医者が帰つた後、午睡からめざめたら、かめがゐる。たらひのなかで、たゆたつてゐた。妹がまだ女學生のころ、星祭りの夜店で買ひ与へてやつたのが、もうずいぶん大きくなつたらしい。
妹がとなり組のくわいらん板を持つて、「たいへん、たいへん」と呟きながら入つてきた。
「お兄さま、起きてゐらしたの。熱は下がつて?」
と云つて、額に手を当てた。
「けふは、かめがゐるね」
妹にぬれタオルを交換してもらひながら、私は云つた。
「かめを入れておけば、たらひの水がよく冷えるものですから。ほら、ひんやりして気持ちいいでせう?」
「うむ。とても気持ちいいね」
少しいとみみずくさかつたが、それは云はない。
「たいへん、たいへんって、となり組がまた何か云つてきたのかね」
「あら、いやだ、聞いてらしたの。ラヂオで話してゐた、くわんきやう問題のことですわ。あたくし、御所のへいかが心配ですの」
「それは何でまた?」
「へいかは、御所の井戸水しかお飲みにならないでせう? でも、お濠にも疎水にも、ぐわいらい種ののろひが大量に含まれてゐるのですつて。メリケンやシナのさんげふはいきぶつが、良くないのね」
「きみ、それはちがふ。へいかは井戸水といつても、煮冷や水しかお召し上がりにならないはずだよ」
「煮沸だけでは、のろひは消えませんわ。のろひを無害化するには、華氏五百度で加熱反応させる必要があるのださうです」
「その化学反応には、触媒も溶媒もいらないのかね?」
「科學のことは存じませんの」
「華氏五百度か。家庭用瓦斯焜炉は、天ぷら火災防止で、自動消火してしまふな。天ぷらはおいしいが、すぐに火事になるのだ。しかし、御所には、もつとよい焜炉もあるのではないのかね。どじんの王様が来たら、豚も丸焼きにするのだらう?」
「天ぷらとか、豚の丸焼きとか」と、妹はくすくす笑ひだした。「おなかが空いたのかしら。すうぷでも作つてさしあげませうね」
と、いひながら、妹はぱたぱたと部屋を出ていった。
かめたちは、いつのまにか、たらひからわらわらと逃げてゐた。かめには吸盤なんかなかつたはずなのに、壁にはひのぼつてゆく。さては、よく日のあたるやねうらを、冬眠のねぐらに決めたにちがひない。
「かめ、いけない。やねうらには、くろいやつらがゐるのだ」
と、私はかめにわかるはずもないのに、ひとりあわてた。春にはへうたん池に帰してやらねばならないのに、たいへんなことになつてしまふ。また忙しい妹を呼ばねばならない。