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視えない惨劇 一吉本主義者の自戒

2019年09月17日 | 政治・経済・労働組合
 「人生の棚卸し」のつもりで、吉本批判を書いた。

 書きながら、いかに自分が多くのものを吉本に負ってきたのか痛感した。ただし、私が好きだったのは、評論よりは詩の方である。そして、すべての作品が良いと思っていたわけではない。

 「たとえ無数のひとが眼をこらしても / おれの惨劇は視(み)えないのだ / おれが手をふり上げて訴えても / たれも聴えない」(「恋唄」)

 この詩を初めて読んだとき、私はいっぱしの「活動家」だったが、何でこんなつまらないことを歌うのか、疑問だった。活動家にとって、ごく当たり前の「日常」や「常識」だったからだ。

 労組執行部に着任してからは、吉本の著作を読み返す機会も増えた。そして、この詩は逆措定(反措定)も可能だと思った。組合員の顔が、「視え」ていなくて、声が「聴え」ていないのは、他ならぬ私自身なのだ。

 あるとき、労使交渉の場で、私の部下にあたる若い仲間の仕事ぶりがほめられた。「だったら給料を上げてやってくださいよ」と答えると、経営者はジョークとでも思ったのか、笑った。その笑いが、私の中の「スイッチ」を押してしまったようだ。私は、こんなことを述べた。

 「あなたがたは、お昼のランチに、おいしいものを食べに、ときに社用車でお出かけになりますね。しかし組合員が、お昼に何を食べているか知っていますか。先日の彼のランチは、コンビニのおにぎりとカップ麺で、税込み合計289円でした。お連れ合いが産休に入ったので、いまは食費を切り詰め、節約に励んでいるのです。知らなかったでしょう。いいですか。あなたがたには、社員の顔が見えていないし、社員の声が聞こえていないのですよ。ゼロとはいいませんが、せいぜい15%です」

 社員との距離が近いはずの中小企業の経営者でも、そんなレベルだ。私は会社を「ホワイト企業」にたたき直した労組の頭目で、かつ「まどマギおじさん」ということで、若手も心許してくれていると、うぬぼれるときもある。しかし、おじさんはおじさんにすぎない。若手組合員との距離は、経営者よりは近いだろうが、どんぐりの背比べだろう。

 経営者たちに語ったことは、私自身の戒めである。組織運営も企業経営も、15%の視界しかない吹雪や嵐のなか、ヘアピンカーブの続く山道を運転しているようなものだ。私ひとりが事故って死ねのは勝手だが、組合員を巻き込むことだけは絶対に許されない。


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