、私の住民票を見たのは間違いないだろう。

私は一回目の実技の時に一本橋を何回かやって、一回除いて全部落ちた。クランク走行の時に一回ふらついてると言われた。教習が終わった後に補習と言われた。
補習料金は5500円かかる。本当は一回目の実技の後はシミュレーションだったのだが、受付に補習になったと言いに行ったら、
シミュレーションではなく補習になった。
その時の補習を担当したのが、小早敷大地先生という男の先生だった。
私はスクーターに乗って先生の後ろについて行き、私が発着点に止まっていた時に、数メートル前の方にいた小早敷先生が私の方に来て
何かの説明をした時に「大丈夫ですか?」と言われた。多分、私の返事がないから言ったことを分かったかの確認のために大丈夫ですかと言ったのだろう。
補習の時に一本橋を何回か渡ったが一度も落ちなかったと思う。小早敷先生はクランクと一本橋のコツは力を抜くことだと言っていたと思うが、
自分では一回目の実技の時も補習の時も同じような感じで一本橋を渡っているつもりだが、一回目の実技の時は何回も落ちたが、補習の時に落ちなかったり、その後も落ちたり、落ちなかったりした理由もよく分からない。

第一段階のみきわめの時は貝原光照先生が私を担当した。一本橋を渡った時には落ちたり落ちなかったりした。一本橋を落ちずに渡った後に、
私が無意識にスロットルを少し回したままにしていた時に「スロットルを戻す」と言われた後、「暴走しないでくださいよ」と言われた。
クランクを通る時にパイロンを倒したりしたので、みきわめは良好ではなく補習になるかと思ったが補習にはならなかった。

第二段階のシミュレーションの時に小早敷先生が私を担当した。シミュレーションをやる前に、この先生がいくつか喋ってきて、
「免許なしはシミュレーションが多いのか」というようなことを言ったと思う。
その後「免許持ってないんですよね?」と先生が聞いてきた。免許なしはというようなことを言っているので、私が免許を持っていないことを分かっていそうなのに、いちいち聞いてきているのは私をバカにしているのかなと思って何も言わなかったら、その後「バイク乗るんですね」と先生が言ってきた。
免許持ってないんですよねと聞いてきた後に返事がないことに対して再度聞き返すわけでもなく、バイク乗るんですねと言っているのもバカにして言っている感じがして何も答えなかった。
その後シミュレーションの時と、それ以外の時に小早敷先生が聞いてきたことには私は答えた。
シミュレーションが終わって部屋を出て行った後、受付から数メートル離れた所に私がいた時に、受付の方から男の大きい声で「ハハハハハ、おかしい」という声が聞こえてきた。
この声の前後に喋り声は聞こえていない。推測だが、この声は小早敷先生が私が返事をしなかったことについて言った可能性があるとも思った。
後日に気づいたことだが、私の原簿に、このシミュレーションの時の小林敷先生がハンコを押している上の所に鉛筆で免無と書いてあった。
免無と書いているということは、私に免許持っているのかと聞いて私が答えなくても、私が免許を持っていないことを分かっていたんだろうけど。
この免無と書いたのは私をバカにして書いたのだろう。

5月11日に次の実技の予約をしている時に私は受付のところの椅子に座っていた。
私から数メートル離れた所に3人の男の先生が立っていた。その先生たちは何かを喋っている時もあった。
その3人の中の一人の甲野先生が私の近くに来た時に「無視はいけんな」と言ったように聞こえた。その声の前後に他に声は聞こえない。
小早敷先生が他の職員に私が返事をせずに無視をしたと言っていそうな感じもするし、それ以外でも、入所前の日に、この教習所に金を持って行った時に受付の所にいた女の人がこんにちはと言ってきた時に、私は頭は下げたと思うが、言葉では何も言わなかったら、その女の人が私の近くに来た時に再度こんにちはと言っていたり、入所した後に毎回、受付で原簿を貰う時に教習生番号を言う時に、受付の所にいる先生などがあいさつしてくる場合があるが、私は言葉であいさつ返しはしてなくて、頭だけ下げる時もあれば、頭を下げない時もあったりなどしたのだが、あいさつ返しをしていないことについても他の先生から話を聞いていて、無視をしていると不満を持って「無視はいけんな」と言っている可能性もあると思った。
その後、甲野先生が歩きながら「あじのもと」と言った声が聞こえた。この声の前後にも他に声は聞こえなかった。
私は頭のおでこの右上の所や、つむじの方が剥げている。おでこの右上の所には、ほとんど長い髪は生えていなくて頭皮が見えている。
その頭皮の部分に100均で買った眉墨を塗り込んでいて、おでこの右上の部分は不自然な感じでおかしいと思う人も多いだろう。
外に出た時に、たまに私の頭の右上をじーっと見ている人もいる。甲野先生があじのもとと言ったのは、味の素がビンに入っていて、ふりかけみたいに
振って味の素を出すのが、頭のハゲを隠すための粉みたいなのを頭の上から振りかけている商品のことなどを言い表そうとしていて、
私が人を無視しているということで私を嫌って不満を持っているから、
私の頭が不自然な感じでハゲを隠しているということを遠まわしにバカにするために「あじのもと」と言ったのではないかと思っている。
甲野先生がこれらの言葉を言う前に、3人の先生が同じ付近に立っていた時に、3人の内の一人の上田先生の目を私が見ていたら
目が合い、先生が目線外した後、また目が合った後ぐらいに、上田先生の片手が頭の上の方を触るような動きをしたのだが、もしかしたら私がこの先生の同僚を無視しておかしいことをしていると思って嫌っているから、私の頭の不自然なのをバカにするために頭の上の方を触るような動きをしたのかもと思った。

第二段階目の実技で急制動を初めてやる日があった。この教習所の急制動の始まりは右カーブの数メートル前から始まる。
私は急制動を数回やった中で、2回目の時に右カーブで右側に転倒した。すぐに起き上がれたし、救急車で運ばれたわけではない。
右ズボンのポケットにスマホを入れていて、倒れた時に固いスマホが右太ももの上側に強打したからなのか、地面と太ももが強打したからなのか、
よく分からないが、転倒した日には右太ももの上の方が腫れ上がってい
て、翌日以降は右太もも横が赤紫色になっていて内出血していた。
転倒した時に近くにいた先生は「カーブでブレーキ掛けるから転ぶ」というようなことを言っていた。

第二段階目の最後のシミュレーションの時に年輩の細身の男の先生が私の担当だった。
その時に生徒は私を含めて2人いて、ペルー出身の30代の男の生徒も一緒だった。
このシミュレーションの次の時間は学科11で、担当の先生はシミュレーションの時と同じ年輩の先生だった。
学科11が始まる前の時、教室に入る前に、その場所から数メートル離れた所に受付があり、受付の所に学科11が終わった後に私の実技を担当する家元先生という男の先生と、小川先生とその日に私のシミュレーションを担当した男の先生がいて、受付の方から「嫌だよ」だか「嫌だろ」と言っているような声が聞こえた気がした。
その声の後に小川先生が私のいる右側に一瞬顔を向けたので、私について喋っているような気がした。
家元先生が同僚が私から返事をされなかったと聞いていて、それで私を嫌っていて、あいつを嫌だと言っているか、急制動の時に私が転倒しているので、転倒したことを他の職員に聞いていて、こういう生徒を担当するのが嫌だと嫌がっている可能性があるとも思ったし、
シミュレーションを担当した年配の先生が私の態度について不満でも言っていて、それについて嫌だろとか言っているのかとも思った。

5月18日に卒業検定があった。一本橋の初めの方で左に落ちて検定は終わった。
次の検定を受けるには補習をしなければいけなくて、補習料金は5500円で検定料金も5500円かかる。
私は翌日に補習を受けた。担当した先生は、多分、小西という名前の先生だと思う。
検定の時に失敗した一本橋を何度もやり、2、3回落ちたが、ほとんど落ちなかった。
それ以外は検定コースを何度か走行した。私が前を走り、先生が私の後ろについてきている時、私がS字を左に曲がり少ししてから、
S字の初めの方を走行している先生がクラクションを一回鳴らした後に、先生がすいませんと言った。
間違ってクラクションを鳴らしてしまったから、すいませんと言ったように見せかけて演技をしているだけで、私の何かを嫌っていたり、バカにしているから、わざとクラクション鳴らした可能性があると思っている。
検定コースを走行していたわけだが、S字に入る前は左ウィンカーを出してS字に入り、S字を出て行く時も左に曲がるので私は左ウィンカーは付けたまま走行していたが、小西先生はS字に入った後に、左ウィンカーを一旦切ったのだろうか?
S字を出て行った後も左に曲がるので、先生はウィンカーを切ってはいなさそうで、S字でウィンカー操作はしてなさそうなので、間違ってクラクションを鳴らした可能性は低いと思う。

補習の2日後の5月21日に2回目の卒業検定があった。
この日、検定前から不穏なものがいくつかあった。私の検定の結果は一回目と同じで一本橋で落ちて終わった。
私は教習所に着いた時に受付には行かずに、検定説明がされる部屋にすぐに行った。
検定を受ける人は12人で、黒板には生徒の番号が書かれてあった。
私はこの黒板に書かれてある生徒の番号のことで何か不自然なものを感じた。
私の席は真ん中の前から3番目の席で、机は全て長机だったのだが、私と私の後ろにいる人以外は全員一つの長机に2人が座るようにされているのに、
私と私の後ろの人の隣には誰も座るようにされていなかった。検定を受ける人が12人の偶数でキリがいい数字なのに、何で私の隣に私の後ろに座るようにした人を配置しなかったのかに違和感を感じた。生徒の番号を書いた人が気分次第で書いたのかなとも思ったが、
違う気がして、わざと私の隣に誰も置かなかったのではないかと思った。
その後、検定説明をしに教室に入ってきたのは小林敷先生だった。検定の説明をする前に小林敷先生が私の右斜め前の近距離まで歩いてきて、
「モリタニさん、免許持ってないんですよね。免無し」というようなことを言った。免無しの所は免許なしと言ったかもしれないが一字一句はっきり覚えていない。
先生の表情は無表情だった。私が免許を持っていないと小林敷先生は思っているだろうに、何で聞いてきたんだろうと思い、
何も言わずに黙っていたら、その後、小林敷先生は何も喋らなかった。検定を受ける人に受付の人が、免許を持っているか確認しているのを聞いたことがあるから、免許を持っているかの確認をしなければいけないのに、私がその日、教習所に行った時に受付には行かなかったので、
受付の人が小林敷先生に私に免許を持っているかの確認をしてきてくれと頼まれたから聞いてきたのかとも思ったが、もし確認のためなら、聞いてきた後に無言だったら、再度、「検定受けるのに免許持っているかどうか
聞かないといけないから」などと言って聞き返していそうだが、そういうことは言わなかったわけだ。
この日の2週間ぐらい前のシミュレーションの時に私が返事をしなかった時に聞いてきたことと同じようなことを言っているので、私に対してはっきり言わない形で不満を表してきているのではないかと思った。

私の一回目の検定時には2輪の検定を受けたのは2人で、2人が使うバイクが同じ付近に2台だけ止められていた。
2回目の時の検定説明が終わり、一階に下りた時に、一回目の検定の時に2輪検定を受ける人が使うバイクが止められていたところに2台だけバイクが止められていた。
その2台のバイクは2輪の検定を受ける人が乗るバイクだと思ったのだが、その日の2輪検定を受ける人は3人なのに、私が使うスク―ターはないなと思い違和感を感じた。
その後、私はプロテクターがある部屋の所にいる時に、検定の採点をする先生の貝原先生がスクーターを、バイクがたくさんあるところから、
2台だけバイクが止められている方に歩いて移動させていた。そのスクーターは私が検定の時に使うスクーターだと思った。
検定を受ける人が使うバイクを準備する人は貝原先生だけが担当していて、私以外の人が使うバイクを準備した後、他に用事があったりなどして別のことをしていたから私が乗るスクーターの準備が後回しになっていたのかとも思ったけど、後から、貝原先生の私に対する態度に私をバカにするようなものを感じたので、わざと後からスクーターを持って行ったのではないかと思った。

プロテクターを付け終わり、2輪の検定者3人がいる所で貝原先生が少し喋り、私以外の2人の検定者の名前を連続で言った後に、間をおいて私の名前をモリタニさんと言って無表情で私の目を見たのだが、私の名前が分からなかったから、間を置いて言ったのかとも思ったけど、この後の検定時の貝原先生のやったことを考えると、名前が分からなくて間を置いて私の名前を言ったのではなくて、何かのことで私を嫌っているかバカにしていて、間を置いて私の名前を言ったような感じがする。

私は検定の順番は一番最後で、私以外の2輪の検定者は検定が途中で中止になることなく最後まで走っていた。
私の検定が始まって、坂道を通ったり、直線を30キロ出して走り、、
見通しが悪い道を曲がり、S字に入った。2輪の検定者には検定の採点をする先生が道順を教えたりなどするために無線機が付けられていて、
採点する先生の声が無線機から聞こえてくる。
私がS字に入った初めの所で無線機から「へっへっへっへ」という笑い声が聞こえてきた。
不気味な感じがしたが、その後、道路を少し走行して一本橋の方に行き、一本橋の後半で左に落ちて検定は終了した。
推測だが、S字で貝原先生が笑っていた理由は、私を補習時に担当した小西先生から、S字でわざと私にクラクション鳴らしてやったという話を
聞いていてバカにして笑っていそうな気もした。
こんな感じで、いくつかのことで検定前と検定中に違和感を感じたり、不穏なことがいくつかあった。

この教習所のことをネットで調べていたら、低評価している人もいれば、高評価している人もいるが、個人や店や会社や商品などに対する評価など180度真逆のことを言っているのなんてよくあることだから何も驚かない。
同じ外見や、同じ言動を嫌がる人もいれば嫌がらない人もいるのだ。
低評価している人は、自分が嫌がる言動を取られたか、自分が正しいと信じている言動などをしなかったから不満を持つ場合が多いだろう。
教習所の先生を高評価している人は、やさしく親切に教えてくれると言い良く言っているが、そんな高評価されている同じ先生を他の人は
礼儀がなっていないとか、やさしくない、親切ではないと逆のことを思っている場合もあるのだ。誰でも人によって態度を変えているし、
同じ言動を好む人もいれば、嫌がる人もいる。人の評価は当てになるところもあれば、当てにならないところもあるのだ。
人間は自分に都合のいい言動を取る人のことはいい人と言いやすく、自分が嫌がることをする人については低評価しやすい。

例外除いて、大勢と同じことをすることが正しいと信じている人が多いだろうから、車の免許を大勢が持っているので、大勢と同じように
車の免許を持っていないと色んな意味で変な目で見られたりバカにされる場合もあるし、今の若い人や私と同じ年ぐらいの人は20歳前後の大学生ぐらいの時か、20代の時に免許を取った人が多いだろうから、
30代以上で教習所の学科の授業を受けたり、普通乗用車の実技を受けていると変な目で見られ白眼視される場合もあるのだ。

車に乗る利点が目的地に早く着けるとか、雨の日に体が濡れないとか、重たい荷物も運べるとか、暑い日にクーラーを使えるなどがあったり、
スピード違反などの道交法違反をしているところがあるのは当たり前でも警察に捕まったことがない人の方が多いだろうから、大勢が守らない
決まりは守らなくても悪くないし、やってもいいと思っているだろうから法律の道交法の一部を守らなくても悪いとは思っていないのだ。
大勢の多数派にとって利益で都合のいいところを持ち出して、車でやっていく世の中をやってもいいということにしているのだろう。

教習所の先生自体が学科や実技で教えていることを守っていないところがあるのだ。大体、先生や上の人間などそんなものだろうが、
坊主の不信心や医者の不養生なのだ。
学科の授業で追い越しをする時も制限速度を超えてはいけないと言っていた先生がいたが、追い越しをしない時も、追い越しする時も、
自分の許容範囲内のスピード違反ならやっていもいいと思っている人の方が多いだろうし、先生もスピード違反しているだろうに、
綺麗事を言っているのだ。
免許を取って初めのうちは制限速度を守っている人がいても、制限速度を守っていない車や二輪ばかりだから、制限速度を超えて速るだろうけど。
警察も制限速度を超えているから捕まえているわけではなく、ある適度のスピード違反なら許しているだろうから、えこひいき差別しているし、いい加減、適当なのだ。

自分の都合で道交法を守ってほしい時は、法律で決まっているから守らなければならないと思っている人も、他の法律や法律以外の決まりなどをほとんど守っていないのだから目くそ鼻くそ、五十歩百歩だ。
制限速度で走っていても遅い車はどけと言っている人がいるし、制限速度を超えていてもスピード違反で捕まえて罰金を取られたり、免許停止にしていておかしい。
原付は30キロ制限を守れと法律で決めていても、後ろを走っている車が原付に遅いと不満を持ち、原付がスピード違反をしていたら、
一部の人はスピード違反するなと不満を持つ人がいるが、そんな不満を持っている人も自分は車で10キロ、20キロのスピード違反をしていて同じようなものだ。

道交法は頭がおかしい決まりでイカレているとも言えるのだ。40キロ以上の制限速度の道路で原付が30キロぐらいで走らなければいけないようにしているのに、車は40キロ以上で走ってもいいようにしている道交法が異常であり、頭がおかしい法律でもあるのだ。
まだ、同一方向に2車線以上あったり、片側一車線で隣の車線が交通量が少なかったら追い越しはできるが、隣の車線が交通量が多かったら追い越しをしたくても出来ないわけで、同じ車線を違う速さで走る乗り物が走ってもいいようにしている法律はおかしいし、原付が遅いと不満を持っていて、原付に乗るなと思っている人や不満を持っている人も
原付が車道を走ってもいいとしている法律をなくそうとするなり、
変えようとする活動をするわけでもないのもおかしいのだ。
片側2車線以上あっても、一番左の道路を40キロ以上の制限速度の道路で30キロぐらいで原付が走っていようが、40キロや50キロ近くで走っていても、
後ろの車は原付を遅いと不満を持つ場合もあるのだ。制限速度を守っていようがスピード違反をしていようが原付も車も不満を持たれる。
制限速度以下で走っていても、制限速度内で走っていても、スピード違反しても不満を持たれる場合は不満を持たれるのだ。

私が岡山県で教習所の学科の授業を受けた時に、岡山ナンバーの車が広島県で黄色で渡る車がいるから、黄色は止まれだと教えとけというようなことを警察から言われたと先生が言っていた。信号機の黄色の意味が安全に止まれるなら止まらなければいけないけど、安全に止まれない場合は通ってもいいということだが、みんながこの決まりを正しいとは信じていないのだ。
以前、軽自動車が道路に止まっていた時に、後ろから大型トラックが来て連続で数回クラクションを鳴らしていた。
青だから行けと大型トラックの人は言っているのかなと思って信号機を見た所、黄色から赤に変わったところだった。
軽自動車の人は黄色信号で安全に止まれるから止まったのだろうが、
後ろのトラックは黄色で止まらずに動いてほしいのに止まっているから不満を持ちクラクションで不満を表し煽ったのだろう。
あおり運転は有名だが、煽られている方が悪くて問題がある場合があると思っている人もいるわけだが、制限速度以下で走っていても煽られたり不満を持たれるが、制限速度内やスピード違反をしていても遅いと不満を持たれて煽られる場合もあるわけで、走る速さの面でも、それ以外でも不満を持たれるのだ。

誰でもほとんどの決まりなど守っているわけないし、車やバイク、原付に乗る人も道交法の全てなど守っていないだろうが、自分が守るべきだと思っている決まりをを守っていないと不満を持ち、守らなくてもいいと思っている決まりを守っている人にも不満を持ち勝手なことを思っているのだ。

