「先生どないですやろ?」
『いや大丈夫ですよ。』
三和土から一段高くなった玄関先に靴も脱がずに腰かけたままN先生はにこやかに笑う。
そしてお決まりのセリフが後に続く。
『この子はやったらできる子ですよ。』
勉強や運動など何かが特に秀でていることもなく極々平凡な子供だったろう。
敢えて褒めるとすりゃ陽気な性格くらいだろうか。
いや待てよ、逆に通知表の備考欄には落ち着きのない子と書かれていたこともあったっけな。
この日は家庭訪問の日。
この後にも何軒か廻る予定があるからと家に上がるのを遠慮された為、
狭い玄関先でお茶と田舎饅頭だけ出して母子、担任の3人が座って話すことになってしまった。
親にとっては子供の出来は常に心配の種である。
「センセ、来年になったら中学ですやろ?中学から習う英語は横書きで
左から書くのにこの子未だにギッチョが治らんのですわ。」
何をするにも左利きの私は字を書くのは勿論、草野球で打つのも投げるのも
そうだったし、たまに連れて行ってもらう当時大流行のボーリングも左、今ならゴルフも当然左なのだ。
字を書く事だけはかなり前から手を叩かれたりして右手に鉛筆を持たされた
気がするがどうしても治らずそのままになっていたのだ。
『お母さん、まず心配には及びません。
アメリカにもイギリスにも左利きの者はいますが、彼らが字を書いたり
生活に困ったなんて話は聞いたことありませんからね。』
N先生の話に納得、安心したのかそれ以降は母親に矯正されることはなく、
今の年齢になっても無事にギッチョのままなのは先生のお蔭かも知れない。
少なくとも先生の口添えで伸び伸びと左手を使えたのは間違いのない事実である。
前年大学を卒業し我がクラスの担任になったN先生。
今では見かけなくなった熱血漢の薩摩隼人さ。
ビンタ程度なら数回、授業中にチョークを投げつけられたりするのは茶飯事で、
6年生終わりの頃にはは物干し竿を教室に持ち込み教壇からコツンとやられたのも懐かしい。
今なら体罰教師と呼ばれて同じことをするのは全く無理だろうが、
先生に叱られるには当然それなりの理由があり生徒にかなりの落ち度が
あるのは明白で誰一人として親に告げ口する者も当然のようにいるはずはなかった。
逆に親に知れたりすれば更に家庭内でぺナルティが加わるのも間違いなかったからな。
教師の方も心得たもので大人が本気で子供を殴ったりする訳もなく、
大きな怪我を負わすなんてこともないよう手加減してくれてるのは大人になって判る事。
子供心には確かに怒らせると怖かったけどな。
たまの休日にはクラスメイト何人かと独身寮に押し掛けたり、
安月給だったろうに大勢を遊園地に連れて行ってくれたのもよく覚えている。
人間を50年以上もやってきて60の足音が聞こえてくる歳になると里心とでもいうのか、
何故か幼馴染を人さみしくなって思い起こしたり生まれ育った場所に郷愁を抱いてしまうのさ。
子育ては一段落し、場合によっては孫持ちもいるし、
まあ成人すれば一応は親の最低限の義務は果たしたと言えるだろう。
親の介護、看病もしたか出来たかを別にすりゃ死別という形で決着した。
若い時に持っていた進学や就職、恋愛、結婚なんてことへの悩みや
見栄、プライド、羨みや卑下なんてのもとっくにオサラバしている。
切実な問題とすりゃ長いこと放ったらかしの己の怠惰な生活から来る健康問題くらいだろうが、
生活が落ち着いてふと自分の人生や周囲に気が行く年代になったからではないのか。
そうなりゃ子供時分の友達に久々に会ってみたいと思ったとしても
極々当たり前の自然な帰結的思考なのかも知れない。
最近何故か同窓会の類が多く企画されて案内もちょくちょく来るのも頷ける話だ。
好き嫌いの振れ幅が小さい、良く言や人見知りのない、
広く浅くの八方美人的な私であるが参加することは非常に少ない。
土日は殆ど休みがなく仕事が忙しいからと尤もらしく理由付けしているが
本当は大勢で短時間集まるのが好きでないからである。
親掛かりの身で成人した頃に引っ越したといってもまだ地元近辺に
住んでいる者とすれば親しい友人達とはたまに飲みに行ったりしているし、
年賀状程度のやり取りで必要十分だ。
たとえ30年ぶりだろうが40年会ってなかったとして2~3時間で多くの者と会ったところで
どれだけ深い話が出来るかなんて考えてしまうしな。
といって深刻な話を聞かされるのはもっと御免被るのは書くまでのこともないだろう。
中途半端な気遣いやエエかっこだけしに行くのは面倒臭いという訳だな。
