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暗闇検校の埼玉県の城館跡

このブログは、主に、私が1980年代に探訪した中近世城館跡について、当時の写真を交えながらお話しするブログです。

妻沼聖天山 (旧妻沼町)

2018-04-25 22:02:20 | 神社仏閣・その他
昨日は、聖天院館についてご紹介いたしました。

本日は、館跡と直接関係がないので、表題のテーマと致します。

歓喜院聖天山は、地元では聖天様(しょうでんさま)と呼んでおります。

「しょうでん」と濁るのが特徴で、子どもの頃、まさか聖天山だとは

思ってもいなかったので、聖天山だと知った時には驚きました。

子どもの頃は、放生池でザリガニを釣って、よく院主様に叱られていました。


館跡の方に気が行っていたので、体系的に撮影しようとしていません。

聖天様の中で、わたしが最も好きなのは、中門の脇を固める仁王像です。

子どものころから仁王像がほんとに好きでした。











この仁王像のいいところは、筋肉の表現が力強いところで、他の寺院に行ったときに、この仁王像より

すごいと思うところはなかなか見つかりません。

それに色が好いです。県内の多くの仁王像が節分の豆まきの鬼の面のように赤い中で、聖天様の仁王像は

丹塗りの色の落ち方に何とも言えない渋さを感じさせます。


また、貴惣門という大きな門があり、そちらには毘沙門天、持国天の立像があります。










参道には、斎藤実盛公の銅像があります。





境内には、参拝客が食事をする店があります。

中でも、千代桝は、田山花袋の小説「残雪」の舞台になったことで知られています。









妻沼には、かつては川魚料理の店が多く、千代桝も川魚料理が名物です。

わたしはナマズ天を食べました。

にぎわうシーズンで無く、静かな時期にのんびりする方がいいですね。

境内には猫がたくさんいました。

最近、聖天様では猫を大事にするということで、のらちゃんたちがたくさん集まっていました。







聖天院館(旧妻沼町)①

2018-04-24 18:29:58 | 城館跡探訪
聖天院館は、平安期の武将、長井庄の総鎮守として、斎藤実盛によって創建されたものです。

現在は、本殿が国宝に指定されています。

わたしは父の実家が聖天院にゆかりが深かったせいで、子供のころから、聖天院境内の山で、

遊び暮らしていました。

聖天院館は、この聖天院境内の全体にわたっていると思われます。

今回の調査は、聖天院館の遺構をつぶさに見て回ることなのですが、国宝の整備の過程で、

立ち入りにいくつかの制約が掛かっていること、館の遺構が広大なためにすべてを把握することが

出来なかったため、明らかにできる範囲でお伝えしたいと思います。

調査日は、2018.01.31です。


聖天院館遺構の基本的な位置づけですが、本殿の建物周囲を方形に囲む土塁と水堀が中心になっています。

水堀の一部は、寺院背後を流れる川とつながっていたと思われます。

今回は、本殿裏の土塁と水堀をみたいと思ってやってきましたが、その前に、境内の池と裏山を少し見たいと思います。



上の写真、右側にあるのは土塁です。







本殿脇には、大きな欅の生えた築山状のものが点在しているのですが、それは土塁の残欠です。

本殿裏に行くと立ち入り禁止になっています(笑)。





しかし、ここからでも、充分に土塁の規模がわかります。

高さも1.5mくらいはある高いものです。

外側にはちょろちょろ水の流れている水堀があります。これは、わたしが子供のころ、何度もこの裏山に

入ったことがあるから知っているわけですが、当時はもちろん立ち入り禁止ではありませんでした。

自然保護のためというのがなんとも・・・。

背後の土塁は、南西端の稲荷社裏まで続いています。

以前は、本殿裏に境内社がたくさんあったのですが、現在はどうなっているのやら。



本堂南脇にある、土塁の残欠です。




2018.02.04 馬頭観音(熊谷市中西)

