新・私に続きを記させて(くろまっくのブログ)

ハイキングに里山再生、れんちゃんとお父さんの日々。

わびさびなんかじゃない 本当は悪い芭蕉さんの話です…はぃ(2)

2021年02月22日 | 文学少女 五十鈴れんの冒険
『悪党芭蕉』『芭蕉という修羅』嵐山光三郎(新潮文庫)


[登場人物]

五十鈴れん
15歳の中学3年生。小さい頃から内気で、人と話すことが苦手。「古池や蛙飛び込む水の音」を授業で教わったとき、「このかえるは何匹ですか?」という質問に、「親子がえるの三匹」と答えた。「もう寝なさい」といわれて話が中断したので、話の続きを聞きにきた。

五十鈴九郎(お父さん)
ひとり娘のれんを溺愛する、コロナで隔日勤務の会社員。「古池や」の蛙の数を聞かれて、85年の阪神優勝にたとえて、「5800匹」と答えるも、「本当は5800匹より多かったかもしれない」と謎のことばを残す。

◆前回はこちら

(5)「古池や」を英語で訳したら?

(ノックの音)

お父さん はい、どうぞ。
れんちゃん、まだ起きていたの? ココア入れてくれたの? お父さんのは砂糖抜きだけど、ラム酒入れてもいいの? 気がきくねー。
ん? 『ゆるキャン△』の鳥羽先生みたいに飲んでほしい? 

 「ココアには意外とラム酒が合うのよ これくらいねー ごっごっ っぱあー 温まるわー! もうちょっと入れてもいいわねー」

グビ姉のマネさせるのに、わざわざラム酒のボトルも用意してくれて、よしよし、悪い子だ。お水もありがとう。
あ、きみたちまた来たのか。夜更かしはよくないぞ?

スヌ太(れん) アすは、ヤスみだカラ!

ミッフィー(れん) キョーは、ヒづけカワるまで、ネナイの!

お父さん えっ。あす休みだったか? 天皇誕生日? そうか、平成じいさんは引退したんだったね。シャブ兄は、2月生まれだったのか。

れん 平成じいさんもたいがいですが、あだながヒロポンだからって「シャブ兄」とは、失礼すぎです…はぃ。ヒロポンじゃなくて浩宮さんです。それもご幼名で、お名前はなるひとさんなんだから…ね? なるひとさんの『テムズとともに』は、いいご本だったよ…はぃ。写真屋さんの顔馴染みでお世話になった店員さんの最後の出勤日に、ティーに付き合う気さくでとってもいい人だ…よ? 留学生活の2年間は、『ローマの休日』ならぬ、『ロンドンの休日』なのでした…はぃ。

お父さん オックスフォードの留学記、皇室研究のために大昔に手に入れたけれど、お父さんは積ん読だ。れんちゃんに読んでもらえてよかったね。

スヌ太(れん) オまえも、ヨめー! 

ミッフィー(れん) ヨめー! 

お父さん そうだね、天皇をテーマに書くことがあれば読まないわけにいかないね。「などて人がすめろぎとなりたまひし」というのが、天皇解体をめざす左翼の私が折口信夫を読んだり、源氏のことを勉強してきた理由であるわけだから。しかしまあ、チラシの裏ブログしか発表場所はないし、まずは貨幣に変換できるお仕事優先だね。

れん ぉ父さんの新連載の続き、読んだ…ょ? 二回めも、おもしろかった…ぅん!

