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『涼宮のハルヒの直観』 世界はハルヒを超えてしまった

2024年02月20日 | 読書




涼宮ハルヒシリーズの新刊、4年前に出ていたんですね。2020年11月初版ですから、正確にいえば3年3か月前ですが。先週末に取り寄せて、日曜日の晩、摩耶から帰ってから読み終えました。

2020年7月7日には、七夕の短冊アプリに「ハルヒ三期」と願いごとを書いていた人を見かけ、このブログにハルヒに関するエントリを立てています。まだgooブログに引っ越してくる前ですね。私が気になったのは、アニメより原作の新作でした。こんな風に書いています。

「『驚愕』からすでに9年が過ぎた。富士通が親指シフトキーボードのサポートを終了する2021年5月19日までに続編は間に合うだろうか?」

この時点では新刊の告知を知らなかったようです。まだ発表されていなかったか、発表されていても知らなかったのでしょう。ちなみに原作者の谷川流氏は、写研の電算写植機やワープロ専用機のOASYS以来、歴史ある「かな入力」メソッドの親指シフト過激派で、「小説家になりたいのなら、まずは親指シフトを覚えろ」という名言(迷言)を残しています。

この年の秋には出たはずの『直観』の新刊告知は見たような記憶はあるのですが、本屋に並んだら買おうと思って、そのまま忘れてスルーしてしまったようです。コロナ禍で、それどころでなかったのかもしれません。

『直観』は前作の『驚愕』から9年、『驚愕』はその前作の『分裂』から4年ぶりの新作でした。『驚愕』の刊行は、KADOKAWAの株価に関わるのでトップシークレットだったそうですが(まさに禁則事項ですね)、『驚愕』はどうだったのでしょうか。

私が取り寄せた本は、奥付を見ると12月の再版でした。「再版」だから、何か加筆修正でもあったのかな。この3年あまりで、一度しか重版がかかっていないということは、爆発的なブームになることはなかったようです。

ちょっと残念ですね。

本作には短編が二編、長編が一編収録されています。



短編の『あてずっぽナンバーズ』。SOS団が着物姿で初もうでに出かけます。
『驚愕』では高二に進級していたはずですが、高一の冬休みのおはなしのようですね。初もうでで市内の寺と神社を全制覇すると、ハルヒはいつもの無茶ぶりです。ハルヒとキョンの距離がちょっと縮まります。


短編の『七不思議オーバータイム』。北高には学校定番の「七不思議」がないと知ったハルヒが、「なければ作ればいいじゃない!」と動き出したことを察知したSOS団が、世界の改変能力を持つハルヒの暴走を防ぐべく、彼女好みの七不思議をでっち上げていくというお話です。
時系列は『驚愕』のあとで、SOS団は高校二年に進級しています。ミステリ研究部に属する、ハルヒとキョンのクラスメートの新キャラ登場。
表紙イラストもそうですが、いとうのいぢさんのタッチも変わりましたね。長門の横顔に顕著ですが、面長で等身が高くなり、シュッとした感じです。




長編の『鶴屋さんの挑戦』。このイラスト、思い切りネタバレなんですけれどね。しかし、私も公式サイトでこのイラストは見ていたにかかわらず、特に気づきかず、気づいたあとも、特に気になりませんでした。

さて、本作の主役は、未来人の朝比奈みくるの親友にしてクラスメート、SOS団名誉顧問の鶴屋さんです。二人は三年生で先輩に当たります(みくるちゃんは部室でメイド姿を義務付けられるなど、思い切りハルヒのおおちゃにされています)。

鶴屋さんは地元の名家のお嬢様。鶴屋さんの名前の由来は、谷崎潤一郎が「細雪」に「芝居は鴈治郎、料理は播半かつるやに限る」と書いた高級料亭「つるや」。しかし、作中に描写される広大な日本庭園のある鶴屋邸は、播半を彷彿させるということです。アニメでは、富田林市の旧杉山家住宅がモデルになったようです。富田林は寺内町で有名ですね。

本書は400ページあまり。床について、読み終えるまで数日かかるかなと思いましたが、就寝まで、2時間ほどで目を通し終えました。短編二作はともあれ、『鶴屋さんの挑戦』はほとんど読み飛ばしていました。

父親のお供で出張旅行中の鶴屋さんから、SOS団に謎のメールが届くところからスタート。

叙述トリックを巧みに活用した鶴屋さんのメールの謎解きそのものは楽しめました。鶴屋さんとその友人のエピソードもかわいらしく、ほほえましいものでした。でも、長すぎます。後期エラリー・クイーン問題など、ミステリ談義が延々と続くのには閉口しました。

叙述トリックとは、推理小説などで、先入観などを利用し、読者を誤った解釈に導くことを意味することばです。例として、人物の性別や年齢、時系列や場所などに関して、文章中で重要な情報を巧みに隠匿することにより、読者を欺くわけですね。