大勢の人が車に乗っている車社会についても、みんなが同じことなど思っていない。
原付が遅いことにYouYubeで不満を言っている人に対して、コメントに車の方がクソというようなことを書いている人もいた。
車とは劇薬と同じで危険物だと言っている人もいるが、みんなが同じことを思ってはいないのだ。
車について、みんなが迷惑だとは思っていないが、誰かが車にみんなが迷惑しているというようなことを書いている人もいた。
一方で自分の親に「車は便利だから乗ったらいいよ」というような人もいる。
何かを良く言う人は利点の方を持ち出して良く言うのだ。
大勢と同じように車の免許を持っていなかったり、乗る車を持っていないと奇異な目で見られたり、バカにされることで迷惑している人もいるだろう。

金でやっていく世の中は不正で悪魔の金社会とも言えるが、教習所や一発試験などで金を取っているのも悪魔の免許ビジネスとも言える。
教習所の先生も運転が下手だと思う人に不満を持ったり、おかしいと思っていたり、私が返事をしなかったことで教習所の先生に不満を持たれているが、自分達も間違った、おかしいことをしているのだ。
警察が道交法違反で罰金を取っていること自体が合法の不正だし、差別だ。スピード違反などみんなやっているだろうに一部の人だけが捕まっていたり、人が嫌がることや、誰がが不正だと思っていることや間違っていると思っていることなど誰でもやっていることなのに、ほとんどのことは
刑法違反ではないから警察呼んでも捕まらないし、刑法違反も多くの人はやっているだろうが、刑法が適用されることもなく逮捕にはならない場合も多いだろう。

侮辱罪や名誉棄損罪などがあるが、公然と大勢の見聞できる所で他人のことを悪く言うようなことで逮捕する法律があるみたいだが、
大勢の見聞できる所で人のことを悪く言っていないから侮辱罪や名誉棄損罪は犯していないなどと思うのだろうが、大勢に見聞できないところで、本人や一部の人が見聞できる所で人や人間以外の生物などをバカにしたり、見下したり、軽視しているようなことを言うことは、ほとんどの人はやっているだろうし、内面で誰かをバカにすることを思っているだろう。
他人がいる所で誰かをバカにしたり、見下すようなことをしているのも侮辱や名誉棄損と言えるだろう。
大勢の見聞できる所で言ったのか、少数にだけ見聞できる所で言ったのか、内面で思っただけなのかの違いなのに、
大勢の見聞できる所で言った場合は刑法違反になるという差別をしているし、その刑法を適用する場合としない場合があるような差別をしている。

ほとんどの人は人をバカにしたり、見下すようなことを言葉や、言葉以外の身振り、手振りなどの色々なやり方でやっているだろうに、
逮捕になどならないのだ。ただのえこひいき差別だ。多くの人はこれをおかしいとか、差別だと言って問題視することはないだろうが。
どうでもいい人や仲間だと思っていない人が悪く言われても他人事だと思う人が多いのだろうけど。
一部の人にだけ決まりを守らないと犯罪者、罪人、容疑者などと言ったり、逮捕したり、罰金取ったり、裁判やったりして悪い意味で差別されているのだ。
法律や法律以外の決まりを守らないのは誰でもやっていることだし、誰でも人から嫌がられているところはあるにも関わらずに。
あいさつをしてほしいのに自分や好きな人にあいさつをしなかった人に対しての方が、刑法違反で捕まった人よりも嫌っていて許さない人もいるのだ。

世の中は矛盾だらけだが、その一つ一つを言っていてもキリがないだろうし、その矛盾点をおかしいと言ったところで、ほとんどのことは変わらないだろう。
金がないとやっていけない世の中で、給料という形で金を貰う仕事を一年のほとんどの日やらなければならない人が多いだろうが、
矛盾していると思うことや、おかしいと思うことがたくさんあって、それについて書いたりなどして問題視している時間もあまりない人も多いだろうし、書いたりして言っても無名な人が多い中で、自分の言ったことが知られることも全くか、ほとんどないだろう。
知られても少数の人が知るだけで、多くの人は知ることもないだろうし、
多くの人に知られたとしても、多くの人に知られるまでにはかなりの時間がかかるだろうし。それに比べるとテレビや新聞などのメディアの影響はすごい大きく、一日や短期間の間に多くの人に知られるのだから。
多くの無名の人の中には、自分が言っても影響力もないと思い、あきらめている人もいるだろう。
短文で書くならともかく、長文で自分が信じていことや、おかしいと思うことについて言っても、誰も見聞しなかったり、
少数の人しか見聞しなくて、自分の言っていることが正しいと信じているのに、その信じていることがまかり通らないのなら、
言っても無駄で意味がないと思う人もいるだろう。大勢が見聞したとしても、多くの人は自分が信じていることを信じないだろうし、
ネットに書いても絶対か多分、非公開やアカウント削除されたりするかもしれないからと思い、言わない人もいそうだ。
多くの人が大勢と同じことをしているのは、それが正しいと信じているからやっているのだと思っている人もいるだろうが、
そうではなくて、思っていることを言っていないか、言っていたとしても仲のいい人などの一部の人にだけ言っていたり、
ネットなどで言っていても、多くの人の言い分はほとんどの人には広まらないので知られないだけだろう。

 

 


脱金社会 金でやっていく世の中は不正だ14

2023年05月07日 | 脱金社会

 

46.精神病と金でやっていく世の中

 

私の姉は結婚していて他県に住んでいて子どもはいない。姉は夫に対して不満があるみたいで、私たちが住んでいる岡山の家に2022年5月21日ぐらいに帰って来ていた。
独身の母方の叔父も私の母親の実家に一緒に住んでいる。
姉が帰って来て、姉の夫について私の母親に話しているのを何度か聞いた。
2022年の6月26日の夜に家のリビングから私の母親と姉と叔父の喋る声が聞こえてきた。普段は3人で喋ってはいないので珍しかった。
時計で時間を図ったわけではないが、私がリビングから聞こえてくる喋り声に気づいたのが夜の7時代か8時代ぐらいで、
姉が喋り終えて、姉が姉の寝ている布団があるところまで来たのが、夜の11時を過ぎていたので、3時間以上ぐらい喋っていたのではないかと思う。
喋っている内容の全ては聞いていないが、私が聞いた時は姉の夫のことを話題に出して喋っていて、姉の夫に対して悪評、低評価するような悪口を言っていた。
他の話題も喋っていたかもしれないが、多分、喋っている内容のほとんどか、全部は姉の夫について喋っていたのではないかと思う。

叔父のことを私の母親はユキちゃんと呼ぶのだが、一字一句はっきり覚えていないが、私の母親が「ユキちゃんでも言うのに」というようなことを言った前か後に「おいしいと言わない」というようなことを私の母親が言ったのだが、姉と姉の夫が結婚する前に私が今住んでいる母親の実家に姉の夫が何度も泊まりに来ていた時に、私の母親が姉の夫が食べる食事を手作りで出していたのだが、その時に姉の夫が料理に対しておいしいと言わなかったのではないかと思うのだ。
それで、ウソであったとしてもおいしいとか言ってくれたらいいと思っていたり、自分の兄でも誰かから貰った食べ物がおいしくなくてもおいしいと言うのにとケチ付けて不満を言っているような感じがする。

叔父が言っていたことでは一字一句全部は覚えていないが「世間知らず」「普通、社会に出たら性格変わる」という感じのことを言っていた。
叔父が思っているのは、給料貰うような仕事をしだしたら、仕事関係の人に好かれるためや、嫌われないために思ってもいないウソを言ったり、
大勢と同じ言動、態度を取る人が多いのに、
姉の夫はそういうことを全くか、あまりしない人だという意味で言っていそうだ。無難にやっていくには付いてもいいウソがあり、
思ってもいないウソを言うことで職場の人とうまくやっていけると思っていそうだ。
他人の姿は自分の姿だが、世間知らずと言っている人も世の中や人間のことなどほとんど知らないのだ。ほとんどのことを知る気もない人の方が多いだろう。
例外除いて多数派や上の立場の人には逆らわずに合わせて従えと叔父は信じている人な感じがする。

私の母親が「これは言わない方がいいな」というようなことを言っていたのだが、姉の夫がやった何かの言動ですごいおかしいと思うようなことがあるのを私の姉から話を聞いて言ったのではないかと思う。
一字一句はっきり覚えていないが叔父が「めちゃだな」というような感じのことを言っていたり、「合わせなくてもいい」と姉に言っていた。
別の日に姉が姉の夫のことについて「干渉してくる」とか「アホやねん」とか言っていた。
自分の気持ちや信仰心にウソを付かずに、本音をまかり通らせることを悪く言う場合には叔父が言ったように、
世間知らずだから相手に合わせなくておかしいとか思う人もいるだろうが、
良く言う場合だったら、自分の気持ちに素直とか、純粋、ピュア、自分を持っているなどと言うのだろうが。
姉の夫が姉にどんな言動を取っているのかほとんど私は知らないが、誰かがおかしいとかひどいと思うことをやったり、
誰かが間違っているとか不正だと思うことをやっているのは誰でも同じことだ。
姉も叔父も私の母親もそれ以外の人達も誰かからおかしいと思われていたり、ひどいとか思われているのだ。
肉食がいい例で、動物を食べること嫌がっていたり、人間は動物を食べるようにはできていないと言っている人もいて、動物食べている人のことをおかしいとか、間違っていると思われているのだ。

めちゃだなと言っている叔父がやっている言動も誰かから見たらおかしいとか、ひどいと思うことやっているのだ。
叔父は凄い大きい音で家のドアを閉めることが何回もあって、近所の人から嫌がられて、嫌がらせされていることに気づいておらず、
すごい大きい音でドアを閉めていることをおかしいと思われているのだ。
私が中学2年ぐらいの時に大阪に住んでいて、岡山の母方のおばあちゃんの家に帰っていて、その日、新幹線に乗って大阪に戻る日で、
台所で従妹と姉と私が食べ物を食べていた時に、私の斜め後ろにいた叔父が「新幹線の時間が」というようなことを言った時に私がうるさいと言ったら、その後、無言で私の背後からヘッドロックで首を絞めてきた。私の態度を叩く人もいるだろうが、多くの人は首を絞めた方の叔父のやっていることもおかしいと思うだろう。

姉の夫のことを影で悪く言っているが、血が繋がっている家族のことでも影で色々言っているのだ。
私は高校に入ってすぐに学校に行かなくなり、長期的に家にいることをしていたことがあるが、20代前半の時に、姉が私に言ってきたことで、私について「お母さんが○○みたいになるんじゃないかと言っていた」というようなことを言った。
○○とは、ある刑法違反した人のことだ。母親にそれを言ったのか聞いたら、言っていないと言ったのだが、影で言っていたのだろうと思う。
母親が墓穴掘るようなことを言ったのだが、「あの時は、みんなが子どもがあんな風にならないようにしないといけないと言っていた」というようななことを言ったのだが、その刑法違反をした人の事件があったのは、私が学校に行っていて外に出ていた中学の時のことだ。
私のことをある事件を起こした人みたいなことをやるようになると言ったのは私が中学の時ではなくて、私が長期的に家にいた時に、
長期的に家にいるのはおかしいことをしていると思って、
私がおかしな事件でも起こすようになると思って影で姉に言ったのではないかと思っている。

姉は2014年に結婚したが、20代後半ぐらいから2012年ぐらいまで、私が今住んでいる母方の実家に一緒に住んでいた。
姉が大阪に住んでいた時の20代前半ぐらいの時に、姉の体調が悪くなり、体の病院に行って検査してもらったら、おかしいところはなかったらしく、
その病院の先生が心の方に問題がある可能性があると思ったようで、精神科を受診することを勧めたみたいだ。
その後、姉は精神科に行き、自分のことを心の病があるとか、精神病だと信じているようだが、私は精神病は信じていない。
一部の人がおかしいと思うことの一部に心の病だの精神病だの、人格障害などと勝手に病名を付けて、断定や半信半疑で信じる人がたくさんいるのだろう。

姉が夫に不満を持って、悪く言っているが、精神病や精神科で出される薬や精神科の先生も問題視されていて、おかしいと思われているのだ。
精神科で出される薬は覚醒剤と同じだと言っている人もいる。
姉は「先生が○○だと言っていた」などと言っていたりして、先生の言っていることで都合のいいことや、信じたいことを信じている姉だが、
みんなが同じことなど信じていないのだ。姉も何人かの精神科の先生の所に行って、気に入らない先生には不満を言っていた。
姉は特権階級意識を持っているようなところもあり、病気の人にそんなこと言っていいと思っているのか、というようなことを言っていたことがあったり、従妹が精神的なことか、何かで不調なことを知ったら、○○ちゃんは精神病ではない、精神病の人は精神的にも不調になって、
体調も悪くなると言うようなことを言っていて、
精神的に嫌な気持ちになるところがあるのは誰にでもあっても、精神病の人は他の人とは違うのだと分けているようだが、
精神病だと言われていない多くの人でも、心身が不調な理由や原因など人によって色々違うだろう。

2022年の7月に、姉が慰謝料だとか財産分与とか、弁護士などの言葉を出して私の母親に話しているのが聞こえてきた。
私の母親が「金を貰えるなら離婚して、金を貰えないなら離婚しないと言うこと?」という感じのことを姉に言っていた。
誰でも自分が信じたいことだけ信じ、都合のいい決まりは利用するところがあるだろうが、姉も法律の一部を調べて慰謝料とか貰おうと考えているのかもしれないが、法律自体が一部の人が勝手に作ったもので、合法だからと慰謝料や財産分与をすることが正しいと言うことにはならない。
金でやっていく世の中自体が不正だが、慰謝料貰うことも合法の不正だ。

自分を精神病だと信じた後に私たち家族と同じ家に住んでいる時は、一緒に家に住んでいる人に不満を口に出して言っていた。
特に母親に一番不満を言っていた。「こんな家出て行きたいわ」と何度も言っていた。
みんなから出て行ったらいいと言われていると姉が言っていたが、出て行かなかった。
ある時に、いつものように。こんな家出て行きたいと姉が言った時に、私が出て行けばというようなことを言ったら、お金がないから出ていけないと言い、その当時付き合っていた今の夫に金を出してもらえばいいだろと私が言ったら、他人に金出してもらえるわけないだろと言うようなことを言っていた。
精神病になったのも3人のせいで病気になったと言うようなことを言っていたかと思えば、別の時には違うことを言っていて、
人に気を使っていたから病気になったと言うようなことを言っていた。

一緒に家に住んでいる人に不満を持ち、不満を言っているのは結婚する前も結婚してからも同じことだ。
不満を持つ相手や不満を言う相手が変わっただけだ。喉元過ぎれば熱さ忘れるで、私たちと住んでいる時には、
同じ家に住んでいた私たちの方に不満を言っていたのが、結婚して数年経ったら、次は同じ家に住んでいる夫に不満を持ち、私たちの住んでいる家の方に一旦帰って来たのだ。

人間は自分の近くにいる人に対しての方が不満を持ちやすく、離れた所にいる知らない人に対しては外見や、どんな言動を取っているかも分からないから不満を持たない場合が多いのだ。自分の思い道りにしたいのに、周りにいる人が自分の望まない態度、言動を取ってきたら気に入らなくて許さなかったりするのだ。
姉が夫に干渉してくると言っていたのも、自分が自由にしたいのに自分の思い道りにならないところがあるから不満を持つのだ。
私たちと一緒に住んでいる時にも、私は自由でいたいと言っていた。
私たちが住んでいる所に帰って来た時も、暇だと言っていたが、私たちと一緒に住んでいた時も「暇すぎて頭おかしくなりそうや」と言っていたり、
私がパソコンでインターネットをしていた時に姉が「暇じゃない?」と聞いてきたので「これやってるから暇じゃない」というような返答したら、
「暇やからやってんちゃん」というようなことを言っていて、以前も今も同じようなことを言っているのだ。

姉が結婚する前に私たちと一緒に母親の実家に住んでいる時に、叔父が私のことを私の母親に逃げたと言っていたことがある。
叔父が私のことを逃げたと言うまでの経緯を説明するのに、姉が自分のことを精神病だと信じていたり、
精神科で貰う薬を飲んでいることを抜きにして説明することは出来ない。
姉が自分を精神病だと信じていることについては他の人に言うつもりはなかったが、2022年6月後半に姉たち3人が姉の夫のことを悪く言っていたり、
それ以外の日にも夫に不満を言っているのを聞いて、誰かに不満を持っていたり、誰かからおかしいとか、ひどいと思われていたりするのは誰でも同じ
なのに、姉の夫のことを悪く言っていたのを聞いて、姉が自分を精神病だと信じていることや、精神病関連のことも誰かから悪く言われていたり、
叔父が姉の夫を低評価するようなことを言っているが、よく知りもしないのに私のことを逃げたと言っていたりしていることなどや、
自分も誰かからおかしいと思われるようなことをやったり、低評価されているのは同じだと思い、姉が精神病を信じていることや、
それに関連することについてなどを言ってもいいかなと思い、姉が自分を精神病だと信じていることなどについて書いた。

精神病関連のことだけではなくて、それ以外のことでも、他の人に知ってほしいと思っていることでも、自分や自分の家族などに都合の悪いことや、知られて不利益になりそうなことは言わないようにしている人もたくさんいるだろう。
自分の思っていることを他の人が本や雑誌やテレビなどで取り上げたら、自分の気持ちが代弁されていて有難がったりする場合もあるだろう。

叔父が私のことを逃げたと言う前にあった出来事は、
姉が結婚する前に私たちと一緒に住んでいて、姉が精神科に行っていた時のある日、私たちが住んでいた家の台所の流しのシンクの所に姉が立っていて、姉は片手に包丁を持って、もう片方の手首を包丁で切っていた。
一字一句はっきり覚えてないが、姉が「さっきもトイレに行って吐いてきて、頭おかしなってんねん」という感じのことを言っていた。
私は姉から1メートルぐらい離れた台所の勝手口の所にいて、姉の持っている包丁が私に向く可能性があると思い、怖いので勝手口から裸足で外に出た。
その時、外は暗くなっていて、私の母親は病院で料理を作る仕事をしていて、まだ家に帰っていなかった。
私は母親に姉が手首を切っていることを言いに行くために自転車に乗って、母親が働いている病院まで行った。病院の外に病院関係の人みたいな人が一人いた。
私はその人にそこで働いている人が帰ったのかどうかというようなことを聞いたと思う。
その後、私はすぐ家に帰って行った。家の庭に着いて自転車を止めた後に、裏から家の中に入ろうと思い、裏の方に向かって歩いている時に、叔父が一階でテレビやパソコンをやっている部屋の横を通った時に、その部屋の窓が開いていて、部屋の中に叔父と私の母親がいて、叔父が「みっこ、逃げたな」と言っているのが聞こえてきたのだ。
私が外に出て行ったのを逃げたと言ったのだ。私が母親に手首を切っていることを言いに行こうとしたことを知らずに、
叔父は自分が感じたことが正しいと思って、間違ったことを思っているのだ。

叔父もそれ以外の人も精神病というものがあると信じている人が、どういう理由で精神病や心の病がある人と、そうではない人がいるのかの基準を一部の人が勝手に作っているのかを知ろうともしていなかったり、自分がおかしいと思う人の一部にだけ精神病だと言っていて、いい加減で適当なことをしているのに、本当のことや詳しいことを知ろうともしていないことを逃げているとは言わないのだろうか?
金でやっていく世の中を大勢の人が正しいと信じていて、金信者は金社会をまかり通らせても、ほとんどの人の面倒を見る気もなく無責任でいい加減だが、自分の信仰をまかり通らせるために、自分と同じことを信じない人を排除して、泥棒などと言って逮捕して、牢屋に入れるようなことをしていても
逃げているとは言われにくいのだ。
誰かが正しいと信じていることをやらないことを正しいことから逃げていると言うとすれば、みんな逃げていると言うことになる。
ほとんどのことを知ろうとせずに、ほとんどの人のことも知ろうとしないことを逃げていると言う人はほとんどいないだろう。