お父さん それは良かった。締め切りには早いけれど、れん編集長のOKが出たから、原稿をメールで送っておこう。

れん 最初は永井荷風さんの話で始まって、太宰さんやモネさんが出てきたと思ったら、最後は『鬼滅の刃』で終わるところ…がぉ父さんらしくて好き。最後の文章は、ちょっと泣いてしまいました…はぃ。しのぶさん、死んじゃったのに、幸せそうだった…ね。今日はしのぶさんの誕生日です…はぃ。

お父さん バレたか。SNSでしのぶさんのハピバイラスト見かけて、思いついて書き換えたんだ。いまの旬であり、かつ殿堂入りの話題を使わない手はないからね。作者さんがあの絵に込めた意図をファンの人たちにも知ってもらえたら、嬉しいね。
深川の話をするのに芭蕉を取り上げようと思ったけれど、深川は後で何度も出てくるし、芭蕉は前回で取り上げたしね。またの機会にした。

れん そうか、それで芭蕉さんのこと調べていたのに、出てこなかったんだ…ね?
ぁのね、芭蕉さんのぉ話、続き、聞いてもぃい? 岡田先生、亡くなってから、ぉ父さん、忙しそうにしていたから…時間がなくて…あのね、ラフカディオ・ハーンさんと、ドナルド・キーンさんが訳した句も、見つけました…はぃ。

お父さん それはすごい。

れん ラフカディオ・ハーンさんは、ぉ父さんのいうとおり、複数形だね…ぅん。

 Old pond̶frogs jumping in--sound of water (Lafcadio Hearn)


どういったらいいのでしょう。かえるさんは肺呼吸だよ…ね? 古い池に、かえるさんたちがジャンプして、水の音がしたのに、いつまでも浮かびあがってこない…の。池の底には何があるのでしょうか…? かえるさんの竜宮城があるのかもしれません…はぃ。 


お父さん その解釈はおもしろねえ。海辺で夜光虫に出会った体験を描いた『夜光虫』で、小泉八雲は「私も夜光虫の一匹(ひとつ)である」と書いたけれど、彼はこの句の世界でも秘密の池に飛び込んだカエルたちの一員になりきっているね。


れん 今度、そのぉ話も読んでみる…ね? ドナルド・キーンさんは、単数形でした…はぃ。

 The ancient pond
  A frog leaps in
  The sound of the water (Donald Keene)

「old」じゃなくて、「ancient」のところが、ポイントでしょうか…? とても歴史のあるお寺のお池のようです。いつか連れて行ってもらった、青蓮院門跡の龍心池みたい…な?

お父さん しかもキーンの池は定冠詞の「The」付きだ。和歌の歌枕の長柄橋(このブログの過去記事「大阪の橋」にリンク)ではないけれど、その池はかつて古代王朝の貴族たちが曲水の宴を楽しんだ由緒ある池のように聞こえてくるね。それなのに今では荒れ果てて、カエルが飛びこむ音しかない。ああ、諸行無常、形あるものは必ず滅ぶ。もののあわれというやつだねえ。

れん 私は、ジェームス・カーカップさんの訳も、楽しくって好き…!…ぅん!

pond
  frog
   plop! (James Kirkup)


「池、かえる、どぶん!」。とってもリズミカルで楽しそうです…はぃ。

お父さん その訳はとてもいいね。カエルのいない寒冷地はむずかしいけれど、どこの国でも見られる普遍的な光景だね。
古池にカエルが飛んで、水音がした。この句はそれだけのことしか歌っていない。この句にそれ以上のことを求めるべきでない、という子規の意見にお父さんは賛成だな(*1)。静寂だの幽玄だの、これが禅だの、東洋の美だのといった小賢しい理屈と無縁なところも気に入った。
でもさ、カエルが飛び込んだ水音を聞いて、わびとかさびとかありがたがってるだけでは、カジカガエルの鳴き声を聴いていただけの和歌の世界への逆戻りだと思わない? 

れん そういわれたら、そうかも…ぅん。

お父さん この句の斬新さは、今までは声優のように声をあてるだけだった裏方だったカエルを表舞台に出したこと、そして初出では「飛ンだる」だったという説もある、「飛びこむ」の能動性、躍動性だと思う。だって、カエルの多くは繁殖期以外は陸上で生活しているし、水に入るときもめったに飛び込まないものなんだよ? 