異性が相手なら尚更そう。
世間的にはもうええ歳のおば、いや熟年女性に色恋を期待する気は毛頭ないし、
昔は可愛かった娘の変わり果てた姿を見てもなあ・・・。
唯一の例外が小学校高学年のクラス会である。
通常毎年あるはずのクラス替えがなかった理由は今でも不明だが
5年、6年の昇級時になく、つまり4年からずっと3年間同じメンバーで過ごした事もあり、
何より5年の時に新卒で担任になったのがN先生だった。
N先生には2年連続で担任を受け持ってもらったことになる。
当時は親の教師に対する尊敬や信頼も考えられない程のものだったが、
卒業後も毎年年賀状をくれて40数年それが続いているのは実はもの凄い事なのだ。
特別自分だけが可愛がられたというのではなく
クラスで総員45名程いただろう教え子と30名近くは未だに音信があると聞けば、
その後の教員年月を思えば一体どのくらいの年賀状を正月に出しているのだろうか。
想像しただけで頭がおかしくなりそうになる。
結局この会だけは同級生ではなく皆誰もが先生に会いたいからこそ成り立っていると言えるのだ。
県内の小中学校を廻り教頭、校長、教育委員会と歴任して数年前に定年を迎え、
その後も嘱託扱いながら今度は幼稚園の園長を請われて就いていたのが
今春ようやく退任で遅まきながら慰労、お疲れさん会的に囲むことになった。
幹事は当時の委員長K。
Kは大手旅行代理店を役職定年で退職し4月からから某大学の教授に転身。
肩書き職歴は関係ないが二カ月ほど前に彼の新たな門出のお祝いと
先生の感謝、慰労の場をセットするように頼んでいたのである。
N先生については色々とエピソードがあるが、
最近、と言ってももうかれこれ15年位前に私の地元の小学校の校長をされていた時に
約20年ぶりに再会したのが印象に残っている。
うちの会社で市内の小学校に少しばかり寄付、
それは直接学校にお金を払うのでなく新聞社の週間だか月間だったかの
エポックな写真記事を学校に掲示するというのをやっていた。
よく中庭だとか廊下の掲示板にある○○新聞ニュースみたいな例のやつと書けば判るだろう。
小学校と中学校とどちらにするか選べるようになっており、
同じするならひねた中学生より純真な未来のある小学生の方が
良いだろうというのが理由だった気がする。
そんなある日、菓子折り持って突然うちの会社にN先生がやってきた。
「先生お久しぶりです。けど一体どないしはったんでっか」
『おう久しぶり。学校への寄付のお礼にと訪ねてきたらお前のとこやったとはなあ・・・!』
寄付は今回が初めてではないし、
また市が受け付けの窓口で学校直接に相手をするシステムでもないのに、
そこの学校長が礼に来たのは先にも後にもN先生だけである。
『市からはどこの企業からの寄付で賄われているのかの情報は
学校に来るから時間を見つけてお礼に行こうと思ってたんよ。』
「いや流石N先生ですなあ。」
というような経緯もあって先月N先生を囲む会が西宮市内で行われた。
集まったのは10名程度、今回はあくまで有志の会。
Kいわく同窓会と銘打てば来る来ないに関わらず
全員に連絡しなくてはならず時間的にも厳しいので、
比較的すぐに連絡の取れる者に限定で声掛けしたとの説明だった。
落ち着いてお洒落な雰囲気のお店は凄くええ雰囲気。
幹事のキャリアから選択されたのは間違いないだろう。
しがらみのない関係で好き勝手言える者同士の酒席はあっという間に終了。
ボンボンちっくだったアパレル関係のEが起業、結婚、事業閉鎖、大借金、
離婚、再婚、見事に返済完了して今はにデザイン学校の教師をやっているなんて
波乱万丈の人生話は面白かった。
着崩した服装が様になって決まっているのはは業界人として判るとしても
その飄々とした風貌は億の借金を抱えていたとは到底想像することは出来ない。
人生色々だとつくづくそう思う。
自分や家族が元気で暮らせているだけで幸せ、有難いとも感じるのは歳のせいだろうか。
気が付けば先生は芋焼酎に酔って眠ってしまっている。
鹿児島県人は誰もが酒に強い訳ではないようだ。
先生や委員長にも感謝しつつ近い将来の再会を期して散会となった。
卒業式での日の丸掲揚、君が代斉唱の問題はたまに話題になる事はあっても、
「仰げば尊し」が歌われなくなったのを論議する報道の記憶は残念ながら一切ない。
仰げば尊し 我が師の恩
教えの庭にも はや幾年
思えばいと疾し この年月
今こそ別れめ いざさらば
(了)