山岸凉子さん、読んだことないなあと思って、『わたしの人形は良い人形』(文春文庫)を手にしました。
でも、表題作を読むだけが目的なら、表紙については、角川ホラー文庫のほうが好みです。市松人形はおっかないです(偏見)。
文春文庫版に収録された4作品が発表された1980年代、私はリアルタイムで中高生でした。
山岸凉子さんら「花の24年組」の登場で、名門男子校のエリート高校生を中心として、少女漫画の世界の扉は男性にも開かれました。しかし80年代には、少女コミックを読むのは、まだペダンティックなインテリやオタク層だけだったかな? 名作の誉れも高い『日出処の天子』については聞き及んでいましたが、残念ながらすれ違いに終わっています。
しかし、何を始めるのも遅いことはありませんね。
楽しんで読めました。
一作めは、「千引きの岩」。
月をバックにしたイザナミノミコトの美麗イラストの扉絵、千引きの岩をふさぐイザナギノミコトの絵と解説……黄泉の世界に出かけていったイザナギノミコトは、ヨミツイラクサに追われて、この世とあの世の境にある黄泉比良坂まで逃げてくると、その坂のそばになっていた桃の実三つを投げてヨミツイラクサを退け、さらに千曳の巌(千人の力で引くことのできる石」を引きさいて、あの世の出口をふさいだ……という古事記の紹介から、現代の日常パートへの導入がお見事。
両親の離婚で、母親と一緒にN市に引っ越してきた水谷可南子 中学2年生。掲載誌の『ぶ〜け』に合わせた年齢設定でしょうか。2000年に休刊しちゃったんですね。
しかし転校初日から寝坊して、1時間遅刻してしまうのでした。校舎の玄関はすでに閉まっています。他に玄関を探すと、東京では考えられない広いグラウンドに出て、ひっそり建つ体育館を見つけます。授業をやっている生徒に玄関の場所を聞こうと近づくと、窓の位置が高くて、内部は覗けません。気がつくと、半地下の窓からこちらを見ている人影があります。人影はすぐにスッと消えますが、思わずゾクっとする可南子。
一限目の終わりを告げるチャイム。どうにかたどりついた職員室で担任にお目玉をくらい、クラス委員の榊に教室に案内してもらいます。自分と背丈は変わらないし、オデコが秀才を強調しすぎ(頭でっかちということ?)。「も も少しカッコいい人を想像してたんだけどナ」とがっかりする可南子。
席は西町の横があいていました。「ムフ🎵 ハンサム ついてる〜」(上背もあるし)とドキドキ。しかし、「アガ?」と塩対応。「バカ! 今いいとこなのに!」と、『ジャンプ』(『ぶ〜け」は集英社発行でした)を読むのに夢中なようです。「な なに この人⁉︎ 見かけと な 中身が〜〜」とドン引きです。
「アガ」って、どこのことばなんですかね。和歌山では「自分」の意だとか。ワレェっていってる感じ? 沖縄では「痛い」の意味だそうです。お楽しみを邪魔されてキレてる? しかし、N市のモデルは特定の土地に絞るよりは、この列島のどこかの街という理解で十分かと思います。
可南子はこの転校1日目の遅刻がたたり、クラスメートはよそよそしく、なかなか友だちができません(特に女子)。
女子のばあい、クラスメートに友だちがいないのは、なにかと不便で心細いものですね。
榊と西町のふたりはなぜか仲がよく、可南子がクラスで最初に親しくなったのは、この奇妙な凸凹コンビでした。クラスの秀才と外見はカッコイイスポーツマンを友人にしたことで、ますます女子のなかで孤立してしまうのでした。
女子の友だちがいたら、学校のなかでも下校時にも、いつもだれかしらといっしょです(最近、女子がトイレに連れ立つのは、性暴力からの自己防衛のためでもあると聞いて、そうだったのかと、いささかショッキングでした)。
しかし友人が男子しかいない可南子は、ときどきひとりぼっちになってしまうところがこの物語のポイント。今は使っていない戦前の体育館で怪異が起きるのは、決まって可南子がひとりのときです。
うまいなあ、さすが天才だなあと唸りました。絵がまたいいですね。女の子も男の子も、キャラクター造型がすばらしいばかりではありません。窓から夕陽が入る体育館を描いた1枚絵の光と影の表現の美しさには息を呑みました。
私の通った高校にも戦前の木造校舎や戦後直後の鉄筋コンクリート校舎がありましたから、なつかしい気持ちで読みました。この本では、少女漫画テイストが強く出た本作が、いちばん好きな作品かもしれません。
可南子が「千引の岩」を開いてしまう場面には、「被曝伝言」で知られる広島の戦争記憶遺産の小学校を思い出しました。ラストがまた考えさせる終わり方でした。うん。文句なしに名作です。