(4)修羅の池、悪党芭蕉の見た地獄


れん そうなの? 農園のかえるさん、私が歩いていたら飛んで水路に逃げてった…よ?

お父さん それはれんちゃんにびっくりしたから。カエルにいい人とわるい人の見分けはつかないからね。カエルがわざわざ水に飛び込むのは、ヘビとかネコとか人間とか、天敵がいる緊急事態に限られる。
『悪党芭蕉』を書いた嵐山光三郎さんは、「古池や…」の句碑が立つ深川の清澄庭園で、カエルを観察したそうだよ。3時間くらい見ていて、一匹も飛びこまなかったそうだ(しかしよくやるね!)。
カエルが飛び込むときは、生きるか死ぬかの瀬戸際の緊急事態で、「余韻」とか「わびさび」とか「善」とか「東洋の美」とか「心象風景」とかいってる場合じゃないんだよ。
そして「古池や」の句は、実際、芭蕉自身が体験した「緊急事態」から生まれたんだと考えられる。

れん わかってきた…よ。その話が、八百屋お七さんの火事に関係している…んだね? かえるさん、5800匹より多かったって、どういう意味…か、私、気になります…はぃ。

お父さん 将軍家に近い藤堂家のご威光をバックに、公共事業の水道工事で荒稼ぎしていた芭蕉は、5代将軍綱吉が就任してからの粛清の嵐から逃れるために、今までの仕事を捨てて、当時江戸郊外のニュータウンだった深川に逃亡したんだ。このとき門人の杉山杉風(さんぷう)、本業は魚問屋で家号は「鯉屋」だった杉風が所有する生簀の番屋を改築したという。この「古池」は、芭蕉庵の目の前にあった深川の生け簀のことだったと伝えられているね。水草が生えて古池みたいに見えたそうだ。
芭蕉庵のあった辺り一帯は、武家屋敷になり、『江戸名所図会』の「芭蕉庵の旧址」には、芭蕉庵の跡が「松平遠州候の庭中にありて、古池の形いまなほ存ぜりといふ」と伝えている。この松平遠江守忠告は、「亀文」という俳号を持つ大名俳人で、芭蕉庵の石碑も建てたそうだ。だから、何かしら古池のモデルになった池は実在したようだ。

れん 実在したようだ……ってよくわかってないの?

お父さん 詳しくはよくわからないんだ。芭蕉庵の近くに古池があったというのは、定説のようになっているけれど、この古池はどこにあったのか、よくわからないらしいし、この「古池や」も、弟子たちが芭蕉の死後持ちあげたもので、芭蕉自身は代表作と思っていたわけでもないようだ(*2)。
山口素堂さんの「素堂亭と芭蕉庵を探る」(ブログ:山梨県歴史文学館)によると、第一次場所案が杉風別荘説だったのを疑問視している。杉風の別荘だったのは、『奥の細道』以降の第三次芭蕉庵で、第一次芭蕉庵も第二次芭蕉庵は、同じ森田惣左衛門の屋敷内にあったのではないかいう(*3)。
はっきりしているのは、第一次芭蕉庵は、えーと、こういうときネットは便利だね、1682年(天和2年)12月の八百屋お七の火事で焼けてしまったこと、1664年(天和4年)4月に再建された第二次芭蕉庵は、どんな人かわからないけれど、「森田惣左衛門」の屋敷内にあったということだね。この第二次芭蕉庵で『蛙合』の句会が開かれ、そして句会の発句として「古池や」の句が詠まれた。これは事実だ。
『悪党芭蕉』の嵐山光三郎さんによれば、この古池に飛び込んだカエルは、芭蕉本人だったというんだ。

れん それはどういうこと…なのかな?