姉のことを叔父は以前に「半分病気、半分性格」と言っていて、いい加減、適当な精神病信仰を持っているが、
叔父は精神病を断定か半信半疑で信じていて、自分の思いたいように思って、姉が心身不調な原因、理由の本当の理由から逃げているとも言えるけど。
姉が手首を切っていたことを精神病で精神的に不調だから手首を切っていたと理由を付けるのか、精神科で貰う薬は自殺衝動が起きると言っている人もいるが、精神科で貰う薬を飲んでいるから手首を切りたい気持ちになったのか、前世の因果とか、先祖の因果とか、家系のカルマとか、そういう理由でやっていると思う人もいるだろうし、霊の影響とかがあると思う人もいたり、親に甘やかされたからなどと思う人もいるだろうが、自分が信じたいように信じるだけだろう。

あいさつ返しが正しいと信じる人が、自分の思い道りにならずに、あいさつ返されないと不満を持ち、相手を嫌ったり、見下したり、攻撃してきたりする人もいるが、あいさつ返さなかった人の体の状態や、あいさつ返しを正しいと信じているのか、信じていないのかの相手の信仰心や、その時の相手の気分などについて全くか、ほとんど考慮もせずに、一方的にあいさつが正しい信仰や欲求を押し付けていて、相手のことを考えていないことを、
相手から逃げているとか、相手の心理や気持ちや相手の信仰心を知ろうとせずに逃げているとか言わないのだろうか?
綺麗事を言う人や、多数派が正しいと言いたい人などは、大切ではない人や関わる気もない人にあいさつしたのは相手から逃げていないと言う人もいるのだろうけど。
相手の心理や本音、あいさつに対する信仰心を知る気もなかったり、相手の心理と触れ合う気もないのに、あいさつをコミニケーションなどと言い美化して綺麗事を言う人もいるのだ。
精神病についての本を読んだり、ネットで検索する人は精神病を信じている人や、信じてはいないけど精神病関連のことについて関心がある人が調べて
読む場合が多いだろう。テレビ番組で取り上げられた場合は、精神病関連のことについて興味がないのに適当に視聴しているだけという人もいるだろう。
ほとんどのことを知らずに、知っていることについても良く知ろうともしない人たちが普通の人や一般人などと呼ばれているのだ。
大勢と同じことをして年金、税金を払い、値段付いているものに金を払うという正しくもない不正をしていても、病人や障害者などとは呼ばれずに、
正しいことをしている人とされているのだ。

精神病や、自分を精神病だと信じていて、周りの人にも自分が精神病だと言っている人の周りの人などは、精神病関連についてのことや、
自分を精神病だと言っている人の言動の一部を私みたいに知っていても、他の人は全くか、ほとんど知らないのだ。
精神病を信じる人の多くは、精神病があると信じるために都合のいいことを言っている人の言い分ばかり調べたり、精神科医の言い分を持ち出すだろうが、精神病はないと言っている人がいるのを知っても、それは信じないだろう。

健常者が精神病であるかのように、なりすましている場合があるのを精神科医は見抜けるのか、というようなことを言っている人がいるが、
誰かからおかしいと思われているところなど誰でもあるだろうが、それを精神病と言ったり、健常者ではなくて人間として異常であると言うのならば、
誰でも健常者ではなくて異常者でおかしいということになる。

金でやっていく世の中を大勢が正しいと信じ、大勢と同じように値段ついているものや、年金、税金に金を払わないことを間違っていて、おかしいと思い、逮捕して牢屋に入れたり、税金Gメンの差し押さえを正当化していることを異常や頭おかしいなどとは思わない人の方が多いが、
金でやっていく世の中という不正の頭がおかしい世の中をまかり通らせて正しいことをしていると信じている人は、おかしいことをしている異常者でもあるのだ。
自分と同じことを信じていない人を牢屋の中に入れるようなことして、自分に都合のいい法律や、正しいと信じている法律は適用してもいいと許し、
ほとんどの法律を正しいとも信じておらず、適用しなくてもいいと思い、法律以外の決まりのほとんども正しいとは信じておらず、
ほとんどの決まりを守りもしない人が普通の人や、健常者、正常な人と多くの人から思われているのだ。

私が小学校6年か、中学1年ぐらいの時に塾に行っていて、その塾で誰かが私に言ったことで私が泣いていた時に、その年齢で泣いているのはおかしいというようなことを先生が言っていたが、他の人だったらそうは思わないだろう。おかしいと思うことは人によって違うのだ。
給料を貰う仕事で間違って失敗してミスしても、同じ失敗に対して不満を持つ人もいれば持たない人もいるのだ。
暴れたり、物を投げたり、身体暴力をやると悪く思われやすいだろうが、誰でも間違ったことをしていたり、不正やったり、おかしいことをしていても、自分やほとんどの人はおかしいことをしていないと思っていたり、人から異常やおかしいと思われていることに気づいていない人もいるのだ。

私は姉の夫に死ねと言ったことがある。
それを言った状況は、まだ姉達が結婚する前に私達が住んでいる家に姉の夫が泊りに来ていた時だった。
姉は自分を精神病だと信じているわけだが、姉の夫も精神病を信じているみたいで、姉の夫が言ったことを一字一句は覚えていないけど、
姉の言動のことだか、心身の不調のことについて言ったのかはっきり覚えていないが、姉の何かのことについて病気のせいであるというようなこと
を姉の夫が言ったことに、精神病を信じていない私が不快になり、姉の夫の言ったことが気に入らなくて不快だったのを「のり、死ね」と言ったことがある。
姉の夫はのりちゃんと呼ばれているので、いつもは姉の夫を名前で呼ばないが、その時は姉の夫のことをのりと言った。
本気で死ねという意味で言ったわけではない。
本気で言っていないにしても、他の多くの人は私が姉の夫に死ねと言ったことを知ったらひどいこと言うなと思うだろう。
姉の夫の家族や親戚の人も良くは思わないだろう。
姉の夫に死ねと言ったことがあるのを私の母親や叔父は知らないだろうが、知っても家族や親戚なら不満を持たないか、大目に見ても、
他の人が同じ状況下で同じことを言ったら許さないのだろうか?
姉の夫のことをめちゃだなと言った叔父だが、私が姉の夫に死ねと言ったことや、わたしのそれ以外の言動についても、叔父や叔父以外の人も
めちゃだなと思うところもあるだろうが。
死ねと言った時か、それ以外の時か忘れたが、姉の言動が気に入らない時に、庭に止めていた姉の夫の車を私が蹴ったことがある。
姉の夫が気に入らないからではなくて、姉の言動に不快になり、庭に出た時に車を蹴ったのだ。

叔父が私が20代後半の時に、給料を貰う仕事をしていない時に、「寝てばっかり、食ってばかり、死ねー」と言ってきた。
叔父の場合は本気で言っていると思う。叔父は大勢が悪人だとは思っていないある人たちのことを生きてちゃダメなんだよと言っていたが、
多くの人は共感、賛同などしないだろう。
姉の夫に対する不満、悪評価を姉、叔父、母親が3人で言っていたが、目くそ鼻くそ、五十歩百歩だろう。
自分の思い道りにしたいのに自分の思い道理になっていないところなど誰にでもあることだろうが、姉は自分が気に入らないことを人が言った時に、「病気の人にそんなこと言っていいと思っているのか」とか、一字一句覚えてないが、「先生が病気の人には常に誰かがサポートしてあげないといけないと言っていた」というようなことを言っていたが、姉は自分の思い道理にならないことに不満を持っているのだが、それは精神病と言われていない人でも同じことだろう。

2022年8月29日にぐらいの時期の夜の数日間、私の母親と姉が喋っていて、喋っている内容の一部が聞こえてきたのだが、
姉の夫について悪く言っていた。
姉の夫が姉にラインで送った文章に対して言っている感じだったが、私の母親が「叔父さんに見せてみ、笑うで」という感じのことを言っていたり、
姉の夫のことを子どもと言っていてバカにしたようなことを言っていた。自分も幼稚なところはあるし、姉や叔父にもそんなところはあるのだ。
私の母が自分のスマホで撮った写真をどうやってみるのかと聞いてきて、
私が取った写真を見せたら、何枚かラインの文章が書かれた写真が写っていたのだが、姉の夫が姉に送ってきたラインの文章を写真で取っておくことで、何かの時の証拠として使おうとしているのだろうか?

私の母親がマインドコントロールと言ったり、「本人はマインドコントロールしているつもりはない」という感じのことを言っている声が聞こえてきた。
姉の夫が姉をマインドコントロールしようとしているけど、本人はマインドコントロールしているつもりはないと言いたそうだ。
誰かに自分の欲求を言ったり、自分の信じていることを守れという態度を取っていることをマインドコントロールと言うとすれば、
ほとんどの人は誰かをマインドコントロールしているとか、マインドコントロールしようとしていると言えるけど。

その一例で、以前私の母親の従妹が家に来た時に、私に初めにあいさつをしてきた時に私があいさつ返しをしなかったら、従妹が帰った後に、私の母親が私にあいさつしないとダメだぞというようなことを言ったのだが、
それをあいさつをさせようとマインドコントロールしていると言う人など
ほとんどいないだろう。大勢があいさつ返しをすることを正しいと信じているので、間違ったことはしていないと思っているから、
マインドコントロールなどとは言わないのだ。
間違っているとか、おかしいと思うことを誰かにやれと言ってると、マインドコントロールや洗脳などと言われる場合があるのだ。

姉と私の母親に姉の夫のことについて一階の仏壇がある部屋らへんで夜に喋っていたある日、叔父は仏壇がある部屋の上の2階に寝ているのだが、
喋り声で寝れないから、別の部屋で喋ってくれということを言っていた時に、「お前ら出て行ってくれりゃいいのに」と言っていた。
叔父は今までにも何度か「出てってくれよ」と言っていたことがある。
同じ家に住んでいる人に不満がない人などいないと思うし、同じ家に住んでいる人だけではなくて、近所の人や職場の人や、それ以外の人間関係でも
人に対して、みんな色々な不満を持っているだろうが、あまり他人の不満を見聞しないので分からないだけだろう。

8月29日に姉が寝ている部屋の隣の部屋のガラス戸を開けた後、姉の横を通っていた時に姉のスマホが姉の顔の横らへんにあり、
スマホの画面にYouTubeの動画が出ていて、モラハラだか、モラルハラスメントという言葉が書かれているのが目に入ってきた。
前日には姉の口からパワハラという言葉も出てきていて、ある女の人が職場でパワハラをされていて、精神科に行っているというような話をしていた。
パワハラ、モラハラ、マタハラなどのハラスメントと言われている言葉はみんなが同じ意味で使っているわけがないが、
ハラスメントされたと言っている人は自分に都合よくこの言葉を使っているだけだろう。
誰かの言動などで嫌な思いをしたり、迷惑していることをハラスメントされていると言うのならば、
誰でも誰かから嫌がられているだろうから、みんなハラスメントしているということになる。
何で嫌がられているのか、誰が嫌がっているのか、誰が嫌がられているのかの違いだ。
同じことを嫌がる人もいれば嫌がらない人もいるし、嫌な気持ちになったのを嫌がられた人のせいにする人もいれば、相手のせいにはしない人もいるのだ。
姉が自分を精神病だと信じていて特権階級意識を持っている感じもあるが、病気の人にそんなこと言っていいと思っているのかというようなことを言っているのをパワハラやモラハラとは言わないだろうけど。

金でやっていく世の中が正しいと信じる金信者は値段がついているものに金を払わない人を逮捕することを正当化したり、
見下す人がいるのは値段がついているものに金を払わない方が間違っていて、それで誰かが嫌がっているから、泥棒と言われている人がハラスメントをしていて間違ったことをしていると言っているようなものだが、
自分達金信者の方が間違った信仰を持ち、自分の信仰心がまかり通らなければ、値段ついているものに金を払わない人を逮捕するようなことなどをしていることをハラスメントしているとは言わないが、
ハラスメントという言葉で言い表すならば、信仰ハラスメントとでも言えるだろう。でも、金信者が自分達を正当化する時に、私の信仰がまかり通らなくて私たちと同じことを信じていない人のせいで迷惑しているなどと言いたい時に、自分達の方が信仰ハラスメントされているんだとか言う人も出てきそうだ。
自分が正しいと信じていて、自分が正しいと信じていることをしない人がおかしいと思っている人の一部がハラスメントされていると言っているが、それならば相手も自分が信じていることが正しいと思っているだろう。ハラスメントされていると言った人に、言われた人の方も自分の信仰や生き方などに不満を言われていることが不快で迷惑だと言う人もいるだろうし、言われていない人もハラスメントしていると言っている人の色んな言動や外見や体臭などを嫌がっている人もいるだろう。
バカと言う人がバカなのだ。ハラスメントしていると言っている人もハラスメントしているということなのだ。誰かや何かをおかしいと思っている人も
誰かからおかしいと思われていたり、誰かを迷惑している人も他の誰かから迷惑されているのだ。

8月29日ぐらいよりも以前の時に、私の母親が姉の夫のことを、一字一句はっきり覚えていないけど「のりちゃんは裸の王様。偉くもないのに偉そうにしてる。他のことも出来ていないのに」という感じのことを言っていた。全てのことが出来る人などいないのに、姉の夫を悪く言っている。
私の母親も姉も母方の叔父も、いかにも偉そうにしているところがあるけど、目くそ鼻くそ、五十歩百歩なのだ。
全てのことが出来ている人などいるわけもなく、誰でもほとんどのことなど出来てないだろう。
私の母親は天皇家を上に見ているし、母方の叔父も私の母親も天皇家が特別扱いされて、天皇家にたくさん税金を取っていることをおかしいとか間違っているとは思っていないだろうが、天皇家はお山の大将で、天皇家を上に見たり特別扱いしてもいいと信じている天皇家信者の人からは拝まれたりしていても、そうは思っていない人もいるのに、自分が上に見ている人には甘い人が多いのだ。
何で天皇家の人だということで偉い人、上の人と信じている人がいるのかを問題視する人はあまりいないだろう。
大勢から好かれたり、上に見られたり、大勢の役に立つものを作った人のことは偉い人や、上の立場の人や、特権階級だと思っている人がたくさんいそうだ。
天皇家が特別扱いされているのを許している人が多いのも、自分や大勢が天皇家を好きだったり、上に見ているから特別扱いしていることを許す人が多そうだ。

 


脱金社会 金でやっていく世の中は不正だ13

2023年05月07日 | 脱金社会

 

42.誤魔化し、見せかけ、カモフラージュ

 

日本人のある人が「本当の独裁者は人の言うことを聞かない」と言ってて、その人は選挙に投票に行く人のようなのだが、
この人は、選挙権がある国民が国や都道府県の代表者などを投票によって決めることを独裁とか勝手とは思っていないのだろうが、
私の言葉の定義で言えば、選挙で代表者を選ぶというのも独裁であり勝手なことをしているのだ。

日本は国民のことなどに関することを決める政治家、知事、市長などの代表者を決めるのに、国民に対して選挙権を与えて、自由に代表者を選べるようにしているという風に見せかけているが、表面的には国民が選んだように見せかけていても、実際は自分が投票した人が必ず当選するわけではないし、
自分が選んだ人が当選しても、その人が色んなことを決めたことに対して、すべてのことに満足するわけでもなく不満を持つ場合もある。
そういう意味では誰が当選してもその人が色んなことを決めたことに対して不満を持つという点では誰が代表者になっても同じなのだ。
投票率が低いと問題視する人がいるが、投票する人が多かろうが少なかろうが、世の中や人に対して不満を持つ人などたくさんいるだろうから投票率が高くても低くても同じことだ。

ほとんどの国は独裁国家ではないと信じている人がたくさんいるのだろうが、日本も他の国も独裁国家だが、下らない言葉遊びをしているのだろう。
独裁国家と言われている国の国民が独裁者と言われている人の決めたことに不満を持てば、独裁者や独裁国家はダメだと思ったりして不満を持つのだろうが、独裁国家と言われていない国に対しても、その国の国民は不満を持っている。だから日本人も政治家などの選挙で選ばれた人に不満を言うのだ。

「私たちのことを考えてないんでしょ」と年寄りが言っていたが、
政治家の姿は国民の姿でもある。他人は自分を映す鏡だ。
国民も一部の好きな人とかのことはいい意味で考えて意識していても、
ほとんどの人のことは自分達が面倒を見ることではなく、政治家とかの代表者がやることと思っている人もいるわけで、ほとんどの国民のことなど考えていない人が多いだろう。
自分たち国民がやらないし、やりたくないことを国民代表者を選んでやらせようとしているのだ。
そして、権力者に対して気に入らないことが一つでもあると不満を持ったり、やめさせようとするところがあるバカなところがある国民もいるのだ。
不満を持たれている人が問題視されやすいが、不満を持ってる人のことは問題視されにくく、被害者などと呼ばれたりして甘やかされるところがある。
「私たちのこと考えてないんでしょ」などと思われている政治家などに多くの人が依存していて、選挙に行っているのだから。
政治家などの権力者が国民の面倒を見なければいけないという決まりなどないが、権力者に自分達国民の面倒を見てもらおうとしている国民もいるのだ。

選挙で当選する人というのは初めに大雑把に決まっているのだ。
多数決で決めるのが選挙だが、多数決というのは大勢から選ばれた人が代表者になるのだ。
例外あれど、投票する理由は、その人の何かが好きだったり、尊敬していたり、自分の望むことをやってくれそうだから投票するのだろう。
当選した人は落選した人よりも大勢の人から好かれていたり、尊敬されていたりして、求められている人だから、大勢から求められている人を当選させて代表者にさせたらいいという人たちの信仰心がある。みんながそんなこと信じていないのだが、それが分からない人たちが、選挙に行かせようとしたり、政治家や知事に不満がある人は「自分が政治家や知事になれ」とか
「選挙に行っていない人が不満を言うな」と思ったり、言うのだ。

例えば、日本人の権力者が「本当の独裁者は人の話を聞かないけど、日本人は人の話を聞く人だから選挙権を与えてあげて代表者を選ばせてあげるよ。当選する人の条件は美形の人にします。」と言ったら、
多くの人はそれはおかしいと思うだろうが、多数決で多い方で決めるのも同じことなのだ。
別の例えで言えば、「本当の独裁者は人の話を聞かないけど、選挙権を与えてあげて代表者を選ばせてあげるよ。でも、最終的に当選する人の条件は黒人です。」と言ったとしても、多くの人はおかしいと思い、
なんで他の人種は選ばれないのかと思っておかしいと思うだろう。
もし、当選する条件が白人だけが当選すると決められていて、その決まりを白人が決めていたら、白人至上主義とか白人の人種差別などと言って不満を言って叩く人もいるだろう。
多数派至上主義とか、大勢至上主義とか、多数派が正しい宗教などとは呼ばないのだ。
選挙などで多数決で決めるのは、人に選ばせてやっているように見せかけている誤魔化し、カモフラージュ、見せかけなのだ。
大勢から求められている人、大勢から好かれている人を代表者にしろと言ってるのも、白人だけを代表者にしろとか、黒人だけを代表者にしろと言っているのも同じことだ。
誰が選挙で選ばれても誰かは不満を持つのだ。
より多くの人が満足していると、人のためにやっているとか、民意を叶えたとでも言い、良く言う人もいるのだろうけど。

人間は自分の思い道りになってほしい生き物だろう。
誰かや何かを好きなのは、自分の好きな外見をしていたり、自分が良い気持ちになる言動を取ったりなどして、自分の役に立つ所があったから好きになったり、褒めたりして高評価してるわけだし、
逆に、嫌いなのは自分が嫌いな外見してたり、嫌いな体臭していたり、自分が悪いと思うことをしてたり、気に入らない言動をしたから嫌っている。
大勢から美形や子どもや犬猫が好かれるのも、自分たちが好む見た目、外見だから好きな人が多いだろうから、見ているだけで自分の役に立っているから良く言ったり、褒めて高評価したりする。
誰が代表者になっても常に誰かは不満を持つ。代表者が同じことを決めても、それに賛同して高評価する人がいても、別の人は不満を持ち低評価する。