だましだまされを楽しむのがミステリの醍醐味だということは理解しているつもりです。しかし、今ではミステリが楽しめなくなっている自分に気が付きました。

三通ある鶴屋さんのメールも、第三信こそミステリ風ですが、第一信はよくいえばファンタジー、第二信はホラーのような終わり方をします。校正兼任の商業ライターの職業病がこじれらせた人間には、これが不自然で気持ち悪くて仕方ありません。「叙述トリック」といえばかっこいいですが、5W1Hのはっきりしない、たんにへたくそな文章にしか見えないんですね。「いつの話? 時制は?」「誰? 主語は明確に」「ここはどこ?」と、ツッコミを入れたくなってしまいます。広告宣伝媒体では(もちろん出版・報道媒体でも)、読者をミスリードした結果、人的被害や経済的損失、訴訟リスクもあるわけですから、こんな5W1Hのはっきりしない文章を書くことは許されないわけです。

「後期クイーン的問題」とは、探偵が最終的に導いた推理が、本当に真相かどうか作品内の人物は知ることができないという問題です。本作では、SOS団の古泉くんが、作者の分身として、近年のミステリ界の議論を前提に、この問題について熱く語ります。

谷川氏はもともとミステリ系の人ですから、原点回帰かもしれません。今や直木賞作家の米澤穂信氏の『氷菓』の古典部シリーズも、ハルヒと同じ角川スニーカー文庫で発表されました。ライトノベルとは「ライトSF」「ライトミステリ」でもあったのです。

しかし中国の史書と整合性を合わせるために、邪馬台国の卑弥呼と、神功皇后を同一人物に仕立てようとした日本書紀の作者たちが行ったインチキを「叙述トリック」に分類するは大いに疑問です。日本書紀のばあいは、たんなる歴史の「改竄」にすぎないでしょう。

ミステリオタクの高校生たちの戯言と笑って読めばいいでしょうか?

叙述トリックも後期エラリークイーン問題も大いに結構です。しかしミステリ作家・ファンは、警察や検察が懲りもせずに冤罪問題を生み出してきたことをどう考えるのでしょうか。近代ミステリにおける名探偵は、ときに警察に協力し、ときに警察に対立するわけですが、探偵の推理の前提になる警察機構の捜査そのものは、法に則って、事実に基づいて、科学的・客観的に公正に行われることを前提にするものではないのでしょうか。

安倍政権以後、公文書の改ざんや隠蔽、権力者サイドの人間の犯罪の隠蔽など当たり前になり、社会を支える法秩序、枠組みが崩れているのに、「叙述トリック」「後期エラリークイーン問題」じゃないんだよと、私は思ってしまうのです。

たとえば、最近のこんなニュース。


「軍事転用可能な装置を不正輸出したとして外為法違反に問われた化学機械製造会社「大川原化工機(おおかわらかこうき)」(横浜市)の社長らの起訴が取り消された冤罪(えんざい)事件で、同社の噴霧乾燥器の温度実験を巡り、警視庁公安部が実験データを一部除外して経済産業省に報告していた疑いがあることが判明した。立件には、経産省から「輸出規制品に該当する」との見解を得る必要があったが、伏せたデータ分は輸出規制品の基準に達しておらず、公安部にとって不利な証拠だった」

作中で、ミステリファンの長門有希は、良いミステリの条件に「アンフェアでないこと」を挙げています。ただし、「アンフェアでない」ことは、「フェアである」ことを意味するわけでもない、と。ここに、だましだまされるミステリのからくりがあり、楽しみもあるのでしょう。

ハルヒ風には、公安警察が自分たちに不利な一部データを伏せて経産省に報告したことも、公文書の「改竄」ではなく、「叙述トリック」になってしまいそうですね。

あまりにもナイーブすぎます。この作品では殺人事件が起きるわけではありませんが、ミステリは犯罪を扱いながら、ビジネスパーソン風にいえばコンプライアンスの欠如、この緊張感のなさはいかがなものかと思ってしまうのです。

本書のあとがきでは、谷川・いとう両氏による、京都アニメーション放火殺人事件へのレクイエムのことばが語られています。しかし、あの事件は、『ハルヒ』の非日常も『氷菓』の日常もともに不可能になってしまった、京アニ的な世界観、価値観の終焉をも意味する、エポックメーキングな事件でした。この問題についての自覚も、作者にはどれだけあったのか疑問です。

今作でも、SOS団の活躍で、人類を絶滅させかねない願望具現化能力を持ったハルヒの暴走は、未然に防がれました。しかし地上では、人類も地球も破滅させかねない陰謀論が跋扈し、妄想ではなく現実の戦禍とジェノサイドをもたらしています。京アニ事件の犯人も、「闇の人物」の指示で動いたのだと公判で語っていましたね。オウム真理教が『ノストラダムスの大予言』や『宇宙戦艦ヤマト』に影響を受けていたように、世界を分断する陰謀論は、『ハルヒ』を含めたエンターテインメントを養分としてネット空間で純粋培養されたともいえるでしょう。われわれはすにで、宇宙人や未来人や異世界人や超能力者の陰謀論の世界の物語を、エンターテインメントとして消費することが不可能な世界に生きています。

9年ぶりの『直観』がそう話題を呼ばなかったのも、現実がフィクションを超えてしまったからかもしれませんね。今回の公安警察の冤罪だって、小説の企画出しなら、プロットの段階でダメ出しされていたでしょう。

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