お父さん 芭蕉は、八百屋お七の火事のとき、芭蕉庵も焼かれて、自分も焼死寸前で、泥川に飛び込んで一命を取り留めたそうだうよ。天敵に追われたカエルみたいに、水の中に飛び込むしかなかったんだ。あの火事の夜、カエルのように川や堀や池に飛び込んだ人は、何百人も何千人もいだろうし、その中には溺死してしまった人も人いただろう。この悲劇は、関東大震災の大火でも、空襲や原爆でも、同じ悲劇は繰り返された。
この古池は「修羅の池」だと嵐山さんはいう。「芭蕉の眼前にあるのは水の残った焼け跡の古池で、ゴミだの虫の死骸さえ浮かび、底には、火事から逃れるために池に飛び込んで、水死した人骨が沈んでいるかもしれない」というわけだ(*4)。
この焼け跡の古池には、『酔いどれ天使』の焼け跡の闇市の沼のようにメタンガスも発生していたかもしれないなあ。

れん 考えもしませんでした…はぃ。目からウロコです…。

お父さん 芭蕉は隠密説もあるけれど、いろいろ謎の多い人だね。しかし、泥川に飛びこんで、命からがら助かったという体験の切実さが、この句にものすごい緊張感、臨場感を持たせているという嵐山さんの読みはさすがだと思う。死にかけて、修羅場を潜り抜けて生き延びた男のすさまじさ、ふてぶてしさ、バイタリティーが、この句にはあるよ。
しかし、この句はもはや古典だ。この句はもう作者の手から離れて、あまりに有名な句になっている。偉い先生がたのように、わびさびでも幽玄でも東洋の神秘でも心象風景でも、どのように受け取っても自由だと思う。
れんちゃんのように池の底のカエルのお城を想像するのもおもしろいし、今は滅んだ古代王朝の栄華をしのぶのもいいだろう。pond、frog、plop ! で、カエルを捕まえようとして逃げられる世界共通の悪ガキたちを想像するのも楽しいね。
この句がこれだけ多義的な言語空間を持てるのも、「いま、ここ」で、目の前にあるもの、目の前で起きていること、感じていることをありのままの言葉に置き換えているからだと思う。

れん 太宰さんのときにも、同じこと話していた…ね?

お父さん あの話をしたとき、まず思い浮かんだのは「古池や」の句だった。実際、太宰も芭蕉も大悪人だったね。しかし文学は、善とか悪とか、美とか醜とか、俗とか聖とか、この地上の倫理やルールをことばの力で乗り越えるところに、文学の力があるんだと思うよ。
『奥の細道』が伊達藩の調査のための隠密行で、文章にはさまざまな隠蔽工作が施され、発表も芭蕉の死後だったとか、「閑さや岩にしみ入る蝉の声」が、芭蕉が扈従(こしょう)として仕えた主人であり、俳諧と修道を手ほどきした「蝉吟」こと藤堂主計との思い出を詠ったものだとか、嵐山さんの芭蕉論は面白いよ。しかしもうこんな時間になっちゃった。

れん 今日はぁりがとう…。おもしろい話がたくさん聞けた…よ? 嵐山光三郎さんのご本、私も読んでみたい…な。ぉ父さん、嵐山光三郎さんの文章だけじゃなくって、文字も好きなんだよ…ね? そういえばぉ父さんの字、似ているかも…はぃ。
でも、ぉ父さん、飲み過ぎです…はぃ。もうラム酒の瓶、空いちゃいました…はぃ。ほら、お水も飲んで…ぉ酒もぉ仕事もほどほどに…ね? おやすみなさい。









「古池や」の英訳は、図書館で調べました…はぃ。


注記

(*1)子規の「古池」論

 「答えて古池の句の意義は一句の表面に現れたるだけの意義にして、また他に意義なるもの無し。しかるに通宗匠輩がこの句に深遠なる意義あるがごとくまず言い倣(な)して、かつその深遠なる意義は到底普通人の解する能(あた)わざるがごとく言い倣して、かつこれが説明を与へざるゆえんの者は、一は自家の本尊を奥ゆかしがらせて俗人を瞞着(まんちゃく ごまかすこと・だますこと)せんとするに外ならざれども、一は彼がこの句の歴史的関係を知らざるによらずんばあらず」
答えて古池の句の意義は一句の表面に現れたるだけの意義にして

正岡子規「古池の句の弁」
https://www.aozora.gr.jp/cards/000305/files/57363_59643.html

(*2)古池はどこにあったのか?