物事は満足している人のことがよく取り上げられて、不満を持っている人のことはあまり取り上げなかったりする。
新聞、雑誌、テレビなどのメディアやマスコミと言われているもので取り上げられたことが、例外あれど正しいとか、すごいことの様に
思う人もいるだろうが、テレビなどのメディアで取り上げていることを信じる人を悪く言うのにテレビ真理教信者と言う人もいるが
それを信じる視聴者や読者にも問題はあるが、バカ視聴者、バカ読者やゴミ読者やゴミ視聴者などとは言われない。

何かをやってうまくいかないことがあったり、失敗したりすると、初めにその何かをやった人や、初めにある決まりを決めた人を問題視して悪者に仕立てたりする人がいるが、その何かを取り入れたり、信じたりした人の方は悪く言われにくく、問題視されにくい。

 

 

43.神と金でやっていく世の中

 

宇宙や神という言葉で言い表している存在から色んな恩恵を得いていることに気づいていない人がいるというようなことを言っている人がいたり、
金がないとやっていけない世の中で、無料や無償で宇宙とかが色んないいものを与えてくれていると言っている人がいるが、
宇宙や神が色んな恩恵を与えているのならば金でやっていく世の中などまかり通っていることがおかしいのだ。

金がなくても、地球に住んで、空気を与えられて空気を吸えて、自然を見たり、太陽光が当たって気持ちよかったりしたとかで、
いい気持ちになっていれば金を含めて色んな豊かさが入り込んでくるんだと言っている人がいるが、いい気持ちにならなければ金が入ってこないなどと言っていること自体が豊かではないし、おかしいともいえるが、
自分や大勢の人が金でやっていく世の中に加担して生きていて、金がないと生きていけないから、この金でやっていく世の中を正当化させる必要があるのだろう。
本当に豊かだったら金でやっていく世の中など要らないし、金なんか要らないのだ。
自分と好きな人や善人だと思っている人が牢屋の外でいい気持ちならば、
例外あれど、大勢と同じことをしない金を払わなかったりした人などを逮捕して牢屋の中に閉じ込めるようなことをして、いい気持ちになっていれば金などの色んな豊かさが入ってくるなどと信じ込んで、
大勢と同じことをしない人を悪者だと信じ牢屋に入れたり、罰金を取ったりしていること自体が豊かではないとも言えるのだ。

いい気持ちになるところがあっても、人によって入ってくる金には差があるのに何を言っているのだろうか?
たくさんお金が入ってきている人の方がたくさん気持ちいい思いをしているとはとても思えない。
この金でやっていく世の中で金がないとやっていけないから、
いい気持ちになっていたら金が入ってくるんだという意味をつけて、金でやっていく世の中が正しいと正当化させたいのだろう。

宇宙から無料、無償で与えられていることに満足していれば、金などの豊かさが入ってくるというのは誤魔化しで、
金でやっていく世の中で、1円や15円や300円や5千円や、1万円や10万円が一か月で入ってきて一体何ができると言いたいのだろうか?
特に行きたいところがたくさんあったり、欲しいものがたくさんある人などはこれだけの金ではやっていけないだろう。
金が入ってきてもその額は人によって全然違うのだ。

宇宙と周波数が合えば恩寵がもらえるなどと言っているのも宗教なのだ。
宇宙という言葉を神と言えば、「神に合わせれば神から色々な豊かさという恩寵や金を貰えるんだよ」と言っているようなものだ。
あいさつで言えば、「私のあいさつルールに合わせてくれたら、悪態ついたり、バカにしたり、嫌ったりしないぞ。
だから、私に合わせて従え」と言っているようなものだ。
宇宙の方が人間より優れていて上だから、宇宙のやり方に合わせない人には、この金でやっていく世の中で、全く金が入ってこないか、ほとんど金や欲しい物も手に入らないと言っているようなものなのだ。
人間の権力者の言うことを聞かないと殺される場合があったり、逮捕されて自由を奪われたりする場合がある。
「こういう風にやったらこうなるんだよ」と多くの人が周りの人やネットなどで言ったりするのは、大概、自分がそのやり方でうまくいったから、他の人にそれを言ったり、勧めるのだろうが、それでうまくいく人がいても、うまくいかない人もいるのだ。
自分がある食べ物を食べて、不調にならなくても、他の人は不調になったり、食べ物のアレルギーがあったりするのだ。
「同じ人間なんだから」と言って、人は同じだという人がいるが、
同じことを思っているところがあったりしても、全部が同じわけなどないのだ。
同じところを強調したい時には、違うところがあることをあまり認めたり、強調はしない人が多いのだろう。

立場が強い者に合わせて従ってあげないと、うまくやっていけないとい場合もたくさんあるだろう。
どこかに引っ越したら、その地域の決まりに合わせて従わなければならなかっりする。業に入れば郷に従えということなのだ。

日本人には、自分が正しいと信じていたり、相手を自分の言いなりにさせようとしているのに、その信じていることについて、一切言葉にはせずに、相手に自分の信じていることを知ってもらおうと伝えもせえずに、
自分の思い道りにならないと怒り出したり、不満を言ってきたり、影で不満を言う人がいたりするのだが、悪く言えば、勝手、わがまま、独裁的、支配的、自己中心的などと言えるが、大勢が同じことを信じている場合は、普通や一般的、常識などと言われる。
人間には世の中や人間を自分の思い道りにさせたいと思っているところがあるのだろう。
だから、思い道りにならないと不満を持ち、心身不調になったりする。

自分は死にたくなくて、生きていてもいいと自分に許し、気に入らない人間などには早く死んでほしいと思っていたりする人がいるが、
自分可愛さ、我が身可愛さがあるから、自分は生きていたいと思っても、気に入らない人には死んでほしいのだろう。
あいさつも、我が身可愛さがあるし、自分が正しいと思っているから、自分が決めたあいさつの決まりに従ってほしいと思っているのに、
自分の思い道りのあいさつをしないことに不満を持ち、相手を見下したり、ダメ人間などと言ったりして嫌う人もいるのだ。

嫌われたくなかったら、相手の望む言動を取ったり、相手が嫌わない外見にしたり、相手が嫌がる言動をやるなと思っている人もいるだろう。
誰かが人から嫌われていると、嫌われている方が問題視されやすく、嫌われるような言動を取ったり、嫌われる特徴を持っている方に問題や原因があると信じている人もいるのだ。
だから「何もしていなかったら何もされないのだから」など言ったりするのだ。
でもこういう人も、自分や好きな人が人が嫌がることをしていることは許したりして、特権階級意識を持って、上から目線だったりする。
他人の姿は自分の姿で自分も人が嫌がることをしているのだ。
うまくやっていくには、周りの人間が嫌がることをしないように媚を売る必要があるので、例外あれど、何かを嫌がっている人がいると、その人のいる所では嫌がっていることをやらなかったりするのだ。

大勢が正しいと思っていることや、大勢が加担していることは、人間より上の存在の宇宙や神が許しているからまかり通っていることで、
宇宙や神が許していないことはこの宇宙の中に存在することは出来ないとするならば、悪いことをしているとか、不正と言われてるものも、神や宇宙が許していなかったら出来ないと言えるのだが、悪いことをしていると思っている人を逮捕したりなどして排除したり、見下すのは、
それをやることを許している神を見下して否定しているとも言えるけど。
悪いと思っていることは人によって違うわけだが、悪いと思うことをやっているのも、天魔、鬼神の仕業と信じている人もいるわけだ。
人間よりも大いなる力を持っている神や宇宙などと言われている存在を信じている人もいれば、信じていない人もいるのだ。

金でやっていく世の中は正しくもないし不正だが、値段ついているものに金払ったり、税金、年金を払う人を正しいことをしていると信じている人がたくさんいて、それを褒めるときに、真面目な人などと言ったりする人もいるのだが、決まりを守っているから真面目な人などと言いたのだろうが、その人たちはほとんどの決まりなど守っていないのだ。

 

 

 

44.世の中はウソまみれ

 

世の中や社会と言われているところは、間違っていて不正でウソの金でやっていく世の中がまかり通っていて、大勢が金信者だ。
以前、私がネットで読んだことに「世の中の99.9%はウソ」と書いている人がいたが、分かっている人は分かっているのだろう。人間の一部はウソを付いていても、ほとんどの人はウソを付いていないとか、
子どもはウソを付かないと信じている人もいるのだろうが、多くの人は誰でもウソは付いていると思っているだろう。
ウソには自覚のあるウソと、自覚のないウソがある。金でやっていく世の中や、本来、値段がついていないものに値段を付けることは不正でウソをやっているわけだが、多くの金信者はそれをウソだとは思っていないのだ。だから商売や税金、年金を取ることを詐欺や泥棒だとは思っていない人もいて、
金でやっていく世の中というウソをまかり通らせているのだが、金信者たちは自覚のないウソを付いているのだ。

金でやっていく世の中で、たくさんの物やサービスに値段、価格を付けたり、税金、年金、罰金、損害賠償などで色んな形で金を取ることが
大勢の人から許されてまかり通っているが、ほとんどの人は金信者なので、金でやっていく世の中をおかしい、不正だとは突っ込まないけど、
あいさつ返さない人に対しては不満を持ったりする。

大勢と同じことをしておけば例外あれど、どうにかなると信じている人が多そうだ。
長い物には巻かれろで、権力者や自分の属している集団で上の立場の人や、
例外あれど多数派には逆らわずに従っておいた方が無難だと思っている人が多いだろうし、大勢がやっていることの方が正しいと信じている場合もあるのだ。

日本では、法律で天皇を日本や日本国民統合の象徴と勝手に言っているが、どれだけの人がこの決まりを信じているのだろうか?
天皇が日本や日本国民統合の象徴などと言っているのはウソだ。昔から天皇が日本にいることで日本人が統合などされていないし、
今も天皇がいることで日本人みんなが統合されているわけではない。
一部の人が勝手に法律を作り、国民も法律のほとんどを知らない人の方が多いだろうし、自分に都合のいい法律を利用したり、信じたりしているだけだ。
天皇家の人はテレビや雑誌などで、例外はあれど良い感じに取り上げられている場合が多いし、法律で国民とは違って特別扱いされているので、
天皇家や天皇家の人に好意を持っていたり、上に見ている人もたくさんいるのだろうが、天皇家や天皇家の人に好意を持っている人や、天皇家はあってもいいと思っている人の多くは、天皇家や天皇家の人についてよく知りもしないし、知る気もない人が多いだろう。
初めに天皇が何で出てきたのかとか、今まで何をやってきたとか、天皇家について他の人が何を思っているのかとか、天皇と戦争のことなどについて興味、関心が全くか、ほとんどない人の方が多そうだ。

天皇家はお山の大将なだけだ。一部の人からは特別扱いしてもいいと許されて、好かれていたりするが、天皇家関連のことに税金でたくさんの金を取っていることをおかしいと思っている人もいたり、嫌っている人もいるわけだ。
ネットで読んだのだが、歌手が歌で金を取っていることに対して、歌は無料で聴くものだと思ってる人もいるというようなことを書いている人がいた。
どれぐらいの人がそう思っているのかは知らないが、みんなが歌が有料で値段が付いていることを正しいとは思っていないのだ。

私の母親が「天皇家が要らないと言っている人がいる」と叔父に言ったら、「天皇家が要らないと言っている人はごくごく一部の人だけ」と言っていた。
叔父はある天皇のことは悪い感じに言っていたが、天皇家が特別扱いされて、たくさんの税金を天皇家に取っていることは許していて天皇家はあってもいいと思っている方だと思う。
他の人も大勢の人から好かれていて役に立っているのならば、天皇家はあってもいいと思っている人もたくさんいるだろう。
大勢から好かれている人に甘いのだ。天皇家のことについて多くの人はいい加減なのだ。

叔父が平成の天皇が東日本大震災の時に被災者の人にテレビで言っていたことについて、天皇は人格者と言って褒めていた。
天皇の同じ言い分について誰かがネットで、愚劣という言葉で言い表していた。同じことを聞いても同じことなど思わないのだ。
以前、叔父がやくざの親分のことを「やくざの親分は人格者でな、人の面倒見がよく」というようなことを言っていた。
やくざに対しては悪印象を持っている人も多いだろうが、叔父のようなことを思っている人もいるのだ。
叔父は天皇にもやくざの親分にも人格者と言った。

日本人は縦社会で、ヒエラルキー、カーストがある民族だが、法律で天皇を日本や日本国民統合の象徴と言っているが、天皇家や天皇家の人達は日本における縦社会、ヒエラルキー、カーストの象徴と言った方がいいだろう。
この日本はカルト宗教国家であり、みんなが天皇家の人を上に見ているわけでもないし、特別扱いしてたくさん税金を取ることに賛同しているわけではないのに、天皇を日本の象徴などと言っているが、天皇家や天皇家の人が日本というカルト宗教国家の象徴みたいになっている。
一般に法律やほとんどの決まりは宗教という言葉で言い表されていないので、宗教の押し売りとは言わないが、決まりを宗教と言うと定義付ければ、法律や他の決まりも宗教とも言えるのだ。

天皇家の人に対して、生活費や色んなことをするのに税金から金をたくさん取っても大勢から許されるが、他の人が同じことをしたら許さない人もいるだろうし、天皇家をすごい特別扱いしているのは、いい意味で差別していて、他の人を悪い意味で差別しているので、天皇家は差別の象徴でもあると言った方がいいと思う。
もし、日本に住んでいる一つの一族だけが、税金から年間に100億以上の金を取って、生活費が払われていたり、スポーツやイベントや絵を見に行くことなどに税金が使われたら、あの人たちだけズルい、せこいなどと思われたり、不満を持つ人が多いだろうが、天皇家の場合なら多くの人が許すのだろう。
外国に留学したり、何かやりたいことがあっても、多くの人は税金から金は出ないが天皇家の人は税金から金が出るのだ。
スリと言われている人が、誰かから100円や1000円取ろうとしたり.、取ったり、店から金を払わずに物を持って行ったり、
無銭飲食とかすれば泥棒と言われて、警察を呼ばれれば逮捕されるが、嫌がっている人から税金取ったり、天皇家を特別扱いして税金からたくさん金を取っていることを間違っている、おかしいと思っている人がいても、
天皇家に税金を取っていることを許している人達や天皇家の人を泥棒や詐欺師などとはあまり言わないだろう。
天皇家を上に見ている人は、天皇家が大勢の人から好かれているから特別扱いされて、たくさんの税金を取ること許している人もたくさんいるだろう。
一部の人は天皇家の人に税金泥棒と言うが、多くの人は天皇家に税金を取ることを正しいと信じていたり、一部のことに税金を使うことは許さなくても、天皇家に税金を取ることを許している人はたくさんいるだろうし、
税金を取ること自体は法律では合法なので、天皇家に税金を取ることをおかしいとか、悪いとか思っていない人も多いのだろう。

スポーツやイベントを見に行ったり、外国の人と喋ったり、晩餐会で外国の人と食事をしたりすることを税金から金を取ってやるのを公務、仕事という言葉で言い表しているが、他の人や生活保護の人が同じことをやれば、仕事とは言わずに遊びや観光などと言われるのに、天皇家を上に見ている人は仕事と言っていい感じに言い、美化するのだろう。
私が小学生の時に大阪に住んでいた時に、花の万博があって、岡山に住んでいた母方のおばあちゃんも大阪に来て私たちと一緒に花の万博へ行った。
親が買っていた女性雑誌で見たと思うが、今の天皇も花の万博に来ていた。天皇家の人が来たら仕事と言われ、花の万博に来ていた他の人や私は仕事とは言われない。
交通費などや、護衛に警察を付けるのにも税金を使ってイベントなどに行っても合法なのでほとんどの人は泥棒とは言わない。
誰かがおかしいと思ったり、間違っている、不正だと思うことをやっている点では同じことだが、合法か違法の違いだけだ。

天皇の即位の時にも、税金からたくさん金を取っているが、天皇家を特別扱いしてもいいと思っている人は許すのだろうし、
税金から金を取っていることさえ知らない人もいるだろう。

日本人に天皇家を特別扱いしている人がいたり、権力者の決めたことの一部を守れと強要する日本人がいるのも、日本人には人を上や下に分けていて、ヒエラルキー、カーストがあり、人を差別している差別民族だからだろう。
自分が上に見ている人には逆らってはいけないとか、
権力者の決めたことで自分が気に入らないことは言うことを聞かなくてもいいけど、自分が正しいと思うことや都合のいいことは、
言うことを聞けと言いたい人もいるのだ。

天皇家の美智子様が以前言っていたことに、「人には誰でも人のことが分からないところがあるから、そこには入り込まないようにしている」
というようなことを言っていたと思うのだが、みんなが天皇家に税金取られたいなどとは思っていないし、天皇家が税金を使って特別扱いされていることを正しいとは信じていないが、美智子様は人のことが分からないところがあることを分かっていながら、国民が何を思っているのか分からないところがあったり、天皇家を嫌っている国民がいることを知っていながら、
天皇家のことに税金をたくさん使っていたり、国民がやっているスポーツやイベントなどを見に行くようなことをやっていて、国民に入り込むことをやっているので、美智子様もバカで頭が悪いところがあり、したたかなのだ。
以前、メディアで美智子様のことを批判することを言われたことに対して、「事実でない報道には、大きな悲しみと戸惑いを覚えます」というようなことを言っているが、事実でないというのは、別の言い方ではウソということだが、天皇家が日本や日本国民統合の象徴だという法律もウソだし、
それ以外の法律もウソで正しいことではないし、天皇家の人がたくさんの税金を取って生活したり、公務と言われていることなどをやっているが、
税金を国民から取るようにしている税制もウソで、金でやっていく世の中自体がウソだ。
美智子様もそれ以外の人も、自分に都合のいいことはまかり通らせるのだろう。
天皇家のことで今までやってことがないことをやると、天皇家のことを良く言いたい人は、前例がないことをおやりになりなどと言っているが、勝手なことをやっている、いい加減などとは言わないのだ。

天皇家が昔やっていたことと今やっていることは違うのに、天皇家という名前だけは残して特別扱いして、
他の人よりも上の立場の人であるというようなウソをついているのだ。
今、公務と言っていることや晩餐会や春の園遊会などは昔はやっていないが、天皇家が外国の一部の人や、国民の一部と会って食事をしたり、少し喋ることをするのに税金からわざわざたくさん金を取って、触れ合いだの公務だの言って綺麗事言ってカッコ付けているのだろう。
天皇家の人も今まで天皇家でやっていたことでも、いらないと思うものはなくして、今までやっていなかったことでも都合のいいことはやり、それに税金を使うことは許すのだろう。
天皇家の人が民との触れ合いと言っているのも、一部の国民がやっているイベントやスポーツなどを見に行ったり、春の園遊会などで、一部の国民と少しだけ喋ったりすることを触れ合い、社交、交流と言っていても表面的なのだ。天皇家の人は国民のほとんどの顔や名前も知らないし、何を思っているのかをほとんど知らないのだ。

北野武が、「天皇に色んなことを背をわせている気がして悪い気がして」というようなことを言っていたのだが、
天皇家の生活費や公務などをやってることや、警察を護衛につけているのにも税金からたくさん金を取っているので、
国民が天皇家を背負っていると言った方がいいだろうが、天皇家について人によって全く逆のことを思っているのだ。
私の母親が以前働いていた職場の女の同僚の人が「紀子様も働いている」というようなことを言っていたらしいが、イベントなどに参加して、一部の人と喋ったりすることを仕事と言いたいのだろうが、でも、他の人がイベントや美術館や博物館に行って、そこの関係者や、周りにいる人と喋っても仕事とは言われずに、遊びや観光や旅行や暇つぶしなどと言われるだろうが、
法律で特別扱いされていたり、大勢から好かれたり、上に見られている人の場合は仕事という人もいるのだろう。
他の人ならば、給料や印税という形で金を貰っていない人が何かをやっていても、仕事とは言われにくく、働いていない、仕事していない、ニートなどと言われる。

