花の詩山の詩

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このブログは「花と山とを友として」の続編です

佐藤姓のルーツを訪ねて佐野市の唐沢山城跡へ2

2017年12月05日 23時32分54秒 | スポーツ・トレッキング
前回、写真を載せた城跡に入る入口の広場で、ボランティアガイドの人たちが
城跡のカラーマップを配っていますので、これをもらって行きました。

ここは城跡なので、戦に備えて入口から直線的に侵入されないように、直角に
曲がった構造の道になっています


入口に立つ「くいちがい虎口」の説明版

入口から右に曲がって入ると、目の前に「天狗岩」という岩山があり、もみじの
落ち葉が重なる階段を上ります


天狗岩のもみじ、この右側に登る階段がある


もみじが散っている石の階段


天狗岩の展望所


天狗岩の説明版


展望図が有ったが、風化と日陰でほとんど読めず


松の生えた岩の上に登ると、右奥に日光白根山の雪山が見えた
男体山なども見えたが、立木が邪魔で写真は撮らなかった


天狗岩から戻った広場は、武者詰め跡の広場で、入口のもみじがきれい


武者詰めの奥に建っている唐沢山城跡の案内図、3次元測量で書かれている
ので、地形が立体的に見えるようになっている
これと同じものが、A3の大きさのパンフレットで、ボランティアガイドの人たちが
配っている


武者詰めの奥に建っている説明版

虎口から中に入ると、左側に「大炊の井」と呼ばれる井戸がある


大炊の井の井戸には、つるべのような跡も残っていた


井戸は浅くて、水面にはモミジを浮かべているし、紅葉も映り込んでいた


大炊の井付近の紅葉


大炊の井から見えた紅葉、これは後でその付近に行ってまた撮影した


大炊の井の前の建物の屋根の上が見事な紅葉


本丸に通じる大手道には、四ツ目掘という堀が築かれ、引き橋と呼ばれる
橋があり、いざというときは、その橋を引き払って敵の侵入を防ぐ役割
だったらしい。
現在、架設されている橋は、昭和天皇が皇太子のころの大正15年に、御成婚
を記念して、地元の高齢者により寄与されたものだという。


四ツ目堀の案内板


四ツ目堀の跡、見た目はかなり浅い、昔は深かったのか

引き橋を渡って、緩い坂道が続く大手道は、前回のブログで紹介したように
もみじの多い紅葉に彩られた道だった


紅葉の大手道を登る


大手道の左上の紅葉


大手道の左上の紅葉、小道が有った


唐沢山神社の由来を記した看板が有った


看板の先にも唐沢山神社の説明版が有った


大手道の曲がり角の先にお札などを売っている授与所があり
その前を先に進むと展望の良いベンチが有ったが、混んでいたので
引き返した。


授与所の前にある「標高八百尺」の石柱が有った
一尺が33センチとして800倍すると、うーん264メートルかな?


授与所の斜め向かいに手水場が有る


大手道は手水場から左の二の丸跡に続いている


だが私は直接本丸に登る階段道を登って行った


登った先には山門があり、山門の前の柵には南局跡の表示が有った


南局跡の表示


山門をくぐると唐沢山神社の拝殿が有った


拝殿脇の柵には、本丸跡の表示が出ている


拝殿の左わきに休憩所があり、その前から拝殿の後ろの本殿(たぶん)を撮影


休憩所の前から左下に降りる階段道があり、降りたところが二の丸跡
この写真は、二の丸から見上げて撮った


二の丸から見上げる本丸の説明がある


二の丸跡の表示


二の丸から見る本丸の遠景、二の丸はパンフに武者詰めと記載されている


二の丸から見上げる本丸跡のもみじ

この後も歩いたのだが、長くなったので、とりあえずこれで終了
今回私が歩いたコース図を掲載します


左上の赤い丸印で囲ったところが駐車場です

ところで肝心の佐藤の姓の事ですが、昭和62年4月20日に発行された
「姓氏」という丹羽基二著、樋口清之監修の本によれば、「尊卑文脈」には
藤原秀郷の家系図が書かれていて、次のように書かれているという

秀郷ー千常(鎮守府将軍、左衛門尉)-文脩(鎮守府将軍)-文行(左衛門尉、母は
利仁の娘、左藤、後藤、近藤、武藤などの祖)-公行(上総介)-公清(左衛門尉
佐藤の祖) 以下略 と書かれているという

またウイキペデイアで調べると、藤原氏の後裔氏族として、国別の姓名として
常陸国を見ると、次のような名前が出ている
那珂氏、安島氏、小野崎氏、小貫氏、内桶氏、茅野氏、根本氏、助川氏、川野辺氏
佐藤氏、水谷氏、江戸氏、綿引氏
等が書かれていた。

姓氏の本には、佐藤氏の有名人として、西行法師が取り上げられていた
藤原公清の子孫、佐藤義清が西行法師の本名である。

また佐藤栄作、岸信介の兄弟についても書かれている
栄作氏の母は、同じ町の岸家から養子をもらって結婚して、男3人、女7人を
もうけた。
長男はよくできた人であったが、病弱で海軍中将で退官したという
それで次男の信介が岸家の養子に入り、岸信介となり
三男の栄作が佐藤栄作を名乗ったという。
共に総理大臣を務めた兄弟である
ということで、阿部総理ともつながりがある。




















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