三原尚子「桜井松平家と古池跡-古池はいかにして「現れた」か-」
関西大学『国文学』第103号(2019年3月)

https://kuir.jm.kansai-u.ac.jp/dspace/handle/10112/16738
より

〈芭蕉庵の叟(オキナ)春を武江の北に閉給へば、雨静にして鳩の声ふかく、風やはらかにして花の落る事おそし。
弥生も名残おしき頃にやありけむ、蛙の水に落る音しばしばならねば、言外の風情この筋にうかびて、「蛙飛こむ水の音」といへる七五は得給へりけり。〉

注記。支考『葛の松原』では「古池」が「武江の北」(江戸の北)で読まれたものとしているが、三原氏も指摘するとおり深川芭蕉庵は江戸の「東郊」にあたる。江戸の北郊外で詠まれたというこの証言は、「古池や」の句が芭蕉庵で開かれた「蛙合」の句会だったという史実との整合性がつかない。
しかし芭蕉の死後には、古池がどこにあるかはわからなくなっていたのは、以下の三原氏の記述参照。

〈そのような中で、明和八年(一七七一)に、蓼太を中心とする雪中庵の人々が、芭蕉庵と古池を要津寺前に再現した。
古池が再現された経緯は、『再興集』(明和八年〈一七七一〉序)という俳書の序文に記されている。これは既に復本氏が引用しているが、重要なので本稿にも引用しておく。
 「いつの頃とかよ、其所、諸侯の御うち構と地を変てよりむなしく、古池に影見る人だになく、星うつり霜経りぬ。(中略)さるを、明和八年のことしや、時至て、江都の人々を始、社中力をあはせ、彼寺の門前引入たる所に再ばせを庵を結、あたりにくぼかなるところをうがち、忘水のわすれぬ古池の吟をうつす。」〉



(*3)第一次・第二次・第三次芭蕉庵の位置に関する考察

 其角の「芭蕉翁終焉記」は、復興した第二次芭蕉庵に入居した折の事情を、
 「それよりヨリ『三更月下入無我』といひけん、昔の跡に立帰りおはしければ、人々うれしくて、焼原の旧草に庵をむすび」
と記している。其角のこの記述は信頼してよく、結局のところ第一次と第二次の草庵は、ともに森田惣左衛門の屋敷内にあったとみられるのである。与して、元禄二年(1689)の春、この庵は平右衛門なる人物に譲り渡された。そのときの感懐を『おくのほそ道』に
 「住る方は人に譲り、杉風が別墅(別荘)に移るに、草の戸も住替る代ぞひなの家 面八句を庵の柱に懸置」
と記している。

出典:「素堂亭と芭蕉庵を探る」(ブログ:山梨県歴史文学館)
https://plaza.rakuten.co.jp/miharasi/diary/201904300002/


(*4)修羅の池

 〈歌学においては、かはづ(河鹿)は鳴くものであって、川に飛び込んだりしない。「蛙飛びこむ水の音」は、従来の歌学にそえばルール違反である。
 いや、それ以上に、そのへんにいる蛙を詠むことじたいが、掟やぶりであって、そのぶん革新的である。深川の生簀周辺はまだ火事の焼け跡が残り、深川の蛙は、和歌の世界には到底出てこない異物であり、汚れている。山吹など、もってのほかの添え物であろう。芭蕉の眼前にあるのは水の残った焼け跡の古池で、ゴミだの虫の死骸さえ浮かび、底には、火事から逃れるために池に飛び込んで、水死した人骨が沈んでいるかもしれない。〉

出典;嵐山光三郎『悪党芭蕉』


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