今の天皇が以前、「若者の内向き志向を心配しています」というようなことを言っていたと思うのだが、日本の若者が外国にあまり行っていないという意味で言っていたとしても、天皇家の人が外国に行っていても、一部の外国に行って、外国人の一部の人の一部分とだけ関わっているだけで、ほとんどの外国人とも、例外除いて日本人のほとんどとも関わっていないのだ。
例外は国民から税金を取って、それを使って生きているのを間接的に国民と関わっていると言いたい人は言うだろう。
天皇家の人は外国に行くのに税金から金が出るが、他の人はそうではない。外国に行きたくても金のことなどで、外国に行く条件が整っていないと
外国にも行けないのに、それが分からないバカなところが今の天皇にはあるのだ。
天皇家の人も、それ以外の人も人のことなどほとんど分かっていないのに、世の中や人のことを勝手に決めつけて暴走しているところがある。
みんなが天皇家を上に見ているわけではないのに、天皇家が他の人よりも上の立場の人としていて特別扱いして暴走しているのだ。

天皇家が国民の一部に喋りかけたり、イベントなどに行くことを民との触れ合いと言っているのも、大げさとも言えるし、ウソついているところがあるとも言える。
国民のほとんどの名前も顔も知らずに、ほとんどの国民と関わったこともないとも言えるが、民と触れ合っていると言えばカッコが付き、綺麗事にはなる。

天皇家以外の人も同じで、あいさつや、それ以外のことでコミニケーションして関わって、交わり、触れ合ったと思ったり、言う人がいるが、
関わったと言っている相手と、関わる気もないのに形だけ喋りかけたり、あいさつしているだけだったり、ごく一部のことで関わりたい人と関わっているだけで相手とほとんどのことで関わってはいないし、ほとんどのことで関わる気もないのだ。
形だけのあいさつや雑談で関わってやると勝手に思い、一部の人に声をかけて、相手に自分の思い道りの反応をさせたいと思うことをコミニケーション、触れ合いなどとカッコ付けて綺麗事を言う人たちもいるのだ。

他の人も天皇家が特別扱いされていて、たくさん税金から金を取っていることを間違っている、おかしいと思っても大勢が見聞するところで自分の本音の不満を言ったら、何をされるか分からなくて怖くて、恐ろしいから言わない人も多いだろう。天皇家について天皇家のタブーや菊タブーと言っている人もいる。
天皇家に否定的なことを言っている人を見聞したことがないから、天皇家に不満を持っていたり、嫌っている人がいないということにはならない。

何かや誰かについて不満、否定的なことを思っているのならば言えばいいと思う人もいるのだろうが、実際に本音を言って、そんなことをすれば、自分や自分の家族などが何をされるのか分からなくて怖かったり、面倒なので、誰にも言わないか、仲のいい人などの一部の人にしか言わない人の方が多いだろう。
あいさつを正しいと信じていない人や、今喋りたくないと思っていても、自分を大切だと思っていないような人が初めにあいさつしてきて、あいさつ返してあげなかったら、嫌われて不満を言われたり、嫌がらせされたりして何をされるか分からないから、相手が望んでいそうな反応をしてあげる人もいるだろうけど。

日本人はカースト民族なので、権力者に都合が悪いことを主張している人を思想犯と言って逮捕するようなことをして、罪名付けて
牢屋の中に送り込んで迫害していた時代もあるわけだ。
金でやっていく世の中をやっている今も、権力者や、それ以外の大勢の人が正しいと信じている金でやっていく世の中でで値段ついているものに金を払わない人が気に入らないから罪名付けて逮捕して迫害しているのだ。

職場で上の立場の人や多数派などには逆らわない方が無難なので、不満があったり、職場の決まりを正しいと信じていなくても本音を言わずに、
自分の気持ちにウソを付いて合わせて従うことをイエスマンと言うが、イエスマンをやっていることに気づかない人もいるだろう。
多くの人は色んな人にイエスマンをやって、ウソをついているだろうけど。

ウソを本当のことだとまかり通らせていても大勢が加担していることは悪くは言われにくいので、金でやっていく世の中は悪くは言われにくいのだ。
大勢から選ばれた人を政治家、知事、市長にすることが正しいというわけではないのに、こういう上の立場の人が決めたことには逆らうなと思っている人もいるのだ。
子どもが学校に行かなければいけないという信仰を持っている人がたくさんいるが、これもウソなのだ。

このウソで塗り固めた世の中で、大勢の人から嫌われたくないと思っている人も多いだろうが、嫌われないために媚売りでやっている言動や、正しいと信じていない決まりを守ることを、コミニケーションや、常識、社会のルール、普通、当たり前などと言うのだ。
何で大勢と同じことをやっているところがあるのかの人の心理については、あまり興味がない人の方が多そうだ。

本音を言ってウソを言わなかった人の方が逮捕されたり、嫌がらせされたり、不満を言われる場合もあり、自分の気持ちにウソを付いて本音を言わなかった人の方が良く言われる場合もたくさんあるのだ。
このように世の中はウソまみれだが、ほとんどはウソではないと信じている人もいるのだろう。

 



45.みんなグレてるとも言える

「グレてる」という言葉がある。
多くの人はグレてるという言葉の定義、意味付けを、正しいことをしていないとか、悪いことをしている、おかしなことをしているなどの意味で使っているだろう。
それならば、みんなグレているし、みんなグレている愚連隊とも言えるのだ。

この金でやっていく世の中という不正のイカレてることをしていることを正しいと信じている金信者も愚連隊とも言えるし、「金信者愚連隊」とか、「金愚連隊」とも言える。
他人の姿は自分の姿で、一部の人を悪い意味でグレてるとか、半グレとか、愚連隊などと言っているが、誰でもグレているとか、愚連隊だとも言えるのだ。

あいさつしたのに返さない人や、近所や職場で目が合ったのに初めにあいさつしない人に悪感情を持ち、見下して悪く思う人や言う人は、
自分が正しい正義だと信じ込み、あいさつしなかった人が悪だとか、劣っているダメ人間だと勝手に感じ、自分はまともな正しい人であると信じ込んでいるのだろうが、人としてあいさつすることが正しいという決まりなどどこにもないし、ほとんどの人があいさつしないことは許すくせに、一部の人があいさつしないことは許さないというのもグレているとも言える。

大勢と同じことをしない人の方が、例外あれど悪く言われやすく、その中の一部の人が、グレてるとか、愚連隊などと呼ばれているが、
大勢と同じことをしていることで、大勢の人や一部の人が嫌がったり、迷惑していたりすることをしているのを一般にグレてるとか、愚連隊とは言わないが、グレてるとか、愚連隊とも言える。グレていると言う人もグレているし、愚連隊と言う人も愚連隊なのだ。

大勢でやっていることが間違っていて不正なところもたくさんあるので、多数派のことを愚者とも言えるし、愚連隊とも言える。
刑法違反のことをしていて、大勢が悪いとか、間違っていると思っていることをする人を反社会勢力などと言うが、言い方を変えれば、「大勢と同じことをしていない劣っていて、グレているおかしい人たち」と言っているようなものだが、大勢と同じことをしている人も、不正で間違っているおかしいことをしている、グレている劣った人とも言えるのだ。

警察が金を払わない人を逮捕したり、それ以外の人を刑法を適用して逮捕するが、警察も法律の全てを守っているわけでもないし、法律自体が不正だし、こんなことをしている警察自体が愚連隊や警察愚連隊や愚連集団とも言える。
法律も愚法とも言えるし、ウソ愚法とか、愚かな法とか、グレてる法律とも言えるのだ。

金でやっていく世の中自体が、金でやっていく世の中を正しいと信じている金信者によってまかり通らせている「愚かな金社会」とか「大勢の金信者によってまかり通らせられている愚連金社会」などとも言える。
金でやっていく世の中は、一部の人が作って、多くの人が巻き込まれているように言っている人がいるが、金でやっていく世の中を子どもの時から、正しい根拠もないのに正しいと信じていて、値段ついているものに金を払わない人を格下に見て、泥棒と言いバカにしている人がたくさんいるのに、
ほとんどの人は金でやっていく世の中をやらされていると言いたい人は大勢の人を悪く言いたくないのだろう。

大勢が金でやっていく世の中を不正でおかしいと思っているのならば、
金でやっていく世の中をまかり通らせているわけがないし、値段ついているものに金を払わない人や、スリなどをやっている人に不満を持ったり、見下したりして叩きはしないだろう。
物やサービスなどに値段を付けて商売をしたり、給料や印税などを貰うことを正当で正義だと信じているから、多くの人はこれらを叩かないどころか良く言ったりして、金でやっていく世の中は正しいと信じているのだ。
給料を貰う仕事をすることを、親が子どもを社会に送り出したなどと言っているのも、金でやっていく世の中を間違っている不正だとは思っていないからだろう。

 


脱金社会 金でやっていく世の中は不正だ12

2023年05月07日 | 脱金社会

 

40.みんな障害者で、みんな自閉症だとも言える

 


人間の多くは体に不調がある人が多いだろうから、体のことでは、体の病気や障害がある人が多いと思っているだろうが、
内面、心のことでは一部の人が勝手に自分達がおかしいと思ったり、正常から外れていると思う人に、精神病、心の病、人格障害、発達障害などという言葉で言い表して、それを信じている人もいる。
自閉症や知的障害などと言われている人がいる。
ほとんどの人は自閉症や知的障害ではないと思っているだろうが、
言葉とは、同じ言葉を同じ意味で使っていない場合もあり、自己満足の言葉遊びでもあるが、誰でも自閉症や知的障害であるとも言えるのだ。

誰でもほとんどのことを知らないし、ほとんどのことを多くの人は知る気もないだろうし、間違っていることを正しいと信じていることを、なんで知性や知的なところに障害や病気があるという言い方をせずに、
ごく一部の人にだけ知的障害と言っているのだろうか?
一般に知的障害と言われている人とは別の意味で、他の人達も知的障害だとも言えるのだ。
ほとんどのことを知る気もなかったり、間違っていることを正しいと信じていることなどを、知的障害という言い方だけでなくても、内面障害者など、色んな言い方ができるし、誰でも障害者とも言えるのだ。
私は一般に精神病と言われているものは信じていないが、正常から外れているとか、間違っていることを思ったり、やったりしていることを障害や病気と呼ぶとすれば、誰でも障害がある障害者で、誰でも体以外でも病気だとも言えるのだ。だから誰でも障害者なのだ。

あいさつを正しいと信じている人が、誰でもあいさつしたらオウム返しをすると信じている人が多いだろうが、この人たちも知らない人のことを知っていると知ったかぶり、間違ったことを正しいと信じている知的なところに障害がある知的障害者とも言えるし、他人の気持ちや体のことを分かっていないところがある「人の気持ちが分からない障害者」とも言えるし、
自分が感じていることや信じていることが間違っているのに自分が正しいと信じ切り、相手に不満を言ったり、相手を変えようとしていることは、
「人のことを分かる気もない障害者」とも言える。「正しくもないのにあいさつ返しが正しいと信じている障害者」という感じだ。

一般に自閉症と言われている人とは、また別の意味で誰でも自閉症であるとも言える。
自分の体や内面のこと、過去にやってきたことなどを、全ての人に全部さらけ出して自己開示を出来る人などないだろうし、
過去に思ったことや、やったことの多くは忘れている場合が多いだろう。
理由が何であろうと自分の全てを、全ての人にさらけ出して公開して自己開示することをしないのは自閉していて、閉鎖的だとも言えるのだが、
自分達ほとんどの人は自閉していないし、閉鎖的ではないと思う人もいるだろうが、こういう人は自分達が好きな人や関わりたい人や、関わる気もない人などに、あいさつをしたり、喋りかけたり、お菓子などの物をあげたりなどをしたことだけを持ち出して、自分達は自閉をしていなくて、排他的、閉鎖的ではないと思っていて、自分に都合のいい捉え方をしているだけだ。
関わる気もない人やどうでもいい人、嫌いなだけの人などにあいさつを返させようとして、あいさつを初めにしたり、興味がない人に喋りかけたりすることを社交的だとか、コミニケーション、社会のルールなどと言い美化して綺麗事を言う人たちもいる。

あいさつがいい例で、相手の全てか、ほとんどのことを知る気もないのにあいさつを返させるためにあいさつをする人は、
相手のことを全くか、ほとんど分かってもいないのに、相手が絶対にあいさつを返すと決めつけてあいさつしているのも、
自閉していて、自分の心の中に引きこもり、知らない人のことを知っていると勝手に決めつけて、自分の思い道りになると思っていて、
間違ったことを信じているのだが、関わる気もない人や、形だけのあいさつだけで関わろうとしていて、全くか、ほとんど知らない人に
あいさつを返さすためにあいさつしたから、社交的やコミニケーション能力が高いと高評価して良く言い間違ったことを思っているのだ。
形だけ言葉で関わってあげようとあいさつして、相手がオウム返しをすると、相手と言葉で関わったと自己満足したりするのだろうが、
相手の心理に関心もなかったり、相手の内面や心理と関わる気もない、表面的でうわべだけのことをしているのだ。
大切ではない人や関わる気もない人が自分や自分の仲間などにあいさつをすることを多くの人は許しても、あいさつしてきた人の心理や、その人について何も興味がない場合も多々あるだろうに、こういうことを閉鎖的だとか、排他的だとは言わないのだ。
下らない言葉遊びをしていて、言葉を自分達に都合のいいように使っているだけだ。
相手と内面、心で関わる気もない精神的な引きこもりの人たちが、コミニケーション能力が高いなどと褒められて得をする。
あいさつを返さない人は、あいさつを初めにした人を無視していると不満を言っている人も、あいさつ返さない人の心理や体調、信仰心を無視しているから、無視している点では同じなのにバカで自閉していて、自分の狭い心の中に引きこもり、相手のことを知る気もないから気づかないのだ。
あいさつできる人などと褒められている人は、人の気持ちがほとんど分からない障害者だとも言えるのだ。

あいさつは特殊で異常だ。行きたい場所がどこにあるのか分からないから、道を尋ねていることを、あまりコミニケーションだとは言わないだろうが、
あいさつをコミニケーションだと言っている人がいるのは、あいさつしている人の心理に興味がないか、心理が分からないけど、あいさつを美化させたかったり、正しいことに仕立てたい人は、あいさつする人を良く言うのだ。
あいさつする人が、ごく一部の人にだけあいさつすることを求める理由は隠していても、なぜか自閉しているとか、自分を閉ざしているとは言わないのだ。
人を自分の思い道りにさせたいという欲求を持ち、それをコミニケーションなどと言い、綺麗事を言い美化して、自分の心理や信仰心などの内面を隠して、大人な態度とか、常識、コミニケーションなどと言いウソを付いている。

日本人や外国人の多くがあいさつをしたら返すことが正しいと信じているのは、人の気持ちがあまり分かる人ではなくて、なおかつ、例外除いて、あいさつを返させたい人と心理や内面で関わりたいと思っていないからだろう。
言葉と言葉の関り、あいさつとあいさつの関りという表面的な形だけのことをしていて、相手と心理などの深い部分で関わる気がない人が多いからだろう。
おいしいものを食べたい人の中には、おいしかったらそれでいいので、自分が食べる食べ物に農薬が使われているのかとか、
食べ物を作った人の心理に何も興味がないのと同じで、自分が関わった対象の一部分しか知ろうとしていなかったり、全く知る気もないのだ。

大勢と同じことをすることを常識、マナーなどと言ったり、誰かに働きかけることの多くをコミニケーション、社会のルール、交流などと言っているのは、例外除いて、自分が信じている信仰心や、ある言動をやった理由や目的、動機を、全ての人か、誰かに知られたくなかったり、自分の本心を自分でも気づいていなかったり、詳しい説明をする気もないからだろう。
本音や本当の信仰心を知られたら都合が悪かったりするのだろう。本当はやりたくないけどみんなと同じ人だと思われたいから
嫌々あいさつしたとかの本音を言わない人もいるだろう。

引きこもりと言われている人のことを自閉症と言っている人がいるが、
長期間誰とも話さなかったり、会わなかったり、家族としか会わないことを自閉しているなどと言っているのなら、
引きこもりと言われていない人と目くそ鼻くそで、引きこもりと言われていない人も、身の周りにいるほとんどの人に喋るかけることもないし、
働きかけたりしているわけがないし、喋りかけている人と関わる気もなかったり、全くか、ほとんど興味がない人に形だけ喋りかけるようなことをしていることを自閉していないと思っているのだ。両思いの人、仲のいい人に対しても、相手のほとんどに興味などなくて、
相手の一部としか関わっていないだろう。家の外に出ている人も、体は外に出ていても精神的、心理的に引きこもっているのだ。
ほとんどのことに興味もなく自閉していて、排他的で、精神的に引きこもっているような人が普通の人や一般人などと言われていて問題視されることはあまりない。

ほとんどの人に住所や電話番号や、自分のSNSやブログなどを教える気もなくても、自閉しているとはなぜ言わない?
個人情報や、それ以外の自分の色んなことを全員か、ほとんどの人に隠しまくっているのに自閉しているとか、排他的、閉鎖的とは言わずに、
一部の人を社交的やコミニケーション能力が高いなどと言ったり、人と喋ったりすることのほとんどをコミニケーションや社交、交流などと言いおかしなことを言っている。
誰かと喋ったり、誰かの体に触れることを社交、コミニケーションというのならば、誰でもコミニケーション、社交などやっているのに、
一部の人にだけ社交的、コミニケーション能力が高いなどと言っているのはおかしい。
関わる気がない人や、興味がない人、見下してバカにしているだけの人に形だけ働きかけて喋ったり、あいさつして、表面的に関わったんだと思うのは自己満足だ。
人が一部の人にだけ喋りかけたり、あいさつさせたがる理由、心理に全くか、ほとんど関心、興味がないのに分かっているフリしたがるから、
コミニケーション能力が高いとか、社交的などという言葉で言い表し、知ったかぶるのだろう。

相手が何であいさつしているのかの心理に全くか、ほとんど興味がないのに、社会のルールやコミニケーションなどと言っている人は「本当のことを知る気もない障害」とか「本当のことを知りたくない障害」とか
「本当のことを知りたくない病」とも言える。
あいさつ以外でも、本当のことを知りたくないと思っている人はいるだろう。
他人の心理にほとんど興味がない人の中には、人に大勢と同じことをやらせたがり、それを躾や教育、社会のルールなどと言って正当化してい人もいる。
金でやっていく世の中は不正だが、金信者も本当のことを知る気もない障害者とも言える。
本来、全てのものに値段、価格など付いてなどいないが、値段を付けることを正しいと信じていて、自分に都合のいいように思っていることは、
「自分に都合のいいように捉える障害」や「自分に都合のいいように思う病」などとも言える。

 

 

 

41.芸人の闇営業と金でやっていく世の中

 


以前、芸人が反社会勢力から金を貰っていて、芸人の方もウソをついていたというようなことがテレビで放送されていた。
弁護士の人がテレビに出てて「社会が許さない」という感じのことを言っていた。
私の推測では、世界中の多くの人はこの芸人の闇営業などと言われていることを知ってもそこまで悪いことだと思わなかったり、
なんら悪いとも、ひどいとも思わないだろうが一部の人はすごい間違っていることをしていると思い許さないのだろう。

仮に、50人や1万人や1000万人や一億人や30億人がこのことを、ひどいことをしていて許さないと思ったとしても、
それ以外の人は同じことは思っていなかったりする。
本人以外の誰か一人が不満を持っていても「社会が許さない」などと言えば、ものすごい大勢の人が不満を持っているかのようにも思えるが、実際は不満を持ってる人数の方が少ない場合もあるだろうけど。
はっきり具体的に言わずに、抽象的な言い方して、日本人は人の気持ちが分かるからはっきり言わなくても何が言いたいのか分かっている人が多いと思っている人もいそうだ。
日本人はあんまり人の気持ちを分かっていないだろうし、人のことはほとんど分かっていないだろうけど。