2018-04-23 18:22:19 | 神社仏閣・その他
今日は軽い話題で熊谷市中西の馬頭観音を紹介いたします。

熊谷駅北口をそのまま直進し、熊谷女子高の前を通過して、熊谷総合病院方面に直進すると、

道路右側に朱塗りの小さな祠があります。



祠の中には、数体の石塔や小祠が納められています。






下の大黒様の木像は三つの頭がありますが、これは周辺の屋敷地に祀られていたのではないでしょうか。






こうした小祠が街角にあるのは、風景に味をつけるという意味で、なかなかいいものです。

香林寺遺構(東別府館:熊谷市)

2018-04-22 20:03:46 | 城館跡探訪
別府城の東に隣接する香林寺にも、別府氏の居館があったとされ、

東別府館とも、別府城とも呼ばれています。

東別府神社境内にある別府城を「別府氏城」と呼んでいた時代もあり、

呼称が非常に紛らわしく変遷しています。

ここから北の熊谷市-妻沼町の旧境界線にかけて、土豪の館跡とされるところが未だ数か所あります。

これは、わたしが高校生時代にフィールド・ワークによって、地元の方から得た情報なのですが、

忙しさに紛れて、調査が行き届かないままになっています。


今回は、香林寺の遺構について、書きたいと思います。

香林寺遺構と言っても、現在はそれらしいものは発見しにくくなっています。

墓地が館跡とされているのも、ひっくり返りそうな話です。

かつては、香林寺墓地裏に、空堀が1本残っていましたが、現在は宅地になってしまい、

空堀は埋め立てられて、民家の通路になっています。また、土塁が残存していると記録されています。

以上のような条件の制約があることをふまえて、今回は、隣接する別府城から、香林寺にかけて、

緩く流しながら、現地の雰囲気を掴むことにしたいと思います。


別府城裏から香林寺に向って歩いていくと、小さな祠がありました。

これは日先神社(ひのさきじんじゃ)です。日先神社は鹿島、香取、息栖といった戦の神の使いであり、

おそらく、別府氏に関係する神社ではないかと思われます。





さて、香林寺前ですが、





香林寺は1557年に別府清重が父の義重のために開基したと言われる古刹です。

この寺院の前には、子供墓という、父母より早く死んだ子供を、親不孝として家の墓に入れない

慣習があったことを示す墓地があり、賽の河原のようで切なくなります。



東別府館跡ですが、そのものずばり墓苑だけが館跡だったわけではないことは、かつて残っていた空堀跡が、

墓苑外のかなりはみ出した場所にあったことから明らかなのですが・・・。

香林寺東側の農地です。





状況を見る限り、この農地は低位湿地を利用した要害だったと推測できます。

香林寺敷地はこの農地よりも、はっきり盛り上がっています。

香林寺裏-農協倉庫付近には遺構がのこっていると考えられる有力な場所です。







土塁と空堀があると思われますが、竹が叢生し、はっきりとはわかりません。

この先のわき道に入って、墓地裏に、空堀がありました。当時は陸稲を植えるための陸田として使われていました。

香林寺西側に回ると、放棄された農地があり、先ほどの日先神社のところに戻ります。






香林寺遺構とは言うものの、実際に、遺構を確認するのは、現状では難しく、さらに検討の上、

調査方針を立てなおす必要があると思います。


今回は、かつて現存していた堀跡の写真が電子化できていないために、お見せすることができませんでしたが、

日を改めて、ご覧に入れたいと思います。

別府城(熊谷市)③

2018-04-21 21:38:32 | 城館跡探訪
別府城の外回りを簡単に見ておきましょう。

別府城は、南側及び東側が宅地に隣接しております。

そこで、西側および北側の外周をみたいと思います。

場外西側には、史跡指定の標柱が建てられています。





西側の空堀と土塁です。




土塁の西北端は非常に高くなっています。土塁には厚みもあるので、ここに矢倉があった可能性がありますね。



西から見た北側の空堀と土塁です。





東から見たものです。



東側の土塁隅です。



北側東端の犬走に入る石橋です。







東別府神社の境内には、境内社がたくさんあります。



八坂神社



天満天神社




八幡神社



庚申塔2体





下の築山は御嶽神社です。






明日は、ここに隣接する香林寺遺構について書きたい思います。