新開氏は平安期から鎌倉期、深谷市北部の小山川と利根川にはさまれた新戒地区に
居住していた豪族で、新羅系渡来人秦氏の系譜に属するとされています。
室町期には、細川氏に従って四国の徳島の阿南市にある牛岐城に入り、
長曾我部氏に滅ぼされるまで続いたと言います。
私がここを訪ねたのは1985年秋で、学校帰りに回り込んだので、
こんな真っ暗な有様になってしまいました。
新開氏館は、地元では男寺、女寺と呼ばれている東側の東雲寺と西側の大林寺の間にある耕地
にあったとされています。
東雲寺にある解説板
大林寺山門
館跡とされる耕地
現代のカメラであれば、この程度の曇り空はなんのそのでしょうが、当時のコンパクトカメラでは
これが精いっぱい。全く面目ありません。
ただ、この時は、わざわざ高校生が訪ねて来てくれたと、東雲寺のご住職に本堂にあげていただき、
以前は、土塁空堀とも残っていたというお話を聞かせていただき、戦時中の農業増産体制のもと、
客土として使われてしまったという、深谷市北部低地の城館跡としては最もありがちな運命をたどったということを
聞かせていただき、新開氏についてのパンフレットまでいただいたのでした。
これは、夏の帰郷の際の資料整理で探し出したいと思っています。
居住していた豪族で、新羅系渡来人秦氏の系譜に属するとされています。
室町期には、細川氏に従って四国の徳島の阿南市にある牛岐城に入り、
長曾我部氏に滅ぼされるまで続いたと言います。
私がここを訪ねたのは1985年秋で、学校帰りに回り込んだので、
こんな真っ暗な有様になってしまいました。
新開氏館は、地元では男寺、女寺と呼ばれている東側の東雲寺と西側の大林寺の間にある耕地
にあったとされています。
東雲寺にある解説板
大林寺山門
館跡とされる耕地
現代のカメラであれば、この程度の曇り空はなんのそのでしょうが、当時のコンパクトカメラでは
これが精いっぱい。全く面目ありません。
ただ、この時は、わざわざ高校生が訪ねて来てくれたと、東雲寺のご住職に本堂にあげていただき、
以前は、土塁空堀とも残っていたというお話を聞かせていただき、戦時中の農業増産体制のもと、
客土として使われてしまったという、深谷市北部低地の城館跡としては最もありがちな運命をたどったということを
聞かせていただき、新開氏についてのパンフレットまでいただいたのでした。
これは、夏の帰郷の際の資料整理で探し出したいと思っています。