群盲象を評す(ぐんもうぞうをひょうす)という寓話(ぐうわ)がある。
郡盲象を評すの意味をみんなが同じ意味では使ってはおらず、
「凡人は大人物、大事業の一部しか理解できないというたとえ」などという定義、意味で使っていたり、「真理に対する見識がないことを言う」という定義、意味で使ってたりなど同じ意味で使っていない。
群盲象を評すの話を一番初めに作った人が何が言いたいのかを知ろうとするのではなくて、それぞれがこの話を自分の使いたいような意味で使っているところがある。
人間は言葉や色んなことを自分が思いたいように思っているところは誰にでもあることだろうが。

祭りなどで、同じような神輿を使ったり、儀式などやっているのも、
表向きは同じことをやっているが、それをやっている目的や動機、理由は人によって違う。
初めに何かをした人と同じことを今もやっていても、それをやっている動機、理由などが違うことを「形骸化している」など言うが、
同じことをやっていても、表向きの見た目は同じ外見や言動をやっていても、同じ目的、動機、理由ではやっていないのだ。

芸人の闇営業についてもみんなが同じことなど思っていない。
同じ対象について同じことを思っていないということだ。世の中のすべてのことに言えることだ。

同じ歌についてもみんなが同じことなど思っていない。
ある歌手の歌を10人の別の歌手が歌っている商品について、「それぞれの解釈」というようなことを言っていた人がいる。
その歌手の歌の歌詞や曲を歌詞や曲を作っている人が何を思って作ったのかではなくて、自分が思いたいように思っているんだろう。
例えば、ある歌の歌詞が全部ウソで書いているのに、誰かはその歌の歌詞を「実体験で経験があることを歌詞にしているんだ」と思って、自分が思いたいように思い、自分の捉えたいように捉えていてるのだ。
本当のことが分かっていないのだ。本当のことを真実、真理という言葉で言えば、
真理や真実が分かっていないのだ。
自分が正しいと思っているところがあるのだろう。根拠や裏付けのない自信を持っているところなど誰にでもあるだろうけど、
誰かは日本人を親から否定されてきて自信がないなどというのだ。
誰かが女親に対して「お母さんが赤ちゃんに思ってことが正しいんですよ」というような感じのことを言っていたが、女親が子どもに対して思ったことが間違っている場合もある。
誰かが「自分の感じたことが正しいんですよ。分かる人には分かるだろうけど」と言っていたが、同じことに対して人によって感じていることは違うがどちらも正しいと言いたいのだろうか?そうすると矛盾することになる。

同じことを経験したり、同じ人間や同じ生物を見ても同じことを思っていない場合がある。
同じことを感じたり、同じことを信じている人達のことばかり持ち出して、さも全ての人達が同じことを感じているかのように言いたい人がいるんだろう。それがあいさつにも表れている。
あいさつしてあげたらみんながあいさつしてくると思っている人がいるんだろう。
あいさつしたのにあいさつしてこなかったら不満を持つのだ。
自分は人間を知っていると思っていても、実際はあまり人のことは分かっていない。
だから、学校のあいさつ運動などという変なおかしいことをしていたり、会社で「新人には、まずあいさつ教えとけ」などと言っている人がいるのも、
人間のことをあまり知らなくて、自分の方が正しいとでも思っているのだろうけど。みんながあいさつしたいとは思っていないし、
みんながあいさつを正しいとは信じていないことが分かっていないし、理解できない人がたくさんいるんだろう。

芸人の闇営業と言われているものも、他人の姿は自分の姿で、
反社会勢力と言われている人達や、暴力団、やくざなどと言われている人たちの姿も、自分達の姿なのだ。
警察のことをある人は「国営のやくざ」や「警察とやくざは友達」とか「税金どろぼう」などと言っていたりすることを知らない人もいるだろう。
みんなが警察のことを良く思っているわけではない。
金でやっていく世の中など正しくもない不正な世の中、社会だが、そんな金でやっていく世の中に加担することで大勢の人が、
苦しんで、迷惑しているのだ。

芸人が詐欺をされた人から取った金を自分が貰っていたことを、詐欺にあった人に申し訳ないと思っているかのようなこと言っているが、
金でやっていく世の中に加担していることでも、大勢の人は苦しんでたり、迷惑しているのだ。
一般に詐欺などと言われていることにも、色々な言い方をして、オレオレ詐欺とか、振り込め詐欺グループとか、特殊詐欺とか言っているが、金でやっていく世の中自体が詐欺社会であり、法律では違法ではないし、刑法違反とかの警察に捕まるようなことではないから詐欺や泥棒だとは思わないのだろう。
自分や好きな人や多数派や善人だと思っている大勢の人達に問題は何もないとでも思っている人もいるのだろう。

年金や税金を国が取って、取った年金は老人に出し、税金は一部の人が使うものなどに使い、それを正当だと信じている金信者や法律信者がたくさんいるが、ただの合法の詐欺、合法の泥棒行為である。
年金や税金は人のために使われているから素晴らしいと思う人もいるのだろう。
本当にすべての人のことを良い意味で考えているのなら、金でやっていく世の中自体いらないのだ。
昔からみんなで助けいあいなどしていないから、一部の人に金を払ったり、
一部の人の面倒を見ることを人のためなどという言葉で言い表していて、おかしいことを思っているのだろう。
本来値段がついていない物やサービスに値段付けたり、何もないところに給料を貰える決まりを作ったり、罰金や損害賠償などで金を取れる決まりを作って正当化させている金でやっていく世の中自体が特殊詐欺社会だろう。

金でやっていく世の中自体が大きな詐欺、泥棒社会であることにほとんどの人は気づいていないのだ。
一人や少数の人が大勢が嫌がることをしたり、大勢が正しいと信じていない決まりを大勢の人に押し付けると独裁者や支配者とか、
独裁的、支配的、勝手、自己中心的、自分中心、人のこと考えていないなどと言って不満を言ったりするが、大勢が正しいと信じていることで大勢が苦しんでいたり、一部の人や生物が苦しんでいる場合は悪く言われにくく、独裁者や支配者などとは言われにくいのだ。
金でやっていく世の中を「独裁金社会」とか「集団独裁社会」とか「複数独裁社会」「多数派独裁社会」とか「大勢が金でやっていく社会が正しいと信じているから、金でやっていく社会が正しい多数派独裁社会」などと言うわけでもない。

例外あれど、大勢がやることは戦争、戦、乱などがいい例で悪く言われにくかったり、許されやすいところがあるのだ。
ことわざなどで、似たり寄ったりのことをいい表すのに猿の尻笑い、五十歩百歩、目糞鼻糞を笑う、医者の不養生(いしゃのふようじょう)などがある。
医者の不養生(いしゃのふようじょう)の意味が、人には健康に注意するように言っている医者が自分は健康に注意していない。
職場で先輩は仕事の決まりを守らないところがあるのに、新人や格下に見ている人には決まりを守らせようとしたりする。
独り言を言っている人にうるさい、迷惑と思ったり、不審者など言っていたりする人が、自分は他人と大声で喋っていたり、車を閉めるバンッという音や、ほとんどの音には不満は持たなかったり、うるさいとさえ思っていなかったり、自分の家族、親戚が何かを作る作る大きな音を止めるわけでもない。

刑法違反で人を逮捕する警察が自分たち警察も法律のすべてを守っているわけではなかったり、逮捕した人に暴力を振るった警察が暴行罪では捕まらなかったり、税金から給料を貰っている警察など公務員が合法で給料貰っているだけで、税金を取ることは合法の詐欺であり、泥棒行為だけど正当で正しいとされている。
「日本人は国家犯罪には甘い」と言っている人もいる。
日本人も日本人以外の人も多くの人は自分や多数派(大勢)や好きな人や、上に見ていて尊敬している人に甘い人が多いのだろう。
ただのえこひいき差別、変な差別だ。

同じことをやろうとしている人の複数の集団は例外あれど悪く言われにくく、その人たちがやろうとしていることを正しいと思っていたりして良く思っている場合は、その集団がやっていることを「常識、マナー、モラル、普通、普通の感覚、一般的感覚、良識、道徳、革命、進化、レボリューション」などという言葉で言い表して良く言うのだ。

間違っていること、正しくないことを罪、犯罪と定義づけするならば、みんな罪人、犯罪者で罪があるということになる。
金でやっていく世の中をまかり通らせて、さも正しいことのように仕立てて、正しくもない不正の金でやっていく世の中に加担して生きている犯罪者であるとも言える。
一部の人間だけに犯罪者や罪があるなどと言い、上から目線の優越心を持ち、いい気になっている人もいるのだろう。
自分達はほとんどの法律を知る気もなく、守っていない法律があっても、悪者や犯罪者とは言わないのだ。
金でやっていく世の中が罪や犯罪であるとも言わない。

一般に宗教と言われている集団の人たちが、その宗教の集団から出ていこうとしたり、教義を守らなかった人がいるからという理由で、身体暴力振るったり、部屋の中や牢屋に閉じ込めたらカルト宗教と言われやすいだろうが、宗教と言われていないものの場合はカルトとは言われにくいのだ。
払う金があるのに税金を払わない人に強制で物を差し押さえしたり、値段ついているものに金払わなかったり、誰かの家などから物を取って行ったり、
暴力を振るった人の中の一部の人などを逮捕しても、なぜかカルトとは言わないのだ。
カルト宗教と言われている集団をカルトという言葉で言い表しているのは、間違ったことをしているとか、おかしいことしているのが宗教という言葉で言われている集団の場合にカルトと言いたいのだろう。
宗教と言われているか、宗教と言われていないかの違いで、誰かがおかしいとか不正だと思うことをしている点では、誰でも誰かからおかしいと思われているだろう。
金でやっていく世の中に加担して生きている多くの人達もおかしいことをして、間違ったことしているわけだから、「カルト社会」とか「カルト金社会」とか「カルト金世の中」とか「カルト金世界」とか「カルト多数派社会」とか「カルト多数派金社会」「カルト集団独裁社会」「カルト多数派集団金社会」とか「カルト国家」「カルト法」「カルト人」などとも言えるのだ。

宗教や神と言うと嫌がったり、悪印象を持つ人が、同じようなことしていたとしても、国家や国家権力などと言葉が変わると印象が変わり、悪い印象を持たないのだ。
日本などカルト国家とも言える。国家権力と言う言葉があるが、誰かの定義では「国家が持つ組織的な強制力」と言っていたり、権力の誰かの定義が「他人を支配して服従させる力。支配者が被支配者に加える強制力」などと言っている。
権力者が正しいと信じている決まりを正しいと信じていない人や嫌がっている人に強制で押し付けたり、言うことを聞かない人を
強制で逮捕してもいいとしているのが国家や権力者と言われている人なのだ。国民の多くもそんな権力者に依存している人がたくさんいるのだ。

権力者とは言われていないが親や先生が子どもに暴力を振るったり、自分たちの信じていることを押し付けることを親や先生の言動がよほどひどいと思うことをしていなければ、正しくないことや誰かがおかしいと思うことをしていても躾や教育、愛の体罰など言って良くいい、正当化しているのも権力者と似ているところもあるし、親や先生以外でも、大勢のやっていることが正当化されやすく、人間の正しさのようになってるところがあるのも、
多数派という大勢も権力者の様になっている。個人の一人に対しても、気に入らない言動をとると「独裁者じゃねーんだからよ」などと不満を言ったり、独裁的、支配的と言われる。

自分の言いなりにさせたかったり、自分の思い道りにさせたいことを法律だからとか、常識やマナー、モラルなどと言ったりして、いい感じの言葉で言い表しているが、押し付けや、押し売り、支配や独裁などとは言われにくく、変な言葉遊びをしている。

北朝鮮などの一部の国を独裁国家などと言っているが、他国の姿は自分の国の姿でもあるということだ。日本も独裁国家だとも言える。
国家権力と言っているのが、相手が同意していなくても、法律の一部は守れとか、法律の一部を守らない人を強制で逮捕したり、罰金取ったり、牢屋に入れるようなことしたり、税金や年金を取り立てても支配や独裁とは言わないのだ。

一般に宗教と言われている集団の人が世の中を良くするためになどと言ったりして無理やり金を取って行ったりしたら、それこそ警察呼ばれて泥棒など言われて逮捕されるようなことを国家権力を持っている人がやれば許される差別社会、支配社会、独裁社会だ。

日本人や日本人以外の多くの人も国家権力持っている警察や政治家や官僚、大臣、市長、知事などや権力者ではないが王家の立場の人を上に見ている人が大勢がいるのだろう。
他の多くの人がやったこともない役職、立場の人で強制が許されていて、他の職業よりも上の立場についている人を特権階級を持っている人だと思い、
特別扱いして、人が嫌がるようなことを強制で無理やりやっていても許す人が多いのだろう。
これじゃあ、白人至上主義や、白人の黒人差別と何も変わらないだろう。
白人が昔、黒人を奴隷にしていたということには、多くの人は白人は間違っていることをしていて、ひどいことしているなどと思うのだろうが、
今も同じことを、白人以外も白人もやっているのだ。
奴隷という言葉で言っていないだけで国家権力を使うことも、それ以外の多くのことも、人や生物を奴隷にしているとも言えるけど。
金でやっていく世の中を社会貢献、人のために、社会参加などと言ったりして良く言っているが、実際は頭がおかしい社会なのだ。

大勢がやっていることは正しいと信じていたり、大勢がやっていることは許しやすかったりすることを、大勢至上主義や多数派至上主義などと言うわけでもなく、自分自身が大勢がやっていることが正しいと信じていることを、自分至上主義などという言葉で言い表すわけでもなく、
常識や当たり前、普通などと言うのだろう。

同じことを信じている人や、同じことをやろうとしている人の複数の集団を党という言葉で言うならば、金でやっていく世の中を正しいと信じて、金でやっていく世の中に加担しているこれらの人は「金党(かねとう)」や「金でやっていく世の中が正しいと信じている党」
「金信者党」などとも言える。党をグループや集団や団体や組合員など色んな言い方表すことも出来る。

絶対君主制という言葉があるが、日本は絶対君主制ではないと言うのだろうが、同じようなものだろう。
君主制の定義が「一人の支配者が統治する国家形態。君主が唯一の主権者である体制」など言われている。
日本では、民主主義や国民主権と言って国民に決める自由があるなどという風に見せかけているが、誤魔化しでありウソだ。
多数決で議員や知事などを決めることは多数派という大勢の方で決めているのであり、すべての国民が同じことを望んでいるわけではないし、
同じことを信じているわけではない。
権力者の一人が決めたことで大勢が嫌がっていたり、間違っていることだと思った場合は独裁者や独裁国家などと言われやすいが、
大勢が信じていることや、大勢がやっていることが優先されたり、まかり通っていた場合は独裁とは言われにくい。
誰かの信仰が否定されたり、嫌がっている人がいるのは同じことなのに言葉の言い方を変えるのだ。
例外除いて、一人や少数が得をして利益を得るのはダメだけど、大勢が得をして利益を得るのは良いという信仰を持ってる人がたくさんいるのだろう。

君主制のような言い方すれば、国民主権、民主主義や、それ以外のことでも多くのことは、多数派が望んでいること、大勢が決めたことや、大勢が信じていること、大勢が望んでいることに合わせて従えと思っている人が多いだろうから、「多数派君主制」「大勢君主制」「大勢に従え君主制」「多数派が君主である制」「多数派君主宗教」などと言えばいい。
これは、一般に宗教と言われているものに対しても、一神教を馬鹿にしてたり不満を言っている人が、自然宗教(アミニズム)の多神教は悪く言わずに受け付けたりするのも同じことだ。
例外除いて、一人や少数の人の思い道りになって大勢が不満を持っているのはダメだけど、一人や少数の人が嫌がっていたり、信じていないことを大勢が嫌がっていなかったり、信じていることの場合は大勢が望む方をまかり通らせて優先させてもいいという信仰心を持っている。
多くの人は下らない言葉遊びで都合のいいこと言って、誤魔化しているのだろう。
虎の威を借る狐をやっていて、例外除いて政治家、官僚、大臣、知事、市長や多数派などが決めたことに逆らわずに従えと言いたいのだろう。
「私が正しいのですよ。言うこと聞いて従え」と言うと、それを正しいと思わない人が大勢いたら、いかにも独裁者や独裁的、支配的と言われそうだが、大勢が納得していて、正しいと思っていることなどには、独裁者や独裁的、支配的などとは言われにくい。
あいさつがいい例だ。大勢があいさつ返してたり、近所や職場の人にあいさつする人も多いだろうが、同じことをしない人は変な目で見られたり、
格下に見られてダメ人間などと言う人もいる。もし大勢があいさつ返さなかったり、あいさつしていなかったらそんな悪評価や低評価はされないだろうに。
大勢や多数派が立派で偉い人で正しい人であるかのようになっている。
絶対王政というような言葉でに似せて言えば、民主主義や国民主権などと言っているのは、「絶対多数派王政」「絶対大勢王政」と言えばいい。
多数決で決める選挙だとか、それ以外のことでも大勢が求めて望んでいる方を優先させて、大勢の思い道りにさせろというようなことをやっているのだから、大勢や多数派が王様みたいになっている。
多数派がや大勢が王様で上の立場なんだから、例外除いて少数派や一人の個人は大勢や多数派に合わせて従えというような感じになっている。

反社会勢力などと言われている人達は言い方を変えたら、大勢と同じことしていない少数派(マイノリティー)であったり、
大勢が正しいと信じていることをしていない人達や、大勢に都合が悪いことをしている人達のことなどのことを言っている。

自分が信じていることの信仰心の押し売りや押し付けをしていることを、常識や当たり前、マナー、モラル、主義、普通などの言葉でいい表している。
大勢がやりたいことや、望んでいることをまかり通らすことは、わがままや勝手、自分中心などとは言われにくいが、大勢の望んでいることを優先させてまかり通らせろてほしいと思っていることを、自分中心とは言わず、人のためになど言ってカッコつけているのだろう。
人のためにと言っておいて、自分や大勢と同じことをしていない人を逮捕したり、見下したりしてバカにしていたり、人間扱いなどしなかったりする。
人のための人と言われている人と、自分のための人と言われている人も同じようなもので、自分の思い道りにしたいとか、自分が正しいと思っていたりしているのは同じことだ。言葉の言い方を真逆の言い方にして、さも違うことのようにして変な言葉遊びしている。

私は精神病は信じていないが、精神病と言っているのは一部の人をおかしいとか、劣っているとか、人間として正常ではないと思っていることを発達障害や人格障害などと言い、障害や病気などの言葉で言い表しているんだろうが、それならば、みんなおかしいところなどあるとも言えるが、ほとんどの人のことは精神病とか人格障害など言わずに変な差別をしている。
精神病や人格障害と言い、正常ではない人であるかのように言っているが、性格や個性などとは言わないのだ。

学校に行かない子どもを学校に行かせようとしている先生を、登校拒否を治す熱血教師などと言って良く言ったりするが、学校など行かなくてもいいが、学校に行くことが人として正しいと信じていたり、大勢と同じことをすることが正しいと信じている人などは学校に行かない生き方を間違っていておかしいなどと思っているから、登校拒否を治すなどと言うのだろう。

自分や大勢と違うことを感じていたり、自分や大勢と違う言動などをすることを正常であるとか、やってもいいことと認める場合は
「個性、オリジナリティー、自主性、考え方、人それぞれ、自分らしさ、性格、ありのまま、あるがまま、自分軸、勇気、進化、神、神が宿っている、
先見の明がある、マイウェイ、自分の生きる道、純粋、ピュア」などと言い、高評価して良く言い、同じように自分や大勢と違うことを感じていたり、自分や大勢と違う言動などをすることを間違っていると思ったり、気に入らない場合は「病気、障害、遅れてる、わがまま、勝手、独裁的、支配的、エゴ、自己中、自分中心、生意気、頭おかしい、失礼、礼儀がなってない、しつけがなってない、親に教えられてないから、変人、変わり者、罪人、犯罪者、心が狭い」などという言葉で言い表し、悪く言い、低評価、酷評、悪評価するのだ。