以下は駆け足で。
「化野で…」(あだしので)は、いちばん最初に読んだ作品。パラパラめくっていて、そんなに怖そうでなかったから、というのが理由です。自選作品集ですから、掲載順に読んだら良かったかも。かわいい少女漫画に見せながら戦争のテーマをぶち込んできたヘビーな作品のあとの大人のホラーです。
「あれではないわ
私が乗るバスでは…」
仕事帰りの女性。バスに乗ろうとしています。スーツ姿で当時のことばなら「OL」さんですね。
最初から違和感はあるのですね。道には水たまり。でもなぜか雨に降られた覚えはないのです。バスに乗って帰るなら駅前から乗ればいいのに、知らない道を歩いているのも奇妙ですね。いかにも華やかなオフィス街で働いていそうな見かけですが、バス通勤なんでしょうか。
三田村信行の不条理童話『どこにも行けない道』を思い出します。私も近所に近寄りたくない場所があります。もともと方向音痴ではありますが、体内磁石を狂わせる謎の磁場があるようで、必ず迷うのですよ。Googleマップもなぜか挙動がおかしいのです。まあ、ウォーキングで歩数を稼ぐにはいいのですが。大阪の道は、東西南北まっすぐですから、幹線道路や川に出たら元に戻れます。京都もそうですね。
彼女のまえに、奇妙な人たちが入れ替わり立ち替わりあらわれます。最初は一方的に話しかけてくる変な人にすぎなかったのに、だんだん不気味さが増して恐怖のボルテージが上がっていきます。
嵯峨にある化野は、むかしは風葬の地だったんですね。不勉強で、京の三大葬地「東の鳥辺野」「西の化野」「北の蓮台野」のうち、鳥野辺しか知りませんでした。東京から移ってきて、大阪も知らないことばかりですが、接点のない京都はさらにわかりません。偏狭な京都人が「嵯峨は京都ではない」というのは地域差別もありそうです。
「今度こそ 今度こそ
わたしの知ってる
道に出るはず…」
さて、この女性は無事に家にたどりつけたでしょうか。
本作収録作に共通していえますが、怖いかといわれたら、いまのエグいスプラッタなホラーに慣れた人には、そんなに怖くはないでしょう。
私にとって、この作品集は、ドーチカ名物、インディアンカレーのような作品です。このお店ももともとはスパイスのパンチの効いた「辛さ」が売りだったのでしょうが、「激辛」が当たり前になった時代に、「辛さ」だけを求めてこの店に通う人はいないはずです。インディアンカレーが、食べものにうるさい大阪人に支持されるのも、あの絶妙なスパイスの配合による「クセになる味」のゆえでしょう。ときどき無性に食べたくなるのです。
「怖さ」を物理的に求めているうちは、第三作の「八百比丘尼」のような名作は生まれないだろうと思います。あるニュースに触れて、「男を必要としない人生」という『海月姫』の愛すべき名言を思い出しました。しかし、いまや「男を必要としない社会」が残念なラディカルフェミニズムのたどりついたユートピア=ディストピアかもしれないと、この作品を読んで思いました。1980年代にこの作品が描かれたことに驚くとともに、いまの時代にこそ読まれるべき作品ですね。ややネタバレになりますが、人生3大ワースト映画「エヴォリューション」の元ネタかと思ってしまいました。でも、ま、関係ないかな。両作品はグロテスクな美しさでは共通しますが、「八百比丘尼」が手間ひまかけて調理されたコノワタのような高級珍味とすれば、あの駄作はナマコをさらにグチャグチャにしてもてあそんだにすぎないゲージツもどきでした。
大トリの「わたしの人形は良い人形」については、すでに多くの作品録やレビューがあるでしょう。読んでのお楽しみです。
いらずもがなの感想をひとこと。心霊もののひとつのパターンとして、霊感があるゆえに事件に巻き込まれた人(おもに女性)を、霊能者が救うというお約束があります。本作には陽(みなみ)、「千引きの岩」の榊がこの「霊能者」に当たるのでしょう。しかし、主人公陽子の母の姿子(しなこ)、「千引きの岩」ではアガ?の西町、霊感ゼロの人も重要な役割を果たしているのが、山岸ホラーの特質ではないかと思いました。陽が陽子に語ることば。
「きみのお母さんは
しっかり現実だけを
見つめている人のようだからね
だけどその精神が
知らず知らず
危険から身を守ったんだよ」
と、ハッピーエンドだったとしても本作は歴史に残る名作になったでしょうが、われらが山岸凉子はそんなふうに終わらせないのです。本書228ページからの怒涛の展開に刮目してください。三宅香帆氏の「無念が噴き出す亀裂を鎮める作家」も必読(やっぱりひとことで終わらなかった)。