暗闇検校の埼玉県の城館跡

このブログは、主に、私が1980年代に探訪した中近世城館跡について、当時の写真を交えながらお話しするブログです。

新開氏館跡 1985年(深谷市)

2018-05-28 20:32:59 | 城館跡探訪
新開氏は平安期から鎌倉期、深谷市北部の小山川と利根川にはさまれた新戒地区に

居住していた豪族で、新羅系渡来人秦氏の系譜に属するとされています。

室町期には、細川氏に従って四国の徳島の阿南市にある牛岐城に入り、

長曾我部氏に滅ぼされるまで続いたと言います。

私がここを訪ねたのは1985年秋で、学校帰りに回り込んだので、

こんな真っ暗な有様になってしまいました。

新開氏館は、地元では男寺、女寺と呼ばれている東側の東雲寺と西側の大林寺の間にある耕地

にあったとされています。

東雲寺にある解説板



大林寺山門



館跡とされる耕地




現代のカメラであれば、この程度の曇り空はなんのそのでしょうが、当時のコンパクトカメラでは

これが精いっぱい。全く面目ありません。

ただ、この時は、わざわざ高校生が訪ねて来てくれたと、東雲寺のご住職に本堂にあげていただき、

以前は、土塁空堀とも残っていたというお話を聞かせていただき、戦時中の農業増産体制のもと、

客土として使われてしまったという、深谷市北部低地の城館跡としては最もありがちな運命をたどったということを

聞かせていただき、新開氏についてのパンフレットまでいただいたのでした。

これは、夏の帰郷の際の資料整理で探し出したいと思っています。



東松山市東平付近

2018-05-27 16:32:17 | 古い町並み
東松山東平付近は、北に冑山古墳、西には山田城、山崎城を抱える、

国営武蔵丘陵森林公園、地域内にも多くの遺跡が確認されている古代から開けた地域です。

近年では開発が進み、風景がコロコロと変化するため、数年ぶりにひょっこりと出かけると、

場所と記憶が合いません。

この日も、ある遺跡見学を目的に冬の寒風の中をほっつき歩いたのですが、

以前は無かった農場ができたり、砂利道が舗装されていて、自分の現在地が全く分からなくなっていました。

突然、目の前に長い塀が現れました。










どこなのか、よくわかりませんが、しばらく、その場に立ったままでした。


この付近は、木枯し紋次郎のエピソードにも登場する土地なので、個人的には感無量でした。

このお家とは、何の関係も無いですが。

吉見百穴 (2017.07.25)

2018-05-26 20:59:12 | 神社仏閣・その他
そろそろ、紹介する城跡や史跡のデータも尽きて参りました。

それでも、冬休みの約1か月の間に、約3か月分の調査データ、

過去データを確保できたのは自分でも驚いております。

夏の休みの帰郷のときには、城郭調査・探訪に加えて、すこし切り口を変えた

調査を考えたいと思います。


吉見町の百穴と言えば全国的にも有名なので、今さらという感じもありますが、

松山城が近いせいもあり、結構よく訪ねる史跡です。

今年の1月にも、松山城搦手の市野川旧河道を調べに行った際に立ち寄りました。


さて、この写真は昨年の夏のものですが、太陽は出ていなかったものの蒸し暑く、

とても丘の上にまで登る気持ちにはなれませんでした。



岩盤にあいた穴を見ていると、将に蜂の巣のようです。





横穴墓の開口部は、三角形状、正方形状、台形状、開口部側壁が湾曲した形状、長方形状の

5種類があるそうです。





上の写真は長方形状、台形状の横穴です。丘の下の方にあるものです。

深く掘り込んであるものは、初期の物だということです。

池上遺跡 1982年(熊谷市)

2018-05-24 22:54:32 | 神社仏閣・その他
池上遺跡は国道17号バイパス建設工事の際に発見された遺跡で、

新聞紙上に記事が掲載されたため、当時、中学生だった私も、

勇んで見に行きました。

場所は成田氏館跡に近く、地固めの土がどんどん吸い込まれてしまうほどの底の深い低湿地帯でした。

現場はすでに発掘作業が完了していたようで、事務所のプレハブも

遺物や遺構を守るブルーシートなど発掘現場に付き物のものは、全くありませんでした。

ここは、もうすぐ埋められてしまうんだな・・・そう思いました。

年代測定のに使うためなのか、炭化層の塊がとりだされ、小石ほどの大きさの塊がコロコロと

いくつも落ちていて、それを記念にしようと2つ拾いました。

それは今でも、ティッシュペーパーにくるまれて、胃健錠の瓶に入っています。

池上遺跡は住居跡がはっきりとわかる遺跡らしい遺跡でした。














堀状のものもありました。環濠集落だったそうなので、その堀の一部なのかもしれません。



この遺跡は、弥生時代から平安時代までの遺物が発見されたそうです。

大串次郎館跡 1986年(川島町)

2018-05-23 20:35:09 | 城館跡探訪
大串次郎館跡は、源義経麾下として源義仲追討に従い、

後年、奥州藤原征伐にも参加して、軍功を上げるなどした

猛将大串次郎の居館と伝えられています。

たしかこの時は、6月頃だったと思います。現在ほど、気温が高くなかった当時ですが、

湿気が強くて、蒸し暑く、実家のある熊谷から自転車で川島町までの道のりは平たんな道が

だらだら続いているため、吉見町内を通過する農道で、さすがに飽きてしまい閉口したのを

覚えています。



館跡傍には、門が非常に立派な毘沙門堂がありました。

山門が本堂には不釣り合いなほど厚みがあり、不思議な気持ちがしました。

毘沙門堂の近くには大串次郎の墓と伝えられる宝篋印塔があり、重親塔と呼ばれています。




館跡は市野川の河畔にあります。写真は土塁です。



市野川の河畔は草むらで、本流も草むらの中にすとんとおちているという感じで、

川遊びができるような場所ではない・・・。

荒川の砂利河原に慣れた私には、何かが違うなという感じでした。

「釣りができないじゃん」と思いました。