新・私に続きを記させて(くろまっくのブログ)

ハイキングに里山再生、れんちゃんとお父さんの日々。

昭和は生きている

2023年01月20日 | 日記
新幹線といえば、これだよね。以前のドクターイエローはこの0系で、たまに見かけると在りし日の姿をしのんでいたのに、最近は300系に変わってしまった。なんということか。あこがれの食堂車は、結局利用することなく人生を終えることになりそうである。




さて、いわゆる昭和な話題から始まったけれど、このブログは、原則、西暦表示である。これはブログの主人が天皇制と元号を否定してきたからである。

それに、元号は覚えられない。明治・大正はさっぱりだし、近世以前はお手上げである。

自分が生まれた昭和ならわかる。西暦の下二桁から25を引けばいい。逆に昭和に25を足したら西暦になる。このことを発見したのは、小学6年生のころだった。誰に教わったわけでもない。歴史の本を読みあさっていたころだ。

と、元号を否定する私だが、西暦と昭和では見えてくる世界も違ってくるような気がする。いまのある仕事でチェックしていた年でいうと、「1968年」と「昭和43年」である。私が1968年から想起するのはパリの5月革命、プラハの春、キング牧師の暗殺、テト攻勢である。しかし「昭和43年」といえば、やはり3億円事件であろう。ウィキペディアを見ると、『少年ジャンプ』の創刊や『ゴルゴ13』の連載開始もこの年だった。

昭和についていえば、西暦より元号のほうが同時代を生きた人たちには馴染みやすいものであったのは事実だろう。1945年=昭和20年の敗戦を境に、天皇は神から人間に変わり、社会は激変した。安保闘争の1960年=昭和35年は戦後政治の大きな転換点であり、大阪万博が開催された1970年=昭和45年は高度成長終焉の時代の節目だった。

西暦派の私だが、定年まで(会社にいられたとして)続きそうな連載9年目に突入した浮世絵エッセイでは、西暦と元号の併記を採用してきた。たとえば、広重最晩年の安政年間には、黒船来航、安政地震、安政の大獄、桜田門外の変、江戸幕府崩壊に至る歴史のターニングポイントにあたる重要事件・天災が相次いだ。元号も併記しないと、伝わらない時代感覚もある。

しかし昭和ならわかるが、平成に代わってからは、さっぱりわからなくなった。『用字用語ブック』(時事通信社)の「西暦・元号早見表」が欠かせない。ページに付箋が立ててあり、すぐに開けるようになっている。コンマの差だけれど、ネットで調べるより早いのである。

平成時代で、西暦と元号が一致するのは、元年の1989年、自分がいまの会社に入社した8年の1996年しかない。平成から令和に元号が代わった2019年は、平成31年だったと記憶するが、「おじいちゃん、平成は32年までですよ」といわれたら、「さよか」とあっさり信じてしまいそうだ。つい4年前なのにね。

いまにして思えば、平成になっても、西暦から88を引けばいいだけだったのが(1990年代は下二桁、2000年代は下三桁)、そこまでして元号に馴染む必要性を感じなかったし、不便もなかった。困るのは仕事のときだけである。

平成生まれの20代以下は、西暦派が多数派のようだが、同時に「平成生まれ」であることにはアイデンティティを持っているとも聞く。あるインタビューで、「生まれた年は元号で答える」という若者がいて、なるほどと思った。30代から90代までの昭和世代は元号派が多数派のようだが、生年、学校の入学年や卒業年、就職した年、結婚した年など、人生のターニングポイントが「昭和」と結びついていたことが大きいのではないか。

と、とりとめもなく書いていると、こんな記事に出合った。


国道駅では1930年の開業当時の駅舎が現在も使われているそうだ。写真を見ていると、まるで戦前のまま時間が停まったようである。太平洋戦争時の米軍機による機銃掃射の痕もあるという。

大阪で雰囲気が近いのは、阪急中津駅だろうか。阪急中津駅も、1926年(大正15年)7月5日に、梅田-十三駅間の高架線完成により、高架駅になったときから、たいして変わっていないのではないか。そういえば十三大橋にも機銃掃射の痕がある。

国道駅に関する記事で、私の眼を引いたのは、高架下の建物に掲げられた「土地使用票」の写真である。


土地(高架下)使用票

契約年月日 昭和62年12月14日

事事 1500号xxxx

用途 住宅

期間 昭和62年4月1日から

   昭和82年3月31日まで


昭和でいえば、今年2023年は98年になる。この建物の使用期限はとっくに過ぎているわけだが、これからどうなるのだろう。高架下の住宅にも少ないながらもまだ住人もいるらしい。

『帝都物語』の未来編の舞台は、発表当時は近未来だった昭和60年代後半で、人肝の霊力でサイボーク化したヒロヒトがまだ生きながらえているという設定だった。1901年、20世紀最初の年に生まれたヒロヒトも、生きていたら、今年122歳になる。

反天皇の私にとっても、天皇といえば今もヒロヒトである。皇室カレンダーのある居間で、祖父母と「皇室アルバム」を見た記憶も、私の一部をなしていることは否定しようがない。

10年以上前、レトロフィーチャーな世界を舞台に夢の文体で書かれたショートショートでは、病気の兄とその世話をする妹が、「へいか」について語り合うが、この「へいか」はヒロヒトなのだろう。


これは自分でも気に入っている話である。私は旧仮名が好きで、この作品でも、たんに「ぐわいらい種」(外来種)「さんげふはいきぶつ」(産業廃棄物)と書いてみたかっただけかもしれないのだが。

この兄妹は、「文学少女の三題噺」にも登場する。というか、これが死にたがりの姫のために書いた三題噺の第一作だった。初期はツイッターの文字制限140字ルールは自分に課していなかった。




しかしどうせ休みになるなら、年度末進行の佳境の2月23日よりは、クリスマスイブの前日の12月23日のほうがよかったね(来月のカレンダーを眺めながら。私は学校関係の仕事が増える2月のほうが、12月より忙しいのです)。今日のタイトルは手塚治虫や藤子不二雄、トキワ荘のメンバーに影響を与えた米帝ディズニーの記録映画『砂漠は生きている』より。

最新の画像もっと見る