以前、何かで見聞したことに、昔ヨーロッパのどこかの国で、体調が悪くて病院に行った人に病院の先生が体調が悪い原因を「あなたが吸血鬼だからです」と言っていったみたいだが、今、体の病院や心の病院に行って、心身が不調な人にその原因をあなたが吸血鬼だからなどと言っていたら、ほとんど人は信じないだろうし、そんなこと言った病院の先生がおかしいと思うだろうが、それと同じようなことを今でもやっているのだ。
おかしいとか、間違っていると思っていることをしている人の全てに病気や障害とは言わないくせに、その中の一部の人にだけ病気や障害などと言うのだ。
誰かのことを「あの人おかしい」とか間違っているとか思っていても、おかしいと思っている人も他の人からおかしい人だと思われていたりするのだ。

身体障害者の様に体が不自由だったり、それ以外で体が不調な人を病気とか病人などと言うが、何で障害、病気などと言うのかは、人間として正常な体の状態ではないから障害、病気などと言っているのだろう。
精神病や心の病などと言い、障害、病気と言っているのも人として正常ではなくて間違っているとか、劣っていると思っているから病気や障害などと言うのだろう。
世の中や社会と言われているものが正しくもない不正でおかしい状態であることを障害、病気と無理やり言い表すなら、この金でやっていく世の中や、それ以外の色んなことも病気、障害とも言えて、「金でやっていく世の中障害」「金でやっていく障害社会」「「金でやっていく正しくない障害社会」「金でやっていく病気社会」「金でやっていく不正病気社会」
「金でやっていく差別病気社会」「病気社会」「病気世の中」「障害世の中」「世の中障害」などとも言える。

あいさつを初めにやってあげたら返せという決まり(ルール)を信じているあいさつ信者が多いと思うが、このあいさつも人として正しいことでもないのに正しいと信じてる人がたくさんいるのだ。
あいさつについて、正しくもないことを病気や障害と言うとすれば、「あいさつを正しいと信じ込んでいる障害」「あいさつ押し付け障害」
「あいさつ押し付け病」「あいさつを正しいと信じ込んでいる病」などとも言える。
私は一般に精神病と言われているものは信じていないが、正しくもないのに自分が信じていることが正しいと思っていることは
「決めつけ障害」「決めつけ病」「間違っていることを信じている病」「間違っていることを信じている障害」などとも言える。

あいさつやそれ以外で人と関わることで、自分が正しいと思っていることをしないとコミニケーション障害など言う人がいるが、何でこんなことを言う人がいるのかというと、自分が正しいと思っているのに、自分の思い道りの言動、態度を取らないことに勝手に不満を持っていて、おかしいと思い障害という言葉を使っているのだろう。
まあ、誰にでもあることだろうが、自分の自由は許すのに相手の自由は許さないところがあるのだ。
自分が望む態度を取らないことに不満を持って障害というなら、自分と違うことを信じていたり、感じている人がいることが分からなかったりすることを、「人の気持ちや信じていることが分からないところがある障害」などと言うわけでもなく、自分が正しいと信じているので、気に入らない人、
自分と同じことを信じていない人の方を問題視しているのだ。

金でやっていく世の中で一部の人は値段がついてるものに金を払わなくて逮捕されるが、多くの人はそういうことをしていなくて普通でまともな人などと良い評価されるが、こういう人たちは今まで泳がされてきている。
刑法違反をしていないから人として間違ったことなどしていないなどと信じている人もいるだろう。
今まで金でやりまくってきているが、この金でやっていく世の中もいつかは終わる。

ほとんどの人を普通のいい人と良く言いたい人は、自分たちが間違ったことを信じていたり、間違っていることをやっていることを、
「小さい時に親や先生や社会から刷り込まれた」「親に似た」「集合意識吸った」「誰にでも間違いはある」「人間完璧じゃない」などと思ったり、言ったりして多くの人はほとんどの人のことを悪くは言わなかったり、ほとんどのことを問題視しない人が多いと思う。
変な差別していて、例外あれど、逮捕されるようなことした人には本人だけが悪い、本人に問題があるとして、反省させるためとか、
懲らしめる、恥をかかせる、苦しめさせるために逮捕したりするくせに、
ほとんどの人が人が嫌がるようなことしても逮捕しなかったり、裁判起こされなかったり、罰金取られなかったりして差別していたり、間違ったことをやっていても本人のせいにはされずに他人のせいなどにされて本人は悪く言われないような差別をしている。

こうやって自分や多くの人を良く言いたがっていている人は、都合が悪いことは他人のせいにすることを自分に甘いとは言わなかったりする。
親や先生や社会に正しくもない間違っていることを刷り込まれてやらされてきたなどと言ってる人がいるが、子どもも大人も小さい時から、人の気持ちが分からないところがあって、間違っていることを間違っていると見抜くことが出来ていなくて鈍感で鈍いところがあるとは言わないのだ。
自分達に問題はなくて、小さいころに年上の親や先生や大人が間違ってこと教えたから大人に問題があると大人のせいにして、大人をスケープゴートにしている人もいる。
勝手なもので、大人が子供に自分が信じていることをやれとか言うと、それを正しいと信じていない人が否定してきて、
「あの人の言うこと信じなくてもいいよ」など言ったりする。
子どもが正しいと思うことをしていなかったり、間違っていると思うことをしていたら「大人が教えてあげないから」とか「大人が止めないから」などと言い、子どもを問題視はせずに大人が問題視されて悪く言われるのだ。
こういう不満を言う人は、人間や子どもが人の言うことを何でも聞いて、言うことを聞く人であると信じているのだろうか?
子どもも大人も人の言うことを聞く時と聞かない時があるのに、子どものことは大人のせいにする人もいる。
「教えてあげて」とか言ったりしているが、言ってもみんなが人の言ったこと信じるわけではないし、言うこと聞くわけではない。
イスラム教やキリスト教みたいに多くの人が知っている宗教をみんなが信じているわけではなく、日本人の多くはこれらの宗教を信じていないだろう。

人にやらされたと言って他人のせいにするが、同じことを正しいと信じていない人や、やらない人もいるのに、自分達普通の真面目な人達が騙されて
やらされたなどと被害者を気取り、人のせいにしている。
買わされたというのも同じことで、同じものを買わない人もいるが、買った自分達のことを問題視はしない人もいるのだ。
バカにして見下してる人の中の一部の人に、病気や障害など言うが、
人のせいにしていることを正当で正しいと思っていることを、病気という言葉で言うなら「人のせいにする病」とも言える。

 


脱金社会 金でやっていく世の中は不正だ11

2023年05月07日 | 脱金社会

 

35.不正な金でやっていく世の中で加害者と言われている人も被害者である

 

金でやっていく世の中は不正で間違っていて排他的、閉鎖的だ。少数派の金を払わない人が悪者や加害者という言葉で言い表されたりするが、
スリや詐欺師や万引き、窃盗や強盗をやっている人も金でやっていく世の中で迷惑しているだろう。
この人達は金でやっていく世の中の被害者とも言えるのだ。この人達は加害者と言われやすいが被害者でもあるのだ。
多くの人は金でやっていく世の中が正しいと信じている金信者だが、金信者が金でやっていく世の中を正しいと信じて辞めようとしないことに、
金非信者を巻き込んで大勢と同じことをさせようとしている加害者とも言えるのだ。
根拠なく金でやっていく世の中が正しいと信じきり、自分は間違っていないと信じている人が子どもにも大人にもたくさんいるのだ。
値段ついているものや、年金、税金などを払わない人や無職、ニートと言われている人を蔑んだり、下に見たり、死んでほしがっていて、
自分が正しいと信じていることをやらない人を受け付けずに、排除している金信者は排他的だが、社会貢献や家族のためにとか、人のためになどと言い、綺麗事を言って金でやっていく世の中を美化して、ウソをついて生きているのだ。

災害の被災者も精神的にも肉体的にも金やそれ以外のことで色々大変だろう。被災者に義援金を渡せば、助け合い、思いやり、愛などと言って良く言う人もいるだろう。お金ではなくて、お金を渡したいと思ったのは人のことをいい意味で思っているからなんだと言えばカッコが付くが、みんなで助け合っているのならば金でやっていく世の中は要らないのだから、金を払わない人などを逮捕して、人間扱いしていないのだから、
一部の人にいい意味で金を渡しているのを思いやりと言うのならば、汚もいやり(おもいやり)という感じでもある。
一部の人を一時的に金などで援助しているだけなのだ。みんなで助け合いをしていないから、不正である金でやっていく世の中などやっていて、合法なのをいいことに正当化させている人がたくさんいるのだ。

金信者の多くも金でやっていく世の中で苦しんでいるだろう。自分で自分の首を絞めているところもあるわけだ。
金でやっていく世の中という不正な世の中の不都合は、例外あれど少数派のせいにされやすいから、値段ついているものや、年金、税金を払わない人や、無職、ニートなどと言われている給料や印税という形で金を貰っていない人が悪く言われて、見下されやすい。

金信者もスリや詐欺師や万引き、窃盗や強盗と言われている人を刑法を都合よく利用して逮捕することを許している人が多いだろうが、
合法をいいことに無責任に、こんなことをまかり通らせて、泳がされて、野放しにされて、放置されていることに気づいていないのだ。
金信者が金でやっていく世の中が正しいという間違っている不正を根拠もなく信じている信仰心を常識や社会のルールなどと言っていって正当化しているのだ。
本来値段が付いていないものに値段を付けていること自体が、詐欺であり、それで金を取っていることは泥棒をやっているのだ。
刑法を利用して気に入らない人を刑法違反で捕まえて、体の自由を奪い、内面の自由も奪おうとしているのだろうが、
自分達がまかり通らせている、金でやっていく世の中をまかり通らせる自由には逮捕のような強制で止めさせられて、辞めさせられることがないので、
自分が正しいと根拠なく信じていて頭が悪くバカで鈍いところがあるのだ。
もし、大勢の人が金でやっていく世の中はおかしいとか、不正だとか、こんな世の中辞めろとか、金払わない人を逮捕しているのはおかしいなどと言っていれば、多くの人は大勢が感じていることが正しいと信じているだろうから、同じことを思う人が多いだろう。
大勢が金でやっていく世の中を正しいと信じていて、それを否定している人を一度も見聞したことがないか、一部の人が否定しているのは
見聞したことがあっても、少数の人が言っていることは正しいとは思わないのだろう。

自分達が生きてきた中で、誰かが嫌がることをしていない人などいるわけがないのだ。
誰かが嫌がることをしていることを加害行為をしている加害者と言うならば、誰でも加害者である。
誰かのやることで嫌がっていることを被害者と言うならば、誰でも被害者だ。

ガラが悪いと言えば、やくざや暴力団の人だと思う人も多いだろうが、金でやっていく世の中やそれ以外のことで正しくもないことを
正しいこととしてまかり通らせている普通の人や常識人と言われている人もガラが悪いところがあるのだ。
多数派というのも暴力団、やくざとも言える。国も国という暴力団、やくざだ。
誰かが政治の安倍政権のことを、やくざよりも怖いやくざが安倍政権だというようなことを言っていたが、
その安倍政権よりも怖いやくざが国民や庶民や普通の人と呼ばれている人だとも言える。
国民の多くは大勢と同じことをするということを隠れ蓑にして猫をかぶり、自分の本当の信仰心や本音を大勢の人の前で隠してコソコソしているところがある。
権力者側の人を利用して、気に入らない人を逮捕させたり、裁判を起こして自分の望む判決を裁判官にやらせようとしたり、
自分のやってほしいことを自分は直接やらずに他人にやらせたりする。
気に入らない人に身体暴力をやったり、嫌がらせをしに来たり、人のせいにして本人がいる所やいない所で不満を言っている。
直接的に身体暴力をやったり、影で物を壊したりなどしていなくても、気に入らない人を死んでほしがったり、自分や誰かから嫌がられている人だけを悪者に仕立てて、見下したり、不満を言うようなガラが悪いところがあるのだ。
自分や仲間や好きな人がやったら許すことを他の人がやれば許さない差別をしているガラの悪さがあり、悪徳レフェリーみたいなところがある。
影でコソコソ他人の悪口、中傷を言い、本人や大勢の見聞できる所で言っていないから控えめだとか言いたい人もいるだろうが、
本当に控えめだったら言わないだろう。
値段が付いているものに金払わないことや、それ以外のことで、警察が逮捕することを多くの人は許しているだろうが、
自分が直接逮捕したり、牢屋に入れるということをしていないだけで、逮捕を許している人は間接的に人を逮捕して牢屋に入れることに加担しているのだ。
直接やってないからやっていないことにはならない。
金でやっていく世の中自体がガラの悪い暴力社会だとも言えるのだ。金信者もガラが悪い人だとも言える。
金でやっていく世の中が正しいという信仰に従わない人を、警察を利用して逮捕したり、税金Gメンの差し押さえをすることを許したり、
本人や本人の家族などのことも悪く言い、見下している人を身体暴力以外の形で暴力をやっているとも言える。金信者という暴力団だとも言える。
やくざの人や、刑法違反で捕まっているような人や、大勢が正しいことだと信じていることをやらない人をガラが悪い人と思い、見下している人
がたくさんいるだろうが、他人の姿は自分の姿だが、全く同じことをしているわけではないので分かりにくいのだろう。
ガラが悪いと誰かのことを思うのは、自分もそんな人なのだ。

金信者は金でやっていく世の中が正しいのに金払わない奴の言い分なんか聞かなくてもいいと、
自信満々に自分が正しいと信じているのだろうが、金信者は今まで泳がされすぎてるのだ。
大昔は金でやっていく世の中などなかった。
大勢の金信者が勝手に金でやっていく世の中が正しいと信じて異常でおかしい金社会をまかり通らせているのだ。

 

 

 

36.排他的、閉鎖的なところがある人類

 

言葉は言葉遊びで、自分が勝手に言葉に定義、意味付けを付けて、自分の使いたいように言葉を使っている。
金でやっていく世の中は正しいと信じて、一部の人が使う物や食べ物などを作ることを人のためになどと言えば綺麗事に仕立てることが出来るが、
値段ついているものに金払わない人を逮捕したり、給料や印税という形で金を貰っていない人を例外あれど、見下したりしたり、死んでほしがったりしている金信者は排他的、閉鎖的なのだ。自分の都合のいいものや人は受け付けても、自分に都合の悪いものや人や、間違っていると思うことをしている人を受け付けない人達。
金でやっていく世の中は排他的、閉鎖的な間違っているウソの世の中、社会だ。
排他的、閉鎖的なところがある金信者が合法で正しいと信じているから、この金でやっていく世の中を辞めようとはしない。
大勢と同じことをしていない金を払わない人を牢屋の中に入れたり、見下すようなことをして、金でやっていく世の中を正しいと信じて
排他的、閉鎖的なことをしている人が社会への貢献をしていて、人のためになっていると綺麗事を言って褒められて良く言われたりする。

あいさつでも、関わる気がない人やどうでもいい人にあいさつしたから、排他的、閉鎖的ではないという言葉で言い表す人もいるのだろうが、
一切知る気もない人や、ほとんど知る気もない人、興味ない人に対して排他的、閉鎖的だけど、形だけあいさつしているとも言えるのだ。

知らない人にあいさつしなくてもいいと自分の子どもに教えているから、マンションでのあいさつを禁止してほしいと言っている親のことを、
日本人がおかしくなっているとか言っている人がいる。
この親と知らない人にあいさつをしてもいいと信じているあいさつ信者は目くそ鼻くそ、五十歩百歩なのだ。
知らない人にあいさつしてもいいと信じている人は、所詮ほとんどの人にあいさつなどしておらず、ほとんどの人に初めにあいさつしなくてもいいと勝手にあいさつの決まりを決めつけて信じている。
あいさつ信者があいさつ返しが正しい信仰を禁止されたくない、
否定されたくないと信じているくせに、自分と同じことを信じていない人には排他的、閉鎖的なのだ。
あいさつ信者は、一部の人とあいさつで関わってやろうと一方的に自分の信仰、欲求を押し付けているが、あいさつや、それ以外のほとんどのことで
あいさつさせたい相手と関わる気もないのだ。

知らない人で大切ではない人にあいさつしてあげたら、絶対にオウム返しをしなければいけないと勝手に信じて、人を
自分の言いなりにさせようとしていることを、コミニケーションや社会のルールなどと言いウソついているあいさつ信者の人もいる。
ごく一部の知らない人にあいさつさせたい人が、知らない人にあいさつしなくてもいいと信じている人を非難して叩く滑稽なバカさ。
知らない人にあいさつしてもいいと信じている人が、みんながあいさつ返しを正しいとは信じていないことを知らないのだ。
自分のことは知ってほしいところはあるけど、他人のことはあまり知る気がない人が多いだろうけど。
知らない人にあいさつを返すことが正しいと信じ切っている大勢のあいさつ信者は、あいさつが正しいことではないことに気づいていないのだ。
知らない人にあいさつをしなくてもいいと信じている人と、知らない人にあいさつしてもいいと信じている人は、
どちらも一部の人にはあいさつするけど、ほとんどの人にはあいさつしていないし、ほとんどの人にあいさつしていない点では全く同じなのだ。
信じているところが違うところだけを強調して真逆の様に思える人たちが別の所では同じところがある。
知らない人にあいさつしてあげたら返してほしいと勝手に欲求を持って、自分に合わせてほしいと思っている人が、
あいさつ自体を正しいとは信じていないし、やりたいとは思っていない人がいることは知らないか、知っても相手に合わせようとは思わずに、
不満を持つあいさつ信者もいるだろう。

あいさつを返されないことで自分の思い道りにならずに嫌な気持ちになることを嫌がっているあいさつ信者がいるが、
あいさつを返させようとして、初めにあいさつしてくることを嫌がっていたり、迷惑している人がいることを知らない人が多いのだ。
人が嫌がることしている点でも同じだ。
ごく一部の人を自分の気分次第にあいさつしたりして、自分の言いなりにさせたくても、相手の信仰心や心理や体調を全くか、
ほとんど知る気もなく、排他的、閉鎖的なところがあるあいさつ信者が、あいさつしたから排他的、閉鎖的ではないと言えば綺麗事でカッコが付くが、
相手の内面や体調を全くか、ほとんど知る気もない排他的、閉鎖的な自己満足のあいさつをしているだけだ。
言葉と言葉で関わったと自己満足して、相手の心理とは全くか、ほとんど関る気もないのだ。こういうことをおかしいと言う人は、
ほとんどいないだろう。大勢がやっていることは良く言われやすいからだ。
あいさつ信者はあいさつ返しが正しいという信仰が禁止されるのは嫌なのだろう。

学校であいさつしたら返すことが正しいと押し付けるために、あいさつ運動などという一部の先生たちが信じているあいさつが正しい信仰を押し付けて、信仰心の押し売り、あいさつ宗教の押し売りをしているが、大勢があいさつ返しを正しいと信じているので、
あいさつ運動をおかしいと思う人はほとんどいないだろうし、それを禁止しなければいけないとは思っていない人の方が多いだろう。

あいさつは一方的に初めにやって、相手があいさつ返ししたら一方的ではない、という言葉で言い表す人が多いのだろうが、
一方的にあいさつを初めにして、あいさつされた人が喜んだり、正しいことだと信じていれば良く言われやすい。
セックスや性的なことと似ていて、セックスしたり、キスしたり、お尻や胸を触ったのが、性的両思いの人ならば嬉しかったりして、
許しても、他の人が同じことをしたら強姦、レイプとか痴漢や痴女、犯罪者などと言われるのだ。
あいさつを返せというのを嫌がっている人もいるが、人が嫌がることをしている点では同じなのだ。
大勢が正しいと思うことや、大勢が嫌がらないことを嫌がるとバカにされたり、見下されたりしやすい。
誰でも人が嫌がることなどやっているのに、刑法違反ではないから捕まらなかったり、刑法違反でも捕まらない場合もあり、
差別しているだけだ。

何かの言動をやっても、誰かが嫌がっていなければ悪く言われずに、誰かが嫌がったら、嫌がっている人などから悪く言われたりする。
性的なことはお互いが両思いで良い思いをしていることをコミニケーションなどと言うが、あいさつや他人に喋りかけることは、相手に嫌々喋っていたり、あいさつを正しいと信じていない人が嫌々あいさつしても、コミニケーションと言い良く言う人もいるのだ。
変な言葉だ。他の人よりたくさんの人にあいさつしている人を褒める言い方に、誰よりもあいさつできる人などと言って良く言うバカな人がいるが、
誰よりも一方的な人とか、誰よりも人の信仰心や気持ちを読もうとしていない人とか、誰よりも支配的な人や、誰よりも表面的な人などとは言わないのだ。
関わる気もない人や大切ではない人にあいさつすることは素晴らしいと思うような人は褒めるのだろう。
あいさつをした人の心理の方に興味がある人はほとんどいないだろう。うわべの表面しか見ていないのだ。

自分は人の何かについて禁止などしていない、禁止令など出していないと思う人もいるだろうが、誰でも、やったらダメだと禁止していることはあるだろう。
法律のように言葉であからさまに人に分かるところに決まりを出しているものは分かりやすいいが、内面で禁止だと思っていたり、影で人に不満を言っているのは、自分が正しいと信じていることをやらない人に、それはダメだと禁止しているのだ。
あいさつでも、あいさつ返しをしないことを禁止しているから、あいさつを返さないと不満を持つ。
マンションでのあいさつを禁止してほしいと思っている人のことをおかしいと思っているあいさつ信者は、
あいさつを返さないことを禁止しているのだから、あいさつにおいて何かを禁止しようとしている点では同じで、似たり寄ったりだ。
しかも、あいさつ返しはオウム返しでなければいけないと決めつけて、相手が会釈しても変な目で見たりして、おかしいと思っているあいさつ信者がいる。オウム返し以外のあいさつを禁止しているあいさつ信者もいるのだ。
あいさつして人との関りと言えばカッコが付いて綺麗事になるが、あいさつしている人は排他的、閉鎖的なところもあり、
自分が望む態度を取らずに、あいさつを返さなかったり、オウム返し以外のあいさつ返しを受け付けなかったりして、排他的、閉鎖的なのだ。
自分のやり方に合わせないからあいさつを返さない人が排他的、閉鎖的と思う人がいても、自分達も自分が信じているやり方に合わせない人を受け付けなくて、嫌ったり、見下したり、バカにしたり、
自分と同じことを信じさせようとしたりしていて排他的、閉鎖的なのだ。
あいさつや金でやっていく世の中以外のことでも、誰でも排他的、閉鎖的なとこなどあるのだ。

自分が正しいと信じていることをやらないことを逃げているという言葉で言い表している人がいるが、誰かが正しいと思うことをやらないことを逃げていると定義づけるならば、誰でも逃げでいるのだ。
あいさつしてやったらオウム返しすることが正しいと勝手に信じている人が、オウム返しであいさつ返した人に対しても、
無反応な人に対しても、なんであいさつ返したのか、無反応なのかに全くか、ほとんど興味などなく、相手のことを全くか、ほとんど知る気もないことは相手から逃げているとも言えるが、全くか、ほとんど関わる気もない人にあいさつしたから相手から逃げていないと言えばカッコが付くだろう。
以前、あることで同じ家に住んでいる叔父が私のことを逃げたという言葉で言い表していたのだが、叔父も、それ以外の人もみんな色んなことから逃げているのだ。ほとんどのことに興味がない人の方が多いだろうが、
興味がない対象のことを無視しているとも言えるし、その興味がない対象から逃げているとも言える。

 

37.人は同じ人間ではないので嫌がることが違う

 

人が嫌がることは人によって違うので、全ての生物が嫌がることをせずに生きることなど出来ないだろう。
大勢が嫌がることをやっている人は悪く思われやすいが、大勢が嫌がらないか、嫌がっていても許容範囲内ならば嫌がっていることを
やってもいいと許される。大勢が嫌がらないことを嫌がると心が狭いとか、変わっていると言ってバカにされたりする。

バイクに乗っている人や、バイクに乗らない人がバイクの音でうるさいと思っても、自分もバイクに乗っていて利点があるし、
自分もバイクで音を出しているからお互い様だと思っていたり、バイクに乗らない人がバイクの音を嫌がっていても、
バイク以外のことで自分がやることなどで他の人が嫌がることをしているからお互い様と思う人もいるだろう。
バイクの音で嫌がっていても暴走族の人が出している音のようなかなり大きい音は許容範囲外で辞めてほしいと思っている人も、
それ以外の音は許容範囲内の人もいるだろう。人によって許容範囲が違うのだ。
同じバイクの音でも自分や好きな人が出していればうるさいと思わなかったり、うるさいと思っても大目に見る人や、嫌いな人が同じ音を出していたら許さない差別をする人もいるだろう。

白人の黒人差別は有名だが、黒人という理由で嫌ったり見下す人には、嫌がったほうが間違っていておかしいと思われやすい。
他の人種差別や民族差別も嫌がられた方には問題がなくて、嫌がった方が問題視されやすい。
政治家の決めたことに対して思っていることが逆のことや違うことを思っていたり、同じ顔の人をブスと言う人もいれば、かわいい、きれいという人もいるのだ。

誰かが嫌がっていることをやらなくなる理由も、嫌われて不満言われたり、
嫌がらせされたりして攻撃されるのが嫌だからという理由の場合と、
相手が嫌な気持ちになったら悪いからという理由などでやらないのでは、やらない理由が全然違う。
人が嫌がることをやってはいけないと思っている人が自分も相手や他の人が嫌がることをやっているのだ。
自分や好きな人などの少数が嫌がることをしてほしくないと思っている人が、どうでもいい人や嫌いなだけの人が嫌がることはしてもいいと
思っている人もいるだろう。
嫌がっている人に嫌がらせする人もいれば、何もしない人もいるだろう。

 

 

38.同じことを思っていない人間達

人間の都合のいい時の仲間意識、不都合な時のトカゲのしっぽ切りで、
日本人の中には、ある時には「日本人は」と日本人を同じ人間のように言い、別の時には同じ日本人でも同じ日本人ではないと思ったり、言ったりする。

人間のことだけではなくて、土地柄についても、大阪と京都は違うと思っている人がいて「大阪はガサガサしている。京都はゆったり」とケンミンSHOWというテレビ番組に出ていた京都人が言っていた。同じ日本人でも県民性によって性格が違うなどと言っているのだ。
京都人も京都人の誰かを嫌っている人いるだろうし、大阪人も大阪人の誰かを嫌っている。
近所や学校、職場の人のことを同県民でも嫌っている人の方が多いだろうけど。
このケンミンSHOWで県民が言っていることも、台本があってヤラセで県民が言っていると思う人もいれば、県民以役者がヤラセで演技で言っていると思う人もいるだろうし、同じ番組を見ても同じことなど思わないだろう。

ケンミンSHOWに出てきたごく一部の人が奈良、和歌山、滋賀には「何もない」など言っていたが、何もないわけないのだが、はっきり具体的な言葉で言っていないのだ。
「自分が好きなところや楽しめる所がない」という意味や「何もないと言った県のことをほとんど知らないし、知る気もない」ということを言いたいのだろう。
田舎に興味ない人や、田舎にたくさんある山に登ったりしない人や、店や有料で入る遊び場がたくさんないところを、田舎には何もないという人がいるのだろうが、都会の方が店がたくさんあるから、その店で遊んだり、食事することができるから都会の方がいいと思う人もいるのだ。。

大阪人の誰かが「大阪を愛する人は大阪から出て行かへん」と言ってたり「大阪には何でもある」など言っている人も、
大阪のほとんどの場所に行ったことはないだろうし、大阪のことや大阪に住んでいる大阪人のこともほとんど知らないだろうけど。
以前、ユーチューブで大阪の岸和田のだんじり祭りの動画に、岸和田に住んでいる人らしき人がだんじりについて悪評価を書いていたが、
大阪人が大阪や大阪人のことになんでも好意を持っているわけではないのだ。
私や私の家族が以前20年ぐらい大阪に住んでいて、私の親は30代の時に大阪に引っ越しているわけだが、大阪のことを「大阪はいいとこ、また大阪に住みたい」とか「華やかな大阪に住めてよかった」というようなことを言っていた。
後から「華やか」の意味を聞いたら、一字一句はっきり覚えていないが「たくさんの人がいて活気があった、たくさん店があった」というようなことを言っていたが、私の母親も大阪のほとんどの場所に行っていないだろうし、ほとんどの大阪人を見たこともなければ、会ったこともないだろうが、大阪はいいとこなどと言うのだ。
人混みが嫌いな人は都会とか人口が多いところは好まないだろうし、店がたくさんあっても、欲しいものが売っていなかったり、
欲しいものがあってもそれを買う金がなかったら買えないわけだから、たくさん店があっても好まない人もいるだろう。
大阪のことについて、姉の知り合いが「大阪は怖いとこ」と言っていたらしい。大阪でどういう経験したかによっては大阪に対する印象も変わるのだ。
みんな主観的に物を言っているので、同じ場所や同じ県民や民族、同じ人種についても人によって言っていることが違うのだ。
私の母づてに聞いたことだが、誰かが岡山について「岡山は埼玉と同じで何もないところだと思っていた」というようなこと言っている人がいたみたいだが、その人は岡山には色んな店が少ないと田舎だと思っていたら、想像よりは店の数が多かったとか思っていそうだ。
岡山県のほとんどは山で山間部に行けば、いかにも田舎だと思うだろうけど、他県から岡山県の岡山駅に着いた後に駅の周辺を見れば、ビルがたくさんあったりして田舎とは思わない人もたくさんいるだろう。同じ県についても、その県のどこを見るかによって印象など全然違う印象を持つのだ。

同じ人間と一緒にいて嫌がる人もいれば嫌がらない人もいるのも同じことだ。
同じコントや漫才を見ても面白いと思う人もいれば、面白いと思わない人もいて、自分の好みに合うと褒めるたり、好きになり高評価する。
みんなが知っていると言っていることのほとんどは、「少しだけ知っている」「ちょっとだけ知っている」「それについてほとんど知らない」という
意味で「知っている」という言葉で言い表しているんだろう。

ユーチューブで新潟県のことを取り上げていたテレビ番組を見たのだが、この番組のコメントに「誰かが新潟は人が住むところではないと言っていて、新潟出身の人が怒っていた」という感じのことが書いてたが、
一方で、マツコデラックスという人が「東京は人が住むところではない」というようなことを言っていた。
都会好きは都会の一部のことを良く言い褒めて、田舎をつまらなくて、楽しむところがないと思っている人は田舎を悪く言ったり、何もないと言う。
この番組の別のコメントに「まだ取り上げられるだけいい。他の県は存在さえ忘れられている」という感じのことが書いてあったと思う。
別のテレビ番組で何かのランキングで日本で一番人気がないパン屋として取り上げられていたパン屋があるのだが、このランキングはウソだろう。日本にあるパン屋のほとんどを日本人は知らないだろうし、知っているパン屋にみんなが行くわけでもない。ほとんどの店は取れあげられていない。
あの人嫌い、あの人は悪人と言われるのは、誰かからその人のことが知られているから嫌いと言われているのだ。
ほとんどの人は知られていないので、好きとか嫌いとか善人や悪人などという以前の話だ。

日本人が民族的優越感に浸って優越したい時は、日本人と日本人以外は違って日本人の方が優れているというようなことを言い、
実際は日本人は日本人のことを同じ人間だと思っていないので、ある時には美形と美形以外に分けたり、高学歴と低学歴や、引きこもりと引きこもり以外や無職と働いている人や、子どもと大人や、悪人と善人や、バカと頭がいい人や、身体障害者と健常者や、精神病者と精神病者以外や
セックスしたことある人とない人、育ちがいい人と育ちが悪い人、しつけがなっている人としつけがなっていない人や、嫌われている人と好かれている人や、暗い人と明かるい人、いじめている人といじめたことない人や、
いじめられている人といじめられていない人や、あいさつできる人とあいさつできない人や、右翼と左翼や血液型性格判断や星座占いなど色々と日本人のことを分けていて同じ人間だとは思ってはいない。

ケンミンSHOWで、同じことを言っていても大阪人が言ったら本音で言っていて、京都人が言ったら裏があり本心では言っていないと大阪人の年配の女の人が言っていたり、京都の人は腹黒いなど言っていたが、同じ番組で大阪人が何かを断る時に、考えとくと言えば断っているという意味だと言っていて、「いらないと言ったら、相手が傷つく」というようなことを言っていて本心を言っていないのだ。
大阪の人は本音を言うなど言っているが、本音の言動を取らない場合もあるのにウソを言っているのだ。
京都の人が本音で言わずに裏があると大阪人の誰かが思うのは、自分達大阪人も本音で言わないところがあるのを
京都人に大阪人の姿を見ているのだろう。他人の姿は自分の姿だ。
値段ついているものや、税金、年金を払うことを正しいと信じている間違ったことを信じている人が、値段ついているものに金払わない人を泥棒と言っているのも自分達の姿で、金でやっていく世の中で人から金を取るという合法の泥棒をやっていることを大勢が許しているが、
他人の姿は自分の姿なのだ。

 

 

39.一部の人を悪者にしてスケープゴートにしている

 

自分以外の政治家、議員、知事などに色んなことを決めさせて、自分達に都合がいい結果になると、自分達は正しいことが分かっていたり、
人生経験豊富で人や物事を見抜けるから、ちゃんとした人を選挙で選んだんだと自分たちに高評価を下して良い評価をする人もいるだろうが、
自分達に都合が悪い結果になったりすると、自分たちのせいではないとして、自分たちの代わりに権力者などが色んなことを決めたことに
不満を言ったり、攻撃したりする。都合のいい時の仲間意識、不都合な時のトカゲのしっぽ切りをする人がいる。

はっきり覚えていないが、以前、何かの本に書いていたのだが、海に船で航海する時に、何かの決まり事を決めて、それを誰かに守らせて、
船の航海がうまくいかなかった場合は、決まりを守らせていた人が決まりを守らなかったから船の航海がうまくいかなかったとして、
その決まりを守らせていた人を殺していたという感じのことが書いていたような気がする。

気に入らないことや、望んでいないことが起きた時に、自分や、ある人たちのせいにはしたくない時に特定の一部の人のせいにするようなことは
昔から日本人も日本人以外もやってきていることだろう。
殺すというところまではしていなくても、何かしらの攻撃をしたり、悪者の汚名を着せるようなことはやってきてるんだろうけど、それは今でもやっているのだ。

いい例が、国、政治、行政などの職に就いている人に不満を持つと、
その不満を持った原因は政治、行政をやっている人のせいであるとして、この人たちに不満を言ったり、攻撃したりするのだ。
「国が悪い」「政治家が悪い」など思ったり、言ったりして、この人たちだけのせいにする人もいるのだ。
多くの人が政治家とか政治や行政の職に就いている人に依存して、自分たちの代わりに自分たちに関する様々なことを
決めてもいいと許して、この人たちが自分達国民に関わることを決めることを許しているのに、権力者側が決めたことが気にいらないと被害者を気取って不満を持つようなおかしなことを思っているのだ。
そんなに不満があるなら、自分たちのことは自分達でやればいいことを何で政治家や行政の人などに依存して甘えてるのかについて問題視する人はあまりいないだろう。
政治家、大臣、官僚とかの国の仕事をしている人には厳しく冷たいところがあり、それ以外の国民には甘いところがある人もいる。
例えば、ある言動を取ったのが大人なら許さずに不満を持つのに、子どもがやったら許すのも同じことだ。要は差別しているのだ。

大勢が住んでいる国で、大勢に関わることについて、その国の国民全員の満場一致は大体ないだろう。
そうすると、常に誰かは不満を持つということになる。
政治家とか国の仕事をしている人に不満を持っている人のことだけを取り上げると、政治家たちは、国民のことを考えていない人などと言われ悪評価されるが、同じことを決めても、それに満足して賛同している
国民もいるわけであり、賛同している人のことを取り上げたら、政治家は国民の望むことをやった人だということになる。
大勢の国民がいる中で、国民みんなが同じことを信じているわけもなく、同じことなど望んでいない。

自分の思い道りにいかずに不満を持った時に、自分や好きな人のせいにしたい人はあまりいないだろう。
自分に甘いのだ。他の人も「日本人は自分に甘い」と言っている人もいるが、そうは思っていない人もいる。
自分や好きな人や善人だと思っている人のせいにしない代わりに、大勢から嫌われていたり、悪人だと思っている人のせいにしやすい。

世の中の一部のことでうまくいかないことなどを誰の責任にするのか、誰のせいにするのかは、大体いつも同じ人達の責任にされやすい。
子どものことは、例外あれど、大人のせいにされやすく、その中でも親や学校関係者のせいにされやすい。
国民が不満を持っている一部のことは政治家、官僚、知事などの権力者側のせいにされやすい。
それ以外では、会社では立場が上の社長などのせいにされやすい。大勢から嫌われている人や、自分が嫌いな人や
格下に見ている人のせいにもされやすい。
日本人を悪く言いたくない人は、日本人がおかしなことしたと思ったら、日本人以外の外国人のせいにしたりするし、
人間を悪く言いたくない人は「罪を憎んで人を憎まず」とか言ったり、「吸血鬼がやらした」「病気のせい」「疲れのせい」「運が悪い」など言って人のせいにはしないのだ。
はっきり言わずに誰かを抽象的な言い方で悪く言う場合「社会が悪い」など言ったりする人もいる。

自分が嫌な気持ちになって不満を持った時に、自分可愛さがあったり、自分が正しいと思っていたりするので、自分以外の人のせいにしやすいのだ。
気に入らないことがあった時に、自分以外のせいにして生きているところがある無名の大勢の人たちは、普通の人や一般人などと言われていたりするが、この名もなきその他大勢の人にも問題はあるのに、
大勢の人と同じ人間であるとして片づける人もたくさんいそうだ。

身代わり人形などというものがあるが、自分たちの災厄の身代わりになってくれるものなどと言ってるみたいだが、この身代わり人形は紙や草や木などを使ったとネットに書いていた。
今も人間以外や自分以外の人間に都合の悪いことを擦り付けて他人のせいにしているところがある。
自分可愛さや我が身可愛さがあるから自分のせいにはせずに他人などのせいにしているところがある。

自分が不快になったり、疲れる原因や理由を他人のせいにしたり、嫌いな人のことを「エネルギーバンパイヤ」や「エナジーバンパイア」や「エネルギーを吸う人」などという言葉で、言い表す人がいるが、
これも身代わり人形のようなものだろう。
自分が不快だったり、疲れているのは自分のせいではなく、自分に問題があるのではなくて、他人のせいであると信じているのだろう。
暗い人やあいさつをしてほしいのにしない人や、不機嫌な人や大きい音でドアを閉める人をエネルギーバンパイヤと呼んでいる人がいるが、
みんながこういう人を嫌わないし、不快になったとしても不快になった原因をその人のせいにはしない。

金でやっていく世の中を正しいと信じている金信者は、値段ついているものに金を払わない人を間違っている悪者に仕立てて泥棒、犯罪者などと言うが、全てのものには本来値段が付いていないのに、値段を付けたり、金を取っているのが不正で間違っていることに気づいておらず、
金信者の方が合法で商売や罰金や税金、年金などを取って、合法の泥棒や詐欺行為をしている合法犯罪をやっているとも言えるのだが、
少数派の値段ついているものに金払わない方をスケープゴートに使い、金でやっていく世の中は正しいと信じて疑わないのだろう。